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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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72/124

72-ペトリコール


 宵街のように坂や階段ばかりでない平坦な道が続く人間の狭い住宅街を、黒いフードを目深に被り蜃は黙々と歩いていた。

 暗くて狭い場所として思い付いたのは、やはり人間の都会の街だった。田畑の広がる田舎町だと解放感があり条件を満たしていない。道を歩く時でも遠くまで見通せるよりは壁に囲まれていた方が、椒図には安心感があるはずだ。

 獏の言っていたことは的を射ていると思った。狭い都会で人間が住まなくなった家や廃墟を例に出された時、しっくり来た。ならば寂れた住宅街だと結論を出した。

 ……一緒に捜してくれると思ったのに。獏は巫山戯ている。椒図を見つけなければならないのに、それより宇宙人の方が大事だと言い出すとは思わなかった。蒲牢もだ。椒図の兄なのに巫山戯ている。皆、椒図の安全より宇宙人への好奇心の方が大切なのだ。

 憤慨しながら黙々と暗くて狭い場所を捜しているが、そもそも蜃が初めて椒図に出会ったのは開けた川だった。今捜している場所は全くの見当違いなのではないかと時折焦燥が襲う。

(……当てが無いと途方も無いな……)

 だが足で捜すしかないのだ。足元ばかり見ているわけにはいかない。

 顔を上げようとした時、ふと大きな影が地面を横切った。一瞬足元が暗くなり頭上を見上げる。そこには明るい空しかなかったが、影は鳥にしては大きかった。

 周囲に人がいないことを確認して杖を召喚し、壁を蹴って屋根の上へ跳ぶ。

「!」

 遠くに小さく手足のあるものが屋根を跳んでいるのが見えた。

「まさか……椒図!?」

 屋根の上を跳ぶ人影は人間ではないだろう。人間はそんな移動手段を取らない。ならば間違いなく獣だ。髪の色まではわからなかったが、蜃も急いで屋根を蹴った。

「椒図なのか!? 待ってくれ!」

 人影は逃げるわけでも急ぐわけでもなく、すぐに距離を詰めることができた。

 屋根から落ちるように路地へ飛び降りるので、蜃も後を追って屋根から足を離した。

「っ!?」

 路地の上に頭が出た瞬間にがくんと体が傾いた。死角から伸びた両脚が首に絡められている。咄嗟に反応できず、蜃はくるりと地面に叩き付けられた。

「――ぐっ」

 地面に直撃する寸前でクッションを作ったが、反応が遅く量が足りなかった。背中を強打し顔を顰める。

 攻撃を仕掛けてきた人影は蜃の前に降り立ち、憐れむように笑いながら見下ろした。頭には牛のような角が生えており、髪の色は緑ではなく白黒だった。

(椒図じゃない……!)

 だが獣であることは間違いない。頭に角が生えている人間などいない。

 少年の姿をした獣は見定めるように蜃を凝視し観察した。

「椒図……とか言ってたな。オレは椒図って奴じゃない」

「そう……だな。人違いみたいだ」

「捜してるのか? 急に追い掛けて来るからとりあえず立ち止まって一発かましておいたけど。壊しながら移動するなって言われたもんで」

 獣の少年を刺激しないようにゆっくりと起き上がるが、完治していない腹の傷が少し痛んだ。傷口はもう開くことはないだろうが、獣に迂闊に近付くものではなかった。

「椒図……椒図か」

 確かめるように何度も繰り返し、獣少年は腕を伸ばした。


「だったら殺しておくか?」


 手に杖が召喚されるのと蜃が吹き飛ぶのは同時だった。

 何も無いのに何かに殴られたような、突き飛ばされたような感覚があった。路地に置かれたゴミ箱や植木鉢も吹き飛び、蜃は壁に叩きつけられた。

「っ……!」

「ははっ! 良い飛びっぷりだ!」

 杖を支えに痛みに顔を顰めながら立ち上がり、蜃は横道に飛び込む。

「逃げるのか?」

 蜃は腹を押さえながら走り、振り返る。少年は横道を覗き、すぐに地面を蹴って追って来た。

(なっ……何なんだよあれ!? 何も無いのに殴られた……空気? 空気の塊を打ったのか? 空気使い? ……空気の中身まで操れるなら不味い……! 酸素を抜かれたら死ぬ!)

 空気のクッションなら蜃も能力で作れるが、あの少年の力はそうではない気がする。蜃の力とはまた別のものだ。

(それに何か……ビルの窓が割れた時と似てる……!)

 先程少年は『壊しながら移動』と言った。ビルの窓が割れた時もまるでビルの間を走るように割れていた。もしあのビルの窓を割った獣なのだとすれば、協力を仰ごうとした人間を殺したのも彼である可能性が高い。

 腹の傷はあと少しで完治するが今はまだだ。ここで無理をして獣と戦うのは避けたい。ビルの窓を割ったのがこの少年なら、攻撃の範囲も相当広いはずだ。

 椒図は何度も言っていた。――無茶をするなと。

 椒図を知っているような口振りをする獣少年は気に掛かるが、もう怒ることはないかもしれない椒図の言葉が頭から消えない。

(仕方無い……)

 手掛りより今は獣少年の力を警戒すべきだ。蜃まで命を失ってしまえば椒図を捜す者もいなくなってしまう。悔しいが杖を振ろうとし、そこで初めて蜃は違和感に気付いた。

(離脱できない……!?)

 何度転送場所を思考しようと同じだった。ここから離れることができない。これも獣少年の力なのかそれとも別の何かなのか、離脱できないのなら戦うしかない。

「あっ……」

 背後から掬い上げるように風が吹き、外套がはためく。風を感じた瞬間、足が地面から離れた。風に乗せられたように体が宙に放り出され、上空に突き飛ばされた。フードが外れ、赤い髪が風に嬲られる。

 間髪を容れずに空気の塊が上空から襲い、蜃の体は高速で地面に戻された。

 今度は充分なクッションを敷くことができた。一度弾んで地面に転がり、すぐに身を起こす。その瞬間、見えない物に体中が切り裂かれた。

「ぐっ……ぅ……!」

 何も見えない。攻撃が視認できない。ただ風だけを感じた。

 杖を振り壁を作ると攻撃を防ぐことができたが、実体は長くは持たない。消える前に新しい壁を作り、じりじりと押される。

 止まない攻撃をこのままずっと防ぎ続けることはできない。壁作りに集中しながら思考する。

「一瞬顔が見えた。女か? ……獏の性別は聞かなかったな……変なお面も被ってないし。獏じゃないよな?」

 ぶつぶつと呟きながら獣少年は杖を翳して徐々に距離を詰める。

「獏なら殺すなって言われたが……、ん?」

 消えた壁の向こうには誰もいなかった。丁度左右に横道がある。狭いとは言え路地を塞ぐように壁を作っていることには獣少年も気付いていたが、死角として使ったらしい。左右どちらへ逃げたのか――逃げるばかりなので逃げに徹して屋根の上へ出たとも考えられる。

「転送で離脱できないことにそろそろ気付いたか?」

 獣少年は地面を蹴り、障害物を跳んで横道に飛び出した。

「!」

 横道の左右の死角から何本もの槍が突き出し、獣少年は咄嗟に上へ飛ぶ。

「あっ……やば……!」

 槍は避けたが、獣少年の背から生えた大きな黒い翼が路地の壁に擦り付けられる。狭い路地では羽撃くことができず、獣少年は慌てて翼を消した。体が落ちる前に壁を蹴って地面に戻る。

 着地すると今度は地面がぐにゃりと歪んだ。地面に足が付いているのは感覚でわかるが、ぐにゃぐにゃと揺れて真っ直ぐ歩けない。

「うっ……やばい酔いそう……。何だこれ……何処行ったあいつ……!」

 物陰にでも隠れたか屋根に上がったのか、赤髪の姿がない。

「地面に足は付いてるし膝が動く感じもない……視覚的な奴か? 錯覚……?」

 獣少年は苛立ちながら目を閉じ、杖をくるりと回した。目の錯覚ならば目を閉じれば回避できる。やはり目を閉じると気持ちの悪い感覚がない。足元にあるのは妙に熱い空気だけだ。ならば全開で切り付ける。

 路地の見える範囲に強風が吹き、コンクリートを切り刻み窓硝子が割れた。足元のゴミ箱や植木鉢も中身を撒き散らして砕ける。風は空へも舞い、瓦が飛ぶ。何処からも悲鳴は上がらなかったが、先程から赤髪は声を押し殺していた。今頃何処かで死にかけて声も出せないだろう。

「っ!?」

 ふと頬に痛みが走る。目を開けて手を遣ると指先に赤い液体が付着した。

「血……?」

 何かをされた感覚はなかった。

「んっ……!」

 またぴしりと頬や、今度は腕に痛みが走った。

 目を細め、睨むように路地の奥を見る。一瞬きらりと光る物があった。風に逆らうようにこちらへ飛来する。

 頭を傾けて避ける直前、はっきりと見えた。硝子の破片だった。獣少年の割った窓硝子を利用してこちらへ飛ばしている。透明な硝子片は視認しにくい。攻撃を利用されたことに獣少年は苛立った。

「……ちっ、悪足掻きかよ」

 攻撃が飛んで来るなら、然程距離は離れていないはずだ。まだ近くにいる。

 目を開けてももう酔うような感覚はなかった。もう一度あの感覚が襲っても、目を閉じていては攻撃を避けられない。目を凝らして見ると、室外機の陰に赤い髪が見えた。

「そこか!」

 杖を振り、室外機を切り裂く。だがそこには誰もいなかった。

「あ――くそ! 面倒くせぇ! 何が椒図を捜す奴がいれば始末しろだ! こんな面倒くせぇの二度と受けねー!」

 獣少年は杖を回し、杖の変換石が煌々と光る。同時に瞳孔が紅く光り、彼を中心に風が巻き上がった。


「全て壊せ――竜巻」


 轟と風が巻きながら周囲に拡大する。獣少年を中心とし周囲に渦が大きく広がり、彼の風の中では全てが切り刻まれる。路地の壁は罅割れ、瓦が剥がれていく。中心の家々は土台ごと引き剥がされ瓦礫は雨のように竜巻外へと降り注いだ。家が飛ぶのだから当然車や人間も飛ぶ。

 半径三百メートルほどまで風が達すると、漸く獣少年は杖を下ろした。周囲は瓦礫の山となり、風が止んで落ちてきた人間達は地面に叩き付けられぐしゃりと潰れた。

「……久し振りに大技使ったら熱出て来たな……。これであの女も死んだだろ」

 目の紅い光が鎮まり元の色に戻る。白黒の頭を怠そうに振り、平坦になった中心部から少年は離脱した。竜巻の影響か後にぽつりと滴が降る。

 一瞬の惨劇に雨が降り注ぎ、濛々と立ち籠めていた土煙が静まっていく。

 周囲に動くものは何も無かった。



 轟音と共に空に舞い上がる瓦礫を多くの人々が目撃した。それは忽ちニュースになり、人々が撮影した写真や動画が溢れた。何処が安全かもわからない中で端末を構える余裕はあるらしい。

 降り出した雨に傘を差しながら、少年は携帯端末をポケットに入れた。予報では曇りだったが、念のために持っておいた傘が役に立った。

 少年が竜巻の近くを歩いていたのは偶然だった。行き付けの喫茶店へ行った帰りだった。遠目に何かが飛んでいるのが見えて、慌てて近くの駅の中に入った。

 治まった頃を見計らって現場を見に来てみたのだが、まるで隕石でも降ってきたかのように、街に穴が空いていた。縁にはまだ家々の壁などが残っているが、遠く見える中心部は道のコンクリートも所々剥がれ何も残っていない。

 竜巻の外も安全だったわけではない。吹き上げられた瓦礫や人間は竜巻の外にも落ちた。この辺りは空き家の多い住宅街のため被害は想像よりは少なく、様子を見に来た野次馬達から徐々に悲鳴や騒ぎが起こる。

「…………」

 その外にあった路地の一つに黒い影がゴミのように落ちていた。赤い髪を地面に広げ雨に打たれていた。全身切り裂かれて傷だらけで血を流し、きっと竜巻に打ち上げられて落ちて来たのだろう。

「ぅ……」

 赤髪の少女は小さく呻き、指先がぴくりと動いた。生きている。

 少年ははっとして駆け寄り、水溜まりに膝を突いた。

「すぐ病院に……救急車を呼びます」

 だが少女は小さく首を振った。振ると言ってもぴくりと動いただけだったが、それでも充分伝わった。

「病院は駄目なんですか……?」

 少女はもう何も反応しなかった。死んでしまったのだろうか。濡れた髪が貼り付き顔はよく見えなかった。

 それでも少年は傘を肩へ掛け少女を抱き上げた。声に反応し動いたのだから、この冷たい雨の中に放っておけなかった。



 コチコチという機械的な音と布が擦れる音だけが耳朶に届く。水の落ちる音は知らぬ間に消えていた。

 蜃はぼんやりと目を開き、視界に広がった見慣れない天井を見詰めた。全身が酷く痛む。

 ゆっくりと首を動かすと、テーブルを挟んだ向こうのソファに見慣れない少年がいることに気付いた。頭は黒くて角はなかった。

「ばく……?」

 か細くぽつりと呟かれた声に少年は顔を上げ、持っていた黒い布を机に置いた。

「目が覚めましたか? 体の具合はどうですか?」

「……じゃない」

「?」

「あ……いや…………ここは……?」

「ここは喫茶店の中の休憩室です。貴方は竜巻に巻き込まれて意識を失ったんです。覚えてないかもしれませんが、病院は駄目だと言われて、ここで手当てしました」

「…………」

 濁る意識の中でそんな遣り取りをした気もする。あの巨大な力から逃れられたのは奇跡かもしれない。瓦が飛び壁に亀裂が入るのを見て不味いと思った。そして全速力で杖を飛ばした。それだけでは風の速さに勝てず、ぶつかりそうになる瓦礫を蜃気楼で作った壁で防いだり何だりして何とか竜巻の圏外へ逃れることができた。

 ……いや、正確に言えば逃れられなかった。後少しの所で捕まった。蜃気楼は空気の温度差によって生じる異常な光の屈折現象だ。蜃は温度を操り空想上の物だろうが想像できる物なら何でも出力が可能だが、温度を乱す風とは相性が悪い。実体化させれば影響は然程受けないが、実体化させる前に蜃気楼で幻を作り出す必要があるのだ。

 抗いきれずに蜃は竜巻の端に捕まり全身が切り裂かれ、引き千切られるように吹き飛ばされた。

 思い出しながら徐々に鮮明になる意識の中で、椒図のことが頭に浮かんだ。こんな所で足止めを喰っている場合ではない。

「行かないと……」

 焦燥に駆られ毛布が敷かれたソファに手を突くと、全身に痛みが走りかくんと力が抜けた。

「あっ……ぐ……」

「無理しないでください。たぶん腕が折れてます。安静にしてください」

 慌てて少年は立ち上がり蜃の体を支えながら寝かせる。その間も蜃は苦痛に顔を歪めていた。

「だがすぐに行かないと……!」

「何か大事な用でもあるんですか?」

「捜さないと……見つけないといけない人がいる……」

「竜巻に巻き込まれた人ですか?」

「違う……」

「ならこんな状態の貴方が体を引き摺って会いに行けば驚かせてしまいますね。まだ安静にしていてください。今、貴方の破れた服も縫ってるので、待ってください」

 テーブルの上の黒い布の塊に目を遣る。あれは自分の外套だったのかと蜃はぼんやりと考えた。破れ過ぎて作り直しをするような物だろう。

「……どのくらい寝てた?」

「二晩です」

「そうか……」

 あの竜巻から逃れられた実感も沸々と湧いてきた。あんな見えない攻撃から逃れてまだ命があることに驚くと共にどっと疲れた。あの角の生えた少年は椒図を捜しているからという理由で蜃を襲った。おそらく狴犴が差し向けたのだろう。あんなのが彷徨いていたら捜そうにも捜せない。次また遭遇して命がある保証はない。

(弱いな……俺は……)

 危機が去り緊張が解けたからか急に切なく腹が鳴った。以前灰色海月におにぎりを作ってもらったが、一つでは腹が持たない。

「食欲があるなら、きっとすぐ治りますね。少し待ってください。マスターに何か作ってもらいましょう」

 少年は部屋を出て行き、蜃は一人になった。改めて周囲を見渡してみる。ソファとテーブルは重厚感があり年代物に見えたが、壁にある棚は使い込まれてはいるが年代物と言うほど古くは見えなかった。一つだけある窓にはカーテンが掛かっている。小さな部屋だが、休憩室と言う割に他に休憩している者はいない。

 確かにこの体では歩くことも儘ならず椒図を捜す所ではないだろう。あんなに攻め立て街を出たのにこの様だ。また遣ってしまった。椒図に何度も無茶をするなと言われたのに。

 すぐに戻って来た少年は手に薄い冊子を持っていた。それを蜃に差し出す。

「喫茶店のメニューです。何でも好きな物を頼んでください。僕が奢ります」

 この少年は知り合いではないはずだが、とても親切だった。もしかしたら、と思うが、髪は緑ではない。髪も目の色も其処彼処に溢れている人間と同じ色だ。その辺にいる人間と同じ、貧弱な気配をしている。

 黒い冊子を開くと、文字がたくさん並んでいた。片仮名が多い。まるで呪文のようだった。

「これ……は、何……」

「料理の写真を撮ってあるので、どうぞ」

 少年はポケットから携帯端末を取り出し、慣れた手付きでたぱたぱと写真の一覧を表示して見せた。蜃は珍しそうに喰い入るように画面を凝視する。

「この赤いのは……辛いのか?」

「ナポリタンですね。辛くないですよ。この赤はトマトの赤です」

「じゃあこれ……何か色々入ってる……」

「飲み物はどうしますか? マスターの淹れる珈琲は絶品ですよ」

「苦いから嫌だ……」

 少年は途端に吹き出した。辛いかと訊いたり苦いのは嫌だと言ったり、正直な言い分が可笑しくなってしまった。

「じゃあ良い物を持って来ます」

「?」

 メニューを閉じ、少年は再び部屋を出て行った。良い物とは何なのだろうか。苦い珈琲でなければ何でも良い。考えるのは疲れる。料理ができるまで蜃は目を閉じることにした。

 意識が落ちそうになる頃、盆に料理を載せた少年が戻って来た。音に気付いて目を開けた蜃が体を起こそうとし、少年は盆を置いて支えながらその体を持ち上げる。

 左腕は折れているが右は無事のようだ。蜃は右手でフォークを持とうとし、手が見えないことに気付いた。袖が長い。自分の体を見下ろすと、見覚えのない服を着ていた。

「貴方の着てた服は破れて血だらけで……なのでマスターから服を借りました。譲ると言ってましたが。店で着るシャツとズボンなんですが、女性用じゃなくてすみません。女性用の服は意識が無いと着せにくくて」

「男物でいい」

 少し胸元が窮屈だが、女物を着るよりは良い。服の中には全身包帯を巻かれている感覚があるが、骨折に添え木などはされていないようだ。口に咥えて袖を捲り、今度こそフォークを掴む。細長い赤い麺に豪快にフォークを突っ込み、掬おうとしてするりと滑り落ちた。

「…………」

「……もしかして、スパゲティは食べたことないですか?」

 蜃からフォークを借り、少年は麺の中でくるくると回した。麺が巻き付いたフォークを渡され、蜃は呆然と見詰める。

「そんな特殊な使い方が……」

 感心しながら大きく口を開け、鈍い痛みが走る。顔にガーゼを貼られているようだ。どうやら掠り傷らしい。痛むが構わず口を開けてぺろりと食べる。

「……美味い」

「それは良かったです。マスターも喜びます」

 傷だらけだがきちんと食べられることを確認し、少年も安堵した。

 蜃はぎこちなくフォークを回す。吹き飛ばされたあの時の状態だと食べることはできなかっただろう。二晩休んでやっと食事ができるほど回復した。傷が内臓まで達していなかったことと、手当ての仕方も良かったのだろう。その上食べ物まで奢ってくれた。由宇の時も思ったが、食べ物をくれる人間は良い人間だ。

 部屋に小さくドアを叩く音がし、少年は立ち上がる。蜃も少年を目で追い開くドアを見ると、白髪混じりの老年の男が盆にきらきらと緑色の綺麗な物を載せて立っていた。

「ヒナ君、注文された物ができたよ」

「取りに行こうと思ったのに。ありがとうございます、マスター」

 少年はヒナという名前らしい。あれがヒナの言っていた『マスター』のようだ。マスターは蜃の様子を窺い、くしゃりと微笑んだ。

「良かった。思ったより元気そうだね。足りなければ幾らでも追加注文してくれて構わないからね。全部私からのサービスだよ」

「僕の奢りって言ったのに……」

 マスターは笑いながらドアを閉めた。言いたいことだけを言って去って行くので蜃は礼を言い逸れてしまった。

 ヒナはマスターから受け取った綺麗な物をテーブルに置く。確実に珈琲や紅茶ではない。透き通った緑色の液体が入っている。緑の上に丸くて白い物が載り、更にその上にきらきらとした宝石のような小さな赤い物が載っている。

「何だこれ……? 食べ物……?」

「全部の説明が必要ですか……?」

 もくもくと口を動かしながら蜃はこくんと頷いた。

「クリームソーダです。白い物はアイスクリーム、赤い物は砂糖に漬けたサクランボです。子供が大喜びする甘い飲み物ですよ」

「子供が……」

 先程辛い物や苦い物を避けた所為だろう。子供だと言われたことに蜃は少しむっとした。苦い物はともかく辛い物は全く食べられないわけではないのだ。少しなら食べることができる。

 だったら獏も子供じゃないかと頭の中で言葉を擦り付け、蜃は緑の液体にストローを差した。

 ヒナもマスターも親切で食事も美味しかったので安心しきって警戒せずに一口飲むと、口の中で泡が弾けて蜃はぴゃっと飛び退いた。勢い良く身を引いたので全身に痛みが走り体を丸める。

「大丈夫ですか……? 炭酸は初めてですか? 新鮮な反応だな……」

「へっ、変な物か!? 油断させておいて攻撃を仕掛ける……卑怯な手を!」

「そんなつもりは……。僕は普通に飲めますよ。慣れるとこれが良いと思えるようになります」

「小癪な人間……」

 煽られたと思った蜃はもう一度ストローを咥えた。ぎゅっと目を瞑りながら飲むので、ヒナには可笑しくて仕方がなかった。

「……ま、まあ、珈琲に比べたら飲めるな! アイスとサクランボはわかるし、もうわからない物はない!」

 グラスを空にする頃には気に入ったようで、蜃は満足そうな顔をしていた。

 食べている間も椒図のことは頭から離れなかったが、食べて体力を取り戻して動けるくらい傷を癒さなければ今回のように痛い思いをするだけだ。

 椒図も獣だ。化生前の力があるなら、一人でも抗えるはずだ。

(あの獣みたいな厄介な奴が出て来なければ……大丈夫だ……)

 自分に言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返す。そしてふとヒナが目に留まった。

「君……そう言えばさっき、小さい機械を見せてたな?」

「? ……ああ、これですか?」

 先程料理の写真を表示していた携帯端末をポケットから取り出す。それは人間の使う便利な機械だと蜃は認識している。

「それで人捜しはできるか?」

「さっき言ってた人ですか? 行方不明者なら警察に頼んだ方が確実だと思いますが」

「いや……それは……」

 警察がどのような者かは蜃も知っている。悪い人間を捕まえる人間のことだ。人間のことは知ったことではないが、罪を犯したことがある手前頼みにくい。それにあれこれ訊かれるのは面倒だ。

 渋い顔をする蜃を見て、病院を断ったことにも関係があるのかとヒナは考えた。何か事情があるのだろう。警察を嫌がるならあまり良い事情ではなさそうだが、人捜しは切実なようだ。

「何か特徴があれば捜しやすいと思いますが、とにかく目撃情報を探しましょう。特徴がわかりやすく目立っていれば、この便利な機械で調べれば目撃者が出て来るかもしれません。捜し人の写真でもあれば捜しやすいんですが」

「えっ……あ、そうだな……」

 助言してくれるとは思わず、蜃は呆然としてしまった。

「写真は無い……。髪は緑だが、それ以上はわからない……性別も……」

 あまりに情報が不足していることに、言葉にして改めて落胆した。こんなのは何も情報が無いのと同じではないか。髪の長さも背格好も性別すらわからない。

「緑に髪を染めてる人はそう多くないと思います。もしかしたら目撃した人がいるかもしれません」

「本当か!?」

 縋るように身を乗り出し、全身に痛みが走って歯を食い縛った。

「落ち着いてください。話を聞く限り、貴方はこれの使い方がわかりませんよね? 僕が調べてみます。時間は掛かるかもしれませんが、貴方は安静にしてください」

「君は……良い奴だな……」

 ヒナは苦笑し、食べ終わった食器を下げた。

 黙って手当てをしてくれて、服も繕ってくれている。こんな人間がいるなんて思わなかった。凶悪な獣に遭遇したのは災難だったが、これは運が良かった。マスターにも後で礼を言わなければならない。今はまだ自力で立ち上がるのも難しいが、腹に穴が空けられたわけではない。きっとすぐに歩けるようになるはずだ。

 今は回復することを優先し、痛む体をソファに横たえ目を閉じた。人間の街は宵街より広いが、きっと見つかるだろう。そう信じていないと心が折れてしまいそうだった。


 食器を片付けたヒナはカウンターに立つマスター以外誰もいない喫茶店の片隅へ、マスターの淹れた珈琲を持ち席に座った。ステンドグラスの出窓が落とす鮮やかな光がテーブルの端を彩る、少し奥まった席だ。学校には行かず昼間から喫茶店に入り浸る、そこがいつもの彼の席だった。

 頬杖を突き、携帯端末を弄る。頼まれた通り緑の髪の人物を捜すが、望みは薄いだろう。緑頭が目立った行動でもしてくれていれば見つかるだろうが、やはり情報が少な過ぎる。

(……気休めだな)


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