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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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48/124

48-金平糖


 静寂に包まれた誰もいない煉瓦の街並みの中で、ぽつんと一軒光のある古物店に異様な臭いが満ちていた。

 長い髪を解いた青年――椒図(しょうず)を抱えた浅葱斑は灰色の傘を閉じながらとんと石畳を踏む。拷問を受け重傷の椒図は普通に抱えるのではなく、長い布を下に敷いて持ち、その上に載せるように抱えている。切断された片脚は繋げた直後なので負荷が掛からないよう配慮した形だ。それでも長時間抱えているわけにはいかない。

 腕に抱えた椒図に無事な方の手でドアを開けてもらい、浅葱斑は思い切り顔を顰めた。

「げえぇ。クラゲ、まだ何かやってるのか……?」

 椒図も鼻を押さえ、部屋の中を見渡した。大きな棚が並び、細々とした物が置かれている。何に使うのかわからない物も多いが、臭いの元には見えなかった。

「クラゲー」

 臭いの強くなる方へ抱えられたまま連れて行かれて椒図は眉を顰める。浅葱斑は台所を覗き、鍋の周りに調味料を置いて眺める灰色海月に呼び掛けた。

 灰色海月も気付き、怪我人が意識のある状態で帰って来て胸を撫で下ろした。

「何かやばいの作ってるのか?」

「これは獏に食べさせる鼈の血で煮込んだ鼈です。まだ体調が良くないようなので、食べさせるのはもう少し後になりそうです」

「じゃあラップしよ! 鍋に隙間無くラップを被せたら、臭いは漏れないはず……!」

「! そんな技が……?」

 衝撃を受けたように、灰色海月は戸棚を開いた。

 臭いの元はグロテスクな料理だとわかったが、そんなことよりも言葉の中で出された名前の方が気になった。椒図は浅葱斑を見上げ、急かすように口を開く。

「ここに獏もいるのか?」

 両手の枷を獏が外した時、椒図の意識はなかった。見ていないのだと気付き、浅葱斑は頷く。

「いますよ。寝てるかもしれませんが」

「何でこんな所に……? 獏に会わせてほしい」

「ここは獏の牢屋だからとしか」

「牢屋?」

「そうそう。獏は罪人だから」

 棚を漁ってラップを見つけ出した灰色海月を横目に、浅葱斑はまたもや自分より大きな椒図を抱えて息を乱しながら階段を上がった。

 再び椒図にドアを開けてもらい、獏の部屋へ何とか辿り着く。

 脚を組んで椅子に座り古書を読んでいた白花苧環が端整な顔を上げ、ドアの開く音に獏も閉じていた目をゆっくりと開けた。

「わ、布団がある! ここに下ろしていいのか?」

「はい。そのために用意した物なので」

 古書を置き、白花苧環は椒図を寝かせるのを手伝った。

「輸血はしたんですか?」

 懸念していた輸血の件だったが、椒図の意識ははっきりとしている。

「人間の血はそのまま輸血できないから、血染薬を溶かし込んでから輸血しました。そうしないと獣の体が血を拒絶するから。血染薬を入れても完全ではないけど、後は獣の体内で馴染むように変化していくから大丈夫」

「アサギは知ってたんですか?」

「伊達に二十六年、変転人をやってないからな」

 獏は横になったままで椒図を見下ろす。編まれていた髪は解かれているが、片腕と片脚を切断されていたあの罪人だ。繋げた腕と脚はまだ思うように動かせないようだが、予想以上に元気そうだ。さすが獣と言うべきか。

 椒図も寝かされながらベッドの上の視線を合わせ、まるで陶器で作られたかのような顔を観察するようにじっと見詰めた。顔色は悪いが、人形のように綺麗な顔をしている。髪が黒いので、肌の白さが際立つ。

「えと、こっちが獏です」

 浅葱斑はベッドの上を示し、椒図は暫し惚けたように見詰めた。

「お前が、獏……」

 無事な左手を突いて体を起こし、端整な顔を見下ろした。眼球が動き、瞬きをしていなければ人形だと思ったかもしれない。まさか罪人になっているとは思わなかった。地下牢以外に牢があることも、この街が使われていることも知らなかった。

 鍋にラップを掛けてから様子を窺いに来た灰色海月が静かに部屋に入るのを一瞥し、人形のようなその唇が小さく動く。

「君が椒図?」

 最初に何を言うべきか、椒図は何も考えていなかった。顔ばかり見ていたが盛り上がった布団の足先まで見遣り、静かに目を伏せる。

「……大きくなったな、獏」

 この目で見るまでは信じ難かったが、この人形のような獣を獏と認めるということは、化生したことを認めるのと同じだ。椒図の知る小さな獏はもういない。それをむざむざと見せ付けられたようだった。

「聞きたいことがたくさんあるんだけど、どれから言えばいいのかな……」

 獏には椒図といた頃の記憶はない。その頃の記憶を彼に訊くのは残酷なことかもしれない。それでも獏は繋がりを知っておきたかった。蜃が言っていた獏を殺した理由は要点を得ずよくわからなかった。椒図なら何か知っているかもしれない。

「僕も話したいが……少し待ってほしい」

「? 傷に障る……?」

 椒図は脚を引き摺り、ベッドに近付いた。獏の外套の襟をぎこちなく片手で何とか外し、首を露わにする。地下牢で見る罪人の烙印とは少し異なるが、間違いなく罪人の証がそこに刻まれていた。

 襟から手を離し、恐る恐る人形のような獏の頬に触れる。生きているのか確かめるような、躊躇いがあった。獏はされるがままに大人しくしていたが、部屋に充満していた酷い臭いが薄れてきたことで瞼が重くなってきた。

「寝るな、獏」

「いっ」

 頬を抓まれ、閉じかけた瞼が開く。いきなり何をするのかと睨み上げるが椒図の顔は少しも笑っておらず、焦燥が滲んでいた。

「このままだと、お前は死ぬ。だから寝るな」

「……?」

「著しく生命力を失ってるな? 烙印の所為で回復ができなくなってる」

「何で……?」

 消え入りそうなか細い声にできるだけ短く説明しようと考えるが、最近は客人が来ていたとは言え百年以上まともに会話をしていなかった椒図には短い言葉がすぐに浮かばなかった。

「……烙印で力が封じられてるのは知ってるな? 僕の烙印とは種類が違うが……水を生命力とするなら、烙印は池に流れ込む川を堰き止める物だ。池の水を失った場合、新たに水が流れ込むことがない。慈雨のように休めば多少は回復するが、完全回復は難しい。生きるためには生命力が必要だからな。生きるため常に消費しつつ、回復もするのは困難だ。烙印の所為で使える生命力も多くない。お前は今、池が枯渇している状態になっている。一時的にでも川を解放するか、他の獣に生命力を分けてもらうしかない」

「…………」

「……わかりにくかったか?」

 獏は小さく首を振った。瀕死の白花苧環と黒葉菫に生命力を分け与えたのがここまで体に響くとは思っていなかった。生命力を与えるのは命を削る行為であることは知っている。それがわかっていて分けたのだ。我慢ができなかったのだ。それを後悔するつもりはない。

「烙印をどうにかしないと生きられないなら、仕方ないよ」

 弱々しく微笑む獏の頬を椒図はもう一度抓った。

「痛いんだけど」

 不満げな声を出す獏が大人しい化生前とは別人で、切なくて可笑しくて壊れたように笑いそうになってしまう。

「やっぱり別人なんだな――」

 椒図はふと顔を上げ、天井の穴に目を遣った。正確には穴ではなく、その向こう側だ。

「お前も降りてこい」

 その声に、皆は一斉に天井の穴を見上げた。誰かがいることに全く気付かなかった。

 声を掛けられ、渋々とフードを被った蜃が顔を出す。

 真っ先に構えたのは灰色海月だった。それほど蜃のしたことは恐怖として体に刻み付けられていた。白花苧環もフードから覗く炎色の髪に眉を寄せ、武器を出せなくともすぐに動けるように構えた。

「今は争わないでほしい。蜃も、いいな?」

「……わかった」

 椒図は構えを解くように言い、蜃は床に飛び降りた。椒図の言うことは素直に聞くらしい。

「でも、椒図……。その獏は危ない。何で椒図がここにいるのかわからないが、すぐにここから出た方がいい」

 蜃は杖を構え、獏を指す。

 灰色海月が動き出そうとし、椒図は手で制した。

「蜃。それはお前が獏を憎んでるからか? 今の獏は放っておけば死んでしまうほど弱っている。お前が手を下すまでもないだろ?」

「あの時と同じなんだ……」

「あの時?」

 蜃は杖を下げず獏を見下ろしたまま目を細めた。今の獏にはもう抵抗する力は残っていない。それが――危ない。

「椒図は地下牢に行ったから、あれを知らないんだ。この街に溢れた悪夢を、獏は許容できなかった。非力過ぎたんだ、あの獏は。神隠しで閉じ込めた人間が見た悪夢を、獏は処理できなかった。処理できるはずだったのに。できると言ったことができないのは裏切りだろ!? 君が捕まって街を開けることもできなかった! 溢れた悪夢を鎮めるには獏を殺すしかなかった! でも、悪夢は……」

「僕が獏を庇って捕まったことが、結果的には獏を殺すことになったのか……?」

「ち……違う! 椒図は悪くない……悪いのは全部獏だ……。今の獏はあの時と同じ、空になろうとしてる。空になる獏を媒介として、悪夢が暴れてしまう……。だからその前にまた……獏を殺さないと!」

 頭を振り、訴えかけるように、切願するように蜃は叫んだ。その説明ではまだ不明な点はあるが、蜃も酷く取り乱している。冷静に受け答えはできないだろう。

「蜃、少し落ち着こう。全て理解したわけではないが、もしかしたら蜃の懸念は払拭できるかもしれない」

「どういう意味だ……?」

「僕が最年長だからな。こういう時は僕が知恵を出さないと。昔の獏は非力が原因で蜃の言う悪夢が暴れる事態になったんだとしたら、今の獏は非力ではない」

「……?」

「生命力の弱った状態がいけないなら、元に戻してやればいいだけだ。獏も元気になるし、一石二鳥だな」

「何言って……」

 蜃は眉を寄せる。蜃の言ったことが理解できないと言うなら、椒図の言うことも意味を理解できなかった。

 椒図は焦りもせず静聴する皆を見渡す。

「黒葉菫に渡した金平糖はまだあるか?」

 百年以上も前の金平糖など口に入れる気にはならない。毒芹が餞別として差し出してきた金平糖はまだポケットの中にある。白花苧環はポケットに手を入れ、訝しげに眉を顰めた。

「砕けてる……?」

 ポケットの中にあった金平糖は全て粉々に砕けていた。何処かにぶつけたのだったかと考えてみるが、覚えはなかった。

「白いお前の金平糖はもう使った。印を封じて、宵街を出て閉じて、あと僕の傷口も閉じて、それで終いだ」

「力が使えたのはまさか……!」

「その金平糖に似せた物は、僕が地下牢に行く前に作った物だ。僕の力を封じておいた物だ。もう使うこともないだろうと、金平糖を見て何か思い出さないかと獏に渡すよう黒葉菫に預けたが……因果とは面白いな。拷問部屋にお前が入ってきた時、笑いを堪えるのが大変だった」

 あの時の微笑みはそういうことだったのかと腑に落ちた。しかも黒に預けた物を相反する白が持っていたのだから、嘸かし滑稽なことだっただろう。

「金平糖なら、こちらに」

 灰色海月はベッドの横の小さな引出しを開け小袋を拾った。中身はそのままにしてある。

 小袋を受け取り金平糖を一粒抓んでベッドに置き、椒図は鍵のような形の細長い杖をくるりと召喚した。

「金平糖の芯に変換石を入れてるんだ。その分だけ力が使える。永続的なことはできないが、一時的で充分だ。獏の烙印を封じ、生命力を回復させる」

「何でそんなことが……」

「僕の力が『閉じること』だからだ」

 喉元の烙印に鍵を挿すように杖を向け、杖に嵌められた変換石が光る。烙印も微かに光り、杖をかちりと回した。同時にベッドに置いた金平糖が砕ける。白花苧環のポケットにあった残骸と同様になった。

「――これでいい。一気に元気になるわけではないが、徐々にすぐ元気になるはずだ。元気になれば、蜃の懸念は消せるな?」

 まだ調子を取り戻したわけではないが、獏の顔色は幾分良くなっている。本人も不思議そうに手を握ったり開いたりしている。

「でも一時的なんだろ……?」

「一時的とは言え生命力が正常に巡るようにしたからな、烙印が再び機能し始めたとしても巡ったものは消せない。大丈夫だ」

「……それでも、この街の問題は解決しない」

「時間はできたはずだ。落ち着いて話してくれればいい」

 杖を仕舞い、椒図は床に手を突いた。俯くと散けた長い髪が顔に掛かる。切断された肢体を繋げたばかりで、片脚で体を支えるのは難儀だ。

「聞いたら椒図も絶対焦るからな」

「ああ、言ってみろ」

「この街にはまだ、あの時の悪夢がうじゃうじゃいる」

「獏が処理してなければ、いるだろうな」

「何でそんなに冷静なんだ……」

「誰かが焦ってると、逆に冷静になるのはよくあることだ」

「あるのか……?」

 椒図の冷静さは蜃を苛つかせることはなく、まるで宥められたように沈静していく。

「獏さえ取り込めば悪夢は敵無しだからな。獏が非力だと悪夢に利用されるってことだ。俺が獏を殺したら、風化するだけのその死体を持って行って……取り込めば暴れられると知ってたんだ」

 吐き捨てるように言い、ベッドから起き上がる獏を睨んだ。獏も睨み返す。元気を取り戻してきたようだ。

「もしかして、街の端にある蠢く闇が悪夢なの?」

 まだ少し掠れてはいるが、はっきりと流暢に言葉が出た。獏自身も体が回復していくのがよくわかった。

「ああ、そうだ。あれが俺達が神隠しで攫った人間達の末路だ。獏が失敗った所為で悪夢はあんなに広がった。責任取って全部食べてみろよ。あの頃より強くなったんだろ?」

「あの闇は悪夢だと認識できなかった。たぶん変異してる。わかりやすく言うと……腐ってるとでも言うのかな」

「腐ってるから食べると腹を壊すって言いたいのか? 先代の尻拭いくらいしてやれよ」

「憶測だけど、君が去った後もこの街の悪夢が神隠しとやらをしてるんじゃないかな?」

「は……? どういう意味だ?」

「招いてもいないのにこの街に迷い込んでくる人間がいた。境界が曖昧な人間がいるんだと思ってたけど、神隠しで連れられて来たんなら辻褄が合うことがある。この店の中の物は元々ここにあった物だけど、僕の化生後に作られるようになった物も散見されるんだよ。君達が去った後も連れて来られる人間がいて、物が持ち込まれたってことだよね?」

 背に枕を置いて凭れながらではあるが、獏の頭は正常に動き出したようだ。

 椒図も顔を上げ獏の言葉に聞き入る。化生前と比べて随分と逞しくなったようだ。考え込む蜃の代わりに椒図が尋ねる。

「もし悪夢が神隠しを続けていると仮定して、悪夢には何の利があるんだ?」

「利と言われてもね……通常自我はないものだし」

「その辺は獏でも未知数みたいだな。では、膨れ上がった腐った悪夢を処理する方法はあるのか? このままでは不味いんだよな? 蜃」

 名前を呼ばれ、蜃はぴくりと眉を動かした。

「悪夢が膨れ過ぎてこの街は綻んできてるんだ。いつか全部喰われて消滅する。……消滅するだけならいいんだが、この街が実体だというのが問題で……。今は別空間にあるが、空間を保持してるのが街だから……実体が消滅すると残された悪夢が空間から外に出る。人間の生活する街に放り出される」

 何とか理解してもらおうと言葉を探しながら蜃は必死に説明した。その視線の先は椒図だけだったが、皆も神妙に聞き入った。

「一ついいか? 蜃自身には何もないのか? 街が消滅することに。神隠しの立案者が人間を心配するのは違和感がある」

「…………」

 蜃はぴたりと止まり、目を逸らした。確かにこの説明では、人間の住む街に悪夢が放り出されることを危惧しているように聞こえる。蜃は目を逸らしたまま、言葉に詰まりつつぼそぼそと言った。椒図に隠し事はしたくなかった。

「……実体のこの街はかなり大きい……だから、全部喰われたら、俺の身に跳ね返ってくるかもしれない……軽い怪我か瀕死の重傷になるかわからないが……」

「それを先に言え。殺した獏の手前言いにくいとは思うが、自分の身を案ずるのは誰だって当然だろ」

「椒図……」

「僕は末子だからな。妹や弟には憧れがある。妹や弟の力になるのが兄だろう?」

「俺は妹か? 弟?」

「お前の良い方を選ばせてやろう」

 体は女性だが中身は先代の記憶を継いで男である蜃をどちらで判断すれば良いか、椒図は答えることを放棄した。どちらにせよ蜃本人に決めてもらう方が良い。

「どっちかと言うと、兄弟より友達の方がいいんだが」

 蜃は目を逸らし、頬を掻く。今まで友達だと思ってきたのにいきなり兄弟だと言われてもしっくり来ない。

「ああ。蜃とは友達だ。獏は妹のようなものだが」

「勝手に妹にしないでよ」

 仲が良かったらしい頃の椒図のことは知らない。いきなり妹だと言われても巫山戯て言っているようにしか聞こえない。

「僕には先代の記憶がないんだから」

 もうすっかり顔色の良くなった獏は、いつもの調子を取り戻したようだ。失われた生命力の分はまだ回復していないが、空のカップに半分ほどでも水が注がれたのだからその分は元気だ。

「後一つ言っておくけど、この街の悪夢をどう処理するにしても、あの量は今の僕でも手に余る」

「何だ使えない獏だな。もっと見世」

「蜃。すまないが髪を束ねてくれないか? 片手ではできない」

「え? お、おう……」

 もっと見世物小屋に居させて力を強くさせたら良かったのか、と言おうとした蜃は呼び止められて口を閉じた。椒図の目は笑っておらず、それ以上は言うなと言っているようだった。髪留めを受け取り、蜃は椒図の背に回った。

 それを怪訝そうに見つつもまさか見世物小屋の話をしようとしたとは夢にも思わず、獏は首を傾ぐだけだった。

「烙印で力が制限されてるからね。椒図が封じてくれたのは烙印の機能の全てじゃないみたいだ」

「ああ。力の制限に関しては深く全身に絡み付いてるからな。制限を破れるなら僕も金平糖に頼らない」

「烙印をどうにかしないと全力が出せない。悪夢一体にも梃摺る今の僕じゃ厳しいね」

 椒図の髪を一つに束ねて髪留めで留めると、突然勢い良くドアが開いて心臓が跳ねた。

「スミレが目を覚まし……た」

 駆け込んできた黒色海栗は、まさかこんなに人が集まっているとは思わず、困惑しながらそっとドアを閉めようとした。

「待ってウニさん。スミレさんが目を覚ましたの? 様子を見に行くよ」

 立っても蹌踉めかないか確かめるようにベッドから足を下ろし、きちんと立てることに安心した。獏はベッドと布団の間を通り、ドアの陰に隠れてしまった黒色海栗に微笑む。

 その足元を黒猫が擦り抜けて部屋に入った。獏を見上げるが、その奥にいる蜃の足元へ走り、小さく鳴いて擦り寄る。

「黒豆が懐いてる……」

 黒色海栗も顔を出し、獏にしか懐いていなかった黒猫が初対面の蜃に擦り寄るのを少し羨ましげに見た。

 獏の目にもそれは奇異に映った。

木天蓼(マタタビ)でも持ってるの?」

「持ってない。獏がこいつと会う前に、俺が遊んでやってたんだ。悪夢に憑かれてるような感じがあったから外には出せなかった。君がこいつの悪夢を喰ってるのを見つけて、君がこの街にいることを知った」

「そんな前から僕を……? 全然気付かなかった」

「俺は蜃気楼を操るからな。幻には気配なんてない。気配を消すなら君より上手くできる」

 蜃は初めて優位に立てた気がして得意気に胸を張った。邪魔な胸を縛り付けているため、少し苦しかった。

「ふぅん。それじゃ僕はスミレさんの所に行くから、そっちは暴れないなら自由にしてていいよ」

 全く興味がなさそうな獏には不満だったが、蜃は舌打ちして黒猫を抱き上げた。自分ではどうすることもできない黒猫に憑いた悪夢を食べてくれたことだけは悪いと思っていないのに。

 ドアを閉めようとする獏を今度は椒図が呼び止め、ゆっくりと体を回しながら向き直る。

「スミレとは、黒葉菫のことか?」

「そうだよ」

「そうか。生きてるんだな。あれはもう死んだと……。……ああ、そうか。それで獏は……」

 生命力を彼に与えたのだと椒図は理解した。

「化生して別物になったと思ったが、記憶はなくとも継いでる部分もあるものだな」

「……?」

 首を傾げながら獏は部屋を出る。灰色海月も蜃と椒図を注視しながら獏に続いてドアを閉めた。

 一見優しげな椒図の目が見ているのはおそらく先代の獏だろう。似ている部分を探しているのかもしれない。獏だけが『あの頃』を共有できない。

 獏が去った後の部屋で蜃はどっかとベッドに座り、脚を組んで椒図を見下ろした。椒図が獏を回復させた以上、蜃は下手に手が出せない。力の差はわかっているのだ。

「椒図、先に言っておいてやる。今の獏は凄く性格が悪いぞ」

「それはそれで面白い」

「面白がるな。ほら、ヒジキも言ってやれ」

 黒猫は撫でられながら小さく鳴いた。

鹿尾菜(ヒジキ)はその猫の名前か……?」

「そうだ」

「……成程」

「は!? 何で目を逸らすんだよ!」

 目覚めた黒葉菫は気になるが蜃と椒図から目を離すわけにもいかず部屋に留まることにした白花苧環は、黒猫と戯れ始めた二人を見て、先程の緊張感は何処へ行ったのかと脱力しそうだった。

 部屋を出て行きそびれた浅葱斑は部屋の隅で動けずに警戒しているが、猫は可愛いと思う。

 獏と深刻な話をしていたので聞きそびれていたが、白花苧環には蜃に訊いておきたいことがあった。黒衣を纏った炎色の髪は確かに以前白花苧環を襲った者だ。

「蜃に訊きたいんですが、オレを襲ったのは何故ですか?」

 黒猫と戯れていた蜃は途端に表情を険しくした。

「君は強いんだろ? 獏を殺す時に邪魔になる。弱ってる時に打つのは定石だろ。白は嫌いだしな」

「嫌われるのは慣れてますが、罪人の獏のために殺されるのは心外ですね」

 再び緊張感が張り詰め、浅葱斑は部屋の隅で息を殺した。

 険悪な空気に、椒図も蜃と白花苧環へ交互に目を遣る。

「蜃はそんなに白が嫌いだったか? 毒芹も白だっただろ?」

「その毒芹だ。原因は」

 フードに隠れた顔を不快に歪める。あの表情の気持ちは白花苧環にはよくわかる。虫唾が走った時の顔だ。

「毒芹は俺を殺した。だから白は嫌いだ」

「毒芹に? お前は何をしたんだ?」

「俺が何かした前提かよ。……獏を殺したが」

「自業自得じゃないか」

「…………」

 相当気不味いらしく蜃は俯いてぶつくさと文句を言った。あの時は蜃も一人で必死で、他の方法なんて考えもできなかった。あの場の最善は獏を殺すことだったと、それは今でも思っている。だが仲良く連んでいたことも事実だ。

 白花苧環はその過去のことや仲には興味がない。引っ掛かったのは一つだけだった。

「白が獣を……ということは、それが白がハズレだと言われるようになった原因ですか……?」

 ハズレと忌まれ白を孤立させる言葉。宵街で有色の変転人が言っていた。昔、白が獣を殺したと。

「ハズレ? それは初めて聞いたな。僕が地下牢にいる間に言われるようになったのか?」

 椒図は地下牢の中で情報を得ることもできず知らないようだ。

 蜃は何でもないようにけろりと言う。

「確かに、ハズレと聞くのは俺の化生後からだな。でも俺が白に殺されたからと言って、別に他の全員に白を憎めなんて教祖をした覚えはない」

「…………」

「他の奴は知らないが、俺が白を嫌う権利はある。よって白い君も嫌いだ。首輪がお似合いだな」

 白花苧環は反射的に床を蹴り、わざと煽る蜃の首に飛び付いた。ベッドから落ちた蜃は首を絞める手を掴み、床の上で踠く。弱っている時に首を絞めた仕返しかと、食い縛った歯の間から掠れた息が漏れる。

 椒図は止めようとするが、片手では引き剥がすことができない。

 蜃は脚をばたつかせ必死に逃れようとするが、武器は使えなくとも素手の力まで封じられたわけではない白花苧環の握力は蜃には振り解けなかった。幾ら怪我をしているとは言え、普通の人間に近い力しか持たない変転人に抗えないとは思わなかった。

 部屋のドアが開き壁を拳で強打する音が響き、その音で白花苧環は我に返った。

「暴れないで、って言ったよね?」

 蔑むような獏の双眸が冷たく、白花苧環は蜃を見下ろしゆっくりと手を離した。

「遣り返すのはいいけど、怪我人を巻き込んじゃ駄目だよ。あと、これ以上店を壊されるのは困る」

「……はい」

「武器が使えないからかな? 聞き分けが良くていいね」

 獏はにこりと笑い、ドアを閉めた。

 蜃は口を尖らせて首を摩り、椒図はぽかんとドアを見詰めた。

「白も罪人の言うことが聞けるんだな」

「借りがあるだけです」

「僕の言うことは聞くのか?」

「借りが、あるので……」

「義理堅いんだな。白には積極的に借りを作っておくか」

「…………」

 罪人に借りを作られるだけでも虫唾が走ると言うのに、その借りのために言うことを聞かなければならないと思うと更に吐きそうだ。

 表情が歪み整った顔が引き攣っていく様を不憫に思った椒図は布団に横になりながら言葉を投げた。

「嫌なことなら言うことを聞かなくてもいいからな。お前を助けたのは、首輪で繋がれてるのを可哀想だと思ったからだ。嫌な思いをさせるために助けたわけではない。お前が隙を作ってくれたことも感謝している」

「……獏の言いそうなことに似てますね」

 白花苧環は立ち上がり、ドアに向かった。二人から目は離せないが、浅葱斑がいるなら白花苧環が部屋から出ても問題はないだろう。

「アサギ、後は任せます」

「えっ!? ボクを一人にしないで!」

 必死に訴えたが、閉められたドアに阻まれてしまった。

 蜃と椒図は再び黒猫と戯れながら、地下牢にいた間のことを互いに話し談笑を始めた。

 浅葱斑はその場に膝を抱えて座り込み、誰かが部屋に戻って来てくれるのをじっと震えて待つしかなかった。


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