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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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46/124

46-再会


 酸漿提灯から離れた宵街の最下層で、石壁と蔦に覆われた暗がりで闇に溶けるように黒衣が横たわっていた。全身を刺した針の傷の所為で座るにも寝るにも体が痛む。最後に獏に切り飛ばされそうになった腕を上に、冷たい土の上で蜃は呆然と蔦の葉を見詰めた。手当てはしたが、痛みの所為で思考が纏まらない。

 輸血もしたい所だが病院の世話にはなれず、宵街で栽培されている血染花(ちぞめばな)の実から作られた真っ赤な錠剤をボリボリと噛み砕く。実をそのまま食べても効果はあるそうだが一つ一つの実は小さいため、潰して濃縮して錠剤にしていると聞いた。血液を増やす効果がある薬だ。

(化生して記憶を継いでも、力が弱くなってるんじゃ悔しいだけだな……)

 宵街の最下層は上と同じく箱が積まれたような石壁が並び、その中にも生活の痕跡が多少残っている。今では棲む者はなく廃墟だ。そのため明かりのある街灯はなく隠れるには打って付け――だが、黒い少女が迷い込んできた時は驚いた。有色ならまだしも、中層近くに棲む無色が最下層まで来ることなど通常はない。

 傷を癒すためにじっと動かず、ぼんやりとそんなことを考える。

(獏を殺して、椒図(しょうず)を牢から出して、終わりにしようと思ってたのにな……。上手くいかない……)

 戦闘能力が高いと噂の白花苧環があの街から離れ、獏の意識もなく千載一遇の好機だったのに、それでも殺せなかった。獏を殺すのは後回しにして、椒図を先に牢から出す方が良いのだろうか。地下牢から連れ出すのも一筋縄ではいかないだろうが、良いことを耳にした。下層に地下牢と繋がる横道があるらしい。そこから侵入すれば会えるのではないだろうか。

 また一粒赤い薬を噛み、蔦の向こうをぼんやりと見詰める。

「……向う横町(よこちょ)のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっとおがんで――」

 無意識に闇に呟いていたことに気付いて慌てて頭を上げ、傷に響いて呻いた。化生前の獏がよく歌っていた手鞠歌だ。よく歌っていた所為で頭にこびり付いている。あの頃は楽しかったはずなのに、それは過去のことだ。

 まだ体は痛むがゆっくりと起こし、杖を突いて立ち上がる。

(横道とやらを調べてみるか……)

 何もせず寝転がっているだけだと余計なことを考えてしまう。蜃は杖に腰掛け、石段を上がった。こういう時、飛べるのは便利だ。……厳密には飛んでいるわけではないが。痛む体を引き摺って歩かなくても済むのは便利だ。

 少女達が話していた横道とやらはこの辺りだったかと、杖を降りて姿勢を低くする。蔦の茂る中に、小さな穴があった。這えば大人の背丈でも潜れる余裕のある穴だった。

(元々地霊が掘った物らしいからな。地霊なら屈まなくても通れる大きさだ)

 傷だらけの体で這うのは手足が震えたが、潜ればその先は立ち上がっても余裕のある空間があった。暗くてよく見えないので常夜燈を杖に引っ掛け、再び腰掛けて飛ぶ。

 両手を広げると左右の壁に触れられるくらいの狭い道をゆっくりと飛んでいく。採掘場なので道は舗装されていない。蔦も生えている。途中で分かれ道もあったが、どれも先は短かった。ほぼ一本道と言えた。

 暫く行くと、道の先は突然途切れた。壁に沿った細い足場はあるが、体を横向きにして壁に張り付いて歩かないと足を踏み外してしまいそうな申し訳程度の足場だった。道の先は底が見えない闇で、上に目を向けるとぼんやりと光が見えた。

(いやいやいや……まさか壁も扉もなくそのまま地下牢と繋がってる……?)

 こんな奥底の横道なんて把握していないということだろうか。それとも地霊が勝手に掘り進めているのか。

(……でもこんな足場じゃ、飛べない変転人は登れないか……)

 杖の先を軽く上げ、恐る恐る上へ上がってみる。少し調べるだけのつもりだったが、足を止める壁も扉もないのなら、少し会うくらいなら可能ではないかと欲が出た。

 明かりのある一番下に辿り着き、辺りを見回す。近くには何も気配はないようだ。ここまで上がると人が充分に歩ける幅の道があり、穴への落下防止の柵も設えてあった。ここからが地下牢なのだと蜃は気を引き締めた。

 地下牢にも横道があり、檻が並んでいる。その殆どが空だった。気力の無い中身のいる檻も、こちらには一切気付かず地面に転がっているだけだった。皆同じように裸足で襤褸を纏い、首輪を付けられている。

 順に檻を覗いていると、壁に凭れながら髪を編んでいる者がいた。髪留めで髪を留め、覗いている黒衣に気付いて彼は顔を上げた。

「……最近は客が多いな。退屈凌ぎに丁度いい」

 薄暗くてよく見えなかったが、そいつが檻の手前まで這って来るとよく顔がわかった。見覚えのある顔が見上げる。

「椒図……」

「何処かで会ったことがあったか?」

「…………」

「ん……前にも同じ遣り取りをしたな」

 椒図は考える仕草をし、杖から降りる黒衣を見上げた。

 まさかこんなに簡単に会えるとは思っていなかった蜃は椒図を見下ろしながら、言葉が出ずに呆然と立ち尽くした。何を言おうか全く考えていなかった。

 黙ってしまった蜃を椒図は不思議そうに見上げる。この化生した姿では誰だかわからないのだ。髪の色はあまり変わっていないが、それもフードに隠れてよく見えないだろう。

「髪……伸びたな」

 最初に言うことがそれかと蜃は我ながら、そうじゃないだろと心の中でもどかしく思ってしまう。

「牢生活が長いと伸び放題だからな。これでも切ってもらってるんだが、髪を編むのも退屈凌ぎにはなるから残してもらってる。短い頃を知ってるなら、かなり前だな。誰だったか……」

 考える椒図を見下ろしながら、蜃は目を伏せる。どれほど考えても答えには辿り着けないだろう。そんなことはわかっていた。クイズを出しているわけではない。答えくらいすぐにくれてやる。

「蜃……だけど、わかるか……?」

 椒図が息を呑んだのがわかった。目を丸くしてフードの中を覗き込むように格子に手を掛ける。顔は変わってしまったが、黒いフードから覗く髪の色は変わっていない。比べてはいないが、大差はないと思う。

「蜃……?」

「ひ、久し振り……」

 随分間の抜けた挨拶だと我ながら思うが、何と言えば良いのか咄嗟に思い付かない。本当は言いたいことがたくさんあるはずなのに、上手く言葉にできない。

「化生したと聞いたが……」

「知ってたのか」

 先に捕まった椒図がそれを知ることはないと思っていたが、さすがに誰かから聞いていたようだ。

「元カノなのかと思った」

 さらりと想定外の言葉が飛び出し、一気に緊張感が吹っ飛んだ。

「何真顔で言ってんだよ! ……元カノなんていたのか?」

「いた気がする」

「君の妄想の話はいいんだよ!」

「しかし……驚いたな。まさか蜃が来るとは」

「信じてくれるのか? ……俺って女っぽいか……?」

「何だろうな……何となく、懐かしい感じがする。何と言えばいいか……背は縮んだな?」

 宥めようと椒図は弁解するが、蜃は顔を真っ赤にして格子を掴んだ。

「お……女に化生したんだよ!」

「あ……ああ……」

 化生後の容姿が異なるように、性別も一定ではない。その混乱を避けるためにも記憶が真っ新になるのだろう。以前は少年の姿をしていた蜃は化生して少女の姿になってしまった。

「さっきから気になってるんだが……化生前の記憶が残ってるのか?」

「だから複雑なことに……」

「そうか……」

「違和感しかないし胸は邪魔だし……高い所に手が届かない……」

「……それは大変だな」

「話が逸れるから……それはいい」

「何か用があって来たのか? 退屈凌ぎの話し相手に来てくれたのかと思ったが」

 格子越しに笑う椒図を見ていると、あの頃に戻ったようだった。少し疲れた顔はしているが、こんな環境でもぐっすり眠れているのだろう。元々彼は狭い場所が好きだった。こんな所でも、他の罪人のように虚ろな目はしていない。

「君をここから出すために来た」

 もう一度、椒図は目を丸くした。地下牢の警備は手薄だが、首輪の所為で力は使えず、烙印がある限り位置を把握されてしまう。

「……気持ちはありがたいが、罪人の釈放は聞いたことがない。折角蜃は外にいるんだ、脱獄の手引はしなくていい」

「本当は獏を殺してから来るつもりだった。……けど、今の俺じゃあいつを殺せないかもしれない」

 化生前の獏を可愛がっていた椒図に言うことではなかったかもしれない。だが百年以上も誰にも言えず溜め込んできた言葉は堰を切ったように溢れてしまった。

「何かあったのか? 獏も化生してるらしいが」

 椒図はすぐには責めず、理由を訊いた。長い間地下牢にいて、外のことは知らないことの方が多い。牢に入ってから蜃も獏も死に、あの頃を覚えているのは自分だけだと思っていた。蜃が記憶を引き継いでいると知って素直に嬉しかったのだ。あまり良いとは言えない記憶もあるが。

「獏の所為で君は捕まった。獏の所為で滅茶苦茶だ」

「僕は獏に捕まってほしくなかったから大人しく捕まっただけだ。それは僕の意思だ。獏が悪いわけじゃない」

「街が変になったのはあいつの所為なんだ! あいつの所為で……だから俺はあいつを殺した!」

「…………」

「でも獣は死んだら化生する。あいつが死んでもあの街は消せなかった。だからもう一度殺して……」

「…………」

「全部壊したあいつを苦しめて殺したかった。だから見世物小屋に売ったのに、あいつは力が強くなって……」

「……そうか」

 俯く椒図を見て、言い過ぎたと蜃は思った。獏を可愛がっていた椒図には言うべきではなかった。でも止められなかった。これ以上会話を続けると、また余計なことを言ってしまいそうだった。

「……あまり長話してる場合じゃないよな。俺は力が弱くなって、実体が数秒しか作れない。でもその時間があれば鍵を作って檻を開けられる。後は檻の中に君の幻を作って置いておけば、暫くは気付かれないはずだ」

 杖を振って鍵を作り出し、鍵穴に挿す。開くと鍵は霧散する。

 弱くなったと言うより化生前が強かっただけではと椒図は思ったが、蜃が吐露した言葉の所為で何も言えなかった。このまま牢から出て良いのか悩んだが、蜃が差し出した手を半ば無意識に取ってしまった。檻の中ではあまり立ち上がることもないので少しふらついてしまうが、久し振りに檻から出た。まだ地下牢の中ではあるが、道の先があることが不思議に思うくらい久しい空気だった。

 椒図は檻から出て最初に拳を握り、思い直して平手で蜃の頬を打った。

「――っ」

 突然の衝撃に、傷に響いた痛みよりも驚きが勝ってしまった。何故殴られたのかわからず、蜃は呆然と椒図を見上げた。

「僕には詳細はわからない。だから一方的にお前を責めるつもりはない。それでも、化生した獏まで憎むのは遣り過ぎだ」

「…………」

「化生した獏にも記憶があるのか?」

「……無い、と思う」

「じゃあ終わりでいいだろう。その傷はもしかして獏に遣られたのか?」

「…………」

「だったらもう痛み分けにしておけ。じゃないとお前が先に死にそうだ」

「怪我……してるって何でわかった」

「殴った時の顔。力が使えれば傷を閉じてやれるんだがな」

「女だから平手にしただろ。君のそういう所は」

 口元を手で制され、蜃は口を噤んだ。通路の先から足音が聞こえた。長居し過ぎてしまったらしい。


「何か音がしたと思ったら」


 横穴に顔を出した者を見、椒図は目を細めた。平手で打った音が響いてしまったのだろう。蜃を背後に遣り、小声で囁く。

「ここは僕が何とかする。幻を消して早く逃げろ」

「このまま君を置いて行けない。力が使えないのに」

「力が弱くなって負傷もして、僕に庇いながら戦ってほしいのか?」

 力の使えない椒図にすら庇われるなら、それは足手纏いでしかなかった。

「俺がもっとちゃんと作戦を練って来ていたら……」

「そんなものを考える奴じゃないだろ? 変わったのは容姿だけで良かった」

 前を向いたまま、とんと蜃の背を押す。

 横道に顔を出した者は蜃も知っている。地下牢の拷問官、睚眦(がいさい)だ。女性ではあるが今の蜃よりも背が高く、硬い髪も相俟って威圧感がある。狴犴(へいかん)が手綱を握っているが、拷問の許可が下りれば箍が外れることで有名だ。選りに選って睚眦に見つかるとは、運が悪過ぎる。

 椒図が力を使えるのなら、一人残しても心配は然程しないかもしれない。だが今は力が使えない。置いて行くべきではない。

 蜃は椒図の腕を掴み、睚眦の前に視界を遮る壁を作った。これは実体ではない。触れればすぐに幻だとわかる。

 睚眦の脇を擦り抜け通路に飛び出す。心臓が跳ね上がるが、睚眦に接近しなければならない一瞬が過ぎればこっちのものだ。このまま侵入してきた横穴から出れば自由になれる。

「そうか、蜃は烙印の意味を知らないんだな」

 椒図は腕を振り解き、柵の向こうへ蜃を突き飛ばした。

「!?」

 突然のことに杖を構えられず、蜃は真っ逆様に暗い穴へ落ちた。

 力が弱くなったと言っても底に着くまでには体勢を立て直せるだろう。

 椒図は睚眦に向き直り、自らの足で自分の檻へ向かった。

「おい」

 当然呼び止められる。罪人が檻から出ているのだ、理由を訊くのは当然だ。

「一緒にいたのは誰だ?」

「誰かいたか? 暗いし蔦の影と見間違えたのでは?」

「貴様は何故、檻の外にいる?」

「ここも古いからな、老朽化してるんじゃないか?」

「狴犴に拷問許可を取って来る。貴様は檻の中で震えてろ」

 楽しそうににまりと笑い、睚眦は椒図を檻へ押し込んだ。

 すぐに手を出さなかったことは褒められることなのだろうが、拷問とは久し振りだ。地下牢に入った時のことを思い出す。あの時の拷問では何も吐いた覚えはないが、何度拷問されても何も言うつもりはない。蜃と共に神隠しを行ったことはもう知られているが、化生していても蜃のことを話すつもりはない。そして睚眦は何かを吐かせるために拷問するわけではない。ただ賤しめて痛め付けたいだけだ。

(今になって騒々しいのは、何処かで噛み合った歯車が回ってるのか――)



 地下牢の穴に落とされた蜃はすぐに見えなくなった椒図の心配をする前に、自由落下を止めなければならなかった。杖に乗って飛ぶことはできるが、それは飛んでいるように見えるだけで実は飛んでいるわけではない。蜃は飛べない。杖の下に無重力の空間を作って実体化させ、数秒で消えてしまう実体を繰返し作ることで浮かせているのだ。それにはかなりの集中力を要し長時間の連続使用もできないため、普段はあまり使う技ではない。

(集中……! 集中しないと死ぬ!)

 杖を握り、目を瞑って体の下にクッションを作るように柔らかい空間を作る。落下を止めるには少しでは足りない。化生後はあまり大きな物も作れないが、できるだけ大きい空間を数秒の間に繰り返す。

 入ってきた横穴を少し過ぎた所で漸く止まり、集中力の続く内に横穴に倒れ込んだ。

「はあ……はあ…………くっ……」

 落下で受けた空気の圧で傷が痛んで蹲るが、倒れている場合ではない。杖を突いて立ち、穴の上を見上げる。仄かな明かりは見えるが、それ以外は暗くて何も見えない。

 傷が疼き、集中力も削がれる。もうあの高さを飛んで行く体力がない。

 蜃は膝を突き、肩で息をした。横穴が地下牢と繋がっていたからと言って、会いに行くべきではなかったのだ。いや、長話をした所為だ。若しくは、こんな負傷した状態で彼を檻から出すべきではなかった。静かな地下牢の中で誰とも擦れ違わず、これなら連れ出せると楽観的に考えてしまった。睚眦に見つかったのだから確実に拷問をされるはずだ。拷問を受けさせるために椒図に会いに行ったわけではない。

 ただ、久し振りに会って話をして、それが楽しかったから、あの頃を思い出して遊びに連れ出すような感覚で衝動的に手を引いてしまった。

「俺の所為だ……」

 その場の勢いだけで決行するものではなかった。

「何であんなこと……」

 地面に視線を落とし項垂れることしかできず、唇を噛んだ。

 何をやっても上手くいかない。そんな自分に嫌気が差す。獏を殺すこともできず、椒図を助けることもできない。助ける所か状況を悪化させてしまった。まだ殴られた頬がじんじんと熱を帯びている。拳ではなかったが、思ったよりも強く殴っている。その痛みが、これが現実なのだと主張しているようだった。

「何が痛み分けだ……」

 眉を顰め、顔を上げる。上げた視界を埋め尽くすように黒い何かがいて、慌てて口を押さえ、叫びそうになった声を呑み込んだ。

「!?」

 痛む体に鞭打って跳び退き、蹌踉めいて膝を突いた。

「地霊……?」

 一匹の地霊が円らな瞳でじっと蜃を見詰めていた。土竜のような手足は一見厳ついが、性格は大人しいはずだ。見るのは初めてだったが、昔椒図から聞いたことがある。土竜のような体と兎のような長い耳、容姿の特徴から見ても地霊で間違いないはずだ。

「睚眦に連絡するのか……?」

 地霊は鼻をひくつかせ、ぺたぺたと蜃に向かって歩き出した。

「く、来るな!」

 杖を突き出し、体を突き飛ばす。地霊は転ぶことはなく、何という風もなく立っていた。それ所か蜃の杖を掴み、離さなかった。下級精霊にすら勝てないのかと杖を握る手が震えそうになる。


「螭さんの所へ行きましょう」


「……え?」

 姿は完全に動物であるそれは、流暢に人の言葉を話した。

「喋れる……のか? これ……」

「この杖で螭さんの所に行きましょう。私では判断に困る事態です」

「俺も今……判断に困ってるんだが……。何だこれ……」

 螭と言えば、確認もなく半殺しにして申し訳程度に治癒して顔面を壁に叩きつけてきた巫山戯た女だ。何故わざわざ会いに行かねばならないのかと顔を顰める。だがこの地霊の言うことに従わなかった場合、余計な誰かに報告しないとも限らない。螭に報告するのも充分余計と言えるが、今は下級精霊に抗えないほど体力を消耗している。

「螭の所に行って、どうするんだ?」

「処理するかどうか」

「俺を処理するってことか?」

「椒図さん、また逃がしました。逃がす時に、螭さんに訊けと言われました。今度の人は動けるようです」

「椒図が言ったのか……? だったら螭に会った方がいいのか……?」

『また』という言葉が気になったが、そういえば椒図に会った時に『最近は客が多い』と言っていた。『また』の相手なのかもしれない。

「……わかった。椒図が言ったんなら螭に会ってやる」

 本当にそれを椒図が言ったのか精査する余裕はなく、地霊の示す螭の居場所へ肩で息をしながら杖に力を籠めた。

 暗い地下牢と然程変わらない暗さの外へ場を移し、蜃は辺りを見渡した。箱が積まれたような石壁に蔦に埋もれた不揃いな街灯が打ち付けられており、酸漿提灯は見当たらない。石段からは離れた場所のようだ。

「ここはどの辺りだ?」

「科刑所の裏手になります。科刑所とは渡り廊下で繋がってますが、少し離れてます」

 地霊はぺたぺたと蔦を踏んで歩き、目前にあるドアを開けた。中には短い廊下が伸びており、玉暖簾の掛かったドアのない入口が幾つか見える。その内の光が漏れる部屋へ地霊が入って行く。息を殺して付いて行くと、そこには広い台所があった。暗い外とは違い、温かな明るい光に溢れている。今まで暗い中にいた蜃には眩し過ぎるほどだった。その中で割烹着を着た螭が鍋を煮込んでいた。

「螭さん」

 地霊はぺたぺたと螭へ歩み寄り、振り向いた彼女はすぐに蜃の存在に気付いて血相を変え、持っていた御玉を落とした。

「貴方にも改めてお詫びをと思っていたのですが、何処にいらっしゃるかわからなくて!」

「いや別にそれは……」

 面倒なので改めて詫びなどどうでも良いのだが、取り乱す螭から少し距離を取った。

「なんて心が広い方……。獏さんには菓子折を差し上げましたので、貴方にも何か買ってまいります」

「だから、それはもういい。菓子折を貰いにここに来たわけじゃない」

「……?」

 螭はきょとんとし、何か言いたそうな地霊に身を屈めた。耳を傾け報告に聞き入る。

 蜃は杖を支えに何とか弱味を見せないように立って待つ。部屋の中央にある机と椅子を一瞥し、心の中で首を振る。椅子に座れば弱っていることが丸わかりだ。

 報告が終わったのか地霊に何かを話し、地霊はぺたぺたと部屋を出て行った。

「椒図さんに会いに行ったのですね」

「…………」

「椒図さんは優しい方なので、逃がしてくれたのですね」

 足元の御玉を拾って洗い、蜃に向き直る。

 螭は罪人の食事を任されている炊事係だ。彼女に尋ねた所で知りたいことを聞けるとは思えない。それに狴犴と関わりのある彼女に罪人を牢から連れ出す方法なんて訊けるはずがない。だがそれでも彼女は椒図と関わりがある。優しい、と言うのは褒めていると思うのだが、褒めているのなら悪くは思っていないはずだ。

「今回は睚眦さんに見つかってしまったようですが……拷問は免れないでしょう」

「……拷問を止めさせることはできるか?」

「私にはそのような権限はありませんが……止めさせるには狴犴さんが止めるしかないと思います。私には場所も知らされておりませんし」

「罪人は地下牢からは出られないのか?」

 上手く話を誘導できたと思ったのだが、螭はじっと固まってしまった。地霊には椒図を連れ出そうとした所は見られていないと思うのだが、そもそも椒図が逃がしたと言っている時点で知っているのかもしれない。蜃は頭を回すことは苦手だ。何か話を逸らすようなことをと考えていると、先に螭が口を開いた。

「首輪を外して、烙印を封じれば出られるのではないでしょうか? 烙印は体に刻み込まれる物なので、消すことはできないそうです。なので封じなければ」

「ふ……封じるというのは……? そもそも烙印は罪人の証というだけじゃ……」

「烙印は首輪と連動して獣の力を制限したり、位置を把握したりする物ですよ」

「は……? 位置を把握……!?」

 椒図が一緒に来なかった理由がわかった。一緒に逃げても居場所がすぐにわかり、蜃まで捕まってしまう。それを避けるために一人で逃がしたのだと気付き、蜃は拳を握った。

 罪人には烙印が捺される。それは罪人以外にも周知の事実だが、それ以上を知るのは罪人と関係者だけだ。罪人は地下牢から出されることはない。つまり外に烙印の機能が漏れることもない。

「椒図さんに逃がされたなら、獏さんの所へ行くのが良いかと思うのですが、貴方と揉めてらっしゃるんですよね? 獏さんなら烙印にも詳しいと思いますが……」

「獏に頼るなんて死んでも嫌だ……何で椒図に逃がされたら獏の所なんだよ」

「以前逃がされた方が獏さんの所へ行ったからです。そう指示されたのかもしれません」

「今の椒図と獏は知り合いじゃないはずだが……何でだ?」

「それは私にはわかりませんが……」

 蜃はあの街で獏を観察していた。虎視眈々と殺す絶好の機会を窺っていた。常に張り付いて見ていたわけではなく宵街に潜伏することもあったが、こんなことなら宵街に行かずに四六時中獏を見ておけば良かった。……それはそれで気が狂いそうだ。

「……少し考える」

 このまますぐに行動を移してしまうとまた何か失敗しそうだ。もう少し傷を癒して、落ち着いた方が良い。そうしている間に椒図は拷問にかけられてしまうだろうが、拷問が何処で行われるかもわからない。科刑所の中だとは思うが、そこには狴犴もいる。力が弱くなった蜃では複数の獣を相手取ることはできないだろう。無駄死には意味を成さない。

 熟考した末に踵を返し玉暖簾を潜ろうとすると、螭が呼び止めた。足を掴まれなかったことは幸いだが、つい構えてしまう。

「獏さんも優しい方なので、きっと仲直りできます」

 何も知らない者だけが言える言葉だった。その言葉が通用したのは化生するより前だろう。

「あいつは俺を許さない。俺も獏を許す気はない」

 蜃が獏を殺し、毒芹は蜃を殺した。蜃は毒芹を二度も殺した。これで許されるなら頭が可笑しい。

 今度は呼び止められず、蜃は暗い外へ出た。また暫く体を休めるしかない。

 どうやら蜃は行方を探されてはいないようだが、油断はせずに蔦を分けて科刑所から離れる。飛ぶ体力もなく杖で体を支えながら、悔しさで揺れる瞳を伏せた。


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