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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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45/124

45-謝罪


 静かな誰もいない街の中、静けさを取り戻した店には痛々しい爪痕が残ったままで、黒い空が天井から見下ろしていた。

 店にあった古い小瓶に挿した枯れた花がベッド脇の机上で、眠る獏の方を見ている。

 目が覚めたと思ったのに、獏はまた意識を失ってしまった。

 動物面の下で目を閉じる獏を見下ろすことしかできない灰色海月はもどかしく思いながら、ふと階下で聞こえた物音にびくりと肩が跳ねた。

「……?」

 また誰か良からぬ者が来たのかと不安と緊張が走る。静かに寝させることもできないのかと恐る恐るドアを開け、階下の様子を窺った。何かがぶつかるような鈍い音がした。

 不審に思いつつ階下に現れた青い頭を見て、どれほど安心したかわからない。

「アサギさん……!」

 切望するような声に浅葱斑はきょとんとし、そんなに帰りを待ち侘びられていたのかと少し気恥ずかしくなった。

「帰りを待つ人がいるっていうのは、いいものだな」

「良かった……アサギさんで……」

 階段の上で力が抜けたように座り込むので、少し噛み合わない気がして浅葱斑は首を傾げる。腕に抱えて持ち帰ってきた黒葉菫はまだ意識が無く重くて、壁にぶつけながら階段を一歩一歩踏み締めて登った。

「何かありました? スミレなら、生きてはいるけど意識はいつ戻るかわからないって感じです。治療はできたから、連れて帰ってきた」

「見てもらった方が早いかもしれません……」

「?」

 灰色海月が開けたドアは彼女の部屋の方だった。浅葱斑は自分より大きな黒葉菫をもたもたと運び、ベッドに置いて肩で息をする。我ながらよく階段から持ち運んだと思う。

「獏もまだ目を覚ましてないのか?」

「一度は目を覚ましましたが、今はまた……」

 灰色海月が部屋を出るので、浅葱斑も付いて行く。開かれた獏の部屋の中を覗き、浅葱斑は絶句した。『見てもらった方が』の意味がわかった。

「え……えぇ……?」

 屋根を突き抜け空まで見える天井と、大穴が空く寸前のような割れた床が飛び込んできた。少し店から離れていた間に一体何があったのかと、目を伏せる灰色海月を見る。こんな惨状の中でベッドに静かに眠る獏が異常に見える。

「まさか……苧環がやった……とか?」

「マキさんは宵街に戻ってしまいました」

「え!?」

「天井を破ったのは螭ですが、蜃が……獏を庇ってセリさんが……」

「ちょ、ちょっと!? 最初から説明してほしいな……何が何やらで……」

 白花苧環が気を失った獏を連れ戻ってからの経緯を、順を追い訥々と灰色海月は話した。黒葉菫が襲われたことに甚だしく傷付いた白花苧環が宵街に戻ってしまったこと、獏の意識が無い隙を狙われて蜃が襲ってきたこと、それを毒芹が庇ったこと、螭が来て暴れたことを伝えた。

 浅葱斑は開いた口が塞がらずぽかんと話を聞いていた。硬直しながらも机に枯れた毒芹の花と蒲公英の花が置かれていることに気付き、あの悪夢はもういないのだと漠然と認めた。

「炎色の髪……蜃の狙いは結局、獏だったってこと……? 獏を殺すには強い苧環は邪魔だから、それで怪我してる時に襲ったってことなのかな……」

「わかりません……。私はどうしたらいいのか、わかりません……」

 突然のことに浅葱斑も困惑するが、それ以上にその場にいた灰色海月は混乱しているようだ。灰色海月はまだ若いのだ、感情もよくわからず整理には時間が掛かるだろう。

「クラゲは獏が目覚めるのを待って、少し落ち着いた方がいいな。いつも通りは難しいかもしれないけど、御菓子でも作りながら待てばいいと思う」

「そうですか……」

「ボクも世界を旅して色んな人に会ったけど、落ち着くって大事だと思う。焦ってたら視野が狭まるし……ボクが言う台詞じゃない気はするけど。苧環とスミレを連れて行った病院もボクが旅の途中で出会った医者がいる病院なんだけど、獏が目覚めないならそこに連れて行って診てもらうことはできるよ」

「……はい」

「そんなに思い詰めると良くないぞ。話を聞く限りだと蜃って人もすぐに戻って来るような怪我じゃないみたいだし、暫く大丈夫だって――」

 ここは年長の自分が励ましてやらなければと灰色の肩をぽんぽんと叩きながら、天井から誰かが覗いているのが視界に入り浅葱斑は固まった。

「あわわわ……」

 落ち着けと言った直後に焦りながら後退し、天井を見上げた。灰色海月も怪訝に視線を追い、天井を見上げて声を呑み込んだ。

 天井から覗くヴェールを被った角頭がそろそろと揺れ、紙袋を掴んで杖に乗りゆっくりと降りてきた。割れた床を破らないようにそっと降り立ったのは螭だった。

「警戒させてしまって申し訳ないです……。やはり改めて謝罪をと思いまして、菓子折をお持ちしました」

 彼女と面識のない浅葱斑は灰色海月の服を引き、小声で尋ねた。

「クラゲ、この人は……?」

「螭です」

「これがあの天井の……。謝りに来たってことは、敵意はないと思っていいのか?」

「獏には攻撃しなかったので、敵意はないかもしれません」

 二人は天井の穴をもう一度見上げ、螭に視線を戻した。

「謝罪に来ましたが、獏さんがお休みになられているので、また出直した方がいいでしょうか……」

「獏は睡眠ではなく、気絶だと思います」

「まあ……! 確かによく見るとお面の下に見える顔色が悪いようですね。お詫びと言ってはなんですが、少し診てもいいですか? 少しなら癒せますので」

 天井に穴を開けた者を近付けさせて良いのか迷ったが、獏をこのままにしていても灰色海月には何もできない。螭に癒せる力があるのは、蜃に対して使っていた力を見て知っている。蜃の状態から察して本当に些細な程度の治癒能力だと思うが、何もしないよりは良いと考え頷いた。

 許可を貰った螭は杖を構えてくるりと回し、ふわりと水のリボンを伸ばしてヴェールのように広げた。

「完全回復はできませんが、目を覚まさせる程度ならできるはずです。お疲れならまた眠るかもしれませんが」

「それはつまり叩き起こすということですか?」

「叩くなんてしません! 引っ張り起こすようなものです」

 それはあまり変わらないのではと思ったが、叩いて少しだけでも目覚めるのなら、少しでも安心したかった。

 薄い水のヴェールに覆われた獏を、オーブンに入れた菓子が焼けるのを待つようにじっと見詰めていると、やがて水のヴェールが揺らいで薄らと双眸が開いた。面を被っているためそれは見えないが、ぴくりと動いたことで意識が戻ったとわかった。

 螭が杖を引いてリボンを戻すと、灰色海月は身を乗り出すようにベッドに駆け寄った。

「大丈夫ですか……?」

 その声はか細く、酷く震えていた。獏はぼんやりと声が降ってきた方を見上げ、口元が優しく微笑む。

「大丈夫だから、そんな哀しい顔しないで、クラゲさん」

「何でそんなに……そんなに、疲れたんですか……?」

「…………」

 黙ってしまった獏を話す体力がないと誤解し、螭が代わりに口を開く。

「生命力が弱くなっています。すぐに回復させるには他者が生命力を注ぐ必要がありますが、放っておいても体を休めておけば徐々に回復します。時間は掛かりますが」

「螭……? いたんだ……」

「目を覚まさせてくれたんです」

 どうやら世話になったらしいと、獏は複雑な気持ちで目を逸らした。手を突きながらゆっくりと起き上がり、灰色海月もそれを支える。灰色海月の後ろから心配そうな浅葱斑が見え、彼がここにいるということは黒葉菫の治療が終わったのだろうと察する。

 顔を向けられた浅葱斑はあわあわと不安そうに、恐る恐る尋ねた。

「も、もしかして、スミレに生命力を……? そんな風になるまで?」

「……あんまり皆の前で言うことじゃ……」

「スミレは生きてるので、泣いて喜ぶと思います! まだ目は覚めないけど」

「泣くのは想像できないね」

 興奮する浅葱斑に苦笑する後ろで、螭は持っていた紙袋を落とした。

「あ、あの……スミレというのはもしかして、黒葉菫のことですか……?」

 螭が奇襲を掛けた時、黒葉菫の名前を出して憤慨していたことを獏と灰色海月は思い出す。

「ここにいるんですか!? 目が覚めないなら……一目会わせていただきたいです……」

「スミレさんと知り合いなの?」

「知り合い……と言いますか、スミレ君に人の姿を与えたのは私です」

「!」

「でもこのことは言わないでください。そこまで情を移す気はありませんので」

 真っ直ぐ目を見て懇願する螭を見詰め返し、獏はベッドから足を下ろした。

「スミレさんは向こうの部屋にいる?」

 獏の問いに浅葱斑は神妙に頷く。

「螭、こっち」

 獣には獣の事情がある。人の姿を与えたことを隠したいこともあるだろう。馴れ合いを好まない獣だっている。それをとやかく言うつもりはない。落とした紙袋を拾って獏を追う彼女は、決して黒葉菫を嫌っているから言わないのではなかった。

 ベッドで眠る黒葉菫の姿を捉えるや否や螭は駆け寄り、床に膝を落とした。

「ああ……この目で見るまではとても信じられませんでしたが……本当にこんな……」

 信じられなかったのに何の確認もなく屋根から襲ったらしいが、ここで口を挟む空気ではなかった。

「宵街で何があったか、螭は知ってるの? スミレさんがこの街に来て僕が見つけた時にはもうかなり不味い状態だった」

「まずは御礼ですね。スミレ君を助けていただいて、ありがとうございます」

 螭は獏に向き直り、床に指先を付けて頭を下げた。顔は伏せたままで頭を上げ、宵街で受けた報告を語る。

「これは罪人さんの食事の配膳を頼んでいる地霊から受けた報告です。白い変転人さんがスミレ君の死体の処理を頼んだそうです。ですがそれを逃がした罪人さんがいます。そのことを黙っていろと言われ、地霊は私に判断を仰いだようです」

「その罪人って、まさか椒図……?」

「御存知なんですか?」

「椒図の所に行くよう頼んだから……」

 気不味い空気が流れる。そんなことを頼まなければ、こうはならなかった。知り合いの『死体』の処理なんて頼まれれば、取り乱してしまうのは当然だ。

「……そうでしたか」

「椒図はどんな人なの?」

 以前は何も話さなかったが、このような状況になっては黙っているわけにもいかない。螭は一拍置いて話してくれた。

「……罪人さんにこう言うのは変かもしれませんが、良い方ですよ。私が食事の配膳を行っていた時があるんですが、私の作った食事を美味しいと言ってくださったのは椒図さんだけでした。罪人さんにしては追い詰められてないと言いますか、余裕のある雰囲気で地下牢に順応している変な方なのですが」

 二回も変だと言うのだからかなり変なのだろう。

「罪人さんが釈放されたことはないので、皆さん気力を失ったり自害して化生してしまう方が多いんです」

 化生はその死体のある場所で起こるものではないので、必然的に牢から出ることができる。記憶は引き継がれないが、牢の中で生きるより命を切ることを選ぶようだ。

「彼が美味しいと言ってくださったので、私も美味しい食事を作ろうと今までやってきました。その御陰か、私のことを知らないスミレ君が私に料理を教わりに来たことがあります」

「螭とスミレさんはちゃんと面識があるんだね」

「はい。椒図さんがスミレ君を逃がしてくれたことには、少し縁も感じました。彼にも改めて感謝を伝えに行くつもりです」

 ゆっくりと腰を上げ、黒葉菫の顔に掛かる髪を指で払って慈しむように見下ろす。

「機会を見て、スミレ君が生きていることを伝えなければなりません」

 無事を確認して安心した彼女は、持っていた紙袋を獏に差し出した。

「お詫びと感謝の気持ちです。お好きな物がわからなかったのですが、水羊羹です」

「変な物じゃなければ食べるよ」

 袋を受け取り微笑む。頭がまだぼんやりと不鮮明で微笑むことも疲れてきたが、あまり弱味は見せたくない。

「それでは、あまり長居をしても御迷惑ですのでお暇します」

「最後に一つ、いいかな?」

 部屋を出ようとした螭を呼び止めると、彼女は怪訝に振り向く。

「はい。何でしょうか?」

「蜃についてなんだけど」

「……」

「君が半殺しにした奴が蜃らしいけど、君はわかってて半殺しにしたの?」

「! あ……あの方がそうなんですか……?」

「……うん。知らなかったみたいだね」

 獏が疲れたように目を伏せるので、螭は申し訳なさそうに小首を傾げながらも杖を手に部屋を出た。

「僕も部屋に戻る。クラゲさんは螭がちゃんと帰るか見送ってきて」

「はい。わかりました」

 灰色海月は螭を追って部屋を出る。帰りは天井の穴ではなく、彼女はきちんと階段を下りていた。

「あら、お見送りありがとうございます」

 螭はにこりと笑い、頭を下げる灰色海月を微笑ましそうに見た。

 棚に囲まれた店から出ると、螭はもう一度振り返る。その表情には今度は陰りがあった。

「獏さんはとても優しい方ですね。生命力を分け与えるのは命を削る行為です。あまり多く分け与えてしまうと、活動に支障が出てしまいます。……今の獏さんのように」

 ぽつりと独り言のように紡がれる言葉に、灰色海月は眉を寄せた。

「……寿命を削ってるんですか……?」

「寿命とは少し違いますね。寿命は先の話ですが、生命力は今の瞬間です。寿命を与えられる獣はあまりいないと思いますが、生命力を分ける行為は多かれ少なかれ皆できるはずです。変転人を作るには、少しの生命力を変換するのです。人の体を作るためにその力は使い果たされるので体内に残ることはありません。活動に支障のないほんの少しとは言え貴方方変転人は、獣が命を削って作られたものなのです」

「…………」

「大事にしてくださいね」

 螭はそれだけ言うと、舞うようにくるりと杖を回した。瞬きを開く頃にはその姿は何処にもなく、元の霧が掛かっているだけの街があった。

 死んだ者を生き返らせるには寿命を分けるのだと以前獏から聞かされた。それはしないと獏は言っていた。生命力を分け与えることを厭わないのは、変転人を作るために皆がやっているからなのだろうか。死にそうな人間の命を繋ぎ止めるためには多くの生命力を注がねばならず、もしかしたら白花苧環を助けるために消費した力もまだ回復していないのかもしれない。畳み掛けるように負傷者が出て、獏の体はもう限界なのだ。灰色海月が負傷すれば、同じように生命力を与えただろう。蜃と対峙した時、大きな傷を負わなくて本当に良かった。何が正解だったのかわからないが、これ以上悪くならないように祈るしかない。

 店の中へ戻り、足早に獏の部屋へ戻る。獏はベッドの上で横になり、ドアの音を捉え灰色海月に動物面を向けた。

「おかえりクラゲさん。御苦労様。貰った水羊羹はアサギさんとマキさんと食べていいからね。僕はもう少し休むから」

 並べられた名前に、灰色海月は苦しくなった。獏の意識が無い頃に白花苧環は行ってしまった。それをまだ知らないのだ。

「マキさんは……宵街に戻りました」

「え……?」

「スミレさんのことで、自分を責めて……」

「……そう」

 獏の部屋にも黒葉菫の所にも白い彼の姿がなかったので獏も気になってはいた。階下か店の外だろうと思っていたが、宵街に戻ったとは思いもしなかった。思えば彼は焦っているようだった。椒図に会うのは今すぐでなくとも良かったはずだ。もう少し話を聞いておくべきだった。罪人である獏には話すのは憚られるだろうが、悩みがあるなら言ってほしかった。一人で抱えて一人で決めて、相変わらず行動が早い。

「それなら螭に宵街の様子をもっと聞いておけば良かったな……」

 瞼が重く、折角目覚めたのにすぐにでも意識が落ちそうなほど眠い。思考を中断する。

「……次はいつ目を覚ましますか?」

「そっか……また暫く寝ちゃうかもしれないか……。暫く善行を休んだら怪しまれるかな」

「そうではないです」

 眠そうに目を閉じようとしていた獏は、少し強めに言った灰色海月に向けてもう一度目を開けた。

「……怒ってる?」

「怒ってないです……。ただ、自分の体も顧みずほいほいと命を削る愚者だとは思ってます」

「似たようなものじゃないかな」

「もっと自分の体を大事にしてください!」

「やっぱり怒ってるよねぇ……」

 何が可笑しいのか獏は笑った。

「いつの間にか力が強くなったけど、生命力は比例して増えるわけじゃないんだねぇ」

「……馬鹿なんですか?」

「急に真顔になったね」

「自分の力も理解せずにほいほい命を削ってたんですか?」

「耳が痛い」

「馬鹿ですか?」

「後悔はしてないよ。ああしないとスミレさんは死んでたし。助けてあげたいと思うのは、悪いことじゃないと思う。これからは加減しないととは思ってるけど、見殺しにするのを我慢できるかの問題……かな」

「…………」

「怒る気持ちはわかるよ。でも命を粗末にしてるわけじゃないし」

 それを螭は『優しい』と言った。近くにいればいるほど、それは迷惑な話だ。だが優しい獏は、嫌いではない。だからこんなにも言葉に詰まってしまうのだろう。

「……わかりました。由宇(ゆう)さんに滋養のある物を訊いてきます。なので……またすぐに目を覚ましてください」

「うん……善処するよ。……あ、もしスミレさんが先に目覚めても、生命力を分けたことは内緒にしてね。スミレさんの生命力が凄かったってことにしておいて」

「……はい。もしそれでスミレさんが調子に乗ったら、スミレさんを砂糖漬けの刑にします」

「どういうこと?」

 いつもの調子に戻ったのだろうかと、獏は苦笑して目を閉じた。数時間で目覚めることはなさそうな疲労感だが、数日程度なら許されるだろうか。



 獏が眠って暫くした後、明かりの灯る古物店のドアをそっと開ける者がいた。黒い小柄な少女は棚の間から奥を見通し、椅子に誰もいないことに小首を傾げた。

 とんと跳ぶように机の前まで行き、身を乗り出して台所を覗く。ここにも誰もいない。

 ならば上だろうと二階へ上がり、迷った末に獏の部屋の方のドアを開けた。天井に大きな穴が開き、青い髪の見知らぬ少年が退屈そうにベッドの前に座っていた。黒い少女はそっとドアを閉めた。

「だ……誰だ?」

 すぐに中からドアが開けられ、少女は焦って背後のドアに背をぶつけた。

「変転人……だよな? 何の用?」

「……悪い人?」

「あ、あー……あの天井はボクがやったんじゃないから。もしかして修理に来た人?」

「…………」

「どうしよ……クラゲは留守だし、ボクが対応しないとだよな。修理なら、寝てる獏は邪魔か?」

 少女は慌てて首を振った。修理を頼まれた覚えはない。

「獏はまだ寝てる……?」

「見ての通りだけど、獏に用があるのか? 暫く目を覚まさないと思うけど、君の名前は? 伝言ならできる」

「……黒色海栗。そっちは?」

「あ、あー……名前か。どうしよ……。君は獏とどんな関係なんだ?」

 すぐに名前を教える気がないらしい。警戒されているようだ。

「そっちも怪しい。獏を虐めたら駄目」

「虐めないよ。もし虐めたら絶対返り討ちになるし」

「私は獏と一緒に善行した。そういう関係」

「クラゲと同じ監視役ってこと? 何で今まで留守にしてたんだ?」

「監視役じゃない。スミレが監視役代理で、私は付き添い」

「スミレのことも知ってるのか……。敵だと疾っくにボクを吹っ飛ばして獏の前に行ってそうだし、敵じゃない……? そういえばウニがどうのって言ってたな」

「何で敵? そっちの方が怪しい」

「ボクは怪しくないよ」

 このままでは埒が明かない。互いに警戒するが、もし危害を加えに来たなら確かに疾っくに襲い掛かっている。

「獏と話したいのに……」

「そう言われても、寝てるしな……」

「苧環が大変なのに……」

 俯いた黒色海栗がぽつりと漏らしてしまった言葉で、少年は思わず小さな肩を掴んでしまった。

「苧環がどうなったか知ってるのか!?」

「!」

 驚いた黒色海栗は咄嗟に少年の腹を思い切り殴った。

「――ぐふっ」

 腹を押さえて蹲った少年を見下ろし、黒色海栗は背にあった灰色海月の部屋へ逃げ込んだ。そこでベッドに眠っている黒葉菫の姿を見つけ、息を呑んだ。

「スミレ!」

 慌ててベッドに駆け寄るが、黒葉菫は目を覚ます気配がなかった。白花苧環が言っていた。黒葉菫は生きているかわからないと。

 腹を押さえながら立ち上がった少年は、小柄な少女から予想外の一撃を食らって動揺しつつも彼女を追った。あまり近付かないようにしようと誓いながら。

「……君はたぶん、ボク達が知りたいことを知ってる気がする。苧環がどうなったのか、ボク達は知りたいんだ」

「苧環からスミレのこと聞いた。スミレは死んだ……?」

 泣きそうな顔をする黒色海栗の表情は演技とは思えず、敵には見えなかった。

「生きてるよ。獏が助けた。今はまだ眠ってるけど、しっかり眠ったら目を覚ますよ」

「…………」

「……えっと」

「…………」

「もしかして名前か……。ボクは浅葱斑だ。苧環を助けた恩人、救世主と言ってもいい」

「…………」

「そんな胡散臭そうな顔しないで。救世主は言い過ぎた」

 白花苧環を助けたのなら、敵ではないのだろう。どういう経緯かはわからないが、灰色海月は留守で獏も黒葉菫も眠っている今、判断できるのは自分しかいない。

「苧環が、ここに避難しろって言った」

「宵街で会ったってことだよな? 苧環は捕まってないってことか?」

「烙印みたいな首輪が付いてた。最後の自由で、後で監禁されるって……」

「え……罪人でもないのに首輪……? 烙印? 監禁ってまさか地下牢じゃないよな?」

「科刑所の中って言ってた……。苧環は傘が使えなくなった。武器も出せない」

「いやそれ……殆ど罪人の扱いだろ!」

「!」

 大声を出され、黒色海栗は驚いて布団を掴んだ。

「あ……ごめん……」

「本当は獏に言うつもりだった」

「そうか……でも獏が起きても、それはまだ言わないでくれ」

「?」

「獏はたぶん、かなり弱ってる。まだ体を動かすべきじゃないと思う。それを知ったら何かしようとするかもしれない。まず獏が冷静かどうか見極めないと」

「苧環はナイフ一本で抵抗するって言ってた。どう思う?」

「抵抗できそうって思うから怖いな」

「獣でも?」

「うーん……獣相手は厳しいか……」

「苧環、助けたい」

「それこそ獣に来てもらわないと、変転人だけじゃ歯が立たない」

「…………」

 黒色海栗は俯き、固く目を閉ざす黒葉菫を見詰めた。困った時にいつも助けてくれた彼に今は頼ることができない。獏も同じだ。ここは温かくて、菓子を突いて過ごしているのがとても気に入っていたのに、それが今は叶わない。どうしてこんなことになってしまったのだろうかと、黒色海栗は床に蹲った。

「大丈夫……? クラゲはすぐ戻って来ると思うから、お茶でも淹れてもらお」

「…………」

その場から動きそうになかったので、浅葱斑は一旦部屋を出た。天井の風通しが良くなった部屋に眠る獏を一人きりで放置しておくわけにもいかない。

 紅茶の淹れ方もわからないので、茶を出すこともできない。今自分にできることは、見守ることだけだ。

 再び椅子に座り、浅葱斑は退屈そうに頬杖を突いた。


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