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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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43/124

43-地下牢


 本来ならば罪人に従う義理も義務もないのだろう。

 生成した他人の銃を使えるからという理由でもなく、ただ単純に力になれればと思った。

 変転人とは、獣の都合で人の姿を与えられ使われるだけの存在だ。誰が自分に人の姿を与えたのかは知らないが、ただ動く体を与えられ放り出されただけだ。人間の体は何処へでも行けて便利で、それは良いことだ。黒は基本的には獣に歓迎される。悪さをする獣は多いため、それに何も言わない黒は都合が良い。汚れ仕事も幾つも熟した。それが変転人となった自分の遣るべきことなのだと、流されるように呑み込んだ。

 それとは相反する存在として白を知ったのは、変転人となって暫くした頃だった。暗闇の中でもぼんやりと目立つそれは罪悪を嫌い、黒と同じく汚れ仕事も熟していた。遣っていることは同じに見えたが、黒は獣の理想の通りに、白は獣が作った潔白な理由のために動いた。勿論、正当な正義の理由で動くこともある。片耳は塞いでいるが。

 獣の理想のために動くのが黒であり、それに疑問を持たないのが変転人である。

 なのにあの獣は、理想を押し付けなかった。加えられた危害にはそっくりと遣り返すが、気遣いには安心することが多い。鵺も気に懸けてはくれるが、彼女は忙しいためゆっくりと話す機会はない。あの暇を持て余した罪人の獣は、命令をしない。

 気分が乗らないのは確かにその通りで今でもそれは変わらないが、地下牢には行ったことがある。黒色海栗が宵街に来て間もない頃、何も話さない彼女と交流を図るために地下牢の炊事係だという(みずち)に料理を教わりに行ったことがある。厳密にはそこは地下牢から少し離れているが、その時に地下牢の話も少し聞いた。暴れそうな罪人は最初から睚眦に拷問にかけられているので、配膳に行ってもすぐに空の食器を出すほど大人しいらしい。それならば危険なことはないのだろうと思う。

 誰もいない街は罪人の牢屋だが、あの獏のいる店は居心地が良かった。たったそれだけのことだが、それに感謝をする意味で、椒図(しょうず)に会おうと思った。あの街の端のことが知りたい気持ちは、獏と同じようにある。居心地が良い場所の不安な要素を、できれば取り除きたいとも思う。近付くだけで気分が悪くなるような物を、そこへ放り込んだ鵺も知らないのは不安でしかなかった。

 黒葉菫は科刑所の地下にある重く閉ざされた扉を開け、地下牢へと足を踏み入れた。狴犴(へいかん)に会うのは憚られるため立ち入りの許可は取っていないが、見張りもいない。地下牢に入れてしまえばまるで興味などないように、罪人は放置されているかのようだった。明かりは疎らに灯っているが、窓は無く薄暗い。

 螺旋状に下へ伸びる牢を、柵に手を掛けて見下ろした。まるで竪穴の洞窟のようだ。中央は吹き抜けになっていて、落ちたら只では済まない。底は暗く地面が見えない。

 地下牢へ入る道は幾つかある。元々は変換石などの採掘をしていた場所を、地下牢として使っているらしい。あちこち掘削され蟻の巣のように横にも伸びている。その所為で小さな入口が何ヵ所かあるらしい――と噂を聞いた。

 空き牢が多く、誰もいない牢の前を歩いて行く。横道にある牢に罪人が収監されている所には、迷わないように明かりが置かれていた。

 木の根や蔦を跨ぎ、横道を覗く。物音一つせず、しんとしている。

 人影のある檻を覗いてもそれはぴくりとも動かず、生きているのか死んでいるのかもわからない。檻の隅に空の食器が置かれているので、おそらく生きているのだろう……。

(椒図の特徴でも聞いておけば良かったかもしれない……誰が椒図かわからない……)

 大声で呼び掛けるわけにもいかず途方に暮れる。明かりの灯る横道に入り、これでは探す所ではないと足を止めた。思わず溜息が漏れてしまう。


「……珍しい客がいる」


 暗がりの中でゆっくりと体を起こす影があった。突然声を掛けられ体が硬直した。距離を取ろうと、誰もいない向かいの檻へ背中を押し付ける。

 差し込む僅かな明かりで光る瞳が黒葉菫を見ていた。こんな暗く湿っぽい陰鬱な牢の中にいるのに、緑の長い髪が丁寧に編まれている青年だった。

「…………」

「変転人か。何か用か?」

 青年は怪訝そうに奥から這い、格子に手が届くほど近付いて座った。襤褸を着せられ、首には冷たい首輪が嵌められている。裸の足は固められた土の地面の上で汚れていた。丁寧に編まれた髪が似付かわしくない。

「食事の時間には少し早いな」

 何も言わない黒葉菫を待つように、青年は見上げたまま動かなくなった。

 折角会話の機会を与えられたのだから何か言わなければと黒葉菫は第一声を考えるが、言葉が纏まらなかった。同じ地下牢の中にいるのだから名前くらいは聞いたことがあるだろう。どう尋ねるべきか思考を巡らせる。

「し……椒図……」

 だが結局出て来た言葉は、纏まりきらずに零れた目的の名前だった。ぽつりと漏れた名前に、青年も目を丸くする。誰だそれはとでも言われるのだろうと唾を呑むが、青年は小首を傾げながら予想外のことを口にした。

「何処かで会ったことがあったか?」

「まさか……椒図……?」

「なんだ、知ってて言ったんじゃないのか。誰かの使いか? 僕が椒図だが」

「本当に……?」

「証拠を出せと言うなら、何を証拠とすればいいのかわからないが。生憎、力は使えないからな」

 会ったこともないこの青年が偽りを言う利点は思い付かない。嘘を言っているようにも見えなかった。……獣と腹の探り合いなんてできる気がしないが。

「……少し話がしたいです」

 話をしてみて、違和感を覚えたら引き上げれば良い。そう思って会話を試みることにした。椒図は嫌な顔はしなかった。

「ここにいると退屈で死にそうだ。でも居心地は悪くない。こうして客が来て話をしたいなんて、久し振りだ」

 地下牢の居心地を悪くないと言うのは妙だと思ったが、他の横たわる罪人と違い彼は髪を綺麗に整えている。この地下牢の中にいても絶望せずに生きているのなら、彼にとっては悪いだけではないのだろう。会話に好意的でもある。これは好都合だ。だがあまり時間は掛けられない。単刀直入に尋ねる。

(しん)について聞きたいです」

「……蜃? 懐かしいな。あいつは元気にしてるのか?」

「知らないので、訊いてます」

「ああそうか。この牢に入ってからは蜃とは一度も会ってないが、あいつもこの地下牢に入れられたか?」

「地下牢に入れられる前に死んだと聞きました」

「! 死んだ……? 死刑か?」

「それはわからないです」

「……その話を聞きに来たのか?」

「…………」

 何を訊けば良いのか、黒葉菫はもう一度考える。訊けば何でも答えてくれるのか、聞き方によっては逸らかされてしまうのか。獏には罪を訊けとは言われていない。ならばそこは掘り下げる必要はない。無人の檻から背を離し、何かあればすぐに逃げられるように来た道を背に立つ。

「蜃が創った街について聞きたいです。知ってますか?」

「ああ、あれか」

 知っているなら話は早い。収穫がありそうだ。

「あの街の端は何なんですか?」

「端? 端か……。あれは蜃が一人で創り、僕はそこには関与してない。街に入ったことはあるが、構造は理解してない。僕はあれを閉じただけだ」

 何かわかると思ったのに、結局何も知らないらしい。これでは無駄足だ。

「その話をするということは、あの街はまだあるんだな。……蜃が死んでも消えない物なんだな。実体だからか? あれを処理したいから聞きに来た……というわけでもなさそうか」

 考えるように首を傾ぐ。あれが今どういう使われ方をしているのか椒図は当然知らない。

「あの街は何のために創ったんですか?」

「やっぱりそれを聞きに来たのか? 隠す必要もないのか……あれが僕達の罪だ。あれで盛大に神隠しをやらかした」

「神隠し……?」

「お前、誰の使いだ?」

「!」

「只の変転人が、社会見学だとしてもこんな所には来ないだろ? だったら獣の使いだ。だが名前は知ってるのに神隠しのことは知らない。何故名前だけでここに来た?」

「…………」

 一気に緊張の種類が変わった。癪に障ってしまったかもしれない。それでも、椒図は檻の中だ。力は使えない。檻の中から手を伸ばしたとしても黒葉菫には届かない。危害を加えられることはないはずだ。

「仲が……良かったんですか?」

「?」

「蜃と……獏と」

 名前を出すのは躊躇われたが、過去のことを話すくらいなら大丈夫だろう。余程勘が鋭くない限りは。

「獏か。獏も懐かしいな」

 椒図は過去を懐かしむようにふっと微笑んだ。それは愁いを帯び、少し淋しそうに見えた。

「獏はまだ小さいか?」

「いえ、小さくは……」

 言ってしまってからハッと口を噤んだ。それを否定することは、今の獏を知っていることになる。

「そうか獏と知り合いなのか。あの頃は鞠遊びが好きだったが、時代が移り変わってるからな。別の遊びに興じてるか?」

 獏は椒図を知らない。ならば椒図の言う獏とは、化生前の先代の獏だ。ずっと牢の中にいては外の様子もわからず、化生したことも知らない。蜃が死んだことも知らなかったのだ、獏のことも知らないだろう。仲が良かったと言うなら、知らないのはとても淋しいことだ。

「獏は……化生してます」

 椒図は少しだけ目を見開き、顔を伏せた。それは初めて明確に見せた感情だった。呆然とするような、喪失感が見えた。

「獏も死んだのか。……淋しいな。あの子は、元気に遊んでいてほしかった」

 沈んだ静かな声色は、獏のことを悪く思っているようには聞こえなかった。本当に悲しんでいるように見える。

「罪人を科すごっこ遊びは所詮人間の猿真似だ。宵街でやるには破綻している。大人しく牢に入るのは間違いだったのか」

「…………」

「……ああ、つい感傷的になってしまったな。つまり蜃か獏の使いか? 化生してると記憶はないはずだが、獏の使いならもっと話してやってもいい」

 これは誘いか。獏の使いだと言ってしまったとしても、椒図はここから出ることはない。直接危害が及ぶことはないはずだ。それに獏からも、名前を使うなとは言われていない。名前を出すことで好意的に会話が進められるのなら、使うべきだろう。

「……獏の使いなら、貴方に何か良いことがあるんですか?」

「獏は愛らしい。もう一度仲良くなりたいと思うのが普通だろ?」

「不純じゃないですか……?」

「確かに、全く同じ姿で化生することはないかもしれないが、仲が良かった人がもういないのは淋しいだろ。獏の使いと言うなら、渡してほしい物もある」

「渡す物……? 危ない物は渡せませんが」

「百年以上も前の物だから食べると危ないかもしれないが、獏は金平糖をあげるととても喜んだ。昔の残りだから、もうこれだけしかないが」

 小さな袋を檻から差し出すので警戒すると、椒図はすぐに手渡しを諦め地面に置いた。力は制限されていても、獏は強い。それと同じように椒図も強いかもしれない。警戒するに越したことはない。黒葉菫は小袋を拾って中を確認する。本当に金平糖が数粒入っていた。

「お前の名前は? 獏の使いなら聞いておこう」

「……狴犴の弟なんですよね?」

 突然出て来た名前に椒図は目を瞬くが、すぐに理解した。口の端を上げ、揶揄うようにからからと笑う。

「怒られるようなことでもしたのか? その点は安心しろ。兄弟と言っても同じ価値観を持ってるわけでも、全て肯定してるわけでもない。その証拠ならある。僕が罪人だということが何よりの証拠だ。密告なんてしない」

 これ以上ない説得力だった。罪人を処す狴犴と罪を犯した椒図が同じはずがない。それに獏には好意的なようだ。獏が不利になるようなことはしないだろう。

「……黒葉菫です」

「覚えておく。退屈凌ぎには丁度いい。獏の使いならいつでも来い。狴犴にバレたくないなら、僕は何も言わない。獏に嫌われたくないからな」

 そろそろ罪人の食事時間のはずだ。時計はないので自分の感覚だけが頼りだが、食事の配膳とぶつかることは避けたい。

「……最後に、一つだけ」

「何だ?」

「街を使って神隠しというのは、どういうことですか?」

「やっぱりそれが聞きたいのか?」

 椒図は蔦の這う壁に凭れ、思い出すように目を伏せた。

「……蜃と遊んでたんだ。街を箱庭のようにして、捕まえた人間を放り込んで生活させた。人形遊びと言うよりは、虫を飼う感覚だったな。外から見えない街では、人間を殺しても誰も気付かない。ただ少し、街を大きくし過ぎた気はしていた。それから――」

 顔を上げた椒図の視界に、僅かな光を受けて漸く赤とわかる色が溢れた。胸を貫かれ、当人も何が起こったのかわからないまま、椒図は目を見張る。暗がりに溶け込みそうな至極色の体がゆっくりと倒れた。

「…………」

 椒図は檻の前に倒れた体を見下ろし、その後ろに立つ者に目を遣った。片腕に包帯を巻いた白い少女が剣のような槍のような物を片手に静かに見下ろしていた。

 白い少女は刃を一振りして血を払い、すぐに踵を返す。

「っ……」

 その背後で配膳の台車にぶつかる。大きさはカピバラ程の二足歩行をする土竜のような体に、頭には兎のような長い耳が生えた黒い生き物が、円らな瞳で進行方向の少女を見上げていた。

「あの死体を処理しておいて」

 それだけ言い残し、少女は去って行った。

 食事を運んでいた生き物は横道でじわじわと血を広げながら倒れている青年を暫し観察し、台車を置いて動かない足を掴んで引き摺る。

「待て」

 制止の声に黒い生物はぴたりと手を止めた。

 椒図は動かない黒葉菫を見下ろし、投げ出された手に触れる。

「……お前も死ぬのか?」

 返事はない。俯せに倒れた体はぴくりとも動かなかった。

「折角の退屈凌ぎだったのに。……まだ意識があるなら、手伝ってやる。少しでいい、手から傘を出せ」

 その指先が動くことはなかったが、時間を掛けてゆっくりと傘の柄が少し掌から覗く。意識はまだ微かにあるらしい。

 柄に指を掛け、椒図は一気に黒い傘を引き抜いた。傘を開き、力の入らない彼の手に手を添えて柄を握らせる。

「少しでいい、傘を回せ。お前を助けてくれる人の所へ逃げろ。この地霊は僕が何とかしておく。逃がしてやるから逃げろ」

 傘を握らされた手が、少しだけ傾いた。刹那の内に椒図の手の中から黒葉菫の姿は消える。檻に入れられた罪人は譬え体に触れていようと、傘が回されてもその場から移動することはない。

「……逃がした所で、生きられるかはわからないが」

 名残惜しそうに手を引き、円らな瞳と目が合う。土竜のような体と兎のような長い耳が特徴的な生き物。罪人に食事を届ける地霊だ。

「逃がしたことは黙ってろ。お前は死体を処理した。そういうことにしろ」

 地霊はあるのかないのかわからない首を傾ける。変転人より獣の命令を上位とし聞くはずだが、罪人の言うことは聞く気がないらしい。椒図は少し考え、修正した。

「お前は螭の命に従ってるな? だったら螭に判断を仰げ。まず螭以外には言うな。螭に従え。それならできるな?」

 只の炊事係である螭があの白い少女を動かしたとは考えにくい。そして地霊から報告を受けても、何も知らないまま情報を拡散させる性格ではない。何が起こったのか理由を探るはずだ。彼女はおっとりとしていて、すぐに行動することもない。

 今度は許容できた地霊は頷き、食事の台車へ戻って行った。椒図の前まで台車を押し、檻の下から差し出された空の食器に新しい食事を用意する。

 配膳を終えた地霊は何も言わずに台車を押して去って行った。喋る所を見たことはないが、言葉は理解しているはずだ。檻から去るずんぐりとした背を見送りながら、椒図は食事に手を付ける。

(力が使えたら、傷口を閉じられたのにな)


     * * *


 誰もいない街の小さな古物店で古書を開きながら、足元の机の陰で同じく古書を捲る小さな悪夢に獏は動物面の顔を向けた。

「……読めるの?」

 頭に蒲公英を載せたままの悪夢は獏を見上げ、小さな紙を束ねたメモ帳に文字を書く。

『よめる』

「漢字も読めるんだねぇ……」

 目が無いのに紙に文字を書くことも読むこともできる。不思議な存在だ。

 触手で頁を捲る悪夢を見下ろしながら、ティーカップを傾ける。自我のある悪夢にはまだ謎が多い。

「戻りました」

 興味深く悪夢を観察していると、徐ろに店のドアが開いた。灰色海月が手紙の差出人を連れて帰って来た。学生服を着た少女が灰色海月の背後から店内を見渡している。

 動物面を被る獏の目は見えていないだろうが、はたりと少女と目が合った。

「貴方が……獏?」

「そうだよ」

 机の前に簡素な椅子を出し、灰色海月は台所へ入る。獏は本を閉じて頬杖を突き、ドアの前で立ち止まったままの少女を眺めた。

「遠いね。願い事を聞くから、こっちにおいで」

「未知なるものとは適切な距離を取るものだと思います!」

「……うん……まあ、いいけど」

 狭い店内だ、特に声は張らずとも聞こえる。今までの依頼者が警戒心が無さ過ぎたのだろうか。疑問には思うが、答えは出そうにない。

「私はオカルト研究部の部長をしています! 部長として、これは調べねばと思った次第です!」

「クラゲさん、帰ってもらって」

「ちょっ、ちょっと待ってください! 願い事!」

 愛想良く笑顔で帰ってもらおうと思ったが、制止された。

「僕はオカルトなんて胡散臭いものじゃないんだけど」

 不満げに溜息を吐く獏に、少女は唖然とした。ポストに願い事の手紙を入れれば何処からか灰色の女性が現れて一瞬で景色が変わって知らない街にいて、悪夢を食べることで有名な獏とかいう生き物が何故か願い事を叶えると言う。どう考えてもオカルトである。自覚がないようだ。

「き、気分を悪くされたのならすみません……。でも、願い事はあります! 何でも叶えてくれるんですよね?」

「気分次第だね」

「それって、幾つでもいいんですか?」

「構わないけど、あんまり一度に言われても大変だし、一つずつ言ってくれる方がいいかな。願い事の数だけ代価も貰うよ」

「代価……」

「心の柔らかい所をほんの少し、感情や記憶など形の無い物を貰うだけだよ」

 少女はごくりと唾を呑んだ。

「悪魔との契約も、何かを差し出さなければいけませんもんね……」

「僕は悪魔じゃないんだけど」

「たっ、例えです! 悪魔なんて思ってません!」

 明らかに不快感を示した獏に、慌てて頭を振る。

「君の部は普段何してるの? 悪魔の研究?」

 全く興味は無いが一応聞いておく。悪魔の研究とでも言えば、即刻帰ってもらう。冷たく鼻で笑うと、悪寒でも走ったのか少女はドアに背中を付けた。

「呪いとか魔術とか……都市伝説とか不思議な伝承とか……調べてます、けど」

「後半は民俗学じゃない?」

「えっ?」

「誰か呪いたい人でもいるの?」

「いえ、そういうわけでは……」

「ふぅん。手紙には『部の存続』って書いてあったけど、廃部でもいいんじゃない?」

「なっ!? そんな他人事のように!」

「他人事だからね」

 少女は何も言い返せず、じっと獏の動物面を見詰めるしかできなかった。

「……そうだ! 実際に空想生物がいるとわかれば、皆興味を持って部に入ってくれるかも!」

 いそいそとポケットから携帯端末を取り出す少女がこれからやろうとすることを察し、獏は懐から杖を抜いて、つい、と振る。端末は少女の手からするりと抜け、獏の手に渡った。

「撮影は禁止」

「あ……ああ……! 何ですか今の!? その杖! みっ、見せてもらってもいいですか!?」

「…………」

 迂闊に杖を出すべきではなかった。獣にとって杖は人間の四肢のような物だが、何気無く使うのは避けるべきだった。

「それが願い事?」

「うっ……」

 どうすべきか考えるが、距離は詰めない。刻印の紅茶を用意した灰色海月は何処に置くべきか迷い、机に置いて獏を一瞥した。このまま距離を取られていれば、飲むことができない。

「まあいいか。見せてあげるからこっちにおいで」

 距離を縮めるには丁度良いだろう。微笑んで手招く。

 警戒より好奇心が勝ってしまった少女は、恐る恐る獏へ近付いた。獏は悪夢を食べる生物だ。いきなり殴ったりすることもないだろうと、机に置かれた杖にそろそろと手を伸ばした。

 にこにこと頬杖を突いていた獏は、少女の意識が完全に杖だけに集中していることを察し、伸ばされた手首をがしりと掴んでみた。

「ぎゃ――っ!?」

 少女は驚きの余り絶叫しその場に座り込んでしまった。そこまで驚くとは思わず、ちょっとした悪戯のつもりだった獏も驚いてしまった。

「あっ……ごめん、そんなに驚くとは思わなくて」

「こっ……腰……腰が抜けました……」

「大丈夫? 手を貸す?」

「手より杖を貸してほしいです」

「逞しいな」

 机を回り、望む通り杖を貸してやった。他の獣だと杖がなければ力を使えないのでそれを貸すなど言語道断だろうが、獏は杖がなくても力が使えるので危機感はない。今は罪人なので制限されているが。

 少女は腰を抜かしたまま目をキラキラと、杖を舐め回すように眺めた。杖自体には何の力もないので、人間が玩具にしても問題はない。只の何の変哲もない棒だ。石を割られることだけは困るので、傍らに蹲んで様子を窺う。

「こんな大きな硝子? 石? が付いてるのに、思ったより軽いです」

「それは石だよ。軽いけど硬度は高い。人間を殴ってもびくともしない」

「殴る物なんですか!?」

 机の傍らに立って様子を見ていた灰色海月は「違います」と口を挟んだ。

「これがあれば私も魔法が使えますか?」

「僕も魔法なんて使えないよ」

「え? でもさっき……」

「あれは魔法じゃない。体内に在る力をこの石で変換して出力してるだけ。只の人間にはそんな力はないから、石は何も反応しない」

「いいですか、それを魔法と言うんです」

「そんな非現実的な物じゃないのに」

「夢を食べる獏は非現実的ですよ!?」

「理解できないことをそう言って遠ざけてるだけでしょ? 杖はもういい? そろそろ本題に移ってほしいんだけど」

 何回か軽く振った後、少女は渋々杖を返した。腰もどうやら落ち着いて立てるようになっている。近くにあった椅子を支えに立ち、少し距離を開けて座る。机に置かれた紅茶は少女のために出された物だ。香りは紅茶だが、中身は本当に紅茶なのか、睨むように凝視する。

「毒なんて入ってないよ。僕が飲んでるのと同じ」

 獏も椅子に戻り、自分のカップを傾けて飲んで見せた。

 少女はカップに残っている紅茶を覗き込み、二つの中身を見比べる。

「一見、同じように見える……」

「だから同じだって」

 少女はもう一度匂いを嗅いで凝視した後、飲まずに口を開いた。

「……部室が不良の溜まり場みたいになってしまって、先輩がさっさと私に部を渡して引退したんです。今は友達と二人で活動してます。すぐにでも新しい部員を捕まえないと、廃部になってしまうんです。掲示板に勧誘のポスターを貼ったり、呼び掛けたりはしたんですが、全然駄目でした」

 突然真面目に話し始めたので、獏も真面目に話を聞くことにした。

「幾ら勧誘しても、不良が溜まってる部には行きたくないよねぇ」

「毎日ではないです! 偶にです」

「いつ来るかわからないんでしょ? 勧誘の前に排除した方がいいね」

「は……排除って……どうするんですか……? 殴るんですか?」

「体に覚えさせるのが手っ取り早いと思うけど」

「部にマイナスイメージが付かない方がありがたいなと……」

「どうやっても不良を追い出した部になると思うけど、駄目なの?」

「う、うーん……」

 早く紅茶を飲んでくれないかとカップを傾けて見せているが、紅茶が先になくなってしまう。カップを咥えたまま、悩む少女を待つ。

「答えが出ないなら、先に部室に行ってみようか?」

「きっ、来てくれるんですか!?」

「うん。行った方が早いでしょ?」

「獏が部に……。いっそ入部しますか?」

「しないよ」

 席を立ち、少女のカップを抓む。その鼻先に突き出し、獏はにこりと微笑んだ。

「折角クラゲさんが淹れてくれたんだから、飲んでから行こうか」

「う……圧が凄い……」

 押し付けられるようにカップを受け取り、警戒しつつ渋々と飲んだ。不良を追い出せる生物には逆らわない方が良い。

 灰色海月は獏の首に冷たく重い首輪を嵌め、灰色の傘を持って先に店を出る。少女も後に続き、獏も外に出た。振り返ると机の陰から小さな悪夢がこっそりと覗いていたので、付いて来ないよう制しておく。

 灰色の傘をくるりと回し、一瞬で街から校舎の陰へ場所を移動した。放課後の学校は部活動に励む生徒達の声が元気に響いている。

「一瞬で学校に! やっぱり凄いです!」

「部室は何処?」

「こっちです」

 校舎の中に走って入ろうとするので、慌てて止めた。

「普通に入ったら僕は目立つから。窓から入るよ」

「窓……!? 部室は三階ですよ。……も、もしかして、飛ぶんですか! それなら、私も一緒に!」

 深く頭を下げて手を差し出すので、獏は苦笑しつつも手を取った。

「クラゲさんなら片手で充分だけど、三階の高さだと普通の人間だと少し心配だね。抱えるとクラゲさんの手が掴めないから、負んぶかな」

 片膝を突き、少女に背を向ける。すぐに腰を抜かすような少女が危害を加えることはないだろう。もし首を絞めようとしても首輪が邪魔で絞まらないはずだ。背に伸し掛かる重みを確認し、立ち上がって灰色海月の手も握る。

「お、重くないですか?」

「重くないよ」

 獏の力で軽くすることができるため、重いと感じることはない。百キロの巨体が伸し掛かっても跳ぶことができるのだから、普通の体型の少女を背負った所で何ともない。

「獏は結構紳士なんですね」

「ん?」

 言葉の意味は理解できなかったが、地面を蹴りひょいと校舎の壁を跳び上がる。背中で息を呑んだのがわかった。閉まっている窓に手を翳して鍵を開け、誰もいない廊下に下りる。少女も下ろしておく。

「思ってた飛ぶとは違ったけど……これはこれで凄い……。触れずに鍵も開けてたし……」

「部室ってここ?」

 何処にも部の名前は書かれておらず空き教室に見えるが、少女は大きく頷いた。中の明かりは点いているようだ。

「声がしないので、不良はいないようです」

 安心して少女がドアを開けると、中の机と椅子は殆どが奥に押し遣られ、数脚だけ前に固められていた。その席の一つに眼鏡を掛けた少女がノートを広げて座っている。突然やって来た見知らぬ妖しげな動物面を被る人物と灰色被りの女性を見てペンを落とした。

「もっと怪しげな部屋を想像してたけど、何もない部屋だね」

「どんな部屋を想像してたんですか?」

「怪しい呪術道具が転がってて、魔法陣とか描かれてる感じの部屋」

「素敵な部屋ですね。不良がいなければそうしたい所です」

「認識を改めようと思ったけど、必要なかったね」

 ペンを落としたまま固まっている眼鏡の女生徒に目を遣る。広げられたノートを覗いてみると、日本語が書かれていた。

「あれ? ヘブライ語じゃないの?」

「これは只の宿題です。何なのこの人達……」

 眼鏡の少女は部長に目を向け説明を求めた。獏の噂の検証だと簡潔に成り行きを説明すると、胡散臭そうな顔をした。

「人外なら、尻尾とか角とか生えてないの? 変なお面は只のお面だし……」

「生憎僕には生えてないね。姿形は人間と変わらないと思うよ」

「じゃあそのお面の下に人外っぽさが? 目が三つあるとか」

「ただ醜いだけの顔だよ。目も二つだけ」

「不細工ってこと?」

「はっきり言うねぇ」

 くすくすと笑っていると、廊下から話し声が聞こえてきた。ぞろぞろと足音が聞こえる。お出ましのようだ。

 がらりと乱暴にドアが開けられ、男子生徒が四人、笑いながら入ってきた。

「失礼しまーす」

 部員は二人だと先に聞いていたので、この生徒達が部員ではないことはすぐにわかった。制服を着崩し、如何にも不良と言った格好をしている。わかりやすくて助かる。

 獏は灰色海月を下がらせ、不良達の前へ出た。

「あ? 何だお前」

「ここは君達の部室じゃないよ」

「だから何だよ」

「邪魔」

「はあ?」

 わざと神経を逆撫でするように、獏は嘲るように笑った。この手の人間は少し馬鹿にしてやるだけですぐに頭に血が上る。冷静さを欠いて襲って来るなら、簡単に去なせる。

 わかりやすく顔を顰め、狙い通りに不良達はすぐに手を出してきた。殴ろうとする腕を掴み、捻って足を掛け床に倒す。残りも同じように投げるように床に倒すと、それぞれ体を捩って呻いた。

「弱いね」

 これなら片手でも充分だったかもしれない。銃を出さない人間は楽で良い。

「もっと酷い目に遭いたくなかったら、二度とここには来ないで」

 圧倒的な力の差に、不良達は青い顔をして我先にと部室を駆け出して行った。走り去る背に人差し指と親指で作った輪を向けて覗くが、筋金入りの不良ではないようだ。これなら仲間を呼んだり戻って来ることもないだろう。

「簡単に解決したね」

「どえらい強くないですか!?」

「相手が弱いだけだよ」

 少女は興奮し、眼鏡の少女と手を叩いて喜んでいる。

「これで素敵な部室に……そして部員も手に入る……!」

「願い事が叶った?」

「はい! 後は私達で頑張るので!」

「じゃあ代価はどうしようかな。何か指定する?」

「考えてたんですけど、弱い心って払えますか? 私も強くなりたくて」

「弱い心……? ちょっと漠然としてるけど、君が言うのは、勇気を阻害する心……なのかな?」

「何かそんな感じです!」

「わかった。じゃあ少しじっとしててね。手元が狂うといけないから」

 手元と言うより口元だが、僕は片手で少女の双眸を覆った。眼鏡の少女には背を向けているので面を外しても顔は見えない。少女に口付け、指定された心を食べる。

 ブレーキを取り除くような行為だが、獏は何も言わなかった。

 口を離すと、少女は惚けたように虚空を見詰めた。代価を払った副作用だ。獏は動物面を被り、眼鏡の少女を振り返る。

「少しの間呆然としてるけど、放っておいても大丈夫だから」

「な……何したの……?」

「意識が明瞭になったら、訊くといいよ。君はこの人のブレーキになってあげてね」

 にこりと笑うと、眼鏡の少女は怪訝そうに眉を寄せた。

「何言ってるの……?」

「願い事は叶えたから、僕達は帰るね」

「願い事……?」

 獏は惚ける少女に目を遣り、彼女に訊けば良いと無言で促した。二度説明するのは面倒だからと言うより、願い事をそう易々と他人に話すのは憚られるからだ。守秘義務はないが、害を為す者でなければ言い触らしはしない。

 眼鏡の少女に小さく手を振り、それを見て灰色海月は灰色の傘をくるりと回した。一瞬で姿を消した二人に、眼鏡の少女は目を瞬き眼鏡を外して擦り、掛け直してもう一度虚空を見た。まるで白昼夢のようだった。

 霧の掛かる誰もいない街に戻って来た獏は首輪を外してもらい、店に戻る。ドアの開く音を聞き付けてか、階段から白花苧環が睨むように見ていた。

「どうしたのマキさん? 怖い顔して」

「徒事ではない叫び声が聞こえてきたんですが」

「あ……あー……」

 依頼者に悪戯をして叫ばせてしまったことを思い出す。依頼者が来ている手前その時は顔を出せなかったようだが、いなくなって様子を見に来たらしい。獏は面で見えなくはあるが目を逸らし、引き攣ったように笑った。

「今、目を逸らしてますよね?」

「何なの透視でもできるの?」

「それはできませんが、想像はつきます。善行で叫び声が聞こえる理由が知りたいですね」

「ちょっと驚いただけだよ。何せ僕は人間じゃないから」

 正確には『驚かせた』だが、そこは伏せておいた。罪悪を嫌う彼にそんなことを言えば話がややこしくなる。

「……願い事は叶えたんですか?」

「叶えたよ」

「死人や怪我人は?」

「無い無い」

 愛想良く笑っておく。もしかしたら掠り傷程度なら付いているかもしれないが、その程度なら怪我の内に入らないだろう。問題はないはずだ。

「だったら大目に見ます」

「ありがとう」

 溜息を吐くので、渋々だろう。今の匿われている状況で騒ぎを起こすのは得策ではない。また何か破壊すれば宵街に怪しまれるだけだ。

「そんな神経質にならなくても――あれ?」

 突然言葉を切るので、白花苧環は怪訝な顔をした。

「どうかしましたか? やはり誰かに危害を加えましたか」

「そうじゃなくて、スミレさんが来た気配がする」

「またですか?」

 つい最近黒色海栗を探してここに来た所だ。あまり頻繁に出入りすると宵街に怪しまれてしまう。用があるなら仕方ないが、慎重な行動を心懸けてほしい。

「うん……でもここから遠いね」

「遠い? 外からここに来る時はこの店の近くに現れるよう結び付けられてるはずですが」

「傘の故障かな?」

「故障する物だったんですか……」

「わからないけど」

 理由は何であれ、店から離れていることは事実だ。黒葉菫に刻んだ刻印がそう告げている。獏は急いで常夜燈を準備した。

「迷子になるといけないから、迎えに行ってくるよ。僕が留守の間に宵街から誰か来たら……適当に遇っておいて、クラゲさん」

「わかりました。お気を付けて」

 常夜燈を手に提げ店を出る獏の背中に灰色の頭を下げる。

 承諾なく黒葉菫に刻印を施した白花苧環の行動は褒められたものではないが、こういう不測の事態には役に立つものだ。現れた場所もおかしいが、妙に気配が弱々しい。壁にぶつからないよう加減しながら霧の中を跳び、気配を辿る。

 大通りから外れた路地へと入り、あまり遠くに跳べずに駆け足で向かう。

 幾つか路地を曲がると、地面に何か落ちているのが見えた。

「……?」

 月明かりの届かない路地を常夜燈で照らして近付き、はたりと一瞬足が止まるが急いで駆け出した。

「スミレさん!?」

 常夜燈を置き、懐から杖を抜きながら状態を確認する。闇と同化する俯せになった黒い背には刺されたような傷があった。地面に突いた手がぬるりと滑る。近くには開かれた黒い傘が転がっていた。

 至極色の体を横向きに起こし、傷を確認する。胸まで貫かれた傷に、杖の透明な石を当てた。力を籠めると石が光り出す。

「……意識はある? 聞こえる? すぐ止血するから」

 常夜燈で照らされる顔は血の気がなく、触れると冷たい。だが傷口の血は温かい。目は開くことなく固く閉じられたままで、ぴくりとも動かない。

「傘が開いたまま――ってことは、何かあって逃げて来たってことだよね。傷は長い刃物みたいだから、狴犴じゃなさそうだけど……」

 意識がないことはわかっているが、声を出すことはやめない。もし少しでも聞こえるなら、それで繋ぎ止めてほしい。

 白花苧環が狴犴に襲われた時は刃物による傷はなかった。故に黒葉菫は狴犴に襲われた可能性は低い。逃げ込んだのが宵街ではなくこの街であることから、宵街で助けを求めることができない状況、つまり宵街で襲われたのだろう。弱り切ったこの状態で助けを求めに来たのがここならば、何としてもそれに応える。

「……スミレさんにも、生命力を分けるね」

 黒い動物面を外し、氷のように動かない黒葉菫を見下ろす。白花苧環の時より状態が悪い。白花苧環は元々狴犴の力が体に宿っていたため治癒力も通常より高かったが、黒葉菫の体にはそんな力はない。

「大丈夫だよ。絶対助けるから」

 息が乱れそうになるのを抑え、震えそうな息を吸って深呼吸する。

 黒葉菫の冷たい口に口付け、力を分け与える。指先が徐々に痺れ、不意に意識がぼやけていった。

 杖が乾いた音を立てて地面に転がり、獏の体は糸が切れた人形のように石畳に倒れた。



 新しい紅茶を淹れつつ灰色海月は台所から、いつも獏が座っている革張りの古い椅子に目を遣った。獏がそこにいないことは偶にある。二階に行っていたり、街を散歩していたり。二階にいる時はあまり何も思わないが、外に出ている時は少し寂しく思う。今は同じく獏の帰りを待つ小さな悪夢がそこに座っているが、机に頭も出ないので正面から見ると誰もいないように見える。悪夢は紅茶を飲むのだろうか?

 机にカップを置くと、悪夢は興味を示して立ち上がり、触手を使って机上に跳び乗った。ティーカップを覗き込むが、飲もうとはしなかった。形の無いものはやはり飲食はしないのだ。

「少し遅いですね」

 見上げる悪夢に呟き、灰色海月は階段を上がった。悪夢も黒猫に乗り、その後を付いて行く。

 二階に上がると廊下の奥の物置部屋で物音が聞こえる。そこにいるのはきっと浅葱斑だ。

 手前の部屋のドアを開けると、ベッドに腰掛けた白花苧環が古書を読んでいた。何か用かと顔を上げ、本を下ろす。

「獏を迎えに行ってきます」

「迷子を迎えに行ったのに、迷子になってるんですか?」

「それはわかりませんが、遅いのは心配なので」

 以前に二度、獏は街の端に行って気分を悪くして戻って来たことがある。その時のことが脳裏を過ぎり、灰色海月は落ち着かなかった。白花苧環もその心配は汲み取り、本を置いて立ち上がる。

「だったらオレが行きます。貴方が店にいないと、誰か来た時に対応ができません」

「でも……」

「常夜燈を共鳴すれば場所がわかるんですよね? なら大丈夫です」

「大丈夫なんですか?」

 まだ少し本調子とは言い難いが体は問題なく動く白花苧環の何がそんなに心配なのかと首を傾ぐが、一つのことに思い至った。

「……ああ、罪人だからですか? 迷子を迎えに行って迷子になった程度でどうこうしませんよ」

「では、アサギさんも一緒に」

「そんなに信用されないとは」

「そうではなくて、マキさんを一人にしてはいけないと……」

 白花苧環はきょとんとし、意味を理解して苦笑した。一度ここで襲われたこともあり、それを案じての発言だったようだ。

「わかりました。ではアサギも連れて行きます」

 物置部屋にいる浅葱斑を呼ぶと、白花苧環と二人で外へ行くことに彼は若干の警戒を示した。ぐったりするまで手合わせした後遺症だろう。今回は手合わせはしない。迷子を迎えに行くだけだ。

 小さな悪夢も黒猫に乗ったまま付いて行こうとしたが、それは止めておく。こんな真っ黒な姿を暗い外で見失えば見つけられない。悪夢は不満そうにぐるぐると触手を振り回した。

「棚の物を落としたら、獏に叱られますよ」

 悪夢はぴたりと触手の動きを止め、周囲を確認した。何もぶつかっていないはずだ。

 白花苧環は預かった常夜燈を提げ、数歩後方から浅葱斑が付いて行く。店のドアを開けて誰もいないことを確認し、常夜燈を共鳴させた。細い光が小さく伸び、方向を指し示す。

「これが指す方にいるんですね」

「羅針盤みたいだな」

「急ぎましょう。誰かに襲われてる可能性もあるので」

「えっ? ……まさか、それがあるから苧環が行くって言ったのか……?」

「そうですよ。クラゲは心配するので迷子だと言いましたが」

 方向を確認して走り出した白花苧環の後を浅葱斑は慌てて追った。

「あんなに嫌ってるのに獏のために動くなんて、もしかして苧環って実は良い奴?」

「獏のためではないです。それは虫唾が走ります。強いて言うならスミレの方です。出現位置がおかしいのも気になります」

「素直じゃないな」

 横目で一瞥され、浅葱斑は反射的に「ごめんなさい」と謝った。

 睨んだわけではなかったのだが、睨んでしまっていたのだろうかと白花苧環は前方に目を向けながら顔に手を遣った。

 路地の奥へと進み、月明かりも届かなくなる。常夜燈の光だけが頼りだ。路地の先にぼんやりと光を見つけ駆け寄る。光の位置は低く動かない。地面に置かれているようだ。

「えっ、ちょっ、獏!?」

 黒い塊が二つ、地面に落ちていた。同じように常夜燈を地面に置き、膝を突く。一つは出血があるが、もう一つにはなかった。出血のない方――獏の肩を軽く揺する。

「何があったんですか!?」

 いつも付けている動物面は外れ、杖も転がっている。辺りを見渡すと、黒い傘も開かれたまま転がっていた。状況を整理し、困惑して距離を取った浅葱斑を一瞥する。

「……二人共意識がないです。見た所、獏には外傷がありません。アサギはスミレを病院に連れて行ってください」

 一度立ち上がり、開いたままの黒い傘を拾う。

「わ、わかった! 獏はどうする? 獏も病院に……」

「獏は罪人なのでここから出せません。外傷もないので、店で様子を見ます」

 畳んだ黒い傘を、力無く開かれた黒葉菫の掌に当てる。何も反応がない。

「状況から察して、おそらく怪我を負ったスミレがこの街に逃げ込んだ……。宵街ではなくここを選んだと言うことは、宵街絡みで何かあったのかもしれません。連れて行く病院は、オレを連れて行った人間の病院でお願いします」

「わかった! ……お、重い……けど、頑張る……」

 黒葉菫の体からはもう新しい血は出ていない。それは止血されてそうなっているのか、出せる血を出し切ってしまったのかはまだわからない。意識のない至極色の体を小柄な浅葱斑が持ち上げるのは大変だが、人間の医者と交流があるのは浅葱斑の方だ。任せるしかない。自身の灰色の傘を開く浅葱斑に、閉じた黒い傘を渡しておく。

「傘が手に戻らないので、相当危険な状態だと思います。もしかしたら、もう……」

「泣いちゃ駄目だよ苧環! 獏の方はよろしくな!」

「泣きませんが」

 灰色の傘をくるりと回し、浅葱斑と黒葉菫の姿が消える。少し触れた黒い彼の肌は、冬のように冷たかった。

 面と杖を拾い獏を抱え上げようとした所で、黒葉菫が倒れていた場所に何かが落ちていることに気付く。

 乾いた血の上に、小さな袋があった。黒葉菫の持ち物かもしれない。それも拾っておく。

 獏を抱え上げ、周囲を確認しながら路地から出る。外傷はないと言ったが、顔色は悪い。動かないと本当に人形のようだ。少し揺れるが、走って店に戻る。

 店が近付くと辺りを警戒しなければならない。誰もいないことを確認し、店のドアを少しだけ開けて中も確認する。足元で悪夢が見上げていて蹴りそうになった。獏を抱えていて足元が見えない。

 来客はいないので急いで中に入る。音を聞き付け、灰色海月も台所から顔を出し慌てて駆け寄った。

「な、何が……」

「それはわかりませんが、外傷はないです」

 足元に気を付けながら二階へ運び、ベッドへ寝かせた。面と杖は机に置いておく。

「あの、アサギさんとスミレさんは何処に……?」

「スミレが危篤状態なので、アサギに人間の病院に連れて行ってもらいました」

「危篤!? 一体何が……」

「オレとアサギが行った時には既に二人の意識はありませんでした。状況的に見て、獏はスミレを助けるために力を使ったんだと思います。力は制限されてるはずなので、無理をしてこうなったのかもしれません。もしそうなら、寝て回復すれば目を覚ますと思います」

 灰色海月は黙って話を聞き、不安そうに睫毛を伏せた。悪夢はベッドに登り、意識の無い獏を見下ろした。

「スミレが落とした物だと思うんですが、それもここに置いておきます」

 拾った小袋を面と杖の傍らに置こうとすると、悪夢は勢い良く触手を伸ばして掴み取った。袋の中を覗き込み、黒い体から紙の束を取り出す。

『しょうずの こんぺいとう』

「は……?」

『ふくろ おなじ』

「まさか……」

 口を開いた袋の中には、綺麗な色の凸凹とした小さな粒が幾つも入っていた。

「金平糖は初めて見ました」

 灰色海月も興味深く覗き込む。白や赤や黄、青、そして今では見掛けない黒もあるが、初めて見る彼女にはその違いはわからなかった。

「オレの……所為ですか」

 独り言のように漏れた言葉に、灰色海月も顔を上げる。白い彼はとても苦しそうな顔をしていた。

「スミレは、オレが言ったから椒図に会いに行ったんですね。そこで何かあった……そう考えるのが自然です。危険がないなんて、言ったから……」

「マキさん……」

「……オレが殺されないために他の誰かが殺されるのは嫌です。スミレには、悪いことをしてしまいました」

「そんなに自分を責めないでください。誰も、こうなることはわからなかったと思うので……」

「わからないからこそ、行かせるべきではなかったんです。早計でした」

 椒図は罪人であり、その力は牢の中では封じられている。椒図が襲ったわけではないだろう。睚眦による拷問だとすれば、外傷が少な過ぎる。狴犴が差し向けた誰かに襲われた可能性が高い。襲われた理由は断定できないが、白花苧環が椒図に会うことを頼まなければ、こうはならなかったはずだ。

「匿ってもらっていたのに、すみません。迷惑を掛けてしまいました。宵街に戻ります」

 苦渋の表情ではあるがもう決心はしたようで、目に迷いはなかった。

「! 駄目です! 戻ったら、また……今度は殺されるかもしれません!」

「こう言うのは不本意ですが、獏にも礼を言っておいてください」

「それは自分の口で言ってください!」

「直接言うのは反吐が出るので」

「何でも出していいので、直接言ってください!」

「手厳しいですね……」

 白花苧環は苦笑し、眠る獏を見下ろした。蒼白な顔は透けるように白く、物言わぬ人形の睫毛は閉ざされたまま動かない。黒葉菫を行かせなければ、獏もこんな風になることはなかった。誰にも助けを求めてはいけなかったのだ。狴犴の玩具にされようと、誰も巻き込むべきではなかった。

「紅茶も菓子も美味しかったです。機会があれば、獏にも……礼を言うかもしれません」

 行こうとする白花苧環の手を、今度は悪夢の触手が掴む。だが引き止めたわけではなさそうだ。白い手に椒図の小袋を振り、金平糖をころころと三粒握らせる。

『せんべつ』

「牢に入る前から持ってた物なら食べられませんが……受け取っておきます」

 ドアを開ける前にもう一度振り返り、白花苧環は微笑んだ。

「ありがとうございました」

 閉まるドアに駆け寄ることはできなかった。灰色海月は蹲み込み、顔を埋めた。

「どうして……止められないんでしょう……。私は灰色だから……黒も白も否定できないからですか……?」

 ぽろぽろと涙が溢れてしまう。悪夢は細い触手を伸ばし、いつも獏がしてくれたように灰色の頭をそっと撫でた。


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