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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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38/124

38-待ち人


 ざらりと冷える畳の感触が頬に貼り付き、しんとする薄暗い部屋の中で帰りを待つ。

 誰も来ない。

 誰も来ない。

 時折外で聞こえる人の声が遠い。

 何処にも行くことができず、戸棚の中にあった缶詰で腹の虫を押さえ付けた。いつ帰ってくるかわからない人を待ち続けるために一気に食べることはせず、少しずつ腹を慰めた。

 ここで待てと言われて、もう三日が経つ。いつまで待てば良いのか、訊いておけば良かった。

 頭の片隅にはもう諦めた自分もいて、ここにはもう誰も来ないとひそひそ言っている。

 動くと腹が減るためずっと寝転がっているが、何もしない時間と言うのは嫌になるほど遅く遠い。時計の針の音が自棄に煩い。何もせず転がっていると、色々なことをぼんやりと考えてしまう。今までのことが夢だったのではないかと錯覚してしまう。

 学校で友達と話していたことをあれこれ思い出し、あの話は面白かったなと無意識に口の端を動かす。

(あれは……作り物じゃ駄目なのかな)

 食事とトイレ以外では久し振りに、少年は体を起こしてみた。

 古そうな引出しを順に開けると、探していた物を見つけた。その折紙の袋から、赤い色を引き出す。

 赤い折紙で箱を作り、ペンで記号を書き込む。赤い箱には鋏で切れ込みを入れた。少し小さいが、他の折紙を小さく切って文字を書く。それを折り畳んで赤い切れ込みに差し入れた。

 一連の作業を終え、我に返る。何をやってるんだろうと思った。ここで待てと言われたので外に出ることもできず、だから自分の手で小さなポストを作った。ポストに願い事を書いた手紙を入れれば、獏が叶えてくれるらしい。それが本当か嘘かはわからないが、外に出られないのでそれにすら縋れない。

 缶詰も有限だ。外には出られないし金もない。その内この家の中で死んでしまうんだろうとぼんやりと思った。


「お迎えに上がりました」


「え……」

 誰もいなかった家の中に、忽然と一人の女性が現れた。灰色の長い髪に灰色の服、それにエプロンを。明かりの点いていない小さな電球を下げた灰色の傘を差している。見たことのない、知らない女性だった。

 灰色の女性は机の上の赤い箱に目を向け、ブーツを履いたままの足で畳を歩いた。

「よくできています」

「……だ、誰……? あ、あの……誰ですか……?」

 明かりが点かないので顔はぼんやりとしか見えない。この世の者ではないような雰囲気があった。もしかしたら、もう死んでしまったのだろうか。

「願い事を叶える獏の所へ連れて行きます」

 差し出した指先に、赤い箱に入れたはずの小さな折紙が抓まれていた。確かに作り物のポストに入れた物だ。赤い箱を振ってみるが、何も音がしない。何も入っていない。いつの間に取り出したのだろうかと少年は目を丸くした。

「ここから出るってこと?」

「出ますが、家から出る必要はありません。ここから獏のいる所へ移動します」

「ど、どういうこと……? ここで待てって言われてるから、出られないんだけど……」

「困りました……。獏に訊いてきてもいいですか?」

「は……はい」

 獏はここへは来られないのだろうか。少年の見ている前で女性は灰色の傘をくるりと回して姿を消した。そこには最初から誰もいなかったかのように再び静寂が流れる。幻覚でも見えるようになったのかもしれない。

 膝を抱えて暫く待っていると、再び忽然と灰色の女性は現れた。少年は顔を上げ、他には誰もいないことを確認した。やはり獏はここには来ないらしい。突然消えたり現れたりするのだから普通の人間ではないとは思うが、何者なのかわからない。

「訊いてきました。動けるなら連れて来てとのことです」

「動けるって……ここからは出られなくて」

「手紙も先に見せました。『どうすればいいか教えてほしい』という願い事を叶えるために、来てほしいそうです。獏のいる所はこことは別の空間にあるので、家から消えることにはなりますが出ることではない……そうです」

「難しくてよくわからない……」

「私にもよくわからないです」

 二人は見詰め合い、沈黙が流れた。

「……私には強制することはできないので、連れて行けないなら願い事は無かったことにしますが……」

 ここから出られないが、願い事を聞いてもらえないとこのままここで静かに死んでいく気がする。獏の言っていることは難しくてよくわからないが、待つか死ぬかと言われると、死ぬのは怖い。

「わかりました……行きます」

 それを聞いて灰色海月は安堵した。獏のように言葉巧みに導くことができれば良いのだが、それは難しい。

 立ち上がる少年に合わせ、灰色の傘をくるりと回す。

 一瞬で藺草の畳から石畳の冷たく硬い感触に変わり、明かりの無い薄暗い部屋から街灯がぽつりと灯る夜の煉瓦の街へ変化した。街には霧が掛かり、遠くが霞んでいる。

「え? 何……?」

「こちらです」

 灰色の傘にぶら下がる小さな電球には光が灯っていた。ぼんやりとした光を見失わないように少年はぺたぺたと追った。

 明かりの灯る小さな店のドアを開けると、古そうな大きな棚が幾つも立ち並び、瓦落多のような物が並んでいた。その間の細い通路を抜け、奥にある机の前に行く。古い革張りの椅子に黒い動物面を被った黒衣の――これがおそらく獏なのだろう、頬杖を突きながらにこりと微笑んだ。

「裸足だね。スリッパを出そうか」

 黒い獏は棚の一つへ歩き、下に置いてある木箱からスリッパを一対取り出して渡した。物置なのか店なのかわからない。

 少年には簡易な椅子を勧め、獏は席に戻る。

「さてと。君の願い事は、少し変わってるね」

「ば、獏……なんですよね?」

「うん。そうだよ」

「ちゃんとしたポストじゃなくて良かったんですか……?」

「え?」

 折紙で手作りしたポストで呼び出せるとは思っていなかったのだが、こうして不思議なことに一瞬で知らない街へ連れて来られた。結局ポストなら街中で使用されている物でなくても何でも良かったのだろうか。

「折紙で作ったから……」

「折紙? クラゲさん、どういうこと?」

 台所で紅茶の準備を進める灰色海月は一度手を止め、顔を出した。

「机の上に小さなポストがありました」

「それは……」

 ポストなら玩具でも手作りでも何でも良いわけではない。流している獏の噂では街中のポストを示したつもりなのだが、おそらく彼女だからこそ今回の手紙を拾ったのだろう。

「違いを教えておいた方が良かったかな……。今回は仕方ないってことにして、願い事は聞くよ」

「本当は駄目なんですか?」

「街のポストまで行って投函できないような人が、この街に来てくれるとは思わないから。君もそうでしょ? 何で渋ってるのかと不思議だったけど、合点が行ったよ」

 例外として認めてくれるようだが、迷惑を掛けてしまったことに少年は気不味くなった。

 灰色海月も家の中の物はポストの形をしていても手紙を拾ってはいけないと今後のために心の中で反芻する。元は思念を捉える羅針盤が反応したからではあるが、思念を感じ取る性質なだけあり、持ち主の能力を反映する。今回のことは彼女が未熟なために起こったことだ。

「…………」

 少年が俯くと、彼の腹が大きく鳴いた。

「あ……」

 恥ずかしそうに腹に手を遣るので、獏も何の音かすぐに理解した。

「お腹空いてるの?」

「え、えっと……」

 言葉で答える前に腹の虫が先に答えを言ってしまう。

「三日間あんまり食べてなくて……」

「そっか。このままだと君のお腹の虫と会話することになりそうだし、そんなに空いてるんじゃ御菓子をってわけにもいかないね」

 獏は苦笑しながら立ち上がり、紅茶を注ごうとしていた灰色海月を制した。

「少し出掛けようか。家から出たくないって言ってるみたいだけど、何か食べたいでしょ?」

「…………」

 目に見える景色は家の中から変わってしまったので、もう何処に行こうが家から出たことには変わりないと少年は思っている。待つ約束より今は、何か食べさせてくれるらしい獏の言葉の方が魅力的だった。

 まだ小学生だろう頷く少年に微笑み、獏は外套の襟の釦を外した。露わになった白い喉元の痛々しい烙印に、灰色海月は重く冷たい金属の首輪を嵌めた。首輪から下がった短い鎖が擦れて硬い音を立てる。

 少年はスリッパのまま店の外へ付いて行き、灰色海月の回す傘でまた景色は一変した。

 瞬きの目を開いた後に広がった景色は、空だった。都会の明るい夜が眼前に広がっていた。

「わっ……?」

 ぐるりと見回し、何処かのマンションのベランダではないかと推測する。振り返ると、カーテンの閉まった窓があった。

 獏はそれに手を翳して鍵を開ける。触れずに鳴った鍵の音に、少年は身を乗り出した。どうやったのか、まるでわからなかった。

 遠慮無く窓を開けると、中にいた青年がぎょっとした顔をして勢い良く首を窓へ向けた。

「えっ!?」

「やあ。少し用があって来たよ」

「獏……!? 何でベランダから……。玄関はあちらですけど」

「こっちの方が人に会う可能性は低いでしょ?」

「中にオレ以外がいたらどうするんだ……」

 その場合は気配でわかるので、今は中にこの青年しかいないことはわかっていた。青年は以前と同じように小さなビニル袋を慌てて取って来て獏と灰色海月の靴に履かせた。二回目ともなれば、土足で部屋に上がることもわかっている。見覚えのない少年はスリッパだったので、ベランダで脱ぐのを確認してビニル袋は仕舞った。

「この子に何か御飯を作ってあげてほしいんだ」

「御飯?」

 問い返すと同時に少年の腹の虫が鳴いたので、すぐに理解できた。

 青年――由宇(ゆう)は料理人だ。洋食屋で働いていることを以前話していたので、数少ない人間の知り合いと言うことで頼った。

「冷蔵庫にある物でだったらすぐ作れるけど、子供の好きな食べ物は……」

 冷蔵庫に顔を突っ込む由宇を見ながら、獏はベッドに腰掛ける。少年にも座卓の前に座るよう促した。

「オムライスでいいか?」

「……は、はい」

 少年は緊張しながら頷いた。この青年は獏の友達なのだろうかと考える。

「三日間あんまり食べてないんだって」

「三日も!? じゃあもっと胃に優しい物の方がいいか?」

「缶詰を食べてたので、大丈夫です」

「缶詰か……。食べられない物はある?」

「椎茸……」

「椎茸が苦手か。わかった」

 早速野菜を刻みながら、からからと笑う。さすが洋食屋で働いているだけあって手際が良い。会話をしながらでも手が止まることがない。

 その傍らで灰色海月は興味深そうに由宇の手元を見ている。いつも菓子しか作らないので、料理の工程は未知だ。

 鶏肉は冷蔵庫になかったので代わりにハムを入れ、味の濃い缶詰生活を考慮して薄味のライスを作った。手首をこんこんと動かし卵をくるりと巻いて完成だ。

「できたぞ。ケチャップは掛け放題」

 オムライスの皿とケチャップを机に置くと、久し振りの温かい御飯に少年は目を輝かせた。

「店のオムライスみたい!」

「一応、店のオムライスです」

 具材は異なるが、店でもオムライスは作っている。だが料理を届けるのは別の人がするため、自分の作った料理を食べてくれる人の顔を見る機会はあまりない。嬉しそうにふわふわの卵にスプーンを沈ませる姿を見ると、作った甲斐があったと由宇も嬉しくなる。

「店か……お金払った方がいい?」

「気にしなくていいですよ。たぶんですけど、願い事関連ですよね? 面白そうな話が聞ければそれで」

「願い事関連ではあるけど、面白いかはわからないね」

 忘れていたと由宇がコップに茶を入れて出すので、灰色海月もハッとして何処からか出したティーポットでカップに紅茶を注いだ。

「どうすればいいか教えてほしいって手紙には書いてたけど、それを言う前にまず、何があったか知らないとね。食べ終わったら教えてね」

「…………」

 少年の顔が陰る。咀嚼しながら言葉を纏めようとするが、途切れ途切れにしか纏まらなかった。

 半分ほど食べた頃に、ぽつりと言葉を漏らし始める。

「三日前に……父さんと母さんがここで待っててって言って、帰ってこないです」

 食べ終わったらと言われたが、纏めた言葉を先に出さないとまた頭の中で言葉が散らばってしまいそうで、少年は食べながら言葉を並べた。

「『ここ』っていうのは、君の家?」

「違います。昔お祖父ちゃんが住んでた家で……今は誰も住んでない家です」

「ってことは、電気や水道は止まってるのかな。缶詰は、家に残ってた物?」

「電気は点かなかったです。水道は……何もしてない。……あ、トイレが流れなくて、お風呂に水が残ってたからそれを使って……。缶詰は棚に入ってた」

「両親は君に、待ってて、って言っただけ?」

「はい」

 獏は顎に手を遣り黙考し、人差し指と親指で輪を作って少年を覗いた。

「ねえ、お兄さん。三日くらい前に何かあった? その便利な端末で調べられる?」

「ん?」

 椅子に座って話を聞いていた由宇は、徐に獏が指差した先にある机上の携帯端末に目を向けた。

「いつもなら僕が調べる所だけど、便利な物が目の前にあるなら使って楽したい」

「あー。ニュースを調べろってことですか」

 端末を手に取り、たぱたぱと指を動かす。三日くらい前のニュースと言われても、色々ありすぎる。

「どんな感じのニュースですか?」

「わざわざ自宅ではない場所で待たせるんだから、自宅にいられると不味い感じのニュース」

「マスコミが来そうな感じの? ――あ、これとかどうですか?」

 ニュースの記事を表示したまま座卓を越えて獏に端末を差し出す。その画面が一瞬目に映り、少年は目を丸くした。

「それ、父さんと母さんの写真!」

 受け取った端末に目を遣り、写真を大きく表示させて少年に向ける。普段はポストに手紙などアナログだが、獏も少しなら端末の操作がわかる。

「この顔と名前で間違いない?」

「合ってます!」

 少年の声は嬉しそうだが、その言葉を聞いて由宇は眉を顰めながら獏を見た。良いニュースではなかった。

「君の願いは、どうすればいいか教えてほしい、だよね」

 両親に会いたいでも捜せでもない。只どうすれば良いかを尋ねているだけだ。

「僕がそれを一つ言うだけで、君はその通りにするの?」

「え?」

「何を言っても、その通りにするの? 両親に待てと言われてずっと待ってたみたいに」

「それは……どうすればいいかわからないから……」

「言うことを聞くのが良い子とは限らないよ」

 端末を指で繰り記事を読みながら、靴にビニル袋を履かされた獏は今一決まらない格好で話す。

「現実をはっきり言ってほしい? それとも軽く濁す?」

「……あの、本当に……わからないので……」

「…………」

 わからないを繰り返す少年を一瞥し、端末を繰る指を止める。

 あと少し残ったオムライスを掬う手が止まり、少年は目を伏せる。それは縋る人間の目だった。

「君の両親は悪いことをした。だけど警察には行かず雲隠れした。君は巻き込まないように、もしくは邪魔だと判断され置いて行かれた。熱りが冷めたら迎えに来るかもしれないけど、一ヶ月や二ヶ月では無理だね。その間家から出るななんて、餓死しろって言ってるようなものでしょ。はっきり言うと、君は捨てられた」

「……っ!」

 握っていたスプーンが落ち、かしゃんと大きな音を立てた。少年の唇が戦慄いている。

「おい獏、ちょっとはっきり言い過ぎじゃ……」

 由宇もさすがに口を挟む。小学生の少年に言う言葉ではない。

「はっきり言わないとこの子はいつまでも家で待つよ。良い子は死んでしまう」

「でも何て言うか……もう少し言い方が……」

「家で待ちたいなら待ってもいいよ。死ぬだけだろうけど。生きたいなら、保護……また保護か……」

 急に獏は頭を抱えた。口で言うのは簡単だが、未成年の保護をするには対話が必要だ。保護してくれそうな家探しをしなければならない。今回の場合、保護してくれる施設に頼めばニュースを見た人間に勘付かれるだろう。個人宅で保護してほしい所だ。

「獏……? 具合が悪いんですか?」

「君がこの子を保護してくれたら楽なのに」

「そ、それはちょっと荷が重い……」

 部屋が狭いこともあるが、一人で犯罪者の子供を守れる自信がない。料理を作ってやることはできるが、世話とまでなるとこちらがどうすれば良いのか教えてほしい。

 二人の遣り取りを見て、漠然とした願い事の所為で困らせていると思った少年は、落としたスプーンを拾った。

「あの、願い事って変えることはできますか?」

 机上に置かれた口の付けていない紅茶を一瞥し、獏は微笑んだ。

「いいよ。何にする?」

「父さんと母さんに会わせてください」

「まあ、そうなるよね」

 ベッドから降り、紅茶の入ったカップを少年へ寄せる。

「食べて飲んだら行こうか。叶えてあげる」

「本当に会えるんですか!? 会えるなら最初からこの願い事にすれば良かった……」

「ふふ。あんまりお勧めしないけどね」

 その言葉の意味は少年にも由宇にもわからなかったが、灰色海月は獏の監視役として何度もその善行を見ている。灰色の睫毛を伏せ、灰色の傘を握った。獏がそうなるように仕向けているわけではない。人間が自然とそちらへ足を向けてしまうのだ。

「お兄さん。これ役に立ったよ。ありがとう」

 由宇に端末を返して微笑む。

 オムライスを食べ終え紅茶を飲み干した少年は、獏に促されてベランダへ出た。由宇の出した茶には口を付けなかった。

「お兄さんにも御世話になってるし、何か願い事があったらサービスするね」

「お、おう……」

 願い事を叶えるのは大変なことなのだと、灰色の傘をくるりと回して姿を消す三人を見て肝に銘じた。後には二人が脱いで行ったビニル袋だけがぽつんと落ちていた。携帯端末を見ると、最後に地図を表示した痕跡があった。

 移動した三人はまず少年が手紙を投函した家の中に現れる。夜なので暗いが近くの街灯の光が丁度差し込んでいて、夜目の利く獏でなくとも家具の形がわかった。

「……ああこれか」

 机の上に置かれた手作りのポストを見つけて拾う。赤い折紙で折った只の箱だ。随分と小さく折り畳まれた手紙だと思ったが、箱の大きさを見て納得した。

 赤い箱を置き、周囲を見渡す。埃っぽく、暫く空き家だったことがわかる。

「三日経ってるけど、クラゲさんは思念の残滓って辿れる?」

「残滓は無理です」

「マキさんなら三日経ってても辿れるのかなぁ」

「マキさんは特別だと思いますが……。残滓が辿れるんですか?」

「死体の残滓を辿ってたことがあったんだよね。だったら生きてる人なら楽に辿れるのかなって」

「マキさんとは分けて考えた方がいいかもしれません」

「そう? マキさん凄いなぁ」

「……私では駄目でしょうか?」

「できることとできないことがあるのは当然だよ。それを比べてもしょうがない。マキさんに罪人と仲良くしろって言ってもできないのと同じ」

 その例えは少し違う気がしたが、灰色海月は小さく頷いておいた。

「クラゲさんの良い所はたくさんあるよ。目を向けたら意志を汲み取ってくれるし、御菓子は美味しいし。御陰で最近鉄屑はあんまり食べなくなったね」

 台所に放置された空の缶詰を確認したり戸棚を開けたり、玄関を覗いたりしながら話す。

「本当に何も考えずに君を放置しただけだね。長期保存ができる缶詰も賞味期限がもうすぐ切れそう。切れてなかったのは不幸中の幸いかな?」

 溜息を吐いて元の机まで戻り、窓の外を一瞥した。カーテンの隙間から見える外は、閑静な住宅街だ。

「両親が何処へ行ったかだけど、家からはある程度離れてて知り合いも近くにいない、何なら人もあんまりいないような所にいると思う。ニュースで顔が出てるからね。三日間ニュースの続報がないってことは、大きな動きはしてないと思う」

 何処かに隠れているのか、それとももう()()()のか。

「――じゃ、次は君の本当の家に行こうか。クラゲさん、なるべく家の中に移動してほしい。外だと目を付けられそうだから」

「はい」

 傘を回して移動することにも少年は慣れてきた。家の住所は教えていないが、転瞬の間に、三日離れただけなのにもう懐かしい家の中にいた。

 獏は窓に掛かったカーテンの端を抓み、そっと外を窺う。姿は見えないが人の気配はする。家の中にまでは入って来ないと思うが、長居はしない方が良いだろう。

 小さな会社を経営していたようだが、傾いた経営を立て直すために罪を犯し、それも虚しく倒産。こうして逃げたらしい。人間は追い詰められた時に元来の性格が濃く出るものだ。少年が会いに行った所で、歓迎はされないだろう。

 一戸建てだがあまり広くはない家なので、すぐに大方は見て回れた。

「クラゲさん。次は僕の考えてる所へ」

「はい」

 目を閉じて額を合わせ、思念の精度を高める。……が、額を覆う獏の動物面は邪魔でしかなかった。

 灰色海月は灰色の傘を回し、今度は暗闇の中に移動した。

 家具の中にあった隙間は両親が持ち出した物の跡だ。それが自棄に少なかった。何ヶ月も逃げて耐えようと思っていない。もしかするともう、この世にはいないかもしれない。

「ねえ、こんな所でだけど、代価の話をしようか」

「え? 代価……」

 スリッパを履いたままの少年は不安そうに黒い動物面を被る獏を見上げた。突然鬱蒼と茂る暗い森の中に連れて来られて只でさえ不安だと言うのに、代価とは何なのかと首を傾げる。

 獏は周囲に指の輪を向け、淡々と言葉を紡いだ。

「願い事を叶えると代価が発生する。代価は君の心をほんの少し戴くだけだよ。安心して、痛いことはしないから」

 そう決まってはいるが、今回は叶えられるかわからない。代価の話など無駄になるかもしれない。

「父さんと母さんに会えるなら、それでいい……」

 何処か遠くを見詰める少年の横顔を見遣り、獏は詰まらなさそうに指の輪を解いた。

「どうして子供は親に固執するんだろうね」

 少年の手を取り、獏は歩き出す。その数歩後ろから灰色海月が追う。

 暗い木々の隙間から朧な光が差し、突然に視界が開けた。月明かりを映す池があった。その辺を足に絡む草を分けて進む。

「この辺だと思うんだけど」

 指で作った覗き窓で、人がいることはわかっている。木々の隙間で死角になっているのだろうと頭を振りながら確認する。

「……あ」

 漸く遠目に姿を見付け、獏は蹲んで少年と目線を合わせ指を差した。

「あそこに人がいるの、見えるかな?」

 少年は指の先に目を凝らし、じっと凝視した。月明かりで目も慣れてきた頃、動く人影があることに気付いた。

「見えました」

「君の両親だと思う。感動的な再会だし、僕は隠れながら付いて行くよ。行っておいで」

「ありがとうございます!」

 少年は嬉しそうに頭を下げ、足元に気を付けながら両親に向かって走った。獏は暗闇に黒衣で身を隠して見守る。


「最期に会えて、良かったね」


 両親に抱き締められる少年の姿はとても幸せそうだった。

 その表情が強張り、両親ではなく助けを求めるように周囲に目を向けたのは獏を捜していたのだろうか。

 両親は少年を抱き締めたまま、池に飛び込んだ。少年は足掻き一度は腕を擦り抜けるが、池の端に足を滑らせ落ちてしまった。まるで呪いのように、離さないと言われているようだった。静寂を乱した波紋はすぐに何事もなかったかのように静寂を取り戻す。

 両親は少年を置いて死のうと考えていたのだろう。テレビも見られない空き家に置いたのは、ニュースを知られたくなかったからだろう。だがいざ直面すると、巻き込むまいと置いて来た少年のことが気掛りで飛び込めなかった。そこに現れた少年が両親の背中を押してしまったのだ。やはりどんなことがあっても一緒にいたいのだと。

 獏は詰まらなさそうに、風のない池を見下ろした。

「死んだら代価を貰えないのに」

 踵を返し、灰色海月を一瞥する。彼女は一拍置いて灰色の傘を翳した。

「だから人間は嫌いだ」

 吐き捨てた言葉は人間に届くことなく、二人の姿は茂みから消えた。苦労して願い事を叶えても、簡単に踏み躙られてしまう。

 助けようと思えば助けられたが、そんな願い事はされていない。獏は善人ではない。人間に都合の良い善人にはなりたくなかった。

 死人は出したくなかったが、直接手に掛けたわけではない。人間の望みを見守っていただけだ。

 死体が見つかればニュースになるだろう。そうすれば由宇の目にも触れることになる。それだけは少し、申し訳なく思った。


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