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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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34/124

34-踏花


 白い傘を畳むと、赤い酸漿提灯と蔦の絡まる石壁に挟まれた石段が上下へと続く。中腹の病院を少し過ぎた辺りから提灯が疎らになり薄暗くなる。提灯の代わりに壁に不揃いな街灯が打ち付けられてはいるが、そこに店を構える変転人は無く、廃墟のようにいつでも静まり返っている。

 獣は空を飛ぶ者が多いため、石段まで伸びる草も刈られることなく足に絡み付く。一言で言うと宵街の上層部は不気味だった。獣の棲む家はあるが、物音はしない。

 足元が悪いので、変転人が上層を歩く時は常夜燈は必須だ。細い筒状の常夜燈を提げ、白花苧環は足元を確認しながら一歩一歩登っていく。

 誰とも擦れ違うことなく、目的地である箱が積まれたような石壁を見上げて中に入る。罪人を裁くための場所だ。科刑所と呼んでいる。澱んだ空気の中、上階にある狴犴(へいかん)の部屋へ向かう。仄かに照らす灯りはあるが、出入口ではまだ常夜燈は手放せない。

 昇降機はないので、草を踏んで階段を上がっていく。窓には淡い色の型板硝子が嵌められ、内からも外からも向こう側が見えない。閉じられた場所だ。

 暗い廊下を進むと重厚な扉が現れる。中は明るいので常夜燈は仕舞っておく。軽く扉を叩き、深呼吸した。

「白花苧環です。獏から報告書を預かって来ました」

「――ああ苧環か。入れ」

 中から狴犴の声が聞こえた。一気に緊張感が増す。

 扉を開けると、金色の長い髪を結わえた若い男が机に向かっていた。書類に目を通している。この男はいつもこうだ。いつも忙しそうに書類を見ている。机上に報告書を差し出すと、そこで漸く顔を上げた。

「随分と時間が掛かったな」

「報告書作成が不得手のようで」

「そうか」

 淡々とした声と感情の読めない双眸で、封筒から報告書を引き出した。

 白花苧環は一歩下がって待つ。報告書がすぐに理解されれば良いのだが、この沈黙は身に重い。

 時間を掛けて読み込まれた報告書から顔を上げた狴犴は、確かめるように白花苧環を見詰めた。何か問題でもあったのだろうかと緊張が走る。

「つまり悪夢と言う物は何者であっても触れることができず、それを処理できるのも獏のみ――と言うことか。禁じていた悪夢を食べた理由はわかったが、処理の重要性はまだ不確かな部分が多いな。認識できていないだけかもしれないが、悪夢で騒ぎになった実例が乏し過ぎる。処理せずとも自然に消滅する場合もあるのではないかと思うが、それは何か言っていたか?」

「いえ……何も言ってませんでした」

 慎重に言葉を選ぼうとするが、緊張で喉が渇く。威圧感に押し潰されそうになってしまう。肉食動物に睨まれている餌の気分だ。

 狴犴はもう一度報告書に目を通し、机上に置いた。

「また悪夢に遭遇した時は報告書を提出してくれ。長く御苦労だったな、苧環」

「はい。次はもっと早く仕上げるように言っておきます」

 深々と白い頭を下げて下がろうとし、ぴたりと足を止めてしまった。予てから気になってはいたのだ。何故白である自分が、罪人である獏の許へ行かされているのか。何故獏だったのか。経験のためとは言うが、罪人と接触する経験とは何なのかと。その程度なら尋ねてみても良いのではないか。最近は人と話す機会も多くなった。会話は上手くできているはずだ。今なら話せるのではないかと思った。

「……御尋ねしたいことがあるんですが」

「どうした?」

 拒まれはしないようなので、白花苧環は話すことにした。

「他にも罪人はいるのに、何故獏の許だったんでしょうか?」

 狴犴は一瞬だけ口を噤むが、すぐに答えた。

「私が良いと思ったからだ」

「獏だけ特別な処遇なんですよね? 他の罪人は地下牢で、善行も科されていないらしいと……」

「随分と罪人に興味があるんだな」

「いえ、そんなことは」

「絆されたか? あの獏は特別だ。睚眦(がいさい)の手に落とさないために鵺に頼んで隔離している。あの獏は強い」

 徐に立ち上がり、鋭い目を白花苧環に向ける。それだけで彼は硬直してしまう。

「お前は強いが、飽くまで変転人の中でだ。獣には勝てない。強い獣に接触してお前が強くなるならそれもいい。だが一番は――」

 狴犴は白花苧環の白い首に手を掛けた。絞められているわけではないが、白花苧環は息を呑む。不味い質問をしてしまったのではないかと後悔した。

「――――」

 硬直する耳元に囁き、狴犴は彼の白い頭を掴んだ。

「ァ……」

 ぞわりと全身に怖気が走った。狴犴は白花苧環が花の頃にどんな風に、どの部分が潰れて無くなっていたかを正確に知っている。掴まれた頭のその部分は、潰れていた部分だ。今ではその部分が綺麗に存在し傷も無いのだが、触れられると未だに無い感覚を思い出してしまう。花の頃に痛みは無かったが、人の姿を与えられたことにより無い感覚を感じるようになってしまった。不安定に歪むような感覚は吐き気にも似て全身を締め付ける。

 偶然当たる程度なら何ともないが、弱味と言うなら頭と両脚を強く掴まれることだろうか。

「獏は罪人だ。それは忘れるな。絆されたのなら、それは正さなければならない」

 頭を掴まれたまま床へ叩き付けられ、鈍い音がした。固い踵で脚を踏み付けられ、呼吸が定まらなくなる。割れた頭部から目に血が入り、視界がぼやける。

「絆され……て……なんか……」

「仲良くしろと言った覚えはない」

「して……な……」

「お前は強い。故に殺すのは惜しい。だが私に逆らうのなら、お前を殺してその種を植えることもできる。また一から育てればいいことだ」

「ま……た…………?」

 脚が潰れるような感覚があった。花だったら痛みはなかったのに。根も無く動けることを良く思っていたが、痛みだけは、いらなかった。

 花は枯れて結実し種を落とすが、変転人となってもそれは変わらないのだと初めて知った。

 よく見えなかったが、あの日崖から人間を突き落とし苧環を毟らせたのは狴犴だったのだ。あの場所に植えたのもきっとそうだ。


 オレは――何人目ですか?


 そういったことを何度繰り返しているのかはわからないが、痛みの中ではそれ以上の思考はできなかった。ぬるりとした感触はきっと自分の血なのだろう。意識がぼんやりとする。

 何処が潰れたことによる痛みが原因なのか、意識が遠く、毟られたあの時のように何も考えられなかった。


     * * *


 誰もいない街の中で、明かりを灯し甘い香りを漂わせる店が一つあった。

 並ぶ棚の間を縫い、黒い動物面を被った獏は一段一段じっくりと確認していく。光の届かない奥にも目を遣るが、探し物は見つからなかった。

(倉庫かな……? そう思うと倉庫に入れた気もしてきた)

 全ての棚を見終えて、二階へ上がる。甘い香りは二階まで上ってきている。

 灰色海月は台所で暇潰しのケーキを焼いている。ドライフルーツ入りのパウンドケーキの次は、レモンピールとジンジャーを入れているらしい。カフェを営む人間と知り合ったからだろうか、洒落た菓子を作るようになった。

 二階の奥にある物置部屋のドアを開けると、暗い部屋に光が差す。見える所に探し物の木箱はなかった。捨てるはずの物ではあったが、見つからないと気になってしまう。朱い櫛の収まった木箱は小さいが、何処か隙間にでも落ちてしまったのだろうか。

 背後で小さな物音を捉えて振り向く。白いリボンを付けた黒猫が様子を窺っていた。

「……ああ、君か」

 目線を合わせるように、黒猫の横に蹲み込む。獏にだけは逃げずに懐いているので、その場から動かず金色の目をじっと獏に向けた。

「もしかして、君が悪戯で何処かに持って行っちゃったのかな?」

 黒猫は小さく鳴くが、猫の言葉はわからない。猫も人の言葉は理解していないだろう。

「君が欲しいって言うならあげるけど……」

 猫は櫛を使わないが、無理に奪おうとは思わない。どうせ捨てる物だ。

 見上げる黒猫を撫でると、気持ちが良いのか甘えるように鳴いた。

 黒猫に微笑み、立ち上がってもう一度部屋の中をぐるりと見回す。

「……あれ? これ羽が折れてたかな……?」

 無造作に転がされている小さな木彫りの鳥の翼が欠けていた。部屋の中の物を一つ一つ確認しているわけではないが、部屋に入って見える範囲の物くらいは覚えているつもりだ。黒猫の方をちらりと見るが、犯人とは限らない。

「まあいいか……下に下りよう」

 黒猫を抱き上げ、今度こそドアを閉めた。

 一階へ下りると、机上にパウンドケーキが並んでいた。台所を覗くと、灰色海月と目が合う。

「熱いので、手は触れないようにお願いします。冷ます間だけ置かせてください」

「台所、ちょっと狭いのかな?」

 椅子に座り、触れないように黒猫は膝に置いておく。

「私は手紙を拾いに行ってきます」

「えっ、このまま?」

「……作り過ぎましたか? 久し振りだったので……」

「ふふ。じゃあ拾いに行ってる間に木箱を積んで、簡易な棚を作っておくよ」

「ありがとうございます」

 灰色海月は頭を下げ、店を出る。長く入院していたので、久し振りの菓子作りに精が出ているようだ。パウンドケーキはそこそこ重みを感じるが、問題なく持てるようで安心する。彼女の手が切断された時はもう二度と物を持つことができないのではないかと思ったが、宵街の病院は優秀なようだ。掌から物を出す変転人に手が無くなってしまえば問題だ。

 台所の隅に木箱を積み、型に入ったケーキを置いていく。もう冷めている物もあるが、型に入れたままで木箱に置いた。

 そうこうしていると灰色海月は少年を連れて戻ってきた。机上のケーキは全て台所へ置いたが、少し狭くなってしまった。紅茶を淹れる場所は残っているので大丈夫だとは思うが、ちらりと台所を見ながら獏は革張りの古い椅子に座る。

 少年も緊張した面持ちで椅子に座る。獏の黒い動物面を見て、思わず目を逸らした。

「怖い?」

「あっ、いえ! そんなことは……」

 少年は慌てて首を振るが、良い感情で目を逸らしたわけではないことはわかる。面が怖いのか顔が見えないのが怖いのか、どちらにせよ恐れられているのだと獏は微笑んだ。

「獏……ですよね?」

「そうだよ」

「本当にいるとは思わなくて……。いるってことは、ここは夢の中なんですか……?」

 初めて言われた言葉だったので、獏は目を瞬いた。返事が遅れたので、少年は慌てている。慌てなくとも取って喰ったりはしない。

「夢……か。メルヘンチックな噂も流れてるんだね。残念だけどここは夢の中じゃなくて、現実だよ。君達のいる場所からは手の届かない空間にあるけど」

「え……ぁ……はい」

 言葉の意味が理解できなかったのか、少年はぽかんと口を開けた。

「それは置いておいて、君の願い事を聞こうかな」

 本題に入り、少年は反射的に背筋を伸ばした。獏の存在を疑ってはいたが、願い事がないわけではない。

「願い事って言っていいのかわからないんですが……話し相手になってほしいです」

「話し相手になる……が君の願い事?」

「は、はい」

「変わった願い事だね。いいよ、話し相手になってあげる。何の話をするの?」

 不思議な願い事に小首を傾げながらも、灰色海月は少年の前に紅茶の入ったティーカップを置いた。勿論、獏の前にもだ。

「そろそろ将来……えっと、進路を決めないといけなくて。でもなりたいものもないし……」

「話し相手と言うか、相談に近いね。でも初対面の僕より、君のことをよく知ってる家族とか友達に相談する方が実のある話ができそうだけど」

「親は……俺のって言うか、理想が入るので……。俺がやりたいことなのかわからなくて」

「そっか。なりたいものが無いって言うのはね、二種類あると思う。一つは、本当に何も興味が無い場合。もう一つは、気になるものに君がまだ出会ってない場合」

「出会ってない……?」

「色々見て、聞いて、知っていったら、何か見つかるかもしれない。君が今いるのは狭い世界だから、もっと遠くも見てごらん。色々見えてくると、何か見つかるかもしれないよ」

「そう……なんですかね……」

 まだよく理解していないようだが、食い入るように澄んだ目をしている。獏は紅茶を飲みながら、お喋りするだけなんてなんて楽な願い事だろうと思った。

 少年は怪訝な顔をしながらも紅茶を飲み、言葉を咀嚼する。未知に対しては無知だ。知らない所に何かが隠れているかもしれないと言うのは、まるで宝探しのようだと思った。宝なのかはまだわからないが。

「知ってることでも、深く知ることで見え方が変わ」

 言葉の途中で、ドンと大きな音がドアの向こうに叩き付けられた。

「何……?」

 一様に薄暗いドアの方を見、怪訝な顔をする。大きな音は一度だけで、後はしんとしていた。

「来客の予定でもあった?」

「いえ……。見てきます」

 灰色海月は小走りでドアの前まで行き、ノブを握って少し考えた後、陰に隠れるようにドアを開けた。少し開いた所ですぐに異常に気付いた。ドアの隙間から見える白と赤が、夜の中で鮮明に浮かび上がっていた。

「!?」

 全ての言葉が吹き飛び、呼吸も忘れてしまう。赤く血に塗れた白い少年がぐったりと抱えられていた。

 獏は懐から杖を引き抜き、同じく息を呑む契約者の少年の横を跳び越える。

「誰?」

 死んでいるのか意識が無いだけなのか血の気の無い白花苧環を抱えている少年に見覚えはなかった。この街に足を踏み入れることができるのだから只の人間のはずがない。獣か変転人か――少年の容姿に統一された色はなかった。青い髪に、黒い服を着ている。獣かもしれない。

「えと……ボクがやったんじゃないよ。ボクはこの人を助けたいだけ。早くしないと、死んでしまう」

 その言葉を信じて灰色海月が近寄るので、止める声も出ず獏も警戒はしたままで駆け寄った。

 力尽きたのか、知らない少年は重そうに白花苧環を下ろす。獏は杖を翳しながら彼の状態を確認した。酷い有様だった。彼の実力でここまで一方的に遣られるのは違和感もある。抵抗の跡がない。

「頭が酷い……頭蓋が遣られてる。両脚も潰されてる。僕は止血はできるけど、治療はできない。宵街の病院に連れて行った方がいい」

 赤く染まった頭に触れると、ぬちゃりと指が沈む。いつ死んでもおかしくない状態だ。

「宵街は駄目……人間の病院でもいい?」

 知らない少年は首を振りながら苦しげな表情をした。

 灰色海月の切断された両手を繋いでくれた宵街の病院ならばと口にしたのだが、何か事情がありそうだった。

「受け入れてくれるなら、何処の病院でもいいよ」

 止血に集中しながら答える。変転人も人間だ。人間の医療で治療はできる。只少し、普通の人間よりも治癒力が高いので驚くかもしれないが。

「良かった。この人、狴犴の部屋で見つけたんだ。状況はよくわからなかったんだけど、狴犴が踏み付けてたから、宵街に留まるのは不味いと思った。ここに来たのは――の前に病院だな。受け入れてくれるか訊いてくる」

「…………」

 白花苧環から目は離せないが、遠離る足音はすぐに消える。

 狴犴が何故、という疑問はあったが、考えている余裕はなかった。動物面を脱ぎ捨て止血を施しながら、砕けた骨も動かしておく。骨を接着することはできないが、刺さりそうな骨を動かしておくことはできる。取り除いておきたい骨の欠片もあるが、外に出せるほどの傷口は開いていない。他の肉を傷付けないように頭と両脚の骨を慎重に移動させ、パズルのように組み合わせる。

「……クラゲさん。今からすることは内緒にしてね」

「? ……わかりました」

 息を止めてしまっていたことに気付き、灰色海月は息を吸って頷いた。何をするのかはわからないが、見守ることしかできない。

「生命力を少し分けてあげる」

 応急処置とは言え、罪人に助けられたと知れば彼はまた不快に思うだろう。意識が無いのなら、知らなくても良い。

 血の気の無い白い顔にはまだ仄かに温度が感じられる。白花苧環に口付け、命の灯火を絶やさないようにする。

 口を離すと、知らない少年が慌ただしく戻って来た。下を向いたまま、獏もそっと動物面を被り直す。

「受け入れてくれるって! 準備して待ってくれてる」

「力で膜を張って止血をして、砕けた骨も位置合わせだけした。衝撃を与えると膜は破れるから、丁重に運んでね」

「凄い……獣はやっぱり凄いな。治療が終わったら戻って来ます」

 横たわる白花苧環に慎重に手を添え、知らない少年は灰色の傘を開いてくるりと回した。

 消えた空間を見ながら、獏は目を丸くした。傘を持つのは変転人だけだ。

「灰色……ってことは、無色……? そうは見えなかったけど……。灰ってことは、もしかしてクラゲさんとは顔見知りなの?」

「いえ、知らない人です。ですが、灰色は私の他に一人しかいないそうです」

 灰は数が少ないとは聞いていたが、たった二人しかいないらしい。

「旅好きで宵街に留まってることが少ないそうです。もし灰なら、浅葱斑(アサギマダラ)さんだと思います」

 浅葱斑は毒のある蝶だ。毒があるなら無色で間違いないだろう。容姿の色も蝶の色と一致する。実際の蝶を見たことはないが、毒のある生物は大抵美しい。自然界では警戒させるための色だが、人の目には美しく見えてしまう。

 立ち上がって暗い街へ目を遣るが、戻って来ると言ってもすぐには戻って来ないだろう。落ち着かないが、今はただ待つことしかできない。


「――俺、医者になりたいです!」


「うわ、びっくりした」

 契約者がいることをすっかり忘れていた。突然背後で叫ばれ肩が跳ねた。

「俺も今の人を助けたいと思いました。でも今の俺は何もできなくて……だから、医者……」

 次第に自信がなくなってきたのか尻窄みになってしまう。獏は苦笑した後、微笑んだ。

「いいんじゃないかな。応援してるよ」

 少年は笑顔になり、獏は代価の話をしていないことを思い出した。突然の来訪者にタイミングを取られてしまった。

「じゃあね、支障がない程度の代価を貰うよ」

「だ……代価?」

「大丈夫。昨日の晩御飯の記憶を貰うだけだから」

「?」

 話し相手という簡単な願い事だったので、昨日の晩御飯の記憶で充分だ。いつもは心の柔らかい部分をほんの少しと言っているが、痛みも苦しみもないことは事実だが、その人間を構成する一部を失うことには変わりない。何気ない日常の献立など部分的な記憶程度なら特に変わりないのだが、その人間の思考に影響する感情など重要な部分を抜いてしまうと人格に影響が出てしまう。それがその人間にとって不必要だと思う感情であっても、その感情を持って何を思うか、それまで発生していた思考が生み出されなくなる。獏に代価を指定するなら、日常の何気ないすぐに忘れてしまうような部分的な記憶を差し出すのが正解だ。

 少年は理解できていないようだが、詳しく説明するには白花苧環の所為で気が逸り上手くできそうにない。

「想定外の事態で僕も落ち着かないし、話し相手はここまででいいかな?」

「はい……大変な時に……」

 ぴたりと、杖の先に付いた透明な石を少年の額に当てた。少年は無意識に動きを止め、息も止めた。

 石が光り額から離されると、止めていた息を吐いた。

「はい御終い。クラゲさん、後はよろしくね」

「はい」

 灰色海月は頭を下げ、少年を促す。少年も獏に何度も頭を下げ、店を後にした。

 残された獏は少年の分のカップを台所へ運び、ゆっくりと洗った。水が冷たい。白花苧環はこれよりは温かかった。生命力を分け与えなければ死んでいたかもしれないほど灯火はか細かった。失血が酷かった。

 カップを拭いて置くと、指先が微かに震えていることに気付いた。生命力を分け与えたことによる一時的な副作用かもしれない。例えるなら貧血のような状態だろうか。

(僕の報告書が駄目だったのかもしれない……)

 時期を考えれば、白花苧環が狴犴と接触したのは獏の書いた報告書を提出するためだった可能性が高い。自分が原因かもしれないと思うと、生命力を分け与えずにはいられなかった。

 狴犴はこの街には来ないだろう。この街は全体を牢として扱っている。罪人を裁く立場の者が牢の中へ入ろうとは思わないはずだ。鵺は何度か来ているが、鵺は執行人であり、高みの見物を決める立場ではない。罪人嫌いの白花苧環はここに来るのを大層嫌がっていた。

 椅子に腰掛けるが、ただ待つというのは落ち着かないものだ。

 灰色海月も戻って来るが、そわそわとしている。台所へ入り、積んだ木箱から型に入ったままのパウンドケーキを取り出し中身を抜き出す。何も手を付けられない獏とは違い、こちらは何かをしていなければ落ち着かないのだろう。

「ケーキの切れ端、食べますか?」

 大量のパウンドケーキから切り出した端を盛った皿を机上に置かれ、獏はそれをじっと見た。

「あ……うん……その内……」

「マキさんはきっと大丈夫です。しぶといと思います」

「うん……しぶとそうだよね……。遣られたのは頭と両脚だけで両手は何ともなかったのに、何で抗わなかったんだろ……手が無事なら武器を握れるのに」

「…………」

 人の姿を与えてくれた狴犴は親のようなものだと白花苧環が言っていたことを思い出し、灰色海月は口を噤んだ。親のように思っていたから、何もできなかったのかもしれない。灰色海月も自分に人の姿を与えてくれた獏に同じことをされれば、抵抗はしないかもしれない。これは獣に理解できる感情なのか、定かではなかった。

 一体どれほどの時間が流れただろうか、時間の流れが止まっていて停滞しているこの街の中では時間など感じることはできず、ただ無だけが過ぎていく。机上に置かれたケーキの切れ端の山は減ることなく、甘い香りを漂わせるだけだった。

 変わらぬ夜の中で待ち疲れたドアが開いた時、反射的に立ち上がった。頭に包帯を巻いて白いガウンを着せられた白花苧環を重そうに抱える浅葱斑がゆっくりと店に足を入れた。自分の背丈よりも大きい白花苧環を抱えるのは大変だろう。獏は急いで駆け寄り、抱える役を代わってやる。獏の力なら、少し軽くすることができる。

「生きてる……よね?」

「はい。大丈夫みたいです。知り合いの病院なんですけど、処置が的確だった御陰で大分助かったと言われました。がっつり輸血しましたよ」

「それは良かった。安心したよ」

 このまま抱えているわけにもいかないので、二階のベッドへ寝かせに行く。話はそれからだ。

 人形のように眠る白花苧環をベッドに寝かせ、布団を掛ける。輸血した御陰だろう、顔色は大分良くなっている。

 ベッドから少し離れて椅子を置き、彼の様子を窺いながら座った。浅葱斑は殺風景な部屋をぐるりと興味深そうに見回している。

「それで、君は? マキさんの知り合い?」

「ボクは浅葱斑。この人、マキさんって言うんですか? 全然知らない人です」

「君は灰の変転人みたいだけど、名前に灰は冠してないんだね」

「折角浅葱って色が入ってるので。灰色浅葱斑なんて呼ばれたくないな」

 容姿の色が灰色でないことにもこれで納得はした。旅好きで宵街にあまり留まらないという話からも、束縛を嫌い自由に動き回っているのだと窺える。

「じゃあ……アサギさん。この状況って何なの?」

 本題を切り出すと、浅葱斑は首を捻りながら答えてくれた。

「うーん……まずボクは世界一周旅行に行ってたんだけど。……いや、全部の国に行ったわけじゃないから世界を一周と言っていいのかわからないけど。それでね、久し振りに宵街に戻ったら、狴犴から呼び出し食らってたんだよ。どうせさ、勝手に飛び回らないように捕まえておこうとしたんじゃない?」

 迷惑そうな顔をする浅葱斑は、今まで見た変転人の中で一番感情が表情に出ていた。

「それで狴犴の所に行ったら、展翅でもされてるのかなって感じでその人が踏まれてて、何か不味い感じだなと思って、咄嗟にと言うか反射的に連れ出した」

「…………」

「さっきも言った通り、宵街に留まってたらすぐに狴犴に見つかるだろうし、かと言って人間の所に直接行くのも人の目があるし。変な罪人がいるって話は風の噂で聞いてたから、場所を探ってここに来た。罪人のことはよく知らないけど広い街に罪人と監視役だけなら人の目もないし、罪人だけど獣なら何とかしてくれないかと思ったんだ。罪人だったら、狴犴のこと嫌いだよね?」

「変な罪人って言われてるの? 僕……。まあ狴犴は好かないけど」

「一部の間だけど。地下牢以外の牢なんて初めてじゃないですか? 白い人を連れて来るのはどうかと思ったんですけど、気絶してるし大丈夫かなと。まさか知り合いとは思わなかった」

「白花苧環って、名前くらいは聞いたことあるんじゃない?」

 顔は知らずとも彼は宵街では有名人のはずだ。宵街にあまり留まらないらしい浅葱斑がその限りであるかはわからず様子を窺うと、彼は見る見る青褪めた。

「えっ苧環!? ええ……不味い所に首突っ込んだかな……どうしよう。捕まったら拷問かも……」

「マキさんが目を覚ましたら話を聞けると思うし、不味いかどうかはそれから考えようよ」

「苧環は名札付けておいてほしいですよね。危険回避のために」

 噂の一人歩きで孤立していく白花苧環に多少は同情しつつ、獏は苦笑した。名札なんて付けたら、彼に近付く者がいなくなってしまうかもしれない。

「ああそうだ。それで貴方は? 何て獣なんですか? 変なお面被ってますけど」

 何か言い返したかったが、やめておいた。今は本題を進める。変なお面と言われたのは初めてではない。

「僕は獏だよ」

「獏? …………獏?」

 二度も尋ね、浅葱斑はきょとんとした。余程意外な獣だったらしい。

「獏って……悪夢を喰らうっていうあれですか?」

「そう。それ」

「夢を食べるだけの弱小獣だと思ってました」

「いきなり罵倒してくるね君」

「いや、でも、見方変わりますね! 獏って凄いですね!」

「現金だね……。昔はもっと非力だったんだけどね。色々あって、こうなった」

「たぶんですけど、たぶん凄く強いですね?」

 本当に調子の良い現金な性格だと思った。浅葱斑は変転人になって相当年月を経ているのではないだろうか。本当に感情が豊かだ。或いは旅をして人間に接する機会が多く表情をよく見ているのかもしれない。

「狴犴は強い人が大好きなので、それできっと特別扱いされてるんですよ! ……あ、どうしよう、本当に不味い所に首突っ込んだかもしれない……もう旅に出るしかない……」

「待ってまだ行かないで」

 ころころと表情を変えて興奮したり項垂れたり忙しい人だ。対して灰色海月はドアの脇で置物のように黙って立っている。

「良ければ、ケーキの端でも食べますか?」

「突然初対面の人に何を勧めるのクラゲさん」

「ケーキに端なんてあります? ケーキは円くて……まさか哲学?」

 四角いケーキを見たことがないのだろうか。眠る怪我人の近くであまり騒ぐわけにもいかないと、続きは階下へ促した。ドアを開けながら白花苧環の方に目を遣るが、嫌味な言葉を吐くこともなく白い睫毛は下りたままだった。



 三人が階下へ下り、停滞した時間の中でまた幾らか時が過ぎた頃、静かな部屋の中でぼんやりと白い睫毛を上げて覗いた瞳が薄暗い天井を見詰めた。見慣れない天井だった。

 体を起こそうとすると、全身が鉛のように重く動かなかった。

「っ……」

 頭が妙に痛む。

 首は回るようなので、少しだけ顔を傾けた。部屋の隅にドアが見える。その木のドアに見覚えがあるような、ないような、思考がぼやける。

 背に当たる柔らかい感触と体を覆う柔らかさは、おそらくベッドだろう。どうやら寝ていたらしいが、寝た記憶がない。

 視界の隅でドアが静かに開く。首を傾けようとすると頭が痛むので、目だけそちらに向けた。灰色の女と目が合った。

「あっ……」

 彼女には見覚えがあった。灰色海月は小さく声を上げて振り返り、返しかけた踵を元に戻した。部屋を出ようとしたことを思い直したようにベッドへ近寄る。

「マキさん……目を覚ましたんですね。話せますか?」

「……話せ、ます」

 思ったよりも掠れた声が出て自分で驚いてしまうが、白花苧環は明瞭に言葉を発した。

「マキさんは嫌がるかもしれませんが……獏を呼んできてもいいですか?」

「貴方がいる時点で……あの街だと思いました。状況がわからないので……わかるなら、教えてほしいです」

 灰色海月は頷き、灰色のスカートを持ち上げて階下へ駆け下りて行った。

 折り返し獏を連れて来て、獏も足早にベッドに歩んだ。開けたドアの外にもう一人誰かいるようだが、ちらりと見えた顔に覚えはなかった。

「マキさん、何があったか話せる? 話せないなら、口を動かすだけでもいいから」

 動物面で隠れて顔は見えないが、心配そうな声で表情は手に取るようにわかった。

「聞きたいのは……オレの方です。何故、オレは寝てるんですか? ……体は、どうなってるんですか……? 動かなくて……」

「覚えてないの……?」

 怪訝な声に、白花苧環はぼんやりともう一度部屋の中に視線を巡らせた。

「君が覚えてる一番最近の記憶って何?」

 睫毛を伏せ、ぼんやりと考えた。目覚める前の一番新しい記憶。宵街に行き、狴犴の許へ行った。

「報告書を……狴犴に渡しました。そこから先が……わからないです」

 空気が強張ったことは白花苧環にもすぐにわかった。獏が一瞬言葉に詰まったことも、面を被ってはいるが、わかった。

「……記憶が無い……?」

 記憶が無いのかどうかは白花苧環にはわからなかった。何せ何もわからないのだ。記憶が無いからわからないのか、記憶に異常はなくてもわからないのか、それがわからない。

「じゃあ落ち着いて……凄く落ち着いて聞いてほしい」

「……わかりました」

「君は、頭と両脚を潰されてた。治療はしたけど、安静にしてて」

「頭と……脚……この痛みは、そういうことですか……」

「狴犴の部屋で倒れてた君を浅葱斑って人が助けて、ここに連れて来た。何でそんなことになったのかはわからないけど……君も覚えてないんだね」

「……やったのは、狴犴でしょうね」

「!」

「オレの嫌な所……正確に潰してますね……。この位置を把握してるのは……狴犴だけだと思うので……。何か……粗相でもしたんでしょうね……」

 消え入りそうな掠れた小さな声で、本当は言いたくないのだろう訥々と言葉を紡ぐ。

「無様……ですね」

 獏に向かって言っていた言葉を、自分に向かって言った。何か気に障るようなことをして、それで潰されて、罪人の世話になった。罪人のベッドを借りて、動くこともできず見下ろされている。無様以外の何物でもなかった。

 獏は突然床に膝を突き、面を外した。突然屈まれると顔を動かすのが面倒だ。ゆっくりと首を捻り、獏と目を合わせる。

「何でそんなに落ち着いてるの? 落ち着いてって言ったのは僕だけど……君が何をしたにしろ、殺されかけたんだよ? 君が悪いわけじゃない。自分を悪く言わないで」

「…………。宵街に……戻った方が、いいですよね」

「駄目だよ。君は僕が匿う。まずはその潰れた所を完治させて、動けるようになって。記憶の方は一時的なものかもしれないから、様子を見る」

「どうして……罪人が白を庇うんですか……? オレに何か……しましたよね? 体の中に……別の力を感じます」

「わかるの……?」

 白花苧環は微かに、ふ、と笑った。本当に力を感じたのか、もしかすると誘導だったのかもしれない。

「……報告書を渡しに行ったんでしょ……? 僕の報告書の所為でこうなったのかもしれないから……」

「罪人が……罪悪感を覚えたんですか……? 更生した……ということですか……? それで罪が消えるわけでは……ないですが……」

「更生はどうだろうね……」

 目を伏せながら面を被り、今度はゆっくりと立ち上がった。

「話すのも疲れるよね。今はゆっくりと休んでよ。僕のことは嫌いだろうから、クラゲさんを近くに居させるね。何かあったら言って」

「何か、と言うなら……さっきから覗いてるのは……?」

 ドアの陰から覗いていた浅葱斑は、びくりと全身を跳ねさせた。恐る恐る顔を出す。

「あれが君を助けた浅葱斑さん。灰の人らしいよ」

「あっ浅葱斑です。初めまして……」

「……初めまして。白花苧環です。ありがとうございます」

「へ……へへ。どういたしまして」

 距離は保ったまま、浅葱斑は照れ笑いする。動けないのだからそこまで怯えることはないだろうに、浅葱斑は白花苧環に近付こうとしなかった。

「元が蝶なので花を助けるのは本能的と言いますか……」

「ああ、花粉を運ぶとか? ってこと?」

「餌……」

 ぽそりと呟かれ、皆の頭に強くその単語が刻み付けられた。浅葱斑は失言だったと慌てて首と手を振った。

「餌なら、私は虫も食べます」

「え!?」

「嚇かしちゃ駄目だよクラゲさん。食物連鎖を始めないで」

 いつも通りの辛辣な灰色海月と、焦る浅葱斑、そして罪人ではあるが非常に不快な恩ができてしまった獏をぼんやりと見ながら、白花苧環の口元が微笑んだ。

「……動けないと何処にも行けないので、暫くは……休ませてもらいます」

「うん。ちゃんと安静にしててね」

「獏! ボクもここにいていい? 宵街の、ど、動向を見ないと」

「うん。いいよ。狭かったら他にも空き家はたくさんあるから、どれでも使って」

 にこりと微笑むと、不安そうだった浅葱斑は安心して満面の笑みになった。

 時間が止まっているため睡眠の必要はないが、狭い建物なのでベッドが二脚しかない。全員が一度に疲れ果ててしまった場合は他の建物のベッドを借りるしかない。他の建物にも等しく家具やベッドが置かれていることは確認済みだ。

 結局、狴犴が白花苧環を殺そうとした動機はわからないままだ。白花苧環の記憶が報告書を渡した後からぱたりと切れていることから、余程の衝撃を受け自衛的に閉ざしてしまったか、狴犴に記憶を消されたのかもしれない。

 罪を裁く立場の者がどんな疚しいことをしたのか興味がある。獏は薄ら笑い、首に刻まれた烙印に忌々しげに爪を立てた。


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