33-復讐
――復讐してやる。
女はあの日からそればかり考えていた。
突然現れて辱められて、握った拳を震わせない日はなかった。
ふと耳にした獏の噂は興味深いものだった。所詮噂は噂で只の空想話だと思っていたが、どうやら実際に叶えてもらった者がいるらしい。ポストに願い事を書いた手紙を投函するだけで、誰もいない街に連れて行かれ、願いを叶える獏に会えるらしい。
どんな願い事でも叶えてくれるようだが、実際に叶えてもらった者がどんな願い事をしたのかは不明だ。それでも、面白いと思った。空想の生物がどんな風に願いを叶えてくれるのか、復讐を願えばどのように果たしてくれるのか。
女は拳を解いてペンを握り、憎しみを込めて願い事を書き殴った。
「報告書とは大変な物なんですね」
誰もいない街の小さな古物店の中で、灰色海月は菓子を焼きながらちらりと様子を窺った。薄暗い棚に囲まれた机の上に未だ白紙の報告書を広げる動物面を被った獏は、羽根ペンをくるくると回している。
「そうなんだよ。罪人に求める物じゃないよね」
「私がいない間にそんな義務ができたんですね」
「義務……だったら嫌だなぁ……」
仄かに甘い香りの漂う中で紅茶を啜り、獏は溜息を吐く。灰色海月が入院していた間のことは大方話した。会いたいと言ってきた老人のことだけは伏せておいたが。そういえばあの時貰った櫛は何処へ置いたのだったか。何処かの棚にはあるはずだが。
「フルーツケーキが焼けたので、手紙を拾って来ます」
「うん。行ってらっしゃい」
焼き終わるまで手紙を放置していたのか丁度焼き上がったのか、オーブンから取り出して置く。甘い香りが鼻腔を擽った。型から抜くのは冷ましてからだ。
灰色の傘を手に店を出る背を見送るのも久し振りだ。この店に二人きりと言うのも久しい。ゆっくりと紅茶を飲みながら帰りを待つ。焼き立ての菓子の甘い香りは良いものだ。
などと浸っていると、あまりに早く再びドアが開いた。店に入って来た白い少年と目が合い、紅茶を噴きそうになった。
「……何だマキさんか」
「来たくて来てるわけではないです」
不快そうに表情を歪め、白花苧環は獏の前に立った。手が空いたら報告書の作成を手伝うと聞いていたことを思い出す。
「まさか絵日記を提出するとは思わなかったです」
「絵日記なんて言ったのは君か……。わかりやすく図解してあげただけなんだけどな」
「そういうのはもっと絵が上手くなってからにしてください。図解が幾らわかりやすくても、伝わらなければ只の独り善がりの絵日記です」
「え……そんなに下手……?」
「自覚が無いんですか」
特別上手いとは思っていないが、人に伝わらないほど下手だとは思っていなかった。一人でいると見せる相手もいないのだ。獏は自分の描いた絵を思い出し、急に気不味くなった。
「普通に話せるんですから、変な絵は描かずに言葉で纏めてください。今回知りたいのは悪夢の件なので、他は省いて構いません。悪夢のことはできるだけ詳細に、順を追って、知りたいことを質問するのでそれに回答するように書いてください」
「う、うん。頼りになる」
「虫唾が走るのでやめてください」
早く済ませて帰りたいという空気が緊々と感じられたが、白花苧環の言葉はわかりやすかった。何とか白紙の報告書が埋まっていく。
「話すことはあっても、書く機会ってあんまり無いからさ……助かるよ」
「完璧でなくても、意味が伝わればいいので。それでも足りない所があれば、また訊きに来ます。スミレに任せたいですが」
わざとらしく溜息を吐く。心底嫌そうだ。
「スミレさんは宵街に戻ったよ」
「知ってます。クラゲが監視役に戻ったので。だから手の空いたスミレを捕まえるのが難しくなりました。あまり黒に入って行くのも目立つので」
「色が違うと大変なんだね」
白花苧環と黒葉菫は別段啀み合うようなことはないが、相反する性質を持つ白と黒では接触するのは憚られるのだろう。特に白の中でも孤立していると言う白花苧環には、黒の輪の中に入るのは躊躇われるようだ。
「話してみればスミレさんやウニさんみたいに話せるかもしれないよ?」
「初めて会った時のことを忘れたんですか? 警戒されてたんですが」
「そうだっけ」
言われてみればそうだった気もする。確かに空気が強張っていた。
「灰ならまだ多少は話せそうですが」
「灰色って、クラゲさん以外にもいるの?」
「いるはずですが、灰は数が少ないそうです。オレもクラゲ以外の灰は知りません」
「へぇ……」
ペンを走らせながら会話を続ける。灰色海月にも同じ色の仲間がいれば宵街で良い友達になれそうだが、数が少ないとは知らなかった。彼女からも同じ色の話は聞いたことがない。
「マキさんは変転人になって何歳なの?」
「七歳ですが、それが何か?」
「その顔で七歳って言われると違和感が凄いね」
「揶揄いたいだけなら刺しますよ」
「違うよ。幼いのに頼れるなぁって思っただけ」
「刺されたいんですね」
掌から針を抜く動きをするので、獏は慌てて手で制した。
「本当に血の気が多いよね」
同時にドアが開く音が聞こえる。丁度良いタイミングだ。
灰色海月がいないことは白花苧環も気付いていた。彼女が帰って来たのだろうと振り向くと、見知らぬ女が駆け寄って来た。
「獏ってイケメンなのね!」
「は……?」
「復讐もいいけど、貴方と付き合うのもアリかしら!」
「何を言ってるんですか……?」
困惑する白花苧環に気付き、傘を畳みながら店に入って来た灰色海月は急いで願い事の手紙を取り出した。
「その人は獏ではないです。その後ろです」
白花苧環に目が釘付けになっていた女は、白い背後に黒い者が座っていることに漸く気付いた。気付いて表情が一変した。
「げ! あんたは! 何でここにいるの!?」
獏も女の顔に見覚えがあることに気付き、にこやかに手を振ってみた。
「知り合いですか? オレを挟まないでください」
「知り合いって程でもないけどね。前に受けた願い事を叶える時に偶々いたってだけ」
白花苧環は机の脇に避け、様子を窺った。『げ』と言われるのは、何か良くないことをした可能性がある。
「仕方がないので報告書は待ちます。早く善行を終わらせてください」
手紙があるということはこの女は願い事の依頼者だ。罪人への罰である善行の邪魔はできない。もう少しで報告書が完成したと言うのに待たなければならないのはもどかしいが、頑丈な棚に凭れ掛かり腕を組む。
「待たせて悪いね。じゃあさっさと願い事を叶えようか」
にこりと笑って指を組む。先程復讐がどうのと言っていたが、何を願うのか楽しみだ。
この女は以前、想い人の男へ下剤入りのチョコレートを贈った人間だ。男からの依頼でチョコレートの犯人を特定し、女に下剤を呑ませた。復讐と言うならおそらく、女生徒に扮して薬を呑ませた獏へだろう。
「何であんたが獏なのよ! ……いや、でも、もしかしたらそのお面が流行り物って可能性も……」
「これは手作りだから、流通はしてないと思うよ」
「やっぱりあんたがあの女子だったのね!? あの後どれだけ探しても見つからなかった……。生徒じゃなかったなんて!」
「制服を着た方が警戒されないでしょ? それで、誰に復讐したいの?」
にやにやと楽しそうに笑う獏の前で、女は舌打ちした。
「あんたによ! 私に恥をかかせて……! 口も利いてもらえないのよ!」
「もしかして、まだあの学校で先生してるの?」
「してるわよ! 当たり前でしょ!」
「へぇ……事を荒立てたくなかったのかな? 警察に突き出せば何らかの処罰はあるだろうに。下剤を入れたんだから、口を利いてもらえないのは当然じゃない?」
その時の依頼者の男は、人を傷付けることを避けようとしていた。生徒に対してだけだと思っていたが、教師に対しても適用されるらしい。人が良いと言うか、その良さが仇になっている。良過ぎるのも考え物だと獏は憐れむように小さく息を吐いた。
「くっ……! あんたも下剤呑みなさいよ! 復讐の最低ラインよ!」
「やだ。呑みたくない」
「何でも願い事叶えるんでしょ!?」
「叶えるか叶えないかは僕次第だから」
この場で主導権を握れるのは獏だ。どれだけ強く復讐を願おうと、叶える者に遣る気がなければ意味がない。
「下剤を呑ませたいなら、オレが呑ませましょうか?」
「待って待ってマキさん」
黙って見守ってくれるのかと思えば口を挟んできた白花苧環を慌てて制する。罪人嫌いの彼が、罪人に復讐する願いを聞いて黙っているはずがなかった。表情が乗り気だ。罪人が嫌がる姿を見て喜ぶような奴なのだ。こんなに面白いことはないと思っている。
「マキさん、よく聞いて。願い事を叶える善行は罪人に対して与えられた罰だよ。それが罪人に対する復讐であっても、罪人を手伝う行為には変わりない。それにこの人は下剤を混入させた食品を他人に食べさせようとした、謂わば犯罪者だ。そんな人の願いを叶えるなんて、幇助と言ってもいい。それは白である君自身が許せないことなんじゃないかな?」
「この人は犯罪者なんですか?」
「そう。悪い人だよ」
「それならどうでもいいです」
「切り替えが早過ぎてこっちが途惑うよ」
相変わらずの迅速さだが、迅速ゆえにさっさと下剤を呑まされなくて良かったと思う。机上に薬が置かれていれば尋ねるより先に口に捻じ込まれていたかもしれない。
女は味方になってくれそうだった白い少年に縋るような目を向けた。
「でもこいつ! 私に下剤を呑ませたのよ!」
白花苧環は獏の方へ目を遣り、軽蔑するような顔をした。
「何をしてるんですか? 貴方は」
「口を割らせるために仕方なくだよ!」
「オレはそれを見てないので何とも言えませんが」
「スミレさんは全部見てたはずだから、訊いてみればいいよ。必要なことだったって言ってくれるはず」
「スミレは黒ですからね。悪に甘い。……それを聞くと、監視役の適任は灰なんだとよくわかります」
灰色海月が台所の入口で得意気な顔をするのが見えた。突然褒められたらしいと彼女は気分が良くなった。
「この場ではオレは判断を下せそうにないので、さっさと一人で腹を下すか差出人を帰してください」
「下したくないから、帰ってもらおう」
「わかりました」
紅茶を淹れようか迷っていた灰色海月は、茶葉の缶から灰色の傘に持ち替え台所を出た。
「何でよ! 何が願いを叶える獏よ! 大嘘吐き!」
「人聞きが悪いなぁ。僕が実害を被るような願い事を聞き入れるわけないでしょ?」
「死にたいくらい酷い目に遭えばいいのに!」
「君が直接それをするなら、殺すよ」
「……っ!」
女はぴたりと口を閉じた。先程まで戯れるように話していたのに、突然獏の中から感情が抜け落ちた。声が氷のように冷たかった。突然吹雪の中に立たされたようだった。とても願い事なんて強請む空気ではなかった。
灰色海月に腕を引かれ、女は重い足を引き摺るように店を出た。このまま店の中にいると命の危険があるとさえ思ってしまった。
一部始終を見守っていた白花苧環は、椅子の背に凭れる獏を見る。
「よくオレの前で殺すなんて言えましたね」
「んっ……」
いることを一瞬忘れていた。悪を嫌う彼がその言葉を聞き捨てるはずがなかった。
「お……脅しだよ。実際にはしないから……」
「命の危険がある場合は抵抗までは赦せますが、煽ったのは貴方ですよ。報告書をさっさと完成させてほしいので今回は目を瞑りますが」
「優しくて助かるよ」
「本当に嫌味ですね」
「君にだけは言われたくないね」
羽根ペンを持ち、再び報告書と格闘する。居ると気が休まらないので、早く帰ってほしいのは獏も同じだった。
灰色海月は戻って来るとすぐに台所に入り、冷ましておいたフルーツケーキを型から取り出して切った。皿にケーキを二枚載せ、獏と白花苧環の前に置く。
「ドライフルーツを入れたパウンドケーキです。マキさんもどうぞ」
「……こうして罪人がティータイムを嗜むんですね。罪人の扱いがよくわからなくなってきました」
「遂にマキさんが折れたかな?」
「折れてないです」
椅子を差し出されたので白花苧環は逡巡するが、報告書の進行具合を見て腰掛けた。フルーツケーキを指で裂いて口に放り込む獏を見て、見様見真似でケーキを裂く。ほんのりと温かい。
「僕の扱いって特殊なんでしょ? 他の罪人は宵街の地下牢だって聞いたよ。外に善行に行かされてるのも僕だけだって」
「そうなんですか? 刑が緩いんでしょうか? 罪人は全て死刑でいいと思いますが」
「さらっと怖いこと言うよね」
「怖いのは罪人の悪事だと思いますが」
ペンが進むのを確認しながら、白花苧環はケーキを口に入れる。最近は本当に菓子を食べる機会が多い。その御陰で甘い物は嫌いではないと知った。
「何で刑が緩いって思ったの? 罪人のことはよく知らないんでしょ?」
「宵街には睚眦と言う拷問官がいます。妄りに拷問を行い罪人を死なせたと聞きます。ここには来ている様子がないので、緩いのかと」
「君が喜びそうな話だよね……」
罪人の死刑を望む彼なら、睚眦の行動は手を叩いて喜ぶ所だろう。だが白花苧環は予想に反して顔を曇らせた。
「睚眦はあまり……。野放しにしておくと罪を犯してしまうため、拷問の役を与えられていると聞いたことがあるので。正しい行いなのか、わからないです」
「へぇ……宵街も複雑なんだね。ここは静かで、力の制限はあるし暇だけど、気分は落ち着くよ。辛かったらいつでもおいで。空き家はたくさんあるから」
報告書に最後の一文を書き込み、獏は大きく伸びをした。白花苧環は不愉快そうに獏を見る。
「ここは牢ですよ。落ち着かないでください」
「刑が緩いなら、君もそんなに意識しなくていいんじゃない? 僕への敵意も緩めていいよ」
「嫌です」
「うわぁ即答だ」
くすくすと笑いながら報告書のインクを乾かす。
「もう書き終わったんですか?」
白花苧環の分の紅茶を運んで来た灰色海月は、報告書を畳む獏を見てカップを見下ろした。察した白花苧環は考え込む彼女からカップを受け取り一口飲む。
「飲む時間くらいはあります。ありがとうございます」
「罪人以外には素直だねぇ」
封筒に報告書を突っ込みながら呟くと、静かに睨まれた。
「手を切られた時は痛くて死ぬのではと思いましたが、力の使い方を教えてもらえたことには感謝してます。いつでも来てください」
「…………」
それは脅しなのではというような言葉を添えられてしまっては、白花苧環も極り悪い。口を塞ぐように紅茶を飲んだ。獏はにやにやとそれを見ている。一度あの面を叩き割ってやろうかと思う。
紅茶を飲み干し、獏の手から報告書を引っ手繰って立ち上がる。長居は無用だ。
「他に報告することがあればついでなので聞きますが」
「報告って狴犴にでしょ? 特に無いなぁ。気になることはあるけど、狴犴には関わりたくないし」
烙印を捺した本人にはそれは関わりたくないだろう。実際に報告をして関わるのは白花苧環だが。
「気になることとは?」
「前にさ、君が仕掛けて行ったんじゃないかって見せた矢があったよね? あれは誰の仕業だったのかなって思っただけ」
獏を狙って仕掛けられていた玩具の矢は白花苧環が宵街に持ち帰ったが、狴犴には報告していなかった。彼は多忙だ。余計な手を煩わせるわけにはいかない。執行人の鵺ならばまだ手が空く時はあるだろうと考えていたが、まだ預かったままだった。
「ああ……あれですね。その後は何かありましたか?」
「不審なことは何もないかな。何かあったら言うよ」
「わかりました。では失礼します」
胸に手を当てきちりと頭を下げる。
罪人が嫌いな癖に、こういう礼儀はあることは妙に真面目と言うか、調子が狂いそうになる。獏は微笑み、小さく手を振った。言い付けを守って店の中で暴れないでいてくれることだけは評価したい。
「ケーキも紅茶も、美味しかったです」
灰色海月にも頭を下げ、白花苧環は店を後にした。もう当分はここに来ることもないだろう。
「クラゲさんには素直だよねぇ」
「私はマキさんの弱味を握ってるので」
「えっ、何それ知りたい」
「いずれ貴方の弱味も握ります」
「ん……んん、それはちょっと」
弱味と言うなら、獏が灰色海月に話していないことはたくさんある。白花苧環の弱味は気になるが、自分のことは話したくなかった。突かない方が良い藪だろう。
「……ああそうだ。さっきの人が変な噂を流さないように、また噂の制御を頼んでいいかな?」
「はい。以前スミレさんに相談されたんですが、学校に広まった噂と言うのは制御できたんですか?」
「んー……どうなんだろ。遣れるだけは遣ってくれたと思うけど」
「わかりました。それも含めて確認してみます」
随分雑な追い払い方をしてしまったので、復讐を願っていたこともあり間違いなく不本意な噂を流そうとするだろう。善行に支障が出る邪魔な芽は摘んでおかなければならない。街から出られない獏には手を出すことができないので、灰色海月に頑張ってもらうしかない。
漸く報告書から解放された獏は、紅茶を啜り一息吐く。食事ができるとは言え暫くは報告書が必要な悪夢には遭遇したくないものだ。




