32-おかしな家
机上に置いたクッキーを抓みながら、獏はマレーバクの面を暗い天井に向けてぼやいた。
「報告書が全く書き上がる気がしない」
折角書いた報告書が絵日記だと言われ、書き直しを余儀無くされてしまった。絵日記ではなく図解のつもりだったのだが、意図が伝わらなくて歯噛みする。
「手が空いたら苧環が後で手伝うって言ってた」
黒色海栗もクッキーを抓み、獏を励ます。尤もそれは励ましの言葉ではなかったが。
「それはウニさん用の言葉で、僕にはきっとまた棘のある言い方をするよ」
罪人嫌いの白花苧環はまた頭を抱えていることだろう。何度も罪人の許へ足を運ばせてしまい、こればかりは申し訳ない気持ちだ。だが報告書を求められている悪夢の件は、黒色海栗もその場にはいたが殆ど意識は無く、黒葉菫は報告書の書き方がわからないと言う。消去法で残るは白花苧環しかいない。
「でも文句は言ってもちゃんと来ますよね。実は面倒見がいいんですかね」
「狴犴に逆らえないだけじゃない?」
「それはまあ……確かに」
白紙を見下ろしてくるくると器用に羽根ペンを回す獏を見ながら、黒葉菫もクッキーを食べる。黒色海栗が買って来たクッキーの詰合わせもそろそろ底を突きそうだ。
「チョコも食べる? 契約者から貰った物がたくさんあるよ」
大きな紙袋から華やかな小箱を出して置く。手作りチョコレートは全て処分したので、この残りは店で購入されたチョコレートだ。
華やかな小箱を並べていると、ドアが開く音がした。誰もいない夜の街に来客は珍しい。黒色海栗が言っていた通り白花苧環が来たのだろう。紙袋に突っ込んでいた手を引き上げ、ゆっくりと確かめるように開くドアを怪訝に見守る。
開いたドアには白くない人物が立っていた。思わず獏は言葉を忘れて立ち上がった。
黒葉菫と黒色海栗もドアを振り返り、ハッと目を開いた。
「只今、戻りました」
長い灰色の髪を揺らし、懐かしい見慣れた顔が頭を下げた。
「クラゲさん……」
机を回り、狭い通路をもどかしくも早足で彼女の前へ立つ。顔を上げた灰色海月は久し振りに見る黒い動物面を見て、もう一度軽く頭を下げた。
「もう少し早く戻って来れるはずだったんですが、念のための様子見と力の使い方を教わっていたのとで遅くなってしまいました」
何から話せば良いのかと獏の頭の中には色々と過ぎるが、最初にこれだけは必ず言わなければならない。
「おかえり。クラゲさん」
深い安堵の微笑みを向けた。灰色海月の一度は切断された両手は、灰色の傘をしっかりと握っている。そのことに安心以上の何があると言うのだろう。
「手はもう完全に元通りなの?」
「少しだけまだ鈍い感覚はありますが、鈍ってるんだと思います。ちゃんと動きます」
「そっか。じゃあ無理はしない程度に、またこれからもよろしくね」
「はい。精一杯、監視役を務めます」
表情の乏しい灰色海月の口元にほんのりと柔らかい笑みが浮かぶ。
「手紙が投函されてたので、早速拾って来ました」
「えっ、もう?」
一通の手紙を差し出すので、もう少し休めば良いのにと思いつつも受け取る。よく見ると背後に遠慮がちに様子を窺う少年がいることにも気付いた。
「私に先を越されるとは、監視役代理は駄目ですね」
得意気に通路を覗き込み、座って見ている黒葉菫に目を遣った。もう一人の黒い少女は初めて見る顔だ。
「混み合ってごめんね。すぐ椅子を用意するから」
何やら灰色海月は黒葉菫と張り合っているらしい。得意気な彼女の背後の少年に声を掛け、急いで机上を片付ける。チョコレートの小箱を紙袋へ放り込むのを、灰色海月は不思議そうに眺めていた。
「クラゲが戻って来たなら、俺はもう宵街に戻った方がいいですか?」
「クラゲさんが本調子ならいいけど、一度様子は見ておきたいかな……スミレさんかウニさん、どっちか残って一回だけ付いてもらっていいかな?」
座っていた椅子を手紙の差出人へと譲り、黒葉菫は台所の方へ避けながら窺う。さすがに監視役が三人になっては多過ぎる。黒色海栗もクッキーを一つ抓んでから席を立ち、椅子を下げた。
「私、やりたい」
名乗り出たのは黒色海栗だった。
「じゃあ任せる。狭いので、すぐ出ますね」
「御土産にチョコ何個か持って行ってよ」
狭い店内でばたばたと、黒葉菫にチョコレートの箱を無造作に何個か持たせた。落としそうになりながらも、頭を下げながら黒い彼は狭い通路を通り外へ出る。
「慌ただしいですね。すぐに拾って来ない方が良かったですか?」
「大丈夫だよ。依頼者をいつまでも立たせておけないから急いじゃったけど」
苦笑しながらも、依頼者の少年に椅子を勧めた。少年はきょろきょろと周囲の棚を見回した後、落ち着かなさそうに座った。
「……さて。待たせたね」
灰色海月は台所へ入り、獏も革張りの古い椅子へ漸く腰を掛けた。
「願い事を聞こうか」
不安そうな顔の少年に、安心させるように微笑みかける。
懐かしい遣り取りに、灰色海月は台所から顔を覗かせながら、獏の所に戻って来たのだと実感が湧いてきた。
少年は落ち着かなさそうに視線を彷徨わせた後、表情の見えない獏を警戒しながら見詰めた。
「妹の……目を見えるようにしてほしいです」
緊張と警戒で声が小さいが、獏の耳には聞き取ることができた。
「良かったら食べて」
残りは少なくなってしまったが、まだ底に残っているクッキーの箱を差し出す。少年は警戒しながらも箱を覗き込んだ。随分と警戒心の強い子供だ。
「妹の目は全く見えないの?」
「はい……たぶん……」
「病院で診てもらう方がいいと思うけど」
少年は黙って小さく首を振った。診てもらった上で駄目だったのか、そもそも病院へ行けないのか。後者なら何か事情がありそうだが、首を振るだけで何も言おうとしなかった。
「僕は医者じゃないから、僕の力で何ともできないなら医者に任せるけど、それはいいの?」
少年は黙って小さく頷いた。
あまり話してくれないようなので人差し指と親指で作った輪で少年を覗いてみる。もやもやと靄が掛かっていて、上手く見えなかった。幾らかの感情が複雑に絡み合っているようだ。
灰色海月が刻印の紅茶を置くと、少年は一瞥だけして目を伏せた。クッキーも紅茶も、口を付けようとしない。
「食べていいよ。変な物は入ってないし、お金もいらないし、誰も咎めたりしない」
先に獏が紅茶を啜り、クッキーを一つ齧って見せた。少年は上目遣いでそれを見て、もう一度覗き込むようにクッキーの箱に目を遣った。
「……妹にも、食べさせてあげたいです」
「そう言うことなら、クッキーでもチョコでも持って行っていいよ」
紙袋から再び華やかな小箱を出して机上に広げると、漸く少し警戒を解いたようだった。
「とりあえず君の妹に会ってみよう。君の願いを叶えてあげる」
「! ありがとう……ございます……」
一瞬嬉しそうな表情をするが、すぐに曇ってしまった。願いを叶えると言えば喜ぶだけだと思うのだが、代価の話もしない内に顔が曇ってしまうのは違和感があった。獏を信用していないのだろうか。
「願いを叶えてあげたら君から代価を貰うんだけど、痛みはないから安心して」
「僕を食べるんですか……?」
「食べないよ。食べるのは心をほんの少しだけ。指定もできるから、君のいらない心を差し出せばいい」
「いらない心……」
言われてもすぐに思い付かないようで少年は顔を伏せた。
「願い事が叶うまで、じっくり考えてくれればいいよ。それとも、決めてから願いを叶える?」
「……早く見えるようになってほしいので、先に叶えてほしいです」
悩んだようだが、しっかりとした口調で求めた。ここまではっきりと言うなら大丈夫だろうと、紅茶を勧める。願い事の契約を結ぶために飲んでもらわなければならない。
「僕だけこんな高そうな……」
成程そういう遠慮かと、漸く腑に落ちる。紅茶は支給品なので値段は知らないが、獏は考えたこともなかった。
「折角淹れたから飲んでほしいな。君の妹にも後で同じ物を淹れることもできるしね」
「…………」
捨てられるのは勿体無いと思ったのか、妹にも淹れられると言ったからなのか、少年は遠慮がちに黙って紅茶に口を付けた。
やはり警戒心が強過ぎる。こんな得体の知れない獏に手紙を出したのに、今更ここまで警戒するものだろうか。こんなに警戒するなら最初から手紙なんて出さなければ良い。心無しか怯えているようにも見える。
「それじゃあ早速、行ってみようか」
「……はい」
願い事を叶えに来たと言うのに、自棄に気が乗らない沈んだ声をする。
灰色海月に目配せすると、灰色の傘を持って少年を促し店の外へ出た。彼女の手元に目を遣るが、今の所は問題無く動いている。獏も外へ出るので、黒色海栗も後を付いて来る。
そういえば灰色海月と黒色海栗は面識はあるのだろうかとふと思い、後で聞いておくことにした。
獏の首に冷たい首輪が嵌められ、灰色の傘がくるりと回される。灰色の傘を見るのも随分と久しい。
一瞬の内に景色が変わり、暗い木々に覆われた空間が広がった。
「雑木林……?」
道は無く、家の影も見えない。地面は平坦なので、山ではないだろう。
「僕もここが何処なのかわかりません。でも家はあります」
この少年は見た所小学生だと思うが、その齢でも家の住所がわからないらしい。
「君の家だよね?」
「はい。僕と妹と父が住んでます」
街灯のない雑木林をぐるりと見渡し、家の影を探してみる。やはり家らしき物は見えず、人の気配もない。
「ねえクラゲさん。クラゲさんはこの子とは初対面?」
突然話を振られ、灰色海月は傘を畳みながら訝しげな顔をした。示された黒い少女を見、首を振る。
「黒色海栗さんだよ。ウニさん、この人は灰色海月さんだよ」
灰色海月が頭を下げると、黒色海栗も頭を下げた。
「同じ海の生き物だから、仲良くできるかも」
二人は黙って目を瞬き、再びぎこちなく頭を下げた。どう接すれば良いのかわからないようだった。
「そんな二人に先に言っておきたいことがある。――無茶しないように。わかった?」
「わかった」
「無茶と言うのは?」
黒色海栗はすぐに頷くが、灰色海月は質問を返してきた。その想像はできた。
「クラゲさんは特に。力の使い方を教わって、機会があれば力を試そうとするかもしれない。それに釘を刺してるの。無茶はしない。何かあれば僕から離れないこと。いいね?」
「……わかりました」
妙な間があったが、了承の言葉は素直に聞いておく。あまり役に立たない釘かもしれないが、何も言わないよりは良い。灰色海月も黒色海栗も過去に重傷を負っている。気に懸けるのは当然だ。二人にそれが伝わっているかは定かではないが。こんな怪しげな雑木林に来ると知っていれば、黒葉菫にも来てもらったのに。
改めて少年に向き直り、本題に入る。
「それじゃあ、妹の所に案内してくれるかな?」
「はい」
少年は頻りに辺りをきょろきょろと見回し始めた。舗装された道や人が通った跡なども見当たらない林の中で家の方向を探しているのだとしたら、あまり良い感じはしない。
「……あっ、ありました。硝子の破片を置いて来たので」
草の間にきらりと光る物を見つけ、その先を指差す。目を細めると、遠目に点々と光っているのが見えた。家への道標に硝子の破片を置いて来るのは普通ではないと思うのだが、少年は何も言わずに破片を辿り歩き出した。
「黙って家を出て来たので、帰りにくいんですが……」
「ここには道はないけど、何処かに道はあるの?」
「家の近くでは見たことないです。外に出るのも久し振りなので……」
「久し振り? 遊びに出掛けたりしないの?」
「家から出ないように言われてて」
「へぇ……」
それで帰りにくいわけかと納得する。禁じられているものを内緒で家を出たようだ。学校にも行っていないのだろう。
「妹も家を出ないように言われてるの?」
「はい。でも妹は目が見えないので、僕みたいに内緒で出ることもできないです」
「そっか……生まれつき目が見えないの?」
少年は一瞬足を止め、首を振った。
「いつの間にか見えなくなってました」
引っ掛かる言い方だったが、それ以上は訊かなかった。歩き続けていると一軒の山小屋のような家が姿を現したからだ。窓からは明かりが漏れている。
家からはまだ離れた場所で少年は立ち止まり、木の陰に隠れるように移動した。
「あれが僕の家です。もしかしたら、父が帰って来てるかも……」
父親が出掛けた隙に家を出たらしい。身震いする様子を見るに、相当恐れているようだ。
「じゃあ君はここにいて。僕が様子を見て来るよ。あわよくば中に入れてもらって、妹に会って来るね」
「たぶん誰も家に入れないと思いますが……」
「それでもどんな人かくらいは見ておきたいからね。もしまだ帰って来てなかったら、勝手に開けて入るよ」
にこりと笑うと、少年は心配そうに眉を下げた。子供から見る大人の姿はより大きく見えるものだ。それで恐怖も増幅している可能性がある。少しの怒鳴り声も必要以上に頭に響き渡り体に反響してしまうこともある。
獏が一歩踏み出すと灰色海月と黒色海栗も付いて行こうとするが、手で制した。
「クラゲさんとウニさんは待ってて。すぐそこだから」
見える範囲ならばと灰色海月も渋々と頷く。折角力の使い方を覚えたのに、この距離では万一何かあったとしても届かない。
草と葉を踏んで木の間を縫い家の前へ立つが、少年の言ったように道らしき物はなかった。玄関からは人の通った痕跡があるが、道と呼べる物ではない。
呼び鈴が見当たらないので、よく聞こえるように強めにドアを叩いてみる。
暫く待ってみるが、しんとしてドアは動かない。まだ帰って来ていないのだろうかと人差し指と親指で輪を作ると、同時にドアが開いた。
「っ!」
目前で勢い良く振られた物に、反射的に飛び退いた。それを避けるために背を反らし、くるりと地面に手を突いて草を鳴らす。
視線を上げると、斧を持った男が立っていた。翻った黒衣の裾が地面に付く前に、大きく一歩踏み出して再び斧を振る。
獏は男の体越しに開いた部屋の奥を見る。一瞬だったが、双眸に包帯を巻いた少女がちらりと見えた。地面を蹴って男から距離を取り、木の枝へ跳び乗る。暗い林に紛れ、男はあっと言う間に獏を見失った。じっくりと睨み付けながら周囲を見渡した後、男は念入りに林の奥を凝視して家の中へ入って行った。
(あれが父親……? 子供が外に出てることに気付いてないのかな……もし子供が帰って来たなら、首を刎ねてる所だ)
男が家から出て来ないことを確認し、枝を跳んで少年達の許へ戻る。地面に降り立つと、灰色海月が駆け寄り獏の全身を確認した。
「何処も切れてませんか? ……良かった、手は付いてます」
「無傷だから安心して。あのくらいなら避けられるから」
あまりに心配するので苦笑しながら、獏は灰色海月から少年へ目を向ける。少年の目は怯えて震えていた。
「さっきのが君の父親?」
「は……はい……。どうしよう……僕が外に出たのがバレてるのかも……。妹に何かあったらどうしよう……」
がちがちと震えながら木の幹に貼り付く。
「君の父親は何かに怯えてるの? 相手を確認もせず襲ってくるなんて」
「知らないです……。ただ……言うことを聞かないと食べられてしまう……!」
それが脅し文句なのだろうか。食べると言ってここまで怯えるものだろうか。食べるなんて言われてもすぐには理解できなさそうだが。殴ると言われた方がわかりやすい。
「君は……まだ言ってないことがあるよね……? あんな怖い父親がいるのに、何で願い事は逃げることじゃなく、妹の目を治すことだけなの?」
「……っ」
獏は片膝を突き、怯える少年に目線を合わせた。口止めでもされているのかもしれない。指の輪で覗いても感情が複雑に絡み合って読み取れないなら、口を割らせるしかない。
「大丈夫。落ち着いて」
顔を覆う動物面を怖いと言われたことがあった。怯えている少年には、恐ろしく映っているかもしれない。徐に面を外し、金色の双眸で優しく微笑む。少年は刹那呼吸を忘れ硬直してしまうが、すぐにゆっくりと呼吸を思い出した。
「僕が斧を避けたのを見たでしょ? 大丈夫だから、話してごらん」
「…………」
少年ははらりと涙を零した。今まで堰き止めていた感情が一気に溢れ出す。誰にも話すことができなかったことが、自然と口を突いて出た。もう限界だった。
「ここに引越してから……おかしくなっちゃった……。僕も妹も、外に出ちゃ駄目って……。でも食べる物がなくて、お父さんがお母さんを殺して……皆で、食べた……」
何が語られるのかと思えば、吐き気を催すような言葉が飛び出した。
「僕も妹も、最初は何のお肉か知らなくて、台所でまだ料理してない残りを見つけて……」
訥々と語られる言葉に、三人は息を呑んだ。料理していない残りとは、人の形を保った肉塊のことだろう。隠すこともできただろうに、こんな幼い子供におそらくわざと見つけさせた。
「妹はその頃から、何も見えないって言い出して……」
病気か外部からの何らかの衝撃が加わったことによる失明だと思っていたが、この話だと精神的なものだろう。
「このことを誰にも言うな、外に出るな、逆らったら食べるぞ、って……」
食べるなんて脅し文句は妙だと思っていたが、実際に見せつけられたものならそれは束縛するには充分だ。そして相手を確認せずに斧を振ってきたことにも説明がつく。ドアを叩いたのがこの少年だったとしても、構わず容赦なく脅しの通り首を落としたことだろう。
「それは怖かったね……。でも妹と二人で逃げる願い事でも良かったのに」
「だって……逃げられない……」
「でも君は家から出たでしょ? 出られるなら逃げられるはずだよ。僕が何でも叶えてあげるよ」
「駄目――僕の居場所がわかるから」
少年の瞳に鈍い光が映った。頭上から振り下ろされる斧が、獏の頭を割ろうとした。
「っ……!」
懐から杖を引き抜き、体を捻って側面から斧を殴る。軌道が逸れた斧は地面に突き刺さった。さすがに斧は杖で受け止められる気がしない。
少年の体を抱え、枝へ跳び乗る。灰色海月と黒色海栗は人間程度の動きしかできないが、男の狙いは獏と少年だ。二人が生きている限りは、彼女達が何もしなければそちらへ刃先は向かないだろう。
「どういうわけか居場所がわかる――だから逃げる選択肢がないのか」
体内か体外に位置を把握する器具が取り付けられているのかもしれない。妹は目が見えないので、そちらには取り付けられていないとすれば、目が見えるようになれば妹だけでも逃げることができると考えたのだろう。これは確かに感情が複雑になりそうだ。
木を切り倒さんばかりに獏の乗る幹に斧を叩き付けられ、近くの枝へ跳び移る。いや本気で切り倒そうとしているのか。
(面倒だな……殺すのが手っ取り早いけど、子供の前で殺していいのかな……)
少年は震えているが、しっかりと父親の方を見ている。こっそり仕留めることもできない。
視界の隅で黒色海栗が指に黒い棘を持っているのが見えた。梃摺っていると前に出かねない。あの棘では斧は防げないだろう。灰色海月も見慣れない腕輪を嵌めている。あれで防ぐのは無謀だ。
「ねえ、君のお父さん、いなくなってもいい?」
「え……?」
怯えながらきょとんとする少年を見る余裕はないが、獏は枝を跳びながら確認をする。
「いなくなるって……?」
「はっきり言わないと駄目か……」
「?」
「殺しちゃってもいい?」
どの御菓子を食べるか尋ねるように軽い声で言った。少年は言葉の意味を理解するのに時間を要した。自分や妹を食べようとする男は必要ないのではないかと暗い感情が過ぎる。
「そんなことしたら捕まる……!」
「ふふ。それは人間にってこと? 人間には捕まえられないよ。……もう、二度とね」
過去のことを思い出し、すっと感情が消えてしまう。あの頃の非力な自分ではない。今は力は制限されているがそれでもあの頃より力がある。人間ではない者に捕まると言うなら、それはもう疾っくに捕まっている。今更死体が一人増えるくらい、どうと言うことはない。捕まることしか心配されないのなら、殺してしまっても構わないだろう。
結局、罪だの何だの言われて囚われても、遣ることは同じだった。
枝を跳んで地面に降り立ち、少年を地に下ろした。幾ら力持ちでも斧は重い。そう易々とは振り回せない。枝を跳んで距離は取った。男がこちらに駆け寄る前に仕留める。
「バイバイ――愚かな人間」
手を翳し、男が斧を叩き付けた木をその跡から圧し折る。狙いを定めて木の間を縫い、男へと叩き付けた。
「――がっ!?」
大型のトラックでも突っ込んで来たかのような衝撃で殴られ、男の体は吹き飛んで木に叩き付けられた。ずるりと地面に落ち、すぐに動かなくなる。
「君の妹の所へ行こうか」
一瞬の出来事でまだ頭では理解できておらず、少年は固まったまま動かない男を呆然と見詰めた。獏に背を押されて漸く我に返る。歩きながら暫くは男が動き出さないか目を向けていたが、ぴくりとも動かないので傍らの獏を見上げた。全く手も触れずに吹き飛ばしていた。まるで夢のように実感がない。
灰色海月と黒色海栗も様子を窺いながら獏の許へ合流し、揃って家の中を覗いた。双眸に包帯を巻いた幼い少女が俯いてじっと座っている。
少年が駆け寄っても少女に反応はなかったが、声を掛けるとゆっくりと顔を上げた。
「目を見えるようにしてくれるって、獏が来てくれたよ」
「獏……?」
少女は小首を傾ぐ。それ以上は何も言わなかった。
「精神的な不安を取り除けば、見えるようになると思う。それなら僕にもできるから、ちゃんと見えるようになるよ」
「本当に……?」
「包帯、取るね」
解けないように結ばれた包帯を解く。
「…………」
あどけない少女の双眸が露わになり、刹那の沈黙の後、獏は微笑んだ。
「それじゃあ、見えるようにする儀式をするから、皆一旦家から出てくれるかな?」
「儀式……?」
突然胡散臭く怪しいことを口走るので、少年は訝しげに目を瞬いた。
獏が灰色海月に目を遣ると、彼女はすぐに察した。少年と黒色海栗を促し、素直に家から出る。儀式なんて特別なものはない。ならば家から出す理由は、そこにいては邪魔になるからだ。
ドアが閉められたことを確認し、獏は少女の隣に腰を下ろした。部屋が区切られていないために広く感じる家の中を見ながら、口を開く。
「君の目、見えてるね」
「!」
横目で一瞥すると、少女は俯いて表情を強張らせていた。
目が見えていることはすぐにわかった。包帯を取った瞬間、瞳が動いたからだ。そして一瞬、目が合った。見えていなければ有り得ない動きだ。
「君が望まないならお兄ちゃんには言わないし、僕が君を叱ったりすることもないから、安心して」
「…………」
「もう怖いものを見たくなかったから、見えないって言ったんじゃないかな? それは誰にも責められないことだよ」
「……見えるってわかったら、また見なくちゃいけないの……?」
ぽつりと小さな声が漏れる。見えないと嘘を続けることもできたのに、きっと心苦しかったのだろう。兄に嘘を吐くことが。
「大丈夫だよ。……ねえ、君が思う幸せって何かな?」
「しあわせ?」
「こうなればいいな、って思う君の夢の教えてよ。可愛い服が着たいとか、甘い御菓子が食べたいとか」
俯いていた少女は、獏の言葉に導かれるように想像した。自分の着ている地味で見窄らしい服を見下ろし、可愛い服とはどんな服なのだろうかと。甘い御菓子は果物よりも甘いのだろうかと。だがそれよりも、少女が望むものは他にあった。
「……こ……怖いお父さんがいなくて、お兄ちゃんと一緒に遊んで…………か……唐揚げとかハンバーグとか……も食べたい」
次第に顔を上げ、澄んだ瞳で獏を見上げた。獏も目を合わせて微笑む。
「それはとても良い夢だね。きっと叶うよ」
少女は嬉しそうな顔をするが、何かを思い出したのかまた強張ってしまった。
「どうしたの?」
「お父さんが帰ってきたら……獏さんも食べられるかも……!」
包帯で目を覆われていたので、外の状況がわからないようだ。獏はにこりと笑い、安心させるように優しい声で言った。
「お父さんはもう帰って来ないよ。君もお兄ちゃんも自由になった。だから君は、幸せかな」
「もう帰ってこないの? 本当……?」
「本当だよ」
少女の顔に漸く安堵が広がった。もう見えない振りも、いつ食べられるのかと怯えることもないのだと、震えるほどに安心した。
「よかった……」
ぎこちないが、少女にも笑顔が戻る。
「これからお兄ちゃんと二人で生きていくことになるけど、大丈夫かな?」
兄妹はまだ幼いが、願い事以上の世話を焼くつもりはない。こんな薄暗い林の中に閉じ込められていては頼れる人間も周囲にいないだろうが、飽くまで願い事は妹の目を見えるようにするだけだ。この願い事も叶えたとは言えないが。元々見えていたものを、包帯を解いただけで願いを叶えたと言うつもりはない。代価は貰わない。
「お兄ちゃんがいれば、大丈夫!」
「ふふ。お兄ちゃんは頼もしいね」
家の中をもう一度ぐるりと見遣る。隅に高価なブランドの鞄や靴がごろごろと粗雑に転がされていた。女物だが、妹の物ではないことは一目でわかる。おそらく母親の物だ。これを売ってここで生きていたのだろう。他に金になりそうな物はない。草臥れた毛布や汚れた食器など、生活に必要な最低限の物しか転がっていない。最初に食べられた母親が殺された理由はおそらく浪費だろう。
「それじゃあ、お兄ちゃんを呼んで来ようか。その目は、僕が見えるようにしてあげたってことにしておくね」
悪戯をする子供のように口元に人差し指を当てて笑い、踊りを申し込むように少女に手を差し伸べた。少女は緊張しながらも獏の手を取り立ち上がる。
手を繋いだままドアを開けると、少年は勢い込んで妹の目を確認した。妹はやや申し訳なさそうに睫毛を伏せるが、何とかぎこちなく笑えている。
少女の目が無事に見えていることを確認できた少年は、緊張した面持ちで獏の方を見た。何を言われるのかは獏にはわかっている。だからもう、言うことは決めた。
「あの……代価はどうすればいいんですか……?」
何を獏へ渡すか決められなかったのだろう、困惑するように目を伏せる。
「それなんだけど、うっかり忘れててね、今は無償で願い事を叶えるキャンペーン中なんだよ」
「そっ、そうなんですか?」
少年は予想外の言葉に目を瞬き、灰色海月も傍らでそんなキャンペーン初耳だという顔をしたが、獏はにこやかに嘘を吐いた。
「そうなんだよ。でも契約の刻印は付けちゃったから、それだけ外しておくね」
「え? そんなもの、いつ……」
「いいからいいから。少し目を閉じててくれるかな?」
少年は途惑いながらも言われた通りに目を閉じた。唇に柔らかく温かい物が当たって驚いて目を開けそうになるが、何とか耐えた。
「はい、御終い。これで僕の仕事は終わりだね」
目を開けると元の黒い動物面を被った獏の姿があり、びくりと肩が跳ねてしまった。
「……ありがとうございました」
少年の隣で少女も頭を下げた。
「じゃあ帰ろうか、クラゲさん、ウニさん」
灰色海月はこくりと頷き、灰色の傘を取り出す。黒色海栗に付いて来てもらったが、手の方も何ともなく問題が起こらなくて良かった。これからはまた二人で善行に当たっていく。
「獏、また街に行ってもいい?」
「うん? いいよ」
「痛いこともあったけど、皆で御菓子食べたり、楽しかった」
「ふふ。それは良かったよ」
「でも、宵街も食べ物たくさんあるから。スミレにキャベツ炒飯作ってもらう」
先日宵街に戻った時に他の食べ物が恋しくなったようだ。食べ物の話だからか、よく喋る。
「ウニさんは食べることが好きだねぇ。いいことだ」
キャベツ炒飯とは何だろうと考えながら、くるりと回される灰色の傘と共に三人の姿は忽然と消え失せた。
残された兄妹は暫しその何もない空間を見詰めていたが、やがて手を繋いで動かない男の許へ向かった。少年は男が死んでいることを改めて確認し、少女も初めてその動かない姿を無感動に見下ろした。動かなくなった人間は只の肉塊だ。もやはこの男に怖いと思うこともない。
「キャベツ炒飯って何だろうね。僕達は御飯何食べる?」
「えっとね……唐揚げ!」
「じゃあ……刻んで揚げようね」




