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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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31/124

31-チョコレート


 ひっそりと橙色の光を灯す古物店の中、机に白紙を広げる獏は羽根ペンを無意味にくるくると回していた。罫線だけが引かれた紙には何も書かれていない。黒い動物面はただ紙を見下ろして固まっていた。

 それを箱に入ったクッキーを抓みながら、黒葉菫は暇そうに眺めている。同じく机に白紙の本を開く黒色海栗はせっせと日記を書いている。

「ねえ、報告書って何を書けばいいと思う?」

 悪夢と戦ったことを白花苧環が宵街に報告した御陰で報告書の提出を求められたのだが、生憎報告書なんて書いたことのない獏は頭を抱えながら白紙を見詰めるしかできなかった。

 黒色海栗が宵街で買ってきたクッキーの詰合わせをぽりぽりと齧りつつ、顔を上げず日記に集中する彼女を一瞥して黒葉菫が口を開いた。

「直接報告することばかりなので、俺も報告書のことはわかりませんね」

「まず悪夢のことを知らない人に何処まで砕いて書けばいいのかもわからないよね。自由に動けないから直接じゃなく報告書って形なんだろうけど……罪人も大変なんだね……」

 大変ではない罪人がいるのだろうかと黒葉菫は考えるが、自分は罪人ではないのでよくわからなかった。

「少なくとも善行を科されてる罪人は貴方だけだと思いますが、報告書の話は聞いたことがないですね」

「……え!? 善行させられてるのって僕だけなの!?」

 聞き流してしまいそうになったが、そんなことは初耳だった。いや尋ねたことはなかったが、どの罪人も罪を償うために何らかの善行に勤しんでいるのだと思っていた。

「他にそういう話は聞かないので、そうだと思います」

「それもっと早く聞きたかったな……」

「鵺かクラゲから聞かなかったんですか?」

 今は黒葉菫が獏の監視役代理を務めているが、本来の監視役は灰色海月で、刑を執行する責任者は鵺だ。この街に初めて来た時にでも説明を受けていると思っていた黒葉菫は首を傾げた。

「何も言ってなかったと思うけど」

「それなら俺の口から言っていいのかわかりませんね」

「口止めされてないなら大丈夫」

「されてませんね」

 白は悪を嫌うが、その反対である黒葉菫は、規則に対して緩い面がある。個人の性格もあるかもしれないが、彼は少々抜けている所があると獏は認識している。秘密ならば探るには持って来いだ。

「そもそも罪人は宵街の地下にある牢に入れられるので、貴方は特殊な罪人なのかと思ってました」

「何も聞いてないけど……」

 それは知らされるべきで忘れられていることなのか、知らせないように口を閉ざされているのか。灰色海月がここにいれば話を聞けるが、彼女はまだ宵街で治療中だ。

「地下牢の罪人は外に出されることもないので、外で人間と接触することはないです。貴方はこの街に閉じ込められてますが、割と自由に動けるし、制限はあっても力の使用は認められてますよね。そんな罪人は他にいないです」

「何て言うか……こんな感じでも他の罪人に比べると自由があるってことかな。他の罪人と扱いが異なるから他の人の目に触れないようにこの街に隔離してるとも取れるけど、特別扱いされる理由って何なの?」

「さあ……そこまではわかりません。ここに来る前に何か言われてないんですか? 鵺じゃないとすると……狴犴(へいかん)とか」

「……ちょっと待って、思い出すから……」

 クッキーを一つ抓んで齧りながら、座っている古い椅子を後ろへ引いた。齧った残りも口に放り込み、脚を組む。

「――お前には、人間への善行を科す」

「え? ……あ、はい」

 突然手を向けられて黒葉菫は固まってしまったが、狴犴の真似をしているのだろうと察した。何事かと黒色海栗も顔を上げる。

「後のことは鵺に一任する」

 そこでぴたりと動きを止め、獏は考えるように天井を見た。他には何も言っていなかった気がする。その時には既に首に烙印を捺されていたので、痛みで記憶が飛んでいなければ、特に目ぼしい情報はなかった。

「……それだけですか?」

「それだけ……だったと思うんだけど」

「夢を無差別に食べるのは軽罪なんですか?」

「…………」

 組んでいた脚を解き、獏は席を立った。無言で台所へ行く。黒葉菫と黒色海栗はそれを目で追い、台所を覗く。紅茶を淹れるらしい。

 席に戻るのを待ちながら、黒い二人はクッキーを抓んだ。

 人数分の紅茶を運び、獏は席に着く。何かを考えているように見えた。

「……気になる?」

 軽罪かと訊いたことに対する言葉だと理解するのに少し時間が掛かったが、黒葉菫は頷いてみた。獣の罪の基準は変転人には理解できない。

「教えなーい」

 予想外の言葉が返ってきたが、動きは遅いが頭の回転は速い黒葉菫には言わんとすることを推測することができた。わざわざ隠すような言葉は、何か言いたくないことがあるためだ。

「他にも何かしてますね……?」

「ふふ。結構悪いことしてるよ。そんな僕に人間への善行なんて、不思議なことを言い出す人だと思った」

 薄く笑い、紅茶を一口飲む。獏の言う通り『結構悪いこと』をしていたのだとしたら、こんな宵街から離れた自由の制限の緩い街に閉じ込めるのは違和感がある。

「だとすると俺には想像つきません。直接狴犴に訊くか、鵺に訊くかですね」

「そっか。地下牢の人達とこの街の大きな違いって、制限の差だけなの?」

「詳しい違いは何ともですが、あっちには拷問官がいますよ」

「それってもしかして、この前君が見たって言う拷問の人?」

「そうです……思い出させないでください」

 先日初めて拷問を見たと言って疲れ果てていた黒葉菫の姿を獏は思い出した。慌てて謝る。

「ごめんね、嫌なこと思い出させて。余程酷い拷問だったんだね」

 クッキーの箱を黒葉菫の前に押し出して勧める。甘い物で少しでも気分を紛らわせてほしい。

「拷問官は睚眦(がいさい)。怖い人」

 黙って話を聞いていた黒色海栗も、息を呑んで口を開いた。獏には初めて聞く名前だった。

「睚眦に拷問されると、最悪死ぬ」

「拷問だと……そうだね。そういう可能性もあるね。地下牢じゃなくて良かったよ」

 余程怖い人なのだろう。羽根ペンを持つ黒色海栗の指先が震えている。そういう人がいるなら、報告書もきちんと書いた方が良いだろうと獏は再び白紙に目を落とした。選択形式の質問票だったら良かったのに。

「報告書だと思うから難しいんだよね。絵を描いたらわかりやすいはず」

「獏、頭良い」

 畏まらずに思ったことを書こうと考えると、何とかペンが進んだ。

 漸くペンが動いたというのに、黒葉菫は席を立つ。願い事の投函があったようだ。邪魔が入る前に急いで報告書を書いてしまう。面倒なことは先に済ませておくことにした。もう既に随分放置していたが。

 黒葉菫が手紙の差出人を連れて戻って来るのと同じ頃に、丁度獏も報告書を書き終えた。これですっきりとした気分で願い事を聞くことができる。両腕を上げて伸びをすると、手に大きな紙袋を提げた差出人の男がびくりと一歩下がった。

「ウニさん。報告書をマキさんに渡して来て」

「わかった」

 封筒に入れた報告書を受け取り、黒色海栗はととっと店の外へ駆け出した。

「……すみません。忙しい時に」

 慌ただしく見えたのか、紙袋を提げた男は申し訳なさそうに言った。

「気にしないで。丁度終わった所だから」

 男に椅子を勧めながら、黒葉菫と黒色海栗に出していた紅茶を一旦下げる。ティーポットにまだ紅茶が残っているので、依頼者へ出す刻印に使ってもらうことにした。

「クッキー食べる?」

「あ、いえ……。それで、獏というのは……?」

 断られてしまったので、クッキーの箱も後ろの棚へ置いた。

「僕が獏だよ。願い事を言ってみて」

「願い事……と言うか、相談みたいなものなんですが、いいですか?」

「いいよ。何かな?」

 指を組んでにこりと笑い、机上に載せられた大きな紙袋を見上げた。座っていると中が覗き込めない程の大きさだ。

「僕は教員をしてるんですが、その……生徒からのバレンタインのお返しは、どうするのが正解だと思いますか?」

「えっ」

 紙袋を見上げ、獏は思わず立ち上がった。覗き込んだ袋の中には、綺麗なリボンや包装紙で飾られた大小様々な箱がぎっしりと詰まっていた。

「もしかして、これ全部チョコレート?」

「はい……」

「凄いね。でも僕じゃなくて、同じ仕事仲間に相談した方がいいんじゃない?」

「赴任して初めてのことなので、まだそこまで打ち解けてないと言いますか、変な風に思われたらどうしようかと……」

「何て言うか、真面目だね。全部義理チョコじゃないの? 先生いつもありがとう、みたいな」

「そうだといいんですが……」

 何か引っ掛かることでもあるのか、歯切れが悪い。

 黒葉菫は男の前に刻印の紅茶を置き、紙袋を覗いて獏の傍らへ下がった。紙袋の中身が全てチョコレートだとすると何日分になるのだろうかと考える。

「全部出してみてもいい?」

「はい」

「一人一人に御返しなんてしなくていいと思うよ。口頭で御礼を言うだけで充分だよ。学校だからね……揉めても面倒でしょ?」

 掌に載る小さな箱から、手から食み出るような大きな箱まで様々だが、全て取り出してみて一つ気付いたことがあった。駄菓子のような軽い御菓子が殆ど無い。気合いの入った華やかな箱が多く、余程慕われているのだろうと推測できた。

「じゃあこれを、手作りの物だけ見ていこうか。スミレさん、手伝ってくれる?」

 呼ばれるとは思っていなかった黒葉菫は慌てて返事をした。

「箱を見ただけでわかるんですか?」

「買ったチョコは、箱に店の名前が書いてあるから」

「わかりました。手作りには御返しするんですか?」

「まさか」

 一通り確認し、手作りのチョコレートを五つ見つけた。

「買ったチョコに開封の痕跡はないし、そっちは気にしなくていいかな。メッセージカードは一応読んであげてね」

「は、はい」

 選別作業を興味深く見ていた男は慌てて頷く。何か参考になればと思い学校で噂になっていた獏へ半信半疑で手紙を出したが、実在した上に想像以上に親身になって考えてくれている。

「それじゃあ先生、心の籠もったチョコを一つ一つ開けていこうか」

「僕がですか?」

「勿論。開封の感情は君だけの物だから」

 リボンに手を掛ける男を獏は楽しそうに眺める。他人が貰ったチョコレートにそこまで興味があるものかと不思議に思う。五つ全ての箱を開けると、男は逆に気分が落ち込んでしまった。

「特に何もなさそうな丸いチョコが二つ。御丁寧に文字まで入れてる感情重めのハートの形が三つ」

「やっぱり重いですか……ハートは」

「手作りだしね」

 紙袋の中身には義理だけではなく本命のチョコレートも混ざっていたようだ。こういう物にどう返せば良いのか、男はそれが聞きたかった。開ける前からも四角い箱ばかりではなくハートの形や絵柄があったので懸念はあったのだが、ここまで直球の物が出て来るとは思わなかった。

 獏はチョコレートを広げたまま台所へ行き、包丁を手に戻って来た。男が目を見開いたのを見て、刃先を少し下げる。

「変な奴が凶器を持ち出したと思われてそうだけど、切るのはこっちだから」

 刃先をハートのチョコレートに向けて突く。

「何か出て来たら僕としては面白いんだけど」

 何か、とは? とは誰も聞かなかった。あまり良い物ではないだろうと察するのは容易だった。

 一つ一つチョコレートを真っ二つに切っていく手元を、男と黒葉菫は息を凝らしながら注視する。一つまた一つと、中にはチョコレート以外何も見えない。

「……ん」

 最後の一つで、ごり、と固い感触があった。大きなハートを切り分けると、中から小さな白い粒がばらりと顔を出した。

「何ですか? これ」

 想像がつかなかった黒葉菫が先に声を上げた。男も訝しげに小首を傾ぐ。

「ラムネ……ですか?」

 それぞれの言葉に獏は苦笑した。

「二人共、人がいいねぇ。スミレさんは本当にわからないかもしれないけど、これは食べ物じゃなくて錠剤だよ。薬だ」

 纏わり付くチョコレートから刃先で穿り出してよく見えるように転がす。食品に入っているのだから食品を真っ先に想像する方が真っ当なのだろうが、生憎獏は真っ当ではない。困惑して息を呑む男には衝撃的だっただろうが、こういうことをする人間が近くにいるのならもう少し警戒した方が良い。

「先生、差出人は誰か覚えてる? カードとか何も入ってないけど」

「いえ……直接手渡された物なら顔と一致できますが、職員室に袋を置いて席を外した時に入れた生徒もいるようで、見覚えのない物が幾つかあります」

「その一致しない内の一つがこれってわけか。どっちだろうね、良い方か悪い方か」

 獏は可笑しそうにくすくすと笑う。男は箱とリボンをもう一度凝視して記憶を手繰るが、やはり心当たりはない。

「良い方と悪い方って何ですか?」

 黒葉菫は素直に疑問に思ったことを尋ねる。何が良くて悪いのか彼にはさっぱりわからなかった。

「良い方は、好きな気持ちが暴走した方。悪い方は、好意的な行事を利用した悪意――って所かな」

 これがその悪意ならば、殺そうとしたことになってしまう。男は身震いして眉を寄せた。

「……これは何の薬なんですか?」

「さあ……何だろう。本人に直接訊くのが確実だと思うけど、特定してみる?」

「できるならお願いしたいです」

「じゃあそれはもう相談じゃないね。僕への願い事だ」

 机に置かれた紅茶を男の前へ差し出す。チョコレートに薬が仕込まれていた直後に、男は何も疑わずに勧められた紅茶を飲んだ。反射的かもしれないが、本当に人が良い。紅茶には毒などは入っていないので、必要以上に脅かすことはしないが。

「僕に願い事をするなら、代価を貰うよ。心の柔らかい部分をほんの少し。痛みも苦しみもないから安心して。不安なら君の望むものを指定してもいい」

「……あまり騒ぎにならないなら、お願いしたいです」

「そうだね。繊細な問題だからね」

「他校ですが、生徒が飛び降りたなんて話も聞きますし、生徒の心に傷を作るようなことは避けたいです」

 その話はおそらく獏が願い事のために赴いた件だとは思うが、余計なことは言わないことにした。不本意な噂話までは外に出ていないようだが、生徒が飛び降りたとなればそんな大事件はすぐに噂となる。

「生徒全員を確認するのは大変だけど、また制服を着て潜入するのがいいのかな」

 その不本意な噂の時と同じく制服で潜入しなければならないのは少々不安があるが、不審者が覗いていれば生徒に警戒されるだろう。やはり制服を着た方が良いかと悩んでしまう。

「今はウニもいないので、潜入するなら俺も何とか頑張ってみます」

「スミレさんに学生服は……どうかなぁ……」

 彼の見た目は二十歳前後の大学生辺りがしっくり来ると思うのだが、黒色海栗がいないとなると黒葉菫に任せるしかない。

「先生、学校って中学校? 高校? それとも小学校……?」

「高校です」

「高校だったらぎりぎり……、ぎりぎりセーフかな?」

「女子校ですが」

「アウトだよスミレさん」

 どう見ても男に見える黒葉菫に女子の学生服を着せるのは無理がある。余計に目立ってしまう。それは彼にもわかっているので、無理に着るとは言えなかった。

「貴方も以前男子の制服を着てましたよね? 女子の制服は……女子……」

 男子の制服を着ていたのだから男なのかとも思ったが、女子でも違和感がない。以前は男子の制服を着た黒色海栗に合わせていたとも取れる。何度か動物面の下の素顔も見たが、中性的な顔をしていて性別がわからなかった。性別の無い獣もいるのかもしれないと勝手に考える。

「そんなに見られると居心地が悪いんだけど……」

 無意識に凝視してしまい、黒葉菫は慌てて目を逸らした。

「すみません……」

 獏は苦笑し、話を戻す。

「とりあえず、中に潜入は諦めて、外から探ってみようか」

「すみません。俺も女子の制服が着れるような容姿だったら良かったんですが」

「ふっ……ふふ。真面目に言うと面白い発言だね。一時条件が合わないくらいで落ち込まなくていいよ。スミレさんはそのままで充分だから」

「このままで制服を着ますか?」

「いやそういう意味じゃなかった」

 もう一度、外から探ることを言い直すとすぐに理解はしたが、時々予想しない角度から返事が来る。

 男の前に置いた紅茶はまだ半分ほど残っているが、それだけ飲んでいれば充分だろう。広げたチョコレートを片付けておく。

「あの、良かったらこのチョコ貰ってくれませんか?」

「変なチョコがあったから、他のも心配? 手作り以外は大丈夫だと思うけど」

「元々チョコレートはあまり……」

「そうなんだね。じゃあ貰っておくよ。手作りは処分するけど。君にとっては顔見知りの生徒でも、僕にとっては全く知らない人だし」

「はい。それで構いません」

 御返しは気に懸けるが処分には何も言わないらしい。人目だけを気にしているようだ。

「スミレさん。外って今は昼?」

「夜です」

「じゃあ学校に行くのは明日だね。またね、先生」

 獏がひらひらと手を振ると、話が纏まったのだと男も立ち上がる。軽く頭を下げる黒葉菫に促され、店を後にした。

 紙袋の中にチョコレートを戻し、手作りチョコレートだけ木箱へ入れて避けておく。処分するとは言ったが、この願い事が完了するまでは保管しておく。

 物珍しそうに黒猫がチョコレートを覗きに来るが、手で制すると獏の顔を見上げた後に大人しく去って行った。聞き分けが良くて助かる。



 翌日は朝から街の外へ出て、目的の学校へ行った。服装はそのままで、重い首輪を嵌められた獏は遠目から校舎をぐるりと見渡す。

「生徒全員となると大変だから、とりあえずは先生が教えてる学年の生徒に絞って探してみようかな」

「変装が無理なら変身でもできれば良かったんですが」

「変身は僕もできないよ……」

 黒葉菫もいつもの黒い服装で獏の傍らに立ち、校舎を見上げる。中学校よりも校舎が広い。

「覗き窓で外から確認していくけど、それだと何となく怪しそうな人しかわからないんだよね。直接話して精査しなくちゃなんだけど、この格好だと警戒されると思う?」

 黒いマレーバクの面に重い金属の首輪を嵌めた黒衣の獏を頭から足まで見下ろし、黒葉菫は神妙に頷いた。かなり怪しい。

「せめてお面を取れば、警戒が緩むかもしれません」

「善行に支障が出ないようにって狴犴から貰ったお面なんだけどね……付けてた方が支障が出るって本末転倒だよね。まあ今じゃ付けてる方が安心するんだけど」

「ずっと前から付けてるんだと思ってました。結構最近なんですね」

「まあね。自分の顔なんて見る機会ないし。でも僕の顔を見て騒いでた人間を思い出すから、顔は見せない方がいいだろうと思って」

「貴方が気にしないなら、気にしなくていいんじゃないですか? 顔色を窺ってばかりだと疲れそうなので」

 校舎を見上げる黒葉菫の横顔を一瞥し、目を伏せる。

「皆君みたいな変転人だったら良かったのにね」

 面の下の顔を見た宵街の変転人は皆何も気にしていなかった。美人だとは言うがそれ以上は無く、罪人嫌いの白花苧環も性格は悪いが顔について必要以上のことは言っていない。夢魔と呼ぶ者もいない。灰色海月のようにただ人の顔に興味がないだけとも言えるが、それは獏にとってはありがたいことだった。

 全ての生徒が校舎に入り廊下が静まったことを確認し、獏は黒葉菫に手を差し出した。

「行こうか」

「はい」

 ゆったりとした動きの黒葉菫を待つが、一向に手を掴まないので獏は怪訝に彼を見上げた。彼も不思議そうに獏を見る。

「……校舎の壁を登るんだけど、一人で跳び上がれないよね?」

「え?」

「スミレさんは初めてだったかな。手を繋ぐと軽くしてあげられるから、僕に付いて来れるよ。繋ぐのが嫌なら、負んぶでも抱っこでも」

「手でお願いします」

 がしりと手を掴むと、獏はくすくすと笑った。

「手を離さない限りは落とさないから安心して」

 地面を蹴り、一気に校舎へ駆ける。速度はあまり落とさず、そのまま壁を蹴って上階へ跳び上がった。ふわりと軽く体が浮く感覚に腹の奥がぞわりと混乱するが、その一瞬が過ぎると風が気持ち良かった。これが獣の速度なのだと、初めての体験に手に力が籠もる。

 軒に足を掛け、獏は親指と人差し指で作った輪を窓へ向けて教室の中の感情を覗く。授業中の感情を覗いてもその授業に関することで頭は一杯だろうと思っていたが、そうでもなかった。

「疚しい感情を覗けたとしても、それが何に対してかは見極めが難しいから……先生の話題を出した時に覗くのが一番わかりやすいんだけどね……」

「空席は欠席ですかね?」

「だろうね。犯人が欠席だと面倒だけど」

 一つの教室には三十人程度の生徒がいた。ゆっくりと見回して次の教室へと跳ぶ。契約者の男が授業をしている教室は覗く感情もわかりやすかったが、特に怪しい感情はなかった。

 一通り教室を覗いた結果は、別段取り立てる生徒はいなかった。空席も幾つかあったが、一人一人の家を回るのは面倒だ。

 屋上まで跳び上がり、柵に腰掛けて獏は唸る。

 手を離れた黒葉菫は、まだ宙を飛んでいるような感覚が体に残っていた。灰色海月や黒色海栗は元々動く生物だったので何も感じないのだろうか。元々が動かない植物だった黒葉菫は、空中に放り出されるような感覚に慣れるのは時間が掛かりそうだ。

「スミレさん、酔った?」

「いえ、大丈夫です。心臓は跳ね回ってますが」

「それは悪いことをしちゃったね……ごめんね」

 黒色海栗が平気な顔をしていたので黒葉菫も同じように振り回してしまったが、彼には負荷が大きかったようだ。申し訳なく思いつつ、柵から投げ出した足を揺らして校舎を見下ろす。

「それで、どうでしたか? 変なチョコを入れたのが誰かわかりましたか?」

「決定的なものがないんだよね……。念のためって言うか、もう一箇所行きたい所があるんだけど、昼休みの方がいいのかな」

「昼ですか? 少し時間がありますね」

「その間に準備するよ。休み時間は授業みたいに視線が固定されなくて、死角を探すのも大変だから」

「準備ですか……?」

 黒葉菫は小首を傾げる。何をするのか見当も付かなかった。

 再び手を握り、今度は少し速度を落として跳ぶ。跳びながら目的の場所を探し、遠目から確認しておく。中を少し覗いてみるが、やはり昼休みに行く方が良さそうだ。

 しっかりと黒葉菫を振り回した後は昼休みまで陰で休ませた。慣れれば何とも感じなくなるとは思うが、普段からあまり速い動きをしない黒葉菫は時間が掛かりそうだ。



 準備が終わり昼休みの鐘が鳴ると、教室から一斉に女子生徒達の談笑が流れ始める。教室で弁当を広げる者、食堂へ向かう者、教師は職員室へ戻る。

 それぞれの席で弁当や購入した昼食を広げる中、一人の女子生徒はそっと職員室へ行き扉を開けた。重い首輪を付けた生徒は昼食に意識の向いている教師達に指で作った輪を向ける。ゆっくりと輪を動かし、一人の前でぴたりと止まる。黒い動物面に隠れた顔で生徒はにまりと笑った。

「――先生、少しお話いいですか?」

「!?」

 買ってきたパンに齧り付いていた教師は、顔を上げてびくりと固まってしまった。ごつい首輪に変なお面を被って遊びそうな生徒に心当たりはなかった。染色もなく黒い髪に、膝まで伸びたスカート。首のリボンは緩めてあるが、異様な首輪と面以外は真面目そうな姿の生徒だった。

「な、何かしら……?」

 口の中で忘れていたパンを飲み込み、何とか声を出す。顔の見えない生徒の声に聞き覚えもなく、誰なのか見当が付かない。近くにいる他の教師に助けを求めるように目を向けるが、こんなに目立つ変な格好をしているのに誰一人こちらを向く者がいない。まるでたった一人にしか見えていないように。

「バレンタインの手作りチョコレート、大きなハートでしたね」

「!」

 柔和な声で生徒が知るはずのないことを言い出し、女教師は妙な生徒から目を離せなくなってしまった。

「これは美味しい薬ですか?」

 チョコレートの中に入っていた錠剤を一粒取り出し、生徒は女教師の前に突き出した。

 そこで女は理解した。どういう経緯かは知らないが、この女生徒は女が気を惹かれている男教師に送ったチョコレートのことを知っていて問い詰めようとしているのだ。あの男が一生徒にこんなことを話すとは思えなかったが、只の生徒ではない特別な関係なのではないかと思い至った。

「な……何かしら、それは? 顔を隠してるけど、誰なの?」

「白を切るんですね。じゃあ教えてあげないです」

「…………」

「実はこれ、只の御菓子なんです。ラムネです。先生にあげようと思って。食べてください」

 生徒は突然にこりと笑い、女の口元に手を突き出した。

「え? それは、ちょっと……」

「只のラムネですよ。先生はそれ以外は知らないですよね? ラムネなんだから、食べてください」

「や……ちょっと」

 ぐいぐいと口へ近付く白い粒に、女は必死に首を振った。只の菓子ならここまで必死に嫌がる素振りはしない。その白い粒が本当は何なのか知っているからこそ、口に入れるわけにはいかなかった。


「や、やめて!」


 つい大きな声を出してしまい、女はハッとした。今まで見向きもしなかった周囲の教師達が一斉に女を見ていた。ぽかんと訝しげに、ただ女だけを見ている。誰もその前にいる面を被った生徒のことは見ていない。

「な……何でもないです……」

 そろそろと机上に視線を落とし、背を縮こまらせた。この女生徒はもしかしたら自分にしか見えない幽霊なのかもしれないと思い直し、相手にしないことにした。きっと疲れているのだ。これは幻に違いない。

「ねえ先生」

 顔を逸らしてしまった女の顎を掴み、面の方を向かせる。女の目はすっかり怯えていた。幽霊なのだから自分に触れられるはずはないと思いつつ、触れられるならやはり実在するのではと混乱した。

 女は不安に駆られて席を立ち、足早に職員室から出た。近くにいると何をされるかわからない。逃げた方が良いと本能的に足が動いた。

 普段は生徒に廊下は走らないようにと言う立場ではあるが、女は徐々に駆け足になり廊下を走った。その後ろを面を被った女生徒がスキップでもするようにスカートをふわりと翻し、跳びながら追って来る。陸上部にでも所属しているのか、足が速すぎる。

 息を切らす様子もない生徒に、このままでは逃げ切れないと女も足を止めた。これが若さかと女は肩で息をする。

 周囲には誰もいないので、少しなら大声を出しても人が来ないだろうと、意を決して生徒に向き直った。生徒はやや残念そうに首を傾ぐ。薄暗い廊下で見ると、面に気味の悪さが増す。

「な……何よ、あんた……その手の……それ、どうしたのよ……」

 まだ息が整わず切れ切れの言葉だが、生徒はあれだけ走っても何ともないのか少しも息を乱さずに喋り出した。

「これは先生に貰ったの。だから、これは何?」

 もう一度よく見えるように白い粒を突き出し、何が面白いのか笑う。いや――きっと馬鹿にしているのだと女は思った。嘲笑っているのだ。人の男に手を出すなと見下しているのだ。

「まさか……、生徒に手を出してるとは……思わなかったけど……」

「手? 何か出されたかな……?」

 わざとらしく考える仕草をする。それもまた気に障った。圧倒的優位から見下しているとしか思えなかった。

 白い粒が何なのか言わないことしか考えていなかったが、少し冷静になり、先程この生徒が言った言葉を利用することにした。大人を揶揄った罰を与えないといけない。

「……それね、ラムネで合ってるわよ。だから食べても大丈夫。食べてみて」

 女生徒は白い粒に目を遣り、一度笑みを消した。面を被っている所為で表情がわかり辛いが、口の端が笑っていない。

「へえ、ラムネなんだ。あのチョコの送り主がわかって良かったよ」

 答えに満足したのか、生徒は再び笑った。女は内心安堵した。あのチョコレートを贈った人物は自分だと明かすようなものだったが、それには気付いていなかった。

「教えてくれてありがとう、先生」

 微笑みながら、生徒は舌に白い粒を載せた。言葉を信じたのだと女は引き攣ったような笑いを浮かべた。

「御礼に御返しするね」

 白い粒を口に入れ、とんとスカートを翻して一気に距離を詰めた。気味の悪い面を外し、女の頭を掴む。すぐに近過ぎて見えなくなったが、一瞬見えた顔はやはり見覚えがなく、一度見たら忘れそうにないような美麗な相貌をしていた。人形のように整った顔立ちに反応が遅れてしまい、唇を合わせられ逃れられなかった。

「んぅ!?」

 舌に載せられた白い粒が、口に移される。それを呑んでは駄目だと理解はしているのに、顔を上に向けられるのと口を塞がれているのとで、喉の奥へと呑んでしまった。

 漸く口を離された時には白い粒は吐き出せないほど遠くへ落ちてしまっていた。

「やっ……やだ……下剤が……!」

 慌てて口を押さえるが、もう遅い。女は目に涙を浮かべながら背を向けて走り出した。好きな人を看病したい気持ちからチョコレートに入れた物だったが、看病されるのも良いかもしれないとほんの少し考えてしまった。

「ふふっ……あれ下剤だったんだ」

 走る背は追わずに、生徒はくすくすと笑った。

「全然甘くなかったからね」

 嫋やかな手を虚空へ上げると、廊下の陰から至極色の青年がそっと苺の描かれた紙パック飲料を握らせた。

「そんな物よく口に入れましたね」

「毒だったとしても多少は平気だから。お腹が痛くならないことを祈っててよ」

「祈るしかできませんよ」

 口直しの苺牛乳を啜りながら、今は特に異常がないことを確認する。

「後は願いの結果を報告して、代価には不安を貰おうかな」

 制服を着たままで会いに行くと驚かれるだろうかと思いながら、獏は動物面を被り直して廊下の奥を楽しそうに見詰めた。



 ひらひらと脚に纏わり付くスカートからいつもの黒衣に着替えた獏は、腹に異常を訴えることなく誰もいない街に戻った。

 誰もいないと思っていたが、店のドアを開けると黒い少女が顔を出す。宵街から戻って来ていたようだ。

「報告書、渡した」

 静かに駆け寄り、黒色海栗は任務を完遂したことを伝えた。

 暫く忘れていただけだが報告書などという面倒な作業が終わり、獏も安心した。

「報告書は絵日記じゃない。遣り直し。って言われた」

「え!?」

 思わぬ言葉に思わず声が裏返ってしまう。絵を描けばわかりやすいと思った配慮なのに、それを絵日記とは。

 新しく預かってきたらしい白紙を取り出して見せられ、獏は肩を落とした。


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