30-恋々
静寂に包まれた誰もいない街の仄かな明かりを灯す古物店の二階で、獏は黒い動物面を枕元に置いてベッドに寝転がっていた。人間に刺された腕の傷は、以前白花苧環が張った陰湿な罠に使われた矢の変換石を通して塞いだ。杖が修理中の今、とても助かった。そんなことを言ったら罪人嫌いの白花苧環は機嫌が悪くなりそうだ。
傷を塞いだと言っても完治はしていない。飽くまで塞いだだけだ。その腕を投げ出し、誰もいない部屋の天井をぼんやりと見上げる。大人しく回復に努めているが、何もせず天井を見詰めているだけというのは退屈だ。
力の制限があると、怪我を負いやすいようだ。気を付けてはいるのだが、体で攻撃を受けることを選んでしまう。丸腰なのだから体で受けるしかないのだが。
物音一つしない静寂に、ドアが開く音が遠く聞こえた。続いて階段を上がる音がする。誰か来たようだ。枕元の面を取り、醜い顔を覆う。
「戻りました」
ドアを叩く音の後に、聞き慣れた声が聞こえる。黒葉菫だ。
ベッドから足を下ろし、ドアを開けた。
「お疲れ様。どうだった?」
願い事の依頼から知る所となった、獣の指を持っていた男を宵街に連行した黒葉菫は疲れた顔をしていた。椅子を勧め、休むように促す。
「何から話せばいいのか……とりあえず、あの指ですが」
椅子に腰を下ろす黒葉菫にハーブティーでも淹れようとした所で話し始めたので、獏も戻ってベッドに腰を下ろす。願い事の依頼をしてきた男が隠していた獣の指が誰の物かわかったのかと、黙って先を促した。
「鑑定した結果、あれは普通の人間の指だそうです」
「え!? あれだけ怒った僕が恥ずかしいんだけど……」
「あの男も想定外だったようで……偽の情報を掴まされたのではないかと」
「それじゃあ幾ら覗き窓であの男を見てもわからないはずだね……」
本人が騙されて信じ込んでいるなら、感情に揺らぎは発生しない。騙そうとしているなら、感情を覆い隠していなければわかるのだが。
「獣の指ではなかったのと、それを渡した女はもう死んでるのでその分は咎めが無かったんですが、獣で金を得ようとしたことは事実なので始末されました」
「そう……」
「あと指を売り付けるはずだった蒐集家を、鵺が殺しました。俺も手伝わされました」
「それは大変だったね……」
疲れていた意味がよくわかった。鵺に連れ回されたようだ。
「蒐集家って何だったの?」
「家の中は、色んな動物の剥製や骨が飾られてました。ラベルに獣の名前が書かれた物もありましたが、どれも獣の部位ではなかったです」
「そう簡単に仕留められないよね」
「求める人がいなければ被害が起こることもない、ということで殺すことになりました。獏も皮を剥がれないように気を付けなさい、と鵺が言ってました」
「力の制限があるからかな? 気遣ってくれるなんて。獏の皮を敷いて眠ると悪夢を見ない、ってやつだよね。本当かな?」
くすくすと笑っているが、内容はあまり笑えるものではなかった。
「拷問を近くで見るのは初めてだったので、疲れました」
「そっか。ゆっくり休んでよ。ベッド貸そうか?」
「いえ、負傷してる貴方のベッドを借りるわけには。それに、手紙の投函が……」
「じゃあ向かいの部屋のベッドを借りる? 監視役の部屋として使ってるから、スミレさんも使ってよ。手紙は、ウニさんが行けないかな?」
「ウニに行かせて大丈夫ですか? あんまり喋りませんが……」
「大丈夫だよ。必要なことは喋ってくれるから」
手渡された羅針盤を預かり、獏は部屋を出る。黒葉菫は言葉に甘えることにし、向かいの灰色海月の部屋を借りることにした。人間を撃つことに躊躇いは無いが、頭に響く断末魔を聞き続けるのは気が変になりそうだった。
獏が階段を下りると黒色海栗は静かに机で日記を書いていた。丸めた黒い背中に声を掛ける。
「ウニさん。スミレさんは疲れてるみたいだから、ウニさんに監視役代理を任せていいかな?」
「!」
羽根ペンを握ったまま振り返り、獏を見上げる。片耳に付けた海色の耳飾りが軽やかに揺れた。
「わかった。やる」
投函の反応がある思念の羅針盤を受け取り、彼女は力強く頷いた。日記を閉じ、すぐに黒い傘を引き抜いて店の外へ駆けて行く。
黒色海栗が差出人を連れて来るまでに、獏はハーブティーを淹れた。疲れた体に染み渡ることだろう。
ティーカップを持ち、二階へ行く。ドアを開ける音がしていたので灰色海月の部屋へ移動したのだろうと、今は宵街で治療している彼女の部屋のドアを開けると、黒葉菫がベッドで横になっていた。目を閉じていた彼はゆっくりと開けて獏の方へ目を遣る。
「レモンバームティーを淹れてきたから、良かったら飲んで」
「すみません。わざわざ。貴方も休まないといけないのに」
体を起こしてカップを受け取り、少し飲む。柑橘の香りが安らぐ。
「気にしなくていいよ。僕は人間より丈夫だしね」
微笑み、すぐに踵を返して部屋を出る。その背に向かって黒葉菫は頭を下げた。普通の人間に対してはともかく、変転人には本当によく気遣ってくれる獣だ。
一階の奥の古い椅子に腰掛け、動物面を台所へ向ける。いつもは黒葉菫が願い事の契約を施す刻印の飲み物を淹れているが、黒色海栗は淹れられるのだろうか。先に訊いておけば良かったかもしれない。
少し時間が掛かっていたが、やがて黒色海栗が店に戻って来る。背後に手紙の差出人らしき少女も連れていて安心した。
「連れてきた」
「ありがとう。ウニさんは何か飲み物を用意できる?」
「いつも見てた。大丈夫」
黒葉菫が珈琲を淹れていた所を見て覚えていたようだ。それなら任せておこうと、連れられて来た差出人の少女に向き直る。
「こんにちは。僕が獏だよ。早速君の願い事を聞かせてよ」
少女は置かれた椅子には座らず、じっと獏の動物面を見詰めた。
「貴方が獏……」
呟いたまま暫く凝視するので、獏は居心地悪く目を逸らしたくなる。見た目は人間に見えるだろうが、人間ではない。それを見極めようとしているのかもしれない。鵺のようにわかりやすく尻尾でも生えていれば、すぐに信じてもらえるのだろうが。
「――私の願い事は、おじいちゃんに貴方を会わせることです」
「おじいちゃん、に……?」
変わった願いだと思ったが、すぐに腑に落ちる答えに辿り着く。
「そのおじいちゃんに何か願い事があるのかな?」
何らかの理由で動けないのなら、願い事の依頼がないとこの街から出られない獏の所へ来ることはできない。その代わりに動けるこの少女が願い事を持って来たのなら筋が通る。
「私の曾……ひ……忘れたけど、何人か上のおじいちゃんが獏を見たらしくて。その話が伝わってて、今生きてるおじいちゃんがとても会いたがってるの。だから、」
「絶対、嫌だ」
柔和な態度から一変して突き放すように冷たく吐き捨てた。台所でティーカップに水を入れていた黒色海栗もびくりと硬直してしまう。先程までの穏やかな声はすっかり消え去っていた。
「え……願い事は何でも叶えてくれるんじゃ……。会うだけなのに……」
「嫌だ。僕は会いたくない」
机に強く手を突き、立ち上がる。表情の見えない動物面で少女を見た後、黙って階段を上がった。
こんな拒絶は初めてだったので、黒色海栗は台所から水の入ったカップを持ちながら急いで階段を見上げる。獏は振り返らずに、ドアを閉める音だけが聞こえた。
残された黒色海栗は持っていたカップを見下ろし、机に置いておく。どうすれば良いのかわからず、依頼者の少女を一瞥して俯いた。何か遣り方が間違っていたのかもしれないと、辺りに目を遣りながら途方に暮れる。
「……怒らせた……んでしょうか……?」
少女も困ったように、俯く黒色海栗に目を向けた。
「あの、頼んではいけない願い事があるんですか?」
「…………」
黒色海栗は顔を上げ、何か言われていなかったか考える。未就学児の願い事は聞かないことは知っているが、この少女はそうは見えなかった。会うのを拒む理由が思い付かない。
「わからない……」
黒葉菫に尋ねてみようかとも思うが、彼はとても疲れていた。今は休んでいるのだから、邪魔をするわけにはいかない。
どんどんと俯いていく黒色海栗を見ていられなくなった少女は、一旦帰ろうと思い始めた。ここで待っていても、あの獏は階段を下りて来ないだろう。
踵を返そうとすると、背後で静かにドアが開く音がした。しんとした誰もいない夜の街に来客があるとは思わず肩が跳ねる。振り向いた少女と、ドアを開けた端整な白い少年の目が合った。
白い少年はドアに手を掛けたまま、状況を見定めようと動きを止めた。見知らぬ少女と、困ったような黒色海栗、そして獏の姿はない。
「……獏は何処ですか?」
黒色海栗は縋るように白い少年――白花苧環を見詰め、階段の方に目を遣った。
「二階に行って、戻ってこない……」
「どういうことです? 見た所、願い事の差出人のようですが……善行を放棄したんですか?」
「願い事を聞いたら、怒った……」
「怒った? 人殺しでも願われたんですか?」
理解ができず、白花苧環は眉を顰めた。用がありここに来たのだが、妙なことになっている。物騒なことを言う彼に、依頼者の少女は慌てて首を振った。
「そんな怖い願い事じゃないです! 私のおじいちゃんに会ってほしいって言っただけです」
「……? オレは願いを叶えませんが、詳しく話を聞いてもいいですか? 獏のことはどうでもいいですが、このままではウニが可哀想なので」
「苧環、良い人」
少女も少し安心したようで、訥々と話し始めた。また怒らせはしないかと少しの不安を抱えながら。
「私の……何人か上のおじいちゃんが、獏に会ったらしくて。その話が伝わって、今の生きてるおじいちゃんもずっと会ってみたいって言ってて……それで、会わせてあげられたらと思ったんです」
「最初に見たと言った人は随分と昔のようですね?」
「はい。とても綺麗な人がいたらしいって私もおじいちゃんからよく聞かされてて……私もそれで興味はあったんですが、ここの人はお面を被ってて顔は見えなかったです。もしかしたら違う人……獏なのかもしれないですが」
「ああ……嫌がる理由がわかりました」
「本当ですか!? どの辺りで怒らせてしまったんでしょうか……」
「いえ、獏が勝手に機嫌を悪くしてるだけです。怒ってるわけではないです。少し言ってきますね。オレも用があるので」
軽く頭を下げ、白花苧環は狭い通路を進み階段を上がる。黒色海栗も後に続くので、上がって良いのだろうかと思いつつも少女も付いて行った。
叩かずにドアを開け放つと、ベッドの上に座っていた獏が驚いて顔を上げた。
「え……何でマキさんが?」
「事情を聞きました。見世物小屋にいた頃に見られたんですよね?」
「!」
反射的に立ち上がり、獏は以前彼が置いて行ったダーツの矢を構えてしまう。その先に付いた変換石は小さいが、この街の中ではそれの使用を認められている。
「貴方から襲ってくるなら、オレも武器を使う大義名分ができるんですが」
「わかってるなら、僕が嫌だって言うのもわかるでしょ」
「罪人の気持ちなんてわかりたくもないです。一応穏便に済ませるために特別に仕置印も預かったんですが」
「全然穏便じゃない!」
「そんなに嫌がるなら丁度いいじゃないですか。罪人の善行を罰とするなら、嫌がるくらいが丁度いい」
「本当に性格が悪いね君は」
動物面の奥で眉を歪め、吐き捨てるように笑った。
「いきなり来て嫌がらせなん」
「ああ、ここに来たのはこれを渡すためです」
折り畳まれた杖を取り出す。先端には割れていない綺麗な変換石が付いていた。長い修理が終わったらしい。
「スミレに持って行ってもらうはずだったそうですが、呼び止める声に気付かずに行ってしまったようですね。代わりにオレが頼まれました。いい迷惑ですよ」
杖は獏にとって必要な物だ。今この時に出されてしまっては、拒むことができない。最悪な時に最悪な奴が力を握っている。最悪だ。
「後もう一つ。貴方の知りたい情報が手に入りました」
「情報……? 何の」
「さあ? 何が知りたかったんですか?」
嘲るように口元を歪めるので、獏の頬が引き攣る。何の情報なのか記憶を探ってみるが、白花苧環から聞かなければいけない情報などあっただろうかと首を捻る。気を引くための只の嘘かもしれない。だが杖を握っている上に情報の嘘まで吐く必要はあるのか。杖だけで交渉材料は充分のはずだ。
「会うだけなんて、簡単な善行じゃないですか」
「…………」
「罪人と話すだけで虫唾が走るんです。ウニを困らせないでください」
その言葉で、白花苧環の背後で困惑しながら様子を窺う黒色海栗が目に入る。彼は嫌がらせも勿論あるだろうが、彼女を放っておけなかったようだ。獏は初めて、自分の反射的な拒絶で困らせてしまったことに気付いた。感情的な拒絶に巻き込んでしまったことにばつが悪くなる。
「……手紙の差出人は、少し廊下に出てて」
「……は、はい……」
双方に言い争う剣幕に体が固まってしまっていた少女は、何とか足を動かして言われた通りに部屋を出てドアを閉めた。人を殺しかねないような鋭い空気に、震えが止まらない。廊下に蹲み込み、ここに来てはいけなかったのだと後悔した。
部屋を出たことを確認し、獏は溜息を吐く。
「あんまり見世物小屋って言わないで」
「事実でしょう?」
「とりあえず、杖。返して」
「あの人の願い事を叶えるなら、いいですよ」
「…………」
「まるで子供ですね。そんなに拗ねて」
「拗ねてない。……会ったら、顔を見せろって言われるに決まってる」
「見せればいいじゃないですか。いい冥土の土産になるんじゃないですか?」
「それ意味がわかって言ってるの?」
「老い先短い方なんでしょう?」
しっかり意味がわかって言っているようだ。人と接する機会の少ない彼には感情はまだ難しいらしい。
「……情報って言うのは?」
「蜃について聞きたがってたじゃないですか」
「! 居場所がわかったの?」
「…………」
白花苧環は無言で獏を見る。願い事を叶えなければその先を言うつもりはない、と目で訴えている。
「……何か言われたら、自分を抑える自信がない」
やっとの思いでそれだけ口にした。会いたくない一番の理由はそれだった。過去の出来事は未だ消化できないでいる故に、感情を抑えきれるかわからない。
「つまり、危害を加えそうになれば、止めてほしいということですか? 貴方を殺せばいいなら任せてください」
「そんなこと任せないよ! 短絡的すぎるでしょ!」
「頑張って止める」
黒色海栗も乗り気になってしまった。彼女に止められるかはわからないが、逆刺が刺されば痛そうだ。
「ウニさんには謝るけど……」
「善行の終了報酬として杖は返してあげますよ」
「じゃあ情報の方は?」
「願い事を叶えると言うなら、話してあげます」
「……わかった。殺さない程度に止めて」
「わかりました。瀕死に留めておきます」
「わかってないよね」
獏はもう一度溜息を吐き、ベッドに倒れるように座った。願い事を受理する前にこんなに疲れることも珍しい。
白花苧環は一旦獏の杖を仕舞い、黒色海栗へ目を遣る。もう困惑の色は無く、元に戻ったようだ。
「蜃は死んだそうです」
「…………は?」
唐突に切り出され、頭が付いていかなかった。
「罪人の蜃は死んだそうです。かなり昔の話だそうです。なのでこの街を創り出した蜃はもういません」
「死んだって……何で」
「…………」
「そこでまた溜めるの? ……後で話してよ」
重い腰を上げ、獏も部屋を出る。座っていた少女を促して階下へ下りた。黒色海栗もとててと付いて行く。
蜃を追い詰めたのは白の変転人らしいが、それを言うかどうか彼はまだ迷っていた。罪人にそこまで親切に情報を提供する義務はない。罪人に興味はないが、追い詰めた白に関しては知りたいと思っている。情報を提供することで何か知る機会があるのなら、提供した方が良いのだろうか。
白花苧環も廊下へ出、暫く立ち尽くす。言わなくても、知らないと言えば信じるだろう。どうすべきか判断が難しい。
向かいの部屋のドアが様子を窺うように開くので、白花苧環は勢い良く叩き付けるように閉めた。
「――っ、いっ」
ドア越しに呻く声が聞こえた。
「顔打った……。一瞬白いのが見えたが、苧環か……? 騒がしいと思ったら……」
「貴方は疲れてるようなので、オレが獏に付いて行ってあげます。御心配なく」
「うわ……一番心配な……」
階段を下りる音が聞こえ、黒葉菫はもう一度そっとドアを開ける。白い頭が少しだけ見えた。ぶつけて赤くなった顔を摩りながら、今日は休むことにした。
階下では既に獏に首輪が付けられ、机には空のティーカップが置かれていた。
「少し会うだけだからね。会ったらすぐに代価を貰って帰るから」
「え……少しくらい話してあげてください……」
何処まで願って良いのかわからず少女は困惑している。白花苧環が獏の方を見ると、ふいと思い切り顔を逸らした。
「オレが杖を預かってることを忘れないでくださいね」
「うっ……」
ぞろぞろと店の外へ出、黒色海栗が黒い傘を取り出す。杖を交渉に使われた獏は渋々と息を吐いた。くるりと回される傘と共に、皆の姿は霧のように消える。
緑が豊かな風景の中で、平屋の大きな家が建っていた。周囲には点々と家と田畑が広がっている。所々地面は見えているが、雪が其処彼処に積もっていた。
「おじいちゃんの家です。私の家はもう少し歩いた所に」
「この人数で押し掛けて、驚いたりしない?」
「あっ……ちょっと言ってきます!」
少女は慌てて家の中へ駆けて行き、三人は暫く外で待った。黒色海栗は寒そうに体を縮めて白い息を吐いているが、白花苧環は涼しい顔をしている。
「マキさんは寒くないの?」
「オレは寒さに強い花なので」
「へぇ……。雪の中にいると見失いそうだもんね」
「関係あります?」
玄関のドアからひょこりと少女が顔を出すので、三人も家の中へ入った。家の中は薄暗く、物が少なく殺風景だった。
「えっ、ど、土足ですか……?」
誰も靴を脱がず家に上がるので少女は困惑するが、三人も困惑した。宵街の中では靴を脱ぐ習慣はなく、家に入るだけで靴を脱がなければいけないことを変転人は知らない。
「土足だといけないんですか?」
「マキさんが初めてこっちの味方に」
「貴方の味方をした覚えはありません。反吐が出るのでやめてください」
目を細め不快そうに獏を見るので、獏も控え目にくすくすと笑う。
「あ……えと……それじゃ、靴を拭いてくれれば……」
先程の殺伐とした空気のこともあり得体の知れない者にあまり強く言うこともできず、少女は急いで雑巾を取りに奥へ走って行った。
なかなか先に進まないが、雑巾でそれぞれ靴底を拭き、少女に案内されて漸く祖父がいるという部屋に入った。机上の明かりだけ点いているが薄暗い。最低限の家具だけが置いてある。少女の祖父は車椅子の上で獏を待っていた。
「おじいちゃん、獏を連れて来たよ。会いたがってたでしょ?」
「ああ……」
「このお面の人が獏だって」
三人を順に見ていた祖父は、黒い動物面の人物に視線を固定した。
「これが……? 顔を……顔を見せておくれ……」
嗄れた手を獏へゆっくりと伸ばし、触れようとする。距離を充分に取っているので、その手が届くことはない。
「その前に少し聞かせて。どんな話が君に伝わってるの?」
ずっと昔に獏を見たと言う少女の遠い『おじいちゃん』が何を伝えたのか、その答えによって不快の度合いは変わってくる。
祖父は手を下ろし、面の下を覗き込むように獏を見詰めた。
「見世物小屋にとても美しい顔をした生き物がいたと。獏だと訴えていたが、皆はそれを夢魔と呼ん」
「その名前で僕を呼ぶな!」
一瞬で距離を詰めて獏は祖父の首に手を伸ばす。白花苧環も床を蹴り、その腕を掴んだ。力の制限があるとは言え、獣の力を止めることは難しい。あまり力を籠められると振り解かれてしまうため、その前に腕を引いて後ろに退かせる。
「早いですよ。オレに言う割に貴方も話を聞かないじゃないですか」
様子がおかしいことには少女もすぐに気付き、祖父の車椅子を獏から遠ざけた。
獏の顔が面で見えなくとも怒っていることはわかる。面の下で疎むように睨み付けていることを。
「……落ち着いてください。腕を折りますよ」
「僕は……っ!」
振った手が白花苧環の頬を掠り、赤い線を引いた。
「暴れないでください」
脚を掛け、床に獏を組み敷く。頭を振りながら逃れようとする獏の顔の前へ、とんと仕置印を置いた。冷静であるなら、これくらい振り解けないはずがない。仕置印を嫌がる様子があったので、これを見せて冷静になれば良い。
「冷静になってください。この人間に危害を加えるなら、殺しますよ。これだけ譲歩してる内に冷静になるのが身のためです」
「……!」
目の前に置かれた仕置印にびくりと獏の体が強張る。
「夢魔と言われるのが気に入らないんですか?」
「ぐっ……!」
「外しますよ、お面」
腕を捻ると、微かだが痛がるような仕草をすることに白花苧環は気付いた。負傷しているために力が入りきらずに振り解けないのかと察する。
黒色海栗も獏を止めようと脚を押さえる。だが彼女の力では動きを止めることはできない。それがわかっているので、獏は無理に脚を動かさない。無理に動かして彼女を蹴り飛ばしてしまうのは本意ではない。
白花苧環が獏の面を外すと、少女と祖父は息を呑んだ。怒りに顔を歪めてはいるが、その顔ですら目を逸らせないほど美しいと思った。
「これは……確かに美しい。聞いていた通りの金色の目……故人の見た者を見てみたいと思っていたが、死ぬまでに見られて良かった……。まるで御伽噺の中に入り込んでしまったようだ」
「殺す……! 人間が……僕を見るな! 蛆虫が!」
「…………」
袖に隠れているが負傷の箇所に当たりを付け、白花苧環はその腕を握り締めた。
「っ……!」
獣と言えど痛みは感じる。これで冷静になってもらわねば、瀕死にまで追い込むことになる。
「……危険なので、一度家から出ますね。頭を冷やして戻ります」
「は……はい……」
獏の上から降り、蹴って腹が見えた所で更に強く蹴る。腹を押さえて丸まるので、獏を担ぎ上げて急いで家を出た。家の外にはまだ多くの雪が残っている。その山に獏の頭を叩き付けた。
「どうです? 頭は冷えますか?」
「……っ! んぅ……!」
必死に逃れようとする頭を押さえ付け、抵抗が弱くなった頃に頭を掴んで雪から引き上げた。
「はっ……は……げほっ」
雪の上に倒れ丸まりながら全身で息をする姿に、白花苧環は満足した。
「あの方はただ、話をしていただけですよ。一々暴れないでください」
顔を隠すように丸くなる獏に溜息を吐く。丸まったまま、獏は小さな声で鈴のように囁くように言葉を零した。
「……僕は……夢魔じゃない……」
「知ってますよ」
「皆……僕を…………」
「そう言われれば、活動時間は同じですね。その所為ですか。夜に枕元に現れるのは同じですよね」
「…………」
「それで顔を見られるのを嫌がってたんですね」
名を間違えられるのは獣にとって屈辱的なことのはずだ。以前『悪魔』と言われてショックを受けたことがあったらしいが、腑に落ちた。夢魔は悪魔だ。
「人間なんか嫌いだ……」
「そうやっていじけてると只の子供みたいですね」
「獏、可哀想」
丸まる獏の頭を黒色海栗は静かに撫でた。自分の力では獏の力を押さえ付けることができず、何もできなかった。慰めることしかできない。
「苧環。むま、って何?」
「男性型をインキュバス、女性型をサキュバスと言って、眠ってる人間を誘惑する悪魔です。相手の望む美しい姿で現れるそうです」
「獏は誘惑しない……」
「知ってれば違いは瞭然ですが、一度そう信じると覆すのは難しいでしょうね」
少しは落ち着いたのか、獏はふらふらと身を起こした。顔に付いた雪が熱でぽろぽろと落ちる。泣いてはいないが、雪を押し付けた所為で顔が少し赤い。
「落ち着いたら代価を貰いに行ってください」
呆れたような声が降ってきて、獏は白花苧環を見上げた。彼の頬に傷があることに漸く気付き、少し考えてから自分の手を見下ろした。
「ごめん……」
「何を謝ってるんですか?」
「顔に傷が……」
不思議そうに顔に手を遣り、赤い物が指先に付着したことで白花苧環も血が出ていることに気付いた。
「ああ、手が当たった時ですね。爪が掠ったんでしょう」
罪人嫌いなら譬え小さくても傷を負わされればすぐに逆上するのかと思えば、何も気にしていないように表情を変えない。
「怒らないの……?」
「自分を抑える自信がないと聞いてたので。手が偶然当たった程度の事故に怒りませんよ」
「君の基準がよくわからない……」
「とにかく、代価を貰いに行ってくださいね」
頬を掠るだけでなく目でも潰されていれば怒っただろうが、大事になっていないことを騒ぐのは疲れるだけだ。もうこの獏に付き合わされるのは殆疲れているのだ。
「首輪を外したい」
「それはできません。外して何をする気です?」
「……僕は、口で直接食事をするのが嫌で杖を作った」
鵺がそんなことも言っていた。獏は元々杖を使わずに力を使っていたと。確かに夜に枕元に現れて口付ければ、夢魔と間違われることも無理はないのかもしれない。
「そうは言っても罪を犯したのは貴方ですよ。貴方は自分で自由を捨てたんです。首輪は外せません」
獏は睫毛を伏せながら沈黙する。自由を捨てたくて捨てたわけではない。
「…………すぐ終わらせる」
ふらふらと家の方へ歩いて行くので、このくらい落ち着いていれば良いだろうと白花苧環も黙って後に付いた。黒色海栗も雪に滑りながら走って後を追う。
「何を食べるんですか?」
「……何で訊くの? 罪人に興味ないんじゃなかったの?」
「必要以上の食事をしないか確認のためです。好き好んで訊いてると思うんですか?」
眉を顰め心底嫌そうな顔をするので、余程罪人と会話をするのが嫌なのだろう。わかりやすくて助かる。
「心配しなくても廃人にはしないよ。僕に関する記憶を食べるだけ。それも駄目なんて言わないよね」
「それはオレが口を出す所ではないので。ですが、契約者はあの女性だけですよ」
「あの老い耄れも何か願えばいいのに」
少女と祖父のいる部屋のドアを開けると、二人の位置は変わらずにそこにいた。落ち着いてはいるが睫毛を伏せまだ不快そうにしている獏を見て、二人の目は再び釘付けとなった。きっとこんな風に見世物になっていたのだろうと、白花苧環は黙って目を遣った。
「おお……戻って来てくれた」
祖父は皺の刻まれた顔をくしゃりと嬉しそうにし、小さな木箱を獏に差し出した。
「何……?」
「これを渡したいと思いながらも渡せずに受け継いできた物です。もう随分昔に遡るが、貰ってあげてください」
「…………」
蓋を開けると、綺麗な花模様が描かれた美しい朱い櫛が収まっていた。
「何でこんな物を?」
「愛しいと想う人に何か贈り物をしたいと思うのは、自然なことではないですか」
「僕は何も望んでなくても?」
「貰った後で捨てるなら、それは貴方の自由だ。ただ、一度はこれを受け取ってほしい」
「傲慢だね。それが君の願いなら、叶えてあげる」
それを願い事として受理することには、白花苧環に口を出す権利はなかった。だから何も言わず、黒色海栗がカップに水を注ぐことも黙って見ていた。
これだけ顔を見られたのに今更だとは思うが、獏は少女と祖父の双眸を手で塞いで口を付け代価の食事をした。
落ちていた動物面を拾い、食事の副作用で惚ける二人を放って黙って家を出る。
受け取った櫛をすぐこの場で捨てると、記憶の切れ端から何かを思い出してしまうかもしれない。仕方なく誰もいない街に持って帰ることにした。
帰りも黒色海栗が黒い傘をくるりと回し、誰もいない街に戻る。獏は静かに黙って店に入った。
白花苧環はそのまま宵街に帰ろうとしたが、杖を預かっていることを思い出した。薄暗い仄かな橙色の店内に並ぶ棚の間を抜け、机に置かれた小さな木箱を見る。薄汚れていて、相当な年月を経た物だろうと推測できた。
獏は台所で棚を漁り、何かを探しているようだった。
「……御菓子がもうない」
灰色海月が作って置いていた御菓子はもう空になっていた。まだあると思っていたが、カフェへの納品もあり、いつの間にか底を尽きていたようだ。
「宵街で買ってくる」
白花苧環の後ろから様子を窺っていた黒色海栗は、獏のために何かできるのではないかと急いで店を飛び出した。
その背を無言で見送り、白花苧環も畳まれた杖を机に置いた。
「杖をお返しします。約束は守るので」
獏は台所から顔を出し、杖を確認する。
「……何か付いてる?」
持ち上げてみると、先端の透明な石の根元に輪が嵌められていた。こんな物は修理に預ける前には付いていなかった。
「短期間に二度も石を破壊してるので、石の許容量以上の力を一気に吹き込まないよう、制御する物を取り付けたそうです。貴重な石を簡単に壊すなと言うことです」
「壊れたのは君の所為だけどね」
ぼそりと呟き、懐へ杖を仕舞う。聞こえたか聞こえていないのか、彼は表情を変えない。
「罪人の思わぬ醜態を見られたので、蜃の情報の続きを話しましょうか」
「君は本当に言葉の隅々まで性格が悪いね」
「先代の蜃が死んだ理由は、白の変転人の所為だそうですよ。白がハズレと呼ばれる大きな理由のようです」
獏は顔を上げ、少し驚きながら彼を見る。悪を嫌う白は罪人から遠ざけられるはずだが、今の白花苧環のように近付いた者がいるらしい。――いや、その件があったからこそ、遠ざけられるようになったのかもしれない。
「はっきりとした死の原因はわかりませんが、もしかしたら白の耳には触れないよう統制されてるかもしれませんね」
「統制されてるなら、誰に聞いたの?」
「有色です。偶々耳に入ったので、問い詰めただけです。噂好きなスミレなら、何か知ってませんか?」
「何か知ってたら既に言ってると思うけど。別に噂好きでもないと思うよ。仲間に噂好きはいるみたいだけど」
「……そうですか。罪人には興味ありませんが、白の昔話には少し興味があったので」
同じ白色の仲間との交流すら乏しい孤立している白花苧環は、知識も乏しく知らないことが多い。無造作に置かれた木箱の蓋を開けながら、昔のことを知れる機会があることに少しの羨ましさがあった。獏には迷惑な話だろうが。
「これは手紙でしょうか?」
先程開けた時は気付かなかったが、櫛の下に文字の書いた紙が敷いてあった。取り出してみると、小さく折り畳まれた紙に文字が透けている。ぺりぺりとゆっくり開いてみた。
「……達筆で読めません」
獏にはあまり見たい物ではなかったが、文字が読めないと言われると灰色海月を思い出してしまう。読めない彼女のためによく文字を読んだ。小さな紙を受け取り、文字に目を通す。確かに読みにくい字だった。
「どうぞ乱れた髪を梳かしてください、だってさ」
「それで櫛だったんですね」
「大事に持ってたのは見ればわかるよ。明治……だったかな? 戦前なのにかなり状態がいいから。――でもそれは、赦す理由にはならないけど」
「長生きなんですね」
「え、僕? 僕なんてまだ若い方でしょ? 二百年も経ってないはず……。鵺の方が年上のはずだし」
「え?」
「見た目に騙されちゃいけないよ、あれは」
今までで一番の驚きを見せながら、白花苧環は口元に手を遣りつつ櫛を見下ろした。やや混乱しているようだ。
生きた年数が百年程度なら、獣の中では若い部類だ。
手紙を元のように折り畳み、櫛の下へと戻す。あの時蛆虫のように群がっていた人間達がどんな気持ちで檻の中を見ていたかなんて、考えたくもなかった。
「僕からもこれを返すよ。怪我の処置に役立ったから、ありがとう」
以前白花苧環が仕掛けて行った罠に使われていた小さな矢を机に置く。先に嵌め込まれた小さな変換石が役に立ってくれた。獏を負傷させようと仕掛けられた物だが、結果として役に立ったのだから一応礼は言っておく。
白花苧環は不思議そうにそれを見下ろし、首を捻った。返すと言うのだから彼の物だと言いたいのだろうが。
「これは何ですか?」
予想外の言葉が返ってきて、獏はきょとんとしてしまう。
「え……? 君が仕掛けて行った物じゃないの……?」
「初めて見ましたが」
「じゃあ誰があんな悪戯を……?」
白花苧環は怪訝に首を傾ぐばかりで、嘘を言っているようには見えなかった。あんな悪戯を仕掛ける者は彼しか思い付かない。黒葉菫と黒色海栗は獏と共にいたので、仕掛けることはできなかったはずだ。
「この街、誰もいないんじゃないの? 只の迷子の人間なら変換石なんて持ってるはずない……」
「いないと聞いてますが、詳しくは知らないです。貴方に心当たりが無いなら、オレは更に無いですよ」
「……そうだよね」
「罪人に必要以上の変換石を持たせるわけにはいかないので、この玩具は宵街に持ち帰りますが」
矢を拾い、白花苧環は踵を返す。獏は仕掛けや悪戯と言っていたが、罪人のためにわざわざ手の込んだ物を置いて行くことはない。そんなことをするくらいなら、直接刺す。
「――ああ、クラゲは順調に力の使い方を覚えてますよ」
ドアを開けて立ち止まるので何事かと思えば、灰色海月の状態が聞けて獏は安堵した。宵街で頑張っているようだ。
「見世物小屋だとかの件はクラゲさんには言ってほしくないけど、こう言ったら君は言いたくなるのかな」
「……。わざわざ言うことでもないので、必要がないなら言わないと思いますが」
「え……意外だな……。嫌がらせに快楽を覚えるタイプでしょ?」
「刺してほしいんですか? オレは悪人が嫌いなだけで、嬉々として密告しませんよ」
「それならいいけど」
「それと、報告書を。早く提出してくださいね」
「忘れてた」
「忘れないでください」
呆れるように息を吐き、白花苧環は今度こそ店を出た。言ったことは事実だが、それ以上に、罪とは関係のない灰色海月にそんな途惑うようなことを言えるはずがなかった。
獏は二階で休もうとし、机に置いた木箱が目に入る。今はどうこうする気力もないので、そのまま放って階段を上がった。




