26-潜入
誰もいない煉瓦の街の誰も来ない古物店の奥で黒い動物面を被った獏は、チェスの黒い駒を抓みながら同じ机に向かう黒い少女に目を遣る。
「さっきから何書いてるの?」
白紙の小さな本に、獏から借りた羽根ペンで熱心に何かを書いている。黒色海栗は顔を上げずに、羽根を揺らしながら答えた。
「日記」
「へぇ、日記付けてるんだね。凄いね」
黒と白の盤を挟んで座る黒葉菫は白い駒を持ち、盤上を見渡して口を挟む。
「文字の練習も兼ねてるそうです」
「そうなんだ。クラゲさんもやってみたらいいのかな?」
変転人は生まれた時から言葉をある程度は理解できるが、人の姿になる前に言葉に触れる機会がなければその分知識は乏しくなる。
「水の中だと陸地とは違って文字を見る機会もないので、読み書きが苦手みたいですね」
「ああそっか。でも植物も場所によっては見る機会なくない?」
順に駒を動かしていく。相変わらず手元はゆったりとしているのに黒葉菫は判断が早い。
「俺はありましたよ。人間が持ち歩いてる物やその辺の看板とか、落ちてるチラシとか」
「意外とあるものだね」
「チェック」
「宵街に学校なんて物はないの? 読み書きを教えてくれるような場所」
「無いと思います。変転人同士で教え合ったりしてます」
「成程ね。じゃあクラゲさんも僕がちゃんと教えてあげないとかな。もう少し後になりそうだけど。――チェック」
「……入院中に誰か教えたりしませんかね?」
「誰かって鵺? それともマキさん?」
「苧環って読み書きできるんですか?」
「え? 何で? 知らない物は多いみたいだけど」
「崖に生えてたって聞いたことがあるのであ、わ」
「チェックメイト」
とんと白の王を蹴り、獏は得意気に笑う。
「躱してからの攻めがえぐい……」
「これで三連勝だね。前にクラゲさんが作った残りのシフォンケーキで休憩しよ」
盤上に視線を落とす黒葉菫を置いて台所へ行き、どの味にするか悩む。悩んだ末に全種類を皿に載せて運んだ。
「マキさんって崖育ちなの? 道理で足腰強いわけだよ」
「結構悲惨な状態だったらしいと噂好きの奴に聞きました」
「顔は知らなくても噂だけ歩いてるんだね。まるで僕みたいだ」
くすくすと笑いながら、慣れない紅茶を淹れる。茶葉によって蒸らす時間などが違うようだが、そんな細かいことはわからない。
「悲惨……か。あの性格の元になってるのかな?」
「詳細はわかりませんが、脚が千切れて頭が潰れてたみたいです。植物なので痛みはないんですけど」
「それは僕に聞かれたくなかったかもしれないね」
以前山で悪夢に脚を持って行かれそうになった時、もう脚を奪うなと叫んでいたことを思い出す。あの時は特に気にしていなかったが、過去に脚を失っていたのなら辻褄が合う。
「苧環は特殊なので結構知れ渡ってますよ」
「私も知ってる。狴犴が人にしたから、有名」
「えっ、あいつにされたの? うわぁ……」
三人分の紅茶を机に置き、獏は面に隠れた顔を顰めながら革張りの古い椅子に腰掛けた。
狴犴は罪人を裁く最高権力者だ。獏の首にも烙印を捺した。はっきりと覚えている。眉一つ動かさず終始涼しい顔をしている男だった。
「それはあんな性格になるよね。罪人を毛嫌いするのも納得」
「オレの話ですか?」
「!」
三人はぴたりと口を閉じた。ケーキと会話に集中していたので、幾ら白く目立つと言っても静かに店に入ってきた白花苧環に気付けなかった。
「罪人が何故優雅にティータイムを?」
「やあマキさん。お茶でもしに来たのかな?」
「まさか」
整った花貌で吐き捨てるように鼻で笑い、封筒を差し出した。
「君から願い事?」
「違います。先日の悪夢の件を報告しました。獏にも報告書を提出してほしいそうです」
「ええ……直接聞きに来ればいいのに……」
「貴方のように暇ではないんです」
「会いたくないから来なくていいけど……」
封筒の中を覗くと、罫線が引かれた白紙が何枚か入っていた。これに書いて渡せと言うことか。げんなりする。
「文字は書けますよね?」
「書けるけど。君は書けるの?」
「書けますが、オレが書けることに何か関係が?」
「書けるってさ。スミレさん」
「…………」
話を振らないでほしいと黒葉菫は思ったが、白花苧環の目が既に突き刺さって痛い。
「黒は噂が好きなんですか? 仲がいいんですね」
獏は顔を上げ、白花苧環の足元にそっと目を遣る。普通に両足で立っているように見えるが、折れている方の足に体重が掛かっていない。悪夢に掴まれた足はまだ治っていないようだ。
「白は仲良くないの?」
何気ない獏の質問に、白花苧環は黒葉菫に無感動な視線を向けたまま口を開く。
「オレのことを知ってるなら、いいですよ。そのくらい話しても」
「この人怖い……」
武器や攻撃手段などは話されるのを嫌がるようだが、身の上話には頓着無いようだ。無言の圧を受けて黒葉菫が怖がるので獏も苦笑する。
「マキさん、少し丸くなった? 身の上話でも僕に聞かれるのは嫌がりそうなのに」
「そう見えますか? 穏便にと言われてるだけですが」
小さく舌打ちを加えるのを聞き逃さなかった。かなり感情を抑えている。丸くなったわけではなく手綱を握られているだけらしい。
「あまり会話も続けたくないので、オレはこれで。報告書は黒のどちらかが届けてください」
胸に手を当て丁寧に一礼する。早く帰りたそうだ。
白花苧環の去る背を黙って見送り、ドアが閉まって漸く肩の力が抜けた。
「……急に話を振らないでください。心臓に悪いです」
「ふふ。ごめんごめん」
無闇に飛び掛かることはしないだろうと思っていたので、つい話を振ってしまった。片足が折れた状態で動けるとしても、切迫しない事に余計な力は加えたくないだろう。
「狴犴の御使いも大変そうだね、マキさんは」
白紙の報告書を見下ろし、獏は溜息を吐いた。獏ではない者に悪夢の説明をするのは面倒だ。
「狴犴の御抱えみたいなものなので、白の中でも孤立してるって話です」
「ふぅん。色々知らないのは、交流がないからなのかもね」
橙色のケーキを毟り、口に放り込む。蜜柑味もなかなか美味しい。
「それより、脚が無かったり頭が潰れてる状態でも完全な人の形になることに驚いたんだけど。欠損状態じゃないんだね。……あ、でも右目はわからないな。髪で隠れてるから、もしかして……」
「何かで補ったんじゃないですか? 変転人には想像もつかないですが」
「うーん……力で補えるのかな……? 試して変なことになったら嫌だから試せないけど」
「変転人にする基準ってあるんですか?」
同じく緑色のケーキを毟りながら黒葉菫は尋ねる。獣に人の姿を与えられた変転人には、その理由を特に知らされることはない。黒白灰の無色は獣の手伝いを、それ以外の有色は宵街で店を出したりしている。自分達が何故人の姿を与えられたのか、あまり気にする者もいないのだが、一度気にすると気になるものだ。
獏は紅茶を啜りながら、考えてみる。
「……僕が人の姿を与えたのは一人だけだけど、喋りたそうにしてたから……かな。どうこうしたいって特別な理由はないよ」
「適当に選ぶんですか?」
「気に掛かったから……かな?」
「俺は一人でいたので目立ったんだろうと思いますが、じゃあウニは完全に適当な運ですね」
黙って両手で紅茶を啜っていた黒色海栗は自分の名前が飛び出してハッと目を上げた。
「仲間と普通に食事してる時に拾われたみたいです」
黒色海栗はこくこくと頷く。
「人の姿も楽しい」
同じようにケーキを毟り、もくもくと食べる。楽しいなら何よりだ。
「無色は何を基準に選ばれるの? 獣への忠誠心とか?」
「いえ。無色は有毒生物です」
「あ……ああ! 本当だ! そうか有毒か……」
「有毒が高い攻撃力を持つ変転人になるそうです」
「苧環の毒って確か全草だもんね。それは強いよね」
ならばもっと毒自体が強ければ強い変転人ができあがるのかもしれない。有名な物だと鳥兜や毒芹が猛毒だが、宵街にいるのだろうか。
「――あ、投函あったみたいです。ウニはまだ食べてるので、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
羅針盤を確認し、黒葉菫は細い通路をゆったりと進んでドアを開ける。
「わっ!?」
反射的に黒葉菫は腰を反らして尻餅を突いたが、何かが髪を掠った。その勢いのまま飛んできた何か――小さな矢を、獏は面の前で掴み取る。
「ふっ……ふふ、あはは! 何もしてこないと思ったら、ドアに仕掛けていったんだね。丸くなったって言ったのが気に障ったのかな? 陰湿と言うかもう面白いんだけど、マキさん」
「お……俺は面白くないです……」
「よく避けたね」
「反射的です……」
「凄い凄い。おはじきを受け続けた効果かな」
「あれ修行だったんですか?」
尻を上げ四つん這いになってドアの外を見渡し、他に何も異常がないことを確認して立ち上がる。他に仕掛けはなさそうだ。心臓が縮み上がった。
「気を取り直して行ってきます……」
「気を付けてね」
獏はまだくすくすと笑い、座り直す。飛んできたダーツの矢をくるくると見回すと、只の矢だと思っていたが羽の方に小さな変換石が付いている。糸で仕掛けを作ったらしい。なかなか手が込んでいる。
「当てられると思ったのかな?」
「獏、凄い」
「ふふ。ありがとう」
矢の変換石は小さいが、杖すら無い今、少しは役に立ちそうだ。使う機会はない方が良いが。
杖はまだ修理に時間が掛かりそうだが小さな石だとすぐに替えが用意できるので、獏が砕いてしまった黒色海栗の指輪はまたきちんと数が揃っている。
頬杖を突いて黒葉菫の帰りを待っていると、やがて重苦しくドアが開いた。学生服を着た少年が俯いている。長い前髪が目を覆い暗い影を落としていた。
黒葉菫に促されながら恐る恐るといった足取りで店の奥まで歩く。無言で椅子に座り、俯いたまま止まった。
獏は黒葉菫から手紙を渡され、何も喋らない少年を一瞥して封を切る。
「…………」
手紙には一言だけ書かれていた。顔を上げて少年を見るが、俯いたまま視線を合わせようとしない。
「僕が獏だけど、何か願い事があるのかな?」
「…………」
話し掛けても口を開く気配はなく、黒葉菫も訝しげに台所から覗く。
「スミレさん、今日は珈琲じゃなくて」
たっぷりと待ってみても一向に話し出さないので、獏は立ち上がって台所へ入った。その間も少年は姿勢も視線も変えずにいる。黒色海栗も日記を書く手を止めたまま様子を窺う。
「はい、どうぞ」
獏は少年の前にティーカップを置いた。柑橘のような香りに、少年は初めて少しだけ顔を上げた。
「レモンバームティーだよ。飲むと気分が落ち着く」
自分の前にもカップを置き、古い椅子を軋ませて座った。
「話すのが怖いのかな? 人間に話すのが怖いなら、僕のことは人間と思わなくていい。得体の知れない者と話すのが怖いなら、僕のことは只の人だと思ってくれればいい」
何方付かずな矛盾する言葉に、目を合わせようとはしないが少年も顔を上げる。結局この人の形をした獏は人間なのかどうなのか。
「事実がどうであるかより、理想を思い込んで話してごらん。そのためにここに来たんじゃないかな?」
少年はカップの中に視線を落とし、唇を微かに動かした。
「……手紙に……」
「うん。ボディーガードをしてほしいって書かれてるね。怪しい組織にでも狙われてるの?」
少年は小さく首を振る。
「組織じゃなくて……学校で……」
「相手は同じ生徒かな? 何人?」
「三人……」
「そっか。わかったよ。君の願いはボディーガードをしてもらうこと? それとも、その先の何かかな?」
「…………」
少年は何も答えない。答えがわからないと言った方が良いのかもしれない。
「どうするのがいいのかまだわからないんだね。じゃあ何か思い付いたら言ってよ」
獏がカップに口を付けると、少年も一瞥だけしてまた自分のカップに目を遣る。
「冷めない内にどうぞ」
声を掛けられてはと途惑いながらも少年もカップに口を付ける。警戒と言うより、遠慮と畏怖だろう。
自分のカップを持ち、獏はもう一度台所へ入る。様子を窺っていた黒葉菫を奥まで連れ、小声で話す。
「後で覗き窓で確認するけど、おそらく虐めだね。彼はその言葉を使いたくないみたいだ。だから僕達もその言葉を使わないように。言葉の力は強いからね。彼はその事実を認めたくないのかも」
こそこそとしているのが気になり、黒色海栗も立ち上がり台所へ顔を覗かせる。
「わかりました。でもボディーガードって、学校の中に入るんですか? 目立ちますよ」
「見た所、中学生だよね? スミレさんは外で待機かな。僕とウニさんで行こう」
黒葉菫の容姿ではとても中学生には見えず、少し無理をして高校生か、二十歳前後と言った所だ。
「貴方もぎりぎりアウトじゃないですか?」
「え? ぎりぎりセーフじゃない?」
「そもそもそんなお面を被った中学生もいないですよ」
「それはちゃんと対策するよ」
「潜入、頑張る」
遣る気は漲っているが、黒葉菫には不安が大きかった。だが何処から見ても中学生には見えない彼は仕方なく大人しく待つしかない。
「……何かあったら呼んでください。近くにはいるようにします」
「うん。ありがとう」
話が纏まり台所から出ると、少年も漸くハーブティーを飲みきった所だった。
「学校へは毎日行ってるの?」
「……はい」
「だからボディーガードなんだね。早速明日からするけど、期限はある?」
「きげ……ん……」
「それも決まってないみたいだから、思い付いたら言ってね。願いを叶える代価は心をほんの少しだけど、どう? 聞きたいことはある?」
少年は首を振る。何も考えられないようだ。考える余裕がないと言った方が良いだろう。
「ボディーガードと言っても常にぴったりは寄り添わないから、自由にしてくれて構わないよ。いつも通りでいてくれればいい」
黒葉菫に目配せすると、彼は軽く頭を下げて少年を促した。今日は家へ帰し、明日から学校に潜入する。
足取り重く歩く背中に人差し指と親指で作った輪を向ける。恐れる彼の前で不可解な動きをすれば更に恐れてしまうだろうと手を上げないでおいたが、背から覗いた感情はやはり思った通りだった。
翌日は契約者の少年とは顔を合わせず、事前に用意した学生服に袖を通した。獏と黒色海栗は揃いの黒い学ラン姿で全身を確認する。
「学生服を着るなんて初めてだよ。これで生徒達に紛れられるね」
「男子校なんですか?」
「女の子のは青い」
「やっぱり黒がしっくりするよね」
黒色海栗は馴染みのある色である黒い方の学生服を選んだ。遣る気満々でぴょんぴょんと跳んで動きを確認しているが、却って目立っている気もする。獏は中性的なのでどちらの制服でも違和感はないだろう。獏の場合、問題は制服ではない。
「お面を外しても、サングラスと首輪を付けた中学生なんて見たことないですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫。思春期にはよくあることだから」
「思春期……? ……それに釦を外し過ぎて不良みたいです」
「首輪が邪魔なんだから大目に見てよ。変転人にはないのかな、思春期」
「私は全部留めた。子分みたい?」
「意味わかって言ってるか?」
不安は残るが当の二人は楽しそうだ。普通の人間相手のボディーガードなら、獣と変転人なら緊張感もなく務まるかと、黒葉菫も心配し過ぎることは止める。獣に心配など失礼なことかもしれないが、力が制限されている所為もあってかこの獏はどうも危なっかしい。
黒い傘をくるりと回して少年の通う学校の敷地に移動すると、丁度始業の鐘が鳴る所だった。獏はすぐに黒色海栗の手を取って校舎の壁を跳び上がる。
黒葉菫もそれを見送り、辺りをきょろきょろと身を潜めた。
廊下の側だと人が通る可能性があるので外壁に飛び出す軒で待機し、中の生徒に見つからないように少しだけ教室の窓を開ける。
「聞こえる? 学校の授業なんて初めてだね」
「楽しみ」
こくこくと頷きながら、黒色海栗は白紙の本を取り出す。獏から借りたままのインク瓶を狭い軒に置き、羽根ペンを握る。授業中は相手も何もしてこないだろう。のんびりと過ごすことにした。
昼になる前には黒色海栗は眠ってしまい獏の肩に頭を預けるので、インク瓶の蓋を閉め、白紙の本も落とさないように持っておいた。人間の話は彼女には退屈だったようだ。
「ウニさん、そろそろ起きようか」
窓を閉め、小声で耳元に囁く。黒色海栗は目を擦りながらぼんやりと頭を起こした。
「寝てた」
同時に彼女の腹が鳴る。
「御飯の調達に行こうか」
「行く」
本やインク瓶を仕舞い、獏の差し出す手を握る。壁をとんとんと飛び下り、跳ぶように地面を駆ける。
時間の止まっている街と違い、時間の流れる外では腹も減る。まだ生徒の姿のない購買部で食料を物色することにした。
「全然わからない……」
「僕もあんまりわからないなぁ。この人気って書いてるのがいいのかな」
「や……きそば……ぱん」
「読めるね」
表情が乏しいながらも得意気な黒色海栗に微笑み、黒葉菫の分も含めて三つ買った。レジで紙パック飲料も勧められたので買った。サングラスと首輪に視線は感じたが、何も言われることはなかった。
「昼休みが始まるね。急ごう」
廊下側の外を走り、壁を跳び上がる。外から廊下の窓を開けると歩いていた生徒にぎょっとされたが、気にしないことにした。格好の所為だがどうしても昼間は目立ってしまう。
サングラスと首輪を装着した獏は乳飲料のストローを、黒色海栗は焼きそばパンを咥えながら、契約者のいる教室をそっと覗き込む。廊下を歩く生徒達に奇異の目を向けられるが、関わろうとする者はいない。
契約者の少年は覗き込むこちらには気付かず、机に弁当を広げている。一人で食べるようだ。そこに三人の男子生徒が近寄る。手には何も持っていない。
声は聞こえないが、唇の動きで言葉は読める。ボディーガードとは身に迫る危険を回避するものだが、身以外の危険に対してどうするか考える。その間に弁当は男子生徒に払われ、逆様に床に落ちた。教室には他にも生徒がいるが、目は遣るが動く者はいない。少年が俯くので、獏は息を吐いて教室に入った。
「勿体無いなぁ」
突如現れたサングラスと首輪の変な奴に、弁当を払った生徒も動きを止めた。紙パックを近くの机に置き、落ちた弁当の前に屈む見知らぬ生徒に教室中の視線が刺さる。
弁当箱を持ち上げると、ぐちゃりと床に潰れる中身が露わになる。獏は少年の持つ箸を取り、落ちた卵焼きを刺した。
「君がやったんだから……食べるよね?」
「……は?」
埃の付いた卵焼きを口元に近付けられ、男子生徒は後退った。
「何だよ! 汚ぇだろ!」
「汚い? 床に落とすことが悪いことだってちゃんとわかってるんだね。偉いね?」
ぐり、と卵焼きを口に押し付ける。喋るには口を開けねばならず、開けると卵焼きが口に入ってしまう。文句を言いたいのに言えず、男子生徒は首を振った。
「只ちょっとふざけただけでっ、遊んでただけだろ!? やめろ!」
「自分を肯定しようと必死だねぇ」
「……っ!」
「僕も君で遊んでるんだけど、嫌なの? やめてほしいの? 君だけ特別だとでも?」
顎を掴むと生徒は逃れようと腕を振って踠き、焼きそばパンを咥えていた黒色海栗の手に当たった。しまったと獏が振り返ると、パンが床に落ちる所だった。焼きそばが虚しく床に散らばる。
「…………」
黒色海栗は呆然と落ちたパンを見下ろし、徐々に事態が呑み込めた。
「私の……」
彼女は小さな拳を握り、踠いた生徒に向かって勢い良く踏み込んだ。
「!」
生徒の頬に思い切り拳が減り込み、背後の机を散らして彼は床に倒れた。
追撃のためにもう一歩踏み出すと、生徒は殴られた頬を押さえながら逃げ出した。残りの二人も後を追って教室から出て行く。
「ウニさん……派手にやったねぇ……」
「!」
咎められていると思い黒色海栗は俯き、悲しそうな顔で落ちたパンに目を遣った。食べ物の恨みは怖い。
「遣り返されなくて良かったよ」
再び蹲んで落ちた弁当箱に中身を拾い、少年の机に置く。
「食べろってことじゃないからね? 君の物を勝手に捨てたくないだけだから」
「…………」
俯いて弁当に目を落とす少年に、まだ袋を開けていない焼きそばパンも置く。
「良かったら食べて。お腹空いてるでしょ?」
獏は教室の中にいる全員に向かってぐるりと、指で作った輪で見渡す。生徒達は困惑した顔でじっと見たり、目を逸らしたり様々だ。
「ウニさんもほら、スミレさんの分がなくなっちゃうけど、元気出して」
「獏も……」
「僕はいいから」
新しいパンを受け取り、黒色海栗は獏を見上げる。
かなり目立ってしまった。騒ぎを聞き付けた教師が来ても厄介だ。紙パックを手に取り、一旦離脱する。黒色海栗は焼きそばパンを大事そうに抱えながら獏の後を追った。
残された少年は焼きそばパンを見下ろし、躊躇いながらも袋を開けた。
昼休憩の終わる鐘が鳴り響くと再び眠い授業が始まる。今度は授業は聞かず、獏は誰もいない校舎の裏で黒葉菫を呼んだ。購買部で買った紙パック飲料を渡し、黒色海栗は焼きそばパンを頑張って三等分に千切り、ばらばらと落ちる焼きそばに苦戦した。
「どうです?」
千切り分けられたパンを受け取りながら黒葉菫は尋ねる。
「後で遣り返されるかもしれないけど、ウニさんの行動力を舐めてたね。食べ物が絡むとああなのかな」
ぺこぺこと何度も頭を下げる黒色海栗に微笑みかけ、獏はパンを咥える。
「他の生徒も覗いてみたけど、関わりたくないって感じだね。願い事はボディーガードだから、他まで手を回さないけど」
「こっちで何かしておくことはありますか?」
「いいよ。僕が遣らないといけないことだし、手伝ってほしい時は僕から言うよ」
「わかりました。貴方自身に何かあった時だけ動きます」
全ての授業が終わるまで校舎裏で休みながら待ち、黒色海栗は獏に凭れ掛かりよく眠った。腹が満たされて眠くなったのだろう。午前も寝ていたが。
「……ねえスミレさん。善行は救いじゃないよね」
「…………?」
たっぷりと考えてみたが、唐突に呟かれた言葉の意味が黒葉菫には理解できなかった。何も答えずに次の言葉を待ったが、獏はそれきり何も言わなかった。
決まった時間に鐘が鳴るので、ぼんやりとしていても時間に気付かされるのはありがたい。全ての授業の終わりを告げる鐘が鳴り、目を覚ました黒色海栗の手を握って獏は地面を蹴った。生徒が校舎の中から出る前に死角を縫い、廊下側の窓外へ跳び移る。
「振り回しちゃってごめんね、ウニさん」
「平気」
廊下から教室を覗くと、少年は帰る準備をしていた。鞄に荷物を詰めている。
このまま何もなければと思うが、そうはさせてもらえないようだ。昼休憩に絡んできた三人が少年に話し掛ける。少年は鞄を持って共に教室を出た。
気配を消しながら外壁を跳び、階段を上がる背中に指の輪を向ける。
黒色海栗の手を繋いだまま、一気に屋上まで跳び上がる。低い柵に手を掛け地に足を下ろし、漸く彼女の手を離した。物陰に潜み、屋上の出入口を注視する。
やがて出てきた少年達は獏から離れた柵へ行き、少年を突き飛ばした。少年は尻餅を突き、後退っている。距離があるため、声が聞こえない。
「背を向けられると会話が読めないんだけどな……」
少年は柵に縋るように立ち上がり、生徒達に背中を押されて柵に足を掛けた。低い柵なので、容易に乗り越えられる。柵の向こうにも足場はあるが、その先は何もない。五階分の高さから真っ逆様だ。少年に携帯端末を向けている生徒達は背を向けているので顔は見えないが、少年の前髪に隠れた顔は怯えや恐怖と言うより諦観や虚無と言った感情が見えた。
「ウニさんはここに」
黒色海栗が頷く前に、獏は地面を蹴る。同時に少年が虚空へ足を下ろした。
「あっ――」
慌てたように柵を掴んで覗き込む横で柵を蹴り、獏は壁を駆け下りるように跳んだ。空中で無抵抗な少年の体を掴み寄せ、壁に足を擦りながら速度を落とし壁を蹴り地面に着地する。杖が無いため足に力を集中させたが、踵が磨り減ってしまった。
(気絶しちゃったか)
ぐったりと意識のない体は重いが、獏の力で少し軽くなる。見上げると三人の男子生徒が覗き込んでいたが、表情から察するに本当に飛び下りるとは思わなかったという感じだ。落ちてしまったものは仕方がないと複雑に笑っている。深刻に捉えないように笑おうとしている。罪だと思わないように。
少年を抱いたまま下りた壁を再び跳び上がり、屋上の柵の上にとんと立つ。生徒達は驚いたように引き攣り笑いを浮かべて獏を見上げた。その手に持った携帯端末をそれぞれ構える。
「……愚かだね」
三台の端末は順に黒い棘に射抜かれ、柵の外へ落ちていく。黒色海栗のボウガンだ。生徒達は声を上げながら地面を覗くが、きっと叩き付けられて壊れただろう。
「良かったね、潰れたのが人間じゃなくて」
感情の籠もらない声が背に絡み付くように投げられ、三人はゆっくりと振り向いた。屋上から飛び下りてまた跳んで戻って来るような者が普通の人間ではないことはすぐにわかるだろう。畏怖に染めた瞳を得体の知れない生き物に向ける。
「な……何なんだよお前……!」
一人が得体の知れない恐怖の中で何とか声を振り絞るので、それには感心する。
「僕は願い事を叶える獏だよ」
「ば……く……?」
サングラスに重い首輪を付けた奇怪な人物の言葉に、三人はぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
それ以上の説明を自ら行うのも面倒なので柵を飛び下り、屋上の出入口へ向かう。少年を抱えたまま教室へ戻るのは目立つので、目を覚ますまで屋上の壁に凭れさせておく。
「……獏って、悪夢を食べるっていうあれか……?」
「人に化けてるってこと?」
「願い事って……悪夢を喰う以外に何かあるのか?」
口々に疑問を投げ掛ける三人に、サングラスの獏は口元に笑みを浮かべた。
「そうだよ。悪夢を――払うと言われたり食べると言われたりするけど、君達の想像してるもので合ってるよ。それに加えて今は、願い事を叶えることもしてるの」
「そいつの願い事なのか……? 昼と言い今と言い……」
獏は笑みを浮かべたまま何も言わない。
「……じゃあオレからも願い事だ! 今からオレの味方をしろ! そいつは目障りなんだよ!」
「目障り? この人が何かしたの?」
「いつも暗くてびくびくしやがって、いるだけで苛々すんだよ!」
「そんなに嫌なら関わらなければいいのに。他のクラスメイトみたいにさ。皆は君のことも迷惑がってるみたいだけど」
「は……?」
呆れるように肩を竦める獏に男子生徒は次第に苛立つ。
「別に叶えないって言ってるわけじゃないよ。それで、味方って何をするの? 君にはそんなに敵がいるの?」
「敵……と言われると……」
「期限も聞かなきゃね」
サングラスの奥で獏はにこりと微笑み、
「ねぇ、僕をいつまで隷属させるの?」
全ての感情を消した。
「……!」
男子生徒は得体の知れない恐怖に足を一歩引く。柔和な声が一気に不気味になった。
「ずっ……と……?」
「一生ってこと? 君が死ぬまで? それは代価が高く付いてしまうね」
「代価……?」
「通常なら君の心をほんの少しだけど、一生となるとその分増えるね。一生分だもん。心を全て、かなぁ?」
「!?」
理解できないまでもあまり良くない話だと察したのか、横で黙っていた生徒も声を上げた。
「な、何か悪魔の取引きみたいだから、やめようぜ……」
「やめるもやめないも君の自由だけどね、」
獏は片手を上げ、周囲に目を遣る。何かを探すように。
「僕は悪魔じゃない」
やがてとんと出入口の上から至極色の青年が飛び下りる。手に持っていたティーカップの中身が跳ねるが零しはせず、獏の手に差し出した。
「二度と間違えないで」
生徒は息を呑み、震える唇を閉じた。微かに怒りを含んだ声に、目を逸らして伏せる。
「どうするの? 願うの? 願わないの?」
生徒達の方へ歩き出そうとすると、足に何かが絡み付いた。動かせないほどの力ではないのですぐにでも振り解けるが、先に足元に目を落とした。その手は背後から伸びていた。
「……何で……死なせてくれなかったんですか……」
気を失っていた少年が目を覚ましたらしい。弱々しい力で獏の足を握っている。
「君がボディーガードって言ったから」
「…………」
「今を期限に願いを切ってくれれば、次また飛び下りても僕は助けないよ」
「…………」
「期限が延びるほど君の代価も増すけど、君はそれを恐れないだろうから言わなかった。生に無頓着になってることはわかってたからね」
「……もう、どうしたらいいかわからない」
「君がわからないんじゃ、僕にはわかりっこないね。ただ、死んだら理想は語れないよ。死人に口無し、ってね」
少年は俯き、獏の足から手を離す。死ねば、生きている生徒達が都合良く事実を捩じ曲げようとするだろう。
「…………」
少年は最後の力を振り絞るように駆け出した。獏に願い事をしようと息巻いていた生徒を突き飛ばし、柵へ腰を叩き付ける。横にいた二人は突然のことに体が動かず、二人が翻筋斗打って屋上から落ちるのを見ていることしかできなかった。
その間獏は動かなかった。どちらを助ける必要もなくなった獏はただ傍観していた。
残された二人の生徒は下を見下ろし、怖くなったのか叫びながら屋上から出て行った。
「……ねえ、僕は悪魔に見える?」
少年達がいた空間をただ見詰め、誰にともなく獏は呟いた。それに答えるでもなくただ不快な風だけが吹く。
黒葉菫は必要なくなったカップを受け取り、見下ろした。飲む者のいなくなった珈琲は静かに揺らいでいた。
「俺にはよくわかりません。何を以て悪魔と言うのか……。人間じゃない以上のことはわかりません」
「……そ。僕は人間の方が余程悪魔に見えるよ」
獏がもう一度手を差し出すので、今度は何だろうかと、持っていたカップをもう一度その手に持たせた。
「……ふふ。違うよ。死んだら代価も貰えないし、帰ろうと思ったの」
「あ……はい。わかりました」
黒葉菫が黒い傘を開くのを、カップを持ち苦笑しながら寂しげに見遣った。
あまりこういう結末が多いと、罪を犯していた頃と何も変わらないと思う。善意のない善行とは、罪と変わらないのかもしれない。
「マキさんに知られたら怒られそうだな。善行なんて独り善がりの行いだよね」
黒い三人は転瞬の間に姿を消し、下界の騒ぎを耳に入れない。




