25-顔
静かに停滞する沈黙の時間の中で、膝の上に伏せる黒猫をゆっくりと撫でる。気持ちが良いのか目を閉じ、黒い塊になっている。それを頬杖を突きながら見下ろし、獏もうとうととしてしまう。睡眠の必要のない街だが、常に目が冴えているわけではない。疲れれば眠くなるし、眠そうな猫を見ていると瞼も下りてくる。
そこに静寂を引き裂くように騒々しく、新しく取り付けられたドアが勢い良く開け放たれた。驚いた黒猫は顔を上げ、膝から飛び降りて階段を駆け上がってしまう。
獏も疎ましげに動物面を被る顔を上げ、ドアを開けた者を見る。ずかずかと遠慮なく店の奥まで踏み込み、机の前で立ち止まった。若い女だった。爛々と目を輝かせて獏を見下ろす。
「貴方が獏よね!? やったわ! 私の勝ち!」
「…………」
その後ろで薄暗い店内に溶け込んでいる至極色の黒葉菫と首に包帯を巻いた黒い黒色海栗は、やや困惑気味に様子を窺っている。随分と威勢の良い依頼者が来たものだ。
「僕が獏で合ってるけど、勝ちとは?」
女はこそこそと出された椅子に座りながら、身を乗り出した。
「同僚がね! 獏なんていないって言うから、いるかどうか賭けてたの! だから私の勝ち。晩御飯奢りよ」
黒の二人はいそいそと台所へ行き、獏は女を見ながら指を組んで首を傾ける。
「へぇ、それは良かったね。それで、勝った君の願い事は?」
「え? 願い事?」
素っ頓狂な声を出して動きが止まる。どうやら存在を確認するためだけに手紙を投函したようだ。
「僕に手紙を投函するのは、願い事がある人だけだよ。何かないの?」
「え……えっと……」
目を逸らしながら考え込むが、何も思い付かないのか唸るばかりだ。願い事の手紙はよく届くが、願いの無い者とはこういうものかと、頬杖を突きながら眺める。願いが無いと咄嗟に思い付きもしないのかと。余程良い人生を送っているのだろう。
「じゃあね、僕とも賭けをしようか」
「へ? 賭け?」
唐突な提案に女は目を瞬く。台所の入口で、獏の監視役代理を引き受けた黒葉菫とついでに付き添っている黒色海栗も怪訝そうに様子を窺う。
「君が考えてることを当ててあげる」
「あっ、それは何かテレビで見たことあります! 幾つか質問して、当てるやつですよね?」
獏はテレビを見ないが、彼女には何か思い当たるものがあるらしい。獏はふふと笑い、人差し指と親指で輪を作る。それをじっと女に向けた。
「さあ、何か考えてみて。何でもいいよ」
「何でも……? もっと範囲を狭めなくていいんですか?」
「いいよ。ほら早く」
「えー」
テレビで見た遊びだと思い、女も楽しそうに考える仕草をする。ちょっとした遊びに付き合うくらいは良い。暇なのだから。
「『そんなすぐに思い付くわけないだろ』、かな」
「え……?」
楽しそうな表情が一瞬にして固まった。
「『うわ気持ちわる、早く帰りたい』」
「…………」
「『何こいつ、やばい』」
女の顔から見る見る表情が消えていく。対照的に獏はくすくすと楽しそうに笑う。
「ここはね、君の力では出られないんだよ。店を出ることはできるけど、街からは出ることができない。願い事を叶えてほしい人だけが来る場所。何も無い君は、どうやって出るのかな?」
「ねっ……願い事、何か考えればいいんでしょ!?」
心を読む獏を気味悪く、見る見る青褪めて恐怖に染まっていく。黒葉菫と黒色海栗に連れられこの街へ来た彼女には、得体の知れない何らかの不思議な力があることは知れている。傘を回して一瞬で景色が変わったこの場所から自力でどう出るのか、想像もつかないだろう。そして普通の人間には街から出ることは不可能だ。
「『家族もいるし、帰らなかったら警察に届けて捜してくれるはず』」
「もう心を読まないで!」
思考を振り払うように頭を振る。呼吸も乱れる。動揺と焦燥の感情が獏には見えている。
「家族……ね」
「な、何よ……」
「僕には家族がいないから、気持ちはわからないな」
「親くらいいるでしょ……」
「いないよ。僕を含め獣はね、死んだ時に同じ種が化生する。生きてる間は同じ種が二人現れない。だからいつでも独りぼっちだよ」
だから個人名が無くても不便はない。いつでも『獏』という存在は一人だ。名前が欲しいとも思ったことはない。
「そ……そうなんだ……」
「人間と違って、一人でもやっていけるからね。一人で街も出られない君とは違って」
びくりと女の肩が跳ねる。早く願い事を言わなければ、ここから出してもらえない。それだけは理解した。
「……あっ! ね、願い事はあるわ! 欲しかった靴! それを……」
「自分で買えばいいんじゃない?」
「!」
怯えるように眉を歪め、女は唇を震わせて目を泳がせる。
「願い事は何でもいいんじゃないの!? ここから出してよ!」
「ふふ。何だと思ってここに来たの?」
「え……」
ぎ、と女の座る椅子が少し下がる。困惑と焦燥が伝わってくる。
「ここは誰にも見えない透明な街。足を踏み入れたら自分も透明になって出ることができない――なんて考えないんだろうね。ただ存在を確かめるだけで叶えたい願いも無い。今までここに縋りに来た人達に対する侮辱だよ。まあ変な人も偶にいるけど」
女は泣きそうな顔で、何も言葉を出せない。軽い気持ちで投函して良い物ではなかった。今まで願い事を投函した人達がその後どうなったかもわからない。噂が広まっているのだから実際に会って戻ってきた人がいることは確かなのだろうが、全員が無事に戻ってきているのか、唇が震えて訊くことができない。
「――そうそう。前にも勝負だとか言って来た人がいたね」
「!」
「皆、死んだけどね」
「っ……ぅ、あああああ!」
頭を抱え、床に蹲るように背を丸めて叫ぶ。自分が倒した椅子の音にもびくりと怯え、ぼろぼろと遂に涙も溢れて震えた。
獏は椅子から立ち上がり、机を回って女の前に蹲む。
「ねえ、賭けに負けた君は僕に何をくれるの?」
「ひっ……!」
感情の無い黒い空虚な動物面が覗き込む。その面の向こうがどうなっているのか。見えない顔以外は人間の姿なので当然人間の形をしていると思い込んでいたが、見えないのだから何があるのかもわからない。
「いやああああ!」
ぺたりと力が抜けた膝を床に落とし、女は頭を抱えたまま座り込んだ。獏の方は見ず、自分の膝の向こうにある床を震える瞳で見詰めた。
暫くそれをじっと見詰めていた獏だったが、やがて興味をなくしたように立ち上がる。台所から覗く黒い二人に目を向け、首を傾けて溜息を吐いた。
座り込んだまま女が動かないので、一瞥だけ送り獏も台所へ入った。
「珈琲……淹れますか?」
同じように女を一瞥し、小声で黒葉菫も困惑しながら尋ねる。願い事が無いのなら、刻印の珈琲も必要ないだろうが。
「ううん、珈琲はいいや。水だけ一杯入れて。僕が飲む。喉が渇いた」
「はい」
水を汲む間、獏は退屈そうに頬杖を突きながら女を一瞥した。
「遊びで来られてもね。何にも求められないのは想定外だよ。こっちは遊びで善行してるんじゃないんだからさ」
水の入ったティーカップを受け取り、一気に飲み干す。
「なんて詰まらないんだろう」
空のカップをぼんやりと見下ろし、もう一度溜息を吐いた。
「でも考えてる言葉がわかるのは凄いですね。俺の考えてることもわかるんですか?」
「ああ、あれ? 覗き窓で見えるのは感情だけだよ。その感情の揺らぎを言語化してるだけ。一言一句合ってなくても、何となく合ってれば勝手に頭で補完してくれる。占いと同じだよ。得体の知れない獏を信じるような人間だから、その辺は騙されてくれる。感情が見えてる分、曖昧な占いよりは正確だと思うけど」
「占いはよくわかりませんが、そうなんですね」
空のカップを受け取りもう一度水を汲もうか一瞥すると、獏は小さく首を振った。もう必要ないのならその手でカップを洗ってしまう。
「どうします? 送り帰しますか?」
「そのまま帰すのもな……結局何もなく普通に帰してくれる、なんて噂を立てられても迷惑だし。かと言って命を奪うとまたマキさんが飛んできそうだし……さすがに僕でも遣り過ぎだってわかる」
気怠そうに、獏は首を傾けた。何かを考えているのか、沈黙が流れる。
やがて遠くを見るようにぼんやりと、面の奥で目を伏せた。
「……人間は嫌いだけど」
「気が乗らないなら、遣らない方がいいかもしれませんね」
頬杖を突いたまま獏は黒葉菫を見上げ、再び視線を落とす。
「ウニさんは、どうすればいいと思う?」
何も喋らない黒色海栗にも尋ねてみる。付き添いではあるがここにいるのなら、今の獏の監視役には彼女も含まれる。喋らないのか遠慮してしまうのか、それでも彼女の言葉も聞いておきたい。
黒色海栗はじっと獏を見詰め、時間を掛けて口を開いた。
「嫌がること……する。それが罰」
「ふふ」
微笑ましそうに獏は笑う。そうか攻撃してこない人間にも罰を科して良いのかと、思わず笑ってしまった。白なら言いそうにない、黒らしい言葉だ。
「ウニさんは何をされるのが嫌なの?」
参考までに質問してみる。黒色海栗は今度は間を置かずに口を開いた。余程嫌なことらしい。
「御飯抜き」
「ふふ。それは確かに、生物には欠かせないことだからね。でも人の姿だと……随分と可愛らしい」
何故笑っているのかはわからず黒色海栗は黒葉菫を見上げるが、彼も苦笑する。
「時間が止まったこの街の中では食事の必要がないから、罰にはならないかもしれないけど」
「あ」
突然声を上げた黒葉菫に視線が集まった。思念の羅針盤を取り出すので、新しい手紙の投函があったのだと察する。
「もしかしたら、そこの人と一緒にいた人かもしれないです」
「誰かいたの?」
「投函したのはそこの人ですが、会話してたので知り合いであることは間違いないと思います。なかなか戻ってこないから手紙を出したのかも」
「ああ……さっき言ってた同僚かもしれないね。心配で出された手紙なら、願い事でなくても責められないね。事情を話しておいてくれるかな?」
「わかりました」
会話が必要ならとあまり喋らない黒色海栗は置いておき、黒葉菫は一人で店を出る。いつまでも座り込んで震えている女の横を通るとびくりと体を跳ねさせたが、気にせず外に出た。恐怖で全く動けなくなっていることには同情するが、獏はもう興味を失っている。
黒色海栗も何もすることがないので、女の横を擦り抜けて店の外を覗く。
獏も台所から出て通路に目を遣る。店の外に飛び出して街の端まで行かれるのも迷惑だが、動かず座り込まれても困る。
棚に凭れ掛かり黒葉菫の帰りを待っていると、外を覗いていた黒色海栗が獏に目を向けた。じっと目を逸らさないので、呼んでいるのだと気付く。彼女にも呼び鈴があると良いかもしれない。
獏が横を通ると女は一際びくりと震え上がったが、やはりその場からは動かない。腰が抜けてしまったか。
「何かあった?」
外を覗くと、夜に紛れそうな黒葉菫の傍らに別の女の姿があった。
「同僚の人だそうです。顛末は話しておきました」
外に出てドアを閉めると、女は軽く会釈した。
「話は聞きました」
「心配させてしまってごめんね」
「いえ……心配ではないです」
「?」
「私は願い事を叶える獏なんていないと思ってて……でも目の前で消える所を見たら、いるんじゃないかと思って。それで、手紙を出しました」
黒葉菫は回収した手紙を獏へ渡す。彼は中を見ていない。
封を開けて見て、手紙を持つ指先がぴくりと止まる。
『あの同僚の顔を潰してください』
それは同僚に対する心配の言葉ではなく、明白な願い事だった。
「これは、面目を潰すとか比喩的な意味? それとも直接、物理的に?」
「物理的です」
獏は口の端を歪め、指で輪を作って覗いた。
「ゆっくり珈琲でも飲みながら話そうか」
黒葉菫と黒色海栗に目配せし、獏はドアから離れる。二人はすぐに店の中へ入った。
先に黒色海栗が曲芸のように椅子を二脚、木箱を一つ持ち外へ戻ってくる。仄かな街灯の下へ木箱を置き、それを挟んで椅子を置いた。設置が完了する頃に黒葉菫も鉄板にティーカップとシュガーポットを載せて戻る。灰色海月が菓子を焼く時に使っている鉄板だ。
「あれ? お盆はなかった?」
「何処にあるかわかりませんでした」
「鉄板重くない?」
「このくらいなら……」
木箱にカップとシュガーポットを置き、鉄板を戻しに再び中へ入る。そういえば灰色海月も盆を使っている所を見たことがない。後で倉庫から見繕っておくことにする。
気を取り直して緊張する女に向き直り、空気を解すために獏は微笑んだ。
「何だかオープンカフェみたいだね。中では君の同僚が動かないから、簡素な机で申し訳ないね」
「いえ……お構いなく。中にいるんですね」
「うん。震えて全然動いてくれなくて。もうずっと蛇に見込まれたような状態だよ。――それで、何で顔を潰したいの?」
珈琲を一口飲みながら尋ねる。甘味は調整され最初の頃に比べて随分と控え目になったが、これは少し苦い。珈琲とは難しい物だ。
女も砂糖を一掬い入れ、珈琲に口を付ける。
「何か……顔が可愛いからって、鼻に掛けてくるんです。でもそれだけならまあ……美人なのはわかるし、別にいいんですけど。社内の男達を手玉に取ってるので、もう滅茶苦茶で」
「それは大変だねぇ。美人か……」
戻ってきた黒葉菫と傍らの黒色海栗は同時に動物面の獏の顔を無言で見た。正確には、その面の向こうの顔を覗くようにだ。
「性格のいい美人なんていないんですかね……」
「そんなことはないと思うよ」
にこりと笑う獏を、黒い二人は凝視した。
「何か言いたそうだね? 二人共」
「いえ」
「獏は美人で良い人」
「え? 悪い方じゃ」
黒葉菫は慌てて口を噤むが、聞こえてしまった。確かに黒色海栗から見れば、自分の危機を救ってくれた恩人だ。性格の悪さをまだ目の当たりにしていない。……いや先程店の中の女を追い詰めていたのは性格には直結しないのだろうか。
「とりあえず一つ訂正しておこうか。僕の顔はね、醜いよ」
「…………」
黒い二人は何か言うべきか獏の面を見るが、面を被っているのは顔を隠したいからだ。あまりこの話題を続けるものではないと口を閉じた。
話の噛み合わなさに女は怪訝そうに眉を顰めるが、動物面を被ったままではどんな顔なのかは想像できない。
「顔を潰すのは構わないけど、同僚の人を社外に追い出す方が早くない? 潰れる方がいいの?」
「潰れる方が落ち着きます」
「個人的な恨みだね。いいよ。どんな顔にしたい? 福笑いでもする?」
「えっ? 福笑い……?」
然も可笑しそうに笑う獏にやや頬が引き攣るが、場違いのような言葉が出てきたことに女は首を傾げる。福笑いは只の遊びだ。
「それとも物騒な感じに殴って潰すの?」
「え? ……あ、えと……」
「そこまではしたくないって感じかな? だったら福笑いにしよう。好きなパーツを選んで好きな位置に嵌め込んで、君の好きな顔に仕上げよう」
「え? ……え?」
「紙とペンがないね。持って来るよ」
「え――?」
何をするつもりなのか理解が及ばず、女は途惑いながら黒葉菫と黒色海栗にも目を遣る。だが見られても二人にも意味はわからない。獏だけが楽しそうに笑っている。
「わ、私、絵心ない……」
「大丈夫だよ。人の脳は点が三つあれば顔だって判断するらしいしね。シミュラクラ現象――だっけ」
戻ってきた獏に紙と羽根ペンを渡され、女はきょろきょろと視線を不安そうに彷徨わせた。
「描いてる間に代価の話もしようか」
置かれたインク瓶を覗き込んでいた女は顔を上げる。
「え? 代価?」
「願いを叶えたら、代価を貰う。当然でしょ? 代価は君の心をほんの少し。痛くも苦しくもない。何なら既にある痛みや苦しみを食べてあげることもできる」
「そ、それはいいかも……」
途惑いながらも女の顔にも笑みが浮かぶ。願いを叶えてもらえて更に心も軽くしてもらえるとは、願ったり叶ったりではないか。
「い……今まで良いことなかったけど、何か、運が来てるのかな……!」
「喜んでもらえて嬉しいよ」
慣れない羽根ペンを動かしながら、女の手は徐々に迷いがなくなっていく。
「ああでも私、本当に絵が下手だな……醜い参考に獏さんの顔見せてもらってもいいですか?」
「それは嫌だ」
「ええー」
相当に気分が高揚しているのだろう、幼い子供が必死にクレヨンで描くように夢中で描き殴っている。
たっぷりと時間を掛けて完成した落書きに女は満足そうに口の端を上げて笑い、獏に差し出した。
「どっ、どうですか? これが人の顔になるのは想像つきませんけど……」
「一本の線だけで描かれた物を立体に置き換えるのは難しいよね。でも大丈夫。こんな感じの歪な顔ができあがるよ」
「どんな風にできあがるのか楽しみです!」
「願いが叶うのは顔が仕上がった時だから、その後に代価を戴くね」
「はい!」
「じゃあ最後に確認するよ」
紙に描き殴られた顔をよく見えるように広げ、獏は動物面の顔を傾けた。
「同僚さんをこの顔にさせる? それとも、考え直す?」
「それにしてください!」
「ふふ。わかったよ。叶えてあげる」
興奮状態の契約者は黒色海栗に送らせ、静かになった街で、店に入る前に獏は一度立ち止まった。
「なんて愚かで身勝手なんだろうね」
「…………」
店で震える女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたが、街の外へ出してあげると言えばすぐに安心したように顔を綻ばせた。店の外に同僚が来ていたことなんて、況して恨まれていたなんて知る由もなく、女は黒葉菫に連れられて暫く街を出た。
その後ろには首輪を付けられた獏が、夜に紛れながら付いて行く。
嘗て双子のような瓜二つの顔に仕上げて驚かされた経験から整形技術を高く買い、獏は以前借金取りに流れた金を再び流して用いて、落書きの顔を作るように仕向けた。願いの無い女には詫びだの何だの適当に言った。美人だと言うのなら美容にも関心はあるだろう。甘言で惑わせ微睡ませた。
仕込みを終わらせた獏は人のいないビルの上で夜風に吹かれながら、煌びやかな地上を遠く見詰める。柵の上に頬杖を突き、狭い都会を見下ろした。
「……帰らないんですか?」
「ん……」
願い事がある時にしか街の外へ出られないので、ゆっくりと外の風に吹かれたいのだろうかと黒葉菫も明かりを見下ろす。代価を貰っていればすぐに街に戻った方が良いのだが、今はまだ願い事が進行中だ。急かすこともないだろう。
「スミレさんは、どうなると思う? 顔を変えられる方の人」
「怒って遣り返す……とかですか?」
「だといいねぇ」
「違うんですか?」
「僕に怯えて怖くて動けなくなっちゃう人だから。思慮の浅さと醜さを見ておくといいよ」
ぐり、と黒葉菫に向けられた黒い動物面は表情が無いからというわけではなく背筋が凍るように不気味に映った。この先に起こることを知っているかのように、獏は詰まらなさそうに目を伏せた。
整形手術は無事に終わり、鏡を見た女は絶望した。誰かの悪戯ではないかと鏡を叩いたが、落書きのような顔はしっかりと自分にこびり付いていた。
顔を隠しながら何とか自宅に戻った女は何日も震え、部屋から一歩も出なかった。
仕事も休み続けたので、同僚の女は新しい顔見たさもあり彼女の家を訪ねた。彼女の両親もまだ顔を見ていないらしい。
誰も開けなかった部屋のドアを、同僚の女は努めて冷静な声で呼び掛けながら開けた。社内の男達を手玉に取り彼女の好きな人も奪っていった顔がどんな顔になったのか楽しみだけが先行し、その先に何があるのか考えられなかった。
「――!?」
叫びそうになったが、声は吸い込まれて出て行かなかった。そこにはぐしゃぐしゃに顔を潰して真っ赤になった同僚が紐でゆらゆらとぶら下がっていた。
「叶って良かったね」
「!」
明かりの無い廊下で背後から声を掛けられ、肩が震えた。
「代価を貰いに来たよ」
「ぁ……」
がたがたと歯を鳴らしながら振り向く。黒い動物面に黒衣の獏が暗がりに溶けるように立っていた。
「震えて全然動かないって言ってあげたのにね」
「ぁ……ぁ……」
「そんな人が元気に生きていくと思う?」
女はごくりと息を呑み、震える手を必死に握り締めた。
「怖いの? 自分のしたことで人が死んだことが。こんなことになるとは思わなかった? 皆幸せになれると思ったの? 君は幸せになったの? ねえ、僕に何を食べさせてくれる?」
獏が一歩踏み出すと「ひっ!」女は一歩下がった。
「代価なんだから、逃げないでよ」
とんと床を蹴ると一瞬で距離を詰める。獏の速さに人間は付いて行けない。女の腕を掴み、壁を背に押し付ける。幾ら踠こうとしても、獏の力から女は逃れられない。
「代価の指定はしてなかったよね。じゃあ――」
「え……?」
「君が幸せだと思う気持ちを食べてあげる」
「え? ……や……い、嫌!」
腕を捻って床へ倒し、足で腕を纏めて押さえ付ける。捻ろうとする体は跨って固定し、女の目を片手で覆った。
「あんなにゆっくり話したのに、何も言わないから」
もう片方で動物面を外し、踠く口に口付ける。
「んん!」
振ろうとする頭は目隠しの手で押さえ付け、食事を終えると口を離して面を被り直す。素直に痛みや苦しみを食べた方が美味なのだが、今回は妥協した。
「これに懲りたら、もう僕を賭けに使わないでね。言い出しっぺさん」
立ち上がって首を傾けて嗤い、ととんと数歩下がる。そこに控えていた黒色海栗は差し出された手を掴み、黒い傘をくるりと回した。
夢でも見ていたかのように忽然と消えた姿に、虚空を見ながら女は呆然と涙を流した。




