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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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24/124

24-落葉山


 赤い酸漿提灯の並んで灯る石段を見上げると、懐かしい気持ちになる。宵の空のあちこちで花火が打ち上がり咲いている。これは年明けの頃に自由に打ち上げられる物だ。もうそんな時期なのかと空を見て目を細めた。

 何日も離れていたわけではないが、不本意に罪人の善行を手伝わされる苦労は計り知れない。何日もこの宵街(よいまち)から離れていたかのような疲労感がある。

 罪人との善行を一度遂行するという罰を終えた白花苧環(オダマキ)は白い踵を一歩一歩、石段を登る。罪人に関わると碌なことがない。

 石段に沿う石壁に空いた穴から食べ物を売る有色の変転人達を横目に、ひたすら上に向かう。罰を終えた報告か、視察の報告か、どちらを先に済ませるか考える。どちらも足が重い。

 黙々と酸漿提灯の下を歩いていると、ふと鼻腔を甘い香りが突いた。菓子を売る壁の穴が目に入る。善行の依頼の少女が甘い菓子を好んで食べていたことを思い出す。

 あれは女児ではないが女性は甘い物を好むのかもしれないと足が止まった。

「あら、マキさんが来るなんて珍しい!」

 穴の前の台に置かれた見本の菓子を遠目に眺めていると、それに気付いた店の女が声を掛けてきた。

「ちょっと遠いですけど。近くで見ていいですよ!」

 白花苧環は菓子を買ったことがない。先日少女から貰った物が、初めて食べた菓子だった。置かれた菓子を見ても、どんな物なのかわからない。

 無言で立ち尽くす彼を女は暫く眺めて待っていたが、視線を彷徨わせるだけで動かないのでもう一度声を掛ける。

「何かお探しですか? それとも、どれにするか迷ってますか?」

「……菓子類は詳しくないので」

「そうなんですね! 私達花に馴染み深い物だと、このメドヴィクなんて如何ですか?」

「それはどういう物なんですか?」

「蜂蜜ケーキです。しっとりしたクッキー生地にクリームを挟んで何層も重ねたケーキです」

 蜂蜜なら確かに、花には馴染みがある。だが渡す相手には馴染みがあるのかわからなかった。それでもいつまでも他に悩むより、勧めてもらった物を買ってしまった方が、時間は無駄にしないだろう。

「ではそれをお願いします」

「はい! すぐに用意しますね」

 薄紙に包んだケーキを紙袋へ入れ、壁の穴から手渡す。受け取って支払いを済ませ、互いに頭を下げた。

 紙袋を抓んで提げながら、再び石段を登る。その後ろでは、白い姿を見つけて来た他の女と共にひそひそと話す声が聞こえた。何を言っているのかは白花苧環の耳には届かなかった。

「マキさんが御菓子買うなんて初めてよね?」

「うん。初めてよ。びっくりしちゃった」

「ああマキさん格好いいわぁ」

「だよねぇ」

 うっとりと背を見詰める視線には気付かず、白花苧環は先に病院に向かうことにした。

二手に分かれる石段の内、片方はすぐに上層へ、もう片方は病院に通じている。共に酸漿提灯が連なっているだけで道標はないが、宵街に棲む者なら道は知っている。

 石段を暫く行くと、大きな箱が積まれたような病院が自然と目に入る。石壁の所々には不揃いな街灯が打ち付けられ光っていて、周りには蔦が這っている。宵街の病院はこの一箇所だけだ。上層と下層の丁度中間辺りに位置する。白花苧環は病院を訪れるのは初めてだった。

 病院はここだけなのでここに入院しているとは思うが、誰かに病室を尋ねなければならない。

 病院の中まで蔦が入り込んでおり、入ってすぐの受付に人が座っていた。辺りを見渡して声を掛ける。他にはあまり人がいないが、病院に人がいないのならそれは良いことだ。

「すみません。灰色海月はここにいますか?」

 受付の女は尋ねてきた者を見上げ、少し目を見開いた。

「……います」

「何処にいますか?」

「鵺様がいらっしゃってますので、面会は可能ですが……」

「…………」

 鵺がいるなら串焼きも買って来れば良かったかもしれないと思いながら、白花苧環は気不味い。だが鵺がいないなら面会も叶わないらしい。入院させる原因となった者と二人きりにさせるのを避けるのは当然か。

「三階の一号室です」

「ありがとうございます」

 階段の位置を教えてもらい、三階まで歩いて上がる。宵街には昇降機はない。

 三階に辿り着くと、廊下はしんと静まっていた。誰もいない廊下をたった一人の靴音が響く。

 一番奥にある一号室に立ち、軽く扉を叩く。中から物音はしないが、少し待つと幼い少女が静かに扉を開けた。

「マキちゃんがここにいるってことは、善行は終わったのね」

 服の裾からちらちらと蛇のような尾を覗かせる鵺は、来訪者に驚きもせず口を開く。その後ろには、ベッドの上で座って俯きながらも視線を向ける灰色海月の姿があった。

「終わりました。入ってもいいですか?」

「御見舞いかしら?」

「そう……ですね」

 鵺は振り返り、灰色海月の許へ木履を鳴らす。

「クラゲちゃん。御見舞いらしいけど、入れてもいいかしら?」

「…………はい」

 長い沈黙があったが、入れてもらえるらしい。白花苧環は中へ入り、扉を閉める。はっきりと見えた灰色海月の両手はぐるぐると包帯が巻かれており、動かないように固定されていた。両手は動かないが、その他には異常はないようだ。返事もしていたので、話せるし頭も働いている。

「手はまだ動かないですか?」

「動かすことは可能だけど、まだ安静にしてないといけないわ。動かしたら駄目」

「見舞いは失敗だったかもしれません」

 提げていた紙袋を掴む手に力が籠もる。手が使えなければ、食べることができない。失念していた。

「あら気が利くわね。何を持って来たの?」

「蜂蜜ケーキだそうです。手が使えないなら、失敗でした」

「そんなことないわよ。一人で食べることができないってだけで、御飯だってちゃんと食べるもの」

 俯いていた灰色海月も顔を上げ、紙袋に目を遣る。見舞いに菓子を選んだことは失敗ではなかったようで、興味は示している。

 ベッド脇の机に紙袋を置き、白花苧環は片膝を突いて灰色海月に向かって白い頭を垂れた。

「罪人でもないのに両手を切断してしまったこと、すみませんでした」

「…………」

 突然の謝罪に、灰色海月の方が目を丸くしてしまう。

「ちょっと、クラゲちゃんが驚いちゃってるじゃないの。怪我人驚かすんじゃないわよ。

 ごめんねクラゲちゃん。こいつ真面目ではあるんだけど、大袈裟で」

「は……はい。あの……獏は何か言ってましたか?」

 白花苧環は頭を下げたまま口を開く。

「特に何も言ってませんでしたが、怒りは伝わりました。なので警戒はしてましたが、善行をする間は大人しかったです」

「なら私からは何も……。私がもっと強ければ……」

 灰色海月は再び俯き、動かせない手を見下ろした。呆気なく両手を落とされ、何もできなかった。獏の監視役としても、あの場は自分が鎮めなければならなかった。こんなに非力では、足を引っ張るばかりだ。

 黙ってしまった灰色海月を、静かに顔を上げて白花苧環は見詰める。彼女の触手が柔いと見抜けずに、軽く弾いただけのつもりでこうなってしまった。彼女はただ監視役として止めようとしただけだ。悪いのは罪人だけで、彼女は悪くない。それは理解している。

「ねえマキちゃん。この前も言ったけど、クラゲちゃんに力の使い方を教えてあげてよ。今は手が動かせないから実践は無理だけど、こう怪我が多いとね。クラゲちゃんが可哀想でしょ」

「それは……構いませんが。視察の報告もまだなので、訊いてみないと」

 膝を上げて立ち上がると、灰色海月が不安そうに見上げた。自分の両手を切断した相手に教わるのは不愉快なのかもしれない。

「訊くって、狴犴(ヘイカン)でしょ? 視察嗾けたのはどうせあいつだろうと思ったから、締めといたわよ」

「締めた……? 一応、上司ですよね?」

「上司が何よ。白を単身で罪人に突き出すなんて信じられないでしょ。そしたら何て言ったと思う?」

「……何て言ったんですか?」

「経験を積ませたい、って言ってたわ。だったら単身じゃなくてもいいじゃない! あいつ頭が緩いのよ!」

「…………」

 木履をぽくぽくと床に叩きつけて地団駄を踏むので、他の病室に誰かいるのかは知らないが苦情が来る前に白花苧環は鵺を宥めた。

「蜂蜜ケーキ、少し食べてもいいので落ち着いてください」

「私、甘い物はあんまり好きじゃないのよね」

「そうなんですか」

 ともあれ冷静になったので良かった。灰色海月も困ったように二人を見ている。

「ケーキは私の物ですが、狴犴とは誰ですか?」

「あら? クラゲちゃんは面識なかったかしら。獏に烙印を捺した奴よ」

「!」

 つまり獏を罪人とし捕らえた者だ。その狴犴の指示で送り込まれた白花苧環に両手を落とされたのは、何て皮肉なのだろう。

 灰色海月は変転人となってあまり間も無い頃に獏の監視役にとあの街へ行ったので、宵街に留まる時間は短かった。狴犴とも会う機会がなかったのだ。

「狴犴に訊かなくても勝手に借りるわよ。ね、クラゲちゃんも気にしなくていいから。マキちゃんはこんな奴だけど、戦闘能力は変転人の中でもトップクラスだから、腕は確かよ」

「そんなに強いんですか……。私の触手も切れなくなりますか?」

「変換石を使って力を調整すればいいと思いますが。オレの使う糸も石からの変換物なので、切られても体は何ともないです」

「何ともないんですか……? それは凄いです」

「海月の毒を活かしたいなら、武器を別に体内生成して仕込めばいいです。オレの針にも、苧環の毒のプロトアネモニンを仕込んでるので」

 灰色海月は初めて知る力の使い方に感心しつつ目を瞬くが、彼はその毒針で獏の腕を刺していたことを思い出して目を伏せた。

「獏に力の制限があるとは言え、遣り合って傷を負わせてたしね。その力と顔でよく女の子にキャアキャア言われてるわ」

「こんな男が人気なんて世も末ですね」

「わかるわ。罪人に対して単細胞なのよ」

「本人を前にしてよくそこまで言えますね」

 嘆く灰色海月と鵺に眉は寄せるが、白花苧環は言い返せない。罪人を前にすると頭が真っ白になるような自覚はある。それは意識が研ぎ澄まされている状態だと思っているのだが。

「長くなりそうなので、先に報告をしてきます」

 小さく溜息を吐く彼に、鵺も忘れていたとハッとした。

「そういえば、マキちゃんがここにいるってことは、獏の監視って今どうなってるの?」

「誰もいないと思いますが」

「何でよ! 罪人放置して来ないでよ!」

「善行が終われば宵街に戻ってもいいはずだったので」

 鵺は諦めたように幼い頭を振った。

「……まあいいわ。さっき支給に行かせたから、一人にはならないはず。報告終わったら、支給行かせてる奴に監視役代理を頼んできて。本当は灰色に遣らせた方がいいんだけど……そのくらいなら問題起こさないわよね?」

「わかりました。でも支給なんて罪人に必要ですか?」

「お前が壊した机とドアよ」

 机は確かに白花苧環が破壊したが、ドアを壊したのは獏だ。そこは訂正させてほしい。

 罪人に何度も接触するのは不快だが、頼まれたことは遂行する。頭を下げ、白花苧環は病室の扉に手を掛けた。

「……あのっ」

 背に声を投げられて振り返る。灰色海月が言いにくそうに唇を小さく動かしながら、彼を見たり目を伏せたりしている。

「何ですか?」

 言いたいことがあるのなら、それくらいは待つ。それが手を落とした償いに少しでもなれば良いが、それ一つで許されるとは思っていない。悪を嫌う故に、己が悪になることも厭う。充分に償うつもりだ。

「この蜂蜜ケーキ……獏の所にも差し入れてもらえますか?」

 たっぷりと時間を掛けて紡がれた言葉に、白花苧環は頬が引き攣りそうになった。寸前で堪えた。罪人に菓子の差し入れとは、罰としても厳しい。

「沸点をもう少し上げるには丁度いいんじゃない? ね、マキちゃん」

「……獏が何もしてこないなら、オレも何もしませんよ」

 世界一信用できない言葉だと鵺は思ったが、悪以外には真面目で穏和だということも知っている。菓子を手渡すだけなら大丈夫だろう……万一大丈夫ではない場合でも、今なら支給に行かせた変転人もいる。止めてくれるだろう。止められるかはわからないが。

 床を踏む音がやや大きくなった気がするが、白花苧環はもう一度頭を下げて病室を後にした。

「……クラゲちゃんもケーキ食べる?」

「食べます」

 鵺が紙袋を開けると、甘い香りが広がった。灰色海月は袋を覗き込み、食べたことのない菓子に気分が良くなった。獏に同じ物を届けるよう頼んだのは、同じ物を食べたかったからだ。同じ物を食べれば、あの街に戻った時にその話ができる。

 灰色海月の代わりに鵺が、一緒に入っていた木のフォークでケーキを切って突き刺す。それを口へ運ぶと蜂蜜が口の中に広がり、灰色海月は微笑むように目を細めた。



 誰もいない暗い煉瓦の街並みの中、霧を分けて明かりの灯る店の前へ新しい机とドアを立て掛けた。仄かに灯る街灯の下で、黒の二人は少し息を吐いた。


「――あれ? スミレさん?」


 声が上から降ってきたので、至極色の青年と黒い少女は同時に夜を見上げた。屋根の上から、黒い動物面を被った顔が覗いている。

「……そんな所で何してるんですか?」

「暇だから、空を見てた」

 軽く屋根を蹴り、獏は石畳に飛び降りた。

「そっちの人は初めましてだね?」

 既に顔馴染みである黒葉菫の隣に、表情を動かさない小柄な黒い少女が立っている。少女は軽く頭を下げるが、声は出さない。代わりに黒葉菫が紹介した。

黒色(くろいろ)海栗(ウニ)です。あんまり喋らないです」

「クラゲさんと同じ海の人なんだね。僕は獏。よろしくね」

 黒色海栗はもう一度頭を下げるが、やはり何も言わない。黒葉菫の言い方だと喋れないわけではなさそうだが、無理に喋らせることもないだろう。

「確かにクラゲと似てるかもしれませんね。こいつ、岩隠子(ガンガゼ)です」

「それはまた刺さると痛そうだね」

 長い針と強い毒がある海栗だ。灰色海月がいれば力の使い方も参考になりそうだったが、残念ながら今はいない。

「机とドアが用意できたので、持って来ました。すぐ設置します」

「助かるよ、ありがとう。すぐに場所を空けるね」

 ドアの無い空間に入り、獏は店の奥に机代わりに積んでいた木箱とテーブルクロスに手を翳して触れずに移動させる。

「クロスを畳むのだけお願いしてもいいかな? 器用には動かせなくて」

「わかりました」

 木箱を動かす横で、黒葉菫と黒色海栗は狭い通路を抜けてテーブルクロスを畳む。今の移動の所作だけで、黒色海栗が身軽な動きを得意とすることがわかった。姿勢を低く、静かに軽やかに爪先を立てている。

「店に机は入りますかね?」

「えっ」

 木箱を階段へ押し退け、出入口の穴から覗いて机を持ち上げてみる。

「運んでもらえるのは助かります。力で持ち上げるのって、重さは感じるんですか?」

「重いほど力は籠めないとだけど、重さは感じないよ」

 机を横向きにしても通路の棚に引っ掛かるので、窓から入れることにした。以前置いていた机は通路を通して外に廃棄したが、あれは真っ二つに破壊されて小さくなっていた。

 机の位置を調整する獏の後ろから、黒色海栗が不思議そうに顔を出す。台所の方へ視線を向けているのでそれを辿ると、物音を聞き付けた黒猫が顔を出していた。

「猫……」

 黒い少女が初めて口を開いた。そろそろと近寄ると、じっと少女を見上げていた黒猫は踵を返して奥へと走って行った。

「…………」

「警戒心が強いみたいで、ごめんね」

 残念そうな顔をする黒色海栗に補足するが、あの黒猫はどうにも獏以外には懐きにくいようだ。

「名前……」

「名前は決めてないね。良かったら、付けてあげる?」

 確かに名前があった方が親しみやすいかもしれない。獏にも個人名はないが、こちらは不便を感じたことはない。

「……黒豆」

「え?」

「黒豆にする」

 そう言い、黒色海栗は台所へ駆けて行った。なかなか自由な人だと獏は思った。

 新しい机を置くと、漸く落ち着いた。古い机が新しくなってしまったのは寂しさもあるが、机が戻ってきて良かった。

「ドアは俺がやっておきます」

 こちらはゆったりと空いた出入口へ向かう。ドアは高さもあるので、身長の高い黒葉菫が取り付けるのが良いだろう。

「手伝えることがあったら言ってね。……ドアを吹き飛ばしたのは僕だから」

「詳しくは聞いてませんが、派手にやりましたね」

「白いのが悪い」

「言ってた視察ですか? 白が来たんですね。珍しい」

 ぽっかりと空いた穴にドアを嵌め、引き千切れた古い蝶番を外して整える。黒豆に相手にしてもらえなかった黒色海栗はじっとその様子を眺めた。

「言ってた通り全く話が通じないし嫌味な奴だったよ。机を壊したのはその白いのだから」

「クラゲがまた怪我したって聞きましたが」

「クラゲさんの両手を切り落としたんだよ」

「え……物騒すぎないですか。怖い……」

「前に君が言ってた、手紙を回収してくれた人らしいけどね」

「あの人か……。その時はそんな怖いイメージなかったですね」

「白花苧環って言う奴だから、君も気を付けて」

「え? 苧環? ――うわっ」

 ドアを挟んで話していた獏には、ドアの向こうにいる黒葉菫の姿は見えない。突然声を上げた彼に、怪訝にドアを見詰める。同じく見ていた黒色海栗は軽やかに近寄り、ドアを押した。

「――だっ」

 まだ固定されていないドアが外れ、黒葉菫の頭に倒れた。

 開いたドアの隙間から黒色海栗は顔を出し、獏も覗き込む。倒れたドアの向こうに、白い姿があった。

「げ」

 面を被って表情は見えないが、嫌そうな声で察することができるだろう。

「御挨拶ですね」

「何……? まだ何かあるの?」

 片手に紙袋を提げているが、一体何をしに来たのだ。視察も罰も終わったはずだが。

 ドアの下から白花苧環を見上げていた黒葉菫はドアを一旦壁に立て掛ける。

「こいつが苧環……?」

「そうだよ。嫌味な奴」

「机だけで済んで良かったですね……」

「え?」

「かなり強いって噂なので」

「机だけじゃないよ。クラゲさんの手も」

「ああ……そうですね」

 黒葉菫は表情の無い涼やかな白花苧環を見遣り、一歩下がった。

「苧環は知ってる」

 白と黒は相反するらしいが、この白花苧環は黒に恐れられていることが二人の様子から伝わってきた。確かに力の制限や店の中で暴れたくなかったことなどはあったが、獣が人間にあっさりと正面から組み敷かれてしまったことは、戦闘能力の高さを物語っていると言える。

 白花苧環は興味がなさそうに息を吐き、獏に紙袋を突き出した。

「クラゲに頼まれた差し入れです。それと、その黒のどちらかが獏の監視役代理をしてください。それを言いに来ただけです」

「クラゲさんが……? 会ったの?」

「ええ。手以外は元気そうでした。クラゲの見舞いに持って行った物ですが、獏にも同じ物をと言われたので」

「中は何?」

「危険物ではないですよ。只の菓子です。メドヴィクと言う蜂蜜ケーキです」

 獏は少し迷ったが、灰色海月が頼んだ物ならと紙袋を受け取る。白花苧環を一瞥し紙袋を開けると、甘い蜂蜜の香りが広がった。

「美味しそう……だけど、何も知らない君が御菓子を買えるなんて」

「馬鹿にしないでください。買物くらいできます」

 紙袋を渡すと白花苧環はすぐに獏から距離を取った。警戒しているのか、自分から手を出さないためなのか。

「これも言っておくべきことなのかわかりませんが、クラゲに力の指導をすることになりました」

「そんなことも言ってたね……。クラゲさんが良いって言うなら、僕は何も言わないけど」

「簡単に体が切れないようにはしますよ。それはオレの責任です」

「クラゲさんをまた傷付けたら、今度は君を殺すかもしれないよ」

「傷付ける気はありませんが、貴方が殺そうとするなら、オレも心置きなく貴方を殺せます」

 静かに睨み合う二人に黒葉菫はハラハラと困惑するが、この二人が暴れたとして止められる気はしない。

 まだ何かあるのか白花苧環がごそごそと何かを取り出すので緊張感が走ったが、武器ではなかったので安心した。

「監視役をするに当たって必要になるので、思念の羅針盤を持って来ました。これを使ってください。それと首輪も」

 以前灰色海月が持っていた物と同じ、懐中時計のような羅針盤と罪人に嵌める首輪を差し出す。どちらが監視役代理をするかは決めていないが、じっと様子を窺う黒色海栗が手を出さないので黒葉菫が受け取った。

「これはまた苧環に返すのか?」

「いえ。オレも借りてるだけなので、貸出所へ戻してもらえれば。――それと」

 手に一通、手紙を取り出す。

「ついでなので、投函されてた手紙を回収しました。これでオレの仕事は終わりですね」

 手紙は獏が受け取り、礼を言って封を切る。

「ありがとう。クラゲさんによろしくね。無理はしない程度に――」

 言葉の途中でぴたりと口を閉じる。広げた手紙の文字に、動物面の奥で訝しげに眉を顰めた。

「わかりました。伝えておきます」

「ちょっと待って」

 呼び止められた白花苧環は傘を取り出そうとした手を止める。まだ何か伝言があるのかと、次の言葉を待つ。伝言くらいならしてやっても良い。

「この手紙は何?」

「は? いつもの願い事の手紙ですが。宛名も貴方になってます」

「いや……そうなんだけど」

 首を捻る獏に、黒葉菫と黒色海栗も手紙を覗き込む。黒葉菫は願い事を見るのは初めてではないので、同じように眉を寄せた。黒色海栗は見たことがなかったので、何かおかしいのだろうかと面で隠れた獏の顔を見上げる。

「これも叶えるの?」

「何を言ってるんですか。願い事は等しく叶えるのが善行ですよ。さっさと思念を読み取ってください」

「この手紙の端に付いてるの、血じゃないかな?」

「血?」

 すぐに宵街に戻ろうと思っていた白花苧環は気が乗らないが獏の許へ戻る。罪人の世話係ではないのだが。手紙を渡されて見ると、確かに端に赤黒い物が付いていた。

「何かの塗料ということはありませんか? 血と断定するのは早計では」

「でも願い事も『たすけて』としか書かれてないし、面倒な予感がする」

「面倒でも叶えるのが善行です。罪人の意見は聞いてないんですよ。選ぶ権利はないです」

「少しはあるからね。選ぶ権利」

 揉めていると、下からスッと黒色海栗が手を挙げた。

「私……やってみたい」

 彼女が掌から黒い傘を抜いて開く頃に漸く言葉の意味が呑み込め、声を出す前に傘はくるりと回されていた。

 転瞬の間に移動してしまった一同は暫し沈黙の中で複雑な表情をした。

「何でオレまで送るんですか……」

「手紙、持ってた……」

 気が逸り断りなく傘を回してしまったことを少しは反省しているらしく、黒色海栗は俯く。それを頭ごなしに責めることはできなかった。手紙の内容が切迫していたこともあるだろう。

「とにかく先に首輪です。今後は罪人に首輪を嵌めてから街の外に出してください」

 手紙を獏へ返し、仕方なく首輪を取り出し急いで首に嵌める。

「一瞬でしたが宵街で感知したかもしれません。今回は後でオレから説明しておきますが、今後は気を付けてください」

 送られてしまったものは仕方がない。一同は一様に辺りを見渡す。葉を落とした木々が乱立し、地面には赤や黄の落葉が敷き詰められていた。斜面なので落葉で滑らないように気を付けなければならない。まだ夜ではないが、木に葉がある物も散見され曇り空なこともありやや薄暗い。とても静かな場所だった。

「何処……? 山?」

 斜面を見下ろしても見上げても、同じ景色が続いているだけだった。所々にある低木が景色を遮っているが、変わった物はなかった。

「手紙の思念を辿れば通常はポストの近くか、差出人の近くへ行くはずですが」

 辺りに家の形はなく、こんな所にポストがあるとも思えなかった。黒葉菫の指摘に、黒色海栗は益々俯いてしまう。

「……思念……ここだった。間違えた……?」

 震えそうな声に、少女一人を責めるわけにもいかず、獏は辺りをもう一度見渡しながら切り替える。

「来ちゃったのはしょうがないよ。間違えたならもう一度思念を辿ればいいだけだし。そもそも手紙を拾ったのはマキさんだから、一度は投函されたポストに行ってるよね?」

 だが白花苧環は目を逸らした。

「ショートカットしました」

「え? どういう意味?」

「ポストまでは行ってません。離れた場所から手紙を自分の許へ送る裏技があります」

「それは教えてほしい」

 黒葉菫が視線を送るが、白花苧環は目を合わせなかった。推奨はされていない技らしい。

 離れた場所に投函された手紙を短時間で一気に回収できる素晴らしい技だが、投函された場所はわからない。

「マキさんが横着したことでこうなったと言っても過言じゃないから、責任持って手伝ってね」

「…………」

 返事は無かったが、無いということは承諾したということだろう。

「場所はわからなくても、いつ投函されたかはわかる?」

「今日です」

「じゃあ投函後に山に入った可能性はあるね。差出人はこの近くにいるのかも」

「……そうですね。確かに手紙の思念はここに繋がってます」

 俯いていた黒色海栗は漸く顔を上げた。間違えたわけではないと証明され安心した。

「これだけ人数がいれば、手分けして捜せるから助かるね。各々分かれて、またここに戻ってこよう。何か目印でもあるといいんだけど」

「獏には誰か付いてください。罪人を野放しにしないで。オレは嫌です」

「私……やる」

 責任を感じているのか、黒色海栗は再び手を挙げた。その手からボウガンを引き抜く。地面から大きな落葉を一枚拾って上空へ放り投げ、ボウガンを向けた。射出された黒い矢は落葉を貫き、木の幹に突き立つ。

「目印」

 ボウガンには小さな変換石が取り付けられている。これが黒色海栗の武器だ。両手の指にも小さな透明の石が付いた指輪を幾つも嵌めていることに獏は気付くが、これも変換石だろうか。

「ありがとう、ウニさん。差出人もそう離れてはいないはずだし、何もなくても三十分後くらいに一度戻ってこようか」

「貴方の指図は受けたくありませんが、不可解なことも確かなので引き受けてあげます」

「へぇ。宵街に帰って何か言われた?」

「経験……を積むだけです。貴方には関係ありません」

 視察に行ってあの有様だったので、今回もこのまま帰っては失望されてしまうかもしれないと思った。とは口が裂けても言えない。真っ先に背を向け、白花苧環は斜面を下っていった。

「歩きにくいのにマキさんは慣れてるね。僕達も行こうか」

 黒葉菫は右手側へ、獏と黒色海栗は左手側へ登った。

 麓も頂上も見えないので、ここは中腹辺りなのだろうか。せめて人の通る道でも見つかれば捜しやすいのだが。『たすけて』という願い事には色々と想像させられる。恋愛や学業など可愛らしい願い事ならば良いのだが。筆跡だけでは断定はできないが、若い印象を受けた。

 しんと停滞する静謐と寂寥の中で時折遠く鴉の鳴き声がするが、それ以外は自分達の落葉を踏む音しか聞こえない。慣れていないのか黒色海栗の歩く音は一定ではなく歩きにくそうだ。

「ウニさん。手を繋ごうか」

「?」

「歩くのが楽になるよ」

 踊りを申し込むように差し出された手に、黒色海栗は躊躇した。手を繋いで楽になるとは、引き摺り回されるのだろうかと。

「足取りを少し軽くしてあげられる」

「軽く……?」

 言葉の意味は理解できなかったが、引き摺り回されないのならと、彼女は獏の手を取った。途端に引かれる手に体が引き寄せられるように、地面を蹴る足が軽い。これも獏の力なのかと、黒色海栗は目を丸くした。まるでふわふわとした夢を見せられているようだった。

 暫く歩くと、木立の中に簡素な古い小屋が見えた。近付いて見ると微かに細い道のような物も近くに見えるが、落葉や好き放題に茂る草に覆われ、頻繁に通る者はなさそうだ。それとは逆に小屋の扉の前は落葉があまり無い。

「入る……?」

「いや、一度戻ろう。何かあった時に煩い人がいるし」

 獏は黒色海栗の手を引き、目印を付けた元の場所へ引き返す。何もないにしろ白花苧環も共にいた方が後で揉めることも少ないだろう。

 目印の場所へ戻ると、まだ誰もいなかった。時計は見ていないが、三十分よりも少し早かったようだ。獏は普段は時間の流れのない街に棲んでいるので、時間の感覚が疎い。

「二人が戻って来るまで待たないとね」

 黒色海栗は頷き、辺りに目を遣る。獏も幹を背に蹲み、落ちている葉を弄りながら待った。

 それから然程待たずに、白花苧環と黒葉菫は戻って来た。

「こちらは何も無かったです。同じ景色が続くだけでした。もう少し範囲を広げないと、何も無さそうです」

 慣れた足取りの白花苧環の方が早く目印に戻って来る。裾野の広がる斜面の下だと、もう少し歩かなければいけないようだ。

 落葉を放って獏も立ち上がる。

「こっちは小屋があったよ。最近ドアを開けた痕跡がある。君がとやかく言いそうだから、中には入ってないよ」

「オレを何だと思ってるんですか。……ところで、ウニは何処に?」

「え?」

 先程まで傍らにいたはずだが、振り返っても黒色海栗の姿はなかった。落葉を弄ってはいたが、歩けば音は聞こえる。こういう場所は不慣れらしい彼女のぎこちない足音は聞こえなかった。

「さっきまでいたんだけど……」

 黒葉菫もゆっくりと合流する。

「ウニさんって、勝手に何処か行くタイプ?」

「いえ……静かですが、見えない範囲に勝手に行くことはないと思います。いなくなったんですか?」

「うん……滑り落ちたら気付くと思うし……」

「捜す人物が増えてしまいましたね。でも無色なら何かあっても対処できますよね? ボウガンを持ってましたし」

「まあ一応ボウガンで中距離と、直接棘を使って近接戦闘はできる」

「ああ、あの指輪は近接用だったんだね」

 それだけ戦えるのなら、人間相手なら充分対処できるだろう。冬なので熊に出会すこともなさそうだ。

「心配ではあるけど、人捜しすることには変わりないから、差出人捜しを続けよう」

 二人も頷き、賛同する。どのみち周辺を歩き回ることには変わりない。

「俺の方は石像……あれは地蔵と言うんですかね? それがありました。道らしい物も」

「僕の方で見つけた道と繋がってるかもしれないね。こっちの道は先がなかったから、そっちに行ってみようか」

「小屋の方が誰かいる可能性はないんですか?」

「ドアを開けた痕跡はあるんだけど、道を通った痕跡はないんだよね……」

 話しながら薄暗い斜面を暫く上がると、落葉や茂る草で隠れそうな道が確かにあった。獏は先程自分が行った方向へ目を向けるが、この距離では小屋は見えなかった。

 黒葉菫の案内する方へ落葉と草をざくざくと踏んで進み、ぴたりと立ち止まる。

「これです」

 獏と白花苧環は眉を顰めた。それは確かに地蔵のような顔をしている。目鼻立ちはぼやけているが、石でできたそれは、道の端に頭部だけごろりと虚空を見詰めながら転がっていた。徐に見渡すが、その体らしき物は見当たらない。

「バチが当たるよ……」

 手を合わせる獏を一瞥し、白花苧環は転がる頭部の前に跪く。

「汚れの具合から見ると、最近折れた物みたいですね。斜面の上から落ちた物かもしれません」

「うわ、頼りになる」

「やめてください。反吐が出ます」

 斜面の上を見上げるが、それらしき物は視界に入らなかった。

「上に行きますか? それとも小屋の方に?」

「捜してるのは人間だから、小屋の方に行こうか……」

「怖いんですか?」

「これは花にはわからない感覚かなぁ」

 白花苧環は首を傾ぐが、動物などにしかわからないものなら、動かない植物には想像すら難しいだろう。

「でもこれを見た時の最初の君の表情は、近いものがあると思うよ」

 獏はやや足取り重く、小屋の方へ辛うじて道と言える細い道を進む。黒葉菫と白花苧環も周囲を見渡しながら後に続いた。

 道はやはり小屋の近くと繋がっており、道を辿るだけで易々と着いた。先程見た時と同じ姿のまま、小屋は重い空気を纏いそこにあった。

「確かに開けたような痕跡がありますね」

「差出人がいるとして、何でこんな所に……?」

「さあ……それは差出人に直接聞いてみないと」

 三人は立ち止まり、じっと小屋を眺める。それを数秒続け、漸く白花苧環は誰も扉を開けようとしないことに気付いた。

「……何で開けないんですか」

「怖い」

「マキさんが開けるのかなと」

 真顔で素直に答える黒葉菫と白々しく言う獏を横目でじっとりと見遣り、白花苧環は溜息を吐いた。小屋を後回しにしたのも怖いからなのか。

 ざくざくと落葉を踏み、躊躇いもなく扉に手を掛ける。獏と黒葉菫も彼の白い背中に隠れるように覗き込む。オレがいなければどうするつもりだったのかと白花苧環は問いたくなった。

 重苦しい軋みを上げて静謐を裂くように扉が開き、薄暗い光が中にぼんやりと差し込んだ。

「!?」

 もう使われていない暗い小屋の中には、虚ろな人間の頭部が忽然と転がっていた。体を失いごろりと転がるそれは、虚空に濁った目を向けたまま何も見ていない。

「差……出人……?」

 まだ若い。少女の顔付きだった。長い髪が床に貼り付いている。体は見当たらない。

 固まってしまった獏と黒葉菫は置いておき、白花苧環は小屋の中を見渡した後、中に足を踏み入れた。歩く度に床板がぎしりと重く耳に絡み付くように軋みを上げる。首の前に跪き、状態を確認する。

「……血は止まってますが、傷口は新しいですね。床に出血が少ないので、他の場所で殺されたのをここに運んだんでしょう。斧などではなく、引き千切ったような痕です。人間の力で可能なのかはわかりませんが」

「冷静すぎて怖い」

「さっきから怖いしか言ってないですよ。黒なら汚れ仕事を任されたりしないんですか?」

「それとは別だろ……意味がわからないのが怖い」

「確かに意味はわかりませんが」

 立ち上がって振り返ると、恐る恐るといった様子で獏も床板を軋ませながら小屋へ足を踏み入れていた。転がる首を見下ろし、膝を突く。白花苧環が言った通りの状態であることを確認し、ぼそりと呟いた。

「……不味いかもしれない」

「?」

 黒葉菫だけは小屋に入ろうとしないが、入口で聞き耳を立てる。白花苧環は訝しげに獏を見下ろす。

「何がです?」

「微かに悪夢の匂いがする……」

「獏の嗅覚はよくわかりませんが、食べてはいけないんですよね?」

「それが不味い」

 勢い良く立ち上がる獏を怪訝に、白花苧環は一歩下がる。獏は掴み掛からん勢いで白い彼との距離を詰めた。

「今の僕には杖がない。何かあっても助けられない」

「助ける……? 誰をです? それに杖があったとしても、街の外では使えないはずですよ」

「僕の食事としてじゃなく、質の悪い悪夢を放っておくと面倒なことになる。獏が悪夢を食べなくて、他に誰が処理してくれるの?」

「放っておくも何も、只の夢でしょう? 貴方が食べたいだけじゃないんですか」

「本当に君は物分かりが悪いね」

「罪人が我儘を押し通せると? ふざけないでくだ」

 どさりと、小屋の外で何かが叩き付けられるような音がした。

 出入口にいた黒葉菫は振り返り、息を呑んだ。

「喧嘩は後にしてください」

 慌てたように駆け出すので、獏と白花苧環も外へ出る。

「あっ……」

 黒い塊が斜面に落ちていた。二人も急いで駆け寄る。ぼんやりと虚空を見詰める黒色海栗が、首から血を流していた。体中に抵抗した痕がある。唇が微かに動き、まだ生きていることがわかった。

「ウニさん! 聞こえる!?」

 問い掛けに微かに眼球が動く。意識がある。

「マキさん、緊急事態だから首輪を外すよ」

「それはできません」

「ウニさんを見殺しにするの?」

「それは……」

「僕なら応急処置をしてあげられる」

 表情の見えない動物面が、白花苧環を見上げる。睨んでいると察することはできた。だが白花苧環には、規則を破って罪人の首輪を外すことはできなかった。譬え見殺しにすることになっても、街の外で罪人に力を与えることはできない。満身創痍の黒色海栗を見下ろし、唇を噛むしかできなかった。

 煮え切らない白花苧環を待たずに、黒葉菫は獏の首輪にある鎖を引く。

「俺が責任取ります。処置できることを、俺は知ってる」

 街の中でのことだったが以前、獏が灰色海月の受けた銃弾を取り除き処置していた。それを黒葉菫は傍らで見ていた。獏なら黒色海栗を助けられる。そう信じて首輪を外した。

 白花苧環はそれを咎めることはできなかった。規則と命をそもそも天秤に掛けることはできなかった。自分の手では首輪を外せないが、他人が外すことに、それを咎める資格はない。

 獏は黒色海栗の指に嵌められた変換石の付いた指輪を抜き取って自分の指に嵌めた。石は小さいが、全部で四つ。処置をするだけなら充分だ。

「……体の傷は浅い……首の出血を止める」

 まるで引き千切ろうとしたように荒々しい傷だった。必死に抵抗して逃れたのだろう。只の人間ならば、小屋の中の首のようになっていたかもしれない。

「首の傷だけの所為じゃない……少し呑んでるね」

「呑む……?」

「悪夢を呑んでる。マキさんは……悪夢を食べても烙印が痛まない方法って知ってる?」

「馬鹿を言わないでください。そんな権限を変転人が持ってるわけがない」

「じゃあ仕方ないね……罪人らしく痛みを受けるよ。面倒だから上に連絡が行かないようにはするけど」

「は? そんなこと……」

「罪人嫌いの白いのにバレちゃうけど、仕方ないかな」

 獏は動物面を外し、苦笑する。見世物の顔は不気味なほど美しかった。

 一度深呼吸し、痛みに堪える覚悟をして獏は黒色海栗の小さな唇に口付けた。途端に喉元の烙印から小さな火花が散り、焼けるような痛みと、どろりと血が流れる。

「――っか、は……」

 口を離した瞬間に獏は落葉に倒れ込み、烙印に変換石を当てて蹲る。石は光り上手く働いてはいるが、以前猫の悪夢を食べていた時の様子とは明らかに苦しみ方がおかしいことに黒葉菫はすぐに気付いた。以前は倒れるほど苦しんではいなかった。

「石が足りないですか? 俺の石も使ってください!」

 黒葉菫は困惑しながらも掌から銃を抜くが、獏は小さく首を振った。石が足りないわけではないらしい。背を丸めて首を押さえるばかりで、あの時と何が違うのかわからない。

 烙印からは止め処なく血が流れていく。深い傷ではないので少量ずつではあるが、このまま流し続けていて良いはずがない。

「……退いてください!」

 何をすれば良いのかもわからず途方に暮れる黒葉菫の肩を掴んで無理矢理下がらせ、白花苧環は掌から針を抜いた。

「おい! やめろ!」

 黒葉菫は白花苧環の肩を掴み返すが、彼は引き下がらなかった。

「悪いようにはしません。黙っててください」

「……!」

 白花苧環は蹲る獏を足で仰向けに転がし、動かないように馬乗りになった。首を押さえる邪魔な手を、片足と針を持っていない方の手で押さえ付ける。針の鋭利な方ではない先端には変換石が嵌められている。それを、火花の散る烙印に押し当てた。

「こんなことは初めてですが……」

 針の先の石が光を帯びる。


「白が権宜する――鎮まれ」


 針をくるりと回し、袖を捲った自身の白い腕に傷を引いた。ぱたぱたりと血の滴が烙印に落ち、火花が治まっていく。もう一度光る石を烙印に当てて擦ると、流れ続けていた血も止まり、痛みも徐々に引いていく。

「……っ、……」

 抵抗する力が弱まり、白花苧環は足と手を離す。集中力を要するので肩で小さく息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。獏はぐったりとしながらも、全身で息を整える。

「はあ……はあ……」

「……こんなことは、二度と御免です」

「ありが……とう……」

「ウニのためです。貴方のためではないです。血を使って鎮めたので、オレが遣ったと宵街にも伝わります。笑い物ですよ。白が罪人を赦すなんて」

 自嘲するように唇を歪めて吐き捨てる。血を払って針を仕舞い、黒色海栗に目を遣った。虚ろな双眸には光が戻っている。それを確認できたからこそ、獏の痛みを鎮めた。処置ができると嘘を吐いたのではないと理解した。

「……赦してもらえて嬉しいよ」

「赦してません」

「え、どっち?」

 喉元を摩りながら起き上がる。痛みは完全に消えている。罪人ではない他者の血を赦しとして捧げることで烙印の疼きを止めるらしい。

「今のはスミレさんでもできるの?」

「黒の血ではできません。灰もです」

 どうやら罪人と相性の悪い白の特権のようだ。権限はないと言うが、遣り方は教えられているらしい。一時的に権利を預かるものだろう。

「……それで、ウニの状態はどうなんです?」

 問題はそれだ。烙印を鎮めるという屈辱を押し付けられたのだから、何もできなかったでは済まされない。獏は息を整えながら、黒色海栗の首の傷にそっと手を遣った。

「うん……傷は大丈夫。治すことは僕にはできないけど、膜を張って塞ぐことはできた。呑んでた悪夢も食べた。烙印が痛過ぎて味はよくわからなかったけど、相当育ってる悪夢みたいだね……育てば育つほど烙印にも影響が出るのかも」

「育つ……とは?」

「夢が、それを見る自分の頭の中から外部に飛び出していくのを、育つって言ってる」

「夢が外に……? よくわかりませんが、ウニはこのままにしておいていいんですか?」

 目は開いているが、まだ頭は働いていないらしく呆然としている。元々があまり喋らないので、喋らないのか喋れないのかはわからないが。

「そうだね。早く医者に診せた方がいいね」

「それなら俺が行きます。すぐ戻って来るので」

 黒葉菫は掌から黒い傘を抜いて開く。

「うん。わかった」

 ぐったりとする黒色海栗の体を起こして支えながら、くるりと黒い傘を回した。

「……?」

 もう一度くるくると回す。傘が回るばかりで、景色は一向に変わる様子はなかった。

「スミレさん……?」

「移動しない……」

 回し方が悪かったのかと何度も回してみるが、空間の鍵が開かない。こんなことは初めてだった。

 見兼ねた白花苧環も白い傘を抜いて回してみるが、何も起こらなかった。

「……どういうことです? 空間が封じられている?」

 傘を閉じる二人を交互に見、獏も眉を寄せた。

「行きはよいよい、帰りはこわい……ってこと?」

「何ですか? それは」

「童歌だよ。行きは良いけど帰るのは難しいって意味だね」

「洒落にならないですよ」

 漸く呼吸も落ち着き、獏も立ち上がる。まだ少し体に怠さは残るが、瑣事だろう。

「ここから出られないってことは、ウニも医者に連れて行けないってことですよね。とにかく出口を探さないと」

「心当たりは手紙の差出人ですが、小屋の首が差出人だった場合、何も話を聞けませんよ」

「あの首が差出人で悪夢の元凶にしろ違うにしろ、悪夢の本体は何処かにいる。そいつを捜す」

 獏は上空を見回し、異常がないか確認する。黒色海栗は上から落ちる音がした。木々の上を移動する何かがいるのかもしれない。鴉が叫びながら羽撃くだけで、何も変わった所はなかった。

「何か痕跡を探さないと。単独で歩き回るのは危険そうだけど……早くしないと陽も暮れるだろうし。夜になると二人は夜目がきかないよね?」

 二人は小さく頷く。夜に咲く花ではなかった二人は夜目がきかず、人の姿になったことである程度は動けるが、夜は体が鈍くなってしまう。特に月明かりさえ遮られそうな明かり一つ無い山の中では、何処まで動けるか未知数だ。

「急いだ方がいいですね。罪人に借りを作られるのは癪です」

「ウニは俺が背負います。咄嗟に銃は出せませんが……苧環がいるなら大丈夫そうです」

「ほぼ初対面でよく信頼してくれますね」

 呆れたように苦笑するが、この状況では白花苧環しかまともに動ける者はいないのは確かだ。

「オレもここから早く出たい気持ちは同じなので、遣れるだけは遣ります」

「それは頼もしいね」

「貴方には頼られたくないです。……空間が閉ざされてるなら、烙印の異常も上に伝わってないかもしれませんね」

「それは不幸中の幸い」

「只の不幸ですよ」

 とりあえずまずは道へ戻ろうと斜面を一歩踏み出し、落葉を踏む音とは違う音が小さく耳朶を突いた。

「…………」

 音が聞こえた獏と白花苧環はその方向――小屋へ目を遣り、一瞬呼吸が止まってしまう。

 開け放たれた入口から、あの少女の首が濁った目でじっとこちらを覗いていた。

 虚ろな目は相変わらず焦点が合わず何処を見ているのかわからないが、距離があるからか濁ったそれと目が合っているような錯覚を覚える。小屋の真ん中にあった首が入口まで転がり、こちらに顔を向けている。思わず声が出そうになった。

「何ですか……? 誰かが動かしたのか、あれが勝手に動いたのか……」

 誰かが、とすると小屋の真ん中へ足を踏み入れなければならないが、床板の軋む音は聞こえなかった。

「わからないけど僕達が小屋に入った時は他に誰もいなかったし、後から入ったならさすがに気付きそうだけど……」

「悪夢の匂いがすると言ってましたよね? 信じ難いですが悪夢が動かす可能性は? 外へ出るなら有り得そうですが」

「有り得なくはないけど、何で覗いてるかはわからない……」

 首はこちらを覗くだけで、動くことはなかった。

「気味が悪いんだけど……」

「獏からそんな言葉を聞くとは思わなかったです。貴方も充分気味が悪いですよ」

「酷いね君。御陰で冷静になるよ」

 こそこそと小声で話す二人に首を傾げていた黒葉菫だったが、視線を辿って理解した。覗く首に思い切り肩が跳ねた。声は何とか呑み込んだ。

「も……もう少し距離を取りましょう」

「そうだね……道に沿って行く? 斜面を駆け上がる?」

「道を戻っても地蔵の所に出るだけですよね。道はその先もありましたが、そこまで戻る時間は無駄になります。陽が暮れない内に斜面を上がりましょう」

 陽が暮れる前に終わらせたいことには賛成だ。覗く首に背を向けて走る。道を少し戻り、斜面を駆け上がった。斜面の下に痕跡があるかもしれないが、上を選んだ。山は通常上へ行くほど面積は小さくなる。捜す労力は上の方が少ないはずだ。時間もあまりないので、今は時間の掛からない方を選ぶ。

「――わっ!?」

 ぐしゃりと派手に獏が転んだ。落葉を滑るので、仕方なく白花苧環は獏の腕を掴む。

「無様ですね」

「烙印のダメージがまだ残ってるの! 何かに躓いた……」

 引き起こされながら、足元に目を遣る。人間の手が落葉の中から覗いていた。

「さっきの首の……?」

「違う、女の子の手じゃない! 大人の手だ」

「死体が複数あるってことですか」

「死体が埋もれてるのは勘弁してほしいんだけど……! 嫌なことを思い出す……」

「貴方の嫌がる顔が見たいので、是非とも聞きたいですね」

「君にだけは教えないよ!」

 ゴミの山に埋もれた死体を見つけた時は大変な目に遭った。あの時は鵺が助けに来てくれたが、今回はそういうことも起こらないだろう。

 再び斜面を駆け上がるが、隙間から見える空が徐々に赤みを帯び暗く沈んでいく。

 足元にも注意しながら駆け上がると、また細い道が現れた。その足元には、傾いた地蔵の体だけが立っていた。

「……っ」

 その前に供えるように、あの小屋にあった首が転がっていた。長い髪の後頭部は間違えようがない。

「何で……」

「先回りされた……?」

 息を呑んで首を見下ろす。地面を向いていた顔が、地面に頭を擦って独りでにぐりんと上を向いた。何もない空を見ている。

「ちょ……俺もう無理かもしれません……」

「スミレさん、気を確かに持って!」

「オレも少し……不味いかもしれません」

「マキさんまで!?」

「いえ……ここまで感覚が鈍いのはおかしい……」

「え……? …………あ」

 駆け上がるのに必死で、気付かなかった。もっと早くに気付くべきだったのに。

「悪夢の気配が濃い……強制的に眠らせようとしてる……?」

 眠らせてどうすると言うのか。眠りの中で発生する悪夢が自ら眠らせようとするとは。

「獏を馬鹿にしてるの……?」

 冷たい月のような双眸で辺りに目を巡らせる。

「――っ」

 落葉を散らして中から何かに足を掴まれ、白花苧環が地面に頭を打ち付けた。落葉が緩衝材となり衝撃は和らげられたが、そのまま足を引かれ斜面を引き摺り上げられる。

「マキさん!」

 白花苧環は両掌から二本の針を引き、引かれる方へ一閃した。

「!?」

 確かにそこに()()のに、引かれる力は一瞬鈍くなるが何も切り裂けない。外したのかともう一度一閃するが、やはり結果は同じだった。

(干渉できない物か……?)

 引き摺られる中で手の届く距離にあった幹に針を突き立てる。引く物に干渉できないのなら、自分の体を固定すれば良い。幹に固定したまま、掴まれた足を引く。

「……っ!」

 引く力が強い。黒色海栗の首を引き千切ろうとした奴かもしれない。このまま幹に掴まり続けていると、脚を持っていかれる。少しでも力を緩めれば終わりだ。歯を食い縛り踵を地面に減り込ませる。

「オレからもう……脚を奪うな!」

 落葉が躙られ地面に擦れ千切れていく。無防備で動けない植物の姿ではないのに、それを引き剥がせない。関節がみしみしと軋みを上げた。

「白くて見やすくて助かるよ」

 細い光の線が走り、白花苧環の掴まれた足の向こうに槍のように突き立った。

 斜面の下から跳ぶように駆け上がってきた獏は、光る指輪を嵌めた手を翻す。

 足に絡まる何かの力が緩まり、漸く白花苧環は脚を引き寄せることができた。掴まれた足がぎしぎしと痛む。

「何ですか、今のは……!?」

「見えた?」

「は? 何か黒い物は見えた気がしますが……暗くなってきたのであまりよくは」

「通常、悪夢の黒い靄は僕にしか見えないんだけどね。僕以外にも見えるくらい成長してるみたいだ」

「触れられないんですか?」

 幹から針を抜き、足を引き摺るように立ち上がる。痛むが感覚はしっかりとある。きちんと繋がっている。動くなら問題はない。

「悪夢に干渉できるのは獏だけだから……そういうことかな」

「向こうはオレを掴めるのに?」

「それが厄介なんだよね。だから皆、獏に助けを求めるの」

「……足手纏いになるなら下がりますが」

「察しがいいね。けど、離れないでくれた方が助かるかな。杖もないし、あんまりあちこち意識を向けてられない」

 獏は背後を一瞥し、黒葉菫が追って来ていることを確認する。

「暫く外してるから、お面預かっててくれる? 持ってると邪魔で」

 黒葉菫は片手で背中の黒色海栗を支え、動物面を受け取った。

「こんな所で誰かに顔を見られる心配もないでしょ」

 紫に染まりゆく隙間の空の下、獏は再び地面を蹴り、斜面の上へ跳ぶように駆ける。白花苧環と黒葉菫はそれに離れないように追う。駆け上がる途中で、枝に髪で括り付けられた少女の首がふらふらと揺れながらこちらを見ていた。

(遊んでるの――かな?)

 頂上ではないが、開けた平坦な場所へ出た。そこで漸くはっきりと、姿を捉えることができた。

「――君か」

 首の無い少女の体をぶら下げながら、引き千切られた首から黒い靄を何本も伸ばし地面に突き立てている。

「君が手紙の差出人かな?」

『たすけて』と書いた少女はもう動かなくなってしまったが、いつまでも悪夢に遊ばれるままでは浮かばれない。

「生きてる内に助けてあげられなくて、ごめんね」

 こんなに大きく育つほど放置してしまった。手紙を投函してもらえたのは幸いだった。獏に悪夢の助けを求めるのは、願い事の手紙の正しい使い方だ。

 指輪に嵌っている変換石は小さいが、攻撃を狭く細くして対応する。

 悪夢も、初めての干渉される者に動きが止まり、様子を窺っている。

「君は新しい頭が欲しいのかな?」

 手を振り、細い光の矢をばらりと広げる。できるだけ細く短く、力を抑える。

 光の矢を構え、地面に突き立てている長い触手を打つ。

「!」

 黒い靄は跳び退き、首の無い体はゆらゆらと揺れる。思ったよりも動きが速い。光の檻に閉じ込めるのが手っ取り早いが、変換石の容量が足りない。

 獏は地面を蹴り、今度は一本の光の槍を作る。掌でくるりと回し、触手の攻撃を躱しながら幹を蹴り、槍で触手を一閃する。切断された触手は靄となり先は霧散するが、絶対量は減らない。

(憑いてる人間の体に悪夢を無理矢理戻すにしても、食べるための口がない……変換石で悪夢を掬うには大きさも足りない。どうやって食べるか――)

 落葉を蹴り、乱立する幹を蹴って飛んでくる触手を躱す。白花苧環と黒葉菫は攻撃の手を構えないので、触手は見向きもしない。或いは獏を追うだけで精一杯なのか。

 指輪の変換石は四つ合わせても許容量が小さく獏の力を受けるのは厳しい。首輪を外しているとは言え夜の街以上に力の制限の掛かる外では無茶ができない。触手の速度には対応できるが、数に対しては攻撃の手が心許ない。

 悪夢は首の無い少女の足を引き摺りながら、敏捷に動く獏に体を向ける。

「……!」

 変換石の大きさが足りずに悪夢を止める手が打てないのだとすぐに気付いた黒葉菫は何かできないかとやきもきしていたが、獏に体を向けて見えた少女の背中にハッとした。

 黒葉菫は背負っていた黒色海栗を下ろし、掌から銃を抜き取る。悪夢に獏以外が干渉できないなら、黒色海栗は抵抗もできなかったはずだ。だが彼女はその手から逃れた。何か干渉する術があるのだ。悪夢の少女の背中に、海栗の棘が刺さっているのが微かに見えた。夜目がきかないので目を凝らさなければ見えないが、それは確かな抵抗の跡だった。動き回る獏には体の正面を向けているので、背中の物には気付いていない。

「そいつはたぶん俺達と同じです! その体に受けた傷が悪夢に反映する! じゃないと――ウニが逃れられた説明がつかない!」

「!」

 黒葉菫は銃を構えるが、それよりも速く動いたのは白花苧環だった。両手に針を構え、獏に集中していた悪夢の背後から地面に突き立つ靄と共に少女の腕を切断した。

 靄は針の攻撃を透過するが、地面に落ちた腕と共に触手の靄が数本千切れる。

 触手の本数が減れば、小さな変換石でも戦える。

「罪の無い死体を切るのは趣味ではありませんが」

 抵抗する触手を避け、白花苧環はもう片腕にも針を引く。――浅い。悪夢の攻撃は避けるしかできない。受け流すことができない分、動きが大回りになってしまう。

「近付けないなら、俺が遣る」

 銃をがちんと撃ち鳴らし、浅い傷を抉るように腕を吹き飛ばした。

 獏もくるりと光の槍を回し、襲う触手を切断した。

「――決めた。口が無いなら――」

 幹を蹴り槍を一閃した後、ばらりと光を細かく分解する。光はそれぞれ小さな針となり、悪夢を囲う。


「――傷口から食べよう」


 残る触手に小さな光の針が突き立ち、触手の中で花開く。岩隠子の逆刺を参考にした。これで簡単には抜けず、地面に縫い止められる。

 黒い靄の間を縫うように地面を蹴り、少女の残っている肩と留めた触手に足を掛け、指輪の石に力を籠める。逃がさない。

「ぁ――」

 指輪の石が一つ砕け散った。他の石もがたがたと震えている。獏の力を受けて急激に劣化している。

「貸してあげます!」

 白花苧環は針の一本を獏に向かって投げた。貸そうという速度ではなかったが、獏は柄を掴んで受け取る。

「あわよくば僕に刺されと思って投げたでしょ」

 口の端を上げ、指輪よりはやや大きな変換石が末端に嵌った針を杖のように振る。石は光を帯び、そのまま少女の首の根に針を突き立てた。

「――いただきます」

 頭部を失った首の断面に齧り付くように、獏は口を寄せた。まるで人間を喰っているようだった。その吐き気を催すような姿を、白花苧環と黒葉菫は息を呑んで黙って見詰めた。

 地面に突き立つ黒い靄はじりじりと少女の体へ取り込まれ、獏に捕食される。体勢を維持できなくなった体はどしゃりと地面に崩れた。最後に獏は血の付いた口元を拭い、満足そうに顔を上げた。

「ああ……何て美味なんだろう」

 闇に落ちていく空から覗く月明かりが、恍惚と獏の金色の双眸を照らす。その瞳は呼吸を忘れてしまいそうなほど艶麗だった。

 光の消えた針を少女から抜き、獏は白花苧環の方を向いてにまりと笑った。

「この針を折ると君の腕も折れるの?」

「早くこの罪人に首輪を付けてください!」

 落葉を散らして地面を蹴り、白花苧環はもう一本の針で獏の首を裂こうとして空を掻く。獏は背を反らして避けた。視界から外れた手から針を弾き、宙に投げ出された針を白花苧環が先に取り戻す。その手で鋭利な先端を獏の首に突き付けた。

「油断も隙もない罪人ですね」

「冗談だよ」

 背を反らして倒れ込んだ姿勢のままの獏に、黒葉菫は急いで駆け寄り首輪を嵌めた。悪夢を食べた時に烙印に反応がなかったのは、白花苧環が鎮めた時の効果がまだ残っていたのだろう。二度も激痛を受けずに済んで良かった。

 首輪が嵌められたことを確認し、白花苧環も針を引いて仕舞う。糸を切られても何ともないが、体内生成した針は体の一部だ。折られると体が負傷する。他人に貸す物ではないが、あれは仕方がなかった。

「石が割れたけど、ウニさんは大丈夫?」

 地面に横たえられた黒い少女に駆け寄り、様子を窺う。

「石は体とは関係ないので大丈夫です。指輪も外部の物なので」

「良かった……傷を増やしたかと焦ったよ」

「悪夢はこれで消えたんですよね?」

 損傷の激しい少女の体に目を遣り、眉を寄せながら尋ねる。地面に落ちたまま、もう動く気配はない。

「うん。悪夢は食べたから、もう大丈夫。だけどあの子が手紙の差出人なのかはっきりわからないね……」

「悪夢が消えたなら、ここから出られますよね? 俺はウニを病院に連れて行きます」

「そうだね。僕も街に戻るよ」

 指輪を外し、彼女の指へ戻す。一つ割れてしまったが、この大きさなら替えもすぐに見つかるだろう。

「これ、返しておきます」

 預かっていた動物面を獏へ手渡す。黒葉菫は黒色海栗を抱き起こし、黒い傘をくるりと回した。今度こそ姿が消え、胸を撫で下ろした。

 すっかり闇が下りてしまった山は暗く、人間の目では墨を撒いたように遠くが黒く埋もれている。

「あの死体が差出人か特定しましょうか?」

「できるの?」

 少し表情が眠そうだが、白花苧環は明瞭な口調で言った。悪夢が消え、活動にも余裕が戻ったようだ。

「思念の残滓を辿れます。誰が差出人だったのかはオレも気になるので。手紙を貸してください」

 あの転がっていた頭部でも残滓を辿れただろうが、あの時は悪夢を捜していて差出人を特定する必要はないと思っていた。小屋の中であれが差出人かどうかを突き止めた所で、遣ることに変わりはなかった。

「頼りになるねぇ」

「口を縫いますよ」

 手紙を受け取り、白花苧環は少女の体へ歩み寄る。全身白いので、僅かな光でも視認が容易で見失うことがない。闇に溶け込んで見失う黒衣の獏はその後ろに付いて行き、跪く彼の背から覗き込んだ。

 手紙を翳しながら動かない白花苧環を、周囲に目を遣りながら待つ。

「……違いますね」

「え?」

「差出人ではないようです。思念が一致しません」

「ええ……」

 手紙を翳しながら立ち上がって歩き出すので、その後を追う。助けを求めていたのがこの少女ではないのなら、差出人はまだ生きているかもしれない。悪夢とは関係のない手紙だったという可能性もある。

 足元のよく見えない暗い斜面を慎重に滑るように下り、地蔵の体のあった道まで戻ってきた。明かりはないが、白い人肌はまだぼんやりと視認がしやすい。足元に目を遣ると、傾いた少女の首が長い髪の隙間から濁った目でこちらを見上げていた。暗闇の中で浮かび上がる首は、二人の足を止めるには充分だった。心臓が跳ね上がった。

「……さっきもこっちを見てましたか……?」

「それより、この首を最後に見たのって、もっと上の木の上じゃなかった……?」

 ぞわりと背筋に冷たいものが走るが、悪夢はもう消えたのだ。それは確かだ。

「悪夢が消滅する前に動かしたのかもね……」

「そう……ですね。服を掴まないでください」

「君が迷子にならないように」

「…………」

 尤もらしい答えだったので、白花苧環は口を噤んだ。この闇の中では獏の方が目がきく。

 また斜面を下り、その途中で白花苧環は足を止めた。彼の目にはあまりはっきりとは見えていないが、獏の目にははっきりと形が映る。獏が躓いた手だ。落葉に埋もれ、手だけが覗いている。

「これが差出人ですね」

「これは……生きてなさそうだけど……」

「助けを求めていたのなら、出してあげましょう」

「それはそうだね……」

 これは獏の善行なので、白花苧環は手を出さない。獏は落葉から覗く手を握り、力を籠めて引いた。

「!」

 想像よりもあまりに軽かったので、数歩踏鞴を踏んでしまう。掴んだ手は肘の辺りで千切れ、その先が無かった。

「え……?」

「他に近くに思念は感じません。体が何処かにあるとしても、距離があります。それを見つける頃にはもう残滓も辿れなくなってると思います」

「千切れ方を見るに、あの悪夢の仕業だよね……助けられなかったね、……誰も」

「…………」

 手を元の場所に置き、獏は動物面を被る。白い顔が黒い面に覆われ、更に視認が難しくなる。

「街に戻ろうか。マキさんも眠そうだし」

「眠くないです」

 もう一度何も見えない闇を見渡し、白い傘を開いてくるりと回した。

 同じ夜なのに疎らに灯る街灯の御陰で視界に光が差し、街に戻れたことに安堵した。誰もいない街に、張り詰めていた空気が和らぐ。

「なんだろうこの安心感と懐かしさ――、ちょっと! 何持って来てるの!?」

「は?」

 腕を伸ばして伸びをしているかと思えば突然叫び出すので、声に驚いてしまう。白い服を掴んで足元を指差すので、白花苧環も視線を落とした。

「…………」

 足首に何かが絡み付いていた。

「……髪?」

 長い髪が一房、緩く巻き付いている。悪夢に掴まれた方の足だ。

「暗かったので気付きませんでした。ゴミ箱に捨てておいてください」

「この街に捨てるの!?」

「嫌なら端にある崖に捨てればいいのでは?」

「ゴミ処理場じゃないよ、あそこ!」

「……煩いですね。元の場所に捨ててきますよ」

「不気味だから、捨てたらすぐ戻ってくるんだよ。僕は店に戻ってるね」

 呆れたように息を吐き、白花苧環は蹲んで絡み付く髪を解いて抓み上げる。触れることのできる只の人間の髪だ。ドアがまだ外れたままの店の中へ入っていく獏の背を見送り、じり、と爪先を動かす。足首の辺りに痛みが走る。掴まれて引かれた時だ。

(……折れてますね)

 弱味だけは握らせまいと涼しい顔をしていたが、じんわりと奥歯を噛んで眉を顰める。無事な方の足に体重を寄せ、白い傘を持ち上げた。

「――マキさん!」

 唐突に獏が顔を出すので表情を取り繕う暇がなく、咄嗟に傘で顔を隠した。傘に何かが当たって落ちる。

「それ、あげるね!」

 ゆっくりと傘を下ろすと、獏の姿は再び店の中へ消えていた。何を放ったのかと地面に目を落とす。透明な袋にスポンジのような物が入っていた。色は蜂蜜ケーキに似ている。これも菓子だろうと察した。

「…………」

 そこに『お見舞い』と書かれた紙が貼られていた。足が折れていることが露顕している。

(目敏いですね……)

 溜息を吐いて菓子を拾い、くるりと白い傘を回す。獏の首輪を外すことを忘れているが、後で黒葉菫が戻ってきて外すだろう。

 白花苧環も宵街に戻り、医者の所へ行くことにした。


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