23-動物園
霧の立ち籠める誰もいない街の中で、ぼんやりと明かりを漏らす店があった。煉瓦の街並みの中にぽっかりと口を開けるそこへ、白い傘を畳みながら白い少年は傍らに少女を連れて入っていく。
ドアの無い入口を潜り、少し色の違う床板を踏む。瓦落多の並ぶ棚に囲まれた狭い通路の奥には、木箱を積んで古いテーブルクロスを掛けた簡易な机が置かれている。その向こうには、革張りの古い椅子に黒い動物面を被った妖しい者が腰掛けている。
「連れて来ましたよ」
小学生ほどだろうか少女に椅子を勧めて、白花苧環は台所へ入っていく。
鵺に与えられた罰として、一度獏の善行を手伝うことになった白花苧環は、早く終わらせようと棚からティーカップを選ぶ。客人に対してはともかく、何故獏の分まで茶を淹れなければならないのかと、棚に並ぶ茶葉の缶に右へ左へ手を彷徨わせる。願い事の契約を刻印するための物らしいが、カップも茶葉も多過ぎる。
(指定はされてない……と言うことは、どれでもいいはず)
どれでも良いなら何故こんなに種類があるのかと問いたい。
悩む白花苧環は気にせず、獏はいつものように少女から願い事を聞く。
「あなたが獏ですか?」
「そうだよ。君の願い事は何かな?」
「皆と動物園に行きたいです」
「皆?」
「お父さんとお母さんは仕事が忙しいので、一緒に行きたいです」
「ああ……」
忙しくて遊びに連れて行ってもらえないから獏に頼みに来た、と言うことかと察する。
「お父さんとお母さんには言ってみた?」
「うん。お仕事が忙しいから行けないって。使用人に連れてってもらいなさいって」
「使用人……ね。それじゃ駄目なの? 何で動物園?」
「前に皆で行って楽しかったからです。皆と行きたいです」
「じゃあ仕事を休ませないといけないね」
「それは……」
てっきりすぐに頷くかと思ったが、予想外に言い淀む。仕事を休ませたくはないから親に強く言えないのかと納得した。
「じゃあ使用人と行く?」
「使用人は私のことが嫌いなので、嫌がると思います」
「そうなの? 嫌なことでも言われた?」
「言われてないけど、目を合わせてくれない気がする……」
裕福な家の子供のようだが、中身は複雑らしい。
「嫌がらなければ、お父さんとお母さんと一緒じゃなくてもいいの?」
「動物が見たい」
それが一番の目的らしい。獏は人差し指と親指で作った輪を少女に向ける。どうやらそれが本音のようだ。ここに来て一番、目が輝いている。
「どうぞ」
紅茶を淹れた白花苧環は少女の前にカップとシュガーポットを置き、獏の前にもカップを置いた。少女のカップの中の紅茶と明らかに色が違う。獏の方が物凄く色が濃い。獏は白花苧環を無言で見上げ、彼は目を合わさなかった。淹れるのを失敗したという感じでもない。故意だろう。獏は少女の前に置かれたシュガーポットを借りて砂糖を加えた。
「動物が見たいってだけの願いだったら、使用人と気まずいなら僕も行ってあげることはできるよ」
カップを抓んで暫く黒い紅茶を見下ろし、意を決して一口飲んだ。
「っ! ごほっ」
口の中に苦味と塩味が一気に流れ込んできた。色が濃ければ苦いだろうと砂糖を入れることを見越して既に塩を入れていたようだ。
「勿体ないので飲み干してくださいね」
「……君が飲む?」
「冗談言わないでください」
「随分と陰湿だね……」
「毒ではないんですから、可愛いものでしょう?」
何の話だろうかと少女が交互に見詰めるので、二人は一旦口を閉じる。警戒して紅茶を飲んでくれなければ意味がない。
獏は再びカップに口を付け、飲んだ振りをする。一口は飲んだのだから、もう良いだろう。
少女も紅茶に砂糖を入れ、ぐるぐると掻き混ぜる。
「新しい図鑑を買ってもらったから、動いてる所を見たくなって」
「皆で行くのが理想だけど、動物を見ることが一番の目的ってことだね」
「そうかもしれないです。一人じゃ行けないので」
「じゃあ連れて行ってあげようか。いきなり見知らぬ人が連れて行くのは心配かもしれないから、使用人も連れて行こう」
「嫌がらないかなぁ」
「ふふ。大丈夫だよ。僕と……そこの白いのは、君の友達ってことにしておこうか。その方が円滑に進みそうだからね」
少女は少し迷うようにカップを回したが、やがて一息に飲んだ。
「じゃあお願いします」
「わかった。願いの代価は、心の柔らかい所を少しだけ戴くね」
「心……? 痛いですか?」
「痛くないよ。その不安そうな顔を晴らす物を食べてあげる」
「……!」
白花苧環は数歩引いた所で壁に凭れながら終始遣り取りを聞いていたが、人間の願い事を叶える善行とは、甘言で誘い込んで捕らえる、まるで花が虫を誘うような行為だと思った。そのこと自体は悪いとは思わない。それが本心でも騙す言葉だったとしてもだ。その先に互いが幸せになれる良い物があるのなら、悪いことではない。
「じゃあ……お願いします」
「うん。任せて。それで……いつ行く?」
「明日! 冬休みだから大丈夫です」
「わかった。使用人と出掛けるってことは、ちゃんと家族に言っておくんだよ」
「はい!」
元気の良い返事だった。余程行きたかったのだろう。
「マキさん。送ってあげて」
「…………」
獏が立ち上がると、少女も立ち上がる。願い事の話は終わった。決行は明日だ。一度少女を家に帰す。だが白花苧環は壁に凭れたまま動かなかった。
「どうしたの?」
「……貴方に名前を呼ばれると反吐が出そうです」
「君への罰なんだから、返事はしてほしいけど。糸繰って言った方がいいの?」
「どちらでもいいです」
壁から背を離し、白花苧環は少女を促してドアの無い店から出る。我慢をする、というのも大変そうだ。
獏は二つのカップを台所へ運び、陰湿な紅茶を水に流した。こんな物、飲めるわけがない。一体何処に咲いていたらあんな性格になるのかと思う。元は人間ではない者が人の姿を与えられると普通の人間にはない力を持つが、身体的には普通の人間に近い。白花苧環の動きは人間にしては動きが良かった。戦い慣れていると言った方が良いのか。訓練するとああなるのか。
カップを洗っていると、白花苧環が戻ってきた。水の音を聞き、台所に顔を出す。
「明日まで暇なんですか?」
「そうだね」
「善行一つでも時間が掛かるんですね」
「もっと掛かる時もあるよ。手紙を読んで連れて来たんじゃないの?」
「読む必要ありますか? 全ての望まれた願いは叶えるべきです。それが善行です」
「人を殺してくれっていう願いを叶えても、善行なの?」
白花苧環は口を噤み黙考する。獏の善行に死人が出ていることに対する視察を頼まれた身としては、慎重に返答しなければならない。
「……相手が悪なら、悪は罰されるべきですが。貴方の言葉だけだと情報が少な過ぎます」
「そういう願い事があったからね」
「殺したんですか……?」
こくりと唾を呑む。悪は罰されるべきだが、罪人が悪を殺すのはどうなのだろうと考える。
「君はこの街の端のことは知ってる?」
「端?」
突然話題が変わり、すぐに頭が付いていけなかった。白花苧環はこの街のことをよく知らない。ただ罪人一人に対して自棄に広大な牢だとは思っている。
「いえ。何かあるんですか?」
「ここは蜃って人が作った街らしいんだけど、端は崖になっててね。その依頼者はそこから落ちたんだよ」
「崖……ですか」
人間が落ちれば助からない高さなのだろう。落ちたと、その言葉の先がないことがその依頼者の死を表わしていた。
「あまり良い物ではないですね」
誤って転落したなら、それで獏を責めることはできない。
「蜃が作った物なら、端の向こうは実体の無い蜃気楼なのかもしれませんね」
「蜃を知ってるの?」
「罪人なので詳しくは知りませんが、名前なら」
「罪人……?」
「そうですよ。随分前の話だそうですが。今は何処にいるのか知りません。オレは白なので」
カップを元の場所へ戻す獏の横で、シュガーポットと塩を棚に戻す。塩の容器を獏が一瞥したが、何も言わなかった。
「へぇ……。君は変転人になってから長いみたいだね」
「獣の言う長いの感覚と合ってるのかわかりませんが。オレはいつまで罪人と会話しないといけないんでしょうか」
「知りたかったことを知ってるのかと思ったんだけど、白も大変だね」
「…………」
白花苧環は白い睫毛を伏せ、台所を出る。何故罪人に労われているのかと、あまり良い気はしない。もう話すこともないだろう、二階の灰色海月の部屋を借りて明日まで待機する。
「――と言うわけで、天気はあんまり良くないけど、迎えに来たよ」
動物園へ行く当日、大きな家と庭を囲む塀の前で契約者の少女と合流し、金属の首輪を嵌めた獏は少女の後ろに控える使用人の女に軽く頭を下げた。
少女の両親には会っていない。少女の友人として同行することは少女を通して伝わっている。使用人は少女の言うように目を合わせないが、指で作った輪で覗いてみた所、両親のいない間に少女に怪我でもさせてしまってはという緊張から来るものだった。それとは別に妖しい動物面に警戒されているが、少女の友人だと言えば無下に追い払いはできない。
「これは願いを叶える行為なんですか?」
白花苧環は訝しげに獏に尋ねる。
「ただ付いて行くと言うだけで、何もしてないんですが」
「そういう時もあるよ。あんまりすることがない時は、その分代価も控え目だよ」
「そういうものですか」
「僕としては今回の願い事は気が乗らないけどね」
「貴方が罪人だからですか?」
「善行が嫌ってわけじゃなくて、動物園は人が多いでしょ? あんまり人前に出たくないんだよね」
「人が多いんですか? 動物園と言うのは」
「え!? 動物園知らないの?」
「動物の何かだと言うことは」
馬鹿にされたのだと思い、白花苧環は眉を顰めた。それを契約者の少女は不安そうに見上げる。獏は蹲んで少女と目線を合わせ微笑んだ。
「このお兄ちゃん、動物園知らないんだって」
「え……可哀想……」
同情の目で見上げられ、白花苧環は目を逸らした。知らなければ不味い物なのかもしれないと思い始める。
話しながら待っていると、一台の車が家の前に乗り付けた。黒くて長い高級車だ。家も庭も大きいので想像はしていたが、高級車で動物園に行くらしい。とても目立ちそうだ。
使用人の女は車のドアを開け、少女が乗り込む。出掛ける時はいつもこうなのだろう。慣れている。獏と白花苧環も乗り込むが、二人は車に乗るのは初めてだった。見るのは初めてではないので、どういう物なのかは知っている。車が走り出すと思いの外景色が速く流れるので硬直してしまった。
「……走るより速いですね」
「機械だしね」
「お菓子、あげます」
既にわくわくと興奮している少女にチョコレートを渡され、持っていても体温で溶けそうなので獏は口に入れた。白花苧環も暫くチョコレートを見下ろしていたが、やや躊躇いながらも口へ運んだ。
「何ですか? この甘い……とても甘い物は。溶けて無くなりますが……」
「このお兄ちゃん、チョコレート知らないんだって」
「可哀想……」
この遣り取りを何度聞かされなければならないのか。白花苧環は窓外に目を遣り聞き流すことにした。
「言葉は知ってます」
それだけは言っておく。
獏が少女の相手をしているので、白花苧環が喋らずとも問題はないだろう。獏は罪人ではあるが、普通に子供と話している。何か問題があればすぐに制裁するつもりだが。
運転手の男はともかく、傍に座る使用人の女も一言も喋らず人形のように座っている。少女の相手は獏に任せきりだ。
動物園に到着すると、運転手は入口の前に皆を下ろした後一人で駐車に行った。
少女は嬉しそうに跳ねながら入口へ向かい、使用人は人数分の入場料を支払う。獏と白花苧環の分も支払ってくれるらしい。
「白いお兄ちゃん。動物園は、動物がいっぱいいて、それを見る所です」
まだ動かない獏と白花苧環の許へ戻ってきた少女が説明をする。動物園を知らないことが気になるらしい。
「僕も中に入るのは初めてだね……」
こちらは少し浮かない顔をする。面で隠れているので表情は見えないが。
「話を聞く限り、見世物小屋のような物ですか」
「君は本当に嫌味だね」
入口で使用人が待つので、少女に付いて行く。
寒さの所為か予報でもあった通り雪がちらつくからか、想像よりは来園客が少ないようだった。少女はあれやこれやと動物の入れられた檻の間を走り回る。
「見世物ですね」
「見世物小屋も動物の展示はあったし、否定はしない」
「こういう動物は見る機会がないので、知識を得るには良い機会ですね」
「変転人の中に動物はいないの?」
「多くは植物か虫ですね。海月は珍しい部類です。特に水中に潜ってまで人の姿を与える物好きな獣は、あまりいないと思います」
「ふぅん」
ライオンの檻に張り付いて見る少女を見、辺りを見渡す。
「運転手、遅いね」
「迷ってるんじゃないですか?」
少女が走り出し、ゆっくりと追う。こう寒いと動物の動きも鈍い。
戻ってきて獏の袖を掴むので、少女と共に走る。猫もそうだが、子供には懐かれるのかと白花苧環も追う。まさか願い事を叶えてくれるのが罪を犯した者だとは夢にも思わないだろう。
「見てください! バクがいるの!」
「…………」
灰色海月がいたら何を言うか想像がつくが、檻の中に黒と白にくっきりと色が分かれたマレーバクがのっそりと四足で立っていた。
「獏がバクを見てるなんて滑稽ですね」
「君が言うと物凄い嫌味に聞こえるよ」
「見る側の気分はどうです?」
「いいわけないでしょ。君だって元は花なんだから、見られる側だったはずだよね」
「見られる……と言うより、見るしかできなかった、でしょうか」
根を張って動けないという意味なら、見られると同時に見るしかできない状況もわかるが、少し引っ掛かる言い方だった。
檻の中のバクがじっとマレーバクの面の獏を見詰めている。何か訴えているのか、そうだとしても動物の言葉はわからない。
「気配を薄めながら歩いてるようですが、その格好では相当目立ちますよ」
その話は終わりとばかりに白花苧環は話題を変えた。動物園は人が多いだろうと獏は気配を稀薄にしていたが、やはり昼間に黒い服だと目立ってしまう。白とは言えさすがに全身が白いと白花苧環も目立つが。
「目立ちたくないんだけどね……でもここでは皆、動物に夢中かな」
少女は次の檻に走っていく。
獏は檻の中をぐるりと見遣り、少なくとも檻を揺らして出せと叫ぶ動物がいないのなら、この中の生活にある程度は満足しているのだろうと思う。或いは諦観かと、自嘲するように口元を歪めた。
ぱたぱたと走り回っていた少女は、使用人に買ってもらったのだろう両手のソフトクリームを獏と白花苧環に差し出し、自分の分を取りに戻っていく。
「……何ですか? これ」
「食べ物だよ。食べてみるといい」
寒い中で何故冷たい氷菓子をと思いながら獏は一口口にする。やはり冷たい。
「っ!? 冷た……」
「ふふっ……ふ……」
「笑わないでください」
宵街に棲んでいるのだから食事は当然しているだろうが、菓子は食べる機会がないらしい。反応が面白いと獏は自分のことは棚に上げて笑う。
自分の分のソフトクリームを持って戻ってきた少女に、獏は早速報告する。
「このお兄ちゃん、ソフトクリーム食べたことないんだって」
「可哀想……」
「…………」
その報告に何の意味があるのかと、白花苧環は恐る恐るソフトクリームを舐める。今日はよく、溶ける甘い物を食べさせられる日だ。
「ね。僕の監視をしてみてどう? 意外とちゃんと善行してるでしょ」
ソフトクリームに齧り付きながら自信満々で言うので、白花苧環は舌打ちをしそうになった。
「それはまだわかりません。願い事はまだ終わってないので」
「頑固だなぁ」
「貴方の善行には死人が多いんですよ。疑われる行動をしている自覚を持ってください」
「たぶん理由は君と同じだと思うけどね」
「は?」
ソフトクリームの器のコーンを齧る獏に彼は眉を顰める。少女を見ると同じように器を齧っているので、器は食べる物なのだと理解する。理解はするが食べても良い物か逡巡した。
ぴょんぴょんと走り回る少女を追いながら、動物園を一周し堪能して入口に戻る。途中で運転手とも合流できたが、半分以上は使用人の女だけが付いて歩くだけだった。相当迷っていたのか。
使用人は無事に園内を一周しほっと一息吐いた。少女が転んで怪我をすることもなく、元気に帰ることができて安心する。
運転手は先に外へ飛び出して車を取りに行く。今回一番忙しいのは運転手のようだ。獏に届いた願い事だが、獏は殆ど何もしていない。ただ一緒に遊びに行っただけだ。遊んでいるだけにしか見えない善行に白花苧環は首を傾げたくなる。
少女は使用人に買ってもらったキリンのぬいぐるみを大事そうに抱いて車を待っている。契約者が満足しているなら、善行としては成功なのだろう。悪いことではないのなら、それで良い。
「これでオレも宵街に戻っていいと言うことですよね?」
「代価を貰ってからね」
「なら早く貰ってください」
「きゃあ!」
目的の高級車は来ず、代わりにワゴン車が目前を駆け抜け、使用人の女は尻餅を突いた。ころんとキリンのぬいぐるみが地面に転がる。
「何です?」
眉を顰めながら白花苧環は女に手を差し伸べる。
獏は指で作った輪をワゴン車へ向けた。
「誘拐……かな?」
少し目を離した隙に少女の姿は何処にもなく、ワゴン車のドアが走りながら閉まる音がする。裕福な家の子供を攫って金でも要求するのか。
白花苧環は女を起こした後すぐに地面を蹴った。
「あっ、ちょ……!」
間髪を入れない行動の速さに、獏も女を一瞥して一言残し後を追う。
「ここで待ってて!」
女の返事は聞こえないが、返事を待つ時間はない。白花苧環は人間の体に近いはずだが、普通の人間より足が速い。とは言え車の速さには追い着けない。獏は姿勢を低く地面を蹴り、跳ぶように走り白い背中を捉える。
「マキさんの速さじゃ追い着けない! 僕があの車から読んだ思念で、先回りして!」
「罪人が指図しないでください!」
後から追って来た獏に追い着かれるようなら、車には勝てないことはわかっている。車に乗った時にその速さは体験した。掌から白い傘を抜いて獏の腕を掴む。同時に傘を開いてくるりと回した。
交通量の少ない方へ向かおうとする車の前へ、道路の真ん中に降り立つ。幸い他の車や人はいない。傘を閉じてすぐに掌から抜いた針に持ち替える。
「え、何する――」
白花苧環は姿勢を地面近くまで低くし、向かってくる車に針を一閃した。四つのタイヤの先が刮ぎ取られる。
「あの速さですぐに止まるわけない!」
獏は白花苧環の腕を引いて道路の端へ跳んだ。その横をパンクした車が滑っていく。
「パンクしてても走る気だよ」
眉を顰めながら腕を解き、白花苧環はすぐに体勢を立て直した。この距離ならまだ間に合う。走り去る車を追い、片手で一閃、もう片手でもう一度姿勢を低く一閃した。一撃目で車の天板が飛び、二撃目で左右の後輪が切断された。こちらへ飛来する天板を獏は制限された力で無理矢理方向を曲げ、道路の端へ飛ばす。飛ばさなくても白花苧環なら避けたかもしれないが、咄嗟に手が動いた。
「何してるの!?」
「子供の座高は把握してます」
「そうじゃなくて!」
天板を切る時に、後部座席に共に乗っていたらしい二人の男が頭の上半分を切り取られ夥しい血を吐いていた。
「あの子のトラウマになる!」
後輪を失い走れなくなった車は蛇行しながら止まった。天井を失った車へ二人は駆け寄る。
後部座席に口元をガムテープで塞がれて泣く少女を獏はまずは抱き上げて車から離れた。白花苧環は少女を一瞥し、運転席へ向かう。
口のテープをゆっくりと外し、縄代わりに腕に巻かれたガムテープも引き剥がす。突然攫われた上に両隣の人間の頭部が半分吹き飛べばこうなるだろう、少女は泣き噦りながら獏の服を掴んだ。その背を優しく撫でてやる。
「うわああああん!」
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
撫でながら、運転席の縁に立つ白花苧環に目を遣る。今の攻撃は針ではなく糸だろうが、運転席には届かなかったようだ。もしくは届かせなかったか。無事な頭が座席の隙間から見える。
「悪事を働いた自覚はありますよね? 道理で合流が遅かったはずだ。仲間に連絡してたんですか?」
「なっ……何なんだお前……! く、くるっ……車を!」
片膝を突いて無事な顎に針を掛ける。鋭利な先端が首に向く。
「オレは、悪人は死んでいいと思ってます。何故こんなことを?」
「ひっ……!」
「……警察を呼んだみたいですね」
遠くでサイレンの音が聞こえる。こんな説明の難しい現場に長居はできない。
「命拾いしましたね」
白花苧環は針を引き、恐怖で硬直して動けない運転手を置いて少女の許へ駆けた。獏が面を外して少女に口付けている。こんな時に何をしてるんだと訝しげに眉を寄せた。
「貴方も警察に突き出しますよ」
「……これが僕の食事なの。杖が使えないと、直接食べるしかできない。代価は不安にさせる心って言ってたけど、こんな物見せられたらそんなことも言ってられない。目に焼き付いた凄惨な記憶を食べた」
「そうですか」
「どうやら誘拐するためにこの子の家の運転手になったみたいだね。君に文句も言いたいけど、まずはこの子を使用人の所まで連れ帰って」
白花苧環は針を仕舞って白い傘を抜く。開いてくるりと回し、車を待っていた動物園の出入口付近に移動した。人が集まっているかもしれないと、物陰に送った。だが警察はまだ到着していないようで、使用人の女がキリンのぬいぐるみを抱えて立っているだけだった。傘での移動は一瞬なので、警察よりも自然と早くなってしまう。
使用人の許へ少女を返すと、使用人は安心して膝を突いた。何事もなく動物園から出たのに、とんだ災難だった。だが無事に戻って来てくれて良かった。使用人は何度も二人に頭を下げた。
少女は攫われたことは覚えているが、目の前で人間の頭部が飛んだことはもう思い出せない。警察に話を聞かれても、ショックで記憶が混乱していると思われて終わりだろう。無理矢理あの現場は見せないはずだ。
獏は白花苧環を一瞥し、息を吐いた。悪人に対して容赦がなさすぎる。それは獏も同じで、灰色海月が傷付けられた時とよく似ている。だから責められはしない。
「……遣り過ぎだよ、君。僕には死人が多いなんて言っておきながら」
「悪人は仕方ないです」
けろりと悪怯れずに言う。成程これは監視役から白は外されるわけだと納得する。
「家まで送ってあげたい所だけど、警察も来るし撤収した方がいいかな」
色々と説明が面倒だ。獏は泣き止まない少女の頭を撫でる。
「あとは使用人さんに任せるね。動物園、楽しかった?」
面で隠れて口元しか見えないが微笑むと、少女は少しだけ泣き止んで頷いた。怖いことはあったが、その前に楽しいことがあったと思い出してほしい。
獏はまだ不安そうな使用人に向き直る。少々心配は残るが、少女を任せる。
「家まで帰れそうですか?」
「あ……はい。駐車場に……車もあるはずなので……。私も運転できますので……」
使用人は頭を下げ、獏は少女に手を振った。
白花苧環は白い傘を開いてくるりと回した。
サイレンの音は、止まっていた。
あの運転手が企んでいることは偶然に知った。そういう電話をしている所を耳にしてしまった。御両親がいない時に決行されるのが恐ろしくて、少女と出掛けることを避けたかった。
いざ決行されて周りに誰もいなくなり、少女と二人きりになった時、私なら最後まで遣り遂げられるのではないかと思ってしまった。
誰も見ていないのなら。
――その少女が、家に帰ることはなかった。




