22-視察
暗い煉瓦の街並みの中、仄かな街灯の明かりを受けて夜に紛れることなく、白い踵が石畳を打ち鳴らす。それは絡み付く霧を払い、明かりの点いた店を静かに見上げた。
細く白い指先でドアを引き、薄暗い店内へ足を踏み入れる。躊躇いのない足取りで棚に囲まれた奥の机へ、その向こうに座る黒い動物面を見下ろした。
見知らぬ人物を黙って見上げる動物面と暫く無言で見詰め合う。
「……君は?」
先に口を開いたのは動物面だった。
黒い動物面とは対比するように机の前に立った白い少年は胸に手を当てて片足を引き、大仰に頭を下げた。
「初めまして。白花苧環と言います」
「白……」
名前に冠された白の文字で、黒葉菫の言っていたことを思い出す。白はないかもしれないと言っていたが、これが視察とやらなのかもしれない。
「初めまして。僕は獏だよ」
顔を上げた白花苧環は華やかな花貌であるが、大人しそうな印象を受けた。やや大仰だが所作も声も落ち着いている。右目が長い前髪に覆われ隠れているが、邪魔ではないのだろうか。白は罪人を嫌うらしいが、今の所は敵意などは感じなかった。同じ色でも性格は様々なはずだ。まだ油断はできないが、第一印象では悪い印象はない。
「以前滞っていた手紙の回収を手伝いましたが、今回は視察を頼まれたので来ました。予定が混んでいたので遅くなりましたが」
「ああ、先に回収してくれたっていう人だね。あの時はありがとう」
「いえ、罪人に言われる礼はありませんので」
白は微笑むが、棘のある言い方だった。こっちが本性かと、獏も微笑んで目を細める。
知らない声を聞きつけた灰色海月も、台所からそっと様子を窺う。
「視察って言うのは? 僕はどうしてればいいのかな?」
「まずはこの店の中を見させてもらうので、大人しく座ってくれていれば良いです」
「そう? じゃあゆっくり見ていってね」
店なのだから、見られて困る物はない。二階にも怪しい物なんてない。この中を見るだけが視察なら、楽なものだった。
「頼まれたって言ってたけど、鵺に頼まれたの?」
「いえ。違います」
端から棚の間を見ていく白花苧環に声を掛けてみるが、彼はもう獏の方は見ない。てっきりまた鵺の差し金だと思ったが、違うらしい。
視察だけなら仕置きもないだろう。好きに見回らせておく。
「猫……がいるんですね」
暗い棚の間から出てきた黒猫に場所を譲りながら目で追う。黒猫は白花苧環を一瞥だけして、獏の方へ駆けて行った。
「うん。飼うのを駄目とは言われてない」
「外から連れて来たんですか?」
「迷い込んだんだと思うけど」
「では外に帰してあげるのが道理ですね」
「首輪を付けてなかったし、野良猫だよ」
「望んで来たわけではないなら、帰すべきです」
「こんなに懐いてるのに?」
黒猫は机の上に跳び乗り、獏に撫でられている。嫌がる素振りはない。
「懐いてるかどうかの問題ではないです。猫は言葉が話せませんからね。外に帰りたくても何も言えない」
「君はこの子が外に帰りたいと思ってると思うの? 言葉がわからないのに?」
「話の通じない人ですね」
棚を見回っていた白花苧環は通路に出、黒猫を撫でる獏を感情の籠もらない緑眼で見据えた。
「これだから罪人は」
通路を進みながら白花苧環は両手を合わせて握るように引く。両手に細長いアイスピックのような物を抜いた。
その針を構え、直ぐ様床を蹴る。話が通じないのはどちらだと、獏は黒猫を持ち上げ、台所から様子を窺う灰色海月に放った。自身も直後に床を蹴る。机が静かに真っ二つになった。
「店の中で暴れないでくれる!?」
針を振っているが、断面は針による物ではなかった。それよりも滑らかな切り口だ。獏は目を凝らしながらも棚の上へ跳び乗り、出口を目指す。
「罪人が指図しないでください」
獏の行動を読み、白花苧環は先にドアへ走る。
「君は視察に来たんじゃないの?」
懐から杖を抜き、向かってくる白花苧環の針にぶつける。杖は物理的に殴るための物ではないが、狭い店内ではそうも言っていられない。店の破壊は最小限にしたい。
「急に暴れて、君の方が悪者みたいだね」
「ほざくな罪人!」
息を吐く暇もない二本の針の迫撃を杖で受けつつ、力を籠める。杖の先の目立つ透明な変換石が光り、白花苧環は一旦距離を取った。力を籠めると変換石が光り攻撃の瞬間がわかってしまうのは難点だが、何が起こるかは相手にはわからないので警戒させることはできる。
杖を振り、光の矢が彼を襲う。白花苧環は瞬時に蹲み、針の一本を一閃した。何かがきらりと光り、床板が剥がれて持ち上がる。彼に当たるはずだった矢は床板に防がれ、残りの矢は背後の壁とドアに刺さった。
床板は立てたまま蹴り飛ばし、獏は杖に力を籠めて飛んできた板を割る。
「っ……!」
割れた板の陰から床に張り付くように姿勢を低く、白花苧環は獏の足を払う。そのまま腕を掴んで床へ落とした。
腰を打つ瞬間、すぐには四肢を動かせない。白花苧環は獏に跨り、針を逆手に持ち替えて杖を握る黒い腕に突き立てた。
「――っ、あ……っ!」
面の下の表情はわからないが、口元は歪み、苦しそうな声が上がる。
「良い声ですね」
「ぐっ……」
腕から赤く濡れた針を抜き、もう一度構える。
刺された腕が熱く痺れる。針に毒が仕込まれている。
「やめてください!」
視察だとは言うが、どう見ても見るだけではない。不当に危害を加えられているようにしか見えず、灰色海月も黒猫を置いて触手を繰り出した。この距離なら、確実に届く。
「待っ……」
獏の掠れた制止の声は届かず、触手は針に切り裂かれた。細い触手はバラバラと落ち、灰色海月の両手首がずるりと床に落ちた。
「柔い」
「――――っ!」
夥しい血が溢れ、膝を突いて奥歯を噛み声を押し殺した。叫べば傷に響く。海月の頃にはなかった色に、頭が真っ白になった。
獏は身を捻って白花苧環を蹴り上げ、無事な手で杖を拾う。
「僕には君の方が罪人に見えるよ」
白花苧環は飛び退いて棚に手を突き体勢を立て直し、光る杖に床を蹴って再び距離を取った後、針を構えて距離を詰めた。店を壊したくないのか最小限の力しか使わないことがわかったので、杖の力を避けられると確信した。加えてこの獏は、この街の中で力を制限されている。譬え力が強かったとしても制限されていては意味がない。
「不快な人だ」
白花苧環は眉を歪め、棚を蹴る。
杖の光は真っ直ぐに彼に向けられた。
「死んでも文句言わないでよ」
視界の中で、変換石に大きな罅が入るのが見えた。砕ける、そう思った。
通路を全て覆う光の砲撃が一直線に伸び、ドアを突き破って向かいの建物に穴を空けた。
「っは……、は…………?」
咄嗟に棚の間に逃げ込んだ白花苧環は、床に手を突きながら呆然とした。力の制限があるはずなのに、なのにこれだけの力を放出するなんて有り得ない。当たれば只では済まなかった。
本気で殺そうとした。針を構え直し、棚の陰から獏の様子を窺う。下げた杖の先には、割れた変換石があった。あの状態では、もう力は使えない。
あまりに危険だと彼は思った。この街の中でのうのうと野放しにしておいて良い者ではない。化物だと思った。
「何とかしないと……」
変換石が割れている今なら勝てる。そう確信し、白花苧環は棚から通路へ飛び出した。もう一度動きを奪う。
無事な腕を狙って針を突き出し、腕を掠る。避けられた。足の動きを止めなければ駄目だ。
割れた杖が振られる。それは近過ぎて死角で光り、気付かなかった。同じように白花苧環の白い腕から血が散った。
「!?」
杖が下げられ、くるりと手元で回す。何をしようとしているのか、白花苧環は瞬時に察した。受けた傷をそのまま返そうとしている。杖の位置から言って次はおそらく手首だ。針を持つ手が落とされる。呼吸が浅くなり、ぞわりと寒気が走った。変換石が割れた状態で力を使うなんて、聞いたことがない。こいつには、媒介が必要ないのか。
「ぁ……」
近過ぎて、すぐには距離を取れなかった。
手が――と思った瞬間、衝撃が走ったのは頭だった。頭に重い一撃が落ち、獏を巻き込んで床に倒れた。視界の隅で獏の手が踏まれ、杖が蹴り飛ばされる。
獏の面の鼻にぶつけた顔を押さえながら顔を上げるとまたすぐに、しゃん、と白い頭を押さえ付けられた。
「心配して見に来てみれば、いきなり目の前でドアを吹き飛ばすの、やめてくれない?」
「それはオレじゃなくて、獏が……」
ごり、と白い頭を押さえる力が強くなる。
「話は後で聞くわ。二人共、正座して待ってなさい。その間小競り合いでもしたら、その馬鹿な頭吹き飛ばすわよ」
「!」
「袋と氷借りるわよ、獏。返さないけど」
頭が軽くなり、白花苧環は恐る恐る頭を上げる。台所の方へ行く幼い少女の姿が目に入った。
「鵺……」
杖を置いて、倒れて蒼白になっている灰色海月の手首に処置を施す。その後ろ姿を伏せながら見る。下敷きになっている獏は動かないが、面の所為で何処を見ているのかわからない。
鵺は氷を入れた袋の中に、切断された両手を入れて結んだ袋を放り込んで持ち、ぐったりとする灰色海月を抱き上げた。小柄な少女なので灰色海月の足を引き摺ってしまうが、木履の足で杖を弾いて浮かせて乗る。
「マキちゃん。獏が本気だったらお前は死んでるからね」
最後に壊れた獏の杖を拾い、鵺は姿を消した。
「…………」
白花苧環は漸く身を起こし、四つん這いのまま獏を見下ろす。杖がなければ完全に力は使えないはずだが、予備を持っている可能性もある。……いや、予備があれば割れた杖をそのまま使いはしない。面で表情を窺うことができず、不気味だった。
「いつまで乗ってるの」
「!」
声に反射的に飛び退いて距離を取る。針を構えるが、鵺に釘を刺された手前、手は出せない。獏が何かしてきたら、正当防衛だと言い張れるのに。
獏は負傷した腕を押さえて起き上がり、その場に正座した。棚に凭れ掛かり、腕を重そうに床に引き摺っている。
「正座、しないの?」
「…………」
獏に言われて座るのは癪だが、充分に距離を取った所で白花苧環は正座をした。鵺が言ったことが気になっていた。本気だったら死んでいたと。あれで本気ではなかったと言うのか……?
針を仕舞う気にはなれず、膝の上で針を握ったまま俯いた。
時間の経過がない街なので時間の感覚が狂うが、互いに無言のまま幾らかが過ぎた頃、木履の場違いに軽やかな音が近付いてきた。
「大人しく正座してたわね。通路に邪魔だから並んで座っててほしかったけど」
手前にいた白花苧環を杖で押し、獏の方へ移動させる。
「いっ……」
「何? 痺れたの? しょうがないわね」
杖の先で脚をぐりぐりと突き、白花苧環は床に手を突いた。
「ついでにその武器も仕舞っておきなさい」
「はい……」
言われた通りに針を掌に仕舞う。
「今回の件は想像がつくから、獏のお咎めは控え目にしておくわ」
「は!?」
「お前は黙ってなさい」
白花苧環の横を邪魔そうに抜け、面の顔を動かさず座る獏の前に立つ。
「まず言っておくわ。クラゲちゃんは暫く医者の所にいさせる。安心なさい、手はくっつけられるそうよ」
「!」
漸く獏は顔を上げた。一番の懸念はそれだった。獏が後手に押されたから、灰色海月は前に出てしまった。庇ったために落とされた手首が二度と戻らないと言われたら、この白花苧環を殺していたかもしれない。
「良かった……」
「それとお前の杖もついでに修理に出したわ。ばかすか簡単に割るんじゃないわよ」
それに関しては、獏は白花苧環を一瞥する。自分に責任はないと獏は思っている。
鵺は溜息を吐き、白花苧環に向き直った。
「マキちゃんは……全く、何で白を単身で送り込むかしらね……。私は詳しく聞いてないけど、何しにここに来たの? 獏を殺せとでも言われた?」
「……視察、です」
「お前が見ると、こうなるわけ?」
「猫がいて」
「猫?」
台所の方から、黒い塊が覗いていることに気付いた。先程は灰色海月に集中していて気付かなかった。物陰にでも隠れていたのだろう。
「あら可愛い。この子どうしたの?」
狭い通路を跳び、黒猫の前に蹲む。近付いてはこなかったが、逃げもしなかった。
「街に迷い込んでた野良猫」
「ふぅん。まあそういうこともあるわよね。で、それで何でこんなことに?」
「獏がその猫を外に帰さないので、頭に来ました」
「沸点低いわねぇ。お前はもう少し我慢を覚えなさい」
「その猫が、帰りたがってると思ったので」
言い訳をする子供のようでもあったが、それが白い彼の性格なのだろう。
「そう……。猫は動物だから、嫌だったら嫌がるわよ。どうしたいかって言うより、嫌がってないなら獏が主人でもいいんじゃない?」
「は……この猫の気持ちを無視するんですか?」
「お前はこの猫じゃない」
「!」
「動物で癒されるんなら、私は良いと思うけど。悪い気持ちを流してくれるならね」
「…………」
白花苧環は不服そうに俯く。その白い頭に鵺はこんこんと杖を当てる。頭上でしゃんしゃんと鈴が鳴って喧しかった。
「見る限り、獏は店を壊さないように庇って対抗してたわね。最後はぶっ放したみたいだけど。それは当然気付いてたかしら?」
「はい」
「それ幸いと攻撃したでしょ。獏が本気出したら、お前なんて即死よ」
「随分買ってるんですね。人間に飼われてた奴なんでしょう?」
「っ!」
獏の手が白花苧環に伸び、鋭利な殺気に彼は掌から針を抜く。その二人の間に鵺は木履を鳴らし、杖で獏の首を突いた。
「うっ……」
「落ち着きなさい」
外套の襟に隠れる烙印に抑制の力を注ぐ。獏は床に手を突き、背を丸めた。
「何処で聞いたか知らないけど、滅多なことは言うもんじゃないわよ。死にたいの?」
「杖もないのに……」
「ああ、こいつはちょっと特殊なのよ。一応ここでは抑制してあるけど、杖無しでも力を使えるはずだわ」
獏は面の奥で目を見開いた。元々杖を持たずに力を使っていたことは誰にも話していなかったのに、鵺はそれを知っている。口が軽いようには見えなかったが黒葉菫が話してしまったのか、他に過去を知る者がいるのか獏には心当たりがない。
「は……? そんなまさか……」
「私が嘘を言ってるとでも?」
蹲んで目を合わせ、鵺は白花苧環の柔らかい首を掴む。小さな子供の手なのに、振り解けなかった。
「いえ……」
「話を聞く限り、お前が一方的に悪いわね。よってお前に罰を与えるわ」
「なっ……」
「本当はクラゲちゃんがいない間の監視役代理をやってもらいたいんだけど、またこんなことになったら堪らないから。一度だけでいいわ。仲良くしろとは言わないから、我慢することを覚えなさい」
「こいつの善行を手伝えってことですか!? 冗談じゃない!」
「自分で蒔いた種なんだから、自分で始末なさい。お前は関係のないクラゲちゃんの手を切り落としたのよ? そこはちゃんと反省して」
「ぐっ……。あのクラゲ……何であんな柔い物を使ってるんですか。あれではどうやってもすぐに千切れる」
「そう思うなら、力の使い方を教えてあげなさい。スミレちゃんにも頼んだんだけど、あいつはぼーっとしてて駄目だったわ。腕は良いんだけど」
白い首から手を離し、鵺は再び獏に向き直る。全く動かないが、こちらも脚が痺れているのかもしれない。
「獏。とりあえず一度でいいわ。この白いのと善行してきて。力はあるから、体力仕事もできるはずよ。ついでに言うとこいつは糸繰とも呼ばれてる。針の他に糸を使うわ」
「ばらさないでください」
「今度何かしたら、お前にも烙印捺すわよ」
「!」
鵺にその権限はないはずだが、執行人という立場から許可を得ることは可能かもしれないと白花苧環は戦慄した。自分が嫌う悪い罪人に自分も堕ちるなんて冗談ではない。
「余計な仕事を増やさないでちょうだい。お前を嗾けた奴にも言っておくわ。店の壊れた物は――机とドアはこっちで支給品を用意するわ。床は面倒だからマキちゃんが直しておきなさい」
「は!? 何でオレが!」
「獏の腕、刺したわよね? 獣だから効きは悪いけど、毒が抜けるまで時間が掛かる。もう罰は始まってるのよ」
「…………」
「私はクラゲちゃんにも言ってくるから、後はそっちで上手くやってちょうだい。罰が終わるまで宵街に戻ってきちゃ駄目よ」
「……はい」
渋々返事をする。罪人以外には強く出ない。不満そうな顔だが聞き分けは良い。
鵺はまだ少し二人を見詰めた後、溜息を吐いて店を出た。吹き飛ばされたドアを一瞥し、霧に姿を消す。
暫くはぽっかりと空いた出入口を見詰め、鵺が戻ってこないことを確認し先に白花苧環が立ち上がった。
「クラゲのことだけは謝ります。針金のように硬い物だと思って、弾くだけのつもりでした」
「……そう」
獏も床に手を突き、ゆっくりと立ち上がった。ふらふらと割れた机の向こうの無事な椅子へ向かう。あれは絶対に脚が痺れている、と白花苧環は思った。
古い椅子を軋ませながら座るのを見届け、白花苧環は割れた床板に目を落としてブーツの踵で踏む。押し込んでも穴に嵌りそうになかった。
「こんな所ですることもないので、視察の続きをしてきます。ありますよね? 二階」
獏が無言で指差す方向を覗き込むと、階段があった。薄暗い二階を見上げ、一歩階段へ足を上げると、獏は出入口の虚空を見詰めたまま徐ろに口を開いた。
「人間に飼われてたって、誰から聞いたの?」
階段に一歩乗せたまま白花苧環は無感動な目を向ける。人間に飼われるくらいなのだから、人間にすら及ばない弱い生き物なのだと思っていた。
「白は罪人から遠ざけられるものなので、詳細は知りません。ただ小耳に挟んだだけです。――見世物小屋にいたと」
「そう……知ってる人がいるんだね」
それは獏が罪を犯す前の話なのだが、誰にも話していないのにそこまで知れているとは獏は思っていなかった。一番知られたくない頃だった。
「他に誰かに話したの?」
「……いえ。罪人の話なんて皆、興味ないので」
皆、というのはこの場合、同じ白色の仲間のことだ。罪人を嫌う白は、好んで罪人の話はしない。
「もういいですか? 上に行っても」
「あんまり荒らさないでね。片付けが面倒だから」
「それは貴方次第です」
止まっていた足を動かし、白花苧環は階段を上がった。
獏はだらんと両手を下げ、椅子に凭れて天井を仰いだ。
階段を上がりきった白花苧環は短い廊下を奥まで目を遣り、ドアの数を確認する。二階は三部屋あるようだ。手前のドアから開けていく。
二つのドアの中は似た内装だった。ベッドと机と椅子。後は棚がある。と言っても殆ど空だ。おそらくそれぞれ獏と灰色海月の部屋なのだろう。殺風景で物が少ないので、見る物もあまりない。
奥にあったドアの中は逆に物が詰まり過ぎていて、開けた途端に硬直してしまった。見た所、階下の店の棚に並べてある物と同じ瓦落多の類だ。この物を全て調べるとなると何日掛かるかわからない。廊下に一時的に出すにしても、廊下だけでは全く足りない。とりあえずは中に入り、見える範囲の物に目を通しておく。用途はわからないが、怪しいと言えば全て怪しくも見えるし、只の瓦落多だと言えばゴミにしか見えない。
(知識が足りないのか……)
階下の瓦落多も理解できなかったが、堂々と店を構えているのだから、怪しくはないのだろう。鵺も階下の棚くらいは目を通しているはずだ。ならば階下の物と似た物なら怪しくないはずだ。
「あっ」
少し手を触れただけだったが、不安定な物が床に落ちた。幸い割れ物ではなかったので、拾って元に戻しておく。
(これは……玩具?)
鳥の形をしているが、どういう物なのかはわからなかった。翼の先が欠けている。
見える部分は一通り見て、足元にあった木箱も開けてみる。中には工具が入っていた。
(鋸もある)
床の修理に使えそうだと、立て掛けてあった只の板も一枚持ち上げる。丈夫で厚みがあり重かったが、持てない重さではない。
この場所がどういった物なのかも白花苧環は知らないが、罪人を閉じ込める牢の一部を破壊してしまったことは反省すべきなのかもしれない。悪いのは罪人だけなのだ。罪人が生活している場所の修理だと思うから腹が立つのだ。
階段に板をぶつけながら下りると、獏はまだ椅子に座っていた。板で突き飛ばしてやろうかと思ったが、そんなことでも烙印を捺されるのは御免だ。獏は無視し、棚に板を立て掛ける。
「手当てしなくてもいいんですか?」
鋸で板を切りながら、世間話でもするように白花苧環は言葉を投げた。仲良くなろうとかそういうつもりは一切ない。ただ思ったことを口にしているだけだ。
獏は動物面の顔を天井に向けたまま掠れた声で答える。
「毒を外に出してから」
「自力で解毒してるんですか? 化物ですね」
「解毒剤があるなら貰うけど」
「罪人に渡す解毒剤はないです」
「視察は終わったの?」
突然話題を変える。解毒剤が貰えないならもうその話をする必要はないということだろう。
割れた板の断面を真っ直ぐに揃え、ブーツで邪魔な破片を蹴る。
「二階の物置……ですか? あそこは物が多過ぎます」
「だろうね。店に置けない分を溜めてる倉庫みたいな物だから。僕もあそこの全部を把握してるわけじゃない」
「貴方が置いた物ではないんですか?」
「いや、元々あった物だよ。ぱっと見だけど気に入って、この店に棲むことを決めた」
「そうなんですか。壊すことを避けてたので、思い入れのある物なのかと思ってました」
「そうと思ってよくあれだけ暴れたね……何でそこまで嫌うの?」
板を切る手が一瞬ふと止まってしまうが、ゆっくりと再び歯を押し込む。
「悪い者を嫌うのはいけないことですか? 悪いから嫌いなんです」
「そこに君の意志はあるのかなって思っただけだよ」
「ありますよ」
「健気だね。花の頃に誰かに踏み躙られた?」
「踏まれるような所には咲いてません」
床に空いた穴に、大きさを合わせて切った板を嵌め込む。少し大きかったのか入りきらず足でがんがんと踏み込むが、やはり入らないのでまた鋸を当てた。
獏もそろそろ解毒ができたのか体を起こし、腕の傷の様子を確認している。
「上に行って手当てするから、君は適当にしてて。今日は願い事も聞かない」
「は? 善行に休みはないでしょう?」
「こんな状態じゃできないでしょ」
「…………」
一度だけとは言え、善行が終わらなければ白花苧環は宵街に戻れない。だが確かに言う通り、善行を行う本人が負傷していればそれは難しい。瀕死でも這って善行すれば良いというのが彼の本音だったが、修理をしている内は街の外に手紙を取りにも行けない。
黙る白花苧環を一瞥し、獏は二階の寝室へ上がった。
誰もいなくなった空白の椅子を見詰めていると、黒猫がとんと跳び乗った。通路に白花苧環がいる所為かもしれないが、黒猫は空いた出入口を見向きもしない。
「外に出たくないんですか?」
鋸を置いて黒猫に近付くと、顔を上げて白花苧環をじっと見詰めた後、すぐに椅子から飛び降りて台所へ戻っていった。
「……嫌われたみたいですね」
散々壊して怖がらせてしまったのだろう。小さな生き物には人間の大きさは警戒されて当然だ。
作業に戻ろうとし、ふと足を止めて考える。
(釘は……ある方がいいか)
倉庫とやらにあった工具入れの中には釘はなかったはずだ。何処かにあるだろうかと仕方なく獏に訊くことにする。仕方がなさ過ぎて眉を顰める。
黒猫が台所から覗いていたが構わず、二階へ行く。ベッドのあった部屋のどちらかが獏の部屋のはずだ。まさか倉庫で手当てはしないだろう。
適当に選んだドアを開けて中を確認すると、ベッドの上に獏がいた。
「!?」
腕に包帯を巻いていた獏は驚いた顔をして慌ててベッドに突っ伏した。
「……何なんですか?」
腕の傷を見るために視界の限られる面を外して手当てしていたようだが、これは顔を見られたくなかったのかと察する。メドゥーサではあるまいし、見た所で石にもならない顔なんてどうでも良いのだが。
「釘はありますか?」
「…………」
「…………」
顔を上げようとしないので、白花苧環は苛ついてきた。怪我をさせなければ、触れてはいけないとは言われていない。伏せる黒い頭を鷲掴んだ。
「ちょっと……!」
無理に顔を上げさせる。ベッドに伏せられていては声が聞こえない。獏の負傷した腕は力を入れるには不便なはずだ。抵抗されても勝てる。
「釘は? ありますか?」
金色の双眸と目が合う。獏は腕を動かさなかったが、代わりに脚を振り上げてきた。顔を狙って突き出される足を、床を蹴って躱して距離を取る。
「倉庫になかったら、ない」
ふいと顔を逸らし、手探りで面に手を遣る。届いていないが。
「そうですか。では探してみます」
踵を返して部屋を出ようとし、ふと止まって振り返る。
「罪人が嫌がる姿を見るのは気分がいいです」
「最悪な性格だね。ハズレだと言われるのもわかるよ」
「……。見られたくないんですね、顔。覚えておきます」
「…………」
「見世物にされそうな顔だ」
「……最悪の嫌味だよ」
嫌がる姿に満足したのか、白花苧環は可笑しそうにくすくすと笑いながら部屋を出て行った。
こんな奴と一度きりとは言え共に善行に当たらなければいけないのかと、二人は顔を顰めた。




