19-星
誰もいない静かな街の店内で、灰色被りは灰色のロングスカートを抓み上げ、くるりと回って見せた。
「あっ……」
少し踏鞴を踏んでしまい、見ていた獏に支えられる。
「体が鈍ってます」
「仕方ないね。ゆっくり慣らしていこう」
誰も来ない店の二階で体を動かし、灰色海月は怪我の完治を喜ぶ。随分と長い間、獏の監視役を休んでいた。ベッドに横になるばかりだったので、体がまだ少し重い。これは体重が増えたわけではない。時間の止まっているこの街の中で体重が増えるはずがない。
「御世話を掛けてしまいました。ありがとうございます」
「気にしないでよ。いつも頼ってるのは僕の方なんだから」
深々と頭を下げる灰色海月に微笑みかけていると、ノックの音が響いた。
「まだいたんですか? スミレさん」
「まだ完治したことを知らないからね」
ドアを開けると、至極色の青年が目を瞬いてベッドから立ち上がっている灰色海月を見詰めた。そのまま獏へ視線を戻す。
「……治りました?」
「うん。スミレさんも色々ありがとう」
「あー……依頼者を連れてきてしまったんですけど」
「それじゃあ下に下りるよ。クラゲさんはまだ本調子じゃないし、今日はまだよろしくね」
「はい、わかりました」
獏が階段を下りると、灰色海月も付いて行く。黒葉菫の監視をする気だ。
階下の椅子にはちょこんと小柄な少年が座っていた。未就学児にも見えたが、その願い事は受けないと黒葉菫に言ってある。ぎりぎりの年齢なのだろう。
少年は大きな瞳に期待と不安を湛え、一番妙だと思った動物面を被る人物に視線を送った。
獏は古い椅子に座り、灰色海月はその傍らに立つ。今日はまだ黒葉菫に任せるとのことで、願い事の刻印の飲み物も彼に任せる。
「願い事を叶える獏って、本当にいますか?」
「いるよ。僕が獏だからね」
少年は身を乗り出して獏の面を凝視した。
「動物みたいなのが出てくると思ってました」
「ふふ。それは」
「動物園にいるバク科バク属のマレーバクのことですね。あれは眷属です」
「眷属じゃないよ」
獏の言葉を遮って灰色海月が話し出すので、やんわりと制する。その話を広げても何も出てこない。久し振りの依頼者との対面に、彼女も気合いが入っているのだろう。
「変身するんですか?」
「しないね」
不思議そうに質問をしてくる少年もとりあえず一度制する。
「君の願い事を聞こうかな」
今思い出したとばかりに少年はハッと姿勢を正した。願い事を叶えてもらうために獏に手紙を出したのだ。
「星が欲しいです!」
「星?」
面の向こうで獏は目を瞬き、小首を傾ぐ。星とは何かの比喩なのか、獏の知らない何かの名称なのか。一言ではすぐに思い浮かぶ物がなかった。
「ここからは見えなかったけど、空に浮いてるぴかぴか光ってるのが星です」
漸くぴんとくる物があったが、もう一度目を瞬く。天井を見上げ、あの星かと夜空を思い浮かべる。この街では月は見えるが、星は無い。見えないのではなく、おそらく存在しない。
「随分ロマンチシストな願い事が来たね」
「叶えられますか?」
期待と不安を混ぜた双眸で獏を見詰める。やや期待が勝っている。この街には瞬きの一瞬の間に辿り着いたのだから、不思議な力の存在は認めただろう。その力で遠い星にも手が伸ばせると。
「うん……どうしようかな? 幾つか質問してもいい?」
「うん!」
元気な返事に、獏は微笑みながら質問を纏める。
「じゃあまず、君が思う星って、どんな物?」
「えっ? えっと……ぴかぴか光ってる」
「じゃあね、これに描けるかな?」
獏は紙切れと鉛筆を机上に置き、少年に促した。
「上手く描けるかなぁ」
「大丈夫だよ。芸術作品を求めてるわけじゃないからね」
少年は黙々と紙切れに向かい、拙い線で星を描く。獏は頬杖を突きながら、微笑ましげに見守っている。
灰色海月も興味深そうに覗き込んだ。海の中にいた海月は空の星など気にしたことがなかったが、海の月としては星という物に興味はある。
「できた!」
「成程」
五つの棘が生えているよくある典型的な星形のマークが描かれていた。この少年が天体的な興味で言っているのか空想的な憧憬で言っているのか確かめるために描かせたのだが、どうやら後者のようだ。まだ学校ではそういうことは習っていないのだろう。この子供ならではの微笑ましい勘違いを正してやるべきか、このまま夢を見させてやるかどちらが良いのか考える。
「少し残念な話をしなくちゃいけないんだけどね」
「叶えられないですか……?」
少年はとても悲しそうな顔をした。
「光はね、とても速いから近くにあるとすぐ見えるんだけど、星はとても遠い所にあるから、殆どが君が生まれるよりずっと前に光を発した物が今の君に見えてるんだよ。一番近いケンタウルス座アルファ星でも四年と少し前の光だね。だからね、今空に光って見える星は、今現在はもう空の向こうには存在してないかもしれないんだ」
「え……えっと……」
「何が言いたいかって言うと、君が手に入れたい星は、特定のどれかなのかな?」
「とくてい……」
「どの星でもいいの?」
「うーん……どれでもいい! と思う……」
「それじゃあ、星ってどうやって手に取れると思う?」
「えっ」
少年は眉間に皺を寄せて、机上に置かれた珈琲を見詰めながら唸った。そこまでは考えていなかったらしい。
少年が考えている間、獏は黒葉菫を手招く。不思議そうに獏の横で背の高い身を屈めた。
「珈琲はもしかしたら飲めないかも……。ミルクを用意してもらってもいいかな?」
「そういうことですか。すぐ持ってきます」
ミルクなら注ぐだけだ。珈琲を淹れたカップを下げ、新しいカップにミルクを注ぐ。灰色海月がじっと台所を見ているが、黒葉菫は気にしないことにした。
獏は置かれた珈琲を飲むが、徐々に甘さは控えられてはいるがまだ甘かった。だが咳込むほどではない。
少年は改めて置かれたカップを覗き込み、色が白になっていることを確認して口を付けた。
「たぶん、落ちてきて、網とかで取る」
「大事件だね」
地上まで落ちてきたら大きな穴が空くだろうが、網を突き破らずに取らせてあげたいものだ。
「本当はどれかなんだろうけど、どれかわからないから……。いつ落ちてくるかわからないから、お願いしようと思いました」
「そっか。じゃあ君が望んでる星を落としてあげないといけないね」
「うん!」
少年の目からは不安が消え、期待だけを輝かせた。
「じゃあ代価の話もしようか」
「代価……? お金?」
再び少年の目に不安の色が戻ってくる。手の届かない星を手に入れようと言うのだから、嘸高い代金を強請られるのだろう……なんて考えているのだろう。
「代価はお金じゃなくて、君の心の柔らかい所をほんの少し、戴くだけだよ」
「それってどんな物ですか……?」
「君の気持ちや思い出など、ほんの一欠片だよ。痛くはないし、苦しむこともない。ただ少し、忘れてしまうだけ」
「友達とか、学校のこととか忘れたら困る……」
「大丈夫だよ。生活に支障はないように食べるから」
「うん……それならいいかなぁ」
代価について完全に理解することは大人でも難しいだろう。不安があって当然だ。きちんと恐れを抱いてくれるなら、悪いようにはしない。
「スミレさん、外ってまだ夜じゃないよね?」
「はい。まだ昼ですね」
「暗くなって星が見えるまで少し待とうか」
少年はミルクを飲み干しながら元気良く頷いた。
「あんまり遅くなっても家族が心配するだろうから、君は一度家にお帰り。夜にまた迎えに行くから」
「うん!」
返事はとても良い。
「スミレさんはこの子を送ってあげて。それと僕に首輪を。僕はクラゲさんと少し出掛ける。もし夜になったら、スミレさんはその子を迎えに行ってあげて」
「わかりました」
外套の襟を開ける獏の白い首に、黒葉菫は冷たい首輪を嵌めた。分担して街を出るとは珍しい。
少年と店を出る黒葉菫を見送り、何処へ出掛けるのか想像の及ばない灰色海月に獏は手を差し伸べる。
「依頼者との接触はないし、鈍った体の感覚を取り戻すには丁度いいかと思ってね。少しお使いに付き合ってくれるかな?」
「はい。勿論です」
獏の手を取り、灰色海月は一礼する。獏と街を出るのも久し振りだ。
手を引かれながら店を出、灰色海月は灰色の傘をくるりと回した。
陽が落ちて空の彩度も落ちる頃、黒葉菫は再び少年を迎えに行き、店の前に戻った。店の外で灰色海月と共に待っていた獏は、少年の姿を見て微笑んだ。
「カブト虫でも捕まえに行きそうだね」
虫取り網を持ち、首に虫籠を提げている。つまり少年の想像する星とは、その虫籠の中に入る程度の大きさということだ。
「星は流れたりするから、動くかもしれないから……」
「確かに動いてると言えるのかな」
流れ星の速度だと虫籠をぶち抜きそうだが、微笑ましいので訂正はしないでおく。
「スミレさん、行き先をクラゲさんと共有して」
「クラゲも行くんですか?」
「うん。丁度良さそうな場所を一緒に探したから」
「それで出掛けてたんですね」
獏の首輪は既に嵌められている。いつでも街の外に出られる。
灰色海月は獏を、黒葉菫は少年を、傘をくるりと回して外へ送り出した。
一瞬の内に景色はがらりと変わるが、暗い誰もいない街より更に暗く、街灯は見当たらない。光の無い足元は柔らかく靴を呑み込む。月明かりで足元は草と土だということはすぐにわかった。
「ここ何処?」
少年は虫取り網を握り締めて怖々と辺りを見回した。
「君の探し物は地面にあるの? 上を見てごらん」
少年が顔を上げると、数え切れないほどの星々が空に煌めいていた。こんなにたくさんの星を、少年は見たことがなかった。灰色海月と黒葉菫も息を呑んで見上げた。
「まるで墨に撒いた砂糖です」
「それは褒め言葉として捉えればいいの?」
独特な表現をする灰色海月の横顔を見、感情はあまり表に出てはいないが感動していることは伝わってきた。
周囲に明かりのない小高い丘を探したのだ。街の明かりは星の小さな輝きを覆い隠してしまう。ここなら小さな光もよく見える。
「これだけあれば、一つくらい落ちてもおかしくないね」
「!」
星に見惚れていた少年は、慌てたように虫取り網を空に伸ばした。
「星の動きは速いから、落ちる光を見逃しちゃ駄目だよ」
「う、うん!」
少年に緊張が走る。獏は懐から透明な石の付いた杖を取り出し、空に伸ばした。
「杖……ですか? 外では使えないのでは……?」
小声で確認を取る黒葉菫に獏は口元に人差し指を当てる。
「それじゃあ、落とすよ」
「いつでも来い!」
獏の手にある魔法使いのような杖を見て、少年は目を輝かせた。月明かりを映す変換石を星に向けてくるりと回す。石が光らないことに黒葉菫は首を傾げた。
獏は数歩後退して少年の背後の死角へ潜り、杖を持たない手を空高く振り上げた。その瞬間、空できらりと何かが光った。
「あれだ!」
少年は駆け出し、光を追う。
「転ばないようにね!」
少年を追いながら、獏は杖を持たない手を少年へ柔らかく伸ばした。
「何処?」
きょろきょろとする少年に追い着き、獏は杖を畳む。
「網に何か入ってない?」
「えっ!?」
長く伸ばした柄を慌てて引き寄せる。暗いので網の中の物に気付いていないようだ。
「星はとても繊細で壊れやすいから、そっとね」
網に手を入れ、言われた通り少年は小さな手でそっと掴み上げた。
「わあ、本物の星だ!」
キラキラと黄色い星形が重なり合った物を空の星に翳し、少年は感嘆の声を上げた。
「星はとても恥ずかしがり屋だから、皆には内緒だよ」
「そうなの? 知らなかった!」
月明かりに輝く星を大事そうに両手で抱える少年の姿に、ほっと安堵する。上手く運べて良かった。
「何です? あれ」
黒葉菫は再び小声で尋ねる。繊細な物が落ちてきて壊れないはずがない。
「あれは白雲母双晶って言う鉱物だよ。僕が網に入れた。物を動かすくらいなら、杖がなくてもできるから。さっき空で光ったのは、小瓶に入れた夜燈石。落ちた小瓶はクラゲさんに拾ってもらってる」
「仕込みだったんですね」
「凄いでしょ。あの星も天然の形なんだよ。あれが一番、あの子の思う星に近いかなって。人工物だと察しがいいとバレそうだしね」
「こういうのは、善行って感じがします」
「こういうのばかりだといいんだけどね……」
少年は虫籠に星を入れるか暫く悩み、繊細な物を壊してしまいそうで、手で持っていることに決めた。空の星と手元の星を何度も見比べている。
「これで願い事は叶ったかな?」
「うん! ありがとう! これでお兄ちゃんを元に戻せると思う!」
「……え?」
「お兄ちゃんはお星様になったんだって。だから、その星が欲しくて。空から戻ってきたから、この星はお兄ちゃんに戻るんだよね? いつ戻るか知ってますか?」
獏は口を噤んでしまった。害のなさそうな少年だったので、覗き窓で彼の感情を見なかった。この少年が欲しい物は星ではなく、今はもういない彼の兄だ。死を上手く理解できなかった彼に周りの人間が星になったと言ったのだろう。無邪気に星を求めているだけだと思っていた。只の星が人間になるはずがない。
本当のことを伝えなければならないが、無邪気に星を追っていた少年が理解してくれるのかわからなかった。
獏は人差し指と親指で輪を作り、少年を見る。濁りのない純粋な感情だけが見えた。怖いほど透き通っている。そのことが獏には恐ろしく感じた。
「……お兄ちゃんが星になったんなら、それはもう人には戻らないんだよ」
「え……? どうしてですか? 空に行ったから星になったんなら、地面に戻ってきたら人になりませんか?」
「一度星になると、戻りたくても戻れないんだよ」
「獏の魔法でも駄目ですか? 願い事なら叶えてくれますか?」
「それは叶えられない」
はっきりと言われ、少年は途端にぼろぼろと大粒の涙を零した。獏はもう一度指の輪で少年を見る。純粋な感情に厚く覆われた中身が滲み出す。閉ざした感情が剥き出しになっていく。少年は自ら兄の死の記憶を覆い隠したらしい。ならばこの記憶を食べてやることがこの少年にとっての救いなのだろうか。きっといつかはその純粋さは剥がれ落ちる。それは今でなければいけないのだろうか。
「どうしてですか? この星を割ったら、お兄ちゃんは戻ってきますか?」
獏は慎重に言葉を選ぶ。下手をすればこの少年に大きな傷を作ることになってしまう。少年と目線を合わせるために膝を突き、星を抱く少年の手に触れる。
「君はお兄ちゃんが大好きなんだね。お兄ちゃんは人には戻れないけど、この星の中にはいるから、割るなんて言わないで。お兄ちゃんはこの中にいて話すことはできないけど、君のことを見守ってるから」
「星の中にいるの……?」
「うん。空にもたくさん友達がいるのに、君の所に戻ってきてくれたんだから」
少年は涙を零しながら空を見上げる。黒い空にたくさんの星が輝いている。あれは兄の友達なのだと、少年は理解した。
「話せないのは嫌だけど……」
「話ができなくても、聞いてくれてるよ」
「うん……」
まだ納得はしていないようだが、少年は渋々といったように頷いた。嘘に嘘を重ねることになってしまったが、何とか凌げたと思う。後はこの少年の家族が何とかしてくれるだろう。そこまで面倒は見きれない。
代価を戴く所ではないが、戴かなければ善行が完了しない。獏はどの心を食べるか決め、少年の気持ちが変わらない内に終わらせる。
「君から貰う代価だけど、心の痛みを食べてあげる。これは肉体の痛覚のことじゃないから、安心して」
「心の痛みって何ですか?」
「君が泣いてしまったことが、心の痛みだよ。それをほんの少しだから、これから先ずっとその痛みを感じないってことではないけどね」
「涙を食べるんですか? 変なの」
そろそろ顔が引き攣りそうだが獏は微笑み、少年の澄んだ双眸を片手で覆った。動物面を外し、少年に口付ける。
口を離して面を被り直すと、少年はすっきりとした顔をしていた。もう兄のことで泣くことはないだろう。
「少し遅くなったかな? スミレさん、この子を家まで送ってあげて」
「わかりました」
「ありがとうございました」
礼儀正しく少年は深々と頭を下げた。黒葉菫が黒い傘をくるりと回す直前に少年は手を振り、獏も小さく振り返した。
「一時はどうなるかと思ったけど、何とか納得してくれて良かったよ。子供の発想には驚かされるね」
「でもこんな綺麗な空が見られたので良かったです」
「そうだね」
誰もいない街へ戻る前にもう少しだけ、獏と灰色海月は星空を見上げた。あの街では見ることのできない星々は、宝石のようだった。
家に送られた少年は、虫取り網と虫籠を提げた姿でバタバタと自室へ走った。
「何その格好? 一人で虫取りごっこ?」
洗濯物を入れた籠を運んでいた母親は思わずきょとんとしてしまった。なかなか家の中でする格好ではない。
「虫じゃないけど、一人じゃないよ。お兄ちゃんも!」
星のことは内緒だと獏に言われたので、少年は星のことは黙っておいた。大事に抱いている星の中には大好きな兄がいる。話すことはできないが、傍にはいるのだ。
嬉しそうに自室に入っていく少年を見送り、母親は表情を消した。
「また言ってるわ。お兄ちゃんなんていない一人っ子なのに――」