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18-誘引


 誰もいない街の誰も来ない店の二階で、獏は灰色海月の傷の様子を確認していた。白い腹部にはまだ痛々しい痕があるが、触れても痛がらなくなった。

「激しく動くのはまだもう少し我慢しようか。歩く程度ならもう大丈夫かな」

「スミレさんは用無しですか?」

「それはもう少し様子を見ようか。走れるくらいにはならないと、万一何かあったら大変だからね」

「……わかりました」

 不満そうだが、聞き分けは良い。危害を加えてくるような依頼者だった場合、逃げることができないのは不安が残る。無理に走って傷口が開いてしまっても大変だ。

 腹に灰色の服を下ろし、獏は今日もハーブティーを淹れる。いつも灰色海月に任せきりだが、淹れ方もなかなか上達してきたように思う。

 灰色海月にカップを渡していると、部屋にノックの音が響いた。願い事の手紙を拾いに行っていた黒葉菫が戻ってきたのだろう。ドアを開けて確認する。

「もしかして下から呼んだ? スミレさんも呼び鈴持ってた方がいいかな?」

「いえ、直接来ました。手紙の判断を仰ぎたくて」

「また厄介な願い事かな?」

 手紙を受け取り、その封筒で察しは付いた。同じ封筒を見たことがある。

 内容は同じ、『殺してほしい人がいます』。

「随分熱心で困ったね……余程恨みがあるんだろうけど」

「どうすればいいですか?」

「そうだね……一度話をしてみようか。気が変わるかもしれないし」

「わかりました。連れてきます」

「その差出人本人にも警戒しておいてね」

 手紙を戻され、頷く。差出人にも問題がある場合があるのは、嫌と言うほど思い知った。手紙だけでは、差出人がどんな人物なのかまではわからない。いざと言う時はすぐに銃を抜けるよう心積もりはしておく。

 灰色海月はベッドに置き、獏も階下へ下りる。あまり厄介な客は街に入れたくはないが、手紙の文章だけでは人格を読み取れない。

 椅子に座って待っていると、すぐにドアが開いて安心した。黒葉菫の隣に、暗い顔で俯く男が立っていた。

「連れてきました」

 黒葉菫が声を掛けると、男は顔を上げた。奇妙な動物面を被る獏に視線が固定される。

「獏…?」

「そうだよ」

 返事を聞き、男はバネのように床を駆けて両手で机を叩いた。反射的に黒葉菫は銃を抜いて構えるが、男は武器を持っていない。

「随分と荒れてるね」

 獏は動じていないようだ。

「手紙……何ですぐに来てくれなかったんだ。待ってたのに……待ってたのに」

 ぶつぶつと聞き取りにくい声で譫言のように呟く。

「ごめんね。こっちも色々立て込んでて」

「すぐに願いを叶えてくれるんじゃないのか……待ってる間もオレは……オレは……アアアアア!」

 突然叫びだした男に理解が及ばず、黒葉菫は銃を構えながら獏に目を遣る。獏は少し困ったように首を傾けながら、台所へ小さく指差した。構わず刻印の珈琲を用意しろと言うことらしい。

 狭い通路を男の脇を擦り抜け、台所へ急ぐ。珈琲は淹れるが、精神状態の不安定な男から目を離しても良いものか迷う。街の中なので獏は杖を使えるが、油断はできない。

「まずは座りなよ。ここにいる間はゆっくり話をしよう」

「ゆっくりなんて……あいつは……あいつは……」

「君の願い事は? 座ってくれたら聞くよ」

 途端にすとんと男は素直に座った。願いを叶えに来たのだから、聞いてもらわなければ意味がない。

「殺してくれ……あいつを……あいつ……あいつは……」

「相当恨みがあるみたいだね」

「あいつはあいつはあいつは……」

 余程追い詰められているのか、まともな会話ができるのか心配になる。できなければ願い事を叶えなければ良いだけの話だが。まともな精神状態の人間がする願い事ではないが、まともな会話はしたい。

「酷い興奮状態だね。もう少し落ち着いてもらわないと願いは聞けないよ。その場の衝動で叶える願い事じゃないからね」

「落ち着く……落ち着け……オレは……」

「それにね、人を殺す依頼の代価は、君の命になるよ。誰かの命を奪うなら、自分の命も差し出せってことだ」

「! それは……嫌だ……嫌だ死にたくない……死にたくないから殺してくれ……あいつを……」

「何をされたの?」

「アアアアア!」

 思い出そうとすると興奮状態になるらしい。面倒臭い、と獏は思った。

「君が死にたくないなら、相手も殺せないね」

「な……な……何で……」

 不安定な男の前に、黒葉菫は珈琲を置く。獏の前にはミルクと砂糖を少し控え目にした珈琲を置いた。

「アアアアアアア!」

 置いた瞬間、男はカップを払い除けた。中身が飛び散り、カップが床に叩きつけられて砕ける。黒葉菫は銃を構えるが、獏はそれを手で制した。

「あーあ」

 感情の稀薄な声で残念そうに割れたカップを見下ろし、獏は立ち上がる。机を回り込み、男の頭を鷲掴みにした。

「!?」

「勿体ないでしょ?」

 床に広がった珈琲に、男の顔を押し付ける。獏の力に抵抗できず、男は顔を上げられない。

「ほら舐めて? カップの破片が舌に刺さるかもしれないけど、君がしたことなんだから」

「ひっ……ひぁ……!」

「自分の命を投げ出す覚悟もない奴が、他人の命をどうこうできるわけないでしょ? 傲慢で浅薄で愚かな人間」

「す……すみません……すみませんすみませんごめんなさい……!」

 びちゃびちゃと顔面を珈琲で濡らしながら、男は必死に謝る。心は籠もっていない、上辺だけの言葉だった。

「自分の手を汚したくないから僕を頼ろうとしたんでしょ? そういう利用されるのは、僕は嫌いだよ。何でも願いを叶えてくれると思った? 得体の知れない者が、はいはいって何でも言うことを聞いてくれると思った? 自分の思い通りに動かせると思った? 叶えてもらってそれで君は清々して普通の生活を送れると思った? 気持ちが晴れると思った? ――そんなわけないよねぇ」

「ひぐっ……」

 ごり、と木目が顔に付きそうなほど強く床に押し付ける。男は手を突き必死に体を起こそうとするが、獏の力に勝てない。

 黒葉菫はそれを息を殺して黙って見下ろすことしかできなかった。手や口を挟む隙間なんてなかった。

「ねえ……何か言ったらどう? 少しはまともな言葉を喋ったら? 喋れるでしょ? それとも怖い? 僕が怖いの? ねえ?」

「ごっ……ごめんなさい……ゆるしてください……ゆるして……すみません……」

 獏は漸く手を離す。その瞬間、脱兎の如く男は出入口へ駆けていった。ドアを開けて一目散に走り去っていく。

「怖がらせすぎちゃった……かな?」

「素だと思ってましたが……」

「やだなぁ。そんなことないよ」

 くすくすと笑っているが、本心はどうだかわからない。

「とりあえず追い掛けないとね。一人じゃここから出られないし。少しは珈琲を飲んでくれたから追えるはず。すぐ常夜燈を用意しないと」

 ばたばたと慌ただしく硝子の筒を準備し、黒葉菫にも一つ持たせて店を飛び出す。暗い霧の中に常夜燈の光がぼんやりと広がった。

「やっぱり飲んだ量が少ないね……気配が稀薄だ」

「頑張りましょう」

「うん。そうだね」

 獏は人差し指と親指で輪を作り、ぐるりと周辺に向ける。辛うじて刻印の気配を捉えられる。二人は同時に同じ方向へ走り出し、方向が間違っていないことを確認した。

 霧の掛かる煉瓦の細い路地を常夜燈で照らしながら走るが、やはり遠くまでは照らせず奥まで見通せない。男の姿を先に捉えられるのは、夜目のきく獏だろう。辺りに視線を巡らせ、注意深く目を凝らす。

「気配が濃くはなってるから近付いてるはずだけど……逃げ足が速いね」

「明かりも持ってないのに、よくこんな闇の中で走れる……。人間も夜目がきくんですか?」

「個体差はあると思うけど。月明かりも一応あるしね」

 路地の階段を上がったり下りたり曲がったり、真っ直ぐ追えているのかわからないが、黒葉菫も普通の人間よりは体力はある。男はそろそろ足が遅くなっているらしく気配がどんどん濃くなっている。

「スミレさんはそのまま走って。先に行く」

「すみません。すぐ追い着きます」

 普通の人間ではないとは言え、体は極めて人間に近い黒葉菫は、獣である獏の足には到底敵わない。石畳を強く蹴り跳ぶように走る獏は速い。あっと言う間に常夜燈で照らせない闇へ消えてしまう。体力は普通の人間よりもあるが、こうして比べるとやはり自分も人間なのだと痛感する。

 直線ではない路地は小刻みに地面や壁を蹴らなくてはならず速度が落ちるが、階段を一跳びで越え、逃げる男と距離を詰める。気配は濃く鮮明に、獏の目にも姿を捉えられるようになる。

「待って!」

 どのくらい走ったのかわからないが、随分と店から離れた。

 男から獏の姿が見えるかは定かではないが、声は聞こえるはずだ。男は酷く焦燥した顔で振り返り、足を止めない。

「待って、って!」

「ひァアアアア!」

「危ないから!」

「あっあ、アアア!」

 会話ができない。酷く混乱している。脅かしすぎたようだ。

 この道は以前黒葉菫に案内してもらった道とは異なるが、距離の感覚では端が近いのではと思う。街の端には闇が蠢き、地面が途切れている。落ちればどうなるのか。どうにもできない。

「あっ……」

 男から声が上がり、ハッとする。遠目には暗がりと端の闇の見分けがつかない。男の体ががくんと傾いた。片足が宙を掻く。

「!」

 少し開けた場所で、見通しは良かった。傾く体を引くために闇に近付くべきか躊躇した間に、男は近くの明かりの無い街灯を掴んだ。獏はとりあえずは安堵した。自分が脅かした勢いのまま飛び込まれては寝覚めが悪い。一応は願い事の契約者なのだから。

 片手だがしっかりと街灯を掴んでいるので、距離を取って男が安全な地面に戻るのを待つ。近付けばまた刺激しかねないからだ。

「何もしないから、戻っておいで」

「ひっ、ひ……」

 だが男は動かず、落ちそうな端から戻らない。一度は宙を掻いた片足も今は地面に乗っているので落ちる心配はないが、まだ警戒が解けないのかと獏は更に数歩後退した。

 それでも戻らないので、首を傾げる。様子がおかしい。


 ――囲め 囲め


「…………?」

 街灯を掴んでいない男の腕が闇の方へ伸びている。男の顔が焦燥より恐怖に歪んでいる。


 ――籠の中の鳥 は


「何なの……?」

 全身を怖気が走った。闇が蠢き、男の腕をぺたりと掴んでいる。

 獏は懐から杖を抜いて伸ばし、構えた。これは男を助けるための得体の知れない物に対する抵抗ではなく、自分に向かってきた時のための準備だ。

 蠢く幾つもの黒い手は男の腕を引っ張り、底の見えない闇に連れて行こうとしている。男の体が闇の方へ傾く。

「アアアアア!」

 引き摺り込まれまいと男は必死に街灯を掴んで離さないが、纏わり付く黒い手はそれよりも強い力で腕を引く。みしみしと男の肩が軋んだ。

「――――ッ!」

 耳を劈くような男の声が上がり、ぶちりと腕が千切れた。街灯を掴む手からも力が抜け、闇へ傾く。待っていたと言わんばかりに黒い手は男の体を絡め取って闇に引き摺り込んだ。男の叫び声は闇の中へくぐもり、次第にぷつりと止んだ。後には男の声ではない笑い聲がくすくすと反響していた。

「…………」

 頭に響く聲に、獏は杖を構えながら耳を塞ぐ。頭が割れそうに不快だった。

 男のいた地面には、確かにそこにいた証拠に赤黒い血溜まりがべっとりと広がっていた。

「っ……」

 眩暈がして足元がふらつく。

 蠢く黒い手はまだ足りないと言うように端から溢れて空を掻いている。


「逃げます」


 背後から投げられた声と共に、銃声が闇に呑まれた。黒い手は動きを止め、ざわざわと蠢く。追い着いた黒葉菫は獏の腕を引き、来た道を引き返した。

「大丈夫ですか? あの男は?」

「……闇に連れて行かれた」

「連れて……?」

「腕が千切れるくらいの強さで、引き摺り込まれた」

「…………」

 顔は面で殆ど覆われているが、僅かに見える肌は血の気の引いたように白い。また気分が悪くなっているようだ。

「獣全体か貴方自身かはわかりませんが、たぶん相性が悪いんだと思います。貴方は端に近付かない方がいいです」

「何度もごめんね。助かるよ……」

「貴方ほどの力でも抵抗できませんか?」

「それはわからないけど……その前に頭が割れそうで集中が難しいかな」

「わかりました。危険なので鵺に報告と相談をしておきます」

「君は良い子だね」

「初めて言われましたが」

 何でもないように会話を続けるが、獏の声は小さく苦しそうだ。話している場合ではないのだろうと黒葉菫も走ることに集中し口を閉じる。

 霧を裂いて店の前まで戻り、ドアを開ける前に息を整える。獏の気分はまだ優れないようで、早くベッドで休んだ方が良い。

 獏は後ろを振り返り、何もないことを確認して杖を畳んで仕舞った。店と端はかなり距離がある。あの触手が追ってくることはないだろう。

 もう一度深呼吸をし、店のドアを開ける。誰もいない店の中で音がした。

「クラゲさん……?」

 奥の机の影で灰色海月がしゃがんでいた。割れたカップの破片を拾い、零れた珈琲を拭いている。

「大きな音がしたので。出て行ったようなので、片付けておこうと思いました」

「まだ安静にしててほしかったんだけどな……」

「歩いてもいいと言われたので……駄目でしたか?」

「いや、ありがとう。後はやるよ」

 灰色海月の横にしゃがもうとすると、後ろから黒葉菫に脇を掴まれた。中途半端に膝を曲げたまま止まってしまう。

「……スミレさん?」

「貴方も同じです。休んでください」

「捕らえられた猿みたいで滑稽な格好ですね」

「捕らえられた猿って何なの?」

 捕らえられた格好のまま、獏はずるずると階段の下まで引き摺られた。小さな子供ではないので、足は床を引き摺られてしまう。

「クラゲ、この人を寝かし付けてから休め」

「仕方ないですね」

「僕は子供じゃないんだけど……」

 漸く黒葉菫の手が離れ、獏も立ち上がった。黒葉菫には後片付けばかりさせているような気がしたが、他に人手もなく任せるしかなかった。

「何かあったんですか?」

 今し方の店外の様子を知らない灰色海月は、小首を傾げながら獏に階段を促しながら尋ねた。

「依頼者が街の端まで逃げてね……またこの有様だよ」

「そうだったんですか。それは災難でしたね」

「罪人だから快適な牢獄なんてないんだろうけど、端のあれは勘弁してほしいな」

 人間の腕を引き千切る程の力を持つ闇に自分が捕まった場合、果たして逃げられるのだろうか。街の中で杖の使用が許可されているのは、万一にもあれに抵抗する手段として残されているのではないかと思ってしまう。ここに獏を閉じ込めた鵺もよく知らないとは言うが。

 灰色海月は獏の寝室のドアを開けて待つ。

「子守歌でも歌いましょうか?」

「それは遠慮するよ。頭に響きそうだ」

「深海の子守歌ですよ。良い夢を見られると思います」

「残念だけど、僕は夢を見ないんだよ。気持ちだけ受け取っておくね」

「夢を見ないんですか? それは初耳でした」

 頭が痛いと言うならあまり話し込んでもいけないと、灰色海月は頭を下げてドアを閉めた。夢を見ないのに夢を食べるとは、見ないからこそ執着があるのだろうかと首を捻りながら彼女も自分の寝室へ向かった。

 獏はベッドに横になり、動物面を外す。願いの依頼者の男は自らの足で街の端へ行き、そして喰われた。獏が直接手を下したわけではない。だが刻印の珈琲を飲んでいるため、契約者の消息が途絶えたことは上に伝わるかもしれない。また死人を出してしまった。人間は本当に面倒だ。

 もし誰かが店に来たら黒葉菫が対応してくれるだろう。それまでは休むことにする。蠢く笑い聲が頭から離れないが、夢を見ないので当然悪夢も見ることはない。その点は安心して眠れると言うものだ。

 金色の目をゆっくりと閉じ、獏は静かに意識を落とした。


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