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124-透けた気持ち


 破壊された街を背に科刑所へ戻った狴犴(へいかん)(ばく)は澱んだ地下牢へと下り、獏は初めて見るそこに眉を顰めた。底の見えない大きな竪穴の壁に、螺旋状に突き出した通路がある。柵は設けてあるが、身を乗り出せばすぐに底まで真っ逆様だ。壁に所々明かりはあるものの、足元は暗い。何処にでも蔓延る蔦に足を掛ければ只では済まない。

 壁には檻が並んでいるが、多くは中に誰もいなかった。横道にも檻が並ぶが、こちらは暗くて奥まで見えない。

「地下牢は初めてだったな」

「……うん」

「お前も本来はここに収容されるはずだった。ここが気に入ったなら、ここに移っても構わない」

「嫌だけど」

 皮肉を軽く遇い、獏は顔を顰めた。こんな湿っぽくて不気味な所に入れられなくて本当に良かった。

 外の光も届かない暗がりを下りて行くと、檻の中に人影が疎らに見えてくる。地下牢の下へ行くほど収容者が増える。

 獏は目を合わせないように下を向いた。どんな罪を犯したのか知らないが、身に刺さる憎悪を向けられて、蛇に見込まれた蛙のような気分だった。罪人は何も話さず横目で睨むだけだったが、歩く内に徐々にぼそぼそとした声が聞こえてくる。足を急がせた。

 空の檻が並ぶ通路に、血を流した睚眦(がいさい)が倒れていた。頭に角を生やしヴェールを被った(みずち)が杖を手に治癒を行っている。その傍らに鴟吻(しふん)黒種草(クロタネソウ)が蹲み、血染薬(ちぞめぐすり)を睚眦の口に押し込んでいた。

「鴟吻も来たのか」

「……狴犴。私は地下牢の中は見えないから……心配で見に来たの」

「睚眦に意識はあるのか?」

「微かにあるけど、喋ることはできないわ。最初に病院には行きたくないと言ってたから、ここで手当てしてるけど……」

「病院も今は負傷者で溢れている。睚眦がここで耐えられるなら、拷問官はあまり人目につくべきではないな」

「螭次第ね……」

「……水があればもう少し……頑張れると思います……」

「ロタ、バケツに水を汲んで来てくれる?」

 か細い声で助けを求める螭のために、鴟吻は黒種草に指示を出す。黒種草は狴犴を睨んだ後、腰を上げて外へ走った。相変わらず黒種草は龍生九子(りゅうせいきゅうし)を敵視している。

 狴犴は短い杖を取り出し、睚眦へ向ける。渾沌の菌糸が絡んでいないか確認するが、杞憂のようだ。菌糸を植える余裕も無かったのだろう。

「……菌糸の心配は無いな。睚眦のことは任せる。脱獄した渾沌(こんとん)は始末した。安心しろ」

「朗報ね。御疲れ様」

 鴟吻は安堵しながら微笑み、睚眦の頬を優しく撫でた。内臓は出ていないが腹を切り裂かれてまで渾沌に手傷を負わせた彼女がこれで報われる。烙印を捺された獣が脱皮して能力を使うなど、想定外にも程がある。傷を負わされつつも彼女はよく喰らい付いた。

 狴犴は少し離れた所の横道にある壊れた檻に獏を連れ、中を見るよう示す。そこには透ける程に薄い人型の皮が破り捨てられていた。首の位置にはくっきりと烙印が見える。獏の烙印とは少し異なる物だ。

「……確かに脱皮だな。参考までに、お前は獣の脱皮に心当たりはあるか?」

「ないよ……こんなの初めて見た。皮はこんなに薄いのに、烙印が剥がれちゃうんだね」

「本来は烙印は根深く絡み付くものなんだが、これは奥まで刺さらないよう押し留めたか……。これが罷り通るなら、皮膚を刮ぎ取れば烙印を剥がすことも可能なのかもしれない」

 獏は自分の喉元に手を遣り、烙印を軽く爪で掻いてみた。凹凸を少し感じるが、爪が引っ掛かっても剥がれそうにない。皮膚を剥がすのも覚悟が必要だ。

 それを一瞥し、狴犴は檻に目を戻す。

「お前は眠っている無抵抗の状態で捺印し直した。皮膚を幾ら剥がそうが烙印は消えない」

「ちっ」

「皮はラクタヴィージャに調べさせる。……ここで私にできることは無さそうだ。来い」

 脱皮にはおそらくかなりの消耗があるだろう。無条件で服を脱ぐようにはいかないはずだ。脱皮後、暫くは行動を控えて休みたかったことだろう。だが見回りの睚眦に見つかり、そうもいかなくなった。それは互いに想定外だった。相打ちとなったが、渾沌は何とか地下牢から脱出した。そして半ば自棄で宵街(よいまち)で暴れた。転送の余力が無く、逃げられないと思ったのかもしれない。

 狴犴は獏を連れて通路を上がる。途中で両手にバケツを提げた黒種草と擦れ違い、彼は狴犴を睨み付けた。もう慣れてしまった狴犴は眉一つ動かさず、視線を遣ることもない。

 息が詰まる澱んだ地下牢から科刑所を登り、誰もいない狴犴の部屋へ戻って彼は定位置の奥の自席に腰を下ろす。

 獏も共にここで待つのだろうかとソファに腰掛ける。暫し沈黙が流れた。


「お前は記憶を失っていないな?」


 唐突にぽつりと呟かれた一言に、獏は微かに金色の目を見開いた。

「……何でそんなこと言うの? 君のことはよく知らないけど、疑り深いの?」

「幾つか不審な点がある」

「…………」

「まず都合が良過ぎる。神隠しの街でお前に起こったこと、これが最も知りたいことだ。お前はそのことだけは記憶を失っていなかった。情報を共有する必要があったからだろう? 悪夢の危険性に関して、お前は共有を怠ることはしない。下手をすればまた犠牲が出るからだ」

「…………」

 勝手に話し始めた狴犴に眉を寄せながらも、獏は静聴した。

「おそらく贔屓(ひき)は、お前に性格が変わっていないと言っていた時点で、お前の記憶が失われていないと察していたのだろう。……いや、この部屋に入る時点で、かもしれないな。この部屋は本来、罪人を拒んでいる。ここに入ったことのあるお前は、また烙印が痛むのではないかと足を止めた。そして覚悟をして部屋に入った。記憶があるなら尋ねればいいものを、お前は何も言わなかった。言わないことで不自然が生まれた」

「…………」

「贔屓は可笑しそうに笑っていたな。記憶が無いのにお前は安定し過ぎている。椒図(しょうず)苧環(オダマキ)饕餮(とうてつ)の時とは明らかに違う」

「…………」

「決定打は渾沌と対峙した時だ。仮面を被った渾沌の顔には目が無い。それを知っているかのように、見えていないとお前は言った。渾沌との戦闘も覚えていない素振りをするお前がだ。渾沌の脱獄は想定外だ。想定外のことに対し、お前も無意識に襤褸を吐いてしまったのだろう」

「…………」

 獏は俯いて沈黙した後、徐ろに脚を組んだ。頬杖を突き、詰まらなさそうに大きく溜息を吐く。

「……あーあ。上手く騙せてると思ってたのに。渾沌の脱獄は確かに想定外だったね。手負いだったから何とか一撃で仕留められたけど。対峙したことが無い振りをしなくちゃだから、恐れずに自信満々で強がるのが大変だったな。……確かに呟いたのは無意識だったなぁ……」

「何故記憶が無いと偽った?」

 頬杖を突いたまま狴犴を一瞥し、獏は困ったように眉を寄せた。

「クラゲさんだよ。君が監視役を解任してくれたのは嬉しい想定外だったけどね。クラゲさんは僕の傍にいたいって聞かなくてね。(ほとほと)困ってたんだよ」

 心底困っていたと言うように獏は大袈裟に溜息を吐く。

「僕が目を覚ました時は嘘偽り無く意識がぼんやりしてたけど、ラクタから話を聞いてる内にちゃんと鮮明になった。その時に記憶喪失の振りをしようと思い付いて、ラクタに協力してもらったんだ。杖の出し方も教えてもらった。初めての自分の杖だよ。ちょっと感動しちゃった」

 今度は擽ったそうに笑う。他の獣は全て杖を召喚していて、自分にだけ無かった。それが召喚できるようになった。相当嬉しかった。全て顔に出ている。渾沌を倒すために杖を召喚した時、興奮を隠すことに苦労した。

「クラゲさんは宵街で入院したことがあるから、ラクタも納得してくれたよ。危険な目に遭わないためには、やっぱり僕の近くにいない方がいいからね」

「……それで先に科刑所ではなく、あの街に行ったのか」

「うん。騙したいのはクラゲさんだから、まずはクラゲさんに会わないと。あの街にいることはラクタから聞いたから」

「理解した」

「解任した君なら大丈夫だと思って話したけど、クラゲさんには言わないでよ。折角騙したのに水の泡になっちゃう。……あ、贔屓も気付いてたんだっけ? あの時何も言わなかったんだから、演技に乗ってくれたんだよね?」

「つまりお前は対話を放棄し、記憶喪失という盾で突き放したんだな」

「何か言い方に棘があるんだけど。君だってマキさんを守るために突き放してたんでしょ? 君と同じだなんて思いたくないけど、似たようなものでしょ」

 獏は鼻で笑い、狴犴は微かに眉間に皺を寄せた。普段は眉一つ動かさないのに、白花苧環の名を出すと眉が動く。とてもわかりやすい。

「……まあいい。今はお前に構っていられない。覚えているなら、報告書を書いてもらう」

「えっ、何の……?」

 罪人が統治者を欺いたことに、狴犴はそれ以上は何も言わなかった。白花苧環の名を出されると、後ろめたさが滲み出て反論できない。

「神隠しの街での件だ。悪夢の処理について報告しろ。先程渾沌を始末した時の悪夢についてもだ」

「げ……あれも? さっきのは何て言うか……饕餮が前に変転人を食べた所為かな? それで悪夢の欠片が……通常は成長したり暴れたりしないけど、何て言えばいいんだろ……悪夢から零れたゴミみたいなもので……放っておいても自然消滅するんだけど、えっと……ゴミも集めて固めれば使えるようになる! リサイクルって奴かな!?」

「報告書」

 白紙の束を取り出し、狴犴は腰を上げて獏の前の机へばさりと叩き付けた。記憶喪失と言ってしまった以上、黒葉菫(クロバスミレ)や白花苧環に手伝ってもらうこともできない。獏は恨めしく狴犴に向かって眉尻を下げた。

「報告書が提出できたら、新しい面をくれてやる」

「鬼畜……」

「好きに言え。場所は貸してやる。ここで書けばいい」

 何も嬉しいことはない。要は狴犴に見張られながら書くと言うことだ。地獄である。

「……図解でもいい?」

「苧環から報告は受けている。お前の絵は見るに耐えないそうだな。全て文字で表現しろ」

「…………」

 獏は口を尖らせ、渋々ペンを取った。まさか絵の出来を報告されているとは。

「……ねえ、この部屋は罪人が入れないはずなんだよね? さっき君も言ってた。僕は何で入れるようになったの?」

 狴犴は手元の紙に目を落とし、もう顔を上げることは無く淡々と答える。

「お前から話を聞くために、特別に入室を許可している」

「……へぇ」

 新しい烙印がそうなのか一時的なことなのか、明言はしない。狴犴の機嫌次第かもしれない。機嫌次第で烙印が痛むと考えるべきだろう。

(今後も部屋に入る時は警戒しよ……)

 報告書を書いている間も部屋には誰も来ず、二人きりの息苦しい空間で獏は疲弊した。

 忘れられることが辛いことだとは獏もわかっていた。だが忘れられた方が諦められるだろうと思った。灰色海月(クラゲ)の感情は幾らか育ってきたが、その意味を彼女はまだ上手く理解できていない。何故獏の傍にいたいと思うのか、おそらく彼女自身は理解していない。なので余計に感情に振り回されている。

 白花苧環は、人の姿を与えてくれた獣は親のようだと言う。ならば灰色海月も獏を親のように、家族のように思っているのかもしれない。そんな強い結び付きを作るのは、獏の望むことではなかった。寄り添ってくれる良い変転人の仲間がいるのだから、彼女も寂しくはないはずなのに。

「……ねぇ、僕の新しい監視役って何色になるの?」

 ペンを走らせていた狴犴は顔を上げずに答える。

「白にするつもりだ。苧環を最初に派遣した時のように暴走しないよう躾けておく」

「ふぅん……悪夢を消したあの街でまた善行するの?」

「いや。あの街は処分する。記憶があるなら、悪夢が残っていないか最終確認をして来い」

「ちらっと見た時は残ってないみたいだったけど。先代が全部持って行ってくれたんだね」

「お前の牢は新たに建設している。地下牢に入るなら、余計な手間が省けるんだが」

「また神だの何だの信仰されたらどうするの?」

「それも含めて様子を見る。善行により名を広め、お前の力に変化が現れるか、新しい烙印で抑えられるか観察する。渾沌の脱皮の件もあるからな。お前の少々特殊な力を封じられるなら、地下牢の罪人にも流用できる細工もある」

「実験か……」

「看過できないほど人間からの加害を受けたことによる獣の罪は、通常よりも軽くすると新たに定めた。その一人目として、今後のためにも実験的に処罰をする」

「釈放はされるの?」

「その予定は無い」

 結局終身刑には変わりないようだ。獏は舌を出して狴犴に威嚇した。狴犴は見向きもしない。

 演技と言えど記憶がある方が罪人らしいと狴犴は思う。狴犴を嫌ってこそ罪人だ。

「渾沌の始末を引き受けたことを含めての甘い決定だが、気に入らないなら地下牢に入ってくれて構わない」

「地下牢はやだ……あんな所に椒図もいたんでしょ? 気が変になりそう……」

 暗い地下牢の檻を見た時、獏は見世物小屋を思い出してしまった。あんな所で一生を過ごすなど御免だ。

「…………」

 返事が無くなったので、獏は狴犴を一瞥する。相変わらず顔を上げずにペンを動かしているが、椒図についてはやはり後悔があるのだろうか。椒図自身は地下牢の居心地は悪くなかったようだが。

 二人きりの息苦しい空間で報告書を書き終える頃には獏はぐったりとソファに凭れ掛かり、意識が遠退きそうだった。一気に書き上げるのは骨が折れる。以前白花苧環に教わったように書いたが、これが正しいのかはわからない。

 そのタイミングを見計らったかのように静かな部屋に控え目に扉を叩く音が響き、一拍置いて狴犴が返事をした。

 重い扉を開いて立っていたのは白い青年だった。重い前髪が両目を覆い、気怠そうな暗い表情をしている。

「失礼します」

 白い青年は狴犴の前まで足早に進み、一礼した。

「此度の騒動について皆が混乱しているため、説明を求めに来ました」

「……お前が来るとは珍しいな」

「……こういうことは曼珠沙華(マンジュシャゲ)の仕事ですが、見当たらなかったので行かされました」

「曼珠沙華はもう戻らない」

「…………」

 その言葉が意味することを彼はすぐに理解した。その上でそれ以上は問わず、次の言葉を待った。

 狴犴は(したた)めていた紙を二枚差し出し、白い青年は無言で受け取る。

「簡単な経緯を記した。それに伴い要望を募る。被害の大きい中層と下層の掲示板に掲示してほしい。詳細は調査後に改めて説明する。元凶は既に処理した。案ずるな」

「……わかりました」

 白い青年は紙を見下ろし、一歩下がって頭を下げた。

「失礼します」

 踵を返そうとすると狴犴が呼び止めた。彼は動きを止めて顔を上げる。

白鱗鶴茸(シロウロコツルタケ)。罪人の監視役を務める気はあるか?」

 白い毒茸の青年は動きを止めたまま、前髪に隠れた白い眉を微かに寄せた。

「お断りします」

 再び呼び止められる前に彼は踵を返し、入って来た時よりも早足で部屋を出て行った。

 扉が閉まると沈黙が流れ、ぐったりとしていた獏は頭を起こして扉を見、狴犴を見る。

「……拒否権はあるんだね」

 狴犴は断られても仕方無いと、獏から受け取った報告書に目を落とした。

「白は罪人を嫌う。その感情を御す自信が無いなら強制はしない」

 白花苧環は罪人を嫌い、その嫌悪をこれでもかとぶつけていた。同じ轍を踏まないよう配慮はするようだ。

 それからはまたしんと居心地の悪い静寂が流れ、誰も来ることはなかった。

 報告書に目を通した狴犴は咀嚼しつつ、机に黒いマレーバクの面を置く。

「獏、約束の物だ。持って行け」

「わ。御礼は言わないけどありがたく貰っておくよ」

 いそいそと立ち上がり、獏はそれを受け取って機嫌良くソファに戻った。礼は言わずとも顔に全て出ている。

「気になってたんだけど、このお面の形って君が考えたの? 最初は巫山戯てると思ったんだけど」

「いや」

 否定はするが誰かは言わなかった。身の安全を考慮すると、罪人に易々と名を挙げることはできないのだろう。変転人が考えたのかもしれない。

 顔を覆う物が無くて暫く落ち着かなかったが、これで元通りだ。記憶が無い振りをしている時はお面のことも気にしないようにしていたので、内心落ち着かなかったのだ。お面を求めると芋蔓式に見世物小屋まで遡ってしまうからだ。自分の顔が醜く、見られたくないと思う原因を作ったのはあの見世物小屋だ。

 忘れられるのなら、あの見世物小屋の出来事は忘れてしまいたかった。譬え『振り』だとしても。



 渾沌の騒動の御陰で宵街は暫く慌ただしく、狴犴も罪人に構っていられないほど多忙だった。

 それほど多忙でも罪人に手伝えることは無く、暇を持て余した獏は外出許可を貰った。監視同伴での許可だが、科刑所の中で見張られているよりずっと良い。

 首輪を嵌められ、獏は病院へ行ってラクタヴィージャを手伝う黒葉菫を呼び出した。病院もまだ混乱を引き摺り忙しい。ラクタヴィージャには彼を借りることを話しておくが、他の者には黙っていてもらう。特に灰色海月は今は神経質になっているので、見つかるわけにはいかない。

「……俺が新しい監視役に選ばれたんですか?」

 病院を出て石壁の陰に潜み、誰にも見つからなかったことに獏は安堵する。

「ちょっと出掛けたいから、一時的にだよ。新しい監視役探しは難航しそうだし」

「そうですか……何で俺なのか訊いてもいいですか?」

「ヨウさんに聞いてないかなと思って」

「何をですか……?」

「僕の神格化の件の、創始者の話」

 それを聞いた途端、黒葉菫は僅かに目を逸らした。噂好きの洋種山牛蒡(ヨウシュヤマゴボウ)に何か聞かされたと獏は確信した。

「信者の方は(ぬえ)が片付けてくれたみたいなんだけど、創始者だけは僕が処理しておかないといけなくて」

「……それなら、俺も少し手伝いました」

「そうなの? だったら話が早いね。創始者の所に転送してくれる? 狴犴から許可を貰ったから大丈夫だよ」

「はい……わかりました」

 歯切れは悪いが黒葉菫は頷く。始末を率先したのは鵺だが、複数人を相手にする時は黒葉菫も逃げ出す者の足止めをしたり止めを刺したりと淡々と仕事をした。それが脳裏を過ぎり、一瞬疲れた顔をしてしまった。それを隠すように黒い傘を開く。

「ごめんね。ヨウさんより君の方が話し掛け易くて」

「いえ……大丈夫です」

 くるりと黒い傘を回すと、見知らぬマンションの裏へと一瞬で移動する。信者を集めていたマンションではない。

 墓地で渾沌と対峙して以来の人間の街なので、獏はきょろきょろと辺りを見渡した。陽は暮れて空は暗い。黒衣が目立たない夜は好都合だ。

「このマンションの五階の右端です」

「わかった」

 獏は微笑みながら手を出し、黒葉菫の腕を掴む。思い切り地面を蹴り、体が軽くなった黒葉菫もふわりと宙へ投げ出される。マンションの外壁をとんと跳び、灰色海月より背の高い黒葉菫の頭の位置を失念し、彼は廊下の天井に頭をぶつけた。

「本当にごめん……」

「い、いえ……もう慣れました……」

「慣れるほど頭を打ったの……?」

 撫でれば痛みが緩和されるだろうかと獏は手を伸ばすが、触る方が痛そうだと手を引っ込める。

 動物面で顔は見えないが本気で心配していることは伝わり、黒葉菫も「大丈夫です」と手を振った。背が高いと頭を打つことはよくある。

 とにかく端に行こうと促し、廊下の突き当たりまで急いだ。獏も気を取り直し、人差し指と親指で作った輪をドアへ向けて頷く。目的の部屋のドアに手を翳すとがちゃりと鍵が開き、獏は暫し停止した。

「……忘れてたけど、僕は杖を出せるようになったんだよね?」

「え? 肋骨が増えたとは聞きましたが」

「今、杖無しでも力を使えたんだけど……」

「…………」

 確かめるために何度も触れずに鍵を開閉する。黒葉菫の体を軽くすることも、指の輪で中の気配を覗くのも、杖を持たずに行っていた。宵街では杖を召喚して渾沌を始末したので、杖を召喚して力を使えることは確かなはずだ。自分の骨を使った杖が召喚できるなら、杖でしか力を使えないのではないのか。烙印に何かされているのだろうか。疑問符を頭に浮かべながら、獏は訝しげに鍵を開閉する。


「……何をしてるんだ?」


 ドアの向こうから声を掛けられ、獏ははっと力を止めた。こんなにガチャガチャと煩くしていて気付かれないはずがない。

 ドアの覗き窓から外を確認した背の高い青年は、怪訝な顔でドアを開けた。件の創始者、教祖だ。

「廊下で騒がれると迷惑だ。中に入ってくれ」

 獏と黒葉菫は土足で部屋に上がるが、青年は何も言わなかった。

 信者を集めていたマンションとは違ってここは生活感がある。台所の流し台には洗われた空の皿、ソファの上には畳まれた服が置かれていた。

「獏が来ると聞いてたから驚かないが、玄関の鍵で遊ばれるとは思ってなかった」

「あれはちょっとね……」

 自分の能力を把握するにはまた時間が掛かりそうだ。獏は苦笑し、頭を切り換えて本題を切り出す。

「何で来たかはわかってる? 僕を神だの言って広めて、迷惑を掛けた報いを受けてもらいにだよ」

「信者はどうなった?」

 青年は動じずに淡々と問う。信者からは話を聞けなかったようだ。鵺は手際が良い。

「僕を本当に信仰してる信者は殺したそうだよ。後は元凶の君だけ」

「そうか。……俺も殺すのか?」

「そのつもり。でも死に方くらいは選ばせてあげるよ。どう死にたい?」

 獏が微笑むと、青年も微かに口の端を上げた。

「死に方を選ばせてくれるのか。この前の女の子より優しいな」

 鵺のことだろう。鵺は容赦無い。

「俺はもう死んでるようなものだからな。今更選ぶつもりはない。俺の人生を奪った『彼女』と同じ場所に行けるなら、何も望まない」

「……狂ってるね」

「人生を奪われ、そのことを恨みもしたが、同時に惹かれた。『彼女』は俺に自由をくれたんだ。……きっと俺は、有名になることが向いてなかったんだな。いつでも誰かに見られてるような気がして落ち着かなかった。今はそういうのが無くなって清々してるよ」

「その気持ちはわかるよ。誰かに見られてるような感覚。それはすぐに消えるものじゃない。君にとって『彼女』は救いだったんだね。それに目が眩んで他の感覚が消し飛んだ。羨ましい限りだよ」

「譬え獏でも彼女は渡さないが」

「いらないよ」

 直ぐ様突き返し、獏は顔を顰めた。獏は見世物小屋から解放されても、誰かに見られているような感覚が常に絡み付いていた。最近は周囲に人がいるからか気が紛れて薄れてはいるが、独りだった時は見られている感覚が消えず落ち着かなかった。

「……そうだな。どうせならベッドの上で殺してもらえるか? 彼女と一緒に寝たことがないんだ」

「はいはい。じゃあ一緒に寝かせておいてあげるよ」

 青年は写真集の中のように甘く微笑んでベッドに向かい、獏は台所へ向かった。黒葉菫も獏の後に付いて行くが、台所で何をするのだろうかと首を捻る。

 獏が慎重に冷蔵庫を開けると、中には膝を抱えて凍えた少女の死体が収まっていた。黒葉菫は目を見開いて唾を呑み、冷蔵庫からずるりと取り出されるそれを目で追う。

 学生服を着用し、腹には傷がある。この善行に同行したのは灰色海月であり、故に黒葉菫は詳細を知らない。それでも死体を冷蔵庫に保管して共に暮らしている青年が正常だとは思えなかった。

「…………っ……」

 凍えた少女を抱えようとした獏は、黒葉菫が半歩下がったことに気付く。顔を見上げると、彼は真っ青になっていた。

「だっ……大丈夫? スミレさん……」

 口元を押さえ、彼は目を逸らしながら頷く。全く大丈夫には見えない。先に獏教徒の始末に同行したと話していた黒葉菫が、死体を見てここまで気分が悪くなるとは思えなかったが、実際に彼は後退っている。

「後は僕が遣るから、離れて休んでていいよ」

 黒葉菫はゆっくりと頭を振ろうとしたが、動かそうとして諦めた。

「……すみません。死体は……見慣れてるんですが、今は少し……」

「うん。大丈夫だよ。座って休んでて」

「アキ……その……仲間が、渾沌の襲撃で死んで……それがまだ、脳裏に焼き付いて……」

 台所に手を突き、黒葉菫は疲れた目で流し台に視線を落とした。吐くわけではないが、少し眩暈がした。

「それは大丈夫じゃない!」

 獏は立ち上がり、黒葉菫を無理矢理床に座らせた。

「すぐに良くなるので……」

「今は良くないんだから座ってて。……まさか君の仲間に犠牲者がいたなんて……こんなことなら同行してなんて言わなかった」

「仲間の死は初めてじゃないんです……。時間が経てば、いつも通り……」

「すぐに終わらせるから。君はもう充分感情が育ってるから、辛いはずだよ……」

「…………」

 変転人は生まれた時は感情が乏しいが、十以上の年を重ねれば充分に感情が理解できる。黒葉菫は仲間の死の苦しさをもう充分に理解できている。

 動かないよう言い付けて彼を部屋の隅に置き、獏は冷えた少女の体を抱えてベッドに運んだ。横になって待つ青年の隣へゆっくりと置く。焦る気持ちはあるが、心が疲弊している黒葉菫の前で命を粗雑に扱うことはできなかった。

「……冷たいけど大丈夫?」

「ああ。俺ももうすぐ冷たくなる」

「その冷たさ以上に冷たいよ」

 いつもはこんなことはしないが、丁寧に二人に布団を被せる。黒葉菫のいる場所からは見えないだろうが、念のためだ。

 獏は一歩下がって背後へ手を翳し、流し台の戸を開いた。触れずに包丁を持ち出し、ベッドの上へ構える。

「じゃあ同じ死に方にしてあげるね」

「ありがとう。獏に会えて良かった」

「そう? でももし生まれ変わったら、僕にはもう係わらない方がいいね」

 鋒が下を向き、獏は一思いに包丁を布団へ突き立てた。青年の口から小さく声が漏れたが、それだけだった。

 ベッドの脇にあった空の棚に目を遣る。以前は自分の写真集を置いていた青年は、もう何も興味を示すことが無かったようだ。獏は少しの空虚を感じた。一度は助けた人間の最期がこれだ。

 人間とは言え、抵抗が無く嫌がりもしない者を殺すのはあまり後味の良いものではない。だがこの青年はもう自分では抑制できなくなっていた。獏の信仰もここまで膨れ上がるとは予想できなかった。そういう予想できないことが広がる恐怖。それを止めることも一人ではできない。

 ベッドの上から黒い靄が薄らと染み出る。彼が芸能界にいた頃から蓄積していたものだ。成長は遅いが徐々に彼を蝕んでいた。こういう悪夢は野放しになりやすい。何せ獏でも問題無いと見過ごしてしまう程度の悪夢だからだ。稀にあるのだ。消化しきれず、成長もせず、沈殿し宿主の自我を喰うものが。人間はこの所為でよく狂ってしまう。

 獏は目を伏せて踵を返し、座り込む黒葉菫をゆっくりと立ち上がらせる。いつまでも死体の居る部屋に居るわけにはいかないので、彼を促して部屋を後にする。

 玄関のドアと鍵を元のようにきちりと締め、獏は漸く一息吐いた。これで遣るべきことは終わった。力の増幅も一旦は治まるだろう。自分の杖も得たのだ、もう見合わない力に体を喰い破られる心配をする必要も無い。

「……一つ、いいですか?」

「ん?」

 外の夜気を吸い、黒葉菫の気分は幾らか落ち着いた。そして彼は眉を寄せながら慎重に言葉を選ぶ。

「記憶が……戻ったんですか?」

「…………」

「俺の感情が充分育ってるって……貴方は俺を覚えてなかったですよね? 俺の歳も知らないはず……」

「……実は年齢は覚えてて」

 言った後で、しまったと獏は思った。少し思い出した、とでも言えば良かった。

「幾らなんでも都合が良過ぎます!」

 狴犴と同じことを言われた。いや、確かに今の発言は都合が良過ぎた。黒葉菫の心配をする余り、記憶喪失の振りをしていることを忘れていた。

「その慌てようだと、記憶が戻ったわけではなく、覚えてるんですね? 何で騙したんですか?」

「怒ってる……?」

「……いや、怒ってるわけでは…………いや、やっぱり怒ってます」

 わざわざ言い直すのだからこれは確実に怒っている。獏はどう説明しようかと思考を巡らせた。黒葉菫が怒ることは珍しい。白花苧環に勝手に刻印されても怒らなかったのだから。

「ごめん……スミレさんには話した方が良かったかな……」

 演技では無く本当に申し訳無さそうに俯いて謝るので、黒葉菫もそれ以上は強く言えなかった。動物面で隠れてはいるが、落ち込んで眉尻を下げているのが透けて見える。感情が駄々漏れだ。

「……クラゲのことですか? 拒絶するために忘れた振りをしたんですか?」

「う、うん……」

「本当に不器用ですね……」

「だって僕の近くにいるとクラゲさんは……怪我ばかりで……」

「怪我をさせないために、泣かせてもいいんですか?」

「…………」

 泣かせたのは狴犴だと思いつつも、獏が口を挟める空気では無かった。

「クラゲは貴方に忘れられたショックで、獣に頼まれた手伝いもまともにできない状態です。病院にいますが、ずっと隅で座ってますよ」

「だったら……だったらどうすればいいの? 変転人は獣の近くにいない方がいいんだよ。君だって……わかってるよね……」

 先程挙げた秋水仙(アキズイセン)のことを言っているのだろうと黒葉菫は察した。獣の近くと言うなら、宵街に棲むことすらできなくなってしまう。人間では無い生物に人の姿を与えているのは獣なのに。

「……そうかもしれません。ですが、上手く遣ってる人もいるじゃないですか。少し見掛けただけですが、鴟吻の所にいる黒種草は上手く遣ってるんじゃないですか? そういう感じじゃ駄目なんですか?」

「それは……。クラゲさんは戦うのが苦手みたいだし……ほら、適材適所って奴だよ。無色だからって皆が戦う必要は無いと思うし、宵街で……ゆっくり過ごしてもいいんじゃないかな……」

 監視役は戦う必要が無い。狴犴はそう言っていたはずだ。黒葉菫はそう思ったが、言いたいのはそれではなかった。

「クラゲが望んだのは、貴方の傍にいることですよ」

 普段ならここまで喰い下がることはしないだろう。以前黒葉菫は灰色海月に相談されて、あまり良い答えが出せなかった。同じ変転人なのだから、何とか落とし所を見つけたかった。

 獏の突き放し方は少し異常に思えた。まるで怯えている小動物のようだった。

「……じゃあどうしたらいいの? クラゲさんが死んでもいいの?」

 面を被りながらも不安げな感情が伝わる。黒葉菫も言い過ぎたと感じた。獣にもわからないのだ。獏も混乱している。普通の人間のような関係性を築くことの無い獣と変転人には、そういう感情が稀薄だ。結局、黒葉菫にはどちらも納得させる言葉は浮かばなかった。

「俺には手に余るので、とりあえず宵街に戻りましょう……」

「…………」

 返事は無かったが黒葉菫は黒い傘を取り出し、人間が来る前にくるりと回した。もし今人間に遭遇したら、部屋の中の死体を説明できない。

 宵街へと戻った二人は下層の石段へ下り立ち、人影とぶつかりそうになった。

「……おっと」

 体勢を崩しかけた黒葉菫の腕を掴み、鉛色の髪の少年は突然現れた人影に赤褐色の目を丸くする。

「すまない」

「俺の方こそすみません……。確認を怠りました」

「それより二人共、浮かない顔をしているな」

 杖を片手に提げた鉛色の髪の少年――贔屓は、新しい動物面を被った獏の表情を見透かして問う。贔屓の後ろに共にいた蒲牢(ほろう)も、目を疑う量のタピオカを投入した苺ミルクのカップを片手に彼の背から覗いて小首を傾ぐ。

「……これはその……スミレさんに……」

「えっ……俺は……」

「フ……。仲が良いな。バレたのか? 獏」

 全てお見通しだとでも言うように、贔屓は笑いながら二人の顔を見る。蒲牢には何の話なのかわからなかったが、わからないのなら会話には加わらないことにした。

「やっぱり贔屓にもバレてる……」

「獏はとてもわかりやすい。そのままでいてほしい」

 笑いながら皮肉を述べるので、獏は頬を膨らませた。

 揶揄うのはここまでにして、贔屓も笑顔を苦笑に変える。

「黒葉菫が怒ったのなら、怒らせるようなことをしてしまったんだ。獏には痛くも痒くもないことでも、それは謝らないといけないよ」

「謝ったよ……」

「では落着か? それならもう突かないでおこう」

 二人の顔が曇るので、まだ終わっていないらしいと贔屓は察する。

「瓦礫を片付けている最中だが、話なら聞けるよ」

 黒葉菫は獏を見るが、獏は口を開く様子が無い。仕方無く黒葉菫が話すことにした。

「獏がクラゲを拒絶するんです。クラゲは傍にいたいと言うんですが……」

「ああ……灰色海月か。彼女は獏に傾倒しているようだからな。狴犴が監視役のことを言っていただろ?」

 獏が頷くと、贔屓も頷いて話を進める。

「灰色海月を監視役から降ろすことを提案したのは僕なんだ。あれは少々……危ういと思った」

「だよね? だったら僕の拒絶もわかるよね?」

「わかるよ。僕達で言う所の……」

 贔屓は一旦言葉を切って懐へ手を伸ばし、再び口を開いた。

「……鴟吻だな」

「鴟吻……?」

「知っての通り鴟吻はあまり戦える獣ではない。でも僕の傍にいたいと言う。長年離れて暮らしてはいるが。元は共に宵街にいて、鴟吻は報復の標的に選ばれた。共にいるべきではないと僕も思ったよ。だが鴟吻の気持ちを無下にはできなかった。今でも鴟吻の遣りたいように尊重している。千里眼で見られることを……盗聴器も含めてな」

「え? 今の全部聞かれてるってこと?」

「いや。盗聴器は切った。鴟吻が気付けば飛んで来るだろうから、彼女の話はここまでだ」

 盗聴器を元に戻し、懐から手を引く。贔屓の手でいつでも捨てられる物を身に付けている。

「獏も兄弟がいればわかりやすいのに」

 黙っていた蒲牢もぼそりと呟き、贔屓は苦笑した。

「兄弟のいる獣はあまりいないからな」

「俺は兄弟と一緒にいたかった。たぶん海月も兄弟とか……家族みたいに思ってるんじゃないか? 獏のことを」

「家族なんて余計にわからないよ」

「じゃあ一緒にいて教えてもらえばいいんじゃないか?」

「無責任な……」

「二人共。僕の話は終わってないよ」

 蒲牢は他人事だと思っているのだと思いながら獏は口を尖らせ、蒲牢は怪訝そうに贔屓を見る。

「灰色海月は危うい。だからきちんと教育を施そうと思ってね。生まれてすぐに獏の監視役に抜擢されたそうじゃないか。充分な教育ができていないはずだろ? 渾沌の脱獄で話が途中になってしまったが、あの後狴犴にその辺りのことは聞いたか?」

「別に何も。新しい監視役は白にするってことだけ」

 贔屓は頭を抱えた。それでは混乱が起きるわけだ。渾沌を始末してから随分と時間が経っているのに、説明が最後までされていない。宵街のことが多忙で忘れているのだろう。一旦距離を置くために灰色海月には話さなくとも、監視される獏には話しておくべきだと言うのに。獏が記憶喪失などと言い出した所為で拗れてしまったのかもしれない。

「確かに新しい監視役は選出するつもりだが、飽くまで灰色海月の教育が終わるまでだ。口を出さないつもりだったが、落ち込み過ぎるのも良くない。後で彼女にも話した方がいいな……」

「え……? じゃあクラゲさんは……」

「獏が幾ら欺こうと灰色海月が監視役であることに変わりはないよ。教育期間中は監視ができないから、一旦降ろすだけだ。貴重な灰色だからな」

「…………」

 俯く獏の心情は複雑だろうが、贔屓は違和感を覚えていた。記憶を失った振りをしてまで彼女を拒絶するのは、本当に彼女のためだけなのだろうか。

「……灰色海月の気持ちはわかったが、君は極端に恐れている気がする。君が彼女を拒絶するのは――君が独りになりたくないからじゃないか?」

 黙って耳を傾けていた黒葉菫の方が首を傾ぐ。独りになりたくないなら何故灰色海月を拒絶するのか、意味が理解できなかった。矛盾している。

「これは変転人には理解が難しい感覚だろうな。獣は長命だろ? 当然、変転人の方が先に、早く死んでしまうものだ。絆が深ければ深いほど、失う痛みは大きい。獏はそれを恐れて、遠ざけたいんじゃないか? 記憶を失ったと言えば、絆も振り出しだ。何も無かった頃に戻る。灰色海月のためであることは事実だろう。だがそれと同時に、君が傷付かないためでもあるんじゃないか?」

 静かに言葉が紡がれていく中、獏の中でことんと何かが腑に落ちた気がした。動物面に隠れた顔が青褪め、そして白い頬が徐々に赤く染まっていく。

「…………」

 獏は一層俯いた後、何も言わずにくるりと踵を返し、石段を駆け上がって行った。

「逃げたな。あの様子だと、無意識か。もう百年ほど生きればそういう感情にも自ら気付けたと思うが、獏は若いな。他人が言葉にしてやらないと気付かないらしい。誰かの死を見て、無意識に薄々と寂しさには気付いていたかな? 黒葉菫、追ってくれるか?」

 獏は不器用だとは思っていたがそんな気持ちを隠していたとは気付かず、黒葉菫もぽかんと口を半開きにしながら、走り去るか細い背中を目で追った。

「……マキ……苧環でもいいですか? 俺には追い着けないです」

「そうか? なら苧環に声を掛けておいてくれ。僕はもう少し瓦礫と向き合わないといけない。獏も無意識なら悪気があったわけではないだろ。程々にな」

 重い物を軽々と持ち上げられる贔屓の力はこういう場で重宝する。困っている変転人がいないかと見回りながら瓦礫を撤去している。蒲牢もストローを咥えながらそれに従い、罪人も大変だと思いながら贔屓に付いて行った。

 黒葉菫はラクタヴィージャを手伝っていた白花苧環を呼び出し、獏の記憶は失われていないとこっそり暴露した。白花苧環はきょとんとしたが、「へえ……」と眉を寄せながら不敵に笑い、すぐに獏を追ってくれた。半獣の彼なら獏に追い着き捕まえられるだろう。

 灰色海月はまたショックを受けそうだが、黒色海栗(ウニ)にも共に打ち明ければ痛みは多少軽減されるはずだ。騙されたのが灰色海月一人なら立ち直れなかったかもしれないが、騙されたのは四人だ。発覚を見越して騙す相手を四人にしたのかもしれない。本当に小癪だ。

 ラクタヴィージャに休憩を貰い、黒葉菫は灰色海月と黒色海栗に獏の記憶が失われていないことを話し、二人は当然驚いたが黒色海栗は「良かった」と言った。

「記憶を失ってなかった。覚えてくれてるのは良いこと」

 黒色海栗は人が良い。恨む気持ちは微塵も無く、表情には出ないが純粋に喜んでいた。

 灰色海月は俯いてしまったが、黒色海栗の前向きな考えに感化され「そう……ですよね」何とか呑み込んだ。

 一度に二人に打ち明けて良かったと黒葉菫も安堵する。獏が四人を騙した理由は灰色海月の前では話すことができなかったが、灰色海月が監視役を降ろされるのは教育をするためだと教えた。彼女は暫く呆然としていたが、解任されたわけではないと漠然と理解はした。

 そうして落ち着いた頃に、白花苧環は獏の首輪の鎖を掴んで引き摺りながら戻って来た。まるで言うことを聞かないペットを無理矢理散歩しているかのようだった。

「本当に記憶の無いオレの前で、よくも記憶喪失だと嘘が吐けましたね」

「ご……ごめん……」

「これだから罪人は信用できないんです」

「……でも目覚めた時は本当に記憶が混濁してたんだよ。頭がぼんやりしてて」

「信用してほしいなら、人を騙さないことですね」

 呆れて溜息を吐く白花苧環の言葉は正論だ。だからそれ以上は獏も何も言えなかった。何度も消え入りそうな声で小さく謝るだけだった。

 獏は顔の火照りが取れずに俯く。灰色海月のためを思ってした拒絶が、まさか自分のためだったなどと、無意識だとしても恥ずかしくて顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい。そして多くの人を自分のために騙してしまったことに、ばつが悪い。


「――あ! 皆揃って久し振り! 怪我?」


 花籠を抱えてぱたぱたと笑顔で石段を駆け上がって来たのは、見慣れた青い髪の浅葱斑(アサギマダラ)だった。よく見ると肩に花魄(かはく)も顔を出している。

「あら苧環! ママよ!」

 花魄は大きく手を振りながら叫び、浅葱斑は耳を押さえた。幾ら体が小さくても耳元で叫ばれると脳まで揺れる。

「怪我では無いです。今は休憩中ですが、病院の手伝いをしてます」

「そっちか。ボクも病院に薬の配達。皆無事で良かった」

「蒲牢の御守りを貰った人にはあんまり被害が出なかったらしい。アサギも貰ってたのか?」

「御守り? 何それ」

 不思議そうに首を傾ぐ肩の上で、花魄も小さな首を傾いだ。

「ボク達は花畑にいたから、宵街が大変なことになってるのに気付かなくて。別空間だと全然わからないものなんだな。結構死傷者が出たって聞いたけど……」

 どうやら二人は花畑の中にいた御陰で無事だったようだ。

「浅葱。とりあえず先に薬を届けましょ」

「あ、そうですね」

 多数の怪我人が押し寄せ、病院は薬が足りなくなってしまったのだ。特に精神を鎮静させる薬水の材料が不足している。早く届けねばと浅葱斑は手を振った。

「じゃ、また」

「苧環が無事でママも安心よ!」

 駆け足で病院に入る背を見送り、白花苧環は無言で視線を戻した。どうにも『ママ』が慣れない。

「……親だとは思ってますが、ああも強調されると何と返せばいいかわかりませんね」

「確かにそう言う獣は珍しいな。放棄するのが普通なのに」

「スミレの親は……?」

「知らない。でもあんまり気にしたことはない」

「私も親知らない。でもスミレとか、皆がいるからいい」

 自分に人の姿を与えた獣を知らない黒葉菫や黒色海栗の方が多数派だ。そしてそれを気にする変転人もいない。知っている変転人を羨ましいとも思わない。特に何も感情を抱かないのが普通だ。

「クラゲが監視役のままなら、また遊びに行ってもいい? 牢屋に遊びに行くのは駄目?」

 黒色海栗が皆を見回すので、一斉に獏の方を見た。白花苧環に鎖を掴まれた獏はまだ仄かに頬を赤く、居心地が悪そうだ。

「……君達が怒られないなら、構わないよ」

 表情は乏しいが、黒色海栗は興奮気味に頷いた。獏が罪人だときちんと理解しているのだろうか。

「えっと……それじゃあ、あの街に行って物を回収してもいいかな? 悪夢がいないか最終確認しろって言われてるし……。街を始末するなら、店の中の物を持ち出しておかないと」

 獏は漸く観念したようで、眉尻を下げながら小さく息を吐いた。贔屓の言ったことは図星だ。だがはっきりと指摘されるまで、獏の本心は自身にも認知できていなかった。霧が掛かったようにぼんやりとしていたのだ。ずっと独りでいたのに独りになるのが怖いなどと、言われるまで自覚できなかった。

 獏の周囲に人が集まるようになったのは、獏が罪人になってからだ。知人の寿命はまだ見たことが無いが、死は何度も見た。その死で、死により存在が消えてしまう恐怖と動揺を知ることになり、獏の中に深く蟠った。それが無意識に拒絶の形になってしまった。

「えっ……あの瓦落多(がらくた)、新しい牢に持って行くんですか?」

「失礼だね……スミレさん。あれは売り物だよ」

「すみません……」

 新しい牢でも店を継続するようだ。なんて自由な罪人なのだろう。

「新しい牢ができるまで、誰かの家に一時的に置かせてもらっていい?」

「オレの家は少し遠いので、運ぶのは大変ですよ。それ以前に嫌ですが」

「……私の家はありません」

「私も。家壊れた」

 何気無くけろりと答えるが、皆は彼女の言葉に動揺した。渾沌の襲撃で黒色海栗の家は犠牲になったようだ。家に居たら命は無かった。黒葉菫達もそれは初耳で、突然家を奪われた彼女に同情した。

「……わかりました。俺の家に置いてもいいです」

「ありがとう。助かるよスミレさん。ウニさんは、その……大丈夫?」

「大丈夫。狴犴に『家が欲しい』って要望を出した。忙しそうだし時間は掛かると思うけど、家は貰えるから大丈夫」

 生活に必要な欲しい物があれば、科刑所に要望を出すのが宵街の決まりだ。家も例外ではない。被害が多いので実際に用意されるまでは時間を要するだろうが、信頼はある。贔屓と蒲牢が瓦礫掃除に走り回っているのも、早く家を用意するためだ。

「それなら安心だね。じゃあ街に転送してほしいんだけど……」

 白花苧環に首輪の鎖を掴まれながら獏が首を傾けると、透かさず灰色海月が手を挙げた。監視役続投なら落ち込む必要は無いのだと漸く言葉を嚥下できた。監視役を降りるのは一時的なのだ。しっかりと教育を受けて監視役に相応しくなるためにも率先して行わなければと、気持ちを切り替えて灰色の傘を意気揚々と掌から引き抜く。

「病院の方は手伝わなくて大丈夫かな?」

「休憩を貰ったので大丈夫です。それに俺達の他にも手伝ってる無色はいます」

「休憩中に働かせちゃってごめんね」

 くるりと灰色の傘を回すと五人の姿は消え、そこには最初から何もいなかったかのように静寂が流れた。

 その直後にラクタヴィージャは忙しなく、待合室に集まる患者を跳び越える。

「ヒメ! 科刑所に出張するから少しの間任せるわ!」

「はい。わかりました」

 ラクタヴィージャはトランクを手に病院を飛び出し、石段を駆け上がる。重傷者の処置が一段落したため、睚眦の治療に向かうのだ。

「あ、レオ! 暇だったら病院でヒメを手伝ってあげて!」

 途中で見掛けた黒色蟹に声を掛け、ラクタヴィージャは足を止めずに擦れ違う。彼と共にいた白実柘榴(シロミザクロ)はきょとんとした。

「わかりました」

 茂みの中で細かい瓦礫を片付けていた黒色蟹は手を止めて立ち上がる。暇では無いが瓦礫掃除より人命が優先だ。

「レオ先生、これが仕事って奴なの?」

「ああ。柘榴も手伝うか?」

「遣ってみるの!」

 ひらひらとした白いスカートを翻し、白実柘榴はぱたぱたと石段を駆け下りる。黒色蟹もそれに続いた。家が焼け落ち鬱ぎ込んでいた彼女だったが、今はもう前を向いている。

 宵街はまだ暫く慌ただしく処理に追われるだろうが、手を伸ばす者達がいる内は前に進める。

 狴犴は正念場だ。薬に洗脳された不名誉を払拭する時だ。裏通りは廃れてしまったが、表通りを守るために力を尽くす。彼はもう独りではない。手伝う兄達がいる。

 獏もまた独りにはならず、嫌々ながらも新しい牢でまた罪人の刑を喰っていくだろう。


第一幕、完です!

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました!少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。

一旦完結としますが、第二幕に続きます。よろしければ是非、第二幕もどうぞ!

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