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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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123-切れた糸


 誰もいない透明な街は、その役目を終えたように静謐を纏っていた。

 悪夢が侵蝕し端は崩れ、残る建物も幾つか損壊している。端は相変わらず何も見えない闇だが、そこに蠢く影はもう無い。石畳や家々に蔓延っていた黒い菌糸も目に付かず、悪夢が嘘のようだった。

 (しん)椒図(しょうず)は屋根の上に座り、一ヶ月じっと端の方を観察している。最初は窮奇(きゅうき)も付き従っていたが、やがて飽きたと言って去ってしまった。彼は蜃のことは好いているが、意外と淡白だ。蜃が残って観察を続けると言うと、無理に連れ出そうとすることもなくあっさりと出て行った。

「もう一ヶ月以上経ったし、本当に悪夢はいなくなったんだろうな」

(ばく)がいれば僕達が気付かない物にも気付くだろうが、僕達ができるのはここまでだな」

「俺が創った街だし最後まで見張りはするが、獏が眠りこけるのは想定外だな……。起きたら街を一周調べて終わりだと思ってたのに」

「獏も今まで大変だったからな。寝坊くらい許してあげよう」

「……腹減った」

 屋根の上に寝転がり、蜃は何も無い黒い空を見上げる。この街はもう時間が停止していない。放っておいても年月を経れば勝手に朽ちていく。

海月(クラゲ)達が菓子作りを始めて何日か経ったんじゃないか? 少し分けてもらおうか」

「行く」

 ぱっと体を起こし、蜃はそわそわと立ち上がった。この街の時間は停止していないが、唯一獏の使っていた古物店だけは椒図が閉じて時間を停止させている。停止と言っても中にいる者まで止まっているわけではない。今までと同じように食べ物が腐らないと言うだけだ。

 暗い街に一つだけ明かりの灯る古物店のドアを開けると、すぐに甘い香りが鼻腔を擽った。この感覚も随分と昔のようで懐かしい。

 狭い台所に三人は窮屈そうだが、灰色海月の指示に従って着々と焼菓子の量を増やしていた。灰色海月の精神状態が心配だからと気分の紛れる菓子作りを提案したそうだが、上手くいっているようだ。

 奥の机の上には大きな皿や籠が所狭しと犇めき、床にも木箱を置いて菓子を並べている。

 丁度焼菓子を詰め込んだ籠を持って台所から出て来た黒葉菫(クロバスミレ)と目が合った。

「それ、置く所あるか?」

「少し……難しいですね……」

 辺りを見渡すが、歩く場所を空けておくことを考慮するともう余裕が無い。元々狭い店内だ、埋まるのは早い。

「それは何て御菓子だ? 俺が食べて減らしてやるよ」

「フィナンシェです。でも獏に食べてもらう物なので……少しなら大丈夫だと思います」

「いやあいつ少食だろ。そんなに喰わないだろ」

 まだ温かい小さな黄金色の長方形を一つ抓み、蜃は早速頬張る。

「美味い」

「僕も一ついいか?」

 椒図も一つ口に入れ、目を丸くした。地下牢での生活が長かった椒図は、この時代の食べ物をまだよく知らない。化生前に灰色海月の作った菓子は幾らか食べたが、実は味の記憶は曖昧だ。言葉の記憶は戻っているが、言葉で表し難い感覚は記憶として残らなかったのだ。昔よく蜃と釣った魚の味も思い出せない。化生後に食べたカステラの味は覚えているので、フィナンシェと言う菓子はそれとも違うアーモンドの風味が新鮮だった。

「確かに美味しいな」

「他のも食べていいか?」

「少しなら……」

 皿と籠を物色し、どの焼菓子を食べるか蜃は大きな瞳を輝かせている。目移りしてどれを抓むか真剣に悩む。

 椒図は手にしたフィナンシェを食べ進め、台所を覗いた。灰色海月がボウルの中を掻き回し、白花苧環(シロバナオダマキ)は蹲んでオーブンを眺めていた。

「海月の調子はどうだ? 大分落ち着いたか?」

「落ち着いたと言うより、気を紛らせられてはいるようです。考える隙が無いと言うか。クラゲに隙が生まれそうな時は、マキが質問をして意識を逸らしてます」

「苧環は案外面倒見がいいんだな。狴犴(へいかん)に頼まれたのか?」

「自主的です。狴犴の方がよく理解できてないみたいでした」

「ああ……」

「あ。珈琲……いえ、カフェオレを淹れますね」

 珈琲は苦いからと以前カフェオレと言う物を教えてもらった黒葉菫は、他の籠の縁にフィナンシェの籠を置いて台所へ戻った。

 カップを貰っても置く場所は無さそうだが、階段の方にはまだ踏み場があり、椒図はそちらへ移動する。

 初めて淹れたカフェオレのカップを手に、黒葉菫は木箱を避けながら二人の許へ向かう。

 丁度喉が渇いていた蜃はすぐに口を付けたが、きゅっと眉間に皺を寄せて顔を顰めた。

「苦い……」

「ミルクを半分……ですよね? カフェオレでも苦いですか?」

「無糖だろこれ」

「砂糖を持って来ます」

 これでも充分苦さは抑えられていると思いつつ椒図はカップを傾ける。甘い菓子を食べた御陰で苦味が強調されてしまったようだ。

 蜃がシュガーポットから砂糖を掬う傍ら、椒図は雑談を持ち掛ける。

「気になってたんだが、今は獏への手紙はどうなってるんだ?」

 シュガーポットを持ちながら黒葉菫は淡々と答える。

「時々ポストに確認に行ってます。神格化の件なら、(ぬえ)鴟吻(しふん)が処理しました。鵺だけだと本当に獏を信仰していた人間以外も始末する所でしたが、鴟吻に標的の様子を見てもらって、危険だと判断した人間だけ始末できました。俺も少し手伝いました」

「神格化の件が片付いたのは喜ばしいな。これで獏の体も安心だろう」

「鴟吻は取り零しが無いかまだ確認を行ってますが、今の所は何も無いです。創始者だけは獏に処理してもらおうと残してますが、刻印してあるので逃げられることはないです」

「そうか。最近投函される手紙の内容はどうだ? 相変わらずか?」

渾沌(こんとん)が起こした騒動の所為で切迫した手紙が多くなりました。死者を生き返らせてほしいとか、家を返してほしいとか……さすがに獏もこれは叶えるのが難しいと思います」

「……そうだな。失われたものは、譬え同じように見えるものを作れたとしても別物だ。特に死者はどうにもならない。獣ですら別人に化生するんだからな」

「人間には何が起こったか知ることは無いので歯痒いですね」

「同情は構わないが、あまり入れ込むなよ。多くの獣は人間を何とも思ってない。人間の肩を持つと今後仕事が遣り難くなる」

「……はい。肝に銘じておきます」

 人間の由宇(ゆう)由芽(ゆめ)の所へは一度報告に行き、騒動の原因である獣は捕らえたと伝えた。二人は安堵していたが、心労は筆舌に尽くし難い。元の生活を送るための気持ちの整理にはもう少し時間が必要だろう。

 家と家族を喪った白実柘榴(シロミザクロ)は、今は宵街(よいまち)で暮らすために黒色蟹の家で勉強をしている。文字を読めるようになって、暮らしに慣れれば新しい家が与えられる。白実柘榴は最初は涙が絶えなかったが、今はもう宵街と言う新しい景色に興味津々だ。彼女はまだ生まれたばかりで感情が育っていないこともあり、すぐに気持ちを切り替えられたのだろう。人間の街で焼け落ちた自分の家も黒色蟹と共に見に行ったらしい。焼けて何も残っていなかったが、庭の土を持ち帰って黒色蟹から貰った植木鉢に入れたと言う。何かを育てるかは考えていない。

 人間と関わりがあっても、獣に仕事を頼まれれば変転人は従わなければならない。感情を殺していく内に黒色蟹も最年長でありながら感情が乏しい。二人は丁度良い距離感で話せるようだ。

「……後は、眠れるようになりたい、と言う願い事も散見されます。それなら獏でも叶えられます」

「眠って悪夢を見るなら、獏にも良い食事だな」

「はい。なのでそういう手紙は分けて纏めてます」

 少しずつ砂糖を加えて調整していた蜃は漸く満足し、一口飲んで頷いた。獏より砂糖の量は控え目だが、これはもう珈琲は苦手だと言った方が良いだろう。

 シュガーポットの蓋を閉めて台所へ戻ろうとした黒葉菫は、不意に視線を感じた。棚の間の通路の向こう、ドアの隙間から黒色海栗(ウニ)が覗いていた。

「ウニ……? 何か用か?」

「連行」

「連行……?」

「びっくりするかもしれない。クラゲもいる?」

「……いる」

 黒葉菫は台所へシュガーポットを置き、灰色海月と白花苧環を呼んだ。何となく推測はできた。灰色海月をとにかく落ち着かせておく。

 蜃と椒図も何事かと通路に顔を出す。

 黒色海栗は後ろを振り返り、ゆっくりとドアを開けた。その向こうに立っていた見覚えのある姿に灰色海月は思わず駆け寄りそうになったが、黒色海栗が手で遮るような動きをするので留まった。

「私もびっくりしたから……」

 お面は被っていないが、黒髪に金色の双眸は見間違えることなく見慣れた獏だった。襟が開いており、痛々しい烙印が露わになっている。薄らと微笑むので、灰色海月は慌てて頭を下げた。

「こんにちは」

 獏は薄く微笑んで挨拶をする。

 挨拶を交わすのは不思議なことではないだろう。だが一ヶ月以上眠り続けて、最初に言う言葉がそれなのかと違和感はあった。

 獏はやや困ったように黒色海栗を見る。彼女は慌てて言葉を付け加えた。

「眠ってる間の大まかな説明はした。だから……皆、自己紹介をしてほしい」

 その言葉で灰色海月の表情は強張った。それが意味するのは、記憶が無いと言うことだ。それを聞くのが怖くて、灰色海月は口を開くことができなかった。

「オレは白花苧環です。変転人ですが、半分獣です」

 言葉の意味を理解していないはずがない。白花苧環は口を開かない灰色海月を一瞥して、率先して自己紹介をした。獏には特に反応は無かったが、少し不思議そうな顔をする。

「半分獣……? そういうのもいるんだね。僕は獏。よろしくね」

 白花苧環は胸に手を当て丁寧に頭を下げ、黒葉菫を一瞥した。意思を汲み取り、黒葉菫も困惑を抑えて自己紹介する。

「俺は黒葉菫です。黒所属の普通の変転人です」

「大半は普通だよね……? よろしくね」

 獏は何も覚えていないのだ。化生した椒図と饕餮(とうてつ)のように。灰色海月は言葉が喉から出て来なかった。

 灰色海月が何も言わないので、先に蜃が手を挙げる。

「俺は蜃。獣だ」

「僕は椒図。同じく獣」

 獏は少し目を丸くし、一度床に視線を落として考える仕草をする。やがてはっと顔を上げた。

「名前は聞いたことがある。もしかして、仲が良かった?」

「全部忘れてるわけじゃないのか……?」

「やっぱり忘れてるの? 病院でも記憶が無いって言われたんだけど。あ、病院で二人の名前を聞いたわけじゃないよ。何だか知ってる気がしたんだ」

「俺と椒図だけか?」

「ん……それはわからないけど。わからないから自己紹介してもらってる」

 どうやら完全に記憶を失っているわけではなく、覚えていることもあるらしい。

 黒色海栗もこくりと頷く。

「私のことも知らなかった。科刑所に報告しに行く前に、ここに確認してほしいって頼まれた。クラゲも自己紹介してほしい。獏を助けるため」

 そう言われては言わないわけにはいかない。灰色海月は目を伏せるが、蜃と椒図の名は覚えていたのだから、この中で一番付き合いの長い灰色海月のことも覚えているかもしれない。微かな希望を胸に、意を決して口を開く。

「……灰色海月です。変転人です。貴方の……監視役をしてます」

 獏は白花苧環と黒葉菫に向けたものと同じように微笑み、「よろしくね」と言うだけだった。灰色海月のことを覚えていない。彼女は膝から崩れ落ちそうになったが、絶望が全身を支配したように固まってしまい動けなくなった。

「他に自己紹介してない人はいる?」

 黒色海栗の確認にも灰色海月は答えられず、代わりに白花苧環が答える。

「いえ。ここにいるのはこれで全員です」

「獏は病院ではラクタヴィージャのことも覚えてなかったんだけど、この街のことは少し覚えてた。だから誰か覚えてる人もいるんじゃないかって。蜃と椒図のことは覚えてたから……」

「神隠し関連、か?」

 椒図も気付いてぽつりと漏らした。獏は首を傾けながら咀嚼する。

「状況はあんまり覚えてないんだけど、先代の悪夢を殺したことは割とはっきり覚えてるんだよね。神隠しって言うのはその先代の頃に遣ったことなんでしょ? 先代が消えたことで、僕と同化した部分があるんじゃないかな。杖を持ってた先代が消えて、僕に杖となる新しい骨が生えてきたのも、その所為だと思う。……同化なのか部分的な化生なのか僕にはわからないけどね」

「取り乱したりはしないんだな。随分落ち着いている」

「取り乱すにもある程度記憶が必要だからね……知らないことに対して取り乱すのは難しいよ。気持ちはモヤモヤするけど」

「僕も化生したと聞かされた時は実感が無かったな。……まあ一時的な記憶喪失かもしれない。これから科刑所に行くのか?」

 これには黒色海栗が頷く。

「クラゲ達も来て。蜃と椒図は街の見張りがあるから、来なくていい」

「だったら獏、このフィナンシェを一つ食べてみろ。海月が作ったんだが、なかなか美味しい」

「フィナンシェ? へえ、初めて食べるよ」

 手渡しで椒図から受け取り、早速齧ってみる。確かに美味しかった。

「こんな美味しい物を作れるなんて凄いね。他にもたくさんあるし……ここは御菓子屋さんかな?」

 冗談を言っているわけではなく、記憶が曖昧でこの古物店がどのように利用されていたのか覚えていない。一時的な記憶の混乱だと思いたいが、似た状況の饕餮は記憶を取り戻していない。椒図のように記憶を取り戻すきっかけが無ければ絶望的と言えた。元々人形のように整った綺麗な相貌は、記憶が空の今は余計に人形のように見えた。

 呆然とする灰色海月を、黒葉菫と白花苧環は何とか促し、三人は店の外へ出た。

 蜃と椒図は黒葉菫の黒い傘でくるりと宵街へ戻る獏達を見送り、顔を見合わせる。

「……記憶を取り戻す手伝いができないか、もう一度街を見回ってみるか」

「そうだな……。神隠し関連を覚えてるってことは、街の中で何か見つかるかも……見つかるか? もう何周もしたぞ」

「隙間も見てみよう。家も一軒一軒」

「さすがに面倒臭いな……御菓子、もう少し喰ってもいいか」

「怒られない程度にな」

 蜃と椒図の名に覚えはあっても顔を覚えていないのは、もしかしたら前世の方の顔を覚えているからかもしれない。神隠しを行っていた時の姿を覚えているのなら、今世の顔を知らなくても納得はできる。その場合は先代と同化したと考える方が良いだろう。

 灰色海月には辛い結果となってしまったが、獏の性格自体は変わっていない気がする。先代の獏とは明らかに雰囲気が違う。

「……僕の記憶が戻らないままだったら、蜃はどうしてたんだ?」

 ふと尋ねた椒図に、菓子に手を伸ばそうとしていた蜃はぴたりと止まった。

「は? もう一度友達になるに決まってるだろ!」

「海月もこのくらい割り切れればいいんだがな……」

 まだ幼い灰色海月にはそれは難しいだろう。困惑と混乱はそう簡単に嚥下できない。



 宵街へと戻った一行は科刑所を訪ね、白花苧環に案内されて反省室のドアを叩く。すぐに贔屓(ひき)が顔を出したが、彼は苦笑した。

 最初は反省を一ヶ月程度と決めていたが、すぐに横になれるベッドが近くにあるので、仕事が落ち着くまで狴犴の反省を続行している。狴犴は仕事ができるなら場所を気にしない。

「反省中に失礼します」

「……顔触れで要件は察したが、狴犴が反省室にいることは公には秘匿しているんだ。狴犴にも尊厳があるからな」

「オレ一人で来るべきでしたか?」

「ああ、いや……過ぎたことは置いておこう。場所を移そうか」

 狴犴も書類を置いて立ち上がり、一行を見渡して無言で廊下に出た。反省室にいることを、中でも罪人に見られることは屈辱だろう。だが狴犴は眉一つ動かさず咎めることもなかった。

 狴犴の後に一行は続き、贔屓は最後尾に付く。狴犴の部屋に入ると彼は少し席を外していただけだとでも言うように奥の自席に座った。頭を下げて部屋に入る変転人達に続いて、獏も躊躇うように一旦足を止めて中に入る。贔屓は皆にソファに座るよう勧め、自身は狴犴の後ろへ壁に凭れて腕を組んだ。

「目を覚ましたようだな」

 狴犴が口を開くと、場には冷たい緊張感が立ち籠めた。今まで反省室に居たと言うと親しみを覚えるが、それを感じさせないような威圧感がある。

 黒色海栗も緊張して口が開かなくなってしまい、結局白花苧環が話すことになった。

「覚ましはしましたが、記憶に欠如が見られるようです」

「欠如? 負傷の後遺症か?」

「負傷と関係はあると思いますが……。オレ達のことを覚えてないんです。蜃と椒図のことは、名前だけは覚えてるようです」

 獏を一瞥すると、相違無いと相槌を打つ。

 後ろで黙って見ているつもりだった贔屓も、想定外の事態に背を浮かす。

「獏。僕は贔屓だ。こっちは宵街の統治をしている狴犴だ。僕と狴犴は椒図の兄だが、覚えているか?」

「……わからない。でも僕は罪人で、烙印を捺したのは狴犴だっていうのは聞いたよ」

「どんな罪を犯したかは覚えているか?」

「そこがちょっと曖昧なんだよね……色んな感情が混ざってるような」

「覚えていないのか……これは困ったな、狴犴」

 記憶を失っているのなら、新しく捺した烙印の説明を理解できないだろう。折角獏のために特別な烙印を作ったのに、暫く様子を見るしかない。

「そうだな。獏は病院で検査と観察、事によっては治療を受けろ。新しい烙印については、記憶が戻るかどうか観察後に説明をする」

「うん、わかった。思い出せるかわからないけど、僕も頑張るよ」

「一つだけ先に言っておこう。以前のお前の烙印では悪夢を食すことを禁じていたが、今の烙印では許可している」

「えっ!? 悪夢を食べられなかったの!? 獏にその仕打ちは酷くない!?」

「罪人が何を言っている? 酷くて当然だろう」

「……何となくわかったよ……悪夢を食べることを禁じたけど、きっと何か悪夢絡みで問題があったんだね? それで悪夢を食べていいようにした。でしょ? 悪夢を食べられなくするなんて、問題があっても自業自得だね。これに懲りたら――いたっ!」

 何かが頭の上に落ちてきたが、視認する前に消えてしまった。頭を摩りながら獏は辺りを見回す。机の陰で狴犴が印を発動して小さな鉛玉を落としたのだが、獏はそれには気付かない。

「フ……性格は変わっていないようで安心したよ。昏睡に至った原因は聞いたか?」

 遣り取りを眺めていた贔屓は堪えきれなくなったように口元に手を遣り、笑いながら問う。

「そこは覚えてるよ。悪夢に遣られたんだよね?」

「覚えているなら良かった。僕達はそこを知りたいんだ」

「知りたい……? これから拷問されるってこと?」

「そんなに固く考えなくていい。普通に話をするだけだ。覚えていないかもしれないが、君は罪人だが仲が悪かったわけではないんだ。少なくともきちんと話してくれる程の仲だった」

「…………」

 記憶が無いのだから確かめようはないが、獏は顔に困惑を貼り付けながら変転人達を見回す。灰色海月は俯いていたが、黒葉菫と白花苧環は頷いた。それを見て黒色海栗も神妙に頷いた。

「記憶が無いのは不安だろうが、僕達もできる限り記憶を取り戻す手伝いをする。話してくれるか?」

「まあ……僕も記憶が戻るなら、その方がいいけど……」

 獏は憂えるように目を伏せて先程古物店で話したことをもう一度話し、贔屓と狴犴は静聴した。彼らも今までの出来事を語り、記憶の有無を確認する。

 一時的な記憶の混乱なら希望はあるが、もし部分的な化生だとしたら記憶が戻る希望は薄い。

 俯いていた灰色海月も話を聞いている内に、記憶のために何か話さなければという気持ちが強くなった。彼女が訥々と口を開くと、他の三人もこれまでの出来事を思い出しながら語り始める。白花苧環も生まれ変わる前の記憶が無いので、所々新鮮な気持ちで聞いていた。

 罪人だと言うのに変転人達は少しも怖がらずに、寧ろ対等に接している。こんな例は中々無いものだ。人間からの加害が原因で罪を犯してしまった獣への処罰を贔屓と狴犴は改めたが、それは悪夢への特権を持つ獏のために考えたものだ。

 渾沌も元を辿れば人間に封印されたからではあるが、渾沌の場合はその前に人間へ加害を行っている。二人の罪は対照的だ。

 獏は変転人には大切に接していた。狴犴もそこは評価している。

 獏は相槌を打ちながら皆の話を聞いていたが、一度も『知ってる』とは言わなかった。渾沌との戦闘には変転人は同行しておらず語れないので、代わりに贔屓が少し話したが、獏はそれも覚えていなかった。

 長い時間を掛けて全て語り終え、他にまだ無いかと変転人達は記憶を手繰るが、目ぼしいものはもう無かった。

 報告で聞くことがなかった彼女達の関係を聞くことができ、新たな烙印を作った贔屓と狴犴は、烙印を作り直したことは正しい選択だったと思うことができた。

「折角話してくれたのに、何も思い出せなくてごめんね」

「いえ……。思い出さなくても今の話を覚えれば、記憶があることになりませんか?」

「ふふ。記憶と気持ちを分ければ有りかなぁ?」

 記憶は無くとも獏の接し方は以前と変わっていない。ならば今語ったことを覚えていれば、以前と何も変わらないのではないだろうか。灰色海月はそう考えたのだが、笑われるようなことを言ったつもりはなかった。灰色海月にはまだ『思い出』という言葉は難しく、理解できていなかった。

「――一旦、口を閉じろ」

 指先で机をコンと叩き、狴犴は自分へ意識を向けさせる。科刑所は歓談する場所ではない。

「記憶の件はラクタヴィージャに任せるが、罪人をいつまでも自由にさせているわけにはいかない」

「僕が何の罪を犯したか、具体的なことはわからないんだけど」

「それは変転人に席を外させてからだ」

「ああ……成程ね。あんまりペラペラ喋るものじゃないよね」

「その前に、先に灰色海月に話がある」

 名指しされた灰色海月はびくりと硬直し、恐る恐る狴犴と目を合わせる。

「お前には獏の監視役を降りてもらう」

「!」

「籠絡されているようだからな。他の三人も同様だ。罪人に丸め込まれては監視の意味が無い。新しい監視役はこれから選出するが、獏と関わりの無い者を当てるつもりだ」

 突然言い渡された決定に、灰色海月は呆然とした。意識が遠退きそうだった。灰色海月は獏に入れ込み過ぎている。獏に何度も味方をし、それは結果的には良かったことだが、信用は失った。

「……わ……私はちゃんと、私情を挟まず仕事ができます……」

「では今までのことはどう説明する?」

「それは……」

「これはお前の身の安全のためでもある」

「私が弱いから……戦えないからですか……?」

「監視に戦闘力は必要無い。罪人には烙印があるからだ。獏はこれからも地下牢に収容するつもりは無い。特殊な措置だ。その行動を監視するのが目的であり、戦闘は必要無い。獏を自由に行動させた前例がある以上、それが熟考の末の最適な判断だったとしても、今後の懸念になる。監視役は罪人のために動くのではなく、私の(めい)で動くものだからだ。……説明はこれで充分か?」

「…………」

 灰色海月は言葉が見つからず、震える唇を噛んで俯いた。獏の味方をしたことに後悔は無い。だがこんな形で獏から離れることになるなんて思いもしなかった。傍にいたいと願ったのに獏からは記憶が零れ落ち、監視役まで解任される。あんまりだ。

 彼女の膝に不意にほろほろと滴が落ち、それを見ていた黒葉菫は途惑った。白花苧環と黒色海栗はまだ感情が幼く涙の意味を理解しておらず、気には掛けるが怪訝な顔をしている。

「彼女の入れ込み方は相当のようだな……。狴犴、きちんと補足しておいた方がいい」

「この程度で恨まれるなら、やはり外して正解だな」

 助けるどころか追い詰める発言をする狴犴に贔屓は頭を抱えた。どうにも言葉の少ない狴犴に贔屓も溜息を吐きながら、だが統治者は彼なのだから口を挟まないようにした。

「……狴犴に聞いた所、君は人の姿を与えられてすぐにあの街へ派遣されたそうだな。宵街に家が無いんだろ? すぐに用意するよ」

「…………」

 家のことは全く考えていなかった灰色海月は眉を寄せたが、確かに家は無い。

「狴犴はもう少し……」

 ハンカチくらいは渡すべきだろうと贔屓が足を出し掛けた時、大きな音と共に突然足元が揺れた。贔屓と狴犴は目を見合わせて訝しげに眉を寄せる。

 狴犴の部屋には窓が無く、廊下に出ても型板硝子の窓では外が見えない。贔屓は変転人達に科刑所内での待機を命じて扉を開けた。地響きが再び襲う。

「外に様子を見に行く」

「私も行こう」

 何をすれば科刑所が揺れる程の地響きが立つのかわからず、狴犴も立ち上がる。二人が出て行くともう一度地響きが起こり、獏も立ち上がった。

「暇だし僕も行こうかな」

 変転人の三人も立ち上がり、出て行こうとする獏を止めるために白花苧環は扉へ走った。

「貴方は罪人なので、自由にさせるわけにはいきません」

「科刑所の入口から外を見るだけでも駄目? 科刑所からは出ないよ。君も気になるでしょ? もし科刑所への攻撃だったらどうする?」

「…………」

 扉を閉じようとした白花苧環の手が止まってしまう。確かに科刑所への攻撃なら、ここにいては危険だ。入口からでも外の様子は見えるだろう。科刑所から出ないのなら言い付けを破ることにはならないはずだ。

 急ぎ出入口へ下りると、そのすぐ近くの茂みに贔屓が蹲んでいた。何かいるのかと辺りを警戒するが、どうやら彼は身を隠しているわけではないようだ。

「下りてきたのか。まあいい。少し手を貸してくれ」

「はい」

 真っ先に白花苧環が駆け寄り、皆も急いで暗い茂みを覗き込む。そこには一体の地霊が横たわっていた。

「負傷しているようだ。先程の……」

 また地響きが轟き、今度はそれを目撃することができた。石段の下で土煙と悲鳴が上がる。

「花火では無さそうだな。僕はあれを確認する。君達は安全を確認して、地霊を病院へ連れて行ってくれるか?」

「わかりました」

 ずんぐりとした地霊の体はどう抱えれば良いのか腕を広げつつ考えていると、石壁の陰から担架を担いだ地霊が二体現れた。

「こちらにも一体倒れている」

 近くの茂みを見下ろしていた狴犴も声を掛け、担架を持った二体の地霊はあちらとこちらへ進む方向が分かれ、担架を引っ張り合って転んだ。

「……とにかく任せる。被害が大きくならない内に犯人を捕まえないと」

「僕も行っていい? どうせ病院に行くために石段を下らないといけないんだし」

「……。君は罪人だから、同行する必要は無いんだが」

「駄目?」

「状況がわからないからな……悲鳴が上がるなら他にも負傷者がいるかもしれない。人手が必要か……わかった、手伝ってくれ」

 罪人ではあるが、獏なら寧ろ変転人を護ってくれるだろう。そう判断し、贔屓は同行を認めた。

「任せて」

 狴犴と贔屓に続いて獏も走り出そうとしたが、慌てて呼び止める影が飛び出す。

「狴犴さん、贔屓さん」

 三人は振り返り、担架を引き摺って駆け寄る一体の地霊の姿が目に入った。

「報告です。睚眦(がいさい)さんが負傷しました」

「!?」

「罪人の脱獄です。脱皮しました」

「脱皮……?」

 烙印を捺された罪人は力を使うことができないが、脱皮とは何なのだ。聞いたことがなかった。

「脱獄者はまだ地下牢にいるか?」

「いないと思います。我々をこんな風に……」

 地霊は兎のような長い耳を伏せる。地霊の負傷はどうやら脱獄者の仕業らしい。

「わかった。(みずち)を呼んで睚眦の手当てに行かせてくれ。脱獄者の名はわかるか?」

「渾沌です」

「…………」

 厄介な者が逃げ出したものだ。あの虫のような肢体は確かに脱皮しそうだ。初めて聞く特性だが、獣は自分の能力を触れ回ることはしない。知らなくて当然だ。

「烙印があるなら菌糸の心配は無さそうだが、気を付けてくれ」

「烙印は脱皮した皮にありました」

「……つまり、脱獄した渾沌には烙印が無いと言いたいのか?」

 地霊は何処にあるかわからない首を縦に振り、長い耳が上下に揺れた。

「菌糸が植えられようと手当てしないわけにはいかない。螭にも耐えるよう伝えてくれ」

「わかりました」

 地霊達は鼻をひくつかせ、一体が炊事所に向かってぺたぺたと走る。

 それを見送った贔屓が振り返ると狴犴と獏は既に石段を駆け下りており、急いで後を追った。

 狴犴と贔屓は杖を召喚し、左右を見渡す。上層にはあまり被害は見られなかったが、中層に差し掛かると崩れた石壁に石段が塞がれていた。瓦礫を跳び越え、負傷者がいないか声を掛ける。

「動けない者はいるか!?」

 辺りはしんとし、物音すらしなかった。

「……上手く逃げたならいいんだが」

「もう少し下に行こう。無色ならある程度動けるが、有色には厳しい」

「ああ、そうだな」

 また地響きが起こり、悲鳴が上がった。下層からだ。

「ねえ、僕の杖が召喚できないんだけど」

「当然だ。烙印で封じているからな」

「僕の力だったら瓦礫くらい簡単に吹き飛ばせるよ。さっき聞いた話だと、一時的に烙印を封じてたことがあるんでしょ? また封じてよ」

「自分の能力のことは覚えているんだな」

「まあね」

 酸漿提灯が幾つか落ちた石段を駆け下り、周囲を警戒しつつ狴犴は思考する。相手が渾沌だと言うなら、渾沌を捕まえるに至った獏の力を借りることは理に適っている。何度も罪人の力を借りたくはないが、利用だと思えばまだ溜飲は下がる。早く渾沌を捕らえないと、宵街の被害は増すばかりだ。迷う時間は無い。これは緊急事態だ。

 狴犴は杖の先を獏の喉元へ向け、烙印へ押し付けた。静かに烙印が光り、すぐに杖を離す。正式な解除ではないので痛みは無い。

「一時的に封じた。だが好き勝手していいとは言っていない」

「うん。杖無しで力を使ってたんだよね……何となく覚えてるよ。今ではもう杖を持たない使い方は忘れちゃったけどね」

 先程からの地響きで呆然と立てなくなっている少女の姿を見つける。石壁が崩れて潰される寸前に狴犴は印を発動し、印に壁が伸し掛かって止まった。

「怪我は無いか? 病院に避難していろ」

 腕を掴んで立ち上がらせると、少女は申し訳無さそうに何度も頭を下げた。一人で立てるなら歩けるはずだ。病院ならラクタヴィージャがいる。獣がいてくれると心強い。

「あ、ありがとうございます、獣様!」

 狴犴の顔など知らない有色の変転人の少女は、急いで石段を駆け下りた。


「声がしたと思ったら……狴犴が外に出てるなんて珍しいな」


 頭上から声が降り、銀色が石壁から飛び降りる。頭にはまだ御守りが残った籠を載せ、杖を片手に珍しそうに狴犴を覗き込む。

蒲牢(ほろう)……良かった。渾沌が脱獄したようだ。街の被害状況はわかるか?」

「え……地下牢から逃げたってこと? いきなり何処からか攻撃が飛んで来たから、近くにいた変転人は守ったけど……間に合わなくて何人か下敷きになった。御守りを配ってる最中だったのに……」

「下敷きになった変転人はどうなった?」

「俺の力だと衝撃を与えて石を砕くしかないから、向こうに人がいたら押し潰すかもしれない。だから何も……できない」

「わかった。僕が瓦礫を退かそう」

「呼び掛けても返事は無かったよ。下層の入り組んだ路地の方なんだけど……こっち」

 狴犴と獏を置いて、贔屓と蒲牢は石段を駆け下りる。宵街の家々は全て石でできている。石の塊に押し潰されて生きていられるのか、望みは薄かった。

 中腹の病院を通過すると、横道から小石が飛んでいるのが見えた。明らかに人為的だ。贔屓と蒲牢は立ち止まり、横道を覗く。茂みに瓦礫が降っていた。

「誰かいるか!? 今行く!」

 茂みと瓦礫を跳び越えると、弱々しく小石を投げる見知った顔が座り込んでいた。

鉄線蓮(テッセンレン)……」

「ぁ……あっ、ぅ……」

 酷く怯えた表情をしている。鉄線蓮はまだ常人のようには歩けない。歩行の練習中に突然瓦礫が降ってきて動けなくなり、恐怖のあまり言葉が出ないようだ。

「もう大丈夫だ。怪我は無いか?」

 手を差し出すと、鉄線蓮は真っ青な顔で首を振った。瓦礫を指差し、胸を押さえながら必死に呼吸を整えようとする。

「まさか……」

 贔屓は上にある瓦礫が崩れないように手前の瓦礫を退かし、一瞬呼吸が止まってしまった。

 瓦礫の下には、潰れた手があった。生身の手ではない。真新しい作り物の手だ。

「わ……私を突き飛ばして……庇って……私なんか……っ」

 震える声でやっとそれだけ搾り出した。歩行の練習のために病院の周囲をゆっくりと歩いていた鉄線蓮は突然の地響きに困惑し、壁に手を突いて立ち止まった。頭上で石壁が崩れ落ちたことに全く気付かなかった。

 贔屓が瓦礫を退かしていくと徐々に赤い色が現れ、濡れた黒い髪が見えた。病院の周囲を歩いている鉄線蓮に気付き、秋水仙(アキズイセン)は咄嗟に彼女を突き飛ばした。考えるよりも先に体が動いていた。

 彼女に伸し掛かった瓦礫を退けるが、重い石の塊を受けて彼女の頭は割れ、体は潰れていた。

「……蒲牢、鉄線蓮を病院へ。僕は先に下へ行く」

「うん……」

 蒲牢は籠を下ろし、潰れた秋水仙に手を伸ばす鉄線蓮を抱え上げて瓦礫を跳び越えた。

 贔屓は瓦礫を見下ろし、一度目を閉じる。死んだ者は弔いたいが、今は生きているかもしれない者を優先する。

 死んだ彼女を残し、贔屓はゆっくりと目を開いて石段を下った。望みは薄くとも、他の下敷きになった者を救出しなければならない。



 二人を見送った狴犴は周囲を見渡し、宵の空を見上げる。

「上から見る方が把握できる」

 渾沌は何処から攻撃を行っているのか。広範囲を攻撃する渾沌は、この路地の多い狭い宵街の中では地面に立つことはしないだろう。自分を巻き込むことになるからだ。地面を安全に見下ろせる見晴らしの良い場所で、崩れる家々を眺めているはずだ。

「この辺りで一番高い建物って何処?」

「この辺りだと病院だ」

「じゃあ病院の屋上だね」

 獏は杖を召喚しながら近くの石壁を跳び上がり、狴犴も小さな印を足場にして跳ぶ。四角い箱を積んだような石の塊の上に着地し、病院の方を見る。屋上は見上げる形となってしまい見ることが叶わなかったが、獏は地上から拾ってきた拳ほどの石を空に放り、杖を振った。変換石が光り、石は高速で病院の屋上へ発射される。これは別に当たらなくても構わない。もし屋上にいるなら、石が飛来すれば何らかの反応があるだろう。意識を逸らすことで宵街への攻撃も抑えられるかもしれない。

 石が死角に入ると予想通り、屋上から人影が飛んで姿が視認できた。やはり見晴らしの良い場所から攻撃を行っている。

「へぇ……あれが渾沌か。僕に色々してくれたみたいだし、一度殺しておきたかったんだよね」

「おい」

 統治者の前で堂々と殺すと宣言した獏に狴犴は眉を顰める。

「止めないでよ。君だって、すぐ脱獄するような獣は手に負えないでしょ? また地下牢に放り込んだって、また同じことが繰り返されるよ。その度に誰かが傷付いて、誰かが死ぬ。報復の繰り返しだ」

「…………」

 狴犴は開き掛けた口を閉じてしまった。報復という言葉に、過去の記憶が引き摺り出される。罪人は反省などせず報復を企むものだ。鴟吻の件でそれは嫌と言う程わかっていた。獏が屋根の端に立って杖を振り上げても、狴犴は止めることができなかった。

 ふわりと爪先が浮き、獏は両手で杖を持ち前方に翳す。

「被害がこれ以上増えないように、さっさと終わらせるね」

 金色の双眸から感情を消し、こちらを向いた渾沌と目が合う。仮面を被った渾沌に目は無いが、合っている気がした。

「こっちを見てるけど、姿が見えてるのかなぁ……」

 渾沌も飛びながら黒い杖を向けるが、体が傾いている。睚眦に傷を負わされたのだろう。不測の事態であろうと、宵街の拷問官が只で罪人を逃がすはずがない。体が傾く程だ、かなりの重傷だろう。


「街に染み込んだ悪夢の欠片――出ておいで」


 杖の先の石が光り、地面から薄らと黒い靄が立ち上る。それはあちこちから上がるが、獏の目にしか見えない。

 その間にも地響きが起こり、土煙と悲鳴が上がる。

「手負いの獣の最後の足掻き……逃げ隠れればいいのに、頭に血が上って短絡的になってるのかな」

 渾沌が黒い杖を振り、獏は飛びながら攻撃を避ける。渾沌の攻撃は視認できないが、悪夢の黒い靄の揺れ方で大凡の予測がつく。獏に当てようとしているのだから、変換石が光るタイミングで避ければ良い。重傷を負った動きの鈍い獣など、恐れるに足りない。

 獏はゆっくりと杖を上げ、片手でとんとんと振った。舞うようにくるりと回して奇妙な動きをする。

 渾沌が見えない攻撃をするのなら、獏も見えない攻撃をしてやる。そして誰の目にも見える黒い塊となった頃には避けきれない程の距離で、方々を黒い触手に囲まれた渾沌は逃げる間も無く呆気無く全身を貫かれた。渾沌から見れば、突然目の前に無数の刃が出現したようなものだ。

「これでお終い――かな?」

 杖があり、力を正確に操れることができ、更に冷静なら、この程度の悪夢の使役は造作も無い。

 静かに鮮血を滴らせながら黒い触手は再び靄となって消滅し、渾沌の体は糸が切れたように病院の屋上に落ちた。

「……悪夢を食す許可は出したが、使役の許可は出していない」

「そうなの?」

「後で調整をする必要がありそうだ。悪夢に関しては情報が少な過ぎる」

「使役は僕もしたいわけじゃないし、別にいいけど」

 振り向かずに渾沌の様子を見ていた獏は、喉元に違和感を覚えて視線を落とす。首に短い杖が当てられていた。用が済めば即座に烙印を元に戻すようだ。なんて忙しないのだろう。

「……あ、ちょっと待っ」

 はっとして止めようとしたが、その前に処理は終わってしまった。狴犴は杖を離し、浮いていた獏の体は屋根に落ちた。

「っいた」

 尻餅を突いた獏は尻を摩り、狴犴を恨めしく見上げる。手放してしまった杖も消えてしまった。

「烙印の所為で飛べない……」

「飛べなくてもここから下りられるだろう? ……いや、罪人を野放しにはしておけない。私の作る足場を使え。渾沌の死骸を確認に行く」

「……はいはい」

「嫌そうな顔だな。お前が壊した面をまた作ってやったんだが」

「え、本当? お面が大事だったことは覚えてるよ。君が作ったんだっけ?」

「……人に関する記憶が極端に欠如しているな」

 短い杖を振り、空中に小さな印を刻む。それを病院の屋上まで伸ばし、狴犴は先に獏を行かせた。まるで空中散歩のようだ。攻撃を受けて壊れた石壁を見下ろしながら、ひょいと病院まで跳ぶ。

 渾沌はぐしゃりと血溜まりの中に倒れ、ぴくりとも動かなかった。体も頭も貫き、もう息は無い。

「首に烙印が無いね。脱皮して烙印も剥がれたの?」

「脱皮する獣が存在するとはな……全く、獣の能力は取り留めが無い」

「これはどうするの?」

 渾沌の死骸を見下ろして動かないことをもう一度確認していると、軋みを上げて屋上のドアが開いた。

「処理します」

 科刑所の前で会った者と同じ個体かはわからないが、地霊が土竜のような顔を出して鼻をひくつかせていた。

「何処にでもいるね」

「では処理は任せる。獏、来い」

 狴犴は獏を促し、地霊が出て来たドアから中に入る。

 一階へ下りると負傷した変転人が待合室を埋めていた。ふと見ると出入口の壁も破損している。受付の一部にも瓦礫が残り、病院も攻撃を受けていたことがわかった。待合室で怪我の聞き取りを行っていた姫女苑(ヒメジョオン)を見つけ、話を聞いておく。

「少しいいか?」

「はい。少し待っ――狴犴様!?」

 ペンを下ろし、姫女苑は慌てて向き直った。待合室の変転人達も一斉に狴犴の方を見る。顔を知らずとも、名前を知らない者は宵街にはいない。

「狴犴様も御怪我を……? ラクタヴィージャ様は重傷の方を優先していて……」

「私に怪我は無い。病院も攻撃を受けた形跡があり、声を掛けただけだ」

「そちらですか……。出入口が塞がれてしまったんですが、苧環さんが瓦礫を壊して退かしてくれたんです。他にも菫さんと海栗さんと海月さんが。今はラクタヴィージャ様の所で手伝ってくれてます」

「お前はどうだ?」

「私ですか? 私も瓦礫が飛んできて、死んだと思ったんですが、上手く外れたみたいです。蒲牢様の御陰かもしれません」

「蒲牢もここに来たのか?」

「来ましたが、そうではなくて……」

 ポケットから小さな御守り袋を取り出し、紐を解く。中から出て来たのは砕けた龍の角だった。

「いつ割れたのかわからないんですが、きっと守ってもらえたんだと思います。本当に御利益があるんですね。驚きました」

「そうか。蒲牢にも伝えておく。邪魔をしたな」

「いえ、御邪魔だなんてとんでもないです」

「元凶は始末した。安心す――」

 安心するといい、と言おうとしたが、また地響きが起こった。渾沌の攻撃は時間差で二、三度衝撃が起こる。当人が死んでもそれは変わらないようだ。

「元凶は始末したが、この地響きはまだあるかもしれない。一日ほど病院を出ずに様子を見てほしい」

「わかりました……始末が終わったなら良かったです。ありがとうございます」

 疲れた顔で姫女苑が頭を下げると、状況を理解していない負傷した変転人達も疎らに頭を下げた。ここに死者は運び込まれていないが、渾沌の最後の足掻きは被害が大きそうだ。

 変転人達に見られながら、狴犴は獏を従え病院を後にする。

「……新たな監視役の選出はもう少し先になりそうだ」

「いいよ別に。僕は急いでないし。それよりお面! 早く被らないと落ち着かなくて」

「それは科刑所に戻ってからだ。……もう少し街の様子を確認しておきたいが、あまり移動していては報告に来る者を困らせてしまう」

 狴犴は所々に瓦礫が転がる石段を上がり、獏も軽やかに後に続いた。贔屓は獏の性格が変わらないと言うが、狴犴には変わったようにしか見えなかった。以前の獏は狴犴を嫌悪して顔を顰めていたが、今はそれが無い。妙な気分だった。


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