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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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121/124

121-呪われた子供達


 (ばく)達を見送って宵街(よいまち)の薄暗い石段を登っていた贔屓(ひき)は、普段はあまり動くものの無い茂みが揺れたことに怪訝な顔をした。少し後ろを歩いていた長身の男――狻猊(さんげい)を軽く手で制し、狭い石壁の間に顔を覗かせる。

「……窮奇(きゅうき)?」

 茂みから牛のような角の生えた白黒頭が見えていた。窮奇は勢い良く立ち上がり、手を背後に回した。

「何だ贔屓か」

「見られては困る物か?」

「…………」

 目敏い贔屓に、窮奇は白けた目を向ける。

「別に隠してねーよ。ほら」

 差し出した手に握られていたのは何の変哲もない草だった。地霊のように邪魔な草の始末でもしているのかと贔屓は首を捻る。それなら感心だ。

「地霊を手伝っているのか?」

「は? 肉が駄目なら草なら喰うかと思ったんだ。山菜なら喰えるだろ」

 何の話かと贔屓は少し考えてしまったが、すぐに悟った。

「……ああ、(しん)か? 宵街に山菜は自生していないと思うが」

「はあ!? 先に言えよ! じゃあこの草は喰えねーのか!?」

「宵街に自生している草は食用ではないはず……いや、味を考えなければ、食べることは可能だと思うが。下層に行けば変転人が育てている食用の植物もあると思うが、自生ではないからな。勝手に採ってはいけないよ」

「やっぱり人間の所の山に行くしかないか……広過ぎるんだよな」

 肩を落とし、窮奇は握り締めていた草をその辺に撒いた。自分が肉以外食べられないのだから、食べられる草などわかるはずがない。窮奇は想像以上に、人間を食さない獣の扱いに困っていた。付き合いの長い饕餮(とうてつ)は人間以外も食べるが、あまり意識して見ていなかった。

「食べ物を用意するのも良い考えだが、それなら一つ頼まれてくれないか?」

「嫌だ。お前らの言うことは面倒くせぇ」

 狴犴(へいかん)の頼み事で振り回された窮奇は舌打ちをして吐き捨てた。薬で思考が覚束無くなっていたとは言え、この兄弟と係わるのは面倒だと擦り込まれてしまった。

「じゃあな。オレは山菜探しで忙しい!」

 石壁を蹴り、逃げるように上空へ跳び上がりながら杖を召喚する。

「それは残念だ。蜃の所へ行ってほしかったんだが」

 杖を回そうとした窮奇は手が止まってしまい、そのまま四角い家の上へ着地した。その足で地面に戻って来る。

「そういうことは先に言えよ。蜃がオレを必要としてるとはな。で、何処にいるんだ?」

 必要としているとは言っていないが、贔屓は水を差さないことにした。先程から狻猊は後ろで大人しく遣り取りを聞いているが、何なんだこの茶番はと思っている。

「神隠しの街にいる」

「……あ? ああ、あそこか」

「獏が悪夢の処理を終わらせてくれるようでな。僕が監督として付き添う予定だったんだが、急用が入って行けなくなったんだ。急用がどのくらい掛かるかはわからない。代わりに変転人を同伴させたんだが、少し心配なんだ」

「……。お前は話が長い」

「獏の悪夢の処理に蜃と椒図(しょうず)も付いて行った。窮奇ほどの戦力があれば万一にも安心だ」

「そうそう。そういう簡潔な感じでいいんだよ。要は蜃の護衛だな。任せとけ」

 言うや否や窮奇は杖を仕舞い、石段を飛び降りた。

「すぐに行かないのか?」

「どでかいの撃つなら補給が先だ!」

 あっと言う間に窮奇の姿は薄闇に溶け、贔屓は肩を竦めた。どれほどの大技を出そうと言うのか。気合いが入り過ぎている。万全を期すに越したことはないが。

「行こうか、狻猊。皆が待ち草臥れてしまう」

「窮奇の手綱を引けるのか……」

「いや、蜃を利用してしまっているだけだ」

「さっき椒図もって言ってたよな」

「ああ、二人は友達だからな」

 贔屓は狻猊を促し、再び暗い石段を登る。

「友達? ……あっ、まさかお面の!? いや赤髪のお嬢さんか!?」

「知っているのか。赤髪の方が蜃だよ」

「つまりあれか? 窮奇は女に現を抜かしてんのか!? まあ確かに可愛い子だったが……くくっ、窮奇がなぁ……今度揶揄ってやろ」

「返り討ちにされないようにな」

 胸座を掴まれて空高く吹き飛ばされそうな気がして、狻猊は何も言えなくなった。窮奇のそれは恋愛感情と呼べるものなのか定かではないが、獣に恋愛と言っても馴染みが無くて共感は難しい。多くの獣の体には性別が存在するが、殆どが生殖能力は無いので形骸化している。

 蔦を踏んで目的の暗い科刑所へ着き、足早に狴犴の部屋へ向かう。狻猊は工房が拠点なので科刑所に足を運ぶことはあまり無く、妙な緊張感があった。普段は罪人が罪を裁かれるために歩いている廊下だと思うと気持ちが落ち着かない。ポケットから煙草の箱を取り出して一本咥える。落ち着くには煙が一番だ。杖を召喚し点火する。

 狴犴の部屋の扉を開けると、呼び出された兄弟達が既に待っていた。狴犴は奥の自席に、椒図と饕餮は不在だが他は榻背(とうはい)の無い椅子に座っている。贔屓が統治していた頃に置いていた来客用の椅子や机はもう処分しており、代わりが無い。

「狻猊、ここは禁煙だ」

 部屋に入るや否や狴犴から考えもしなかった言葉が投げられた。椅子に腰掛けようとしていた狻猊は雷でも落ちたかのように驚愕し、彼に情けを乞う目を向けた。だがそれを嘲笑うように煙草が空中に弾かれる。

「残念だったな狻猊」

 先に椅子に座っていた睚眦(がいさい)はにやにやと笑い、杖をついと振る。弾き飛ばした煙草を受け止めて握り潰した。

「いつから禁煙に……」

「お前が喫煙を始めてからだ」

「何でオレから!?」

 狴犴は眉一つ動かさないが、狻猊にさっさと座るよう指で示した。贔屓はいつの間にか席についている。

「変転人から苦情があったんだ。お前の性質については理解を示すつもりだが、科刑所では禁煙だ。工房では好きに吸わせているだろう」

「苦情!? オレに直接言ってくれればいいのに……」

「匿名だからな。獣に直接苦情など中々言えるものではない」

 狻猊は不服ながらも渋々承諾し、肩身を狭くした。科刑所を禁煙にするならそこに出入りする者の苦情だろう。つまり無色の変転人である。おそらく白所属だ。宵街に棲む変転人は全て狻猊が服と傘を作り与えたと言っても過言ではない。友好的に接していたつもりだが、壁があったようだ。

「今度親睦会でも遣ってみるか……」

「その話はもういい。本題に入ろう。鴟吻(しふん)から話があるそうだ」

 名を呼ばれた鴟吻は魚のような尾をびくりと伸ばした。油断していたようだ。

「……はい。大事な話です」

「大事……? 椒図と饕餮はいいのか?」

 この場に集まっている兄弟は六人だ。覇下(はか)はともかく二人欠けている。

 それには贔屓が理由を話した。

「椒図は別の用がある。饕餮は記憶を喪っていて様子見の状態だ。必要なら二人には後で話す」

「ってことは、そんなに重要な話でもないのか。贔屓は何の話か知ってるのか?」

「少しな。おそらくあの話だろう」

「じゃあ贔屓も話すのか?」

「いや」

「贔屓ではなくて……蒲牢(ほろう)に」

 鴟吻が補足すると、蒲牢の肩がびくりと跳ねた。白珊瑚のような角が不安げに揺れる。蒲牢の嫌な予感が当たった。兄弟を招集したのだから、話すことと言えばこれしかない。蒲牢しか知らない化生前の記憶を話せと言うのだ。

「蒲牢も噛んでるのか……さっきから視界に入ってたが、飾り……じゃないよな? その角」

 訊きたいことが尽きない。贔屓は狻猊に目を遣り、無言で制した。

「狻猊、話が進まないから黙ってろってよ」

 睚眦は頬杖を突き、にやにやと狻猊を揶揄う。今は質問の時間ではない。狻猊もばつが悪くなり大人しく口を閉じた。第八子の狻猊は兄や姉にあまり強く言えない。

「何から話すべきか私も悩んだんですが」

 静かになった所で鴟吻が口を開いた。

「まずこんなことを言われても、皆心当たりが無くて途惑うかもしれませんが……私達の母親が見つかりました」

 記憶を継いだ蒲牢は勿論、贔屓もそれは既に聞いていた。初耳である狴犴と睚眦と狻猊は一様に眉を寄せる。狴犴は静聴を続けるが、睚眦と狻猊は黙っていることができなかった。

「母親……? 獣に母親なんかいるのか?」

「まあ生殖機能のある獣もいないわけじゃないからな……。オレは母親から産まれた記憶は無いが」

「私も無いぞ。生まれた時からこの体の大きさだ。このサイズを腹に抱えられる母親はかなり大きくないか?」

「それは……宵街を踏み潰せそうだな……」

 踏み潰せるは言い過ぎだが、途惑う二人に贔屓は一つ手を鳴らし、話を続けた。

「鴟吻に母親を捜してほしいと頼んだのは僕だ。蒲牢は全て一人で抱えようとしているが、このことは僕達全員に関係がある。蒲牢が話してくれるなら、皆で辛苦を抱えられる。僕達の荷物は僕達で持ちたい。蒲牢、話してくれるか?」

「…………」

 蒲牢は俯くが、視線を少し上げた。自分しか知らない辛い記憶なら、自分だけ抱えていれば皆が苦しむことはないと思っていた。同じく記憶を継いでいた覇下の苦しみを見て、殊更話すべきではないと思った。なのに話せとは、何とも酷い要求だ。

「……知ったら、知らなかった頃には戻れない」

 今までなら、話すことは無かっただろう。贔屓と鴟吻に何を言われても話すつもりは無かった。蒲牢自ら決めたことだ。だが渾沌(こんとん)との戦闘の中で椒図は『独りじゃない』と言ってくれた。この苦しみは一人のものではないのかもしれないと心が揺らいだ。

「ああ。それは各自に確認を取る。――皆、化生前の記憶を聞きたくない者がいれば、部屋を出てもらって構わない」

 三人は話そうとしていることの重大さに気付く。皆にそれを尋ねるのだから、皆が死んだ過去があると言うことだ。『化生前』と言うのだから。それを蒲牢は今、一人で抱えている。

「私は残る。話を聞こう」

 表情を変えずに狴犴が選択をすると、睚眦と狻猊も頷いた。自分が死んだ話を聞くのだから気分の良いものではないが、蒲牢が一人で抱えて耐える必要もない。答えを悩むことはなかった。

「蒲牢、皆抱えると言ってくれているよ」

 飽くまで蒲牢が自主的に話し出せるよう贔屓は柔らかく微笑む。

「……笑えなくなっても知らないよ」

 拗ねたように呟きながら、蒲牢は少し椅子を下げた。皆に注目され居心地が悪くなってしまった。

「私は構わないが」

「狴犴は化生前からそんな顔だし……」

 いつも真面目な顔をして眉一つ動かさない狴犴が、腹を抱えて笑う所など見たことがない。睚眦は笑顔の狴犴を想像してしまい、耐えきれず少し吹いた。慌てて顔を逸らし、彼に一瞥された。

「呪いを受けたのはたぶん俺だけだと思うから、俺一人で抱えていればいいと思ってたのに」

「呪い?」

「それは後。……少し長くなるかもしれないから、覚悟して」

 皆はそれぞれ頷き、鴟吻はきゅっと小さな手を握り締めた。

「鴟吻が一番心配なんだけど……」

「では鴟吻には一旦席を外してもらうか?」

「! それは嫌です……私だけ蚊帳の外にしないでください」

「この話で化生前の鴟吻は吐いたから」

「は……吐いたの……? わかったわ……念のためバケツを用意するわ」

 鴟吻は白紙の紙切れを取り出し、何かを書き込んだ。杖を召喚し、その紙切れを消す。

 程無くして空のバケツを提げて走ってきた黒種草(クロタネソウ)が扉を開け放った。鴟吻にバケツを手渡し、兄弟達を睨み付けて部屋を出て行く。

「これで大丈夫ね」

「……それは本当に大丈夫なのかい?」

「大丈夫です!」

 鴟吻は大きく頷き、幼い小さな体でバケツを抱えた。化生前の彼女は全員に敬語で話していたが、今は長子の贔屓に対してのみだ。唯一の大好きな兄に対しての敬意である。バケツは抱えるが、贔屓の前で嘔吐などするわけにはいかない。そこは気合いを入れて防ぐつもりだ。先に警告してくれたことに感謝する。

 ――結果的にバケツは必要なかったが、蒲牢が幼い頃の記憶を語り終えると鴟吻はぼろぼろと泣いてしまった。

「よく頑張ったわね、蒲牢……」

 化生前は卵から産まれ、母龍の許で皆で暮らしていたこと。その母龍に皆殺されてしまったこと。そしてこれから母龍に会うのなら、兄弟達の死んだ姿も語らないわけにはいかなかった。母龍から逃げようとしたが、それも叶わなかった。最後に殺された蒲牢が最期に母龍に言われたこと、『貴方に言葉はいらない』――そのことが呪いとなり、今世では言葉を乗せた歌を歌えないことを話した。

 蒲牢は何度も悪い夢だと思おうとしたが、過去の記憶はあまりに鮮烈で、夢と言うにはあまりに鮮明だった。覇下が同じ過去の記憶を継いでいたことで、逃避もできなくなった。

 鴟吻は泣き止むまで暫しの時間を要し、皆も深刻な顔で嚥下した。自分の殺され方を知り、複雑な気持ちが渦巻く。

 龍以外は必要無い。母龍の執着は異常だった。

「……一つ思ったんだが」

 化生前に蒲牢と共に最後まで生きていた睚眦は疑問を口にする。

「蒲牢は殺されずに生きることもできたんじゃないか? 蒲牢は龍なんだし……」

「それは……そうかもしれないけど……」

 母龍に口答えしなければ蒲牢は死ぬこともなく、生き続けることができた。

「その時は何もわからなかったけど、今は違う。俺が死んで、良かったと思う」

「……?」

 言葉の意味が理解できず、睚眦は眉を顰める。

「覇下が……」

 その話をしようとするが、蒲牢はゆっくりと口を閉じてしまう。喫茶店で贔屓に吐露したことをもう一度話すのは胸が苦しい。彼女を殺してしまった恐怖を何度も口にすることはできなかった。

 贔屓はその少ない言葉の中で彼の気持ちを汲み取り、蒲牢から説明役を代わった。ここからは獏が推測を述べてくれた、あの話だ。

「僕から話そう」

 蒲牢は俯いたままびくりと硬直してしまう。自分の口からでなくとも、覇下を殺してしまったことを皆に知られたくなかった。無意識にゆっくりと息が上がり、心臓の音が騒がしい。

「覇下が化生していないことは皆知っているな?」

 それなら知っていると皆は頷く。兄弟の死と化生を感知できるのだから、死んだままの兄弟がいることも知っている。

「これはまだ推測でしかないが、兄弟の順が入れ替わる化生はしない可能性がある」

「は……?」

「そんな条件があったのか……?」

「……成程。私も調べたことはあるが、覇下のように何百年も化生しない例は無いようだ。参考にできる情報は少ないが、その仮説で椒図が化生したことにも矛盾は無い」

「ああ。それで蒲牢が死んで良かったと言ったことも理解できるか?」

「蒲牢が死ななければ、贔屓と鴟吻は化生することはなかった。そういうことだな」

 贔屓は頷き、狴犴はゆっくりと息を吐いた。蒲牢の記憶を聞き、兄弟の順が全く入れ替わっていないことは怪訝に思った。単なる偶然にしては確率が低過ぎる。その仮説の根拠とすることは可能だろう。

 睚眦と狻猊もゆっくりと意味を理解して寒気が走った。

「じゃあ……覇下が化生しないのは、オレと睚眦と椒図が一遍に死んでないからか?」

「つまりこの会合は、私達に死ぬ同意を得ようと……?」

「えっ、いやそんな急に……」

 何やら妙な誤解を始めたので、贔屓は慌てて遮った。

「違うよ。確かに兄弟の順を考えると三人の死が条件ではあるが、君達の死を望んでいるわけじゃない。そのために母親を捜してもらったんだ。兄弟の繋がりがあるなら、母親とも繋がりがあるはずだろ? 話を聞こうと思ったんだ。兄弟の縛りなのか覇下に与えられた呪いなのか……何らかの有益な情報は得られるはずだ」

「覇下にも恨みがあったと言うことか? 龍である蒲牢に呪いが掛けられたのなら、同じく龍である睚眦に呪いを掛ける方が自然だと思うが」

「憶測を口にしているだけだからな。母親に会わない限り、この域は出ない」

 名を挙げられた睚眦は自分の身を確認するが、自分に何か呪いが掛けられているとは思えなかった。蒲牢も彼女が呪われているとは言っていない。

「憶測ならここで話を詰めていても時間の無駄だな」

「蒲牢を呪ったのは、最後まで手元に置いていたことから、期待と失望が大きかったんだろ」

「母親に会わねばならないのは絶対として、再び殺そうとしてきた場合はどうするつもりだ? 龍は相当に手強い」

「対話を試みることを優先したいが、聞く耳を持たず攻撃してきた場合は一度拘束する。龍であろうとね。九子を皆殺しにした――これは地下牢に収容するには充分な罪だ」

 贔屓が感情の籠もらない目で確認を取るように狴犴に視線を遣ると、彼は少しの間があったが小さく頷いた。ここで意見を違うことがなくて良かったと鴟吻も胸を撫で下ろす。

 俯いていた蒲牢も不安そうではあるが顔を上げて様子を窺う。一番恐れていた蒲牢が覇下を殺したことは黙っていてくれるようだ。胸中を察して慮ってくれたらしい。

「対話を試みるにあたり記憶を有している蒲牢が前に立ってくれると円滑に進むんだが、辛いなら僕が代わる」

 贔屓は最大限に蒲牢を気遣い、庇おうとする。蒲牢はその優しさに応えたかった。母龍との対話は、最後まで生きて記憶を継いだ蒲牢の責務と言えるだろう。あの時の景色、声、表情はその場にいた者にしかわからない。眠る度に見ているのだから、忘れたことなどない。

「……いい。俺がする」

「そうか。なら任せるよ。言葉に詰まったらいつでも助けを求めておいで」

「…………」

 昔も今も贔屓は兄弟には助けを求めてほしいと思っている。随分と月日は流れたが、そのことに狴犴も漸く気付いた。だが宵街を去って居場所がわからないのに助けを求められるのかと狴犴は眉根を寄せる。

「助けって言うなら……俺達はまだ子供だったから弱くて、母親の本気を知らない。狴犴も言ってたけど、龍なら相当手強い……」

「わかった。鴟吻には病院で待機してもらおう。ここだと無人になってしまうからな」

「! 私だけ留守番ですか……!?」

「只の留守番ではないよ。千里眼で覗いて、僕達が窮地に陥れば増援を呼ぶ大役だ」

 戯けるように微笑む贔屓に鴟吻は眉尻を下げた。鴟吻の力は確かに目の前で使うものではない。自分の身を守れないなら行くべきではない。

「贔屓は龍より強いので、増援が必要になる場面は無いと思います」

「何故言い切れる?」

「言い切れます! 蒲牢も睚眦も贔屓に喧嘩を売らないからです!」

「只の仲良しじゃないか」

 笑いながら贔屓は二人の方を見ると、二人は視線を逸らした。贔屓と争う火種など今まで無かったが、確かに争うことを避けられるなら避けたい相手だった。それほど贔屓の能力は抗うことが難しい。

 苦笑する贔屓を見て狴犴は呆れた。自身の力の限界を感じて(いん)を修得した狴犴は、強者の自覚が無い強者はいっそ腹立たしいと思う。強者が謙遜して何になると言うのか。その下で弱者は喘いでいると言うのに。

「……また口論になりそうだ。争う前に母親の居場所へ行きたい。母親は何処にいるんだ? 鴟吻」

 話が引き戻され、鴟吻は慌てて抱えていた空のバケツを床に下ろした。

「見つけるのに随分時間が掛かってしまいましたが、灯台下暗しでした。母親はこの宵街にいます」

「!」

 これには冷静な贔屓も驚いた。

「まさかもう擦れ違ってはいないだろうな」

「いえ。それは無いです。宵街は宵街でも、裏通りの方です。狴犴に裏通りに人影がないか見てほしいと言われて。言われなければ見ようと思わなかったです」

「裏通り……」

 今や完全に隔絶されている宵街の約半分、影の部分だ。

「狴犴、裏通りは今どうなっている? 何故そこが怪しいと?」

 贔屓は現在の宵街に疎い。裏通りとは壁で隔てられていることは知っているが、その先がどうなっているのか把握していない。

「裏通りは居住者がいなくなったことにより、壁で閉鎖されている。転送先に指定できないよう施してある。だが最近、苧環(オダマキ)達が事故で転送されてしまった。その時に不審者を目撃したようだ。見てほしいとは言ったが、母親がいるとは思わなかった」

「事故?」

「厄介な悪夢絡みだ」

「悪夢か……獏を連れて来た方がいいか?」

「いや。裏通りに悪夢がいる報告は受けていない。苧環達は不審者を目撃はしたが、接触はしていない。他には何もいなかったそうだが、この不審者が母親か?」

 鴟吻に目を遣るが、彼女は困り顔をした。

「私はそれは見てないから……何とも言えないわ。でも見つけた母親以外に人影は見当たらなかったから、そうかもしれない」

「わかった。裏通りへの転送は私が行う。お前達に許可を出すより早いからな」

 ぐるりと面々を見渡し、異論は無いと頷く顔を確認して狴犴は短い杖を召喚した。母龍が裏通りから移動しないとは限らない。逃がさないために急ぐべきだ。

「不審者の目撃箇所は苧環の報告を元に擦り合わせてはみたが、年月の経過により地形の変化があるなら正確ではない。誘き出す方が早いだろう」

「フ……狴犴も中々血の気の多い提案をする。誰もいない裏通りなら多少暴れても問題は無いと言うことか。広範囲に異常を見せ付けるなら狻猊が適任だろう」

「え? オレ? ……じゃあ少し吸わせてくれても……」

「裏通りでなら構わない」

 つまりやはりここでは煙草を吸わせてもらえないようだ。狻猊は肩を落とすが、杖を召喚し掌で弄ぶ。製作以外に力を振るうのは久し振りだ。

 対話が目的なので贔屓は杖を召喚せず立ち上がる。それに倣って血の気の多い睚眦も杖を召喚しない。鴟吻は杖を召喚するが、これは病院の前へ転送するための物だ。贔屓の決定に異を唱えるつもりはない。

 皆が立ち上がるので、蒲牢も少し気が重いが立ち上がった。角の生えた頭も重い。

「皆、想定外のことが起こっても冷静にいこう」

 贔屓の言葉で皆は気を引き締め、鴟吻は転送に巻き込まれないよう下がった。

 狴犴がくるりと杖を回すと、一瞬で視界に闇が降りる。いつも薄暗い表通りが明るく思えるほど、裏通りは暗かった。

 贔屓は常夜燈を取り出し、辺りを照らす。贔屓が統治していた頃の裏通りは見る影も無く、罅割れて壊れた石壁と所々崩壊した石段、そして蔦が好き勝手に蔓延っていた。草が生え放題の茂みには表通りには無い小さな黒い花が幾らか咲いている。

「数百年でこうも変わるとは。黒い花は花畑にも無かったな。花魄(かはく)に少し摘んでいってあげようか」

「……呑気なことを」

 蹲んで花を観察する贔屓に狴犴は呆れる。だが好きにさせておいた。煙草に点火する狻猊を一瞥し、力を使用するための準備を待つ。彼は煙を力に変換するので、煙が充分に必要だ。普段から煙草は吸っているが、工房での製作に全力が注がれている。今使用できる少量の力だと不審者に気付いてもらえない。

「今更なんだけど……」

 待つ間にぽつりと漏らす蒲牢へ皆は顔を向ける。

「円滑な対話をするために、何か菓子折でも持って来た方が良かったんじゃ……。油断するかもしれないし……」

「今更過ぎるだろ」

 透かさず睚眦は蒲牢の背中を一発叩いた。気合いを入れるためでもある。

「好物でもあるのか?」

「それはわからないけど……母様と話なんて殆どしなかったし。いつも嵐が過ぎ去るのを待つように無言で御飯を食べてるだけで、好きな食べ物なんて聞かなかった」

「好物があるとしても、食べ物の種類が豊富な現代では好物も変化しているだろ。蒲牢もそうなんじゃないか?」

 黒い花を一つ抓んで観察しながら、顔を上げずに贔屓は会話に加わる。

 彼の言う通り、今と昔では時代が違い過ぎる。

「まあ……そうかも」

「蒲牢は何が好きなんだ? この大仕事が終わったら奢ってあげるよ」

「本当か? 色んな色がある細長いゼリーとか、小さい餅とか、串に刺さったカステラ……それから……糸が付いてる飴を引いてみたい」

「駄菓子だな」

「拾った硬貨一枚でたくさん買えて感動したんだ。子供は御菓子に夢中で、俺を見ても不審者だとか言わないし」

 人間の街では目立つ銀色の髪と瞳で相当苦労したのだと皆は沁み沁みとした。

 二人で話を進めているが、他の三人には蒲牢の言う物がどんな菓子なのかわからなかった。統治に忙しい狴犴は宵街を出ることがなく、睚眦と狻猊もあまり宵街から出ない。人間の街の食べ物で知っている物なんて、精々宵街の中で変転人達が売っている物くらいだ。狴犴はそれすら疎い。

「菓子には栄養が無いだろう? 何故食べるんだ?」

 不思議そうな狴犴の言葉に蒲牢は耳を疑ったが、彼の机にあった味気無い栄養食を思い出して目に憐憫を浮かべた。狴犴は食に無関心過ぎる。

「でも……そうだな。一番は、皆でまた通草(アケビ)が食べたいな」

 ぽつりと呟いた蒲牢に今度は贔屓も含めて不思議そうな顔をする。皆とは誰のことなのか、この場にいる兄弟達とは通草を食べたことなどなかった。

 蒲牢の言う『皆』は死ぬ前の幼い兄弟達のことだ。それはもう彼以外は覚えていないことだ。皆が答えられないことは蒲牢にもわかっていた。だからそれ以上は話をしなかった。

 暫く沈黙が流れ、誰も話さないのならと煙を吹かしていた狻猊は杖を翳す。

「贔屓、オレへの報酬は煙草で頼むぜ」

 黒い空に向かって杖を振り、細く伸びた紫煙は導火線のように発火した。

「煙草は僕の外見だと難しいな」

 未成年の少年の姿である贔屓では煙草を売ってもらえないかもしれない。狻猊は悲しそうな顔をしたが、それを振り払うように大きく杖を振った。

 発見され易いよう上空に拳大の火の玉を幾つも打ち上げる。この黒い頭上に、真っ赤に輝く火の玉が乱れ飛べば否応無しに視線を上げるだろう。警戒して様子を見に来るはずだ。

「出て来るかねぇ……」

「苧環がここに転送された時は物音か気配か、気付いて様子を見に来たらしい。これだけ派手に遣れば出て来る」

 狴犴は短い杖を振り、周囲を観察する。贔屓も立ち上がった。

 石壁の間の茂みが微かに動き、狴犴は構えていた杖の先の変換石を光らせた。茂みから飛び出した見えない爪が皆に届く前に、空中に展開した印で弾く。接触の瞬間だけ仄かに光って視認が可能な防護の印だ。皆の周囲に予め配置していた狴犴は不意打ちに動じることなく、皆もその場から動かない。狴犴が印を使うことは兄弟なら皆知っており、彼が杖を握り続けているなら印の使用は予想できる。

 角度を変えたもう一撃を防ぐと、それは漸く姿を現した。暗闇で赤く光る双眸を不快に細め、静かな裏通りに騒々しく踏み込んだ者達を睥睨する。

「土足で踏み入る礼儀の無い獣共め……」

 茂みから現れた女に皆は注目するが、母龍の顔を知らない四人は蒲牢を一瞥した。蒲牢は緊張した面持ちで唾を呑む。対話の役が震えているわけにはいかない。

「…………」

 前世で死んでから五百年以上も見ることのなかった顔は、暗闇の中でもわかるほど窶れていた。だが間違えるはずはなかった。いつも悪夢に見る母龍だ。化生していない母龍は昔と変わらない姿をしている。

「母様……」

 攻撃を続けられると対話どころではない。早急に会話に持ち込もうと蒲牢は焦りながら口を開くが、全ての心配を余所に母龍は途端に態度を翻した。

「もしかして……蒲牢……?」

 驚きつつも母龍は一歩近付き、それに合わせて睚眦はいつでも杖を召喚できるよう構えた。杖はまだ出さない。会話をするのだから、臨戦態勢で控えていては警戒させるだけだ。

 上空には狻猊の火の玉が待機したままだが、これは消さなくても良いだろう。暗闇を照らす明かりとしておく。兄弟の中には夜目の利かない者もいる。

「うん……」

 化生して姿は変わってしまったが、龍生九子(りゅうせいきゅうし)には皆面影が残っている。それでも一目で誰かと気付いたことは素直に驚いた。やはり母なのだからわかるものらしい。

「ああ……なんて立派な角なの! そんなに大きくなって……私に会いに来てくれたのね。随分捜したでしょう?」

「……その……」

 想定外に明るく話し掛けてきた母龍に蒲牢は辟易する。自分の手で殺したことを忘れているのだろうかと疑う程だ。

「そうね。積もる話もたくさんあるわね。私も立派な龍に育った貴方が誇らしいわ」

 違和感を覚えた。母龍は蒲牢しか見ておらず、他の四人には目もくれない。まるでそこには蒲牢以外何もいないとでも言うように。同じ龍であるはずの睚眦にすら目を向けなかった。睚眦は化生して性別が変わってしまったので、単純に気付いていないだけかもしれないが。

 このまま会話を続けて良いのか蒲牢は悩むが、想像以上に友好的に受け入れてくれている母龍に水を差すわけにもいかず、何を話すべきか言葉を纏める。

「……幾つか……訊きたいことがあるんだ」

「訊きたいこと? いいわ。言ってみなさい。後で私にも貴方の龍の力を見せてちょうだいね」

 最初に攻撃された時は難航を予想したが、母龍にとって龍は余程特別な存在のようだ。

 蒲牢は息が上がりそうになるのを堪え、長年疑問に思っていたことを遂にぶつけた。

「母様は……何でそんなに龍に固執するんだ……?」

 龍の何がそんなに特別なのか。蜃やラクタヴィージャから話は聞いたが、母龍に直接尋ねる機会が訪れたことには感謝した。

 笑えない蒲牢とは対照的に、母龍は窶れた口の端を不敵に持ち上げて不気味に笑う。

「訊きたいこととは、そんなこと? 龍は素晴らしい獣よ。恐れられ、崇められる! 私はそんな龍の子が欲しかった! 私だけの龍が欲しかった。九人もいたのにたったの二人……いえ、気高き龍は貴方一人だけだった! やっと見つけたのに!」

 高揚したかと思えば険しく表情を歪める。母龍の感情は不安定だった。

「見つけた……?」

「そうだ。龍の卵をやっと見つけた」

 言葉がおかしい。変だ。見つけた? 卵を? 自分が産んだ卵を見つけたなどと言うのか? 見つけたと言うことは一度紛失していた?

「蒲牢がいなくなってからも卵を探したが見つけられなかった。やはりあの卵を手に入れられたのは運が良過ぎたのだ」

「ま……待って! 卵を見つけたって何だ……? 俺達は卵から産まれた……その卵は……?」


「孕んでいた龍の女から貰った物だが?」


「!?」

 話が違う。蒲牢の動揺に、静聴していた四人も眉を寄せた。この女が母龍なのではないのか。では今まで母だと思っていたこの女は何なのだ……?

「……その龍の……女? その人は何処に……」

「もういないが? 化生しているだろうが、姿が変わり記憶も喪った獣など特定できない」

「卵は……その人が産んだのか……?」

 徐々に事態が呑み込めてきた。声が震える。悪夢より質が悪い。こんな悍ましいことがあって良いのか。

「そうだ。何だこんな話が聞きたかったの? その女は卵を守ろうと庇っていたが、私が卵を傷付けるわけないじゃないか。邪魔な女は殺した。龍の癖に惨めに死んだ! ははははは!」

「じゃあ……お前は……母様じゃ、ない……」

「何を言っている? 私は育ての親よ。私の気高い龍の子、何を動揺することがある?」

 本当の母親は疾うにこの女に殺されていたのだ。九子が卵から孵る前に。それを知らずに九子はこの女を母龍だと思ってしまった。産まれて目の前にいた一人の女を親だと思ってしまった。今まで微塵も疑うことなく従い尽くしてきた。あの幼少の時代は何だったのだ。殺される瞬間まで、いや殺されてからも母龍だと信じて疑わなかった。とんだ愚者だ。

「さあ……今度は貴方の番よ。龍の力を、」

「触るな!」

 白珊瑚のような角に見惚れながら手を伸ばす女に一喝し、蒲牢は一歩下がった。取り乱しそうになるが踏み止まる。瞼が震えてしまうが、訊きたいことはまだ終わっていない。

 下がったことで贔屓に近付き、彼は背後から蒲牢の耳元に囁いた。

「代わるか?」

 蒲牢は小さく首を振る。このまま蒲牢が話す方が円滑に進む。聞きたいことを全て聞くまで、何が起こっても冷静にだ。

 蒲牢が取り乱せば、記憶を継いで何百年も苦しんだ彼を馬鹿にされて必死に怒りを鎮めようと拳を握り締めている睚眦が飛び出してしまう。そうなれば話どころではない。

「訊きたいことはまだ終わってない」

「……いいだろう。だが後一つだ。私も待ちきれない。私の龍がどんな力を振るってくれるのか」

「覇下が化生しないことについて」

「ハカ……?」

 龍以外は興味が無いこの女が覇下のことを覚えているはずがない。覚えていなくとも吐き出させる。

「化生しないのは呪いなのか? さっきお前は九人と言った。俺達兄弟が九人いたと覚えてるってことだ。その第六子が化生しない。何かしたなら吐いてもらう」

 覇下を殺してしまったのは蒲牢だ。ならば覇下を化生させてやるのも蒲牢の務めだ。今度は退かない。蒲牢は氷の双眸に決意を籠めて女を睨む。幼少の頃は見上げることしかできなかった女を、今は見下ろしている。

「第六子? 龍は第三子と第七子だけだ。第六子は違う。特別なのは三と七だ! 三と七……特に三という数字はもう甘美だ……」

 自棄に数字を強調する。女の中では最早重要な数字となってしまったようだ。殺してからも数字は呪縛となり絡み付いたらしい。

「……わかった」

 蒲牢は目を細め、小さく口を開ける。耳飾りの杖が光り、言葉の無い微かな歌が皆の耳朶を揺らした。それは自身の怒りを鎮めるための歌だった。理性が無くなれば、裏通りを滅茶苦茶に破壊してしまう。


「お前は言霊を呪縛として使ってるんだ」


 幼少の九人を従えたのも、逆らえなかったのも、蒲牢の歌から言葉を奪ったのも、龍生九子を兄弟の(しがらみ)に縛り付けたのも――全て言霊の所為だ。この獣の能力は言霊だ。

 女は空に向かって然も可笑しそうに笑い出す。

「それを知ってどうする!? 一度刻んだ言霊は消えることはない! 私が死ぬまでな!」

「…………」

「さあ蒲牢の番よ! 力を……龍の力を見せておくれ……!」

 女は再び手を伸ばし、蒲牢は今度は退かなかった。もうこれ以上は対話をしなくても良い。

 戦う決意をして間棒(けんぼう)を召喚しようとし、ぼとりと頭上から何かが落ちた。

「…………」

 皆の視線が一斉に蒲牢の足元へ向けられる。女の視線も同じように足元へ落ち、蒲牢も怪訝に一瞥した。

「…………」

 一瞥だけでは理解できずもう一瞥し、冷汗が流れた。

「取れた……」

 そこに落ちていたのは、蒲牢の頭に生えていた角の片方だった。今まで冷静を努めていたが、予想外の出来事に皆の冷静は崩れそうになる。

「騙したな!?」

 女が真っ先に我に返り、杖を振った。蒲牢は落ちた角に気を取られて反応が遅れた。

 蒲牢の背後から贔屓は杖を召喚すると同時に振り、抗えない圧で女を地面に叩き付けた。

「ぐぅ……!?」

「これ……取れる物だったのか……?」

 角が取れた頭に蒲牢は恐る恐る手を遣るが、血は付着しなかった。頭に穴が空いてしまったのかと焦ったが、そんなことはなかった。

「誰だ……お前達は……。力を()……っ」

 最後まで言わせず、睚眦は俯せに倒れた女の頭を踏み付けた。口を開けないように地面に押し付ける。言霊を使うなら口を塞いでおいた方が良いだろう。

「まだ混乱してるが……どうするんだ、こいつ? このまま地下牢に連行か? それともここで烙印を捺すか?」

 頭を踏み付けたまま杖を女に向け、睚眦は問う。

 贔屓は狴犴に目を遣り、彼も黙考しながら前に出た。

「……死ぬまで消えない言霊の呪いか……。この女を殺さない限り呪縛が解けない、覇下が化生しないと言うことだな。地下牢に収容していては解決にならない」

 一律の終身刑を定めている狴犴は暫し唸った。終身刑で解決できない罪は初めてだ。

「狴犴。良い案がある」

 杖を女に向けながら、贔屓は助け船を出す。

「ここはもう誰もいない裏通りだ。何をしようと目撃者はいない。生きていると覇下が化生しないなら、この罪人は死刑にすればいい。剥離の印で言霊を断てるなら話は変わるが」

「……お前にしては過激な案だな。随分御立腹のようだ。剥離の印は強力だが万能ではない。覇下のことを考えると殺すしか無さそうだが、この罪人が化生して記憶を継いだ場合、報復を企てる可能性がある」

 贔屓は頷き、地面に貼り付いて身動きの取れない女を無感動に見下ろした。

「おそらくだが、この罪人は龍ではない」

「…………」

「龍ではない獣が龍に憧れたが、自身が龍になることはできない。育ちきった龍には誇りがあり、我が物にすることはできない。だから幼い龍の子を探して手中に収めようとした。そこまで龍の子を欲する理由がこれくらいしか思い付かないんだが、違うか?」

 尋ねるが、女は口が開けられないよう地面に押さえ付けられている。

 もしこの女が龍だとしたら、蒲牢に掛けられた呪いの範囲が彼の歌だけということはなかっただろう。二人の力量にかなりの差があるのだ。言霊の力がもっと強ければ、蒲牢は普通に話すこともできなかったはずだ。呪いの内容が『貴方に言葉はいらない』なのだから。

「合っているなら瞬きを二度、違うと言うなら二秒、目を閉じてみろ。素直に言うことを聞くなら龍の力を見せてやる」

「!」

 女の顔は途端に歓喜に満ち溢れ、瞬きを二度した。蒲牢の角が片方落ちたからと言って、彼が龍であることには変わりない。自分が殺したことなど忘れて、大きく育った蒲牢を見て女は浮かれている。

「龍ではないこの程度の獣は脅威にはならない。――皆、この機会にこの罪人に訊いておきたいことはあるか?」

 睚眦と狻猊は少し考えるが、首を振った。前世の記憶が無い二人には突然母だの母でないだの言われても実感が無い。産みの親ではないのなら要は赤の他人なのだ。興味も何も無い。

 記憶のある蒲牢も急な展開に付いて行けずにいたが、これが最期となるなら何か無いかと考える。一番知りたかった龍に固執する理由は聞けた。何てことはない、只の欲望の一つと言うだけだった。己の欲望のために産みの親を殺し、結局九人の子供全てを殺した。

「……何でこんな……龍でもない獣に、龍の本当の母親が……」

 疑問が口を衝いて出てしまい、慌てて口を閉じた。

 記憶のある蒲牢にはやはり話し足りないのだと、贔屓は女を冷たく見下ろしながら推測を口にする。

「産卵で体力を消耗していたのかもしれない。龍と言えど消耗を感じないはずがない」

 女は嬉々として二度瞬きをした。

「……もういい。もう何も聞きたくない……俺達は子供で……非力で弱かったから簡単に殺されたんだろ? 言霊で呼び出して……抵抗する力も無くて……今なら絶対、殺されないのに!」

 女は不気味に笑い、二度瞬きをする。それすらもう見たくはなかった。

 贔屓は蒲牢の腕を引いて後ろへ下がらせる。もう充分だ。これ以上ここにいると蒲牢の精神が壊れてしまいそうだ。

 近くに転がっていた瓦礫を片手で拾い、睚眦に足を退かせ、贔屓は地面に貼り付いて動けない女の頭部にそれを載せた。重いが耐えられる程度の瓦礫を置いて何をしているのかと睚眦と狻猊は怪訝な顔をするが、やがて察した。

「狴犴は何かあるか?」

「……いや。死刑しか選択肢が無いなら已むを得ない。だが覇下の件には些か私情を挟む。どちらが大切かと問われると勿論覇下ではあるが」

「ああ、そのことか。狴犴には宵街の統治者の立場がある。漸く理解できたようだな」

「その言い方は不服だが。死刑には賛成だと言っているだろう」

「わかってるよ。だから君達は手を汚さなくていい。僕が長子として終止符を打とう」

「できるのか?」

「フ……妙な心配をするな。確かに僕は罪人も平等に扱おうとした。だが殺せないわけではないよ」

 贔屓は女に杖を向け、

「では力を見せてあげよう」

 歓喜に満ち溢れる女へ最後の微笑みを向け、すぐにそれを消した。


「己が私欲のために十人の罪無き獣を無慈悲に殺害し、時を経ても反省の色無し、更なる被害者を生まない措置と僕達の遣る瀬無い怒りを考慮し、ここに死刑を宣告、即時の執行を宣言する」


 女の表情は一瞬強張り、

「騙しだなあゥあああああアア!!」

 載せた瓦礫と地面に挟まれゆっくりと林檎を潰すように呆気無く頭蓋が拉げた。

 瓦礫の下から鮮血が溢れ、地面を汚していく。

「君が弄んだ兄弟の長子自らの制裁だ。喜べ」

 生体に加重すると贔屓にも同様に圧が掛かってしまうため、死ぬ程の圧を掛ければ自傷してしまう。頑丈とは言え何度も自傷したくはない。頭に無機物の瓦礫を置き、その瓦礫に加重した。瓦礫は割れてしまったが、欠片が載っていれば頭に伸し掛かって潰れる。

 もう一つ瓦礫を掴み、次は背中へ置く。心臓の位置だ。これにも加重し、骨を砕き心臓を潰しておく。頭部の破壊だけでは死なない獣もいるのだ。頭部と心臓を潰せば人間と同じように獣も死ぬ。

「いいかい睚眦。拷問とは苦痛と絶望を与えるものだ。今回は目的が死刑だったが、龍の力を見せるという甘美な餌を吊り、抗えない状態でゆっくりと苦痛と、前言が嘘だった絶望を与える。心身に痛みを与えるのが拷問だよ」

「そ……そうだな……」

 突然名指しで手解きをされ、睚眦は苦笑いした。睚眦の拷問は身体的苦痛に重きを置いている。それにゆっくりではなく一瞬で体を切り落としている。ゆっくりと軋みながら自分が潰れていく絶望を与える方が質が悪いことは今見て理解した。渾沌と檮杌(とうごつ)へ行った睚眦の拷問を見学して、贔屓は彼女に助言をする機会を窺っていたのだ。

「――さて。皆、撤収だ。今回の件については皆に報告書を提出してほしい。兄弟と言えど感じることは異なるだろ。この報告書は目を通した後に速やかに処分する。各自自由に書いて、今後のことを定めよう」

 報告書と聞いて睚眦は心底嫌そうに顔を顰めた。拷問をする時も報告書を作成させられるが、この事務的な作業が彼女は苦手だ。狻猊も心中は似たようなもので、空中に待機させていた火の玉を消しながら複雑な表情をした。

「……睚眦、狻猊……どう考えても俺が一番書くことが多いから……」

 記憶がある分、蒲牢の報告書は一枚では済まない。睚眦と狻猊は励ます言葉が見つからなかったが、自分の報告書の方は何だか頑張れそうな気がした。

 用が済んで転送のために杖を構える狴犴の許に蒲牢はとぼとぼと歩き、落としたまま忘れている角を狻猊が拾った。角は重くは感じるが、想像していたよりは軽い。獣の杖は肋骨の一部だが、骨である杖よりも軽く感じた。どうやら特殊な物のようだ。それに価値のある宝飾品のような気品が漂っていて、滑らかで透明感がある。

 贔屓は先に言っていた通り、持ち帰るために小さな黒い花を幾つか摘む。殺気は落ち着き、彼の背は普段のように穏やかだ。

 昔とは違うが優しくて頼れる長子に蒲牢は目を遣り、その背にぼそりと小さく呟く。

「……ありがとう、ヒキ兄様」

 聞こえない程の声だったが何か感じ取ったのか、贔屓は怪訝に振り向く。蒲牢が目を伏せて逸らすと、贔屓は微かに微笑んだ。

 狴犴は花を摘むのを待ちながら、潰れて動かない女へ目を向ける。もう微動だにしない。確実に死んでいる。化生するまでは死骸はここに有り続けるだろうが、ここへはもう誰も来ない。女がどのようにしてここへ転送したかは尋ねなかったが、事故で転送されるのだから偶然遣って来たのだろう。

 全員が集まり贔屓が立ち上がったことを確認し、狴犴はくるりと杖を回して表通りへと戻った。

 そこには再び誰もいなくなる。闇に呑まれる裏通りは、元のようにしんと物音一つしなくなった。



 誰もいなくなってから幾らか過ぎた頃、闇が降りる裏通りの茂みががさりと揺れた。

 黒い体は闇に溶けて目立たない。兎のように長い耳を生やしたそれらは茂みを出て目的の物を見つけた。

 頭と心臓が潰れて死んだ獣。大きな布を広げてその死骸を乗せ、それらは力を合わせて持ち上げた。

 それらはぺたぺたと歩き、闇に消えていく。

 墓守の仕事は裏通りでも変わらない。


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