120-残響
狭く暗い科刑所の石の廊下に、壁に嵌め込まれた型板硝子の窓が淡い光を落としている。その光を避けるように影に腰を下ろし、角の生えた白銀の青年は暗い顔で膝を抱えていた。
「っ!? ……蒲牢?」
そこに通り掛かった睚眦はびくりと足を止め、動かない青年の様子を窺う。彼の白は暗い中でもぼんやりと浮かび上がっていた。
「……で合ってるよな? あんまり顔を見る機会が無くて……そんな立派な角、生えてたか?」
女性の中では長身の睚眦は一歩引いた所で蹲み、ぼんやりとする蒲牢の白い頭を見る。白珊瑚のような角は、睚眦が今まで見た獣の角の中で一番大きくて美しかった。
「触ってもいいか……?」
蒲牢が龍であることは睚眦も知っている。九子の中ではたった二人の龍属だ。同じ龍である睚眦の頭には角は無い。こんなに立派な角が生えていれば嘸かし誇らしいことだろう。邪魔そうだが。
「……睚眦……また拷問をしてきたのか?」
角に手を伸ばそうとしていた睚眦はぴたりと止まる。
「? ああ……少しな。ラクタが病院に戻ったから、あまり痛め付けるなと言われてるが。渾沌は顔が無いから苦しんでるのかもわからない。血は出るが、まるで無機物を殴ってるみたいだ」
「顔に血が付いてる」
指を差され、睚眦は自分の頬に手を遣った。返り血が付着していた。拷問をすると気付かない内に血が付着していることがある。
「角は触ってもいいけど、別に良い物じゃない……。よく引っ掛かるし、窮奇には帽子や上着を掛けるのに丁度良さそうって笑われた。窮奇の角でも掛けられそうなのに」
「身長が三十センチくらい伸びるようなものか。窮奇を殴って来ようか?」
「怒ってないけど」
蒲牢はそんなに気が短くない。いらぬ争いを生まないために慌てて止めた。睚眦と窮奇が争えば宵街が吹き飛び兼ねない。
「……睚眦は意図的に天候を操ったことはあるか?」
「ないな。別にわざわざ天気を変えたいと思ったことはないし」
「やっぱり天候を操ったから生えてきたんだろうな……」
睚眦は好奇心を抑えきれず指先で蒲牢の角に触れ、撫でるように指を動かした。樹皮を剥いだ木のようであり、硝子のようでもある。少し羨ましいと思ったが、不便なら生えない方が良いだろう。
「触覚はあるのか?」
「無いけど重い。慣れないと動きが鈍りそう」
「重いから座ってるのか? それとも怪我が治ってないとか?」
渾沌との交戦で主に傷を負ったのは獏だが、蒲牢も見えない体内に攻撃を受けていた。体に熱を感じた時だ。体内を少し溶かされたらしい。大事に至る前に体を冷やしたので軽傷で済んだ。
「……違う。何処に行けばいいかわからなくて」
「何だ、迷子か? 鴟吻が呼んでただろ? 案内してやるよ」
「…………」
両手で両の角をすべすべと触る睚眦を一瞥し、蒲牢は一度俯いてゆっくりと立ち上がった。睚眦も一旦手を離す。
「鴟吻は兄弟全員を呼んだんだろ? 気が乗らない……」
「蒲牢は面倒臭いな。兄なんだからもっと偉そうにしてればいいだろ」
睚眦は力を籠めて蒲牢の背を勢い良く叩き、蒲牢は数歩蹌踉めいた。変転人や人間なら吹っ飛んだだろう。
「……あ。鴟吻の方が姉か。何だ、鴟吻が怖いのか?」
「怖くはないけど……はぁ……」
「だから案内してやるって」
「狴犴の部屋の場所は知ってるけど」
「は? 知ってるのに何処に行けばいいかわからない……? 謎掛けか? 頭を使うことは狴犴とか贔屓とか……頭の良さそうな奴にしろ」
顔を顰めてもう一度、今度は軽く蒲牢の背を叩く。
鴟吻が兄弟達を呼んだ理由は知らないが、蒲牢はあまり良い予感がしなかった。睚眦は知らないことだが、化生前の記憶を唯一持つ蒲牢は何となく察していた。――皆が死んだ時の記憶の共有を求められるのではないかと。だから足が重かった。狴犴の部屋へ行くことを躊躇い、廊下で座り込んでいた。行くべきなのか悩んでいた。
(覇下はいないけど……兄弟全員が集まるなんて、化生前以来だ……)
蒲牢が歩き出すと、睚眦も片手で角を触りながらそれを追った。拷問中の彼女は狂ったように血を求めるが、普段は暴れたりしない。拷問で発散するため、普段は大人しいものだ。
化生前は蒲牢と共に一番最後まで生きていた睚眦は、あの頃と同じように蒲牢を弄って燥いでいた。
* * *
宵街の病院の病室は広いわけではないが、ちょっとした運動なら可能だ。包帯を取って数日が経過したが、体を動かさないと鈍ったままだ。
床を蹴り、壁を駆け、天井に手を突く。足を出すタイミングを外してしまい、ベッドに落ちて発条が軋む。
「大人しくしてなさい患者!」
勢い良くドアが開き、ラクタヴィージャが遂に殴り込みに来た。ベッドに落ちた獏はびくりと構えたが、彼女は怒鳴っただけでぴしゃりとドアを閉めて行ってしまった。他の仕事が忙しいようだ。
「怪我は治ったから患者じゃないはず……」
壁際に置いた椅子に座っていた蜃と椒図はドアを確認し、蜃は鼻で笑った。
「鈍ってる内は患者ってことだろ」
「病院から出るなと言われているからな……病室で運動するのが一番安全だと思ったんだが」
屋上は開けているが柵が無いので鈍った体では落下する危険があり、廊下や階段だと迷惑だろうと病室で体を慣らすことにしたのだ。それでも許してもらえないようだ。
獏を見世物小屋に売ったのは蜃だと渾沌に聞かされた二人の距離はまだぎこちないが、間に椒図がいてくれる御陰で何とか気不味くならずに済んでいる。獏の中の憎しみは治まっていないが、これからあの透明な街に跋扈している悪夢に全てぶつけて発散するのだ。
獏もベッドに座り、大人しくと言われたのでこてんと横になる。渾沌と戦ってから度々熱が出ているが、解熱薬で抑えているので端から見れば元気に見えることだろう。動物面が無くなり顔を晒しているので内心は憂鬱なのだが。
三人は暫しぼんやりとし、その静寂の中で部屋に軽くノックの音が響いた。獏が返事をすると、申し訳なさそうな顔で贔屓が部屋を覗いた。
「待たせてすまない。鴟吻に呼ばれてね、悪夢退治に同行できなくなった」
「どのくらい待てばいいの?」
「いや、待たなくていい。遣る気のある内に終わらせたいからな。僕より悪夢の知識がある人に、監視役として同行してもらうことにした」
「え? 誰……?」
確かに贔屓には悪夢の知識が無いかもしれないが、知識がある獣などいただろうかと獏は首を捻る。饕餮は記憶を喪っているので、窮奇だろうか。窮奇の怪我ももう完治しているはずだ。
「狴犴から報告書を読ませてもらって連れて来た」
贔屓は背後を振り返り、手招いて後ろにいた者をドアの前に立たせる。その姿を見て獏は困惑してしまった。
贔屓に連れて来られたのは獣ではなく、灰色海月と黒葉菫だった。獣ですら危険だと言うのに、変転人を連れて行けと言うのか。
「黒葉菫は悪夢との戦闘経験もあるそうじゃないか。とは言え戦えと言っているわけじゃない。飽くまで獏の監視だ。獣が行っても触れられないのなら、誰が行っても同じだからな。だが悪夢の知識が全く無いと危険にも気付けない。知識の無い獣と有る変転人だと、圧倒的に後者の方が危険を回避できる。危険だと思えば戦おうとはせずにすぐに離脱してほしい」
「はい」
「はい……」
灰色海月は遣る気満々だが、黒葉菫は不安そうな顔をしながら頭を下げる。戦闘経験があると言っても悪夢には触れられないのだから不安になるのは当然だ。黒葉菫は怖いものをきちんと怖がるので危険があれば逃げるだろうが、今まで留守番に不満を抱いていた灰色海月は少々心配だ。遣る気を空回りさせなければ良いのだが。
「それと以前は、苧環の御陰で変転人達は悪夢から離脱できたそうだな」
「……先が読めてきたよ」
「この三人はあの街に滞在していた時間も長い。僕より街にも詳しい。苧環も快諾してくれた」
「やっぱり……」
贔屓の背後から白花苧環も丁寧に頭を下げた。
「変転人達が無傷でこの任務を完遂すれば、罪人と言えど評価されることだろう。後で報告書も提出してくれ」
「都合良く餌を吊られて動かされてる気分だよ。何で面倒な報告書も書かないといけないのかな……」
「報告書と言う形を残しておくことで、死んで記憶を喪ったとしても事を把握することができる。そのために書かせている」
何気無くぼやいただけだったが報告書に意味があることを知り、獏も言葉に詰まってしまった。問題の処理をしている最中に狴犴や贔屓が死んで記憶を喪ったとしても、問題を把握して事に当たることができる。自分が死んだ時のことを考えて書かせているようだ。
「変転人を同行させることは僕も君と同じ気持ちはあるが、獏の目から見る悪夢と君以外が見る悪夢は印象が違うだろうからな。それを知るために客観的な目が欲しいんだ。何度も悪夢を見たこの三人なら、充分それが務まるはずだ。納得してくれるか?」
「うん……まあ、確かに僕以外には見えない悪夢があるからね……」
見えていても、同じ姿が見えているかはわからない。獏は獏にしか見えない物しかわからない。他者の目に映る悪夢の姿は、獏自身も確かに興味はあった。
「椒図は同行するか?」
贔屓はふと椒図に視線を向ける。椒図が無言で頷くと贔屓も小さく頷き返した。蜃が立ち会いを求められたのだから、付いて行かない理由が無かった。
「では引き留めないことにしよう」
鴟吻に呼ばれているのは贔屓だけではない。彼は椒図にも声を掛けるつもりだったが、折角記憶を取り戻して友人と共に居られるようになった椒図を無理に引き離したくはなかった。もし鴟吻の話が椒図に必要なことなら、戻って来てからまた話せば良い。
「頼んだよ、獏。僕の願い事だと思って叶えてくれ」
贔屓は笑いながらドアを閉め、言いたいことだけを言って早々に去ってしまった。最後の一言は冗談だろうが、善行に文句は言うなということだろう。
放り込まれた変転人三人を見遣り、とりあえず言うことは一つだ。
「……皆、絶対に勝手に動き回らないでね。特にマキさん」
「オレだけ念を押される意味がわかりませんが、指示があるまで待機すればいいんでしょう?」
「マキさんは頼もしいんだけど、危なっかしいからね……」
「お褒めに与り光栄です」
「…………」
表情はまだ乏しいが、白花苧環はふふんと得意気な顔をした。おそらく皮肉だ。話す度に以前の彼に戻っている気がする。性根は同じなのだろう。
「獏一人が面倒を見ることはない。獏が悪夢を処理する間、変転人達は僕達が見ておく」
蜃は『僕達?』と思ったが、拒否権は無さそうだ。
「最後に街の悪夢を見たのはマキさん達だけど、何だか妙なことになってるみたいだから、僕にも未知数なんだよね。先代っぽい悪夢がいるみたいだけど……渾沌の菌糸も残ってるかもしれないし、絶対に近付いちゃ駄目だからね」
全員に念を押すと皆頷いたが、本当に何があっても近付かない者はいないかもしれない。
「もし菌糸が残ってるなら蒲牢も連れて行きたい所だけど、誰か居場所を知ってる?」
狴犴には譬え暇を持て余していたとしても頼みたくない。蒲牢ならと思ったが、誰も首を縦に振らなかった。蒲牢も渾沌との戦闘で消耗はしていたが、大怪我を負ったわけではない。科刑所で狴犴を手伝っている可能性が高い。科刑所まで迎えに行くのは足が重い。
「僕も行くからそう不安な顔をするな、獏。剥離の印は使えないが、閉じる力で守ることはできる」
「……そっか。椒図は力を使えるんだよね」
「ああ。迷惑を掛けた分、役に立たないとな。転送も僕がする」
化生して記憶を失っていた間の記憶は勿論残っている。化生した椒図は獏の説得を振り切って狴犴の許へ行き、宵街を閉じてしまった。それを思い出しながら椒図は杖を召喚する。迷惑を掛けてしまったせめてもの償いとなれば良い。
「じゃあ行こうか」
それぞれに目を配り、その場でくるりと杖を回した。
刹那の内に暗い夜が見下ろす透明な街の石畳へ足を下ろし、懐かしくも感じる煉瓦の街並みを一同は見渡した。
「――でもさ、椒図の力は悪夢に効かないよね」
「…………」
化生した椒図が悪夢に力を使おうとして、蜃に当ててしまったことがあった。椒図は額に手を当てた。記憶の混乱の所為で失念していた。
「何か……口を挟む余地があれば助けになろう」
「椒図は頭が回るからな。口だけでも充分だろ」
蜃は椒図を庇うが、彼は苦笑した。足を引っ張ることがないようにはしたい。
「俺はいつでも椒図の指示で動けるから心配するな!」
蜃も杖を召喚して構える。椒図の機転には何度も助けられたのだ。だが悪夢にはできる限り近付かないようにする。もう喪うのは御免だ。
「路地が多くて地面は暗いし、屋根から端に行こうと思うんだけど、二人は屋根の上を走れない……よね?」
拠点の店の周囲には今は何の気配も無い。少し走ることになる。獏は変転人達を窺い、首を傾けた。
「難しいです……」
「俺もです。走ることができても、跳び移ることができません」
「オレは走れます。不審な子供に遭遇した地点へ案内もできます」
尋ねたのは灰色海月と黒葉菫に対してだったが、白花苧環も答えた。やはり変転人が屋根を走るのは難しいようだ。白花苧環は半獣なので、渾沌に襲われた時も獏を抱えながら充分走れていた。見た目には変わらないが、こういう所で変転人と半獣の差が出る。
「じゃあクラゲさんとスミレさんは蜃と椒図に任せるね。僕から少し距離を取って付いて来て。マキさんには案内をお願いするけど……僕から離れないでね。足元に黒い物を見つけたら絶対に踏まないこと。いいね?」
「はい。わかりました」
白花苧環は素直に頷くが、やはり心配な気持ちは拭えない。先走りやしないかと獏は不安げに眉根を寄せる。
面を被っていないので表情が晒されているが、白花苧環は指摘しなかった。只の変転人ではなく半獣なのに何故こんなにも心配されるのかと疑問はあったが。
小柄な蜃は灰色海月を抱え、椒図は黒葉菫を抱えた。抱えられる変転人二人はそれぞれ抱える獣よりも身長が高いが、獣は変転人より力がある。
最初に獏が屋根の上へ跳躍し、そのすぐ後を白花苧環も眼帯を外して追う。
「向こうです。付いて来てください」
軽く視線で示し、白花苧環は屋根を跳び移る。獏の速度を確認しながら進むので、一度死んではいるが彼の成長を感じずにはいられなかった。出会って間も無い頃は呼び止めても全く聞きやしなかったと言うのに。
「……何故笑いながら付いて来るんですか? 気持ち悪いです」
「えっ、笑ってた? まあ子供の成長を喜ぶ親みたいな気持ちだったけど」
親は知らないので想像だが。
「何ですかそれ……気持ち悪いです」
不快感を隠さずに白花苧環は眉を顰める。彼の根元の部分は本当に変わっていない。
白花苧環達が黒い子供に遭遇した場所へはすぐに辿り着いたが、彼が示した眼下には何もいなかった。街灯の光が届かず石畳は暗いが、黒い筋が無いことは確認できる。周囲にも不審な気配は無かった。
「やっぱり動く物がその場に留まってることはないね」
店の方向とは反対へ視線を上げ、端がある方へ金色の目を細める。
「それとも僕が来たから逃げたのかな?」
「端に行きますか?」
「うん。マキさんは皆の所まで下がってて。ここからは僕一人で遣る。危険だと思ったら、ちゃんと離脱してよ」
獏は白花苧環の方は見ずに一人で屋根を蹴った。悪夢に触れる特権を持っているのは獏だけだ。一人で始末するしかない。
白花苧環は少し間を開けてから掌を合わせ、二本の白い紡錘を引き抜く。報告書を作成するには、現場を知らなければならない。無色の変転人の有毒武器は悪夢に有効だ。それを構えるなとは獏も言わないだろう。
街の端へ向かい、まだ幾らか向こうに家々が連なっている所で、獏は脚を広げて急停止した。端の闇を一瞥し、足元に目を落とす。黒い筋が屋根に蔓延っていた。悪夢の菌糸は遂に屋根に上がって来たようだ。これ以上は近付けない。
(……渾沌の菌糸が混ざってるのかな……こんな現象、今まで見たことなかったし……)
根や菌糸のような物だと言ったのは先代の獏だが、もう彼女に確認はできない。これを踏んで脚が重く感じたのは、菌糸により悪夢が消化不良を起こしたからだ。悪夢を消化したことで軽くはなったが体内に菌糸が残っていたのだろう、檮杌の調査を頼まれた獏の居場所に渾沌が遣って来たのはこの菌糸を辿ったに違いない。こればかりは烙印があって良かったのだ。
獏は思考を続けながらも白い手を翳し、屋根に蔓延る黒い筋に光の矢を幾つか放つ。黒い筋は矢を避けることはせず、大人しく突き刺さった。
(この距離なら端に届くかな? 厳しいかな……)
飛ぶことができれば菌糸を踏まずに端に行けるのだが、獏は飛行が得意ではない。烙印を半解除してもらってからは飛べるか確認しておらず、暫く飛んでいないのだから不安である。
「蜃――」
一人で遣るとは言ったが、悪夢の前まで運べる者がいるなら頼るべきだ。振り返ると蜃は灰色海月を屋根に下ろし、杖を上げて返事をした。
「ここから先は菌糸があって、足では進めないんだ。空中に足場を作ることってできる?」
「できるが、実体は長時間持たないからな。その場で留めることもできなくはないが……戦闘になったら君の欲しい場所に足場を作れるかわからないぞ」
「じゃあ足場によって臨機応変に動くよ。任せるね――」
「いや無理だろ……」
以心伝心で通じ合っているならともかく、獏と蜃では踏み外す確率の方が高いだろう。何か工夫が必要だ。本当に臨機応変に動けるなら獏の器用さに感服するが。
獏が手を上げるので、遣れるだけは遣ってやろうと蜃も杖を構える。タイミングを合わせるのは集中力を要する。灰色海月の面倒にまで意識を向ける余裕は無いので、彼女も椒図に任せておく。
とんと屋根を蹴った獏の足下に煉瓦のような小さな足場を実体化させる。暗い街中でも視認し易いように、獏に倣って発光させた。足場が霧のように溶ける前に獏は膝を曲げ、飛び石を進むように端へと接近する。跳ぶには膝を曲げなければならないので、そこを見ていれば何とかタイミングを合わせられそうだ。
「獏が凄いと言うか、これは俺が凄いよな?」
「ああ。蜃は凄いよ」
得意気に笑う蜃に、椒図も微笑んで頷く。だが笑顔は続かず、蜃の顔はすぐに陰った。
「俺が小屋に売ったことを知ったのに……あいつは俺を信用するんだな」
足場を消せば獏は菌糸に落ちてしまう。なのに他人の張った小さな命綱を信じている。
「性格は悪い癖に……」
ぽつりと呟くと、足下が少し揺れた気がした。獏の方で悪夢が地面でも叩いているのだろう。微かな振動に意識を取られないように気を引き締めて杖を握り締め、直後に足下の屋根が弾けた。
「!?」
足下から黒い塊が飛び出し、皆の体は宙に投げ出された。黒葉菫を抱えた椒図は蜃の腕を掴もうと手を伸ばすが、それよりも早く白花苧環の蹴りが蜃の腰を打つ。
「ぎゃっ!?」
小柄な体は一つ向こうの屋根に跳ね、椒図は慌ててそれを追った。白花苧環は空を掻く灰色海月を受け止め、瓦礫を跳んで距離を取る。
「この黒い塊……悪夢ですか」
獏の方を一瞥すると、獏も悪夢と交戦していた。蜃の集中力が途切れて足場が消えたが、獏は悪夢の触手を足場としたようだ。端の悪夢を攻撃する合間にこちらに光の槍を放って牽制するが、槍一本では悪夢は退かない。
「お……おい苧環! もっと優しく助けられないのか!? っげほ」
「屋根の上に菌糸は無くとも、家の中は既に染められていたようだな。何処から攻撃が来るかわからない。気を付けろ」
黒葉菫を屋根に降ろして椒図は蜃を助け起こしながら、蜃の杖の先を獏の方へ向ける。獏の足場へ集中しろと無言で訴えた。
黒葉菫も掌からフリントロック式の拳銃を抜き、足下から飛び出した悪夢へ一発撃つ。悪夢は銃弾を受けた箇所の身を縮ませて動きが鈍くなった。
「姿を現せば撃って怯ませることはできます。指示に従います。使ってください」
悪夢から視線は逸らさずに黒葉菫は弾を装填する。戦闘の必要は無いと贔屓に言われたが、これは護身のためだ。そして獣を守るのが変転人の役目である。獏と出会って幾らか自由を与えてもらったが、その覚悟は揺るがさない。ここにいる変転人の中で最年長は黒葉菫だ。前に立つ覚悟は転送前からしていた。
灰色海月も腕輪を生成して構えるが、あまり距離を取っていては悪夢に届かない。屋根の上では歩くことすら難しく、経験の乏しい彼女は足場が悪い中での戦い方が浮かばない。
「使えと言ってもな……」
悪夢を怯ませるだけでは根本的な解決にはならない。屋根から飛び出した悪夢は触手を伸ばし、屋根の上に立つ皆を薙ぎ払おうと振り回す。
椒図は灰色海月の腕を引いて躱し、蜃も自力で跳び退く。黒葉菫も何とか身を引いた。距離があるため、まだ避ける余裕がある。
黒葉菫は毒を含んだ銃弾を素速く撃ち込み、装填を繰り返す。その足元に再び微かな振動を感じた。
「!」
足下の瓦が捲れ、悪夢の細い触手が彼を突き刺そうと迫る。
白花苧環は黒葉菫を蹴り飛ばし、くるりと鮮やかに針を横へ引いた。触手はばらりと切断され黒い靄となる。
「触った……? 切れるのか!?」
「何度も攻撃するのは的にしてくれと言うようなものです。始末できないなら手を出さず逃げるべきです」
冷ややかな目を向けられ、黒葉菫は息を呑んだ。白花苧環は冷静を努めているが、黒葉菫の遣り方に怒っている。
「獣を守るのが変転人の……」
「窮地に自己犠牲ですか? 教育の施された変転人はそうなるんですか? それとも獣が、そんなに怖いんですか?」
言葉の途中で触手が襲い、白花苧環は束ねた長い白髪を翻しするりと触手を切る。金色の片目が髪から覗く。
彼が傘に絡んだ悪夢を切った時は半信半疑だったが、あの目は獏の力から得たものだと黒葉菫は確信した。獏から多くの生命力を分けられ、白花苧環はそれを吸収した。完全ではなくとも獏の特権を得た。何代も獣の力を注がれ続けて得た彼の特異な体質がそうしたようだ。
「下がっていてください。変転人が弱者なら、弱い者を守るのが正義です」
止める間も無く白花苧環は屋根を蹴り、悪夢の本体を針で裂いた。黒い塊を一撃で裂くことはできなかったが、切れることはわかった。
「マキ! お前はそれを切れるかもしれない……だが! 処理はできない!」
霧散した黒い靄は消えずに集まって白い背を襲おうとし、黒葉菫は瞬時にかちりと狙いを定めて撃つ。白花苧環は振り向き様に針を振り、黒い靄が再び霧散した。
「良いことを教えてあげます。悪夢に毒は効くようですが、弾は通用せず貫通します」
「あっ……!」
黒葉菫は悪夢には触れられない。銃弾は彼の力が生成した物ではあるが物理的な攻撃であり、悪夢に触れることができない。発砲した延長線上に白花苧環の体があり、血の気が引いた。
「但し悪夢の中を通過すると速度は落ちるようです。この程度ならオレでも弾を弾き落とせます」
「弾を……? え、怖い……」
「怖いならやはり下がっているべきですね」
くるりと針を回し、繰り出される触手を慣れた手付きで切断する。
「そちらは足下に注意してください。オレが全員守ります」
蠢く悪夢の群れは獏が相手をしている。そこから漏れた悪夢だけを相手にすれば良いのなら、白花苧環一人でも太刀打ちできる。生まれ変わって戦闘経験も全て記憶から落ちてしまったが、体には感覚が刻まれている。不思議と体が軽い。戦うなと言われても悪夢に近付くなと言われても、動かずに誰かが死ぬくらいなら命令を無視する方が良い。
発砲した黒葉菫に向かって触手が繰り出されるが、白花苧環はそれを容易く切る。悪夢にとっては想定外だろう。獏以外は取るに足りない存在のはずなのに、獏のように悪夢に触れることができる者がもう一人存在するのは。
黒い触手の数が増し、皆へ一斉に襲い掛かる。白花苧環は自分に襲う触手を往なし、皆を刺そうとする触手の一本を蹴り飛ばしながら針を振る。針の先に取り付けた変換石から糸が伸び、残りの触手を切り刻む。その背後から迫った触手は彼の長い髪の先を掴むが、白花苧環は振り向かずに躊躇無く髪を切り落とした。掴み易いなら切り捨てるのみだ。
はらはらと白い髪が夜に溶け、白花苧環はくるりと皆を背に針を構えて着地する。
「ただ触れられないだけで、悪夢は獣以下ですね」
檮杌と対峙した時は体が竦むほどの威圧感を覚えた。殺気で身が焦げそうな程だった。だが悪夢にはそれが無い。所詮は獏の餌だ。
少し距離が離れ過ぎてしまったが、跳ねながら光の武器を出力する獏から一本の光の槍が投擲された。弧を描いて彼らの足下の窓を貫く。外したのかと思ったが、割れた窓から黒い靄が漏れた。下に悪夢がいたらしい。
距離が離れていてもこちらへ意識を向けつつ、獏は目の前の悪夢を相手する。幾ら白花苧環に体の動かし方が刻み込まれていても、悪夢の戦闘経験で獏に勝る者などいない。
何処から現れたのか白花苧環の目の前に光る蝶が舞い、光の糸を吐き出す。糸は文字となり空中に浮かんだ。
『調子に乗らないこと。離脱して』
漢字は読めなかったが、釘を刺されたことは何となくわかった。白花苧環は面白くなさそうに目を細め、光の文字を払う。文字は空気に溶けるように消えた。
獏は光の矢と槍を空中に広げ、悪夢へ打ち出す手を止めない。混ざり合った悪夢の群れは足を引っ張り合って動きが鈍い。触手を刻みながら本体を叩く作業を繰り返すが、離れた背後で白花苧環が応戦していることに気を揉んでいた。どうやら傘に絡み付いた細い悪夢だけではなく太い触手も切断できるようだが、逃げられるなら逃げてほしいものだ。時折彼が気付いていない悪夢に光の槍を飛ばしてやる余裕しかないが、おそらく彼は調子に乗っている。他の者は触れられない物に触れられるのだ、それは興奮して調子にも乗るだろう。
獏はじとりと悪夢を睨み、光の槌を出力して叩き潰した。
そんな単調な作業を黙々と繰り返していると、端に蠢く悪夢からぽこりと小さな黒い塊が飛び出した。黒い塊は足のような二本の触手を生やして地面を走り、腕のような触手を二本生やす。その後ろの闇から触手が追うように幾つも長く伸び、走る黒い塊に迫った。
(何あれ……?)
まるで触手から逃げているように見える。走る黒い塊は徐々に人の形を形成し、頭に赤いリボンが見えた。
『待って 待って 遊ぼうよ』
周囲の石畳に絡む黒い菌糸がぼこりと盛り上がり、黒い人型を作り出す。くすくすと嗤う聲が方々から上がり、先の人型を追い掛けた。
(子供……?)
『私の首 私の腕 私の足……何処? ちょうだい、ちょうだい……』
先の人型は黒い腕を探るように前方に伸ばし、他の人型から逃げるように走り続ける。
眉を寄せながら獏は触手が届かないよう光の壁をその間に突き立て、光の蝶で蜃に指示を出した。屋根の下へ足場を作ってもらう。
小さな足場を確認して屋根から飛び降り、逃げるように走る人型の黒い腕を掴んだ。すぐに折り返して足場を蹴って屋根の上へと跳び戻る。屋根の上の菌糸からも人型が生えるので、少し距離を取った。
菌糸がまだ届いていない屋根に人型の腕を離すと、それは蹌踉めいて手を突いた。全てが黒く覆われているが、頭の赤いリボンだけが闇の中で主張している。顔には凹凸があるので鼻や口の位置はわかるが、まともに話すことはできなさそうだ。
後を追って蠢く小さな人型の悪夢は壁を登ったり屋根を跳び越えたりはできないようで、眼下で虚しく小さな黒い手を伸ばすだけだった。
「そのリボン……先代の獏だよね」
『……して……返して……私の……すべて……』
立てないのか手を突いたまま、悪夢は獏の足元に顔を俯けている。残影が消滅しきれずに悪夢に弄ばれている。以前会った彼女とは明らかに違うものだ。絡み付く渾沌の菌糸を抑えきれず、侵蝕されて自我の死が訪れたのだろう。
『返して……私の首……私の体……私はまだ、ここにいる……』
目と思しき窪みから黒い靄が零れる。まるで泣いているようだった。
「もういいんだよ。君はもう充分頑張ったから、休んでいいんだよ」
獏は無感動にそれを見下ろす。悪夢に冒された個体に同情を見せると、足を掬われるからだ。
『私……私、まだ……死んでない……!』
「え……?」
屋根に突いた手に細長い黒い棒が伸びた。赤いリボンの悪夢はそれを支えにふらふらと立ち上がる。それはまるで杖を握っているようだった。
『あなたは……誰……欠けた獣……成り損ないが!』
「何を……」
不意にざわりと胸が騒いだ。
『杖も持たない獣が!』
獏は金色の双眸を呆然と見開き、一瞬思考が停止してしまった。
その隙を逃さず、赤いリボンの悪夢は黒い杖を振る。
(杖を……持たない獣……)
それに応えるように周囲に蠢く悪夢から太い触手が伸びた。触手は嘲るように、動けない獏の体を貫いた。
白花苧環に守られながら見守っていた皆は息を呑み、灰色海月の悲鳴が上がる。
貫いた触手は払い落とすように獏を地面に投げ付けた。赤が散るが、獏からは一切の声が上がらない。
地面に蔓延る菌糸から生えた黒い子供達が嗤いながら楽しそうに駆け寄り、黒い腕を長く伸ばして獏を歓迎し絡み付く。
『囲め 囲め』
『籠の中の鳥――』
先代は嘘を言っていない。同じ『獏』なのだから、それはわかった。
掠れる意識の中で獏は、何故自分には杖が無いのか漸く理解した。杖を持つ先代が残影とは言え存在している内に化生した所為で、同一の獣が重複して存在することになってしまったからだ。先代が所持したままの杖は獏に引き継がれなかった。
それでも先代は死んだことには変わりない。獏としての悪夢を喰う使命は、現在の獏が負わなければならない。だから能力は使うことができる。見世物小屋の所為で力が歪んで膨張に歯止めが掛からなくなってしまったが、それも杖が無い欠陥ゆえの異常だ。要は安全装置が壊れた状態で生きていた。通常であればその体が受け入れられる限界を超えてまで力が増幅することは無い。神だなどと信仰されて、烙印が無ければ獏の体は際限無く増す力に壊れていた。
ならば――どうすれば良かったのだ。
杖が持てなかったのは、獏の所為ではない。
杖が無くてもどうすることもできず、足掻くこともできない。
杖が無いことを異常だとすら思わなかった。
どうしようもなく欠陥品だった。
(……僕は……生まれちゃいけなかった……?)
虚ろな金色の瞳から零れて白い頬を伝う滴が黒い靄へと変わっていく。存在を否定され悪夢に貫かれた体は血を流し続けて動かない。その体を悪夢が連れて行こうとしている。
先代が返せと言うのも当然だ。獣の証である杖は先代の手にあるのだから――
獏が家々の間の路地に落ち、真っ先に動いたのは蜃だった。杖を構えていたのに、突然のことに何も援護ができなかった。
椒図は変転人達に待機を命じ、蜃の後を追う。悪夢の処理なんて獏にとっては容易いことで、こちらが耐えていればすぐに終わるものだと思っていた。そう思ったからこそ贔屓も代わりに変転人を連れて行けと差し出した。
これは獏にとっても想定外のことだろう。
「蜃! どうするつもりだ!?」
「わからない……でも、このまま放っておくわけにはいかないだろ! 何で二度も悪夢に連れて行かれる所を見ないといけないんだ!」
悪夢が溢れてどうしようもなくなった神隠しを終わらせるために、先代の獏は蜃に殺すよう懇願した。椒図が一人で罪を全て背負って自首して地下牢へ行ってしまったことで、蜃は先代の獏を恨んで殺した。屋根から落ちた先代の獏は悪夢に引き摺られて行った。あの時の光景が脳裏を過ぎる。
「悪夢には触れなくても、獏には触れるだろ! 悪夢から引き離す! 獣なんだから……耐えろよ!」
杖を振り、帯状の布を出力する。悪夢を擦り抜け、布は獏の体の下へ滑り込む。だが持ち上げようとしても全く動かなかった。取り押さえる触手が多く、力で勝てない。
「やはり先に悪夢をどうにかするしかないな」
椒図も杖を振り、巻き込まないよう、走る蜃の腕を掴んで引き止める。獏の周囲の家がそれぞれ中心に引き寄せられるように、騒音を立てて潰れた。
「これで道が広がって見通しが良くなった」
自分より大きな家だろうと、大きな手で握り潰すように閉じて破壊できる。椒図の閉じる力は物体を阻み中身を守るだけではない。閉じた空間を狭め、ゆっくりと圧縮することが可能だ。誰もいない無人の街だからこそ椒図は存分に力を使える。
「じゃあ次は俺が地面を創って――」
以前椒図に指示されたように蜃は蜃気楼で地面を創り、獏には当たらないよう捲れ上がらせた。
「――は!?」
以前はそれで悪夢に触れることができたのに、今は全てが擦り抜けた。悪夢が地面に接地していれば透過しないはずなのに。
「同じ技は二度通じないのか、特殊な悪夢なんだろう。聲が聴こえるからな。知能があるなら学習もする」
「だったら直接拾う! 少しでも引き剥がせれば離脱できる!」
「やめろ! お前じゃ悪夢に……!」
制止の声は聞かず、蜃は椒図の手を振り払って屋根から飛び降りた。
蜃が椒図の言うことを聞かない――こんなことは初めてだった。いや……今まで何度も言うことを聞かず椒図を怒らせたじゃないか。
見世物小屋に売った罪滅ぼしなのかもしれない。
蜃の足が悪夢の蔓延る地面に付く直前、無風の街に不意に突風が吹き荒れた。小柄な蜃は重力を失ったように浮き、上空から力強く体を掴まれた。
「っ!?」
それはばさりと一度空中を旋回し、勢いを殺して宙に留まる。
「きゅっ……きゅう……」
背中から抱き締める手の主を見上げ、蜃は途中で口籠もった。牛のような角を生やした窮奇の視線が一瞬だけ蜃の無事を確認する。腕が蜃の胸に触れているが、窮奇は気付いていない。
「さすがに空中じゃ片手で支えられねーな。受け取れ、椒図。落としたら殺すぞ」
返事を待たずに蜃の体を放り投げ、窮奇は杖を召喚した。
蜃は目を丸くしながら落下し、椒図に受け止められる。無茶なことをする。
「状況はよくわからないけどな、とりあえずこの蛇みたいに絡んでる奴をぶっ飛ばせばいいんだろ? 全部吹き飛ばせ――疾風!」
「全部!?」
強風が窮奇の周囲に巻き上がり、容赦無く獏に向かって吹き荒れた。窮奇は牙を剥き出して口の端を上げ、杖を振る。周囲を何も気にせず力を使える、こんなに最高なことはない。渾沌と連んでいた時以来だ。
立っていられない程の風が、椒図の壊した瓦礫を巻き込みながら悪夢へ襲い掛かった。瓦礫は悪夢を擦り抜けるが、風を受けた悪夢は形を保てずにぐにゃりと伸びたり吹き飛ばされたり、弱いものは黒い靄となり霧散した。獏の体も風に煽られ宙に投げ出され、風を抑えて落ちてきた体を窮奇はしっかりと受け止めた。獏の体は猶も出血が止まらず、四肢はだらんと力無く垂れ下がっている。
無茶苦茶だ。蜃も椒図も言葉が出なかった。
「死んだか? ――で、これからどうすりゃいいんだ? 悪夢の処理は延期か?」
「離脱だ! 獏を病院に連れて行く!」
「おぅ」
杖を回そうとした窮奇は獏に頬を抓まれた。どうやら生きているらしい。弱々しい力だったが、杖は止める。
血と黒い靄を流し虫の息だと誰もが思っていたが、獏は肩で息をしながら掠れる声で囁いた。
「先代の悪夢を……殺す」
「…………」
窮奇は黒い翼を一度羽撃かせ、散り散りになった悪夢を見渡して目を細める。
「どれだ?」
力無く震える指で差した先に、少し離れて黒い棒を持つ黒い塊があった。
「あの赤いリボン……」
窮奇の目には赤なんて見えず、人型にも見えなかった。
「あれだけは今……処理する……。早く眠らせてあげなきゃ……。終わらない悪夢を終わらせないと……」
「その体でか?」
「たぶん処理する頃には僕は……。クラゲさんや……皆を、お願い」
「……好きにしろ」
窮奇は小さな黒い塊と少し距離を取った屋根に獏を降ろす。獏はもう立つことすらできず、体中から黒い靄を吐いていた。赤い筋をべたりと引き摺って這う。
「もう……何も君には届いてないだろうね……。だから……一言だけ」
獏の金色の双眸は徐々に紅く染まり、黒い靄を吐きながら微笑んだ。
「お疲れ様――おやすみ」
最後の力を振り絞って上げた手の動きと共に、光が黒い塊を押し潰した。黒い塊は靄ともならず消え去り、同時に獏は倒れ、屋根を滑り落ちた。
蜃と椒図は同時に走り出し、屋根から落ちる体を支える。意識を失った体は重く、二人で引き上げた。
「窮奇! 君は変転人を離脱させてくれ! 俺達はこいつを離脱させる!」
「おう。何かよくわかんねーけど……滅茶苦茶カッコイイ登場だったんじゃねーか? オレ」
消えた悪夢のいた虚空を見詰めていた窮奇が得意気に振り抜いた時には獏達の姿はもう無く、彼は不満げに唇を尖らせた。
だが蜃の頼みは聞く。さっさと変転人三人の襟首を掴み、窮奇も離脱した。
窮奇がここへ来たのは贔屓に頼まれたからだが、彼は変転人には戦わないよう言ったはずなのにこの有様だ。
変転人の御守りは面倒だと思っていたが、結果的に蜃を助けることができたので良しとする。




