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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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117-潰し合い


 人間の気配の無い薄暗い木陰で、渾沌(こんとん)は仮面の視線を落として自分の手を見ていた。人間に封印される前と変わらない少し痩せた手だが、感覚は以前と違っていた。

「……どうかしましたか?」

 少し離れた位置に立っていた白色鉄線蓮(テッセンレン)は訝しげに尋ねる。声を掛けられても渾沌は顔を上げなかった。

「いや……繭から出ることはできたが、封印は完全には解けていないと思ってな」

「!?」

 渾沌は人間に向けて力の試し打ちを続けていたが、長年の封印により鈍った感覚を取り戻すためだと彼女は思っていた。

(しん)は失敗していた……と言うことですか?」

 白色鉄線蓮は表情が乏しいながらも微かに目を見開く。彼女は封印前の渾沌を知らないため、今の状態に封印が残っていると気付けなかった。

「繭から出る所までなんだろう。封印を完全に解くには蜃の能力では足りなかった。それだけのことだ」

「では、どうすれば封印は完全に解けますか? 封印されていても意思疎通ができた貴方なら、自力で解けますか?」

「繭の時も最初から意思疎通ができていたわけではない。あれは歳月を経て綻んでいた。放置された物は(いず)れそうなる」

「経年劣化ですか」

「ああ。それでも自力で封印を解くにはまだまだ歳月が必要だろう」

 それが十年なのか百年なのか、それともまだ先なのか、それは途方も無い時間だ。獣は長命だが、ただ待つだけでは余りに長い。

「封印を切る――剥離の(いん)を試してみる」

「剥離の印なら確認済みです。狴犴(へいかん)蒲牢(ほろう)が使用できます」

「それなら待てば来るだろうが、封印によって余の力は最大には使えない。人間如きが獣に……」

 渾沌を動かすのは純粋な殺意だ。目の前を蝿が飛び回れば誰でも叩き落としたくなるだろう。それと同じで、直接的な恨みは無いが、渾沌は人間が嫌いだった。その人間に封印されてしまった屈辱は計り知れない。

「人間に力を使う内に封印が綻びやしないかと期待もしたが、どうやら望めそうにない。檮杌(とうごつ)に相手を任せる」

「…………」

「薬は小さくて洗脳に時間が掛かる。悪夢に植えた菌糸もだ。やはり余の手で直接触れたいな」

 渾沌の転送距離が短いことは白色鉄線蓮も気になっていたが、ただ鈍っているだけだと思っていた。封印がまだ解けていないのなら、どれだけ試し打ちをしても無駄だ。無駄に気付けたことは収穫だが、手綱を握るのが難しい檮杌をまだ使う必要があるのかと思うと気が重い。

「……何故、檮杌を使うんですか?」

「比較的言うことを聞くから、だろうな。四凶(しきょう)の馴染みでもある。余の近くに居るのが檮杌で良かったのかもしれんな」

「…………」

贔屓(ひき)は遠景を見、狴犴は近景を見る。どちらかがどちらかの駒になれば良いものを、主張し合うことで使えなくなっている。頭は回せるかもしれないが、奴らは隙だらけだ」

「……しかし、檮杌を使うことだけは愚策と思えてなりません。予定に無い行動をしたり、とにかく言うことを聞かないし忘れます。多少は頭を回してもらわないと」

「そうだな。余が封印されていることも一時(いっとき)忘れていた」

「最低じゃないですか」

「だが汝を作り出してからは順調に進んでいる。汝はよく遣っている。人間への復讐も近い」

「…………」

 自由に動けない渾沌の代わりに、檮杌の手綱を引くために作られた白色鉄線蓮は鍔の広い大きな三角帽子で隠すように不満な顔を地面に向けた。完全に封印が解けるまで、檮杌は手元にいてもらうことになるのだろう。苛立ちが募る。

「――おォい、何の話をしてんだァ?」

 呑気な声が聞こえ、何処かへ行っていた檮杌がのそりと戻って来た。何処かへ行けと言っていないにも拘らず、勝手な行動が多過ぎる。渾沌が(ばく)に接触している間も檮杌は勝手に人間を殺していた。もう何人殺したかわからない。

「貴方が馬鹿だという話をしてるんです。貴方はいつもいつも勝手に……偶然獏に会って足を潰したことだけは良いですが……」

「何だァ、オレの話かァ!」

 馬鹿という言葉は耳に届いていないらしい。もしくは届いた上で一瞬にして忘れた。最初の三文字しか頭に入っていない。白色鉄線蓮は相手にすることを止め、溜息を吐いた。

「何処へ行ってたんですか」

「暇だからよォ、人間を潰してきた」

「騒ぎを起こさないでください」

 常に見張っておかないと駄目なのかと白色鉄線蓮は頭を抱える。渾沌と話す時も目を離せない。掴むと怒るそうだが、長い尻尾を掴んでおきたいものだ。

「そういやァ、饕餮(とうてつ)ちゃんはどうなったんだァ?」

「珍しいですね。計画を覚えてるなんて」

「饕餮は刺した。生きているだろうが、饕餮と窮奇(きゅうき)のことはもう忘れろ。二人はもう仲間ではない」

「……そうかァ」

 僅かな間があり、渾沌は彼を見上げる。封印のことは忘れても、檮杌が渾沌の存在を忘れたことはない。仲間の名前が彼から出て来ない時は無かった。

「窮奇が饕餮を連れて来なければ、まだここに窮奇はいたかもしれないな」

 それは饕餮が四凶に入る前の出来事だ。窮奇がうっかり彼女の服を吹き飛ばしてしまったらしく、渾沌に服を作ってくれと頼みに来たことがあった。それが四人の出会いだった。

 檮杌が饕餮を気に掛けていることは渾沌も知っている。渾沌は無情だが、檮杌は情を断ち切れていない。蜃が入院する病院に彼を行かせた時も、現れた窮奇には怪我をさせず少し殴る程度で済ませていた。白色鉄線蓮からそう報告を受けている。

 仲間はいつか裏切るものだ。駒としての仲間ならともかく、渾沌はもう誰も信じる気は無かった。


     * * *


 朝まで待つ。そう示し合わせていた宵街(よいまち)の病院では獣達が集まっていた。

 記憶を失った饕餮の相手をしていた窮奇も、欠伸をしながら一階の待合室へと戻って来る。

 待合室では四人の獣が集まっていたが、一人は椅子の上で眠っていた。あどけない寝顔は全く警戒していない。

「寝顔も可愛い……」

 ぼそりと呟いた窮奇に、贔屓と椒図(しょうず)も顔を向ける。

「窮奇、眠そうだな。寝れば良かったのに」

「饕餮が煩いんだよ……。お前らは元気だな」

「この状況ではなかなか眠れなくてね。蜃のように少しでも眠れれば良かったんだが」

 獣なので寝ない日があっても不調は無いのだが、傷や失った体力を回復させるにはやはり少しでも眠る方が良い。

「蜃はこのまま寝させとけ。もう朝だと思うけど、誰が人間の所に行くんだ?」

 腑抜けた空気がピリと引き締まり、贔屓は徐ろに立ち上がった。

「僕が行く。狻猊(さんげい)に端末の電波を拾えないか相談していたが、間に合わなかったようだからな。僕が直接見よう」

 窮奇は後ろに座る獏と椒図を一瞥する。二人も行くと言う目をしている。

「渾沌にはオレが傷を付けておいたから、饕餮がまた傷痕辿りをすると思ったんだが、どうやらその手は使えないらしい。あんまり引き込みたくないけど、念のため確認したんだ。そしたら『何だそれ?』だと。自分の能力を覚えてないのか、本当に使えなくなったのかはわからねーけどな」

「……饕餮は今はそっとしておこう」

「で、オレの傷痕辿りをできる奴はここにいるか? 渾沌の居場所はそれでわかるだろ」

 三人は顔を見合わせ、獏と椒図は首を振る。贔屓も傷痕は辿れない。

「その傷痕辿りと言うのは、誰でもできる技ではないだろ? 自分が与えた傷痕を辿れる者なら稀に聞くが、他人が与えた傷痕は聞いたことがない」

「そうなのか? 饕餮の奴、実は凄かったんだな」

 自分では辿れない窮奇は感心するが、そう言えば饕餮は昔からそれができていたわけではなかったと思い出す。いつからか急に窮奇の傷痕を辿れると言い出したのだ。丁度饕餮が人間の肉に興味を示し始めた頃だっただろうか。人肉を食べることに最初は顔を顰めていた饕餮が、好んで食べるようになるとは思わなかった。

「渾沌の居場所がわかれば攻撃も避け易いだろうし、良いと思ったんだけどな。檮杌の居場所はわからねーけど」


「檮杌なら渾沌と合流したわ」


 階段から怖ず怖ずと幼い顔を出し、鴟吻(しふん)がこちらを見ていた。饕餮との御喋りを切り上げて来たようだ。その背後で黒種草(クロタネソウ)が睨みを利かせている。

「見るなと言っていたのに……千里眼で見たんだな、鴟吻」

 少し低くなった声に鴟吻はびくりと肩を跳ねさせ、黒種草は一層睨みを利かせた。

「具合が悪くならないなら構わないが、無理をしてはいけないよ」

「わ……わかってます……。でも、皆が危険な場所に行くのに、現地の情報を得られる私が何もしないわけにはいかないので」

「気持ちは受け取るよ。合流した情報を得られたことはありがたい」

「……!」

 鴟吻の幼い顔がぱっと紅潮し、魚のような尻尾がぶんぶんと振られた。背後にいた黒種草は一撃喰らって下がり、ぴちぴちと勢い良く振られる尻尾を見下ろす。尾が何かにぶつかっても鴟吻自身は気付かない。

「場所もわかるので、傷痕を辿らなくても大丈夫です。居場所は攻撃跡地から距離があるので、跡地の様子を見に行っても鉢合わせる可能性は低いと思います。檮杌と渾沌の居場所は私が見張るので、何でも言ってください」

 興奮しながら一息に言い切り、その勢いに気圧される。

「黒種草がいるなら大事は無いと思うが……無理をしていると思ったら鴟吻を止めてくれ、黒種草」

「は? お前に命令され――」

 黒種草が顔を顰めると鴟吻は振り向き、純朴な目で見上げられ彼は言葉に詰まった。

「……わ、わかった……」

 よく躾けられている変転人だ。黒種草は口と目付きは悪いが従順だ。

「獏は何か言っておくことはあるかい?」

 唐突に振られた獏はすぐに言葉が出なかったが、飲み干したティーカップを置いて暫し考える。

「……じゃあ、一つだけ。蒲牢を連れて来てほしい」

「蒲牢? 確かに戦力には良いかもしれないが、菌糸のことを考えるとあまり連れて行きたくはないな」

「その菌糸だよ。鉄線蓮を確保した時にすぐ菌糸を切れる人が欲しい。僕達の誰かがもし菌糸を植えられても、蒲牢がいてくれれば安心だし」

「剥離の印か。狴犴は疲労があるし、それなら蒲牢に頼るしかないか……」

 本音は連れて行きたくないが、印を扱える者は限られる。どれだけ警戒していても、絶対に菌糸を植えられない保証は無い。どんな事態になるかわからないので、万一に備えるべきだろう。

「蒲牢なら狴犴の病室で寝てるから、連れて来るわ」

 蜃もだが、蒲牢もこんな状況でよく眠れたものだ。

 鴟吻は階段を引き返し、黒種草は贔屓に威嚇をしてから彼女の後を追った。

 程無くして蒲牢を連れた鴟吻が戻り、浮かない顔をした蒲牢が「おはよう」と呟く。

「おはよう、蒲牢。また悪夢を見たの?」

「……見た」

 獏は蒲牢の体を確認するが、黒い靄は漏れていない。さすが獣だ。悪夢を抑え込んでいる。

「人間の街に行くのか?」

「うん。蒲牢にも来てほしいんだ。剥離の印を使える人が他にいないし」

「鴟吻から聞いた。俺で足りるなら制裁に付き合う」

「ありがとう。でも渾沌の相手はしなくていいからね」

 蒲牢は間棒(けんぼう)を使い、接近して戦うことを得意とする。触れて菌糸を植える渾沌にはなるべく近付かせたくない。戦闘能力の高い蒲牢を菌糸で奪われることは避けたい。

「行くのはここにいる皆か? ……蜃も?」

「蜃もだけど……行くって言ってたけど、起きないね」

 皆の視線を一身に浴びながら、蜃は椅子の上で丸くなったまま目を覚まさない。記憶を取り戻した椒図がいるからか、安心して眠っている。

 先程から無言で蜃の寝顔を凝視していた窮奇ははっとした。

「蜃は置いて行く。ここにいる方が安全だ」

「それなら私が見ててあげるわ」

 一緒に行くと話を纏めていた獏と椒図は口を挟もうとしたが、確かにここにいる方が安全だ。蜃は最近大怪我をすることが多い。治るとは言え心配ではある。渾沌にも一度完膚無きまでに遣られている蜃は、渾沌と対峙せずこのまま眠らせておいた方が良いだろう。見張りにと挙手をした鴟吻に任せておけば大丈夫だ。

「窮奇も怪我してるから、安静にしてた方がいいよね?」

 獏の問いに窮奇は一度口を閉じた。誘われているのか確認なのか、窮奇は自分の能力を振り返る。

「……行ってもいいけど。でもオレが行くと被害が大きくなるぜ?」

 窮奇はちらちらと贔屓を見、獏は彼から滲み出る躊躇の理由を察した。窮奇の風は影響範囲が広い。本気で戦えば余分に人間に被害が出る。それで地下牢に放り込まれては馬鹿馬鹿しい。

「戦うと傷に響くでしょ? 他に何かできないの?」

「他!?」

 そんな要求は初めてだった。窮奇の力は多を圧倒するなら持って来いだが、繊細な攻撃は苦手だ。建造物の多い現代でも風の流れを読んで操作することはできるが、破壊するなと言われると難しい。

「……あ。攻撃以外なら、転送させないようにすることならできるぜ。……いややっぱ地味だからいいか」

「離脱できなくさせるの? それいいよ。敵に回すとイラッとしそう」

「蜃に……遣ったことがある」

「相当イラッとしただろうね」

「くっ……振られたのはそれが原因か……」

「どうだろうね」

 転送できないと言えば樹海での出来事を思い出す。あれはあの場所が獣の力に作用していたためであり特定の獣の仕業ではないが、窮奇のように力を封じるような能力を持つ獣は稀有だ。

「特殊な力だから条件はあるけど、檮杌と渾沌はオレの力を把握してないから安心しろ」

「君も相手の力を把握してないって言ってたし、結構淡白な付き合いなんだね」

「自分の力を話すには信用が必要だろ。無いからな、そんなもん。饕餮は四凶に最後に加わったけど、あいつは自己紹介で自分の手の内を晒そうとしたから慌てて止めたくらいだ。まああいつの力はシンプルだけどな」

「ふぅん。それで君に懐いたのかな」

「確かにそれからうろちょろ付いて来られるようになったけど。ま、檮杌は馬鹿だし渾沌は何考えてるかわからねーし、オレしか残らねーってわけだ」

 他人の短所を挙げつつ、自分の気の短さは棚に上げた。

 話が纏まり、蜃を起こさないよう一同は病院を出る。緊張感はあるが、重い空気ではなかった。彼らを見送り、灰色海月(クラゲ)は不安げに、白花苧環(シロバナオダマキ)は晴れやかに恭しく頭を下げる。

「それじゃついでだ、オレが転送してやるよ。この前遣り合った場所に行けばいいだろ?」

「ああ。だが騒ぎが収まっていないかもしれない。少し離れてくれるか?」

「おう」

 先に現場の状態を見た鴟吻の顔色を思い出し、贔屓と蒲牢と獏と椒図は覚悟を決める。窮奇は渾沌の力を見るのは初めてではないので幾らか気分は落ち着いているが、どの程度の範囲を攻撃したのか確かめておく必要がある。その範囲で今の渾沌の状態を知れる。

 窮奇は杖を召喚し、躊躇わずにくるりと回した。

 転送した直後に騒ぐ声が耳に入り、遠くでは忙しなくサイレンの音が響く。上空ではヘリコプターが喧しく旋回していた。五人が現れた暗い路地には誰もいなかったが、すぐ近くの道で声や足音が聞こえる。

「近いね。背の高いビルの上だと見下ろせたのに」

「先に言っとけ。でも近くにビルなんてあったか?」

「マンションならあるんじゃない?」

 先ずは現状を見て確かめようと目の前の壁を見上げ、二階建ての住宅の屋根へ跳び上がる。その民家は無事だったが、目の前に広がる住宅街は所々に火が燻り残骸となっていた。

「…………」

 一面火の海の最悪も想像していたが、火が上がっているのは一部のようだ。消火活動が続けられているが、加えて夜の内に少し雨が降ったようで地面が濡れている。雨が火を消す一助を担ってくれたようだ。

 だがそれで被害が少なかったわけではない。倒壊した家々が延焼を防いでいるだけだ。建物の下敷きになった人間を救助する様子が窺える。

「火事の延焼を防ぐために先に家を壊していた光景を思い出すな……」

「椒図が言ってることは今は行われてないからね」

「そうなのか? 確かに今は木造に見えないな」

「木造の家はまだあるけど」

 一人だけ時代が遅れている椒図は置いておき、人間の集まっていない道を探して下りてみる。立ち入り禁止の規制線は張られているが、被害の範囲が広くて見張りの人間はいなかった。

 そこは火が上がってはいないものの煙は幾つか視認できた。見えない所で燻っているのだろう。半分傾いた家から向こうは倒壊していたり電柱も倒れて地獄絵図だが、手前の家は何も被害が無く壁に罅一つ無い。

 住人は既に避難して留守のようだ。これなら多少派手に動いても目撃される心配はないだろう。

「酷いな、これは……」

「これを喰らったらさすがに贔屓も骨折じゃ済まなさそう」

 罅割れた道を足元を確かめながら歩き、付近を調べてみる。少し焦げ臭い。

「……ねえ、金属製のポストが溶けてるよ」

「ここは火の手も無いし周囲も焦げていないが、何の熱だ?」

「さあ……?」

 近くにあった小さな石を拾ってポストに投げると、カンと金属に当たる乾いた音がした。溶けているがもう冷えて固まっている。

「石が少し温かいような……?」

 周囲を歩き回っていたが、ふと蒲牢は無事な地面へ跳んで戻った。獏と椒図と贔屓も振り返る。窮奇だけ無事な地面から一歩も動いていないことに気付いた。

「お前ら、一旦戻って来い」

 三人は顔を見合わせ、素直に窮奇に従う。全て把握していなくとも、この中で渾沌を一番知っているのは窮奇だ。問う前に動いた方が良いだろう。

「どうした? 何かあったか?」

「地面がまだ温かい。雨で冷えてない。こういう時はまだ()()。もう少し下がれ」

 言われた通り数歩後退し、その直後に地面に衝撃が走った。

「!?」

 大きな錘でも落ちてきたかのような地響きの後、壊れた街の瓦礫がぐしゃりと潰れ、小さな火がぽつりと上がった。

「時間差で二、三度攻撃があるって言っただろ? たぶんこれが最後だな」

「攻撃が残ってるって先に言ってよ……」

「オレもよくわかってねーって言ってるだろ。ただ何回かこの技を見て、地面が温かい時はやばいって気付いたんだ」

 蒲牢は窮奇が声を掛ける前に跳び退いていたが、経験による勘だ。

「……熱による攻撃か? それなら金属が溶けていることも説明がつく」

「熱? そういうことか……」

 窮奇は神妙に納得し、蹲んで壊れた地面に手を遣る。徐々に冷めていくのがわかった。もう攻撃は来ない。

 金属が溶解するほどの熱を加えれば発火もするだろう。何処かで爆発が起こってもおかしくない。

「ね、留守の家でニュースを見ようよ。被害の規模が見えてこないし」

「そうだな」

 贔屓の携帯端末は狻猊に預けたままだ。情報を収集するには民家に侵入するしかない。獏は早速手近な家の玄関で手を触れずに解錠して土足で入って行く。余りに手際が良い。

 人間の街で過ごしていた時間の長い贔屓は土足で入ることは躊躇ったが、この状況でブーツを脱ぐのは危険だ。仕方無く続いて土足で踏み込む。ぞろぞろと居間へ入ると、目的のテレビが据え付けられていた。

「……あ。映らない」

「当然停電しているだろうな。他の部屋を見て来る」

「うん」

 獏が置いたテレビのリモコンを椒図はじっと見下ろす。こんな物は初めて見た。小さなボタンがたくさん付いている。ボタンに書かれている数字は一体何なのか、リモコンを手に取り繁々と眺め回す。

 窮奇は暇なので勝手に冷蔵庫を開け、蒲牢もそれを覗き込む。電気は通っていないが、冷気はまだ感じた。

「冷蔵庫も停電だな」

「良い物でもあるか?」

「お前は黙ってろ。蜃に何か良い土産でもないかと思ってな」

「……これプリン?」

「それ甘い奴だよな? それでいいか、土産」

「……違う、茶碗蒸しだった」

「糠喜びさせやがって!」

 そうこうしていると贔屓が携帯端末を手に戻って来た。

「住人は慌てて避難したようだな。スマホが落ちていた」

 冷蔵庫を物色する二人を呼び戻し、皆は贔屓の手元を覗き込む。慣れた手付きで端末を操作する贔屓を、椒図が一番に興味を示して覗く。これまで地下牢にいた椒図には現代の機械はまるで魔法のような物だった。

 この件を扱った記事を幾つか読み、被害の規模が明確に浮かび上がってきた。被害は約三百メートルに渡る円内で、二箇所の離れた位置で起こった。それぞれ家屋の倒壊や出火など同じ状況で、深夜だったことで人間は殆どが就寝中だった。何が起こったのか人間は把握しておらず、何人が家の中で潰れたのかまだわかっていない。

「何らかの兵器説、隕石など上空からの物体落下説、地盤沈下説……取り留めがないな。これから更に議論されるだろうが、そのための調査に人間が集まってきそうだ。これ以上は被害を広げたくないな」

 どれだけ議論しようと、人間が獣に辿り着くことはないだろう。贔屓は溜息を吐き、記事にある写真を見て憂える。白実柘榴(シロミザクロ)の家はこの中にある。もう全て燃えてしまっただろう。喫茶店の方は被害の中に含まれていないが、あそこは贔屓が殻を張っている。獣に見つからないのだから、外部からの力も及ばない。心配はないはずだ。

 窮奇も記事も読み、真剣な眼差しで咀嚼する。

「……三百メートル……少ないな」

「これで少ないの?」

 ぽつりと漏らした言葉は聞き間違いではないかと耳を疑うものだったが、窮奇は黙って頷いた。

「昔は一キロくらい潰してた」

「一キロ!? 一キロって千メートルだよ!?」

「馬鹿にすんなよ。それくらい知って……千メートル? すげぇな。わざと加減したのかもしれないけど……これが今の渾沌の全力だとしたら、まだ全快じゃないんだ。そりゃ長年封印されてすぐに調子を取り戻すわけないとは思ってたけど、これは力の試し打ちがまだ終わってねーな。時間差攻撃も間延びしてたし」

「不完全なまま僕と遭遇した……ってこと?」

「そうだ。獏に菌糸を植えれば手駒にできると思ったんだろうけど、烙印の作用を把握してなかったんだ。そんなもん把握してるのは狴犴か贔屓くらいだ。獏の烙印はあいつには想定外だった。――だよな?」

 窮奇は贔屓に目を遣り、推測が合っているか確認する。贔屓も異論は無いと頷いた。

「鉄線蓮が科刑所の雑用をしていたそうだが、その程度では烙印の情報は得られないからな」

「或いは、蜃の力じゃ渾沌の封印を完全に解くことはできなかったのかも?」

 蜃の力は化生して弱くなっている。封印を解ききれなかった可能性はある。獏の指摘も一理あると窮奇も納得する。

「もし誰かが菌糸を植えられたら俺が切るよ」

 そのために呼ばれた蒲牢は自分の役目を再確認した。

「ああ。蒲牢は渾沌に触れられないように離れていてくれ」

「……見てるだけなのは歯痒いな」

 被害が大きくなるため戦うなと釘を刺されている窮奇は、蒲牢の肩をぽんと叩いた。後方観戦員が増えた。

「で、オレは何処に風紋(ふうもん)を張ればいいんだ?」

「風紋?」

「あー……転送させないって奴だ」

「それは設置型か?」

「……あんまり力の話はしたくないんだが」

「ある程度は知っておかないと、支障が出ては困る」

「範囲を言ってくれればその通りに遣ってやる」

「…………」

 範囲にも上限があるだろうに、これ以上は押しても話してくれないようだ。贔屓は仕方無く口を閉じるが、話すことを渋るならおそらく風紋の範囲はそう広くはない。地に設置するものなのか自身を中心に展開するものなのかくらいは知りたかったが、窮奇の動きを見ていればわかることだろう。敵以外を注視する余裕はあまり無いのだが。

「檮杌と渾沌は合流したようだが、僕達のこの人数を纏めて相手はしないだろうな」

「と言うと?」

「少なくとも僕と蒲牢は引き離そうとするだろう。渾沌が本調子ではないなら尚更な」

「まあ確かに纏めて相手はしたくねーな」

「だからもし引き離されて、僕が一人になったとしても追わなくていい。蒲牢が一人になった場合は追ってやってくれ」

 蒲牢は反対しようと口を開き掛けたが、思い直して目を伏せた。剥離の印を使える蒲牢を敵の手には落とせない。それは理解している。だが贔屓が引き離され渾沌の相手をすることになったなら、許可などは得ずに蒲牢は迷わず追うつもりだ。

 龍生九子(りゅうせいきゅうし)の中に龍は二人のみだと知らなければ、渾沌は九子全員を警戒するだろう。ここには椒図もいるが、記憶を取り戻したことまでは情報が届いていないはずだ。記憶を取り戻してからの椒図はずっと病院の治療室にいて、この件に関わりのない者とは会っていない。渾沌に情報が届いているとしても、狴犴が倒れて宵街を閉じた未熟な椒図のことだけだろう。化生して間も無い未熟な椒図は、譬え龍だと仮定しても取るに足りない。渾沌が警戒するのは贔屓と蒲牢だけだ。

 ただ四凶である饕餮の角を見れば、彼女は龍ではないと勘付ける。それを渾沌がどう解釈しているか知る術が無い。菌糸を転移させて操作し人質に使うのだから、舐めていることだけは確かだが。

 目の前にひらひらと紙切れが翻り、贔屓は指で抓む。鴟吻だ。彼女は千里眼で贔屓を見ている。贔屓が引き離されたとしても、本当の意味で彼が一人になることはない。

「……檮杌と渾沌も今は身を潜めて相談をしている最中のようだ。今なら虚を衝ける」

 鴟吻の千里眼は声までは拾えないが、音の無い視界をこれまで幾度と見てきて観察眼は備わっている。相手の行動や表情で状況を把握する。

 唇の動きで多少は言葉も拾えるが、渾沌は仮面を被っていて口元は見えない。だが仮面を被るのは鴟吻を警戒してのことではない。鴟吻の千里眼は自身の周囲が見えない弱点を持つ故、人前でそれを使用することはなかった。彼女が千里眼を待つことを知る者は極めて少ない。そして饕餮も軽々しく兄弟の能力を触れ回ったりはしない。特に仲の良い彼女達は互いを売ることはしない。渾沌は千里眼で覗かれていると知らない。

「僕が檮杌と渾沌の居場所へ転送する。共に居る鉄線蓮はなるべく傷付けるな。窮奇は三人が離脱できないよう風紋を張れ。獏も準備はいいか?」

「うん。いいよ。でも転送できるの?」

「まだ罅はあるが、頑丈に補強するつもりだ。何処まで杖を使えるか、先に試しておきたい」

「そっか」

 何故獏にだけ改めて尋ねるのかと、獏は首を傾ぎながら話を聞く。

「獏は弱点を晒している状態だ。負傷した足に気を付けてくれ」

「罪人に気を遣ってくれるの? ふふ。ありがと」

 印の御陰で潰れた足は全く痛まない。動くには問題ない。先に渾沌に遭遇した時は獏は白花苧環に抱えられていたので、包帯を巻いた足で自由に走り回れば渾沌は驚くかもしれない。

「僕も遣られてばかりじゃね。きっちり遣り返さないと。僕の力は対悪夢に特化してるから獣を相手にするものじゃないけど、渾沌の動きはこの前見たし。渾沌は飛べないみたいだから、空に逃げられることがない」

「あいつ飛べるぞ」

 横から口を出す窮奇に獏は「えっ……」顔を顰めた。崩落する家に落ちたのは飛べない振りだったのか。

「力を完全に取り戻してないなら、一時的に飛べないだけだろ。渾沌は本調子じゃねぇ。確定だな。檮杌も飛べるけどあいつは図体がでかいから、飛ぶと目立つし消耗もでかいらしい。だから檮杌はあんまり飛ばねぇ」

「渾沌と檮杌の力のことは話してくれるよね」

「そりゃそうだろ。あいつらはオレの嫁を殺しかけたんだぜ? 饕餮もだ。本当ならここら一帯を吹き飛ばしたいくらいだ」

 贔屓を一瞥し、窮奇は腕を組む。元統治者がいる前で堂々と被害を拡大させることはしない。気が短いと言われる窮奇とて分別はある。地下牢に入れられるのは嫌だ。

「我慢してるんだ。偉いね」

「吹っ飛ばすぞ獏」

「窮奇も一キロくらい風を起こせるの?」

「あ? ……試したことはない。自分の目で見える範囲じゃねーと、余計な物まで壊し兼ねないだろが」

 想像よりも考えて行動しているらしい窮奇に感心しつつ、目の届く範囲では滅茶苦茶に破壊していたことを思い出す。

 贔屓が確認のために杖を召喚すると、それを合図にするように各々杖を召喚した。獏は杖を使わないのでやや手元が寂しい。贔屓の杖には視認できる小さな罅があるが、首に掛けた小さな杖で補強する。

「では窮奇、風紋を頼むよ」

 最後に念を押し、贔屓はすっと窮奇に耳打ちをした。窮奇は微かに眉を顰めるが、何も言わなかった。

 贔屓はくるりと杖を回し、少し距離を取った住宅の屋根の上へ現れる。即座に窮奇は更に距離を取って身を潜めた。

「身を潜めてって言うから空き家だとかを想像してたんだけど……」

 一同の目の前に広がっていたのは、誰もいない墓地だった。あまり広くはなく、視界に全景が収まる。

「早朝だからか人間の姿は無いな。多少暴れても被害は無いだろう」

「暴れるのは墓荒らしみたいで嫌だけど……」

「罪人もそんな風に思うのか?」

「物言わぬ死人を甚振るのは趣味じゃないよ。石の下にあるのが骨だけだとしてもね」

「そうか。ならば僕が先手を打とう」

 他人が嫌がることを率先して引き受けようと言うのかそもそも無頓着なのか、贔屓は屋根を飛び降りて墓地の中へと跳んだ。周囲には高い木が生えているが、中は見通しが良く木も茂みも無い。気配を消してもこちらの姿は向こうに丸見えだ。――但し贔屓は、気配を消す以上に自身を認識させない殻を被ることができる。

 鴟吻からの報告で檮杌と渾沌の位置は正確に把握できている。贔屓は自身の力の有効範囲に入るとすぐに杖を振った。だが。

(押し返された……?)

 墓石の間から見える向こう側で二つの影が立ち上がる。長い尾を体に巻き付け背丈が三メートル程はあろうかと言う大男の檮杌と、仮面を被り服の裾から一対の翼のような尾が覗く痩身の渾沌だ。

「ごちゃごちゃと蝿が寄ってきやがったなァ」

 気配も姿も認識できない贔屓の攻撃を狙って防いだわけではなく、予め見えない盾を周囲に張っていたようだ。如何にも攻撃してくれと言うような見通しの良い場所で、何も備えていないわけがないかと贔屓は自嘲するように笑う。

 即座にもう一度攻撃しようとし、贔屓の手がぴくりと止まる。前に出て来たのは檮杌でも渾沌でもなく、白色鉄線蓮だった。彼女はとんと墓石の上に立ち、掌から鉄扇を抜いてくるりと広げた。

 変転人は譬え無色であろうと獣には敵わない。それがわかっていて彼女が前に出たのは、贔屓達が変転人を攻撃することに躊躇があるからだ。それは事実であり、菌糸で操られた彼女を傷付けることはない。人質に取った饕餮を窮奇達が救出したことから、有効な手段だと学習した。

「私が相手します」

 それは彼女の言葉ではなく、言わされている言葉だ。

 保護対象の白色鉄線蓮が自ら前に出てくれるなら好都合だが、この状況は些か不都合だ。仲間の饕餮を容易く痛め付けた残忍さを持つ渾沌なら、白色鉄線蓮が手を焼いていれば彼女諸共潰しに掛かるだろう。

 贔屓達はそれぞれ距離を取り、互いに接近しないよう目配せする。蒲牢は数歩下がり、全体を見渡す。

 贔屓が地面を蹴ると同時に蒲牢の耳飾りが光り、敵の行動のみを阻害する透き通った歌声が墓地に響いた。接近して戦うことはできないが、歌で援護することはできる。怯んだ白色鉄線蓮の脇を擦り抜け、贔屓は檮杌と渾沌にもう一度加重を行う。

 だがやはり二人に掛けた力は押し戻される。重圧を増しても同程度の力で押し返される。

(これは檮杌の能力か……? 檮杌の力は下だけでなく、上向きでも使えるのか? それで僕の力を押し返している?)

 形のあるものだけならともかく、目に見えない力も(あっ)せられるのなら厄介だ。彼らに届く前に全て止められ、誰の攻撃も彼に届かないと言うことになる。

(どちらの能力が上か、力比べか……)


「先手に苦戦してるね」


 有効な攻撃ができないでいる贔屓を見兼ねて空中にばらりと光の矢が広がり、背後に控える檮杌と渾沌に一斉に射出される。二人は今度は跳んで躱し、檮杌は牙を剥き出して笑いながら獏を一瞥した。

「刺さって終わりじゃないよ」

 後を追うように地面に刺さった光の矢は順に爆ぜていく。爆竹のように弾けるが殺傷力は低い。それでも脅かすには丁度良い。

 探るような温い攻撃と不快な歌に渾沌は苛立ち、黒い杖を振った。渾沌を中心に放射状に地面が捲れ、墓石を折りながら障害物を薙ぎ払う。その範囲にいた白色鉄線蓮も足場を失うが、地面ごと押し退けられながら黒い傘を引き抜いた。

 熱風を感じ贔屓も身を引く。想定通り分断する気だろう。贔屓と蒲牢を引き離すつもりだ。

 白色鉄線蓮は体勢を崩しながらも黒い傘をくるりと回し、檮杌と贔屓も巻き込んで姿を消した。

「!?」

 窮奇の風紋で転送はできない。そのはずだった。蜃と饕餮を痛め付けられ怒っていた窮奇が裏切るはずがない。獏も蒲牢も椒図も、何故白色鉄線蓮が転送できたのかわからなかった。

 風紋を張るには時間が掛かるのか、何か想定外のことが起こったか、何らかの条件で転送を可能としてしまった。戦えるとは言え負傷している贔屓を一人にさせるわけにはいかず蒲牢も転送を試みるが、それは叶わなかった。転送ができない。

「これで攻撃に専念できる」

 渾沌は黒い杖を掲げ、獏達は直感的に攻撃が来ると構えた。椒図は咄嗟に杖を振り、それとほぼ同時にあの倒壊した住宅街のように墓地が破壊された。――椒図達の周囲を除いて。

「椒図の力が完成されている……?」

 化生した椒図が記憶と力を取り戻したことを、やはり渾沌は知らないようだ。

 椒図は杖を握り締め、息を整える。攻撃が来る瞬間に椒図は周囲の空間を閉じ、何ものも入らせないようにした。窮奇は隠れていて位置がわからないので何もできなかったが、避けてくれているだろう。渾沌の攻撃は時間差で二、三度衝撃が来ると窮奇は言っていた。次の衝撃に備えて構えておく。

「……いいでしょう。その不可侵空間を切り裂いてあげます」

 左右の肩の辺りから嫌な音を立てながら一本ずつ腕を生やし、細長い四本の腕を構える。

「ねぇ……空間って切れるものなの?」

「わからない……そんなことはされた経験が無い……」

「つまり避けた方がいいってことだよね……?」

「そうしてほしい」

 困惑する二人の後頭部を見ながら、蒲牢は杖から間棒に持ち替えた。身の丈より長い間棒は隠すことができず、渾沌の目にも入っているだろう。仮面を被る渾沌の表情は窺えないが、精神を逆撫でする歌で苛立っていることはわかった。



 強制的に場を移された贔屓は周囲を一瞥する。住宅街のようだ。一瞬感じた視線は壁の陰へ潜んだ。

(……人間がいるな……転送を見られたか。なるべく早く片付けるとしよう)

 車一台分の道幅のそこに、檮杌と白色鉄線蓮の背後から一台の軽自動車が接近する。

「邪魔だァ」

 檮杌は贔屓に顔を向けたまま杖を振り、車はぐしゃりと叩き潰されて細かい硝子が散った。ガソリンと赤い血が流れ出す。

(早くしないと被害が増えるばかりだ)

 贔屓は静かに殺気を放ち、杖を構えて牽制する。白色鉄線蓮はぴくりと眉を動かし、反射的に後退した。操られていようと変転人に殺気は有効のようだ。

「オイ、オマエェ。饕餮ちゃんは生きてるんだよなァ?」

「……ああ。生きている」

 渾沌が饕餮を刺したと聞いたのだろう。気にしていると言うことは、やはり檮杌は四凶の仲間とは戦いたくないようだ。

 事前に窮奇と示し合わせておいて良かった。転送で分断されるなら本望だ。その場面が訪れた時は風紋を解くよう贔屓は予め彼に耳打ちしていた。蒲牢達は驚いただろうが、追うなと事前に言っている。

「僕自ら制裁を下す――久し振りだな」

 杖を回し、地面を蹴る。檮杌の攻撃は人体を押し潰すような攻撃だが、贔屓が白実柘榴を庇った時、彼女が落とした焼き芋は潰れた。つまり人体にのみ力を掛けるわけではなく、その人体を含む空間に適用されるものだ。贔屓の力を押し返したことで、そこに何も無くとも空間だけを押すことも可能だと確信を得た。そしてそれは長時間連続では使えない、もしくは力の消耗が激しい。見えない贔屓の攻撃は避けることが難しいため押し返していたが、見える獏の攻撃は受けずに避けていた。

 体の大きな檮杌は動きが鈍い。簡単に懐に入り込める。そして懐に入れば力を使えない。自身を巻き込むことになるからだ。

 渾沌には近付けないが、檮杌を倒すには接近する必要がある。分断してくれて本当に良かった。

「渾沌と引き離してくれるなら、願ってもないことだ」

「はァ……?」

 檮杌にのみ集中できるようになり、贔屓は口元に笑みを浮かべた。簡単なことだ、力を押し返しどんな攻撃も届かないなら、それ以上の力を与えてやれば良い。

「僕に負けは無い」

 贔屓の加重の上限は、自身の体が潰れるまでだ。つまり同等の重みを受けて贔屓が少しでも生きられるなら、幾らでも加重できる。

 みしりと檮杌の巨体に耐え難い重みが伸し掛かる。転送前のような押し返す力は無い。あれは檮杌の能力だが、ああいった使い方を教えたのは渾沌だ。渾沌と離れた今、あの使い方は頭からすっぽ抜けている。

 だが覚えていることもある。檮杌は歯茎を見せてにやりと不気味に笑った。

 檮杌が伸ばした腕の先の杖は、離れた位置にいる白色鉄線蓮に向けられた。

「!」

 贔屓は目を見開く。


 白色鉄線蓮は檮杌の手綱役であり――使い捨ての人質として彼らと共にいる。


 檮杌は渾沌に先に知恵を授けられていた。

 贔屓は咄嗟に檮杌の腕を蹴り上げるが、固く握った杖は手放さない。

 彼女の大きな三角帽子の先がぐしゃりと潰れ始め、これ以上は悠長にしていられないと贔屓は杖に一気に力を籠めた。杖が折れようと構わない。

 檮杌の力が白色鉄線蓮の頭部に届く前に、檮杌の頭は地面に吸い付くように勢い良く叩き付けられ、鈍い音を立てて割れた。檮杌が力を籠め、贔屓が頭を潰すまで僅か一秒程だった。

「っ……」

 贔屓の加重は強力だが、故に厳しい制約がある。同程度の加重が自身にも掛かり、檮杌の力を破る程の重圧で鉛色の髪の間から血が流れた。

 肩で息をしながら白色鉄線蓮へ目を遣ると、半分ほど帽子が潰れた彼女は呆然と立ち尽くしていた。檮杌が倒れてしまったら何をすれば良いのか、何も命令を与えられていないのだろう。人質として利用され、殺されそうになっていたと理解していないかもしれない。

「死んだ……? 殺したんですか……?」

 割れた頭部に釘付けになり、譫言のように呟く。一歩足を引くが、まだ転送ができるほど時間は経過していない。彼女に逃げる場所は無い。

 贔屓は動かない檮杌を見下ろし、白色鉄線蓮の腕を掴んだ。菌糸に冒されている彼女に触れることは危険だが、捕らえるためには触れるしかない。

 人間の視線を感じる。騒ぎになる前に立ち去るべきだ。

 白色鉄線蓮の腕を引いたまま檮杌の巨体を担ぎ、贔屓は周囲を確認して杖をくるりと回し姿を消した。人間の前であまり力を使うべきではないのだが、この人間には端末を構え撮影する気配が無かったので放っておくことにした。証拠が無ければ信憑性の無い出来事として風化するだろう。


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