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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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116/124

116-休息


 贔屓(ひき)に付いて行くよう(ばく)に言われて後を追ったが、宵街(よいまち)から出ないから付き添いは必要無いと言われた黒葉菫(クロバスミレ)は一人で病院に戻って来た。

 石段を下りながら少し贔屓と話して、黒葉菫は一つ情報を得た。檮杌(とうごつ)に潰された黒い変転人が病院に居ると。もし知り合いならと教えてくれたようだ。

 病院の待合室には獏と(しん)椒図(しょうず)が顔を突き合わせており、何やら盛り上がっているらしく黒葉菫が戻ったことに気付かない。壁際に立っていた灰色海月(クラゲ)白花苧環(シロバナオダマキ)は彼に気付いて頭を下げる。

 黒葉菫は受付の姫女苑(ヒメジョオン)から入院している変転人の病室の場所を聞き、灰色海月と白花苧環は聞き耳を立てた。

「贔屓の所へ行ったんじゃなかったんですか?」

「付き添いはいらないって言われたんだ。だから仲間の見舞いに行ってくる」

「ああ、あの人ですね。気が立ってるかもしれないので、気を付けてください」

「マキはもう行ったのか? 気を付けてと言われると怖いな……」

 監視と待機を言い付かっている二人は場を離れることができず、黒葉菫は一人で病室に向かった。

 廊下を見渡して確認し、二階の一室を軽く叩く。中から返事はなかったが、病室を間違えてはいないか確認のために少し隙間を開けた。

「誰かと思えばスミレじゃない」

 ノックの音は聞こえていたらしい。ベッドに横になる黒髪の少女と目が合う。蹌踉めきながら体を起こそうとするので、黒葉菫は慌てて部屋に飛び込んで体を支えた。

「アキ……」

 被害者の変転人は黒葉菫もよく知る秋水仙(アキズイセン)だ。彼女は黒葉菫の一つ年上で、たった一つだが、黒葉菫が人の姿を与えられ宵街に来た頃はよく先輩風を吹かせていた。

「大丈夫か?」

 秋水仙は自嘲気味に口の端を吊り上げ、中身の無い袖を強く握り締めて持ち上げる。

「大丈夫そうに見える?」

「……見えない」

 獣の中には四肢を失っても再生できる者もいるが、変転人にそんな能力は無い。失ったものは戻らない。秋水仙の右腕はこれからも失われたままだ。

「私よりスミレの方が落ち込んでない? 格好いい義手を作ってもらうから、私のことは心配しなくていいわよ」

 秋水仙は笑うが、こんな時にどんな顔をすれば良いのかわからず、黒葉菫は浮かない顔をしてしまう。怪我人に気を遣わせてどうするのだ。

「被害者はもう一人いるみたいだが、それも黒なんだよな? 俺も知ってる人か?」

 黒葉菫はそう贔屓から聞いたが、こちらは名前がわからないと言っていた。

「…………」

 気丈に笑っていた秋水仙の顔が途端に曇る。自分のことは笑い飛ばせるが、救えなかった仲間のことは笑えない。

「黒だけど、知らない奴」

「アキも知らないのか? 名前も?」

「知らない」

「知らない人と何で一緒に……?」

 仮に獣から仕事を頼まれ行動を共にしていただけだとしても、名前すら知らないのはおかしい。

「偶然会ったのよ。知らない奴だけど、宵街で顔を見掛けたことはあった。一人で物陰にいて目立たない大人しい男の子」

 特徴を聞いても、黒葉菫にも覚えは無かった。

「俺もたぶん知らないな……。ヨウ姉さんなら知ってそうだが」

「かもね」

 大人しいなら、秋水仙とは正反対の性格だろう。偶然会って意気投合するとは思えない。贔屓からは散歩中に檮杌に襲われたと黒葉菫は聞いているが、経緯が想像できなかった。

「会って仲良くなったのか?」

「別に。挙動不審だったから取っ捕まえたのよ」

「……贔屓から聞いた話と違う……」

 秋水仙は視線を逸らし、気不味そうに足先を見た。贔屓に本当のことを言っていない。そんな獣に逆らうようなことをしてしまい、内心は落ち着かなかった。

「そいつが……その黒の奴が、ビビリ散らしてたのよ。びくびくして、なかなか理由を話さなかった。それで無理矢理吐かせた」

「……アキが怖かったんじゃ……」

「理由を聞いてわかったの。あいつ、私より獣にビビってた。自分の傘を無くしたらしくて、怒られると思ってたの」

「傘を無くした……?」

「そ。傘が無いと宵街に戻れないから困り果ててて、戻れたとしても新しい傘を作ってもらわないといけない。傘を作るのは獣だから、必然的に獣にバレる」

 支給された物を紛失すれば獣に叱られると考えたらしい。

「それで大分うろうろしてたみたいね。私と会うまで」

「無くしたって、黒い傘だよな?」

「そうよ。黒所属だから。無くした傘は何者かに奪われたって言ってたわ」

「それ、どんな奴に……」

「そこは何か言いたくないみたいで吐かなかったけど、ぼそっと白って呟いたのは聞き逃さなかったわ。喋ったら遣り返されるとでも思ったのかも」

「…………」

 黒葉菫は俯き、その情報に困惑した。獏と白花苧環が檮杌に襲われた時、白色鉄線蓮(テッセンレン)が黒い傘で離脱したと言っていた。それは黒の変転人から奪った物だと言われている。殺して奪ったのだと思われていたが、生きていたらしい。白色鉄線蓮が狴犴(へいかん)に薬を差し出したのはもう何ヶ月も前だ。傘を奪われた変転人はその間ずっと一人で人間の街に居たのだ。誰にも出会うことなく。

「折角私が宵街に帰してあげるって言ったのに、戻りたくないみたいで躊躇ってたのよ。だから、怒られないから大丈夫、って気分を落ち着かせるために、クレープでも奢ってやろうと思ったの」

 秋水仙も仕事のために人間の街に行っていたわけではないので、時間は充分にあった。

「……食べることは、できなかったけど……」

 その時の光景を思い出し、不意に悔しさが漏れて秋水仙は歯を喰い縛りながら涙を零した。布団を握り締め、嗚咽は漏らすまいと耐える。

「こんなことなら……無理矢理宵街に転送してれば良かった……」

 大粒の後悔は布団を濡らし、黒葉菫も言葉を呑み込んだ。結果を知っていれば回避はできる。だが結果なんて誰にもわからない。

「……アキの所為じゃない」

「でも……!」

「悪いのは檮杌だ。檮杌の罪をアキが背負わなくていい」

「…………」

 秋水仙はぼろぼろと涙の零れる顔を黒葉菫に向け、途惑いながらも尤もなことを言う彼に枕を投げ付けた。行き場の無い感情を受け止め、黒葉菫は枕をベッドに置く。

「傘を奪ったのは……檮杌の所にいる変転人だ」

「!?」

「檮杌と顔を合わせたかはわからないが、変転人が奪ったとなると、そいつは必ず罰を受けることになる。その黒の人はそれを庇った……のかもしれない」

「じゃあ……黒の奴は追われてたの? 口封じのために」

「それはわからない。時間が空き過ぎてる」

「奪った白い変転人が悪いの? 殺してやる……」

「いや。その白も操られてるんだ。洗脳されてる」

「洗脳? 檮杌に?」

「いや……洗脳は渾沌(こんとん)って獣が……」

「獣が二人も……? そんなの、変転人じゃ勝てっこないじゃない! 私、何もできないの!?」

「……まずは……落ち着こう」

 落ち着けるわけがないと、ベッドに置かれた枕をもう一度投げ付けた。秋水仙は普段から気が強く、言いたいことがあればすぐに口にする。そんな彼女でも言葉が見つからず感情の行き場が無く、八つ当たりしかできなかった。

「この件は狴犴や贔屓が追ってくれてるから」

「…………」

 涙を拭い、鼻を啜って秋水仙は顔を伏せる。

「その贔屓って獣……ヨウ姉さんから噂は聞いてたけど」

「ああ、俺も聞いた」

「本当に人望があるの……?」

「?」

「寒気がした。あんなに怖い獣……あんなにブチ切れてる奴、初めて見た」

 秋水仙の顔は青褪め、小さく震える。気の強い彼女がここまで恐怖を見せるのは珍しい。

 黒葉菫も訝しげに眉を寄せる。彼の目に映る贔屓は人当たりが良く親身な印象だった。

「優しそうな感じだったが……」

「殺気が漏れないよう抑えてたけど、優しいのは口調だけ。いつも殺気を放ちながら生活してるとは思わないけど……この件に関してはブチ切れてる。スミレは鈍感だから気付かないだけ」

「…………」

「今話したこと全部、贔屓には言わないで。言ったらまた話を聞きに来るでしょ。会いたくない……」

 先程贔屓に会ったが、殺気を抑えているなんて黒葉菫にはわからなかった。気にしたことはなかったが、自分は鈍感なのかもしれないと思い始める。

 泣いたり恐れたりと情緒が不安定になってきた秋水仙は疲労を滲ませ、座り直そうと無い右手をベッドに突こうとして傾いた。慌てて黒葉菫が支えるが、利き腕を失ったことに暫く慣れそうにない。

「まだ辛いのに話させて悪かったな。何か欲しい物とか……食べたい物はあるか?」

「……クレープ」

「何でそう自分を追い詰める物を……」

「食べられなかったから。食べたら……食べたことにならないかな」

「お前がいいなら買って来るが」

「苺チョコがいい。あとカラフルな小っさいチョコ、あれ目一杯振り掛けてきて」

「……わかった」

 黒葉菫は立ち上がり、秋水仙が望むならとそれ以上は何も言わなかった。

「あっ、人間の所に買いに行けって言ったわけじゃないから。宵街にもあるでしょ?」

「行けと言われても、今は一人だと宵街から出してもらえないと思う」

 捨てられた枕を戻し、秋水仙を元のように寝させて黒葉菫は病室を出る。自分が片腕を失ったら、あんな風には笑えないかもしれないし、泣けないかもしれない。


     * * *


 獏教徒が使用していた獏の写真の処分を任された黒色蟹は、暗い石段を上がって科刑所を目指した。徐々に足元に増える蔦を跨ぎ、静かな宵街を登る。

 火葬や土葬など話は聞いたことがあるが、変転人の最年長であっても何処で行われているのかは知らなかった。人の姿を与えられる前の生物は死んでも墓を作る習慣が無く、死地を参ることもしない。脱皮した皮に感情が無いように、死んだ体は只の空っぽの器でしかない。墓を作る人の気持ちは理解するのが難しい。

 科刑所を目前に、石段に蔓延る蔦を千切る地霊の姿を見つけた。写真の束を抱え直し、顔を上げて鼻をひくつかせる地霊に声を掛ける。

「すみません、不用な写真の焼却処分をしたいんですが、焼却炉は何処ですか?」

 ずんぐりとした地霊は兎のような長い耳をぴくりと動かし、大きな爪の生える両手を黒色蟹に伸ばした。

「わかりました。処分しておきます」

「忙しいようなので、僕も手伝います」

 地霊は下級精霊だが、身分は変転人より上だ。下級精霊であっても獣に変わりない。獣の手を煩わせるのは躊躇うため処分を申し出たのだが、地霊はあるのかないのかわからない首を左右に振った。

「不用物の処分は我々の仕事です」

「では焼却炉まで運びます」

「我々の仕事です」

 声を聞き付けてか、暗い茂みから同じ姿の地霊が顔を覗かせる。頑なに黒色蟹を焼却炉に近付けさせないような拒絶が見えた。

「……それではお任せします」

 これ以上は喰い下がることができず、黒色蟹は写真の束を渡すことにする。

「火葬でいいですか?」

「燃やせと言われたので、火葬……でいいんですか?」

 生物以外にも火葬という言葉を使うのだろうかと心中で首を捻ったが、地霊は鼻をひくひくと頷くだけだった。

「火葬の場合は火産霊(ほむすび)さんに引継ぎます」

「火産霊は初めて聞きました」

 地霊は鼻をひくつかせて暫し黒色蟹を見詰めた後、黙って踵を返した。茂みから覗いていた他の地霊もそれに付いて行く。

 温厚な地霊だが、口数が多くない所為か宵街で最も不気味な存在だ。

 闇に消える地霊の背を見送り、黒色蟹も踵を返す。黒い科刑所を見上げ、黒色蟹は足早に石段を下りた。


     * * *


 人間の使用する携帯端末の電波を宵街にも引いて来られないかと狻猊(さんげい)に相談に行った贔屓は、暫し彼と話した後、自身の端末を預けて病院へ戻った。

 狻猊は玩具を与えられた子供のように興味津々で端末を弄り始め、贔屓の言葉も聞こえなくなったのでそのまま放ってきた。電波が引けるかは最初に尋ねたが、遣ってみないとわからないとのことだ。

 病院の受付では姫女苑がカルテを広げ、贔屓が戻ったことに気付かない。その近くの壁には灰色海月と白花苧環がカラフルなクレープを頬張り、贔屓に気付いて頭を下げた。

「買ってもらったのか? 君達も座っていればいいのに」

「いえ。この距離でいいです」

 白花苧環は少し壁のある言い方をしたが、変転人と獣の距離とは本来こんなものだ。

 待合室で顔を突き合わせている三人の近くへ贔屓も座って脚を組むが、三人は話に夢中で暫く気付かなかった。漸く気付いた時には三人共びくりと肩が跳ね、蜃は少し声が漏れた。

「邪魔をしてはいけないと思ってね」

「いつからいたの……声掛けてよ」

 獏は不満そうだが、贔屓が会話に入れなかったのは事実だ。

「……あ! 海月と苧環! 何喰ってるんだ!」

 蜃は灰色海月と白花苧環が食べているクレープに気付き、指を差して羨ましそうに騒いだ。

「先程スミレが差し入れにと。苺とチョコレートブラウニー、そして生クリームにチョコレートソースが掛けられ、カラフルなチョコレートが(まぶ)されているクレープと言う物です」

「御丁寧に美味そうな解説を……俺の分は?」

「ありません」

 蜃は眉を顰めて口を閉じた。欲しかったらしい。

 黒葉菫は立ったままで待つ灰色海月と白花苧環に「お疲れ」と言ってクレープを差し出した。労を労う物だ。座っている獣に差し入れる物ではない。灰色海月と白花苧環は初めてクレープと言う物を食べたが、甘くて美味しい物だった。

 そわそわとしながら座っていた蜃は、我慢できなくなり立ち上がる。クレープの様子を見に行き、察した灰色海月は自分のクレープを守った。蜃は無防備な白花苧環のクレープから苺を一切れ奪い、すぐに口に放り込みそそくさと椅子に戻る。

「……子供ですか」

 白花苧環は呆れて溜息を吐く。言えば差し出すのだが。苺如きで怒りはしない。

「三人は熱心に何を話してたんだ?」

 その様子を微笑ましく見守りながら、贔屓は何気無く尋ねた。

「そうだね。贔屓にも言った方がいいよね」

「おや、強請してしまったかい?」

「ううん。僕達が気付いた真相、聞いてみてよ」

 獏と蜃と椒図は檮杌(とうごつ)と渾沌の一連の件を、蜃が創った街で行った神隠しにまで遡って話す。三人は今まで起こったことを一つに繋げた。時系列が明白でない部分もあるが、贔屓は興味深く真剣な眼差しで時折相槌を打って静聴した。

「これは……辛抱強い計画を立てたものだな」

 聞き終えた贔屓は神妙に苦笑する。渾沌は誰も信頼できずに、一人で画策することを選んだ。

「封印された身で思うように外に思考を伝えられなかったんだろう……随分と忍耐力のある計画だ」

 獣は長命だが、短期に果たせる目標なら無駄に長く延ばしたりはしない。ここまで時間が掛かったのはやはり、封印されていたからだ。年月を経て封印に綻びができ、徐々に外に思考を伝えられるようになったのだろう。

 三人の出した真相が概ね正しいとしても、認知できていない計画の枝葉が他にもあるかもしれない。

「僕達も戦慄してた所だよ。渾沌はきっと粘着質なんだろうね」

「ふむ……化生した椒図を捜すよう狴犴が饕餮(とうてつ)に頼んだことも、計画の一部だったんだろうな」

「椒図捜し……あ」

 贔屓は頷く。狴犴の頼みで窮奇(きゅうき)は椒図を捜して飛び回り、獏達の邪魔をして蜃も重傷を負った。その御陰で蜃は贔屓と邂逅し後の話が円滑に進んだとも言えるが、蜃は危うく死ぬ所だった。その件を以前、饕餮が話していたことを獏も思い出す。

「狴犴が饕餮に四凶(しきょう)を呼ぶよう頼んだのが始まりだったそうだからな。饕餮は窮奇しか呼ばなかったが、ここで檮杌を仲間に加えていれば、内側からもっと簡単に蜃を手に入れられていたかもしれない」

 その時点では渾沌はまだ封印されていたので呼べないが、檮杌なら呼ぶことは可能だった。薬で洗脳した狴犴に手引させようとしたのだ。

「渾沌が饕餮を洗脳して呼び寄せて攻撃したのは、饕餮が窮奇にしか声を掛けなかった……つまり他の二人は仲間ではないと、渾沌の中で決定付けることになったのかもしれないな」

 結果として二人に声を掛けなかった饕餮の判断は正しかった。内側から掻き回されたらもっと被害が大きくなっていただろう。

 だがそれが渾沌の不信感を買うことになった。饕餮には災難でしかない。

「そんな無茶苦茶な……」

 一度声を掛けなかっただけで仲間外れにされたと思い込まれては迷惑でしかない。

 饕餮は檮杌と渾沌とは既に疎遠だと言っていたので、関係を続けていなかった自らの落ち度を彼女に擦り付けただけではないか。

「だがそれは渾沌に関しては、だ。檮杌はまた少し違うのかもしれない」

「どういうこと?」

「蜃が攫われた時、真っ先に窮奇が屋上に行った。その時に檮杌の攻撃を受けている」

「っ……! あの時か! そ、それ、あいつも何処か潰されたってことか!?」

 蜃は当時それに付いて行こうとしたが、窮奇に止められて病室に留まった。いつも嫁だとか言って不快な奴だが、本気で心配していたことは伝わってきた。

 蜃が目覚めた時、窮奇の体に潰れた部分は確認できなかった。怪我はあるが、彼は潰されたとは一言も言っていない。

「いや。窮奇が攻撃を受けてすぐに僕も現場に到着したが、窮奇は怪我なんてしていなかった」

「そうなのか……? 良かった……」

 ならば蜃は屋上へ行かなくて正解だったのだろう。蜃が屋上に行けばそこで攫おうとしたはずだ。そうなれば本格的に窮奇は檮杌と戦うことになった。戦闘になれば無傷では済まなかっただろう。

「檮杌が加減したんだろう。他の者ならともかく、追って来たのは同じ四凶の窮奇だった。渾沌からどう命令を受けていたか知らないが、少なくとも檮杌は窮奇を仲間だと認識している」

「それって……もしかして檮杌とはまだ話ができる……?」

「それはわからない。あれから時間が経っているからな」

「でも狴犴が四凶に協力を仰ごうとした後だよね、それ。渾沌は裏切りだと思ったけど、檮杌はそうじゃなかった……」

 饕餮と窮奇には散々馬鹿にされていた檮杌だが、渾沌よりは話が通じるのかもしれない。頭が良くて言葉巧みに話せても、通じなければ意味が無い。

「話ができるかもしれないのか……」

 ぼそりと漏らした一言に、ピリ、と一瞬空気が冷たくなる。

「僕は話をするつもりはないよ」

 感情を映さない赤褐色の双眸は虚空を見詰め、三人の背筋が凍り付いた。

「もう話で解決できる段階じゃない。被害が大きくなり過ぎている」

「…………」

 統治者ではない、それが贔屓の素顔だった。今まで幾らか殺気が漏れる場面はあったが、あれは片鱗でしかなかった。

 灰色海月の表情も強張り、白花苧環は彼女を庇うように前に出る。変転人だと耐えられない殺気だが、半獣の白花苧環にはまだ耐えることができた。

「檮杌は僕が遣る」

 贔屓は檮杌の攻撃を直接その身に受けている。その分の怒りもある。圧を掛ける点では贔屓と檮杌の力は似ている。どちらの力が上なのか、遣ってみなければわからない。

「……でも贔屓は怪我をしてるよね?」

「しているが、戦えない程じゃない。心配は無用だ」

「檮杌の攻撃範囲は意外と広いらしいし、贔屓も気配に気付かなかったって……」

「気付かないにしても、僕が潰されることはない」

 薄らと口元に笑みを浮かべる贔屓を見て、獏はこの話を止めることにした。不毛だ。灰色海月と白花苧環の様子を一瞥し、獏は贔屓を睨む。

「あのね……」

 殺気を抑えろと言おうとしたがその前に、出入口に片刃の鋏を構えた黒色蟹がゆっくりと顔を出した。

「……ほら贔屓、あれ見て」

「?」

 贔屓は怪訝に振り向き、武器を構える黒色蟹と目が合った。

「何か事件ですか……?」

 殺気に警戒したらしいとすぐに理解できた。

「いや……違う、すまない。人間の姿でいることが長かったからだろう……理不尽に相対した時、感情を抑えるのが難しいな。気を付けるよ。……灰色海月と苧環もすまない。怖がらせてしまったな……」

 苦笑いで取り繕うが、一度植え付けた恐怖はなかなか消せるものではない。

 人間の街で人間の姿でいれば、理不尽な獣の事件に遭遇することはあまりない。それに人間の姿の時は能力に制限が掛かるため、獣のような殺気はあまり放てない。その制限に慣れてしまった贔屓には、今の解放された状態は緩くてすぐに振り切れてしまうのだ。

「……事件じゃないなら、良かったです」

 黒色蟹は納得し、冷静に武器を仕舞って頭を下げた。病院で殺気を放つ者がいれば警戒するのは当然だ。受付の姫女苑は静かだが、既に目を回している。普通の人間に近い有色であろうと獣の殺気は感じ取れる。目の前に狂暴な熊や獅子が現れるようなものだ。

 贔屓は反省して暫し目を閉じた。こう何度も殺気を当てては変転人の心身にも悪い。

「報告は後にした方がいいですか?」

「贔屓のことは気にしないで」

 躊躇いながらも問う黒色蟹を獏は手招く。

「どうだった?」

「預かった写真は全て地霊に渡しました。ですが焼却の担当は火産霊と言う獣らしく、引き継ぐと言ってました」

「火産霊?」

「僕も会ったことがないので、情報が無くてすみません」

「ふぅん。贔屓は知ってる?」

 贔屓はゆっくりと目を開け、獏を一瞥する。

「いや、知らない」

「贔屓も知らないの?」

「元統治者と言っても全ての獣を把握しているわけじゃない。僕が宵街を去ってから棲み始めた獣かもしれないしな」

「あんまり大勢に写真を見られたくないけど、しょうがないな……。火産霊からは誰にも引き継がないよね」

 椅子に凭れカップを持とうとし、紅茶を飲み干していたことに気付いた。随分長話をしていたようだ。

 灰色海月もカップが空になっていることに気付き、白花苧環にクレープを預けて慌てて注いだ。贔屓の分も合わせて淹れておく。贔屓の前にカップを置く時は指先が少し震えたが、どうにか音を立てずに机に置けた。

「贔屓、これからは無闇な殺気禁止だよ」

「……ああ、善処する」

「殺気を漏らしたら僕の烙印を全解除だよ」

「いや、それは僕の一存ではできない」

「む……」

 自然な流れで要求できたと思ったのに騙されてくれなかった。僕は頬杖を突いて頬を膨らせる。

「……それでは、僕は失礼します」

 様子を窺っていた黒色蟹は追加の注文が無いことを確認し頭を下げた。

「うん。ありがとう、レオさん」

 黒色蟹は待合室を通過し階段へ姿を消す。ラクタヴィージャの所へ行くのだろう。饕餮と窮奇がどうなったのか獏達も気になるが、行くと話がこんがらがりそうだ。

「ねえ、人間の街の朝ってどうやってわかるの? 宵街じゃ空を見ても時間の感覚が無いよね」

「携帯端末は狻猊に預けたからな……体内時計、かな?」

 灰色海月の淹れた紅茶を一口飲み、贔屓も一息吐く。

「何だか曖昧だね」

「僕が昔宵街にいた頃はまだ機械時計は普及していなくてね……。現在は時計を置いているのか把握していないんだ。(みずち)なら料理をするから、持っているかもしれないな」

「そっか。料理は時間が大事だもんね。……あ、でもクラゲさんが時計を見てる所は見たことないなぁ」

 灰色海月はクレープを食べ進めながら「体内時計です」静かに補足した。製菓の方が時間が細かく設定されているはずだが、灰色海月の体内時計は余程正確らしい。

「灰色海月の隠れた特技のようだな」

「じゃあクラゲさんは、人間の街が今何時くらいかわかる?」

「わかりません」

「あれ?」

 灰色海月の体内時計は紅茶や製菓限定のようだ。もしくはあまり長時間は把握できない。

「……えっと、とりあえずまだ朝じゃないんだよね?」

「朝とは日の出の頃だろうか。それとも多くの人間が活動を始める頃か?」

「そう言われると……もしかしてもう日の出なの?」

「いや、もう少し休めるはずだ」

「こういう待ってるだけの時間が一番流れが遅く感じるよね」

「フ……そうだな」

 カップを傾けながら蜃が「茶菓子……」と物欲しそうに呟くが、ここは病院なので灰色海月も菓子を作っておらず何も出て来ることはなかった。

 だがそれでも灰色海月は考え、クレープの最後の一口を頬張り、もう一脚ティーカップを蜃の前に置いた。

「おかわりは言ってないんだが……」

「ストロベリーティーにミルクをたっぷり入れて砂糖で甘くしました。即ち苺ミルクティーです。御菓子みたいですか?」

「紅茶の茶菓子に紅茶……?」

 蜃は混乱したが、苺と聞いて飲んでみるとそれはそれで美味しかった。いつもはミルクを入れていないので、それだけでも新鮮だ。だが。

「苺の味がしない……」

「香り付けされてるだけで、果実は入ってないです」

「騙したな……こんなに飲んだらトイレに行きたくなってきただろ」

「そこの隅にあるよ」

 贔屓が指差す待合室の隅に、目立たないドアがあった。

 立ち上がる蜃を見上げ、椒図は一つ疑問が浮かぶ。

「蜃は男女どちらのトイレに入るんだ?」

「…………」

 ぴたりと立ち止まり、蜃は小さな声で「女用……」と呟く。今までで一番の不本意が顔に表れた。

「宵街のトイレは共用だから、気にする必要は無いよ」

 贔屓の言葉に少し安心し、蜃はそそくさとトイレに向かった。

 何気無い遣り取りだったがそれを見ていた灰色海月と白花苧環は、獣はトイレの頻度が少ないと今更ながら気付く。蜃が目覚めてからもう随分と時間が経っている。

 二人は知らないが、獣は自身の傷や体力を回復するために、摂取した物を全て使おうとする。飲食物は殆ど全て回復に回されるのだ。なので必然的にトイレの頻度は少なくなる。

 蜃が席を立ったのは、それほど体が回復している証拠だ。それを見て獣達は安心する。蜃は贔屓ほどの頑丈さはないが、洞窟の崩落と悪夢と菌糸によく耐えた。窮奇ほどではないが蜃もまた平均よりは生命力が高いのかもしれない。

「あれ? 椒図は共用じゃないトイレを知ってるの?」

「昔……化生の前は知らなかった。さっきは無意識に尋ねたが、今思うと酷い混乱だ。いつ男女で分かれたんだ?」

「いつだっけ……昭和かな。椒図が地下牢にいる間だね」

「椒図は化生時の記憶の他にも、時代の変遷を理解するのに苦労しそうだな」

「こんなことで混乱するとは……」

 椒図の記憶はまだまだ安定しなさそうだ。

「椒図はいつから地下牢にいたんだ?」

 朝まではまだ少し時間がある。贔屓も殺気を出さぬよう、会話をしながら気持ちを落ち着ける。

「あまり正確には……間違っていたら悪いが、弘化(こうか)の頃……だったと思う」

「ああ、江戸時代後期だったかな?」

「改元が頻繁だったからな。覚えてられない」

「確かにそうだな。百年毎に改元してもらえるとわかり易いのに」

 これが何百年も生きている獣の世間話かと獏は聞き流しつつカップを傾ける。百年は人間が生まれて死ぬまでの一生の時間だ。人間にとっては長過ぎる。

 百五十年程しか生きていない獏は口を挟まず、静かに紅茶を飲んで時間を潰すことにした。


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