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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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115/124

115-欠けたもの


 (ばく)が神格化されている件で調査を任された(ぬえ)は、その現場に突如窓を打ち破って転がり込んできた蒲牢(ほろう)に唖然としつつも、饕餮(とうてつ)がいなくなったと狼狽する彼から話を聞いた。つまりはいなくなったこと以外は何も知らない。と言うことらしい。

 鵺も獏が勝手に彷徨していると訴えたが、狴犴(へいかん)が自由にさせているなら理由があるし問題無いと蒲牢は一蹴した。

 獏の写真や讃える言葉を貼り付けた壁に囲まれ、黒い髪の束と指が一本置かれた祭壇の前に人間が集まる異様な部屋に、蒲牢は見向きもしない。

「お前は……少しは話を聞いてから飛び出したらどうなの? 宵街に戻って話を聞くか、私の方を手伝いなさい」

「何で鵺の手伝いを……? 饕餮がいなくなって大変なのに。饕餮は怪我をしてるんだよ?」

「饕餮がいなくなったんなら鴟吻(しふん)が動くわ。あの二人は仲が良いんだから。前に饕餮の様子を見るために変転人の使いを出してたんでしょ? 鴟吻なら饕餮を見つけられるわよ。それに宵街に何人お前の兄弟がいると思ってるのよ。だからこっちを手伝って」

「そんな強引な……」

「獏が面倒なことを押し付けてきたのよ。はい、これ見て」

 創始者から預かった携帯端末を渡し、鵺は腰に手を当てる。うっとりとしている信者の女二人に見られながら、蒲牢は渋々と端末の画面に目を落とした。『獏信仰チャット』胡散臭い言葉だ。

「さっきまで檮杌(とうごつ)の情報を収集するために使ってたんだけど、勢いが無くなってきたからそろそろ次に移るわ。信者達に、獏宛てに適当に手紙を出してもらうの。ほら、指示してみて」

「……俺にこれを操作しろと?」

「そうよ」

 人間の使用する機械など、獣に触れる機会は無い。贔屓(ひき)が同じ物を持っているのは知っているが、操作の仕方は知らない。こんな物を手渡されても蒲牢には扱えない。

「…………」

 画面を傾けたり凝視しつつ沈黙してしまった蒲牢の様子に、やっぱり獣には難しいかと鵺も諦めた。

「……やっぱりヨウちゃんに遣ってもらうわ」

「私ですか……」

「教祖になりきって指示してちょうだい」

「教祖に!?」

 端末を受け取るが、洋種山牛蒡(ヨウシュヤマゴボウ)に教祖の経験は無い。創始者に目を遣るが、割れた硝子の破片を拾って片付けていてこちらを見ていなかった。獏以外には興味が無さそうだ。蒲牢が蹴り飛ばした信者の男は気を失ったまま倒れ、女二人は蒲牢に見蕩れてひそひそと黄色い声で話している。誰もこちらを見ていない。

(教祖って何……偉そうにすればいい……? とにかく命令すればいいのよね? 獏が言ってた通りに……)

 獏が信者の居場所を把握できるように、なるべく全ての信者が手紙を投函するよう仕向けなくてはならない。まずは疎らに情報提供をしてくれている信者を鎮める。

 携帯端末に指を滑らせ、洋種山牛蒡は慎重に教祖らしく言葉を選んだ。

「えっと……『静粛に。皆の者、控えおろう』」

 誰も彼女に指摘する者はいなかった。獏がこの集いをやめろと言うなら創始者の青年にももうそれに興味は無く、信者達に何をどう言おうとどうでも良かった。鵺と蒲牢もこんな場面に適切な文言など知らない。ただ何となく、皆が頭を下げてくれそうな良い言葉だと思った。

「あっ……どうしよう……信者の人達が不信感を……。漢字を間違えたかな……『これから皆に啓示を与えよう』……あっ……焦って変なこと書いちゃった……啓示って何?」

 漸く鵺もこのままでは良くないと気付いた。頭を押さえ、やれやれと振る。教祖としては悪くないと思うが、洋種山牛蒡の焦りようを見るに、信者達には印象が良くなかったようだ。

「俺に貸して。見てたら使い方がわかってきた」

 洋種山牛蒡は救世主が現れたとばかりに安堵し、蒲牢に端末を押し付けた。

「手紙を投函させればいいんだよな。『これから獏を崇める神事を行う。獏に宛てて白紙の手紙を投函せよ。これで我らの存在を獏が認めてくれるだろう』」

 慣れない操作でゆっくりと時間を掛けてではあるが、蒲牢は何とか文字を打ち込んだ。

「成程ね……考えたわね。何を書けばいいかわからないなら何も書かなくていい、ってことね」

「確認しなかったけど、白紙でも獏に届くのか?」

「問題無いわ。中身が白紙だろうと、獏に宛ててくれさえすれば回収できる。この手紙の仕組み、狴犴と狻猊(さんげい)が共同開発したとか言ってたわね」

 端末の画面には次々と信者達が返事を書き込み始めた。不信感を示す者もまだいるが、熱心な信者や創始者のファンは概ね協力的な様子だ。

「……これで後は待つだけか? よく知らないけど、この人達は?」

 足元を一瞥する蒲牢に鵺はくすりと笑った。

「あら、視界に入ってたのね。眼中に無いと思ってたわ。獏を神だとか言い出した張本人とその信者達よ。面倒な噂を流さないように始末するわ。創始者だけはまだ残しておく。このチャットとやらも始末しないとだから」

「悪いことをした人間か? それなら俺が」

「私が遣るわ。お前が遣ると悲鳴が出るもの」

 鵺は小さな鈴が付いた杖をしゃんと突き出し、意識のある信者の女二人は怪訝な顔をした。蒲牢は耳を押さえて背を向ける。

 洋種山牛蒡はそれらを交互に見、何をしているのだろうと思いつつも蒲牢に倣って耳を塞いで背を向けた。

 背を向ける二人を一瞥し、鵺は自分が今からどうなるか想像もつかない女二人に冷たい双眸を向ける。杖をしゃんと鳴らして横へ振ると、直線上にあった二人の喉が裂けた。一言も声を漏らすことができず、しゃんと返された杖に胴も裂かれる。喉からごぼりと吐き出されたのは真っ赤な血だけだった。両目を見開き叫びたくても叫べない口を裂けそうな程に開け、肉塊となった二人は折り重なるように床に崩れた。

 これには創始者の青年も硝子片を拾う手を止め、ぴくりとも動かなくなった信者達に釘付けになった。

「綺麗だ……」

 彼からこの状態に似付かわしくない言葉が飛び出した気がしたが、鵺はとりあえず無視した。気を失って転がっている男も裂いて殺しておく。人間などまるで人形のように容易く壊せる。

 手間が掛かるが、蒲牢が破って襤褸にしたカーテンを裂いて死体の顔に被せておく。正確には喉元を隠すためだ。

 耳を塞ぐ蒲牢と洋種山牛蒡の肩を叩き、鵺は終わったことを知らせる。

「耳は塞がなくてもいいんじゃないの?」

「何となく……」

 蒲牢は耳が良い。断末魔の悲鳴は耳が痛むだろうが、悲鳴が上がらないよう喉を潰すのだから耳を塞ぐ必要はない。

 千切れたカーテンを被せた死体を確認し、蒲牢は安心したように息を吐いた。化生前の記憶がある蒲牢は、自分が死ぬ時に喉を裂かれたことも覚えている。それが強く記憶に残り、どうにも首を傷付けるのが苦手だ。記憶と結び付き、背筋が冷たくなってしまう。鵺は蒲牢の記憶のことは知らないが、彼が喉を傷付けることを嫌がるのは昔から知っている。

 洋種山牛蒡は死体を見て安心することはないので、ヒッと一歩後退った。死体を見るのは初めてではないが、慣れることは無さそうだ。特に獣の殺し方は派手で死体の状態も惨い場合が多い。

 獏のように記憶を喰えるなら、獏を神とする記憶だけを取り除いて生かすことも可能だが、記憶を除ける者はそう多くはない。罪人の獏を頼ってばかりもいられない。処理できる所は鵺が処理をする。手紙が投函されれば、その信者全員を獏が処理することは不可能だ。何せ数が多過ぎる。増え過ぎた害虫は殆どを獏以外が殺すことになる。

「……鵺、少しいいか?」

「何?」

 蒲牢はもう死体を見ておらず、手元の携帯端末に目を遣っていた。

「信者が変なことを言い出した」

「変なこと?」

 蒲牢は幼い容姿の鵺の頭を見下ろし、膝を突いて蹲む。画面が見える高さになり、鵺も覗き込んだ。

 蒲牢の書き込みに対する返信が殆どを占めるが、疎らに困惑するような書き込みが流れている。

「……熱い……とか書かれてるけど、火事かしら?」

「助けて、って言ってる人もいる。手紙どころじゃなさそうだ」

「タイミングが悪いわね……」

『助けて』『熱い』『痛い』などという言葉が返信の間に流れていく。数はあまり多くはなく、これらはおそらく同じ地域の者達だろう。鵺と蒲牢は画面を見ながら暫し様子を眺める。


「――あ! あの、外を見てください!」


 慌てた様子の洋種山牛蒡の声で二人は顔を上げ、破れたカーテンの向こう――マンションから見下ろす屋根が続く遠くの空が、微かに赤くなっていることに気付いた。夜明けにはまだ早い時間だ。

「何かしら……?」

「このチャットと関係あるのかも。やっぱり火事か?」

 二人も割れた窓へ接近し、遠くの空へ目を細める。

「創始者のお前、ラジオとかテレビは無いの? 人間はそれで情報を得るんでしょ?」

 三人の背中越しに空に目を遣っていた青年は首を振った。

「それはこの部屋には無い」

「使えないわね」

「その手に持ってるスマホでニュースは見れるが」

「…………」

 鵺の知識はテレビで止まっている。蒲牢から端末を取り上げるがチャットの画面からどうすればニュースを閲覧できるかわからず、そのまま洋種山牛蒡に流した。

「私もそんなに詳しくないんですが……申請したら端末を買ってもらえたりしないんですか?」

「狴犴も私と同じようなものよ。宵街から出ないんだから。強請(ねだ)るだけならタダだし、申請してみたら?」

 洋種山牛蒡の心は少し揺れた。人間の街に欲しい物がある時は勿論自分で購入しても良いのだが、変転人の多くは科刑所へ欲しい物を書いて提出する。日用品や食料、嗜好品まで様々買ってもらえるのだ。買物メモとでも言うべきか。それを狴犴が受理し、無色の変転人へ入手する物を振り分け、人間の街で購入する。置く場所が無いほど大きい物は受理されないが、携帯端末なら小さい。

 全ての変転人、中には獣も含め、欲しい物を確認して仕分ける。これを狴犴は毎日一人で行っているのだが、過労で倒れるのも納得である。

「……まだニュースにはなってなさそうですね。これからって感じです」

「今起こったばかりなのね。……どうする蒲牢? 行ってみる?」

「被害が大きそうだから様子を見る。天災か人災かわかるまでは。何だか戦を思い出すな……もし獣が犯人だったとしても、気が乗らない」

「そうね……暫く様子を見ましょ」

 鵺は洋種山牛蒡の袖を引き、耳を借りる。身を屈めた彼女に、創始者の青年に契約の刻印を施しておくよう指示する。刻印を施しておけば、目を離して逃げられても辿って見つけることが可能だ。

 洋種山牛蒡は承諾し、使われていない台所へ向かった。食器は何処にも無かったが、紙コップが隅に積まれていた。

 待つ間に部屋を片付けることにした鵺と蒲牢は壁一面の獏の写真を剥がし、信仰の痕跡を消していく。青年は割れた硝子片を拾ってゴミ箱に捨てる作業を再開する。死体を前にしても彼は殆ど動じていない。

「粗茶ですが」

 洋種山牛蒡は淹れた熱い昆布茶を三人に配り、写真を剥がす作業を手伝った。青年の茶にだけ刻印を施してある。灰色海月(クラゲ)の淹れる刻印の紅茶と同種の物だ。

 青年は茶を見下ろし暫し考えるが、何も言わずにそれを飲んだ。灰色海月の紅茶を飲んだ時も、それが刻印の施された特別な物だと感じることはなかった。刻印は味を変える物ではない。何度飲もうと人間が気付くことはない。

「何だこれ、(しょ)っぱい……」

 青年は昆布茶を飲むのは初めてだった。

 灰色海月の刻印の紅茶は獏が代価を戴く時に除去される物だが、今回の洋種山牛蒡の刻印は死で除去される物である。獣が殺すと言うならば、変転人はそれに従い助力する。それだけだ。それを躊躇することもなく、彼女もまた微笑みを湛えながら茶を差し出した。


     * * *


 宵街唯一の病院で、手術と言うほど大掛かりではないが手術室で窮奇(きゅうき)の治療を終えたラクタヴィージャは漸く一息吐いた。先に治療した饕餮も衝立障子を隔てた同じ部屋のベッドに寝かせているので、腹の傷を改めて閉じられながら窮奇は衝立障子にばかり目を遣っていた。

 二人の治療が終わり、黒色蟹は意識が朧気な饕餮を車椅子へ乗せる。背中の傷は痛むだろうが、病室へ行くまでの辛抱だ。

 首を垂れていた饕餮は待っている間に意識が鮮明になり、ぐりんと頭を擡げ黒色蟹を見上げる。

「……誰?」

 感情の籠もらない硝子のような双眸で見詰められ、黒色蟹は眉を寄せた。目付きも奇妙だが、それより彼女とは初対面ではない。

「黒色蟹です」

 変転人など記憶に残らないと言うことかと名乗るが、饕餮は首を傾ぐばかりだった。

「誰? 何?」

 窮奇に大人しくしているよう言い付けていたラクタヴィージャは話し声に振り返り、笑顔を作って二人の様子を窺う。

「具合はどう? ここは病院で、貴方は怪我をして運び込まれたのよ」

「病院……。お前は誰?」

「私は医者のラクタヴィージャよ。少し記憶が混乱してるみたいね。自分の名前は言える? 何処か痛む?」

 ラクタヴィージャとも何度も顔を合わせているが、饕餮は本当に知らないようだった。狴犴が剥離の印で菌糸を剥がしたが、余分に剥がしてしまったわけではない。彼女と同時にラクタヴィージャと黒色蟹にあった菌糸の残滓も剥がしてもらったのだが、二人の記憶には特に問題は起こっていない。狴犴が印を失敗するとも思えない。

 饕餮は自分の体を見下ろし、腕を上げて掌を開閉する。動くかどうか確かめているようだった。

「……私は饕餮。背中が痛い」

「名前が言えるなら大丈夫そうね。病室まで運ぶわね」

 車椅子の背に回って押し出すと、大人しくしろと言い付けられていた窮奇はやはり起き上がった。ベッドから飛び降り、饕餮の前に仁王立ちして車椅子を止める。

「よお饕餮。やっと目が覚めたな」

「……誰?」

 窮奇に対しても同じように彼女は問う。これにはラクタヴィージャも妙だと思い始めた。

 ラクタヴィージャや黒色蟹はともかく、窮奇との付き合いは数百年と長く、腐れ縁と言うだけあって共に行動する頻度も高かった。その窮奇を覚えていないのは違和感がある。

「あー……頭でも打ったか? この様子じゃ何で怪我してるかも理解してないだろうな。兄弟の名前くらいは覚えてるか?」

 やや途惑いを見せるが、記憶の混乱は一時的なものだろうと窮奇も平静を装う。一時は生死の境を彷徨っていたのだ、その混乱は大きいだろう。

「兄弟……? 誰よそれ。私は誰も知らない。目が覚めたら怪我をしてた。それだけ」

「……その前は? 目が覚める前だ」

「覚める前? そんなのあるわけないよ」

「?」

 窮奇は車椅子の後ろのラクタヴィージャに目を向け、彼女も眉を寄せた。饕餮の言葉を鵜呑みにするなら、彼女には今より前の記憶が無い。これでは混乱と言うより記憶喪失だ。

「贔屓が饕餮の死を感知してたけど……まさか、体は窮奇の生命力で助かったけど、記憶は手遅れだった……?」

 窮奇が饕餮に生命力を与えた時点では、彼女の生死がどうだったか明確にはわからない。

 だが兄弟である贔屓が死を感知したのは事実で、それを覆すことはできなかった。窮奇の生命力は彼女の生命を救ったが、記憶は掬えなかった。体は存在するが、それ以外は化生した状態なのだろう。

「は……? 何言って……。じゃあ()きょ……」

 四凶も覚えてないのか、と言い掛け、窮奇は口を閉じた。饕餮は不思議そうな顔をする。

 彼女が覚えていないのなら、四凶とはもう係わらせるべきではないのではないか。窮奇はそう思った。無慈悲に彼女を傷付けた四凶になんか、もう近付かない方が良い。

「…………」

 窮奇は他に何を言えば良いのか言葉が思い付かず、視線を彷徨わせた後に呆然と目を伏せた。

「……彼はね、窮奇よ」

「窮奇……ね。名前は覚えておいてやる」

 饕餮は空虚に笑い、窮奇は耐えられずに踵を返し手術室を出て行った。

 治療したばかりの怪我人が動くなと言いたかったが、これにはラクタヴィージャもすぐに追い掛けることができなかった。

「何だ変な奴だな。シャイなの?」

 口調は以前の彼女と然程変わらなかった。だが一人称が変わっていることに、窮奇は気付いていた。



 待合室を喫茶店かのように紅茶を飲みながら今後の話を進めていた三人は、ふらふらと魂が抜けたように戻って来た窮奇を見つけて顔を見合わせた。

「窮奇……体が痛むなら無理して一人で歩かなくても」

 (しん)の前なのでまた意地を張って支えを拒否したのかと獏は苦笑するが、窮奇は呆然としたまま三人の前を通り過ぎようとする。

「出掛けるの? そんな体で……ラクタがいいって言ったの?」

「…………」

 聞こえていないのか、窮奇は出入口へ向かう足を止めなかった。

「窮奇! 蜃を見て!」

 突然獏に指を差され、蜃はびくりと眉を寄せた。

「……可愛い」

 漸く足を止めて首を動かした窮奇に獏は安堵した。蜃には解せなかったが。

「何かあったの? ぼんやりする薬でも投与されたの? だったらあんまり出歩かない方がいいんじゃない?」

「……何か一周回って獏も可愛く見えてきた」

「やめてよ気持ち悪い」

 獏は心底嫌そうに顔を顰め、外していた動物面を顔に被せた。


「窮奇を外に出さないで」


 少し遅れて車椅子を押しながら遣って来たラクタヴィージャは、慌てて獏達へ声を掛ける。

「患者が勝手に出て行かないで」

 その車椅子には白い髪を下ろした饕餮が座り、じっと獏達を見ている。未知の者を観察するように。

「饕餮も意識が戻ったんだね。思ったより怪我も軽そうで良かった」

「それがあまり良くもないのよ……。体は無事なんだけど、記憶だけ化生状態みたいになってるの」

「え……ぁ、それで窮奇が……」

 呆然としていることに合点が行った。饕餮は窮奇のことを覚えていないのだ。

「贔屓が饕餮の死を感知してたから、一度死の状態にはなってたんだと思う。だから半端な化生になったんだと思うの。今までの出来事も兄弟のことも皆忘れてしまったみたい。こればかりはどうにもしてあげることができないわ……」

 獏はとりあえず窮奇の腕を引いて椅子に座らせた。立っていてはすぐに外に出て行ってしまいそうだ。

「……ラクタ。それは妙だ」

「ん?」

 椒図(しょうず)は立ち上がり、饕餮の傍らに膝を突く。無垢な硝子のような目は椒図を見るが、そこには何の感情も籠もっていない。

「饕餮。僕はお前の弟の椒図だ」

「弟……? 誰? さっき言ってた兄弟って奴? これが? ……全然わからない」

「僕が化生した時は、記憶は何も無かったが兄弟の名前は知っていた。饕餮が兄弟の名前すら覚えてないのはおかしい」

 椒図は立ち上がってラクタヴィージャに訴える。最近化生した時も、数百年前に生まれた時も、兄弟の名前は最初から知っていた。まるで切れない糸のように繋がっていた。

 ラクタヴィージャも考え直そうとするが、化生について、況して圧倒的に少数の存在である兄弟の繋がりなど把握していない。そんな知識は持ち合わせていない。

「椒図の言うことを信じるなら、兄弟のことは今後思い出すかもしれないけど……」

 饕餮が意識を取り戻したことを素直に喜ぶことができない。兄弟達には早く事情を話した方が良さそうだ。

「とりあえず病室に連れて行くわ。もしかしたら話してる内に記憶が戻るなんてこともあるかもしれないし」

 車椅子の向きを変えようとした時、慌ただしく受付の奥から幼い姿が走り出て来た。その後ろからもう一人、こちらは慌てる様子は無くゆっくりと歩いて受付を出る。

「――饕餮!」

 幼い小さな体は彼女を抱き締め、饕餮は体が痛んで「うっ」小さく呻いた。

「目が覚めたのね。思ったより元気そうで良かった。心配したんだから。死んだと感知した時はもう……」

「……誰?」

 早口で無事を確認する彼女に、饕餮は眉を顰める。冗談を言っているわけではない。それは彼女にもすぐにわかった。

「……私は鴟吻よ。貴方の姉なの」

 鴟吻は手を離し、改めて自己紹介をした。動じたりはしない。が、ラクタヴィージャに視線を向け、説明は求める。

 ラクタヴィージャは彼女にも事を話し、鴟吻は黙って話を聞いた。

 彼女を追って来た黒種草(クロタネソウ)も神妙に耳を傾ける。死を感知したため病院に様子を見に行くよう言われた時から、手放しで喜べる結果は無いだろうと予想はしていた。

「鴟吻はどう? 生まれた時に兄弟の存在は知ってた?」

「……ええ。最初は贔屓のことしかわからなかったけど、徐々に皆のことは記憶に浮かんできた。兄弟もそうよ。顔は知らなかったけど、初対面でも皆、私の名前を知ってたわ」

「じゃあ……」

「でも今までがそうだからと言って、これからもそうとは限らない。兄弟を知ってることが正常なのか、偶然なのか。饕餮が例外なのか、他の皆が異常なのか。何もわからないわ」

 鴟吻は化生した椒図の姿を見、微笑んだ。直接会ったことは無かったが、千里眼で姿を見たことはあった。先程から獏と蜃と共に楽しそうに話している所も、受付の奥から微笑ましく聞いていた。初対面の鴟吻がいると気を抜いて話せないだろうと、気を利かせて受付の奥へ下がっていたのだ。

「でも知ってても知らなくても、兄弟であることには変わりない。饕餮は私の妹で間違いないわ。また髪を括ってあげましょうか。今度は綺麗なリボンで結ぶのはどう?」

 鴟吻は無理をしているわけでもなく楽しそうに微笑み、車椅子を押す役を代わった。

「何処の病室? 私が連れて行くわ」

 坂道を押そうとし、幼い体の鴟吻の力では車椅子が持ち上がらず、黒種草が代わった。

 ラクタヴィージャも二人に付いて行き、黒色蟹は待合室で待機する。窮奇が勝手に外に出ないよう見張りだ。

 九人兄弟の次子はさすがに肝が据わっていると言うか、余程のことでも動じないようだ。それほど兄弟の絆が強固なのだとも言える。窮奇のように魂が抜けたりはしない。

「……獏。一発殴れ」

「え?」

 唐突に要求され、獏は怪訝な顔を向けた。窮奇の目が据わっている。

「いいけど……後で文句言わないでよ」

「言わねぇ」

 蜃は止めようとしたが、その前に獏は平手を構えて思い切り勢いを付けて窮奇の頬を引っ叩いた。

 本気で殴る重い音が響き、受付で見ていた姫女苑(ヒメジョオン)も唖然と口を開けたまま戦慄した。頬を打たれた窮奇は椅子から転げ落ち、床に倒れて動かなくなった。頭の角が床を打ち、石の床に罅が入った。

「てっ……手加減を知らないのか君は!? 怪我人だぞ!」

 蜃も獏に打たれたことがあるが、ここまでの威力ではなかった。あれでも手加減はしていたらしい。馬鹿力は伊達ではない。

「可愛いって言われたから、つい憎しみが籠もっちゃった」

 椒図も掛ける言葉が無く固まってしまう。

 皆で心配そうに動かない窮奇を見下ろして見守る。すると彼の指先がぴくりと動いた。

「…………」

「……大丈夫?」

「傷が開いたかと思った……」

 蹌踉めきながら腹を摩るが、縫い合わせたばかりの傷は開いていなかった。打たれた頬は真っ赤に染まっていたが。

「いっ……口ん中切ったか……」

「文句は言わないでとは言ったけど、遣り過ぎたって思うよ」

「牙が刺さっただけだ。それより、御陰で頭がすっきりした。饕餮のことは仕方ねーし、別に忘れたままでも構わねー……」

「窮奇……」

「ただ、四凶のことはあいつに絶対話すな。あいつを四凶に近付かせるな。病院にいる間はしょうがないけど……その後はオレもあいつと係わらない」

「えっ……」

 口元の血を拭い、窮奇は決意を固めた揺るぎない目で三人に釘を刺した。饕餮が記憶を失ってあれだけ落ち込んでいたのに、窮奇は距離を取る選択をする。それだけ四凶――渾沌(こんとん)と檮杌は危険で近付けてはならない存在だった。渾沌はもう饕餮を仲間だと思っていない。

「でも元々、渾沌と檮杌とは疎遠だったんだよね? 窮奇は別に危険じゃないんじゃ……」

「オレと饕餮が一緒にいたら、またあいつらに目を着けられるかもしれねーだろ。一人の方が目立たねぇ」

「……それでいいの?」

「いい! もう決めた!」

 全て聞いていたが、蜃には理解できないことだった。椒図が化生した時、全て忘れていてももう一度係わりを持ち友達になることを選んだ蜃には、交わることのない関係を選択する気持ちが理解できなかった。それが窮奇の選択なら他者がとやかく口を挟むべきではないのだろうが、腑に落ちなかった。

「今までも別に常に行動を共にしてきたわけじゃねーし、気儘で自由な時間が増えるだけだ。清々するだろ? 腐れ縁もこれで終わりだ」

「……生命力を分け与えてまで生かしたのに、関係を切るのか?」

 他人事なのに、状況を自分と重ねてしまい、蜃は哀しくなってしまった。遣る瀬無い気持ちが溢れ、不安そうに眉尻を下げる。

「何でお前がそんな顔……」

 直視できず、窮奇は気不味く目を逸らした。


「……お。外に出てないな」


 最後の数段を飛び降り、黒種草が階段から顔を覗かせる。鴟吻は一緒ではないようだ。

「おい窮奇。お呼びが掛かってる」

「は? 誰が」

「饕餮」

「はぁ? 何で」

「ラクタヴィージャが、饕餮は窮奇に助けられてここに運ばれた、って話した」

 皆は一斉に窮奇を見た。決心した直後、妙なことになった。

「記憶が無くなってても怪我は事実だからな。覚えてなくても一応礼を言いたいんだと」

 窮奇は数秒間固まり、静かに肩を震わせた。

「――ラぁぁクタあああああ!!」

 突然叫び出した窮奇に、何も知らない黒種草は身構え、周囲の者達へ説明を求めるように訝しげな目を向ける。窮奇は可笑しくなったのかと。

「蜃なんてチワワみたいな顔してたんだぞ!」

「!? 誰がチワワだ!」

「余計なこと言うんじゃねぇラクタああ!!」

 窮奇は自分も怪我人だということを忘れたのか、勢い良く床を蹴り、一跳びで階段を上がり姿を消した。

「何……あいつ? 怪我し過ぎで変になったのか?」

 その場の全員が唖然としてしまった。窮奇は先にラクタヴィージャに釘を刺しておくべきだったのだ。あんなに落ち込んだ姿を見せては、どうにかして饕餮に振り向いてもらおうと考えるだろう。何処まで話したかは知らないが、四凶に触れていないことを祈るしかない。

「これは……殴られ損じゃない?」

「えっと……変なお面は獏か? 殴られ損って何だ?」

「ちょっと気合いを入れてあげただけだよ」

 獏が窮奇を殴ったのだと察し、黒種草はそれ以上はこの件に触れないことにした。何故殴ったかは知らないが、獣なんて変な奴しかいない。

「……じゃあ俺はこれで」

 頭は下げずに黒種草は気怠げに上階へ戻って行った。黒種草は鴟吻にしか興味が無いが、鬼の形相で階段を跳び上がって行った窮奇は病室の場所を知らないだろう。回収しに行く。

 その黒い背を一同は見送り、窮奇の方はおそらく大丈夫だろうと三人はティーカップを傾けた。


「帰ったわよ――」


 その視線を病院の出入口へ、今度は何だと向ける。

 しゃんと杖を回し、疲れた顔の鵺が獏の姿を見つけて溜息を吐いた。獏の神格化の処理が終わったようだ。

「あの部屋の信者は始末したわ。創始者はまだ生かしてあるけど、ヨウちゃんに刻印してもらったから。私は狴犴の所に報告に行くから、後は宜しく」

 足を止めずに鵺が去り、紙の束を抱えて背後にいた洋種山牛蒡はちらりと傍らの蒲牢を見上げる。口を開く様子が無いので、洋種山牛蒡が説明の役を受けた。

「言われた通りチャットはしたけど、問題があって……手紙の投函は少し時間が掛かるかも」

「問題?」

「原因は不明だけど遠くの空が少し赤くなって、チャットも大騒ぎになってしまって。大火事かも」

「ああ……うん。渾沌のあれかな。わかった。ありがとう、ヨウさん」

「渾沌……って、危ない獣よね? 何かあったの?」

「蒲牢もいるし、話しておいた方がいいね。……蒲牢、意識はある?」

 ぼんやりとしていた蒲牢ははっとして頷いた。

「……饕餮のことが心配で」

「饕餮なら無事だよ。病室は何処か聞いてないけど、狴犴の近くじゃないかな?」

「! 戻って来てるのか……」

「それも話すよ」

「……あ、そうだ。これ御土産だ、獏」

 話す態勢になりかけた獏は、大量の紙の束を差し出され、首を傾げつつ受け取る。

「…………」

 それはあの部屋の壁一面に貼ってあった獏の写真だった。蒲牢に倣い、洋種山牛蒡も抱えていたそれを差し出す。

 遠目から見ていた灰色海月もちらりと見えた写真に興味を示し、覗きに遣って来た。

「持って帰って来なくても、その場で焼き捨ててくれればいいのに」

「……捨てるんですか? よく写ってます」

 監視カメラにも警戒する獏がいつの間にこんなに写真を撮られたのかと、灰色海月も感心する。

「たくさんあるから、欲しいならあげるよ」

 蒲牢は写真を一枚差し出し、獏にぺちりと手を叩かれた。

「盗撮写真は全部処分。宵街に焼却炉とか無いの?」

「焼却なら地霊だな。俺は直接見たことはないけど、死体の火葬をする場所があるはず」

「死体の焼却炉でゴミを焼いていいの……?」

「土葬も遣ってるから、埋めるでもいいけど」

「死体を埋める場所にゴミを埋めていいの……?」

「……じゃあ地霊に訊いて」

 獣の死骸は殆ど朽ちることがないが化生すると分解され消えてしまうため、獣は死後の体には無頓着だ。知人の体なら多少の愛着はあるが、只の空虚な器であることに変わりはない。獣は無関心だ。

「処分してくれるなら何でもいいや。後で地霊に頼も。……あ、地霊がいるのって科刑所だよね? 誰か行ってきて……」

 ぐるりと皆を見回すが、目が合ったのは黒色蟹だけだった。他は全員、目を逸らした。蒲牢は饕餮が気になって階段の方を見ていただけだが。

「レオさんは頼りになるねぇ」

 黒色蟹は何も言っていないが、獣に頼まれれば引き受けるしかない。科刑所に近付きたくない気持ちは理解できる。ここは最年長の変転人である彼が引き受ける。

「わかりました。ラクタヴィージャに確認を取って、許可が出れば行ってきます」

 今ここに黒色蟹が立っているのは、窮奇が外に出ないようラクタヴィージャに見張りを言い付かったからだ。窮奇が戻って来る気配も無いので、どのみち様子を窺いに戻るつもりだった。黒色蟹は頭を下げ、一旦上階へ行く。

 本当に彼は真面目だと、その場の獣達は感心した。


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