111-見世物
ある者はこう言う。
「一生掛かっても出会うことができないような美しい娘がいるらしい。少しでも触れれば御利益があるそうだ」
またある者はこう言う。
「夜毎、精を喰らう夢魔が展示されてるそうだ。もう何人喰われたかわからねぇ」
そしてある者はこう言った。
「そこらの生人形とは比べ物にならない、大層見目麗しい生人形がいるんだと。そいつと目を合わせれば生気を吸われちまって腑抜けになるんだ――」
幼い少年が聞いたのは人形の噂だった。
巷で噂の見世物小屋に少年はどうしても行きたかった。生きているような人形なのか、生きている人形なのか、想像を巡らせる内に見たくて堪らなくなった。一体どんな風貌の見世物なのだろうかと。
少年は両親に噂の見世物小屋へ行きたいと強請んだが、興奮の冷めない興味とは裏腹に両親の返答は冷たいものだった。
「人形? 生人形かい? まさか夢魔とか言う化物のいる小屋? あんな得体の知れない如何わしい場所になんて連れて行けないよ」
生人形を展示する見世物小屋は珍しくないが、化物人形と呼ばれている生人形があると彼の両親は知っていた。その見世物小屋は化物人形が展示される以前は閑散としていたが、以降は魂を喰われた者達が通い盛況となっている。
昔は人魚を展示する小屋があったそうだが、それは生きてはいなかった。生きているなら何をするかわからない。それが両親の気持ちだった。
そんな所に子供を行かせるわけにはいかない。聞く耳を持たずぴしゃりと叱られ、少年はそれ以上は何も言えなかった。
だが少年は諦めきれず、眠い目を擦りながら夜にこっそりと布団を抜け出した。
和装と洋装の人間が入り混じり西洋を彷彿とさせる建造物が並び始めた明治時代、賑やかな街の片隅に、その見世物小屋は夜遅くまで赤い提灯を灯して客を呼び込んでいた。
隠れるように少し奥まった場所にあるそこは、夜だと言うのに祭のように大勢の大人で賑わっていた。
子供が出歩く時間ではなく幼い少年の姿は目立ったが、大人達はそんなことより見世物に夢中だった。
金など持っていない少年は大人達の陰に隠れて暖簾を潜る。ぼんやりとした薄暗い光に照らされた小屋の中は、少年が今まで見たことのない世界だった。少年の背が低くて見えない展示もあったが、珍奇な動物や奇妙な姿の人間など、初めて見るものばかりだった。芸を披露する人間もいたが、少年が求める人形はなかった。
その中で一際多くの人を集めている檻があり、少年は引き寄せられるようにそこへ向かった。大人達は口々に歓喜の声を漏らしながら、檻に手を差し入れていた。狭い檻は大人が手を伸ばせば簡単に中に触れることができた。
檻の中を見ようとする大人達に揉まれ、少年の小さな体は檻の前へ押し出される。
「……!」
そこに居たのは噂に聞いた人形だった。姿がよく見えるように一つ吊るされた裸電球の下、夜を被ったような長い黒髪に整った相貌、白磁のようだが触れれば柔らかそうな肌に夜桜柄の小綺麗な着物を纏い、虚ろに座っていた。動かなければ本当に人形だと思っただろう。着物の裾を誰かに引かれて汚れた素足を掴まれ、月のような金色の眼球が忌まわしげに動かなければ、生き物だとは思わなかった。
「お……お人形さん!」
この場に似付かわしくないあどけない声に、人形もそちらへ目を向ける。五、六歳程の少年が無垢な瞳を輝かせていた。このような夜遅くに子供を連れる大人がいるのかと人形は訝しんだが、周囲に親らしき者は見当たらない。
「凄く綺麗なお人形さん! 綺麗だから……僕の宝物あげる!」
少年は興奮を抑えきれず、家から持って来た物を檻の中に転がした。綺麗な人形に綺麗な宝物を見てもらいたくて持って来たのだが、人形を見た途端、差し出したくなったのだ。
凹んで歪な形のそれは途中で勢いを失って止まり、人形は不思議そうに拾う。青くて透けていて、薄暗い光の中でもきらきらと光っていた。
「それ、僕の宝物のラムネ玉! お人形さんに会えて良かった!」
「…………」
人形は長い睫毛を伏せて俯いた後、桜色の唇を開いて鈴のように小さな声で一言呟いた。
「……駄目だよ。こんな所に来るものじゃない」
二度と。
その声は、周囲の大人達の歓声によって掻き消された。普段喋ることのない人形が喋ったのだから、それを聞いた運の良い人々が興奮を抑えられるはずがなかった。
その騒ぎを聞いた小屋の関係者により少年は見つかってしまい、この一角は子供が来る場所ではないと外に放り出された。大人達に睨まれ、少年がもう一度中へ入ることはできなかった。
家に帰れば少年は両親にこっ酷く叱られたが、後悔はしなかった。少年の興奮は冷めることはなく、まるで魂を取られたようだった。あれは本当に、とても美しい顔をした生き物だった。
夜通し小屋を開けていても人は来るだろうが、興行主も人間だ。夜が更けると小屋を閉める。
他の見世物の人間は小屋から出て家に帰るが、夢魔と呼ばれる人形が檻から出されることはなかった。
檻の外から興行主の壮年の男は手を入れ、掴まれて汚れた着物の裾を捲って白い足を確認する。
「駄目だと言っても客は聞きやしないな。今日も傷が多いが、まあいいだろう。化物らしくすぐに治るからな」
触らせるような見せ方をしておいてよく言う。人形は忌々しげに興行主を睨んだ。
「……ん? 何を持ってるんだ?」
睨まれるのは慣れている男は意に介さず、白魚のような指の間に青く光る物を目敏く見つけて目を細める。
「……ラムネ玉か? 贈り物なら宝石でも放ればいいものを」
「ラムネ玉?」
「おお……今日は喋るのか。何ヶ月ぶり……いや何年ぶりだ?」
人形は男を睨み、答えないなら用は無いとそっぽを向く。
「ラムネの瓶に入ってる硝子玉だろう。最近は玉入りをよく見るからな」
「ラムネの瓶……?」
「そんなことも知らんのか。ラムネと言う飲み物が入ってる瓶だ、瓶! 私はもう休む」
質問を煩わしく思い、気の短い男は会話を打ち切ってどかどかと出口へ歩いて行く。
檻から出されないのに外のことなど知っているはずがない。何故こちらが怒られなければならないのだと人形は小さく舌打ちした。
「動物園とやらができて数年経ったが、お前みたいなのはいないんだろうな。お前を見に来る客は絶えない。まだ稼がせてもらうぞ」
下卑た笑いを撒き散らし、男が去ると途端にしんとなる。
生まれて然程経たずに檻に入れられた人形はこの狭い場所で見る人間しか知らないが、人間とはなんて強欲で愚かしい生き物なのだろうと思う。外をよく知らない人形は、この狭い場所が世界の全てだと思っていた。
誰もいなくなった暗い小屋の中でぽつんと一つだけ消し忘れられた裸電球の下、人形は膝を寄せて抱え、完全な球体とは言い難いラムネ玉を光に翳した。
「歪な形……でも穢らわしいここには似付かわしくない綺麗な色……」
幾つも混入している気泡が僅かな光を受けてきらきらと輝く。
人形は硝子玉から視線をその向こうの現実に移し、眉を顰める。見たくなくても勝手に視界に入って来る。
見世物小屋と一口に言っても展示されているものは小屋によって異なる。人形は他の見世物小屋を見たことはないが、この小屋の特に子供の立ち入りを禁ずる一角は特に醜穢で淫猥で、治安維持をしている人間にも目を着けられているとかいないとか。目を着けられるとわかっていて奥に隠しているのだ。
視線の向こうには穴の空いた障子があり、今は明かりが消えて誰もいない。あれは覗き穴で、中で行われる男女の目合を覗き見る見世物だ。一度始まると周囲に不快な嬌声が響き渡る。少年が迷い込んだ時は丁度休憩中で良かった。あんな声を子供が聞くのは可哀想だ。興行主の男は集客のために遣りたい放題だ。あの穴の向こう側へ放り込まれなかったのは良いが、檻の中でも然程状況は変わらない。
毎日毎日飽きもせず人間は蛆虫のように群がって来る。あの俗物の興行主が開いている小屋には似た人間が寄って来るのだろう。唯一解放されるのは子の刻を疾うに過ぎてからだが、人形――人間に夢魔と呼ばれている獏は夜行性だ。だから夜は寝ない。人間とは正反対だ。
本来は悪夢を喰らう獏はもう随分とそれを食べていない。檻に出される食事は人間と同じ食べ物で、食べられはするが人間の食事よりも質素で量も少なく味気無い。人間ではないので暫く食事をせずとも生きていられるが、悪夢の味を忘れてしまいそうだった。
空虚な狭い檻の中で、人間に玩具にされる毎日に疲れて硬い地面に横になる。親に連れられ子供が迷い込むことは今までも多少はあったが、贈り物を投げられたのは初めてだった。まるで遠い星空のようなその硝子玉を転がし、外へ思いを馳せる。
檻に入れられて間も無い頃は人間に触れられると『やめろ』と叫んで抵抗したのだが、体力もすっかり落ちた今は抵抗する気力も衰えた。人形に触れると『御利益がある』と人間の間で広まってからは檻に手を入れる人間が増加し、まるで羽音の煩い蝿のようだった。全て叩き潰して、いなくなれば良いのに。獏の声は人間達の歓声に呑まれ、誰の耳にも届かない。抵抗しないとわかると人間は躊躇いが無くなった。
足を掴まれることは頻繁でもう半分くらい諦めていた。帯や着物を引かれ顔を近付けられれば殴るが。ここに集まる人間は下品だ。集客だけを目的として道徳を無視して並べられた展示に群がる低俗な者達だ。
悪夢を食べることしかできない非力な獏は檻から逃げることができず、もう何年も檻の中で暗い天井ばかり見ている。獣なのだから転送すれば出られるのだが、何故かこの檻の中では転送ができなかった。小屋の隅に何かの札が幾つか貼ってあるが、その所為かもしれない。
(檻を切る力……檻を捻じ曲げる力……檻を溶かす力…………人間を踏み潰す力……)
静かな時間は余計な憂鬱を考えてしまう。なので現状を打破できそうな、欲しい能力を空想することにしている。そんな能力は持ち合わせていないのだから結局は空しいだけなのだが、想像すると虚しくて少し笑える。
(檻を吹き飛ばす力……檻を真綿にする力……)
幾ら夜行性と言えど、こうも疲弊していては夜も眠くなる。力を考えながら瞼が重くなり眠ってしまう。空も見えず時間を計る物も無い中で、いつもどれ程の時間、目を閉じているのだろう。
硝子玉を放った少年はその日以来、檻の前では見なかった。親にでも止められているのだろう。それで良いと獏は思う。子供の好奇心をこんな所に向けるものではない。
それから幾らか月日が流れた頃、人間が寝静まる誰もいなくなった夜にふと目を開けると、檻の戸が開いていることに気が付いた。こんなことは初めてだった。始めは遂に幻覚が見えるようになったのかと思ったが、どうやら現実らしい。食事を運び入れる時にでも閉め忘れたのかもしれない。
(出られるの……?)
戸を軽く押すと、呆気無くいとも簡単に開いた。罠を疑うが、もう捕まっているのに何の罠なのだと首を振る。警戒しつつ檻から足を出すと、何も無いのに蹌踉めいて転んだ。まともに歩くのは久し振りだった。檻に手を掛けて立ち上がり、汚れた裸足で地面を踏み締める。
壁伝いに誰もいない小屋を歩いて静かな出口を目指し、何年振りだろう明かりの消えた外へ出た。
三十年振りだろうか、空虚な目で空を見上げた。黒い空にぽっかりと月が浮かんでいる。それが微かに滲んだ。
「風が……吹いてる……。もう檻の中に居なくていいの……?」
それに答えるように、長い黒髪が柔らかく揺れる。
久し振りに見た外は捕まる前とは随分と景色が変わっていた。ここが何処なのかわからないくらいだった。
人間が目覚めない夜の内に、獏は長い着物の裾を引き摺りできるだけ遠くへ歩いた。走りたいのは山々だったが、走り方を忘れたのか体力が無いのか、上手く走れなかった。転送する力も残っていない。
まずは人間に見つからない陰を探して隠れ、暫くはまだ手足が震えていた。誰も来ないような山奥へ身を潜めたかったが山を登る体力は無く、仕方無く人の寄り付かない古い空き家へ身を隠した。埃っぽいが、それは安心できる要素だ。暫く誰も立ち入っていない証拠だからだ。
今すぐにでも悪夢を喰らいたかったが、人間に近付く気分にはなれなかった。せめて体力を取り戻すまでは絶食を続ける。獏は夢など見ないのに、とんだ悪夢だった。
獏は持って来てしまった硝子玉を取り出し、窓から覗く月に翳す。久し振りの月は自棄に目に沁みた。
(ラムネって何なんだろう……)
ラムネと言う飲料の存在は獏が見世物小屋に捕まる前からあったが、それすらも獏は知らなかった。
(疲れた……何も考えたくない……)
部屋の隅に所々破れた布団を見つけ、軽く叩いて広げて咳き込んだ。埃っぽくて少し黴臭い布団が何だ、檻の中の硬い地面に寝転がるより何倍も良いじゃないか。もたもたと帯を緩め、獏は漸く少しの解放感を覚えた。切らせてもらえなかった長い髪も後で切ろう。
蹌踉めきながら倒れるように布団に転がり埃が舞い上がったが、気にせず虚ろな目を閉じる。食事で回復できない体力は睡眠で回復するしかない。
目を閉じると生まれた時のことをふと思い出す。誰もいない家屋の中で目を覚まし、辺りは炎に包まれていた。人間を憎んで潰し方を考えても、それとは関係無く人間は呆気無く死んでいく。愚かで儚い生き物だ。
(くだらない……人間のことを考えるのは止めよう。僕は自由なんだから……ラムネが何なのか考えてみよう……)
だが幾ら考えても硝子玉が入っている飲み物の想像はできなかった。何故そんな物を入れる必要があるのか……考えている内、獏の意識はとぷりと落ちてしまった。
人間と接触する気分にはなれず、だが危険な悪夢が発生していれば処理をしなければと本能が訴え、離れることもできなかった。
獏は人目を避けて黒い外套を羽織って短く切った髪にフードを被り、人間を観察していた。年を経る毎に西洋建築が増えていく街並みは目紛しく、とても忙しない。見たことのない物に興味はそそられるが、それはほんの一瞬だ。
(人を入れた箱が勝手に動いてる……? 見えない所に馬がいるの? いやいないよね)
獏が見世物小屋に捕まった翌年に鉄道が開業したのだが、檻の中にいた獏には当然知るはずがない。今視界にある路面電車はそれよりも後に走るようになった物だが、それも獏が檻の中にいる頃だ。人間が中に入り、地面の上を滑るように動く細長い箱なんて見たことがなかった。それはこの時の獏の目にはとても奇異に映った。
檻から出た頃はまだ明治だったが、いつの間にか大正に移り変わる。人間の世界は本当に目紛しい。正確に把握するにはもっと人間に近付かなければならないので、はっきりと今が何年かは知らないが。
(時々……何だろう、指先が痺れるような感じがある……全然悪夢を食べてない所為かな。まだ食べる気分にはならないんだけど……)
悪夢を食べるには人間に口付ける必要があり、獏はそれを拒む。また夢魔などと言われたくない。
だが食べずとも生きている。何十年も悪夢を食べなくても平気なのだと自分の体に感心する。他の食事――工場付近に落ちている鉄屑は拾って食べているが。以前からこんなに歯が丈夫だっただろうかとふと考え、一度檻を齧ってみれば良かったとぼんやりと思った。手を伸ばす人間の指も噛み千切ることができたかもしれない。
(動物は悪夢を見るのかな? 動物が見る悪夢だったら食べられそう)
そう思い、夕陽の射す路地で見掛けた野良猫を追ってみるが、黒い靄は確認できなかった。
(野生だと精神力も強そうだし……駄目かな)
そのまま路地を歩いていると、角から人間の子供達が走って来た。檻に硝子玉を投げた少年と同じくらいの歳だろう。獏は気配を消しているので、子供達は獏の存在に気付かない。気配の消し方は見世物小屋に捕まる前より格段に上手くなった。
少し遅れて角を曲がって来た子供が、疲れた顔で立ち止まる。再び走り出そうとするが、体が重いようで肩で息をしていた。
「…………」
獏は無意識にその子供に手を伸ばしていた。子供が黒い靄を吐き出していたのだ。何十年も断食をして突然眼前に餌を出されたら、我を忘れてもおかしくない。
子供の小さな肩を掴み、獏は我慢できずに口付けた。突然のことで子供には何が起こったかわからなかっただろう。
あまりに渇望していたので全て喰い尽くしてしまう所だったが、寸前で我に返り突き放した。危うく廃人にしてしまう所だった。子供は暫し惚けていたが、すぐにまた走り出す。その顔にはもう疲労は見えなかった。
「はあ、はぁ……駄目だ……。味を思い出したら……もっと欲しくなる……」
壁に背をぶつけ、崩れるように蹲み込む。久し振りに食べた悪夢の味はやはり美味で、簡単に絶てるものではなかった。獏なのだから悪夢から離れることはできない。そう言われているようだった。
「ああ……もっと欲しい……食べたい……今まで食べられなかった分、もっと、もっと――」
死んだような目は光を取り戻し、月が煌々とするように輝かせる。
興奮を鎮めるために俯いて震えていると、ふと何かが壊れるような音がした。
「え……?」
顔を上げると、目の前の家の壁に大きな穴が空いていた。
慌てて立ち上がろうとし背にある壁に手を突くと、同じように壁が壊れて穴が空いた。
「何……? もしかして……僕が……?」
人間のざわつく声が聞こえ、獏は慌ててその場から走り去った。陽が落ちて人気の無い公園まで走り、周囲に人間の気配が無いことを確認して茂みに飛び込む。
(ど、どういうこと……? 指先の痺れも消えてる……?)
必死に原因を考えるが、何も言葉が浮かばなかった。代わりに、見世物小屋で毎晩のように欲しい能力を空想していたことを思い出す。
(そんな馬鹿な……)
きっと痺れは兆候だったのだ。てっきり絶食している所為だと思っていた。悪夢を食べるしかできない自分の力があんな風に変化するなんて、夢でも見ているかのようだった。
試しにもう一度近くの木に手を当てると、いとも簡単に折れて倒れた。
「僕で間違いない……」
物を壊したいどころか、何がしたいとも考えていなかったのに木が折れた。これはおそらく力を制御できていない。先程子供の肩に手を置いた時、体を吹き飛ばさなくて良かった。悪夢を食べて高揚した所為で制御できなくなったのだろうか。無意識に制御していた可能性もあるのでその時の感覚を思い出そうとするが、無意識の記憶など思い出せなかった。
――どうやら力が変質しているらしい。
気持ちを落ち着け、獏は更に人間から離れて山へ籠もった。力が制御できず誤射して人間に被害が出ようと構わないが、下手な物を破壊して騒ぎになるのは面倒だ。再び人間に捕まるなど考えたくもない。
まだ何かをする意欲は無かったが、無意識にうっかり力を発動するならおちおち眠ることもできない。誰もいない山へ逃げたのは自分のためだった。
(でもこれを上手く扱えれば、人間に見下されたりしない……)
この変質した力を物にできれば、きっと人間に辛酸を舐めさせられることもないだろう。獏は山に籠もりながら、力を制御するための修行をすることにした。
誰にも教わることなく自力で考え、力の操作や形を持たせることに苦労した。針の穴に糸を通すような繊細な操作はできずとも、練習を重ねる内に何とか思考の通りに動かせるようにはなった。
あまり一箇所に留まるのも人間に見つからないかと不安なので適度に移動し、御陰で山の急斜面を歩くことにも慣れた。人間の通る道も所々にあるのでそれは避けながら、時に樹上を跳んで移動する。
(……ん?)
人間の通る道を見つけ、いつものように避けようとしたが、道を塞ぐ岩の下に何か白い物が見えて思わず足を向けた。
岩の下に見えていたのは人の手だった。どうやら落石に巻き込まれたらしい。岩の隙間から白い髪が見える。
(手に皺は無いけど……髪は白い?)
怪訝に首を傾げ、手に触れてみる。まだ脈がある。
(この手の大きさだと……子供?)
獏は暫し悩み、動かない手を見下ろした。人間を助ける気にはならないが、子供となると硝子玉をくれた無垢な子供が脳裏を過ぎり、無情に立ち去ることができなかった。
(……岩くらい退かしてあげるか)
力の練習にも良いだろう。手を翳してゆっくりと力を籠め、上から一つずつ岩を谷へ捨てる。大きさの異なる岩はそれぞれ使用する力の量も異なるが、なかなか上手く操作できている。練習の成果が出ているらしいと獏は少し嬉しくなった。
邪魔な岩を全て捨てると、その下から全身が白い少女が現れた。土と血で汚れてはいるが、髪も服も真っ白だ。十歳……いやもう少し上だろうか。服の上から撫でるように体の状態を確認する。
(頭は少し切っただけみたいだね……脚は完全に折れてそうだけど。人間が岩を避けられるとは思わないから……運が良かったのかな)
「ぅ……」
小さく声が漏れ、獏はびくりと手を離した。意識があるとは思わなかった。
「軽……い……」
「……君に載ってた岩は退かしたよ。人が通りそうな道だし、誰かが見つけてくれるかもね」
「…………」
少女は痛みに顔を顰めながら頭を動かし、何とか獏を視界に入れた。その少女の目は青かった。
「医者の所まで連れて行かないよ。僕は人間が嫌いだからね。わざわざ人間に会いに街まで行かない。――じゃあね」
早く立ち去ろうと早口で言って無慈悲に踵を返す獏の背に、少女は声を振り絞った。人が通りそうな道だと言われても、岩に潰されてから一度も足音は聞こえなかった。通り掛かったのはこの獏が初めてだったのだ。
「……も、う一つ……お願い……。手から、抜いて……」
「手?」
医者の所へ連れて行けと言うならそのまま立ち去ったのだが、少女の要求は不可解なものだった。獏は自分の手を見下ろし、少女の手を見た。彼女の小さな掌に何かがある。
「抜いて……」
意味は理解できなかったが、獏は少女の傍らに蹲み、試しに掌の白い物に指先を触れた。硬い感触がした。
「抜くって……」
「抜いて」
「……はいはい」
掌の物を抓んで言われた通りに引っ張ると、信じられないくらい長い物が出て来た。
「え……!? 傘……?」
白い蝙蝠傘は果たして蝙蝠なのか、掌から白い蝙蝠傘が出て来た。こんな芸は見世物小屋でも見たことがなかった。手の肉を裂いて出て来たわけではないだろう。白い傘に目立つ血の赤なんて一滴も付いていないし、手に穴も空いていない。
「開いて……」
言われるがまま、少女の手を一瞥し獏は傘を開く。少女の手から現れた以外は何の変哲も無い蝙蝠傘だった。
「持たせて……」
柄を掌に置くと、少女はゆっくりと指を曲げて柄を握る。
「ありがとう……これで宵街に帰れる……」
聞いたことのない街の名前だったが、帰れるのなら医者の所にも行けるのだろう。少女は痛みに眉を顰めながらも安堵の表情を浮かべた。
「頑丈な人間だね」
「元が植物だから……ある程度なら踏まれても平気……」
「植物……?」
「私は朝顔と言います。貴方は獣……ですよね? 名前を……窺ってもいいですか? この恩を一生忘れないために……」
「獣がわかるの……?」
「私は、獣に人の姿を与えられ……げほっ!」
名前くらい教えても構わない。夢魔などと間違った名前で呼ばれるくらいなら幾らでも教えてやる。
「無理しなくていいよ。僕は獏。医者の所に行けるなら早く行きなよ」
「獏……ありがとうござ……けほっ、……ます」
脚だけでなく、肋骨も何本か折れているかもしれない。そんな状態で無理をして会話をするものではない。
「……そうだ、私の……ポケットから、御守り……。助けてもらった……御礼です」
まだ喋るのかと呆れながらも獏は少女の服のポケットへ手を入れ、透明な石を見つけた。硝子のようにも見えるが、おそらく石だろう。このような塊の硝子に一つも気泡が無いなど有り得ない。
「獣なら……杖にでも使……っげほ」
「……じゃあ貰っておくよ」
朝顔と名乗った少女は小さく頭を動かして頭を下げるような仕草をした後、指先で転がすように蝙蝠傘を少し回した。その瞬間、そこには最初から何もいなかったかのように少女の姿は忽然と消えた。
「転送できるんだ……。変な人間……いや純粋な人間じゃないのかな……。純粋な人間じゃないなら、別に何とも思わない……かな?」
獏は首を傾け、貰った石を木漏れ日に翳した。
(杖だとか言ってたな……杖か……。杖があれば力がもっと操作し易くなるのかな? ……だとしたら、良い物を貰ったな。偶には善行も悪くないのかも)
詳細は聞けなかったが、特殊な石なのかもしれない。
近くに落ちていた木の枝に固定を試みるが、木の枝だと強度が足りなかった。少し強く振ると石の重さで枝が折れてしまう。もっと太い枝か金属製にした方が良いだろう。
杖の御陰で幾分力は扱い易くなり、気を抜いていても力を操れる程になった。これでもう人間に舐められることもない。踊り出したいくらいの気分だった。
恐れるものは何も無いと久し振りに人間の街を訪れた時、また景色は以前と異なっていた。本当に人間は忙しない。
月の双眸に映る人間の街は、炎に包まれていた。獏は生まれた時の景色を思い出したが、その時よりも炎の範囲が広い。
単純に人間の数が増えた所為もあるだろうが、炎の中では尋常なく悪夢が蔓延った。人間から暫く離れていた獏にはすぐにその火の海が何なのか察することができなかったが、それは鉛の降る戦と言うものだった。赤く染まる黒い空から炎の元が降ってくる。その無慈悲な様を、獏は少し遠くの屋根から眺めた。
(何でこんなことをしてるんだろ……あの見世物小屋も何処かで燃えてるのかな。折角力を手に入れたのに、人間同士が争うなら僕が手を下すまでもないな……。いや……こんなに冷酷なら、僕が人間をどうしようと構わないね……)
悲鳴や慟哭、炎の爆ぜる音が耳を支配する。あまり長くここに居ると気が変になってしまいそうだった。
(悪夢は食べ放題だけど……死体はもう夢を見ない)
立ち去ろうと足を引くと、そこに黒い物が絡み付いていることに気付く。それは近くの屋根の下へ続いていた。
「…………」
その屋根は地面に落ちていた。どうやら下敷きになった人間がいるらしい。
「襲う力の無い悪夢かな? まるで助けを求めてるみたいだけど……」
悪夢の主が死んでも暫くは黒い靄が滞留するが、既に育って独立していれば死後も悪夢は残る。それでも栄養源を断たれているのだからやがては萎んで消えていく。触手を伸ばせる程なのだから育っているのだが、屋根の下の主に息があろうと、炎に包まれるこの街の有様では助からないだろう。
獏は頭上に降る鉛に杖を翳し、透明な石が光る。ついと振って軌道を変えて放り投げる。遠くで悲鳴が聞こえたが、不発にしておいたのだから良いだろう。
片膝を突いて蹲み、獏は足を掴む悪夢に杖を当てた。悪夢は抗えない力に吸われ、杖の先の透明な石へ姿を消す。こうすれば人間に口付けなくても悪夢が喰えるのだ。杖を作ったのは力の制御が目的だったが、これはもう人間に口付けないように作ったと言っても過言ではない。これでもう夢魔などと言う人間はいなくなるだろう。杖は何とも便利で、存在を教えてくれた朝顔には感謝を伝えたいくらいだった。
「コップでもあればいいんだけど……割れてないコップはあるかなぁ」
とんと屋根を蹴り、倒壊しておらず燃えてもいない家屋を探す。石から直接悪夢を食べることも可能だが、風情が無い。
悪夢は其処彼処に蔓延り、獏は毎日満腹になるまで悪夢を食べて贅沢をした。美味な悪夢に獏は恍惚と金色の双眸を蕩けさせる。日を重ねる毎に悪夢は増え一度に食べきれる量では最早なかったが、食べ過ぎた所為か悪夢が敵意を見せなくなった。怯えているのか諦めているのか、獏を襲おうとしない。襲わないのなら楽に食事ができてそれはそれで良いのだが、不気味ではあった。
その内に異変は起こった。空虚に、だが恭しく頭を垂れる悪夢が現れたのだ。偶然そう見えるような動きをしたのだと最初は思った。でも違った。事態を呑み込むのに時間が掛かった。
「…………」
黒い塊が頭を垂れ、獏が去ろうとすると後を付いて行く。そこに意思があるかはわからないが、意思表示をされても気味が悪い。
「食べてほしいってこと……? 悪夢が多くて選り好みしてたのは事実だから、ちゃんと食べろってことなのかな。……そんなわけないか」
手を伸ばし杖を翳すと、悪夢はすっと後退した。そしてもう一度頭を垂れる。
「……え? 食べられたいのか食べられたくないのかどっちなの……嫌ならもっと美味な悪夢でも連れて来れば?」
冗談めかして鼻で笑うと、足などは無いが悪夢は踵を返すように去って行った。程無くして悪夢を一体連れて来る。
「何……どういうこと……?」
その悪夢は言葉を理解しているようだった。今まで食べてきた悪夢もそうだったのだろうか。そんなことは考えたこともなかった。悪夢はただ食べられるだけ、それだけのはずだった。
首を捻りながら獏は杖を翳す。悪夢が連れて来た悪夢は逃げなかった。妙に大人しい。悪夢にも個体差があることは知っているが、それとも少し違う気がする。
「……触手を真上に伸ばしてみて」
嫌な予感がしてぽつりと呟く。半信半疑だったが、二つの悪夢は揃って触手を真上に伸ばした。認めるしかなかった。この悪夢は言葉を理解し、獏の言うことに従っている。
「何で……」
急に背筋が寒くなった。それは恐怖と言うより嫌悪だった。眉を顰め、呼吸が徐々に浅くなる。
「もしかして……悪夢に舐められてるのかな。人間だけじゃなく……食べられるだけの悪夢に!」
獏は焦燥を顔に滲ませながら杖を振った。悪夢は身を引くが、光の矢はそれを追って貫く。
どうしてこんな悪夢が現れたのか、獏は混乱した。そして全てが敵に見えた。人間も悪夢も全てが、獏を見て嘲笑っているように見えた。炎の中に居過ぎて気が変になったのかもしれない。
その後――檻の中の記憶が憎しみを引き摺り出し、檻から出て一度は落ち着いていた感情が乱暴に掻き混ぜられるように混濁した。殆ど無意識に悪夢を使役して、目に付いた人間を殺した。どう悪夢を操ったのか実の所よくわかっていない。体中から恐怖と憎悪が湧き上がり、止められなかった。
視界が炎の赤と血の赤に染まり、まともな判断ができなかったのだろう。獏を捕らえて檻に入れ離さなかった人間が脳裏に貼り付く。悪夢に呆気無く殺される人間の体は想像以上に脆く、非力な獏にも劣る。こんな弱いものから、獏は何十年も屈辱を受けた。それを見せ付けられ、心が壊れた。
それから少数ずつではあるが息をするように人間を殺し、獏は良い夢も悪い夢も見境無く貪った。そしてやがて宵街に見つかった。遅過ぎる程だった。
情状酌量と狴犴が言っていたが、つまり同情して暫く見て見ぬ振りをして放置していたのだろう。一度に殺す人間の数が少なく、ならば気が済むまで放置しておこうと思ったのかもしれない。だがいつまでも獏の気が済むことはなかった。だから宵街も目を瞑れなくなった。
そして獏はまた、檻に入れられることになった。
子の刻…夜中の零時。
蝙蝠傘…西洋傘。




