109-犠牲者
病院の待合室で漸く体を起こして動く気になったラクタヴィージャは、メモを取りつつ浅葱斑から預かった白花苧環の指と睨み合う。机上に並べた検査道具で白花苧環の死の前後で起こった体の変化を調べている。
その後ろの席で黒色蟹は大人しくしているが、薬水を飲んだ御陰で随分と顔色が良くなった。脳を支配されるという初めての体験に翻弄されてしまったが、何とか後遺症も無く回復できそうだ。能力を持つ獣本人は近くにいないと言うのに、遠隔操作が可能な獣は厄介だ。
「……手伝うことはありますか?」
回復して話す余裕が生まれた黒色蟹は後ろの席から身を乗り出す。やはりラクタヴィージャが動けば、釣られて動いてしまう。変転人の方が獣よりも回復が遅いと言うのに。
「大丈夫よ。これはちょっと専門的なことだし力も使うから、私が遣るわ。もう殆ど答えは出てるしね」
「苧環は……」
「気になる?」
「多少は」
「軽く見た感じだと、死ぬ前の彼とほぼ違いが無い。まるで体が復元したみたいに。苧環は元々欠損部位を獣の力で補われてて、純粋な変転人とは言えなかった。補うことに必死で、後のことは考えてなかったんだろうけど……植物の成長速度が異様に早かったのはその副作用で」
「欠損を補う……? では獣の力で最大級の欠損――変転人の全身を補い、生き返らせることが可能なんですか……?」
「普通は他人の欠損を補うことはできないと思うんだけど、苧環の場合は一度種を挟んでるから……」
最初に狴犴が白花苧環の欠損部位を補ったのは、彼の力ではなく印によるものだ。詳細は聞いていないが、相当複雑な印を使用したらしい。そして人の状態の修復ではなく、植物の状態での修復だった。植物なら人体の修復よりは容易だろう。
「実例はたった一件だし、複数の獣の力が絡んでるから、相互作用でも起こったのかも……。死にかけた苧環に生命力を与えたって言う獏が一番怪しいけど、死後に花魄が死体を操ったことも何らかの影響がありそうで……さすがにそういうのは私の専門外よ。こんなことを研究してる人がいると思う? いるなら教えてほしいわ」
「僕には心当たりが無いです」
黒色蟹は自分が可能な限り獣の問いには答えるが、記憶を引っ繰り返してみても繋がる糸が見つからなかった。
「そうよね」
実例をもう一件作るとしても、欠損を補おうとして正常な肉体が手に入らない可能性もある。そんな運に任せた実験を行うわけにはいかない。この特殊な例は白花苧環が最初で最後になるだろう。彼の体も今後異常が起こらないとは限らない。
ラクタヴィージャは羽根ペンを走らせ、時折羽根を振って考え込む。
それが数回続いた頃、静かな病院の中に突然傾れ込むように、赤黒い塊がべしゃりと倒れた。
「はやっ……早く! 助けて!」
掠れた悲痛な声を聞き、考え込んでいたラクタヴィージャは顔を上げる。何事かと姫女苑も受付から身を乗り出した。
「……っ!」
そして息を呑み、血の気が引いた。
赤黒い塊――顔に血と汗を貼り付けた少女の背には、原形を留めず頭と袖の中身が無い赤く染まった上半身をぶら下げている体があった。二人共黒い衣服を着用していることから、黒所属の変転人だろう。少女は片腕で背中の誰かを支え、垂れ下がったもう片腕は赤く濡れていた。
ラクタヴィージャは息を荒げながら叫ぶ少女に駆け寄り、同じく前へ出て来た黒色蟹の袖を引く。
「レオ、この子をすぐに手術室へ」
「わかりました」
まだ体力は回復していないが、そんなことは言っていられない。目の前の少女の方が重傷なのだ。
「私はいい! 早くっ……この……! 早くっ……」
「落ち着いて。大丈夫だから」
黒色蟹の袖をもう一度引き、今度は彼は少し身を屈めた。ラクタヴィージャはその耳元へ囁く。
「この子を眠らせて。パニックになってるわ」
「わかりました。止血もしておきます」
「そうね……でもこの子の右腕はもう駄目だわ。……切り落とすことになる。狻猊に義手を作ってもらわないと」
背負っている半分潰れた誰かを横へ下ろし、黒色蟹は暴れようとする少女を抱えて手術室へ走った。
「これは……檮杌の仕業か」
「わ……びっくりさせないでよ」
騒ぎを聞き付けて治療室から出て来た贔屓が背後に立ち、ラクタヴィージャはびくりと振り返った。
「人間がこうなる所を僕も見た」
「じゃあそうなんでしょうね。あの子には悪いけど、こっちはもう助からないわ。死んでる」
「……そうだな」
頭も腕も無いのだから、生きているはずがない。
「あの子の目に触れないよう安置室に運びたいけど……あの子の治療が先ね」
「僕が運んでおこうか?」
「怪我人が何言ってるの。大人しくしてて」
ラクタヴィージャは溜息を吐き、息を呑んで固まっている姫女苑の脇から暖簾の奥に向かって浅葱斑を呼んだ。騒ぎは聞こえていたので、浅葱斑は不安そうな顔をしつつ足取り重く駆け付ける。
「さっきのは聞こえてた? こっちの人を安置室に運んでおいてほしいの。まだ分身体を出せなくてね……。場所はヒメに聞いて。私は手術室に行くから」
「えっ……」
受付からカウンターの陰を覗き込み、ヒッと浅葱斑は声を呑んだ。こんなに惨い死体はそう見るものではない。思わず足が竦んだ。
「よろしくね」
もう待たせられないとラクタヴィージャは急いで廊下を走り、修理が終わったばかりの扉の向こうへ消えた。
残された浅葱斑は怯えながらも恐る恐る受付の前へ出てごくりと唾を呑み、頭と腕を失い潰れた誰かをゆっくりと抱え上げる。潰れた上半身は人の感触をしていなかった。乱暴に抱えると崩れてしまいそうだ。潰れた頭と腕は自重に耐えきれず、支えを失ったそれらは呆気無く地面に落ちてしまったのだろう。手がぬるりと滑る。まるで食材の生肉に触れているようだった。
死体に触れるのは怖いが、このまま地面に放置しておくこともできない。不安な顔をしながら、浅葱斑は姫女苑の案内にできる限り意識を集中させた。
肉塊を抱える浅葱斑の青褪めた顔が心配ではあるが、贔屓は姫女苑に一言断り階段を上がった。変転人にまで被害が出てはおちおち休んでいられない。
狴犴の病室のドアを軽く叩き、贔屓はドアを開けて一瞬足を止めた。まさか獏が同室だとは思わなかった。今は横になって眠っているようだが、よく罪人と狴犴を同室にしたものだ。
傍らに座っていた灰色海月が軽く頭を下げ、贔屓も一瞥する。二人が争い出せば彼女では止められないだろう。
「……狴犴、起きているか?」
仕切りのカーテンの向こうへ問い掛けると、静かに衣擦れの音がした。
「……何だ」
「話したいことがある」
贔屓がベッドへ接近すると狴犴は体を起こす。横になっていたが眠ってはいなかった。
「先刻、負傷した変転人が来院した。一人は死亡、もう一人も片腕を失う重傷だ。状態を見るに檮杌に潰されたんだろう。僕が見たものと同じだ」
「…………」
「今は誰か調査に動いている者はいるか?」
「いや。負傷者が多いからな。人手が足りないのが正直な所だ」
狴犴は枕元の薬水へ手を伸ばし、コップを膝へ下ろす。顔色は良くなったが、まだ長年の疲労は粘着質に残っている。それでももう倒れることはないだろう。
「変転人には任せられないからな。檮杌もだが、渾沌が関与しているならそれも懸念でしかない。渾沌の力は脳を支配し操る危険なものだ。下手な獣も送れない」
「…………」
「……贔屓は、何か良案はあるか?」
その言葉に贔屓は目を丸くした。彼の口からそんな意外な言葉が出て来るとは。
「ふ……もっと早く頼ってほしかったよ」
贔屓が宵街を去ってもう何百年経ったと言うのだろう。ここまでよく一人で遣ってきたと思うが、助けを求めるのが遅過ぎる。時間は掛かったが、それでも頼ってもらえたことは素直に嬉しかった。
「私に押し付けて出て行ったのはお前だろう」
「狴犴も統治者の立場になってみれば、護ることの難しさも理解できると思ったんだが」
「雑談をしている時間が惜しい」
「ああ、そうだな。……僕が直接制裁したい所だが」
穏やかな空気が一変してぞわりと張り詰める。檮杌にもう自由を与えるわけにはいかない。完全に一線を越えてしまった。部屋の中に毛が逆立つような居心地の悪い緊張感が満ちる。指先を動かすことすら躊躇うほどの威圧感だった。
「……贔屓」
低く諭すように名を呼ばれ、贔屓ははっとして隣のベッドへ目を向けた。横になって目を閉じていた獏がじっと睨んでいた。
「不快な殺気はやめて。クラゲさんが怯えてる」
傍らに座っていた灰色海月の俯いた顔は強張り、灰色のスカートを掴む手が小刻みに震えていた。白実柘榴に『怖い』と言われたことを思い出し、贔屓は慌てて感情を抑え付ける。獣の殺気は変転人には耐え難いものだ。
殺気を鎮めると灰色海月の手は徐々に力が抜けたが、表情にはまだ不安な色が残る。まるで捕食者に睨まれたような緊張感だった。
「すまない……気を付けるよ」
「はぁ……僕も目が覚めたし」
獏は恨みがましく呟き、ふいとそっぽを向く。
その背を見詰め、悪いことをしたと思いつつも贔屓はふむと頷いた。
「……狴犴。人の心が無い案を思い付いた」
「お前が? 頭でも潰されたか」
「檮杌を追うとしても渾沌と接触する可能性はある。そこで渾沌に対抗できる獣を考えたんだが、単純に強い獣である蒲牢や睚眦を行かせて、菌糸で手玉に取られてしまえばこちらが太刀打ちできなくなる。烙印を捺した罪人なら万一操られても烙印で御せるが、どうだ?」
つまり烙印で力を制御された状態の罪人を対応に当たらせる。一生牢から出ることができない死んだも同然の罪人を、烙印で力を封じたまま慈悲無く死地へ送るのだ。確かに人の心が無い。
「……悪くない案だ。勝てずとも情報を持ち帰るだけでも価値はある。渾沌の力について得るものがあれば、動かせる駒も多くなる。単純に囮としてもいい。お前がそんな提案をするとは思わなかったがな」
「僕は罪人に権利を与えていたが、無条件に博愛主義だとでも思っていたのか? それに僕も統治者を退いて何も変わらなかったわけじゃないよ」
鴟吻を襲った罪人への感情は憎しみが大きかった。それは狴犴と同じ気持ちだっただろう。だが統治者であった贔屓は個人的な恨みを吐き出すわけにはいかなかった。二つの気持ちに板挟みにされ、答えが出せずに宵街から去った。狴犴ならどんな統治をするのか、見てみたいと思った。結局の所、贔屓は優し過ぎたのだ。
「君の統治下だと罪人は通常外へは出られないようだからな。外に出られるとなると自ら挙手をする者もいるはずだ。逃げないよう烙印に細工すれば扱える」
「ああ。適切な罪人を選出する。そこの獏でも構わないが。充分適任だ」
突然名前を出され、獏は耳を疑いながら顔を上げた。
「僕の名前が聞こえた気がしたんだけど」
「聞こえたなら丁度良い。地下牢の罪人だと烙印を細工し直さなければならないが、獏の烙印は自由度を高く設定している上に半解除状態で力もある程度使用可能だ。しかもそこらの獣よりは力があるだろう? もし操られることがあれば、こちらから懲罰として烙印に『痛み』を送り正気に戻すことも可能だ」
「ひ……人の心が無さ過ぎる……。悪いことをしてないのに懲罰なんて……」
地下牢の罪人を使うことを考えていた贔屓は、情状酌量の余地があると言っていた獏に白羽の矢が立ってしまったことに少なからず同情したが、何をするかわからない地下牢の罪人よりは獏の方がまだ信用できる。
「悪いことと言うなら、最初に悪事を働いて罪人となっただろう。充分だ」
「怪我もしてるのに……」
強く拒否しても無駄だろうと獏は小動物のように丸まって眉尻を下げるが、別に庇護したいとは思わなかった。それが通用するのは人間くらいだろう。
「何もそのままで行けと言っているわけではない。印でギプスを作ってやる。痛みが緩和されるはずだ。強い衝撃を与えなければ、平常時のように歩行は可能」
「そんな便利な印があるの? 僕も覚えようかな、印……」
「生半可な気持ちならやめておけ。興味本位で下手に使うと怪我の箇所が捩じ切れる」
「印ってそういうの多くない?」
「技術とはそういうものだ。重大な事故を防ぐために、扱う者は研鑽を積む責任がある」
「君がたくさん練習したってことはわかったよ」
子供を相手にしているかのような言い方に狴犴は暫し沈黙したが、無視することにした。贔屓は口元が微かに笑っている。
「でも僕は今、自力で転送ができないよ。変転人を連れて行くわけにはいかないんでしょ? だったら僕は適任じゃないね」
「では転送ができるようにしておく」
「君なんか嫌いだ……」
尤も好きだったこともないが。
「こんなか弱い獏に……」
「冗談は寝て吐かせ」
間髪容れず一蹴され、獏は頬を膨らせた。灰色海月はそれを河豚のようだと思ったが、狴犴と贔屓の前なので口を閉じた。
「贔屓、被害者の変転人と話せるか? 獏を派遣する前に少しでも情報が欲しい」
獏の気持ちは無視し、派遣されることが決まった。何故危ない橋を渡らされる羽目になっているのか、獏は不満だ。確かに野放しにはできない問題だが、他の誰かではなく自分が対応に向かわされるのが嫌だ。
「治療中の変転人は目立った外傷は右腕だけだったが、切り落とすしかないと言っていたからな……治療が終わるのは時間が掛かると思う。だが話せるはずだ」
顔や全身に血が流れていたが、接近して確認した所それは返り血だった。潰れて死んだもう一人の血を浴びたのだろう。そんなに血を浴びても、背中の仲間が死んでいることに気付いていなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。
「獏が襲われた場所、僕が襲われた場所、そして今回の場所がわかれば、相手の動きも絞れるかもしれない。治療が終わるまでに地図を用意しておくよ。狴犴、他に必要な物はあるか? 僕が一時的に代理をしていると言っても、やはり君が宵街の統治者だからな。従わせてもらうよ」
「随分と元気な怪我人だな。必要な物があれば私が用意するが……苧環の帰りが些か遅い」
「ん? 何処に行ってるんだ?」
狴犴は贔屓に説明をするが、それを聞きながら獏は、まだそれほど時間は経っていないと思う。獏は眠っていたので正確な時間はわからないが。彼らは懐かない黒猫を捕獲することに手古摺っているのだろう。観察日記でも思った通り、やはり狴犴は白花苧環に対して過保護だ。
そうこう話している内に獏はぴくりと気配を感知する。白花苧環が黒葉菫に施した刻印は健在だ。黒葉菫には迷惑な物でしかないが、案外便利だ。
気配の後にドアを叩く音がし、贔屓は狴犴を制してドアを開ける。獏の感知した通り、黒葉菫が蓋をした木箱を抱えて立っていた。木箱の中で何かが激しく暴れている音がする。
少し遅れて白花苧環も両手で子猫を抱えて現れた。彼の表情には緊張が滲んでおり、ぎこちなく添える指先が強張っている。小さな生き物を壊してしまわないかと困惑しているようだった。
「おかえり、スミレさん、マキさん。街は大丈夫だった?」
「はい。只今戻りました。店しか行ってないんですが、黒豆が逃げてなかなか捕まらず……時間が掛かってしまいました」
『黒豆』は黒色海栗が黒猫に付けた名前だ。一応は定着しているらしい。
「そっか。ふふ、変転人にはどうも懐かないみたいだね。いいよ、ここに出してあげても」
黒葉菫が木箱の蓋を開けると、中から勢い良く黒い塊が飛び出した。黒猫は見慣れない病室の中を跳び回り、獏の姿を見つけてベッドに跳び乗った。
「元気そうで良かったよ」
「……何だ、それは」
「え?」
隣のベッドから怪訝な声が上がり、黒猫を撫でながら獏も怪訝な顔をする。
「猫だけど、知らないの?」
「名称は知っている。贔屓が小型機械で見せたものと色は違うが、同じ生物だろう」
宵街では動物を見掛けることがない。狴犴は宵街から出ることが殆ど無く、実際に猫を見たことがなかった。
「……あの、この猫はどうすれば……」
震えそうになる手で子猫を差し出す白花苧環に、黒葉菫は空になった木箱を向けた。大人しい子猫の方を白花苧環に預けたのだが、想像以上に扱いに途惑っている。木箱に何とか子猫を入れ、白花苧環は漸く肩から力を抜いた。
「では僕はこれで失礼するよ」
微笑ましい空気になった所で、贔屓も地図を用意するために急ぐ。退室する彼に黒葉菫と白花苧環、灰色海月は頭を下げた。
獏も体を動かし、壁を背に座り直す。黒猫はすぐに、掛け布団に空いた温かい穴に吸い込まれていった。潰れた脚の上に乗られ、獏は思わず声を上げそうになる。
「……スミレさん、マキさん。僕はこれからちょっと出掛けないといけないみたいだから、クラゲさんのことを宜しくね」
黒葉菫は子猫の入った木箱をベッドの足元へ置き、灰色海月の隣に立つ。
「あの街に行くんですか?」
「ううん。檮杌の調査をしてほしいんだって。罪人は扱き使おうってわけ」
出された名前に黒葉菫の顔は強張った。獏の脚を潰した獣の名だ。そして横目でちらりと白花苧環を見る。白花苧環は獏と共に檮杌に遭遇している。先程の途惑いは影を潜め、白い彼は視線を上げた。
「オレも行きます」
駄目だと言おうとした獏よりも先に、狴犴が声を上げた。
「お前は行くな」
苛立ちを含んだ声は、叱り付けているようにも感じた。幾ら半獣とは言え、白花苧環は半分は変転人だ。変転人では太刀打ちできないと明らかなのだから、狴犴が止めないはずがなかった。
「危険は承知です」
「お前が行こうとする理由は何だ。庇われたのだから庇い返すのか? 確かにそれは変転人の気質だ。だが敵わないと明白なのにお前が行く意味は何だ? 無駄死にか? 記憶が多少残っていると言ってもお前には経験が不足している。はっきり言おう、足手纏いだ」
「…………」
正論だ。白花苧環にはそれに反論する経験は無い。警戒していてもまた庇われるだけ、狴犴はそう言いたいのだ。
狴犴が止めてくれるのなら獏も口は挟まない。無駄死になんて見たくない。
「……オレはただ、力になりたいだけです」
「罪人のか?」
「それでも構わない」
「庇われたからか?」
「それは一理あります。……ですが、命を助けてもらった御礼も何もできてない!」
搾り出すように悲痛な声は今の生ではなく、以前の死ぬ前の彼が吐き出したものだった。狴犴に頭と脚を潰され死にかけたあの時、生命力を分け与えてくれた獏に白花苧環は何とか礼をと考えていたが、納得できる礼は終ぞ果たせなかった。その無念は生まれ変わった今も消えず蟠っている。
「……命を救われた礼に命を賭すのか?」
「煩い! 貴方がオレにあんなことをしなければ、オレがこんな……罪人を気に掛けることもなかった! 全て貴方が悪いんです!」
「…………」
過去の記憶はまるで本を読んでいるかのようだと言っていた白花苧環だったが、部分的に鮮明な感情がある。言葉があるわけではなく、逸れたように感情だけがぽかりと浮いている。その所為で見えないものに雁字搦めにされ、身動きが取れなくなっていた。
「……わかった。やはり私の首を落とすなり好きにしろ」
以前の説教を聞いても、白花苧環は自分を制御できないようだ。今は獏を庇おうとする気持ちよりも、何とかして役に立とうとする気持ちが強いようだが。ただ借りを返す方法がわからないだけなのだろうが、狴犴もそれを助言できるほど他人と関わりを持っていない。
「貴方の首なんていりません! ただ、止めないで……オレの自由にさせてください……」
狴犴が護ろうとした苧環は、過保護を窮屈で不自由なものだと感じていた。躾けられていたのでそれが普通なのだと白花苧環は思い込んでいたが、獏の許に居れば居るほど疑問を抱くようになった。
「首を差し出すくらいなら、オレに自由を下さい。生きるのも死ぬのも……いえ、死は望みませんが。手伝わせてください」
決意の籠もった言葉に、灰色海月と黒葉菫は過去の彼を思い出し目を瞠る。人の姿を与えてくれた狴犴のことを親のようだと言い、逆らえずにいた彼とは思えない言葉だった。だが不思議と納得できた。ずっと言いたかった言葉だろう。それに――今の彼は、狴犴が人の姿を与えたわけではない。
狴犴は視線を落とし、深く息を吐いた。ここまで変転人に反抗的な態度を取られたのは初めてだった。それほど溜まっていたのだろう。生まれ変わって何かが吹っ切れたのか威勢が良い。
ここで頑固に拒めば、昔の贔屓のように宵街を出て戻って来ないかもしれない。変転人には宵街が必要だ。狴犴はただ、苧環が寿命を全うし、その死を見送りたいだけなのだ。
「……好きにしろ」
諦めたように漏らした狴犴に一番驚いたのは白花苧環だった。捲し立てたのは自分だが、まさか狴犴が折れるとは思わなかった。
「だが条件がある」
「…………」
「身に危険が迫った時、獏を見捨ててでもお前は離脱しろ。獏には荷物が増えるが、苧環が指一本でも失うことがあればお前を地下牢に収容する」
「僕の負担が重過ぎない?」
勝手に話を進められ刑まで重くされるのは割に合わないと獏は唇を尖らせる。獏としては白花苧環を連れて行くのは反対だった。灰色海月と言い何故こうも頑固なのだろうか。
「苧環は戦闘に参加するな。それが条件だ」
「……わかりました」
白花苧環は不満げだったが、渋々といった風に頷いた。本当に約束を守るかは怪しい。
「拒否権は無いみたいだから話は聞くけど……それで僕は何をすればいいの? 情報収集だけ? それとも確保? まさか始末しろなんて言わないよね?」
質問しながら、獏は檮杌の対処法を考える。獏以外は触れることのできない悪夢を使えば簡単に捕らえることは可能だが、先に見た檮杌の力は目に見えず、深海で水圧に耐えられず拉げるような印象を受けた。もしそれが正解なら、彼のその力は悪夢にも通用するはずだ。ならば悪夢は手段として使えない。
「確保が可能ならそれが理想だ。宵街に連行してほしい。転送位置に蒲牢か睚眦を待機させておく。治療が可能な範囲の負傷は構わない。命の危険があり、どうしても回避できない場合は殺してしまっても責めはしない。だが鉄線蓮は生かしておけ。よもや変転人相手に後れを取ることはないだろう」
「渾沌って奴がいた場合は?」
「檮杌と同じく宵街に連行が理想だが、現場のお前の判断に任せる。相手の力が未知のまま挑むのが怖いなら、引いても構わない。優先すべきは変転人に実害を被った檮杌だ。奴は逃がすな」
「人間より変転人優先ってことだね。ふふ、その答えは悪くない」
「後は苧環の安全を考えて行動しろ」
「はいはい。確保するにはある程度痛め付けないといけないから、戦闘は免れなさそうだね」
動ける状態では転送を許してくれないだろう。あの巨体の動きを封じるなんて骨が折れる。
「ああ、もう一つ。ラクタに解熱薬を貰っておけ」
「解熱薬?」
「万一ヒート状態に陥った時に冷却する薬だ。獏の力が増しているなら、扱いきれず熱暴走を起こすかもしれない」
「ああ、あれか……忠告ありがとう……」
「先に印を施しておく。感覚に慣れておけ」
狴犴は杖を取り出し、獏のベッドへ向かう。
彼に疲労がまだ少し残っていると言っても、獣がたったそれだけの疲労で動けないはずがない。なのに狴犴は檮杌の調査に出向かない。彼は罪人ではないが、やはり獏は不服である。安全な場所から指示を出すだけなんて楽な仕事だ。
印を施す間、潰れた脚から黒猫を拾い上げて腕に抱えておく。
短い杖の先の変換石が光り、脚の上に印が展開される。それを獏は興味深く見守り、印に絵心は必要なのだろうかとふと考える。
印は脚に溶け込むように消え、見た目には何も変化は無かった。
「動かしてみろ」
体にこびり付いた痛みを思い出して眉を顰めつつもほんの少し脚を動かしてみると、想像した痛みは何だったのかと思うほど何も感じなかった。
ベッドから足を下ろしてゆっくりと床に立ってみるが、驚くほど軽い。体重が一切掛かっていないような錯覚を覚える。骨が砕けているとは思えない。
「凄い……」
「強力な痛み止めを投与したと考えればいい。加えて保護の役割もあるため、多少の衝撃では傷は開かない。だが完治したわけではないからな、更に潰されればお前の脚も切り捨てる羽目になるだろう」
幾ら獣が丈夫とは言え、修復できないほど潰されれば捨てるしかない。四肢を失っても再生が可能な獣はいるが、全ての獣が再生できるわけではない。
「試しに触れてみるといい」
指先で軽く脚を突いてみるが、触れた感覚はあるのに痛覚が無い。自分の脚なのに自分の物ではないような、不思議な感覚だった。
ベッドの周囲を歩いて全く痛みが無いことに感動する。感情が顔に駄々漏れの獏を見ながら、白花苧環ははっとした。
「オレもこの印を使えますか?」
半分獣ならば難しい印が使えるかもしれない。白花苧環はそれを覚えていた。
狴犴は沈黙するが、攻撃に使用する印ではないなら無茶はしないだろう。
「これは通常の印を私が改造したものだ。他人が使用するように構築していないが……使えないことはないだろう」
「他人が使用するよう構築していないと何が違うんですか?」
「私が扱い易いように構築しているんだ。他人も扱い易いとは限らない」
「ではオレが扱い易いように構築し直すことは可能ですか?」
「可能だが、構築し直すと改めて使用実験を重ねて不具合が無いか調べる必要がある。実際に人体に使用できるまで時間が掛かってしまう。完成された印を覚える方が早い。それでも一朝一夕で覚えられるものではないが」
「そうなんですね……少し印のことがわかった気がします。ありがとうございます」
「いや……構わない」
狴犴は杖を仕舞い、余所余所しく顔を逸らした。白花苧環とは今まで壁を作ってきたため、仕事以外でこんなに話すことはなかった。以前の白花苧環は狴犴のことを腫物のように避ける面があった。それが死んで生まれ変わり記憶が抜け落ちた今、純粋な白花苧環は臆することなく澄んだ目で狴犴に話し掛ける。狴犴にとってそれは慣れないことで、同時に胸の内が少し嬉しく感じるものだった。彼を殺したのが自分でなければ、もっと素直に喜べたのかもしれない。
その前で獏は黒猫に見上げられながらぴょんぴょんと跳ねて脚の感覚を確かめ、これなら平素のように動けそうだと確信する。
その獏の姿を灰色海月は不安そうに見ていたが、狴犴の命令に口を出すことはできない。半獣の白花苧環でさえあんなに渋られたのだ、只の変転人でしかない灰色海月が行かせてもらえるはずがない。
灰色海月はただ待つことしかできない。それはとても歯痒いことだった。




