107-報告
薄暗い宵色の空に並ぶ赤い酸漿提灯が大通りの石段を照らす。その中腹にある病院の待合室の椅子で、少女の姿をしたラクタヴィージャの本体はぐったりと寝そべっていた。ベッドは幾らでも病室に余っているが、医者であり患者ではない以上そこに横にはならない。
待合室の向かいに位置する受付では姫女苑が時折顔を上げて様子を窺う。ここまで疲弊を露わにする彼女を見るのは初めてだった。
ラクタヴィージャの後ろの椅子には黒色蟹もぐったりとしているが、こちらは獣の前だからか寝転がらずに座っている。
窮奇の治療を終え病室に運んでから、二人は待合室でずっとこの体勢だ。手術室の中で何があったのか姫女苑は詳細を聞いていない。聞く状態ではないからだ。ただ脳の疲労が凄まじい、とだけ聞いた。二人のために茶を淹れ、人間の街で世界一甘いと言われているらしい穴の無いドーナツ――グラブジャムンを置いたが、飲食する体力すら捻出が難しいようだ。甘い物が大好きなラクタヴィージャが手を出さないので、姫女苑は心配だった。
「すみませーん」
事務処理をしていた姫女苑ははっと顔を上げ、声を掛けてきた者を見上げる。青い髪の少年が立っていた。怪我をしているようにも具合が悪そうにも見えない。と言うことは。
「ドアの修理に来てくださった方ですか? すぐに案内します」
破壊された手術室と集中治療室のドアの修理を頼んでいたのだ。いつまでも風通しが良く全開にしておくわけにはいかない。
「え? そんな話聞いてない……」
青髪の少年は困惑しながら、肩に手を遣り、髪の陰から覗く小さな少女をカウンターへ降ろした。小さな少女はぴょこんと手から飛び降り、両手を腰に当てて踏ん反り返る。
「ラクタが薬を作ってほしいって言うから、来てあげたの! ラクタは何処?」
「あ……では貴方が花魄様ですね。ラクタヴィージャ様は……その……後ろに……」
「後ろ?」
少年の体から覗き込むように背後の待合室へ振り返り、花魄は唖然とした。
「ラクタ!? 何があったの!? 暴走する患者に遣られた!?」
ラクタヴィージャは仰向けに寝転がったまま弱々しく片手を上げ、ひらひらと力無く振る。
「大丈夫……暫く休めば良くなる。少し疲れただけ……。花魄は薬を作って……」
「薬は勿論作るけど……じゃあその間、浅葱に書いてもらった報告書とブツでも見ててよ!」
「この疲れ切った姿を見てすぐに報告書なんて……よく言えるわ……」
声を届かせるためにカウンターから大声で叫んだ花魄は少々肩で息をし、浅葱斑に向き直る。
「それじゃあ頼んだわよ、浅葱。私の助手!」
「はーい」
助手と言われたのは初めてだったが、一時的なものだろう。
小さな花魄は姫女苑の袖に掴まり奥の部屋へ、浅葱斑は折り畳んだ報告書と布に包まれた小さな物を持ち、横になるラクタヴィージャの隣へ腰掛けた。見た所すぐに起き上がれるようには見えないが、机に報告書を置く。
「確認だけでもできますか?」
「……見るだけなら……」
首を動かし、ラクタヴィージャは浅葱斑を視界に入れる。髪は青いが彼は無色の変転人であり、滅多に宵街の中で見掛けることのない灰所属の浅葱斑だとラクタヴィージャは知っている。薬を処方したことがあるのだ。
浅葱斑は包んだ布を丁寧に解き、中身がよく見えるように差し出す。それは千切れた一本の手指だった。
「これでいいんだよな? 死んだ苧環の指……」
複雑な気持ちで見下ろし、浅葱斑は報告書の横にそれも置く。白花苧環の死体は全て無くなったが、先に饕餮に噛み千切られていた指だけは残っていた。獏がそれを拾い、古物店の一階、奥の机の引出しに仕舞っていたのだ。勝手に持ち出すのは躊躇ったが、罪人と医者なら医者に従うべきだ。医者に持って来いと頼まれれば断れない。
「ああ……助かるわ。苧環のことはちゃんと調べないといけないからね。今の苧環を軽く検査してみたら何と半獣でね、今は少しでも情報を集めたい」
「え? 半獣……!? それってどういう……」
初めてそれを聞いた者は皆同じように驚愕する。浅葱斑も例外ではなかった。
「言葉の意味そのまま、半分獣の変転人よ。苧環が発芽した時の様子はどうだった?」
「それは報告書に……」
「それは後で読む」
口頭の説明を求めていると察した浅葱斑は愛想笑いをした。文章を読む体力が無いようだ。
「発芽の瞬間は見てませんが、芽の数は数十本。成長が非常に早く、開花時期も本来の花期じゃないです。成長と共に死体は朽ちていって、花が咲いた頃にはもう殆ど服しか残ってなかった。骨もすぐに砂みたいに崩れて、採取はできなかった」
「……ふむ」
「これまでの情報を考慮した花魄の推測では、苧環に人の姿を与える時に狴犴が体の修復のために通常より多く生命力を注いだこと、それから瀕死の苧環に獏が生命力を分けたこと、この二つが苧環の体の中でいつまでも消化せず死後に遺す種に影響を与えたと見てます。具体的には、体内に残る獣の力を受け止めきれずに種が分裂。獣の力は過剰な養分となり成長促進。開花まで至ったと」
「……うん。自然な変異じゃなく、種の時点で特殊な状態になってたってことよね。獣の力を吸った花に、更に獣が生命力を与えて人の姿にしたことで半獣となった……が正しそうね」
獣の力を吸った種はまるで獣の卵のような物だったのだろう。獣は通常、自身の生命力を他人に注ぎたがらない。人ではない生物を人にするために使用する生命力は微量であり、それ以上は必要ない。なのでちょっとした遊びに力を使う程度の感覚で獣は変転人を作る。それ以上に力を――こんなに多くの力を注ぐなど、不注意でも有り得ない。まさか度が過ぎるとこんな特異な個体が出来上がってしまうとは。
「死ぬ前と顔が瓜二つで、残ってる記憶も何だか多そうだし、この指を調べてどの程度、現在と遺伝子の配列が一致してるか見てみようと思ったのよ。今すぐは無理だけど」
「大丈夫なんですか? 後ろにいる人も……」
ぐったりとしている黒い青年に浅葱斑はちらりと目を遣り、視線を上げた彼と目が合い慌てて逸らす。宵街にあまり留まらない浅葱斑でも彼のことは知っている。無色の変転人の中で最年長と言われる黒色蟹だ。会話をしたことはないが。
「ああ……ちょっとね。ちょっと……菌糸で脳を遣られてね」
「それは大丈夫じゃなさそうに聞こえるけど……」
「はは。医者が心配されるなんてね」
軽快に笑い飛ばそうとするが、腹に力を入れる体力も無くすぐに萎んでしまった。獣がここまで疲弊するのだから余程のことがあったのだろう。そっとしておくことにした。
「あっ……」
病院の出入口から小さく漏れた声に浅葱斑は振り向き、目を丸くした。病院に入って来た三人の内二人は口々に話し出し、何を言っているのか聞き取れなかった。
「わあ、久し振り!? 何言ってるか全然わからないけど!」
同時に口を開いてしまった三人の内の二人――灰色海月と黒葉菫は互いに目を向ける。黒葉菫は半歩下がって灰色海月に発言を譲った。
「……あの、無事で良かったです」
「そ、その節は……ボクの所為でとんだ迷惑を……」
浅葱斑は歯に何かが挟まっているようにもごもごと目を逸らす。狴犴の印で操られていたからと言っても、白花苧環の死体を拉致してしまったことに変わりはない。気不味い。
「今はこうして無事でマキも生まれ変わったんだから、そんなに思い詰めなくても」
「そうです。結果的に良い方へ行きました」
「うぅ……スミレ! クラゲ! ありがとぉ!」
死体だった頃の記憶は白花苧環には当然無いので彼は一歩引いた所で不思議そうにする。死体が花魄に操られていた時の記憶は彼には無い。何の話か見当も付かないので、話が終わるのを大人しく待った。
「そう言えば三人は何でここに? クラゲまであの街を出るなんて珍しいな。もしかして獏も後ろに?」
きょろきょろとする浅葱斑はまだ誰が入院しているのか把握していない。
「報告も兼ねて獏の御見舞いに来ました」
「御見舞い?」
暫しきょとんとするが、すぐにはっとした。
「……えっ、獏がここに!? 花畑に来た時は元気だったのに……。何があったか気になるしボクも行こうかな……御見舞い。迷惑掛けたし……」
横になるラクタヴィージャに、浅葱斑は心配そうな顔を向ける。罪人ではあるが獏も慕われているようだ。報告の途中だったが、ある程度は聞けたので後は報告書を読めば良いと彼女も理解を示した。
「監視役のクラゲがいるなら問題ないか……。私の分身体がちょっと悪戯をしたみたいでね、今は獏は狴犴と同室になってるの。私が今こんな感じだから分身体の判断力も鈍ってね……。だから煽ったり喧嘩させないでね」
「同室なんですか? 既に一悶着起こってそうです……」
灰色海月の懸念はその場の全員が思うことだった。選りに選って何故その二人をと思ってしまう。一刻も早く様子を見に行った方が良いだろう。
「獏にも謝っておかないとね……」
狴犴と同室だと聞いた途端に変転人達の顔が一斉に曇ったので獏に同情しているのだろうとラクタヴィージャは解釈したのだが、どうも違うように見えた。白花苧環以外のそれぞれが目を伏せて俯いている。どうやら皆、狴犴とは顔を合わせたくないらしい。
「皆、そんなに狴犴のことが苦手?」
「……」
誰か口を開かないかと口を閉じたまま様子を窺い合うので、ラクタヴィージャはつい笑ってしまった。
「威厳があるのは統治者としては良いと思うんだけど。黒や灰には特に取っ付き難いみたいね。白なら、少しは取っ付き易いと思うけど……」
だが白である白花苧環は生まれたばかりだ。狴犴がどんな獣なのかまだ理解していない。
「オレですか? すみません、よくわからないです」
「いいのよ。苧環は生まれたばかりなんだから。どうも獣は白と相性が悪いみたいでね、」
白が『ハズレ』と呼ばれていることに関しては黙っておく。白にとってあまり気分の良い言葉ではない。
「狴犴は白の世話を買って出てるのよ。罪人を裁く科刑所と相性が良いこともあるけど、狴犴は白を守ってるの。他の獣から嫌な思いをさせられないようにね。だから白には結構慕われてるのよ。それに白に限らず変転人には優しいはず。危険な薬の効果ももう抜けてるし、そんなに怖がらなくてもいいわよ」
地下牢で黒葉菫を襲い、獏の牢に現れた白花曼珠沙華は、狴犴に『様』を付けて呼んで慕っていた。それが何よりの証拠なのかもしれない。白は獣に煙たがられ孤立している。その面倒を見ていたのが狴犴なら、慕う気持ちも理解できる。白は他の色と交流しないため、そんな話を聞く機会は黒にも灰にも無かった。
「あまりに皆の表情が沈むものだから言ったけど、この話は狴犴には内緒よ。狴犴自身はあまり慕われたくないみたいだから」
医者であるラクタヴィージャは、過去に変転人が狴犴を庇って死んだことも把握している。その所為で狴犴は他人と距離を取ろうとする。彼が倒れた原因の一つにそういう心労も含まれるだろう。
「オレは怖がってません」
「フフ……若いっていいわね」
含みのある言い方をされ白花苧環は理由を尋ねたかったが、何を言っても『若い』と言われそうな気がして開こうとした口を閉じる。灰色海月と黒葉菫と浅葱斑が何も口を挟まないので、早く獏の病室へ行くことにした。
笑うラクタヴィージャに獏の居場所を聞き、四人が足を動かそうとした瞬間だった。
「――いっ」
小さな呻き声が黒葉菫から上がり、灰色海月と浅葱斑は振り向く。彼の頭に傾いたドアが落ちていた。その後ろにいたはずの白花苧環はしっかり避けている。
ドアはすぐに持ち上げられ、出入口に白い青年が立っていた。長い前髪で目元が隠れて何処を見ているのかわからない。どうやら大きなドアを抱えて前が見えなかったらしい。
青年は眠そうな顔をしながら頭を下げ、道を空ける三人には一言も発さずに受付へとドアを運んだ。それを黒葉菫達も無言で目で追う。
「今度こそドアの修理の方ですね。案内します」
白い青年は姫女苑に頭を下げ、廊下に出る彼女を待つ。姫女苑に招かれ、白い青年は無言のまま奥の手術室へと重いドアを運んだ。
白に遭遇する機会はあまり無いため、その白い青年も見たことのない顔だった。黒葉菫は頭を摩り、瘤はできていないと安心する。
白花苧環も同じ白が気になるのか廊下の奥へ姿を消す青年を最後まで見詰めていた。
それを観察していたラクタヴィージャはグラブジャムンを少し齧り、強烈な甘さで喋る気力を回復する。
「苧環には悪いけど、変転人の中に返してあげられるのはもう少し先になるわね。もう少し検査をしないと」
「……はい」
白ではない灰の灰色海月と浅葱斑、黒の黒葉菫は掛ける言葉が見つからなかったが、色は違えど同じ変転人であることには変わりない。白花苧環が半分獣であっても、半分は変転人だ。半分は同じなのだ。距離を感じることはない。
「検査はいつ頃終わりますか?」
「それは難しい質問ね……。菌糸とやらの洗脳状態が解けたとは言え、意に反する命令に従わされて脳の疲労が凄まじいのよ。私のこの有様は何度も説明する体力が無いから、他の誰かに聞いて。治療室にいる贔屓とか。暫く休まないと本当にもう無理……分身体を出す余裕も無い……」
分身体を出したまま洗脳を受けていたラクタヴィージャは余計に負荷が大きかったのだが、その説明もする気力が無かった。負荷の所為で分身体の思考が乱れ、獏に悪戯をしてしまった。せめてそれだけでも獏に謝りに行きたかったが、足を動かす体力が無い。ぐったりと頭を下げ、ラクタヴィージャは死んだように目を閉じた。
贔屓に話を聞くより獏の様子の方が気になる灰色海月は黒葉菫の袖を抓み、彼もそれを汲み取る。ここまで来た当初の目的は獏に報告することだ。それを優先する。
白い階段を上がって最上階の目的の病室の前に立ち、代表して黒葉菫がドアを叩いた。だが中からは声も物音も聞こえなかった。
「……寝てるのかもな。どうする?」
「獏だけなら開ける所ですが……勝手に入っていいんでしょうか……」
「隙間から見てみる? 指一本くらいの隙間ならバレないはず」
「じゃあアサギが」
「えっ、スミレが遣ると思ったから提案したのに!」
責任を負わなくても良いなら口を出すが、負うとなれば弱腰になる。背後の壁まで慌てて下がり、浅葱斑はあわあわと動揺した。
「オレが開けましょうか? 何度も開けてるので」
「苧環ぃ! 優しさが翅に染みる……」
意味はわからなかったが、白花苧環はもう一度軽くノックし返事が無いことを確認してドアを開けた。
ベッドを囲うカーテンは所々閉められていたが、手前のカーテンを覗くと動物面を付けていない獏が長い睫毛を下ろして眠っていた。起こすのが憚られるほど穏やかな寝顔で、寝息を立てていなければまるで作り物の人形のようだった。
「……苧環か?」
「はい」
カーテンに仕切られた隣のベッドから声を掛けられ、白花苧環はすぐに返事をした。狴犴はどうやら起きているらしい。
白花苧環が隣のベッドへ行くので、三人も挨拶をしておいた方が良いだろうと顔を見合わせながら恐る恐る後に続いた。
狴犴は後ろの三人に目を遣り、ゆっくりと身を起こす。統治者が弱って横になっている姿は見せるべきではない。
灰色海月も頭を下げ、浅葱斑は黒葉菫の後ろに隠れた。
「……浅葱斑もいるのか。お前には悪いことをした。改めて謝罪しよう」
「ボクはここにはいないです……」
「話し掛けるなと言うのか? 拒絶も仕方無し……」
浅葱斑は狴犴に印で操られていた時のことを朧気にしか覚えていないが、気分は最悪だった。見えない糸に無理矢理操られ、今も狴犴に近付くことは恐怖なのだ。灰色海月と黒葉菫、そして白花苧環がいるから付いて来ただけだ。獏の見舞いでなければ廊下で待っている所だった。
「何か詫びができればいいんだが。何かあれば言ってほしい」
「…………」
狴犴が薬の所為で思考力が鈍っていたことを浅葱斑はまだ知らないが、話した所ですぐに拒絶は消えないだろう。それだけ根深く突き刺さり、浅葱斑は怯えていた。
「獏の見舞いに来たんですが、出直した方がいいですか?」
白花苧環は感情がまだ理解できないとは言え、浅葱斑が会話を拒絶していることはわかった。酷く怯えた顔をしている理由は推察できなかったが、狴犴と顔を合わせたくないのだ。先程ラクタヴィージャも取っ付き難いと言っていた。
「獏は暫く起きないだろう」
狴犴は灰色海月を一瞥し、彼女は緊張で硬直してしまう。神隠しの街の時間停止が解けていたことは既に黒葉菫が狴犴にも話しているが、椒図が街を再び閉じてからも大分時間が経っている。檮杌に接触した時も獏に同行していたのは白花苧環だ。監視役が監視をせずに何をしているのかと責められるだろう。
「……今は想定外のことが多い。方々で問題が起こっている。情報共有はしておけ」
だが狴犴は責める言葉を出さなかった。狴犴が彼女を一瞥したのは、人間に刺されたと獏から聞いていたため様子を窺っただけだ。見た限りでは問題無く歩行もできている。顔には出さないが狴犴は安堵した。その心中を灰色海月は知る由も無い。
「はい……」
「今は鵺には、獏の噂の件で人間の街で調査を行ってもらっている。それとは別に渾沌と檮杌の件で、手を借りたい時があればお前達にも動いてもらうことになる。……浅葱斑は休んでいて構わない」
怪我が癒えたにも拘らず病院でラクタヴィージャに捕まっていた鵺は派遣するのに丁度良かった。仕事を頼まれた鵺は、狴犴の言うことを聞くのは癪だが放っておくわけにはいかない事案に嫌々ながらも従った。
「檮杌は贔屓の骨を折った。変転人が攻撃を受ければ一溜りも無い。人間の街へ行く際は常に警戒を怠るな」
淡々と紡がれた言葉の意味することは、その危険な地へ行く命令を下される可能性があると言うことだった。灰色海月と黒葉菫は唾も呑めないほど強張り、小さく頷くだけで精一杯だった。危険な場所へ派遣されるのは無色にとっては珍しいことではない。それを断る権利は変転人には無い。
「待ってください。その前に獏に報告があるんです」
庇うような形になってしまったが、白花苧環はただ忘れてはいけない報告を伝えたいだけだった。それだけでも、強張った空気を裂いて狴犴の言葉を遮ることができる変転人は彼だけだろう。
「急を要する報告か?」
「獏の牢に潜む悪夢のことです。スミレとクラゲの傘も悪夢に蝕まれ使えなくなってます」
「それは急いだ方がいいな」
狴犴は点滴台を退かし、徐ろに立ち上がった。変転人に弱々しい姿は見せまいと毅然と隣のベッドへ向かう。
「使えない傘を獏の枕元へ置け」
「は、はい」
二人はそれぞれ手に提げていた傘を持ち上げ、黒い筋が這うそれをベッドに置いた。狴犴も珍しい物を見るように凝視し、手に短い杖を召喚して翳す。
「悪夢が近くに在れば獏も起きるだろう。一時的に烙印を封じ、悪夢を処理してもらう。……封じずとも痛みはもう然程感じないだろうが」
贔屓が烙印を半解除して、夢を食べないようにと施した制限も殆ど解けている。それでも多少の痛みは喉を刺すだろう。悪夢を処理できるのは獏のみであり、変転人が傘を使用できないとなれば烙印を封じるしかない。変転人の傘は生命線のような物なのだ。
「んん……」
目論見通り獏は小さく身動ぎ、すぐに薄らと目を開けた。暫くは目を覚まさないほどの深い眠りだったのに。獏の感知力は強力なようだ。
「起きたか」
「……げ。目が覚めて最初に見る顔が狴犴なんて、最悪な起床……」
「傘に絡んでいる物はわかるか?」
隠しもせず眉を寄せて嫌な顔をする獏を気に留めず、狴犴は眉一つ動かさずに要件だけを述べた。
「傘? ……ああ……何これ? 悪夢が変なことを……って、クラゲさんにスミレさん? 皆揃って……」
「傘が開かないそうだ。お前なら処理できるだろう? 一時的に烙印を封じてやった」
「……あれだけ苦労したのにあっさりと烙印を……まあ僕にしか処理できないからね。これを食べれば回復も進むはず」
体を起こそうとし、潰れた脚に響いて獏は眉を顰めた。灰色海月と黒葉菫は慌てて体を支える。
「それじゃあ、戴きます」
灰色の傘に絡み付いた目立つ黒い筋に顔を寄せ、端から剥がして食べていく。触れられない悪夢を齧る獏の姿は奇妙でしかなかったが、食事の瞬間を初めて見た狴犴は獏から上がった報告書の内容を思い出し頭の中で反芻する。見られながら食べることを嫌がり途中から獏は顔を背けたが、その表情から美味な物なのだということは伝わってきた。
二本の傘から悪夢を全て剥ぎ取ると、傘は再び正常に開くことができた。灰色海月と黒葉菫は傘を受け取り、壊れている所がないか確認する。悪夢は巻き付いていただけで、傘を壊したわけではないようだ。
「――それで、その悪夢はどうしたの?」
誰が説明すべきかと沈黙が流れたが、様子を窺いつつ黒葉菫が口を開いた。この中では悪夢に対峙した経験が最も多いのは彼だ。
「街でマキが子供を見たと言ったので、クラゲと俺の三人で捜したんです。迷子の人間だと思ったので……。それが人型の悪夢で、喋ってました。子供の形をした悪夢が何体も出て来ました」
「喋る悪夢……」
獏も眉を寄せ険しい表情になる。
「その内の一体が血のような涙を流しながら、獏に会いたいと言ってました」
「僕に? 悪夢なんて獏に食べられるだけなのに」
「俺とクラゲには他の悪夢と同じように顔の無い真っ黒な姿に見えたんですが、マキだけが何故か違う風に見えたみたいです」
黒葉菫は白花苧環に目を遣り、説明役を代わる。
「その悪夢には顔がありました。ただ……それは右目でしか見えなくて、左目は同じように黒く見えました。黒い着物を着て黒髪で、赤いリボンを結んでいて、それから……金色の目でした」
「!」
白花苧環の右目は今は金色で、それは獏の双眸に似ている。その右目はもしかしたら獏の力を取り込んでいるのかもしれない。それに驚くと共に、白花苧環の語った悪夢の容姿に愕然とした。
「先代の……獏……」
「先代……? 体が欲しいと言ってたのは、貴方の体のことなんですか? オレの体でもいいと言ってましたが……」
白花苧環は首を傾げ、他の変転人も怪訝そうにする。狴犴だけはその異常に警戒を抱いた。
「あの街の端には先代の影がいて、悪夢が暴れないよう繋ぎ止めてくれてたらしいんだけど……もうすぐ消えるって言ってたんだよね。消える……つまり繋ぎ止める力を失うことだと思ってるんだけど、失った結果、悪夢に弄ばれてるみたいだね。体を求められても、渡せないけど。勿論君も、体を差し出さなくていい」
「一つ確認なんですが、オレの首はありますか?」
「えっ。変なこと訊かないでよ……嫌なことを思い出す……。ちゃんと首はあるよ。視覚も聴覚もあるでしょ?」
「そうですよね……。悪夢に首が無いと言われたので、もしかしたら無いのかと……」
「混乱させる狙いがあったのかもしれないし、悪夢の言うことは聞かない方がいいよ。……狙いなんて知能があっても嫌だけど」
獏は軽く頭を振り、眉を顰めながら溜息を吐く。本当にあの街の悪夢は異質だ。
「もしかしたら、マキさんの死体を見てたのかもしれないね……」
「…………」
「……ごめん。あんまり君の前で言うことじゃないよね。街に様子は見に行きたいけど、今は誰かに担いでもらわないと行けなさそう」
「担ぐならオレでもできますが」
「急がなくてもいいんじゃないかな。皆ここにいるんだし、街にはもう誰もいないんでしょ?」
確認するために白花苧環は黒葉菫に目を向け、黒い彼ははっとした顔をした。
街にいる時に黒葉菫から三人の他には誰もいないと聞いていた白花苧環は彼の表情の意味が理解できず、無言で見詰めるしかできなかった。
「人はいませんが、猫が……」
「……ふふ。スミレさんは本当にあの子達を可愛がってくれてるね」
「行ってもいいですか……?」
「マキさんの行動の早さが移ったかな? でも許可はできないね。また傘が開かなくなったらどうするの?」
「それは……」
「オレも行きます。傘に絡む悪夢は千切れるので」
困惑する黒葉菫に白花苧環はすぐに助け船を出すが、獏は言葉の意味を呑み込めず首を傾けた。
「あの街の悪夢は無色の毒に反応すると聞きました。オレの傘に絡んだ悪夢は千切ることができました」
「ああ……それで傘は二人分だったのか……。幾ら毒に反応すると言っても千切れるなんて、マキさんだけ悪夢の顔が見えた所からして、少しなら悪夢に触れることができる……のかな? 僕の力を少し吸い取ったみたいだね」
複雑な気持ちになりながら獏は眉を顰めつつ微笑む。ちらりと狴犴を一瞥すると、疲れた顔をしていた。それは疲労のためではなく、獏の言葉に頭が痛くなったのだろう。変転人が獣の力を吸い取るなど意味がわからない。
だが獏の力を吸い取ったのなら、先代らしき悪夢の欲する体が獏ではなく白花苧環でも良いと言ったことにも合点が行く。
「行ってもいいですか?」
「ん……しょうがないなぁ。心配だけど、スミレさんの気持ちも蹴りたくないし、あの子達を連れて戻るだけだったらいいよ。行きはスミレさんの傘で転送して。帰りはマキさんの傘ですぐに折り返せるように。猫を見つける前に悪夢に遭遇したら、迷わずすぐに離脱すること。いいね?」
「わかりました」
結局白花苧環までまたあの街に行くことになってしまった。黒葉菫は複雑な心境だ。
「マキもか……」
「おや、珍しい嫌そうな顔」
「いえ、その……マキに頼む時は張り切り過ぎないよう言ってもらってもいいですか?」
「ん? そんなことを言われちゃうってことは、何かしたんだね。マキさんにはスミレさんに報告を頼んだだけだったんだけど」
「…………」
言われてみれば、あの街に予防線として残ると言ったことに対して、獏に頼まれたとは彼は言っていなかった。どうやら独断だったらしい。黒葉菫は彼を読み取ることができなかったことが悔しかった。
「マキさん。スミレさんは経験豊富だから、話を聞いて損は無いよ。焦らないでね」
「焦ってるわけではないですが……。話も聞いてます」
「速断はもう少し経験を積んでからね」
「…………」
やや納得が行かない様子だが、白花苧環はゆっくりと頷いた。渋々だ。
彼が早まらないよう釘を刺すことは狴犴も賛成なので、余計な口は挟まず見守る。
二人は頭を下げて病室を出て行こうとし、黒葉菫はふと立ち止まった。まだ訊いておきたいことがあったことを思い出す。
「……もう一ついいですか?」
「うん。いいよ」
「宵街のような、宵街より暗い場所は何処かわかりますか?」
「……なぞなぞ?」
「廃墟のような場所なんですが……」
獏は首を傾げ、答えてあげられない質問だと残念そうに眉尻を下げた。
「ごめんね……。宵街のことはあんまりわからなくて」
「いえ。俺もそこそこ宵街にいますが、見覚えが無かったので」
「……黒葉菫と言ったか。そこにはどのように行った?」
代わりに狴犴が質問を返した。変な藪を突いてしまったのかと途端に黒葉菫に緊張が走る。このまま話を続けて良いのかと考えるが、言い出したことを急に止めるのも変だ。
獏を一瞥し、特に警戒していないことから黒葉菫は話すことにした。
「獏の牢から宵街へ離脱する時、悪夢の邪魔が入りました。おそらくその所為で座標が狂ったのかと……」
「転送したのは苧環だな。そこで何かあったか?」
「何か……と言うと、誰かがいました。薄赤い目が見えました。それ以外は暗くて見えませんでしたが、他に人影はありませんでした」
「人がいるのか……」
狴犴は杖に視線を落として黙考する。
「知ってる場所なの?」
黙られては気になってしまう。獏は様子を窺うように覗き込みながら尋ねた。
「黒葉菫の言う場所は、裏通りではないだろうか」
「裏通り?」
「現在は区別するために獣と変転人が暮らす辺りは表通りとしている。昔は科刑所の向こうに下りの石段があった。今は大きな亀裂が入り安全のために石壁を築き、向こう側は闇に沈んで見えないが。昔は表も裏も纏めて宵街と括っていたが、今は表通りのみを宵街と呼ぶ。裏通りは廃れ、もう誰も棲んでいない。……はずだが」
「あっ……蒲牢が前に言ってた……」
死体の白花苧環が自ら透明な街に戻って来た時、蒲牢からそんな言葉を聞いた。今は壁が築かれ裏通りには行けず、洋種山牛蒡が言うには変転人の間では壁の向こうはあの世だと噂になっているらしい。
「つまり宵街は今の倍の大きさがあったってこと?」
「正確に倍とは言い切れないが。表や裏などと言ったが、昔を知る獣は闇に落ちた半分を『影』と言うそうだ。宵街を月のように例えると、光の当たらないより暗い裏通りは影と呼ぶに相応しい」
「影は初耳」
「影ができたのは蒲牢が宵街を去った後だからな。宵街に棲んでいないと知る機会が無いだろう」
「その誰もいないはずの場所に誰かいたってことは、暗くても棲んでる人がいるってことじゃないの?」
「人のいなくなった街や家は朽ちていくだけだ。棲める状態を保っているとは思えない。加えて今は立ち入りを禁じているため、そもそも転送先に指定することも不可能だ」
「ふぅん……でも一度起こったなら二度も三度もあるかもね。まるであの街に迷い込む人間の迷子のよう」
正確にはあれは街の悪夢が神隠しを続行していたためなのだが、迷子と表現することも間違いではない。
「その報告は気に留めておこう。転送が可能な穴が無いか調べておく」
「仕事する気満々……ラクタに何か言われそ」
獏はあまり『影』には興味が湧かないようだ。変に興味を持たれて掻き回されるよりは良い。狴犴はどう調査すべきか考え始める。
何処へ転送されたのか答えを聞くことができた黒葉菫は、すっきりとした気持ちで黒猫達を迎えに行ける。まだ宵街をあまり知らない白花苧環と灰色海月には『影』は少々難解な話で理解するのは時間が掛かりそうだったが、立ち入り禁止の場所だということは頭に入れておく。
黒葉菫は白花苧環に声を掛け、もう一度獏達に頭を下げて病室を後にした。
隠れ場を失った浅葱斑は灰色海月の後ろへと移動する。狴犴は思考を中断し浅葱斑を一瞥するが、嫌われるのは慣れていると言わんばかりに気に留めない。先にこちらを処理しなければと獏の首に杖を当てる。
「……何?」
「もう悪夢の処理は終わっただろう? 烙印を元に戻す」
「えっ!? ずっと封じてくれるんじゃないの……?」
「罪人が何を戯けたことを」
「……あっ! 実はまだ悪夢が喉を通ってなくてね!」
「嘘を吐くならその包帯の脚を締め上げる」
「っ……!?」
言うや否や狴犴は獏の潰れた脚に手を置いた。軽く握っただけで激痛が走り、獏は声が漏れるのは耐えたが瞳は微かに濡れた。
その隙に狴犴は封じていた烙印を素早く元に戻して手を離した。軽く触れただけでこの様では、獏の傷が癒えるにはまだ時間が掛かるだろう。悪夢を食べたことでこれから多少は回復が早まるはずだが。
「……大丈夫ですか?」
「知能のある生物の遣ることじゃない……」
「残虐に人間を殺しておいてよく言えるな。勘違いしているようだが、私がお前の質問に答えたからと言って罪を赦したわけでも心を開いたわけでもない。お前が罪人であることは変わらない。せめて自分の口から己の罪を自白してから勘違いするんだな」
杖を仕舞い、狴犴は自分のベッドへ踵を返した。最早健康な獣と何ら変わらないほど回復している足取りだった。
獏は双眸を揺るがせながら狴犴の背中に舌を出し、包帯の脚を静かに摩った。治りが遅くなったら狴犴の所為だ。
カーテンの向こうへ姿が見えなくなったことで浅葱斑も漸く安心して灰色海月の後ろから顔を出した。
「花畑では距離があったけど、今は怒られたり殴られたりすると思った……」
「そんなことされたら僕が殴り返してあげるよ」
「あはは……。花魄が言うには、ボクが操られてる時に苧環の体を捌く命令をされたらしくて、それにも拘らず逆らったみたいなんだけど……全然覚えてないや。命令無視なんて絶対何か言われると思いました」
「印に逆らったの? それは凄いね」
「それを見たから花魄はボクを保護してくれたみたいです」
「そっか。花魄に感謝しないとね」
浅葱斑が徐々に緊張感を解き獏と談笑するのを少し遠目に見ながら、灰色海月は何を話せば良いのか思い付かないでいた。今までも雑談というものはあまりした記憶がない。願い事の手紙だけが関係を繋いでいたのだと知った。
* * *
治療室のドアを少し開けたまま簡易なベッドに座っていた贔屓は、隙間の向こうにゆっくりと横切る人影を捉えて体の向きを変えた。変わらず全身は痛むが、獣としては軽傷だとラクタヴィージャに笑い飛ばされたので、この痛みは気に掛ける程ではないと割り切る。
ドアを開けると白いガウンの人影もぴたりと立ち止まり、ゆっくりと首を回す。贔屓の顔を見る前に首は止まり、疲れたように項垂れて乱れた赤い髪が顔に掛かった。
「……蜃?」
集中治療室にいるはずの蜃が一人で廊下に出ていた。蜃が樹海で受けた傷はまだ癒えていないが、歩ける程には回復しているようだ。蜃は窮奇を刺し椒図に意識を閉じられたが、金平糖はあまり強力な物ではないらしい。浅い眠りですぐに目を覚まし、ドアが外れたことで勝手に出て来たのだろう。
手術室の方を見ると、扉の取り付けが終わっていない出入口から困ったように姫女苑が顔を出していた。追おうと思ったが危険な動きをした後で近付けなかったのだろう。接近して窮奇のように刺されれば変転人の彼女では命が無い。
贔屓は微笑んで彼女に頷き、蜃のことはこちらで様子を見ると目で伝える。姫女苑は困り顔をしながらも頭を下げ、顔を引っ込めた。ドアの修理で来た白い青年は修理で手が離せないようで姿が見えない。
「蜃、大丈夫か? 具合は……」
脚が小さく震えていることに気付き、立ち話をしている場合ではないと贔屓は蜃を支えながら治療室の長椅子に座らせた。歩けると言ってもその足元はまだ覚束無い。蜃はぼんやりとしており、誰かを傷付けようと杖を出す気配は無い。
「話せるか?」
「…………」
蜃はゆっくりと小さく口を開くが、声は出なかった。
「……少し待っていろ。ラクタに薬水を――貰えるなら貰って来るよ」
ラクタヴィージャもまた待合室でぐったりとしているので、言葉に詰まってしまった。蜃の様子もラクタヴィージャと黒色蟹と似た状態なので、窮奇が話していたという渾沌の菌糸の洗脳による不調の可能性が高い。
当人の意識はそのままに脳を乗っ取られるような不快な感覚と、抗えない強制的な服従でラクタヴィージャと黒色蟹の脳は著しく疲弊した。膝を突かせ声も出せず身動きも取れなくなったが、それ以上は何もさせまいと二人は必死に抗った。もし菌糸に操られるがままだったら、大きな被害が出ていただろう。
抵抗した御陰で衰弱し暫くは何もしたくないそうだ。黒色蟹は直接そんなことは言わないが、ラクタヴィージャと状況は同じなので、彼女は彼に共に休むよう言った。ラクタヴィージャが動けば黒色蟹も動こうとするだろう。だからラクタヴィージャはあまり動かないよう心懸けている。獣より変転人の方が消耗は大きいのだから。
贔屓が待合室へ顔を出すとラクタヴィージャは横になりながら報告書に目を通していたが、贔屓に気付くと顔を上げた。
「軽傷とは言え折れてるんだから、あんまり歩くのは感心しないよ、贔屓」
「すまない。蜃が起きて来たんだが、薬水を出してもらえるか?」
「蜃が? すぐに様子を見に行きたいけど、ちょっと待って……。贔屓から見て蜃の様子はどう?」
「ラクタのように疲れているようだ。言葉を発するのも難しそうだ。攻撃をする気配は無いよ」
「そう……じゃあ、受付の奥に花魄がいるから、白、黄、緑の薬花で作ってもらって。私とレオにも同じ物を……。花魄なら作れるから」
「わかった。御大事に」
「患者に御大事になんて言われる医者って……」
骨折を笑い飛ばした仕返しだとでも言うように贔屓は悪戯っぽく笑い、受付の横のドアを開けた。小さな花魄を見落とさないようにぐるりと見渡し、机上に花の詰まった籠を見つける。時折不自然に花が動き、籠の陰に何かがいることに気付いた。
「花魄、少しいいかい?」
「……わっ、贔屓? 血染薬はまだよ」
「それではなくて、薬水を作ってほしいんだ。ラクタも含めて三人分。白と黄と緑で」
「急ぎ?」
「なるべく」
「仕方ないなー。薬花は何処だっけ……」
棚に蔦を伸ばしそれを伝おうとするので、贔屓は体の小さな彼女を手伝うことにした。棚の扉一つ開けるにも力が必要だと時間が掛かってしまう。
以前花畑に行った時に花魄から薬花のことを教えてもらった贔屓は、棚に保管してある乾燥させた花から目当ての物をすぐに見つけられた。
彼女達が薬花と呼ぶのは宵街で育てられている薬水に使用する花の総称であり、それぞれは別種の植物だ。白は吸収、浸透率を上げる役割で、黄は総合的な治癒、青は精神的な鎮静、緑は疲労軽減、赤は保温――ざっとこんな効果らしい。生花でも乾燥させても効果は変わらないが、長期保存するために病院では花を乾燥させている。生薬の一種だが薬と言うほど強力ではなく、ハーブティーよりは効能が高いと言う。
花魄は大きなビーカーに水を入れ、指定された色の花の蜜を混ぜる。薬水の効果の半分はこの蜜のものであり、後に混ぜる花弁は何を混ぜたか視覚的にわかり易くするためでもある。花は少々苦いが、蜜を混ぜているため甘く感じるのだ。調合の比率は患者の状態で都度変えるので、経験の無い贔屓では薬水は作れない。
「紫も入れてみる?」
「紫?」
「最近品種改良して薬花に加わった新入りなんだけど、効果は意欲増進、夏バテ解消」
「夏バテではないな……」
「だってラクタの遣る気吹っ飛んじゃってるでしょ? 緑が効かなかったら紫を勧めるわ」
「ではその時は頼もう」
三つの水差しに均等に薬水を注ぐ役は贔屓が引き受け、一仕事終えてぺたりと座り込む花魄に礼を言って薬水を運んだ。
疲れ果てて起き上がらないラクタヴィージャと黒色蟹の前でコップに薬水を注いで置いておく。黒色蟹は何とか体を動かし、頭を下げた。
贔屓が蜃の分を持って治療室に戻ると、蜃は同じように椅子に座っていたが壁に完全に背を預けてぐったりとしていた。
「蜃、薬水を持って来たよ。飲むと落ち着くだろう」
蜃は顔の前に出されたコップをぼんやりと受け取り、少しずつ時間を掛けて飲んだ。喉に何かを通したのは随分と久しい。
「ありがとう……ヒナ……」
「?」
自分の姿を確認するが、贔屓は今獣の姿を取っている。蜃の記憶に混乱が生じているのかもしれない。
「何か食べたいな……メニューは……」
「蜃、ここは宵街の病院だよ。僕のことはヒナでも構わないが……他人の前では贔屓と呼んでもらってもいいかい?」
折角獣の目に付かないよう人間の街に潜んで人間に擬態しているのに、他人に人間の時の名前を聞かれるのは都合が悪い。
蜃は言われて漸く気付いたようではっとしたように贔屓を見上げ、辺りを見回した。
「何で……俺は暗い森にいて……洞穴に…………駄目だ思い出せない」
「今は無理に思い出そうとしなくていい。森から君を助け出してここに連れて来たのは窮奇だ。君は瀕死の重傷を負って今まで眠っていたんだよ」
その時の蜃の状態を思い出し、目覚めるのは早いくらいだと贔屓は思う。ラクタヴィージャの治療の御陰だが、贔屓は知らないが窮奇が与えた生命力の御陰でもある。
「窮奇……」
蜃はぽつりと呟くが、やはり記憶が曖昧だった。
「でかい男が俺を運んで……白い変転人もいた。洞穴で……確か大きな繭があって……それから……天井が崩れて……」
思い出そうとしなくて良いと言われても、一番気になるのは蜃自身だ。何とか断片的な記憶を繋ぎ、何が起こったのか思い出そうとする。
「天井が落ちて……たぶん、大きな岩の隙間に嵌ったから助かった……?」
「大男はおそらく檮杌、白い変転人は白色鉄線蓮と言うらしい」
「檮杌……。そうだ確かにそう言ってた……っ……頭が痛い……思考を乗っ取られたような感覚がして……いつから……?」
「無理に考えなくていい。薬水を飲んで少し横になれば落ち着くよ」
「ありがとう……ヒナ…………じゃない、贔屓……」
贔屓は蜃が横になるのを手伝うが、自身の骨折の痛みが響く。
「……ヒナってどういう意味なんだ……? 鳥の雛……?」
「唐突だな……。記憶の混乱の所為か? 深い意味はないんだが。皆鳥の雛の発音で呼ぶから鳥だと思うのも無理はないな。日光の日に名前の名と書いて日名と読む。苗字だよ。宵街は暗いからな、そこから離れて明るい遠い場所へ行く……そんな所かな」
「ああ……苗字だったのか……ハハ、ちょっと面白い」
「そうか?」
少しでも笑える余裕があるなら蜃はもう大丈夫だろう。残っていた菌糸も断ち切れたようだ。窮奇を刺したことは今はまだ話すべきではないと判断し、それは黙っておく。今はまだ追い討ちをかけるようなことは言いたくない。それに、窮奇がどういう態度を取るのか、それも先に見ておきたい。窮奇は蜃を気に掛けている。彼の気持ちもある。
「薬水の所為か……少し楽になってきた」
「ああ、それは良かった」
「全身が凄く痛いし、何で生きてるのか不思議だが――」
ふと視線を感じ、蜃は首を動かした。その目が一点に固定される。
「……椒図……?」
視線を辿り贔屓も仕切りのカーテンへ目を遣る。眠っていた椒図がカーテンの端を捲って蜃を見ていた。虚ろにぼやけそうな視点を必死に繋ぎ止め、焦点を合わせるように眉を顰めている。
「蜃の……声が、して……」
頭を押さえて座り込んでしまった椒図へ贔屓は慌てて手を差し伸べた。まだ動ける状態ではない。
「椒図、まだ無理をするな」
「誰……」
「?」
「……贔屓……か……?」
「……二人の中では僕の存在は薄いようだな」
「ちが……」
椒図は頭を押さえたまま片手をベッドに突き、ぐるぐると回りそうになる視界の手を引く。
「記憶の奔流が……新しい記憶を呑み込んでいく……膨大な情報が襲って来るような……」
「倒れた時ほど酷くはないようだが、まだ記憶が定着していないようだな。記憶が混ざり合って混乱している」
「蜃は……いつも僕のために何かをしようとしてくれる……。最近だと、脱獄や……宵街に勝手に行って服を……」
「……!」
その言葉の意味が蜃にわからないはずがなかった。反射的に起き上がり、コップが床に落ちる。病院のコップは簡単には割れない素材のため割れることはないが、中身は床に零れた。
「椒図……何で……」
椒図の言ったことは化生する前の出来事だ。脱獄のことは化生後に話したが、宵街に勝手に行ったことは話していない。それらは蜃が椒図に怒られた出来事であり、彼が怒ったのは心配性の彼の優しさでもあった。
混乱に混乱を重ねて困惑する蜃に、贔屓は獏達から聞いたことを話した。
「椒図の力を籠めた金平糖……と言う物を使用したことで、化生前の力に触れ記憶が戻っているそうだ。全ての記憶かはまだわからないが、幾らかは確実に戻っている」
「しょ……」
手を伸ばそうとしたが足に力が入らず、蜃はぺたりと床に座り込んだ。
「思い出した……のか……? 俺のこと……」
椒図は贔屓に支えられながら、ぎこちなく笑みを作った。焦点はまだ何処となく朧気だが、蜃を見ようとしている。
「……ああ。僕の……友達だ」
「っ……」
蜃は唇を引き結び、大きな目がじわりと濡れた。溜め込んでいたものが滴となり、ぼろぼろと溢れた。
「っ――うわあああ! っ……ああ……」
まるで子供のように声を上げて泣き出した蜃に椒図と贔屓は呆然としてしまったが、止めるものではないと微笑んだ。鼻を啜りながら涙を零す蜃に、贔屓は治療室にあったティッシュを差し出す。
押し込めていた感情が一気に流れ出し、止めるものもなく蜃は子供のように泣いた。最後は疲れ果てて頭をふらふらとさせながら床に倒れてしまったが、幸いここにはベッドが幾つもある。贔屓は痛む体に鞭打って蜃を簡易なベッドに寝かせ、椒図にも手を貸した。
悲しいことばかりが続いていたが、その中でこれほど嬉しいことはないだろう。記憶を継がず化生した獣が記憶を取り戻すなど奇跡だ。
「椒図ももう少し眠るといい」
「贔屓……」
「ん?」
「化生前は……僕は贔屓に会ったことがない。だから……会ったことがない記憶と会ったことのある記憶が混ざって、判別できなくなった」
「そうか。整合性が取れるのを待つしかないな」
「蜃は大丈夫なのか……?」
「ああ。少し興奮し過ぎたようだが、暫く眠ればすぐに落ち着く」
「聞きたいことはまだある……が……僕も一眠りしないと持たないみたいだ」
「いいよ。無理はするものじゃない」
二人を寝かせた贔屓は、音を立てないように一度治療室から出た。蜃の泣き声が廊下まで響いていたとしたら、待合室にいるラクタヴィージャ達も驚いたことだろう。
少しばかり説明しておくために、贔屓は痛む体に言い聞かせて待合室へ向かった。




