106-群生
内臓が浮き上がるような転送の感覚にも大分慣れてきた白花苧環は常夜の透明な街へ降り立ち、眼帯に覆われていない方の目で、二度目でもまだ物珍しそうに周囲を見渡す。
誰もいない煉瓦の街に只一つ明かりが灯る古物店はすぐ目の前だ。石畳に白いブーツの踵を鳴らし、ふと動くものを捉えそちらへ顔を向ける。背の低い人影が路地へ入る所だった。
「……?」
この街には古物店の中にしか人がいないと聞いていた白花苧環は怪訝に首を傾げ、人影が入って行った路地へ走った。
だが覗いた細い路地には誰もいなかった。街灯の明かりが届かず先の方は暗くて見えないが、物音も気配も無い。少し足を踏み入れて周囲の建物や横道を覗くが、纏わり付く闇以外何も見つけられなかった。
見間違いではないはずだ。確かにそれは人の形をしていて、歩いていた。身長から察しておそらく子供だ。
それがもし獣か変転人なら、見つからないなら転送で移動したと考えられる。それなら追おうとしても無駄だ。白花苧環は踵を返し、目的の古物店へ向かった。
ドアを開けると背の高い置棚の並ぶ店内から物音が聞こえ、その方向へ向かって歩く。奥の台所の中だ。覗くと灰色海月と黒葉菫が棚から出した物を並べていた。食材の確認をしているようだ。
「……あ。マキさん」
先に白い少年に気付いた灰色海月は声を上げて頭を下げる。白花苧環も頭を下げ、遅れて気付いた黒葉菫も釣られて頭を下げた。
「スミレに頼まれた人間の転送をしてきました。その報告です」
報告は遅れたが、人間の街の由芽を兄の由宇の家へ避難させる目的は達成された。
「俺が受けたことなのに、任せて悪かったな」
「……いえ」
「獏が見当たりませんね。宵街へ行ったんでしょうか?」
一緒に戻って来るとばかり思っていた灰色海月は白花苧環の背後を見渡し、あの動物面が見当たらないことに首を傾げる。
白花苧環は目を逸らしそうになるが、話しておいてほしいと獏にも念を押されたため、話すことにした。由芽を由宇の許へ送る頼みを受けた黒葉菫は後悔するかもしれない。彼が受けなければ起こらなかったことなのだから。
「……獏は宵街の病院にいます。負傷して、治療を受けてます」
「負傷……?」
「何があったんですか?」
二人は動揺を顔に滲ませるが、取り乱しはしなかった。獣が負傷したと言うのに。こういうことにも慣れていくのだろうかと白花苧環は遠く考える。
「オレを庇って、片脚を檮杌に潰されました。命に別状はありませんが……」
「檮杌……!? ……悪い、そんな危険な場所とは思わなかった。行かせてごめん」
「いえ……オレが動けなかったのは経験が無い所為なので……」
普段はゆったりと緩慢な黒葉菫が突然声を大きくしたので白花苧環は面喰らってしまったが、すぐに平静を呼び戻す。
「檮杌に接触して、その後はどうなったんだ? マキは……怪我はないのか?」
「オレが応戦しました。片目は潰したんですが……敵が自ら引かなければ、どうなっていたかわかりません」
「獣相手に一人でそれは充分だ。俺はそこまで遣れない。獏の負傷も片脚だけなんだろ? 善戦だ。マキは無傷なんだよな?」
「……はい。オレは無傷です」
自棄に傷の有無を確認することが白花苧環には理解できなかったが、彼の傷付いた姿を見てきた黒葉菫には重要なことだった。灰色海月も不安そうに話を聞いている。
「あの……獏は……意識はどうですか?」
「意識は正常です。片脚が潰れた以外は……こう言っていいのかわかりませんが、元気ですよ」
「それは良かったです……片脚だけなら治るのも早いはずですよね。獣なので……」
「暫くは病院から出られないと思うので、その間はオレがここにいます。一応半獣なので、何かあった時のための予防線ということで」
「頼もしいです」
「ところで、今この街には二人の他に誰がいるんですか?」
先程店の外で見た子供のことを思い出し、何気無く尋ねる。もう去ったかもしれないが、来客ならこの店に立ち寄っているはずだ。だがその返答は辻褄の合わないものだった。
「今はこの三人だけだ。ヨウ姉さんも宵街に戻ったからな」
「子供はいないんですか? オレが来る前にここにいたとか」
「子供?」
灰色海月と黒葉菫は顔を見合わせ、首を傾げる。
「先程見掛けたんですが」
「え……怖い……」
現在はこの三人以外は誰もいないはずだった。子供なんて来ていない。黒葉菫は以前獏と善行のために行った山で見た動く死体のことを思い出し、この街に幽霊でもいるのかと寒気がした。
灰色海月は幽霊という発想が出ず、他のことを疑う。
「もしかしたら迷子でしょうか? 偶に人間が迷い込むことがあるようです」
「そうなのか……?」
「以前も子供が迷い込んだことがありました。その時は元の場所へ帰したんですが……」
その時のことを思い出し、灰色海月は顔を伏せた。帰した場所で死んでしまったことが脳裏を過ぎる。
「ではオレが見掛けた子供も帰した方がいいですね。人間の子供の足ならそう遠くへは行ってないでしょう。捜してきます」
すぐに踵を返そうとする白花苧環の行動の早さは変わらないようだ。黒葉菫は慌てて白い袖を掴んだ。
「一人は危険だ。それと、この街を歩く時は常夜燈を持たないと。すぐ用意するから」
「すみません。早まりました。ですがオレなら一人でも大丈夫です」
急いで硝子の筒に夜燈石を入れる黒葉菫の手元を訝しげに見ながら、白花苧環は穏やかに言った。普通の人間に近い変転人なら危険かもしれないが、半獣なら一人でも問題ないはずだ。何せ半分は獣なのだから。
そう思っていたが、黒葉菫は白花苧環に常夜燈を渡さなかった。どころか厳しい顔をする。
「半獣だろうと過信するな。ここでは獏以外は皆危険だと思った方がいい。獏以外は悪夢に触れられないんだからな。それに、経験が無くて獏に庇われたお前は、余計に一人で行かせられない」
「…………」
それを言われると白花苧環は何も言えなかった。今最も気にしていることだ。庇われたと言われる度に唇を噛んでしまう。
「……スミレはオレに負けました」
「素手で正面からはな」
抵抗したつもりだったが黒葉菫は軽く去なし、白花苧環は引き摺られるようにして店の外へ連れ出された。
一人になってはいけないなら灰色海月も一人で店に残るわけにはいかない。常夜燈を持ち、彼女も外へ続いた。
「その常夜燈はオレの分じゃないんですか?」
「一人で行かないなら渡す」
「……行かないです」
まるで子供に言い聞かせるようではないかと白花苧環は不満だったが、悪夢が獏にしか触れられないとか、その話もよくわからない。黒葉菫が冗談を言っているわけではないことはわかる。この街には白花苧環が知らない変なものがいるようだ。
黒葉菫はまだ少し渋るが白花苧環に常夜燈を差し出し、自分の分も取り出した。三人分ともなれば仄かな明かりでも明るくなる。
「それで、子供は何処に?」
「向こうです。すぐに見失ってしまったんですが……」
白花苧環に案内され、細い路地に入る。見失ったと言う横道を覗くが、物音一つしない暗い石畳が続くだけでやはり人の気配は無かった。
「人間の子供……なんだよな? 半獣でもすぐに見失うものなのか?」
「…………」
そう言われてしまうと責められているような気がして、未熟だと言いたいのだろうと白花苧環は睫毛を伏せる。今までは普通の変転人だったため、残っている記憶の中に獣の体に関することは無い。獣がどの程度の力を有しているのか一般的なことすら知らない。自分の体の何処が獣なのか全く想像がつかない。人間の子供を見失う獣などいるのだろうか。
「足音は? 音で方向がわからないか?」
「……すみません。わかりません」
「足音が無かったのか? 人間の子供が気配の消し方を知ってるとは思えない……。わからないなら、足音が無かったと思った方がいいな」
自分で言った後に黒葉菫は「足音が無い……? 怖い……」ゆっくりと身震いした。
「あの、あそこ、何かいませんか?」
二人の遣り取りを聞きながら、灰色海月は奥の曲がり角を指差した。暗い海の中を漂っていた海月は花の二人よりも暗所に慣れている。
指を差すと壁に隠れてしまったが、頭を出して覗いているように見えた。三人は急いで角へ走って覗き込む。
「…………」
だがそこには誰もいなかった。
「誰かいた……けど、確かに足音は聞こえなかったな……」
「何処かに隠れたんでしょうか?」
「足音は無くても、ドアが開けば音がしそうだが……」
付近のドアや窓には開いた形跡は無く、次の横道までの距離は遠い。変転人なら走れば横道に届きそうだが、かなりの瞬発力を要する。
「上から見てみます。その程度なら離れてもいいですよね?」
「え? まあ……」
確認を取るようになったのは進歩だろう。許可すると白花苧環は軽く助走を付けて膝を曲げた。一度一階の軒へ足を掛け、二階建ての屋根の上へ二度の跳躍で辿り着く。
今まで半獣と言われても半信半疑だった黒葉菫と灰色海月は、その跳躍力を目の当たりにして初めて白花苧環に獣の力があるのだと認めた。人間は彼の一跳びでさえ敵わない。
そのことに彼自身はまだ気付かないが、真剣な目で屋根の上から路地を見下ろす。音が無いので視覚だけが頼りだ。少しでも動くものを見逃さない。
「……!」
ぴくりと微かに動くものを捉え、それから目を離さず白花苧環は屋根を蹴った。
「向こうにいます。二人は下から追ってください。オレは上から行きます」
「えっ、おい先に……」
確認を取るのは一回だけなのかと問いたい気持ちはあったが、言う前に白花苧環は行ってしまう。夜の中でも目立つ白い姿を目で追い、二人も石畳を蹴った。
白花苧環の足は速く、行動も判断も早い。普通の人間ならすぐに彼を見失ってしまうだろう。だが無色の変転人なら辛うじて追えた。
屋根の上からフッと姿を消した彼を見て足を速める。飛び降りたらしい。あれほど一人で行くなと言ったのに、一人だと認識していないのか白花苧環は一人で突き進む。
少し遅れて追い付き合流したが、白花苧環は一人で周囲を見渡し怪訝そうにしていた。
「……何か見つけたか?」
「見つけましたが……消えました。暗くて上手く見えないのか、オレの目に問題があるのか、子供に顔が無く、黒くて……」
「!」
申し訳無さそうに首を捻る白花苧環だったが、黒葉菫と灰色海月は心当たりにはっとした。
「それは悪夢じゃ……? 人型だったのか?」
「子供の姿はしてましたよ。黒髪で黒い服を着て……顔まで黒いとは思いませんでしたが……それが悪夢? なんですか? オレの目の所為ではなく?」
「悪夢は全身が真っ黒なんだ。只の黒い塊もいれば、人型もいる……らしい。俺達の顔が見えてるなら、マキの目は正常だ」
「それなら良かったです。悪夢のことをもう少し詳しく教えてもらってもいいですか? 記憶に無くて……」
「わかった。悪夢なら追うのも危ないからな」
黒葉菫は今まで見た悪夢と獏から聞いた悪夢の知識を話した。その中には灰色海月が初めて聞く知識もあり、彼女も黙って耳を傾けた。善行で獏と共に黒葉菫と白花苧環と黒色海栗が山へ行った時のことは多少は聞き齧っていたが、詳細は知らない。灰色海月も一つ一つの善行を彼らと共有しているわけではないので、知らない話があってもおかしくはない。特に彼女の入院中は何があったか把握していない。
神妙に相槌を打っていた白花苧環は聞き終わると周囲を見渡し首を傾いだ。
「悪夢は好戦的……なんでしょうか? ですが今いた悪夢は逃げましたよ。手を出してきませんでした」
「それは理由がわからないが……」
「セリさんのような悪夢なんでしょうか? セリさんは攻撃してきませんでした」
灰色海月の指摘には一理あった。毒芹のような事例も無いとは言い切れない。それなら自我があることになるが。
「追いますか?」
今度は白花苧環も確認を取る。悪夢と対峙するのは初めてである彼は、この後どうすべきか判断がつかなかった。
灰色海月も黒葉菫を見る。この中では最年長である黒葉菫に判断を仰ぐ。
零歳と一歳の変転人を前に黒葉菫は悩んだが、どんな悪夢なのか確信が持てない内は深追いすべきではないと判断した。
「……リスクを負って追う必要はないと思う。襲ってこないなら、このまま放っておいていい」
「わかりました。従います」
「私も異論は無いです」
先走ることはあるが、言い聞かせると素直に言うことを聞いてくれる彼に黒葉菫は安堵した。この中で最も経験のある黒葉菫は、幾ら半獣だろうと守る義務がある。変転人は獣を守らなければならない。半分だろうと獣なら白花苧環も守る対象だ。
胸を撫で下ろして踵を返そうとした時、ふと周囲の闇が静かに蠢いた気がした。
『――うしろの正面 だぁれ?』
「!?」
誰もいないはずの入り組んだ路地から脳に直接絡み付くような声が聴こえ、三人は一斉に声のした方を向いた。その路地には先程まで誰もいなかった。なのに今は黒い少女がぽつんと立っていた。目も口も無いが黒い顔が揺れ、くすくすと嗤う聲が聴こえる。
『遊ぼう……?』
灰色海月は黒葉菫の袖を引きながら目を瞬く。真っ黒な姿はどう見ても悪夢だ。悪夢が喋り掛けている。
「喋る奴は危ない……」
「試していいですか? 本当に獏以外は触れられないのか」
「やめろマキ! 触発したらどうするんだ!」
「ですが、現れたということはこのまま引くとは思えないです。もし逆撫でしたら、傘を使って逃げればいい」
「それなら逆撫でする前に逃げる! 手を出すな!」
「…………」
今度は白花苧環は言うことを聞かず、両手から白い紡錘の針を抜いた。知らないことが多いならば、一つ一つ知っていきたい。そうすることで、先に生まれた者に追い着ける。知識は理解することで力となる。
白花苧環がくるりと針を回すと、変換石が光り視認し難い糸が出力された。
(マキの糸……前と違う……)
変転人も変換石を使用するが、獣ほど力は無いため光らないのだ。だが今、白花苧環の変換石は光った。街灯の反射ではない。確かに発光した。
『皆……遊びましょう? 私たちと』
糸はやはり悪夢に触れることはなかったが、一瞬ぐにゃりと歪む。それで黒葉菫も確信する。これはこの街の端にいる悪夢だ。この街の悪夢には無色の毒が微かに効く。
そう思った瞬間、
「!?」
闇から現れた頭部より一回り小さな黒く丸い物が、黒い少女の頭上に落ちた。丸い物に当たった黒い少女は墨汁を打ちまけたようにべしゃりと潰れて消えてしまう。丸い物はてんてんと跳ねて闇の中に転がった。
『――見ぃつけた。今度の籠の鬼は貴方ね』
別の路地から聴こえた聲に振り向き、別の黒い少女がくすくすと嗤う。
「悪夢がもう一人……?」
「駄目だ耳を貸すな! 離脱する」
返事を待たずに黒葉菫は黒い傘を掌から引き抜くが、傘を開くことができなかった。
「何だ……?」
開かなければ転送はできない。異変に気付いた灰色海月も灰色の傘を抜くが、同じように開くことができなかった。黒い傘では見えていなかったが、灰色の傘には黒い筋が這っているのがよく見えた。
「っ……!? 悪夢の所為ですか……?」
「転送させない気か……?」
街から出られないことで、この街の危うさを再認識した。今までこの街にいたのは、この街にいながら然程恐怖を感じなかったのは、いつでも転送すれば出ることができるという安心感の上に成り立っているものだった。それが崩れた今、この街はただ悪夢の蠢く檻でしかない。
『遊ぼう』
『遊ぼう』
『うしろの少年 だぁれ……?』
振り向いた白花苧環の白い顔に、ひたりと黒い小さな手が這った。
「――やめろ!」
白花苧環は針を握り、黒い少女を裂くように振る。
『遊ぼう』
黒い体は裂け、霧散する。
『つまらない』
『つまらない』
だが闇の方々から染み出すように浮かび上がる無邪気な子供の聲は消えない。
「くっ……」
「大丈夫か!?」
目を押さえて後退する白花苧環の腕を引き、黒葉菫は灰色海月も促す。
けたけたと嗤いながら追う黒い影に灰色海月も腕輪を生成し、海月の触手を路地に蔓延らせる。まるで蜘蛛の糸のように。だが一瞬の足止めにしかならず、灰色海月は歯噛みして二人の後を追った。
「だから手を出すなって……」
「眼帯が死角になる……今は外してもいいですよね」
「それなら別に許可を取らなくても……」
『――待って』
すぐ近くで聴こえた聲に三人はびくりと体が跳ねる。今度は鬼ごっこだとでも言うのか。子供の姿をした悪夢は子供のように遊んでいるようにも見えた。
『獏……獏はどこ……?』
その聲から聴こえた言葉に灰色海月は反応してしまった。
「悪夢が獏を……?」
『会いたい』
『いたい』
『会痛イィ……』
振り返ると、立ち止まった黒い少女の何も無い黒い顔の目の位置から赤黒い筋が流れた。
「お……おかしいです、この悪夢……! スミレさんの話にこんな悪夢はいませんでした!」
『私……私、は……籠の中……夜が明けない……』
黒い少女はまるで助けを求めるかのように小さな黒い手を伸ばした。それから目を離せず釘付けになってしまう。
「悪夢じゃ……ないです……」
小さく呟かれた言葉に、黒葉菫は腕を掴む白花苧環へ目を遣る。露わになった右の金色の目が少女を見て硬直している。
「顔が……見える……」
「!?」
黒葉菫は黒い少女に目を遣るが、変わらず黒いだけの顔に目鼻は見えない。白花苧環には違うものが見えている。ぞわりと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「俺には顔は見えない……マキには何が見えてるんだ……?」
「黒い……靄を被った女の子です……。黒い着物を着て髪も黒いですが、頭に赤いリボンを結んでます」
「赤……?」
涙のような筋は赤黒く見えるが、頭に赤い物など黒葉菫の目には見えなかった。灰色海月もまた訝しげに眉を寄せている。
「金色の目の人間は存在するんですか……?」
「金……? そんな色の目の人間はいないはず……」
白花苧環の問いに声が強張る。人間の悪夢ではないなら、これは何なのだと。
「オレにしか見えてないなら……対話を試みてみます」
「また掴まれたらどうするんだ。怪我はないみたいだが……」
「危なかったら、二人で引っ張ってください。オレは獏にここを任されたので、やはりオレが対処すべきです」
後で獏に、白花苧環に仕事を任せる時は慎重にと言っておこうと黒葉菫は心に決めた。正義を貫く白は責任感が強いのか、白花苧環は無茶をし過ぎる。
「私は経験が乏しいので何も助言できませんが……」
不安そうな灰色海月に構わないと一つ頷き、白花苧環は前に出る。傘を掴まれ街から出られないのなら、誰かが立ち向かわなければならないのだ。
距離を取って立ち、白花苧環は片手の針を仕舞って手を広げる。敵意が無いことを示すためだ。
「貴方は何者ですか?」
『……首が無い。首ガ無イ。貴方は首ガ無い』
「……?」
白花苧環は首を傾ぐ。両の目で見えているのだから首が無いはずはない。……ただ、少女の顔が見えるのは右の金の目だけだった。左では相変わらず黒く、顔の無い少女が見える。
『痛い。獏に……いたい……』
「獏の知り合いなんですか?」
『私を……返して……』
「返す?」
『体……体が欲しい……私の……獏の体…………私ガ、獏なのに……』
少女の双眸からは赤黒い筋が止め処無く流れる。白花苧環には少女の言葉は理解不能だった。背後の黒葉菫と灰色海月も何も言わなかった。理解に時間を要している。
「……貴方は体が無いんですか?」
体はきちんと首の下に付いているが、欲しいと言うのだから少女は体を知覚できていないのかもしれない。とりあえず話を合わせておく。
『私は籠の中……囲まれて、囲まれて……出られない……。貴方の体でもイイ……助ケテ……痛イ……アイタイィ……』
知識や経験ではなく、少女の言葉は誰にも理解できなかった。
それぞれが考えている間に、背後の闇からごぼりと唐突に吐き出された黒く丸い物が少女の後頭部に当たる。それはそのまま少女の頭を飛ばした。少女の頭は地面に落ちる前に黒い靄となり闇に溶けてしまう。残った体も弾けるように靄となり消えてしまった。丸い物だけがボールのようにてんてんと跳ねて転がる。
『逃がさない』
『遊ぼう』
『遊ぼう』
『永遠に』
『私たちをここに閉じ込めた』
『籠の中の――』
ざわざわと蠢く聲が集まっていることに気付き、黒葉菫は白花苧環と灰色海月の腕を掴み、店の方へと走った。これ以上は留まらない方が良い。直感的にそう思った。
子供の姿をした悪夢は足も子供の速度なのか、三人に追い付くことはなかった。
店までは無事に戻ることができ、肩で緩やかに息をしながら振り返る。人影は追い付いていない。
「不可解過ぎる……何を言ってるのか全くわからなかった」
「オレだけわからないわけじゃなかったんですね」
「マキは傘が開けるか? 俺とクラゲの傘は開かなくされてた」
「確認してみます」
改めて黒葉菫は黒い傘を開こうと試みるが、びくともしなかった。灰色海月も灰色の傘を振るが、絡んだ黒い筋は解けない。
「…………」
白花苧環の白い傘も同じように黒い筋が絡んでいた。開こうとしても黒い筋は千切れない。まるで強靱なゴムのようだ。
「……少し待ってください」
軽く足を開き、白い柄を握り締める。何をするのかと二人が見守る中、白花苧環は目一杯の力を籠めた。
「っ……」
「ちょ、マキ……ミシミシ言ってる。先に傘が壊れる。マキより傘の方が脆いんだ、無理に開こうとするな……」
「遣り方を変えます」
「諦めてもいいんだからな……」
「壊れても二人の傘があれば問題ないです」
「俺達の傘も開かないけどな……」
負けず嫌いなのか獏に任されている責任感からなのか白花苧環は後には引かず、手に白い紡錘をくるりと回して逆手に持つ。黒い筋に針を掛け、ベリと引き剥がした。
「!」
「取れました! 触れられるんですか?」
「スミレが先程、毒で反応すると言ってたので試したんですが。剥がせそうで良かったです。
「そうか……なら俺も……? いや俺は無理か。銃じゃ傘に穴が空く」
「二人の傘はそのままにしておきましょう。獏に見せれば何かわかるかもしれません」
「獏の所に行くんですか? 少し深呼吸させてください。変なことを言わないように……」
白い傘から黒い筋を取り除く間、灰色海月は緊張感を滲ませながらひたすら深呼吸を繰り返した。獏に感情を吐露してしまったことをいつまでも引き摺っている。
「マキ!」
突如叫ばれ白花苧環はびくりとし、その後の銃声にまたびくりとする。黒葉菫は白花苧環の足元を撃ち、白い足を掴もうとしていた黒い子供の手が怯んだ。傘に集中していた白花苧環は、地面から生えた黒い手にも黒葉菫が銃を構えたことにも気付かなかった。彼が先刻『素手で正面から』と強調したことに薄らと納得した。不意打ちに白花苧環はまだ対応しきれない。獏に庇われた時もそうだった。
あまり立ち止まっている時間は無いようだ。白花苧環は黒い筋を取り除いた白い傘を急いでくるりと回した。その直前に足に黒い手がぬちゃりと絡み付いたことに気付くのが遅れた。傘を回した時に気付き、はっとする間に転送は完了してしまった。
足を引かれて転送した先は宵の空に見下ろされる街だったが、そこは空中だった。
「あっ……」
咄嗟に白花苧環は二人を庇って下敷きになることを選び、三人は縺れて茂みの中へ落ちた。
「マキ!」
「マキさん!」
「……少し腰を打っただけです……」
石段の上ではなかったことは不幸中の幸いだった。下が土である茂みの方が幾分落下の衝撃は柔らかい。
足も確認するが、悪夢は連れて来なかったようだ。そのことに安堵し、白花苧環は二人の差し出す手を掴んで起き上がった。
「幾ら半獣で体が丈夫でも、無理するな……」
「そうですマキさん。潰してしまったかと肝を冷やしました」
「何処も潰れてないので、大丈夫です。それよりここが何処かわかりますか?」
「宵街は俺が一番長いから、俺が案内……」
もう一度空を見上げ、自棄に暗いことに気付く。ここまで暗いと下層の下の方か上層だろう。石壁に手を突き、指が罅に触れる。
「?」
常夜燈を翳すと自棄に石壁に罅が多いことに気付く。
「最下層か……?」
黒葉菫は最下層に足を踏み入れたことはないが、噂だけは聞いていた。……洋種山牛蒡から。
悪夢に転送の邪魔をされ、随分と位置が外れたようだ。
石壁に手を突きながら深い茂みを何とか進む。逸れないように灰色海月と白花苧環も後に続いた。
暫く歩いて何とか茂みは抜けるが、蔦が蔓延る石段の欠けた所で足を取られそうになる。
「……何だ……? ここ……」
石段は上下に続いていて最下層ではないようだった。蔦が覆う石段は罅割れ、所々崩れている。最下層も上層も蔦が蔓延り暗くはあるが、石段が壊れているなんて噂は聞いたことがなかった。石壁や蔦、石段は宵街なのに、そこは知らない街だった。遠くを見ても点とすら酸漿提灯の明かりが見えない。見上げた空も妙に澱んでいる。
「マキ……何処に転送したんだ……?」
「宵街のはずですが」
「私も宵街のこんな景色は初めて見ます。病院はどっちですか?」
白花苧環と灰色海月はまだあまり宵街を歩いたことがないので何がおかしいか気付かず落ち着き払っているが、この景色は異常だ。
「宵街なのに、宵街じゃない……。俺はこんな宵街は知らない」
「知らない道と言うわけではなく、ですか?」
「ああ。無闇に歩かない方がいい。少し待って、もう一回マキの傘で転送しよう。邪魔が入らなければ今度はいつもの宵街に行けるはず……」
転送は連続して行えない。休息し充填する時間が必要なのだ。
「わかりました。従います」
「座って待ってよう」
茂みの中に転がっている瓦礫に腰を下ろし、灰色海月と白花苧環も倣って腰を掛ける。もう随分と誰も足を踏み入れていないように蔦が蔓延るここは、まるで廃墟の街のようだった。
座って視線を落とすと地面が近くなり、蔦や草の他に小さな黒い花が咲いていることに気付いた。こんな黒い花は宵街では見たことがなかった。宵街のように見えるがやはりここは宵街ではない。三人は静かに黙って時間が経つのを待った。三人が黙ると、街から音が無くなった。
「…………」
じっと動かずに座っているので、三人から物音が聞こえるはずがない。だが不意に遠くで静かに草を分ける音がし、三人は訝しげに目だけを動かす。耳を澄ませ、まだ声に出して互いに尋ねない。光が目立たないよう茂みの中へ常夜燈を隠す。いつもの宵街ならここまで警戒しないが、ここは知らない場所だ。警戒心が強くなる。
瓦礫の隙間からちらりと光が見え、三人は目を細める。それは常夜燈の光ではなかった。薄赤い光だった。その光は二つあり、動きはするが間隔は一定だった。それは手に提げた物ではなく、かなり高い位置にある。
(目……?)
息を殺して注視する。その二つの光はこちらを向いてぴたりと止まり、三人は視線で勘付かれないよう目を伏せた。また白花苧環が飛び出して行ってしまわないよう、黒葉菫はその腕を強く握った。
二つの光は暫く三人のいる方向を見詰めた後、再び進み始めた。光が進むと同時に草を分ける静かな音も聞こえ出す。
音は石段へと出て次第に近付いて来た。二つの光は上下に揺れ、それは目だと確信に変わる。
二つの光は蔦を踏む音と衣擦れの音を引き連れながら石段を下り、やがて三人のいる茂みへと辿り着いた。
それは茂みに手を翳し、直後に騒音を立て土が捲れ瓦礫が崩れた。
「…………」
気配があると思ったそこには何もいなかった。二つの光は黙って虚空を見詰め、石段を引き返して行った。
三人は傘の充填時間を終え、目配せし合い白い傘を回して離脱していた。
風も生き物の気配も無いそこで物音が聞こえるのは異常なことだった。
それと接触しなかったのは正しい判断であり、転送が間に合ったのは運の良いことだった。