105-思惑
カーテンに触れてはいけない。
そう言い残して姫女苑は治療室の中の様子を窺い易いよう、ドアを開けたまま受付へと戻った。
治療室で待つことを許された三人はいつ目覚めるかわからない椒図を無言で待つ。カーテンの向こうでは引き続き椒図の検査が機械により自動で行われている。頭部に装着した装置から何本も線が伸びているため、足を掛けないよう立ち入りを禁じられた。
治療室の外からその声が聞こえてきたのは、待ち始めて幾らも経たない頃だった。少し慌てた姫女苑の声と、静かな聞き覚えのある声。その主が開け放されたドアから怪訝に中を覗き、ドアの近くに座っていた獏は金色の目を瞠った。
「どうしたの贔屓……!?」
カーテンの向こうの椒図が気になって仕方無い蒲牢と狴犴も徒ならぬ声に振り返り、出入口に肩を預けて立つ贔屓の姿に思わず立ち上がった。
「贔屓……何があったんだ……?」
「……いや、心配するような怪我は負っていないよ。少し折れただけだ」
「骨折は少しとは言わないと思うけど……特に贔屓が骨折なんて信じられない……」
心配と言うより唖然としながら、蒲牢は贔屓に肩を貸した。触れる瞬間ぴくりと眉を寄せたことに改めて蒲牢は一大事だと愕然とした。
狴犴も手を貸し、簡易なベッドに贔屓を座らせる。寝かせようとしたが、体を倒すと眉を顰めるので座らせた。体の何処に触れても眉を動かす贔屓を見て、全身の骨折を疑う。
「贔屓が自滅するとは思えない。遣ったのは誰だ?」
「……姿は確認していないが、おそらく檮杌だ」
「! 接触したのか? 下手に近付き過ぎたか?」
「フ……殺人現場に行ったんだが潜伏していたようでな。同行してもらった変転人を庇って、諸に攻撃を喰らった」
壁に背を預け、贔屓は一息吐いて笑う。緊張感の無い顔をする彼に、今度は狴犴が眉を寄せた。
「……何が面白い。檮杌が現場にいた理由は量り兼ねるが……」
窮奇は檮杌を馬鹿と言う。もしその通りなら幾ら考えても答えは出ないだろう。もし渾沌の命令なら何か考えがあってのことだと推測する価値はあるが、檮杌が勝手に動いているだけなら何も考えていない可能性が高く考えるだけ無駄だ。渾沌が檮杌と組むのは、攪乱する意図もあるのかもしれない。
「諸に潰されて骨折だけで済んでいることには感心するが、無茶が過ぎる。お前が付いていながら変転人を危険に晒すとは。変転人は無事なのか?」
「変転人は無傷だ。檮杌はおそらく僕を人間だと勘違いしてくれたんだろう。獣に対する攻撃ならもう少し骨が砕けたかもしれない」
「笑い事ではない」
狴犴の溜息には皆同感だった。心配させまいとしているのか贔屓は笑顔を作るが、眉が時折苦しそうに歪んでいる。
狴犴は呆れはするが、そのまま檮杌を追っていれば、とは言わなかった。変転人を無事に離脱させるためでもあるが、負傷した贔屓に無理を強いることはできない。
「檮杌に遣られて歩けるなんて……諸になんて、人間だったらぺしゃんこの御煎餅だよ? 檮杌の体は硬いみたいだし、贔屓も硬いってこと?」
獏も自身の潰れた脚を一瞥し、信じられないと贔屓の全身を見回す。見た限りでは潰れている箇所は無い。歩いてここまで来たことが信じられない。
「御煎餅か……確かに他の人間はそんな感じだったな。血の海だったよ」
「獏も檮杌に接触して脚を潰されたんだよ」
「獏も? いつだ? 近くにいたのか?」
無意識なのか身を乗り出そうとするので、蒲牢は慌てて支えた。骨折をしている癖に動こうとする。
「それより今は檮杌のことは後にして、先に椒図のことを話してあげたら?」
「椒図? 何かあったのか?」
また身を乗り出そうとする贔屓を壁に寄せ、兄弟の身に起こったことを話すのは賛成だと蒲牢は近くに椅子を運んだ。
「ちょっと不可解なことがあったんだ。先に注意しておくけど、このカーテンには触れないように」
「? ……ああ、わかった」
「このカーテンの向こうには椒図がいる」
軽く流せるような話ではないと推察し、贔屓は表情を引き締めた。贔屓が受付の前を通った時に姫女苑は何か言いたそうにしていた。全身の痛みもあり尋ねることはしなかったが、椒図のことを話したかったのだろう。
蒲牢は集中治療室で起こったことを話し、金平糖のことは獏が話した。窮奇は未だ手術室で、疲弊するラクタヴィージャと黒色蟹が治療を行っていることも話した。
「……ここに蒲牢も狴犴もいて、何かあったのだとは思ったが……僕がいない間に妙なことが起こっていたんだな」
「窮奇が渾沌の名前を出してたんだ。贔屓がいない時に話してたんだけど、渾沌は他者を洗脳する菌糸って能力があるらしくて。蜃がたぶん……菌糸に侵されてたんだと思う」
「菌糸……洗脳は厄介だな。蜃はどうなったんだ?」
「あ……それはどうなったか俺も知らない……。椒図が意識を閉じたから、気を失ってるけど」
「……そうか。ラクタの様子を聞くに、治療が終わっても僕の治療は頼めないな……」
「骨折なら動かなければ付くし、贔屓が一切動かないように見張ることなら俺にもできるよ」
「それは……」
勘弁してほしい、という顔をする。
「――ヒメ! 何かあったか?」
廊下から今度は焦燥する声が聞こえ、自由に動ける蒲牢が治療室から顔を出す。どうやらラクタヴィージャの分身体が急ぎ足で戻って来たようだ。
「ラクタヴィージャ様、お帰りなさいませ」
姫女苑は頭を下げ、冷静にカウンターにカルテを出した。
「本体様は今、窮奇様の手術を行ってます。治療室に意識不明の椒図様がいます。指示通り、椒図様の頭の検査をしています。簡易検査の結果はカルテの通り、現在は精密検査中です。それと……贔屓様も具合が悪いようで、治療室にいらっしゃいます。備品関連は……その……手術室のドアを破壊してしまいました。集中治療室で本体様と黒色蟹さんが何らかの攻撃を受けたようです。蜃様と饕餮様の確認は取れてませんが、本体様の近くにいるので、対応はされてると思います」
淡々と報告をし、もう一度頭を下げる。集中治療室で起こったことは姫女苑も蒲牢から話を聞いたが、獣の話は理解するのが難しい。上手く話を伝えられたか心配だ。
分身体の青年ラクタヴィージャは手に提げていた花籠をカウンターに置き、カルテに目を通す。分身体と言えど本体の様子を逐一窺っているわけではない。集中治療室で何が起こったのか把握できていない。だが分身体は本体から常に力を受けて動いているため、本体が分身体を維持する力が揺らぐと、何か異常が発生したとすぐに気付く。だから急いで帰ってきたのだ。
「……本体に何かあれば伝えてくるはずだけど……脳に何かされたか。椒図の状態は一刻を争うものではなさそうだし、先に本体の様子を見に行ってみる。花畑で貰った花は後で薬に加工するから保管しておいて。木霊が暫く不在だったらしくて、薬の加工が間に合ってないみたいなんだよ。花魄が後で応援に来てくれるそうだ」
「わかりました」
「体に違和感があったから急いで戻って来てみれば、こんなことになっていたとは……」
青年ラクタヴィージャは急ぎ手術室へ向かい、途中にある開きっぱなしのドアへ目を遣る。治療室の中には蒲牢と狴犴まで揃っていて、椒図が心配なのは理解できるが患者がうろうろと出歩き過ぎだ。
通常、手術中の部屋へは自由に出入りはできない。ラクタヴィージャの集中力を削ぐことになるからだ。だがその分身体だけは体の一部のように寄り添うことができる。気配も自分の手足のように自然に感じることが可能なので、手術室に入っても驚かせることはない。
手術室の中では中央に血に濡れた窮奇が横たわり、固く目を閉ざしていた。その傍らで指を赤く染め、ラクタヴィージャは顔を上げることなく手術に当たっていた。黒色蟹だけは顔を上げ、手術室に入ってきた者を確認し安堵したように再び窮奇へ視線を落とす。
「様子を見に来た。必要なことはあるか?」
「……蜃の様子を見てもらえる? 手術はもうすぐ終わるから」
「わかった」
「蜃はね……狴犴の呑んだ薬と同じ成分が検知されたって前に言ったけど、体内――主に頭部に残ってたそれが窮奇の生命力を吸って活性化したと見てる。念のため警戒しておいて」
「……了解」
言葉は少なく青年ラクタヴィージャは静かに廊下の奥へ向かい、破壊されている集中治療室のドアを踏んで中を覗く。機械が並ぶ部屋を見渡し、ベッドの上を確認する。饕餮の方に異常は無い。今まで通り瞼を下ろし眠っている。蜃のベッドは赤く染まっていた。
(機器に異常は無し……)
蜃の白いガウンも赤く染まっていたが、蜃自身に負傷は見られない。窮奇の血なのだろう。
(窮奇の方を急いだのか、蜃の検査はまだみたいだな……頭を調べておくか)
機械を物色し、ヘルメットのような機械を蜃の頭に装着する。まるで玩具のようだが、立派な計測器だ。狻猊が作ってくれた。
暫くは機械から吐き出される数値に目を落とし、出入口へ目を遣る。ドアの修理の依頼も出した方が良いだろう。獣も器物も脆い。だが機械に破損は見られず、それだけは安心した。機械は作るも修理するも時間が掛かる。
(……今は正常みたいだな。蜃自身の力以外は検出されてない。何故だ……? 最後の悪足掻きだったのか? 活性後に自然消滅するものなのか? それならいいんだけど……体の方は窮奇の生命力を取り込んで順調に回復中……放っておいても目を覚ますだろう)
確認を終え、青年ラクタヴィージャは治療室へと向かった。姫女苑の報告は端的で要点しか伝わらない。時間が惜しかったのだろう。
治療室に顔を出すと皆が青年ラクタヴィージャに視線を向けたが、息を殺すように誰も口を開かなかった。皆、彼が話すのを待っている。
「椒図を診るから、その間に何が起こったのか話してくれるか? 話を聞いて結論を出す」
「この説明も慣れてきたから、上手く話せると思う。でもラクタの本体は大丈夫なのか?」
「分身体が消えずに存在してる内は大丈夫だ。意思を持つ分身体を作るのは疲れるが、たった一体動かす程度は造作無い」
「分身体の挙動がおかしくなったら気に懸ければいいのか」
カーテンの中へ入る青年ラクタヴィージャを見送り、蒲牢は体を向けて何度目かの説明を口にした。カーテンの向こうから相槌は聞こえないが、構わず全て話した。
話が終わっても暫し無言で待ち、漸くカーテンが開かれると青年ラクタヴィージャは自分の書いたカルテを見ながら首を捻る。芳しくない結果が出たのだろうかと獣達に緊張が走った。
「正直に言うと、こういう例は初めて見る」
「目を覚まさないのか……?」
「いや、そういうわけじゃない。大脳皮質――記憶を溜め込む場所だけど、そこがまあ……かなり使い込まれたようになってる。椒図は化生してまだ一ヶ月程しか経ってないのに。獏の仮説が正しいかもしれないな。椒図が目覚めて本人に確認を取るのが一番早いが、起きても暫くは混乱状態かもしれない。できるだけ刺激を与えないように」
「体は大丈夫なのか?」
「体の方は外傷も無いし、問題無い。今はただ眠ってるだけだ。眠りは記憶を定着させる作業とも言える。獏の仮説が当たりなら、椒図の作業力に期待しよう」
励ますように冷静に明るく言う青年ラクタヴィージャを不安そうに見、背後に眠る椒図へ目を遣る。椒図は少し眉間に皺を寄せているが、苦しんでいると言う程ではない。ラクタヴィージャの言う通り、心配せず待てば良いのだろう……。
「ねぇ、窮奇と蜃は? 見て来たんだよね?」
治療室の前を通過した青年ラクタヴィージャの姿は獏も見ていた。廊下の先は手術室だ。椒図が意識を閉じることになった蜃の安否も確認しておきたい。
珍しく面を外している獏を一瞥し、青年ラクタヴィージャは一つ頷く。
「窮奇の手術はもうすぐ終わるよ。手術と言う程じゃないけど……あいつは縫合さえすれば大丈夫だろう。蜃も今はただ眠ってるだけだ。二人共心配しなくていい。窮奇は体力があり過ぎて……あれは一発刺されただけで死ぬ玉じゃないよ」
どうやら全員命に別状はないようで胸を撫で下ろす。
「一番心配なのは私の本体とレオだから、手術が終わったら休ませてほしい」
「何かされてたみたいだけど、怪我をしたの?」
「怪我ではないけど、攻撃に抗ってた……って感じかな。詳しくは後で確認する。そろそろ分身体の正常な維持も難しくなってるみたいだな。消える前に贔屓も診ておくよ。レントゲンを撮ろう。バキバキに骨が折れる贔屓なんて今後見られないかもしれない」
「言ってくれるな」
青年ラクタヴィージャは他人事のように笑いながら隣のレントゲン室へ招き、贔屓は眉を顰めながら尻を上げた。ラクタヴィージャは贔屓なら骨が折れても歩けると思っているようだが、蒲牢は慌てて支えた。もしかしたら分身体はもう正常ではないのかもしれない。
「……贔屓の体は鋼鉄なの?」
訝しげに呟く獏に、贔屓をレントゲン室に送って戻って来た蒲牢はきょとんとした。
「……? そんなのじゃないよ。贔屓は硬い殻を持ってるだけだ。鉄じゃない。殻だけじゃなく体も他の獣より頑丈で骨太だし筋肉もある。腕相撲なんてしたら、少しでも気を抜いた瞬間に一撃で折られるよ。俺はしたことないけど」
「細身に見えるのに、力を使わなくても素手で獣と張り合えそうだね……」
「……だから全身の骨が折れるなんて信じられないことなんだよ」
蒲牢は表情を曇らせ目を伏せる。他のどんな獣よりも体が丈夫だと思って疑わなかった贔屓が骨を潰されるなんて信じたくなかった。
それでも自力で歩ける贔屓に心配は無用だろう。狴犴はレントゲン室から贔屓が出て来る前に徐ろに立ち上がる。
「私は病室に戻る」
それだけ言い残し、狴犴は治療室を後にした。皆無事で安心したようだ。退院すると言っていた割に素直に病室に戻るらしい。
「僕も後で部屋に送ってよ、蒲牢。あと一人でも動けるように車椅子も欲しい」
「……構わないけど」
本当は一刻も早く病室に戻り動物面を被りたい獏だったが、事が事なので蒲牢の邪魔はしない。贔屓の結果も気になる。
心配を余所に青年ラクタヴィージャは笑いながら戻って来たが。レントゲン写真を詰まらなさそうに贔屓に見せている。
「……どうだった?」
「全身骨折って聞いたから楽しみにしてたのに、思ったより控え目だった。完全に折れてるのは肋骨が数本。でも潰れてはないよ。背骨が無事なのは不幸中の幸いだな。贔屓は筋肉量が多いから、筋肉で防いだか。攻撃は背中に喰らったんだろ?」
「医者に骨折を楽しみにされるとは。そうだな、背中に喰らったと言える」
「他は罅程度。喰らった体勢が悪かったのか大腿骨に軽い罅が入ってるから、それで座ったり歩く時に痛むんだ。その他全身が痛むのは圧迫に耐えた所為だな。普段丈夫な分、痛みに慣れてないんだろう。大袈裟と言いたいが、痛いものは痛いからな。ハハ。慰めてあげるよ、贔屓」
「随分と笑ってくれるな……」
「え? 確かに笑い事じゃないな。これは獣にとってかなりの痛手だ。肋骨を杖として使うんだからな、肋骨が折れれば当然杖は使えない。攻撃を受けた時は杖を出していたようだけど、杖も攻撃を受けて損傷したみたいだな。一番浅い罅の骨が治るまでは力は使えない」
変換石が壊れれば新しい石を用意すれば良いだけだが、力を伝達するための杖本体は替えが利かない。後から手で作った杖では能力を最大限に引き出すことはできない。
「……」
「まあ安静にしていればすぐ良くなるよ。数日は大人しくしてろ」
「数日も掛かるのか?」
「丈夫な代償か贔屓は自己治癒力がやや弱い。完全に折れてる骨はもう少し掛かるはずだ。庇うためとは言え、まともに攻撃を受けるのは感心しない」
「……わかった。肝に銘じておくよ」
釘を刺され、贔屓は素直に頷く。丈夫な殻があるため、今まで怪我らしい怪我は負ったことがなかった。打たれると痛みは感じるが、負傷とはこんなにも痛みを伴うものなのだと認識を改める。包帯が巻かれた獏の脚が目に入り、脚が潰れるとは耐え難い痛みなのだろうと戦慄すら覚えた。
「贔屓の病室は何処にしようか。蒲牢と狴犴の隣の部屋にしようか?」
「俺はもう退院するから、俺のベッドを使ってくれればいいよ」
「誰が退院と言った」
「俺」
「堂々と言い放ったことに免じて検査をしてやる。充分に歌えるほど回復していれば退院を許す」
「さすがラクタ。話がわかる」
ラクタヴィージャは蒲牢の歌のファンである。それは分身体とて同じだ。歌を聴く機会があるなら積極的に交渉する。分身体が正常でない所為もありそうだが。
椒図のベッドを端へ移動させ、青年ラクタヴィージャは嬉しそうに蒲牢を招いてカーテンを閉めた。
程無くして耳に心地良い静かな歌声が部屋に流れる。こちらは正常に歌えているようだ。
「……綺麗だけど……淋しい声だね」
薄い布一枚で仕切られた狭い部屋の中では小さな声でも充分に行き渡る。冬の晴れた日の静かな朝のような澄んだ声に獏と贔屓も耳を傾けた。
「蒲牢は一人で多くのものを背負ってきた。決して下ろせない負の荷物を抱えている限りは楽しげな声は出せない。そう言っていた」
「笑った所も見たことない」
「ああ、僕もだ」
「……ねえ、贔屓」
「何だ?」
「ちょっと……寒くない?」
「……そうか?」
「埃……?」
「?」
「……違う、雪! 部屋の中に雪が降ってる!」
贔屓も虚空に手を翳してみると、小さな白い欠片が手に触れて体温で静かに溶けた。小さいが確かに冷たい。本物の雪だ。何処にも空が見えないのに。それに――
「宵街に雪は降らないはずだが……」
「宵街以前に室内で雪は降らないよ」
獏は手を擦り、ドアから顔を出して廊下を見渡す。廊下には雪は舞っていなかった。治療室の中だけ異常な雪が降っている。
「もしかして、蒲牢……?」
「そんな力があると聞いたことはないが」
「じゃあ贔屓はこの雪が何だと思うの?」
「見当も付かない」
「僕は普段あんまり寒さを感じないんだけど、何かこの雪、寒い……」
「蒲牢の仕業と言うなら、歌で感覚が刺激されて寒さを感じているんじゃないか?」
「何でそんな冷静なの……」
「降らせているのが蒲牢なら、怖がることはないだろう?」
何のために、と考えようとして獏はやめた。カーテンの向こうから途惑う声が聞こえてきたからだ。それと同時に降っていた雪も止み、確信に変わる。降らせていたのは蒲牢で間違いない。
慌ててカーテンを開けた蒲牢は贔屓と獏を見て沈んだ声を上げた。
「二人共、頭に雪が……」
鉛色と黒い髪の二人の頭に白い雪は目立つ。二人の頭から雪を払い、蒲牢は頭を下げた。
「もしかしたらこれが蜃の言ってたことなのかも……」
「雪のことか?」
「うん……龍は天候……雲を操る力があるって前に蜃から聞いてたんだ。どうやって降らせたか俺にもわからないけど……」
そこで蒲牢ははっとした。雪と言えば一つ脳裏に浮かぶ情景があった。化生前の子供だった頃のことだ。皆死んで残りは睚眦と二人だけになった時、雪が積もった。狴犴と饕餮を含めて四人で逃げ出した時、厚い雲が覆っていた。それは蒲牢が降らせたものだったのではないか。何故降ったのか、何故降らせたのか、それはわからない。今もそうだ。何が引き金になったのか、自分がわからなかった。
三人の会話を聞き、青年ラクタヴィージャも椒図に薄らと積もった雪を払いながら安心させるように笑みを浮かべる。――いや活動に異常が生じて笑っているだけだろう。
「蒲牢は天候操作は初めてなのか?」
「……俺『は』……?」
「螭が龍属だからな。だから私も天候を操作する力は知ってる。病気ではないから、そんなに困惑することはないよ。螭が言うには、意識的に操作するにはコツを掴むのが難しいらしい。気になるなら彼女に話を聞くといいよ。それとも贔屓が教えられるか?」
「……すまない。僕は龍属ではないんだ」
「え?」
何気無く贔屓に話を振った青年ラクタヴィージャだったが、思わぬ返答にきょとんとしてしまった。
「違うのか? てっきり……君達兄弟は皆龍属だと思ってたよ」
龍生と名の付く兄弟達は九人全員が龍属だと思うのは自然なことだろう。だが兄弟の中で龍属はたったの二人しかいない。
「僕達の中で龍属は蒲牢と睚眦だけだ。睚眦とはあまり話したことがないから……睚眦が天候を操れるかは知らないな」
「二人だけなのか……それは……。ま、まあ、気に病むことはないよ。今じゃ気にする人も少ないだろ」
「ラクタ、その言い方だと気になるんだけど……。龍だと何かあるのか? 俺はずっと、それが知りたい……」
墓穴を掘ってしまったと青年ラクタヴィージャは顔に困惑を貼り付け、無知な蒲牢と贔屓を交互に見る。自分に関係のあることなら知りたいと思うのは当然だ。譬え傷付くことになっても。それにこれは、知らずに下手な場面で口を滑らせると非常に不味い。
「……じゃあ言うけど……。龍は位の高い獣なんだよ。人間には神とされることもある。獣の中でも強力な部類で、公言すれば従う獣も多いはずだ。昔、贔屓が宵街を統治してた頃、反発する獣はいたが、従う獣もいただろ?」
「ああ、そうだな」
「贔屓が龍属だと思ってたんだ。そうじゃなければ従う獣なんていなかった。狴犴のことも龍属だと思ってるだろうな。だから科刑所に正面から乗り込もうとする獣はいない。龍の髭を撫で虎の尾を踏む、なんて諺もあるくらいだ、龍が強いのは皆わかってる」
龍生でありながら、贔屓達はそのことを知らなかった。蒲牢以外に化生前の記憶は無いが、九子を産んだ母龍から何も教わらなかったことで、化生してもその知識が空白になってしまったのかもしれない。
これでは統治者である狴犴が倒れたことよりも、龍属ではないと露呈することの方が危険だ。通常、自らそれを話す機会は無いが、隠しているわけでもない。これは隠しておいた方が良い事実だろう。
思い起こせば鴟吻が襲われた件も龍属ではないことが関係しているのかもしれない。彼女はあまり人前に姿を現さなかったが、魚のような尾は龍のそれではなく、一目見れば龍属ではない、もしくは龍以外が含まれた混ざりものだと気付くだろう。鴟吻を襲った罪人は彼女が龍属ではないと気付いて襲った可能性がある。
饕餮の頭にある羊のような角も龍のそれではないが、彼女は統治には参加していない。四凶に所属しているためか襲われたという話も聞いたことがない。
「つまり龍が龍以外を産むのは……」
「それは……耐え難い恥辱だろうな」
龍は誇り高い獣だと蜃は言った。たったそれだけで、と蒲牢は思っていたが、そこまで病むような『恥』だとは考えなかった。母龍は誰にも知られまいと人目に付かない山の奥深くで耐え難い恥を抱えて兄弟を育て、いつか龍に変化するのではないかと淡い期待を寄せていた。だが変化は起こらず、母龍は癇癪を起こした。兄弟達を皆殺しにしたことは許せるはずがないが、漸く理由がわかった。
蒲牢と贔屓は一度目を伏せ、静聴している獏へ目を遣った。何が言いたいのかは言わずとも獏にもすぐにわかった。
「……僕は別に言い触らしたりしないよ。龍だとか、興味も無いし」
龍生九子の内の誰が龍ではないか以前話を聞いていた獏は改めて驚きはせず、穏やかに返事をする。誰が龍であろうとなかろうと、接する態度を変える気は無い。
「そ、そうだよ二人共。今ではこういう獣も多い。何も気にしない獣は大勢いるんだ。螭もそういうことは気にしてない。螭のように角でも生えてない限り、見た目で判別できることでもないしな」
「へえ、螭の角って龍の角だったんだね。まあ、兄弟達には一応話しておけばいいんじゃない? うっかり言っちゃう人もいるかもしれないし」
青年ラクタヴィージャも頷いて賛同する。うっかりではないが既に椒図は蜃に話している。
「俺……急いで狴犴と睚眦と狻猊に伝えてくる……」
青褪めた顔で蒲牢はばたばたと治療室を出て行った。ラクタヴィージャは退院して良しとまだ言っていないが、あれだけ歌えるのなら構わないだろう。龍生九子が龍ではないと知ってラクタヴィージャも驚いた。龍属だからと従っていたわけではないので医者は続けるし彼らの治療もこれまで通り行うが、長年信じていたものが覆されるのは妙な気分だった。
「…………」
蒲牢が去り病室へ運んでくれる者がいなくなったことに獏は遅れてはっと気付き、しゅんと眉尻を下げて無言で青年ラクタヴィージャに訴え掛けた。
「……じゃあ獏を病室へ届けるから、贔屓は待っててくれ。後でコルセットを着けよう」
「ああ。椒図もいることだ、ここで目覚めるのを待つよ。それとも椒図も病室へ?」
「椒図はここで暫く様子を見る。贔屓も居て構わないよ」
青年ラクタヴィージャは獏を抱え、贔屓が腰を上げないことを確認して治療室を後にした。
「……何でそんな面倒な統治なんてやってるんだか……」
ぼそりとぼやくように漏らした獏に、青年ラクタヴィージャは苦笑するしかなかった。
「兄弟を守るために始めたんだよ」
「ふぅん……」
「国だとこうはいかないだろうけど、ここは小さな街だからな。少人数でも何とか統治ができる。狴犴に代わってからは相当ギリギリだろうけど」
「兄弟を守るためなのに、椒図は地下牢に入れたんだね」
「その真意は狴犴に直接聞くといい」
「ラクタは何か知ってるの?」
「いや、知らない。けど狴犴も兄弟のことは大切に思ってるよ」
「…………」
椒図を地下牢に入れたこともだが、拷問で肢体を切断することも睚眦に許可したのだろうか。守るどころか傷付けて、それも何かの所為にするのだろうか。
考え事をしていた獏は、青年ラクタヴィージャが何処の病室へ運んだのか気付くのが遅れた。ベッドへ座らされて顔を上げた時、狴犴と目が合って血の気が引いた。
「まっ、待ってラクタ!?」
「狴犴と話したそうにしてたから連れて来てあげた」
「してないよ!」
「それに一つの部屋に固まってくれた方が管理し易い。お面も後で持って来てあげるよ」
「待っ……」
青年ラクタヴィージャはにこりと笑い、聞く耳を持たずに病室を出て行った。本体の不調で分身体が静かに暴走している。獏は項垂れたがすぐに我に返り、潰れた脚が痛むのも厭わず腕を伸ばして仕切りのカーテンを勢い良く閉めた。
獏が罪人ということは勿論ラクタヴィージャも忘れていない。それを認めた上で同室とすることは問題無いと判断した。と言うよりそれ以上に、狴犴を一人にしておくと勝手に退院する可能性があるため、見張りを置くことにした。それを分身体は正常な判断だと思っている。自分は正常だと思っている異常者は迷惑なものである。
残された獏は潰れた脚を動かそうと試みるが、やはりまだ激痛が走り移動は難しかった。無事な片足で跳んで移動などしようものなら、潰れた脚を常に鞭で叩かれるような痛みが襲うだろう。耐えられない。
仕方無く狴犴から離れるように極力ベッドの端に寄り、壁に背を預けた。
誰か来てほしい。切実にそう思いながら時間は過ぎ、沈黙が流れた。面を持って来ると言った青年ラクタヴィージャも戻って来ない。その辺でもう消滅したのかもしれない。
「……已むを得ない」
「!」
突然カーテンの向こうから狴犴の声が小さく上がり、獏の肩はびくりと跳ねた。独り言だと思うことにした。
「傷が癒えるまで善行を休止することを許そう」
何を言うのかと思えば、善行など獏の頭からはすっかり抜け落ちていた。
「……それ、まだするの……? 力が膨れてどうとか言ってたのに……」
「観察の他に、単純に償いとしての刑でもある」
「他の罪人には何も科してないのに?」
「先に話した通りだ。それ以上の内情まで話すつもりはない」
「…………」
「…………」
「……君、罪人と普通に話せたんだね」
「…………」
「…………」
「お前はあの時、黙秘を貫いただろう。私の質問に一切答えなかった。会話を放棄したのはお前だ。……尤も、罪人は皆そうだがな」
烙印を捺す者と会話をしたいなどとは誰も思わないだろう。何を言っても罪となる自覚はあるのだから、何も話すことはない。
「……椒図も、何も言わなかったの?」
「そうだな」
「何で……弟を地下牢に入れたの?」
「それは罪人に話すことではない」
予想通りの言葉が出て来たので、ほら見たことかと獏は頬を膨らせた。
「ラクタが訊けって言ったのに……」
「聞いてどうする」
「椒図を地下牢に入れなかったら、睚眦に拷問されて腕と脚を切られて痛い思いをすることもなかったのに」
「睚眦は遣り過ぎる嫌いがあるが、仕方無いことだ。公私を混同せず仕事は割り切る性格だからな」
「…………」
睚眦は大目に見て、椒図は地下牢へ放り込むのは釈然としなかった。椒図は蜃と獏を庇い、全てを背負って出頭したのだ。それを責めるのがおかしいと思うのは、当事者だからだろう。椒図が狴犴に何も話していないなら、狴犴も真実を知らないはずだ。
(化生してるんだから、罪には問わないはず……)
ならば真実を話してやれば、考えが変わるかもしれない。今更ではあるが、涼しい顔を貫く狴犴に後悔をさせてやりたかった。
「椒図は、化生前の僕を庇って一人で君の所へ行ったんだよ」
蜃の名前を勝手に出すのは憚られたため、獏だけとした。
「……まさかお前の口から聞けるとはな。だがそれも既知だ」
「え……?」
「獏と蜃を庇ったのだろう? その椒図の覚悟を無駄にはしたくなかった。特別な処遇も考えはしたが、椒図は元々狭隘も暗所も厭わない。問題は無いとした。不問にしてはまた危険に首を突っ込むだろうからな。保護の意味もあった」
「…………」
「……話し過ぎたか」
知っていたのなら獏と蜃を捕まえることはできたはずだ。なのに椒図だけが罪を被り、獏と蜃は捕まえなかった。蜃に関しては罪人と鵺が言っていたが、彼女がそれを知ったのは椒図を地下牢に放り込んでからもっと後だろう。
狴犴は知らない振りをし、捕まえられない振りをした。椒図が守ろうとしたものを無下にできなかったのだ。椒図のために、狴犴は獏と蜃を見逃した。獏と蜃が椒図を連れ戻しに科刑所に乗り込むことや、椒図が捕まった後も悪事を続けたなら二人も捕まえて地下牢へ放り込んだだろうが。
「何も話さなくても……君は全部知ってたんだね……。僕を捕まえた時は何も言わなかったのに」
「お前の口から話すのを待っていたんだが。椒図が守りたかったもののようだから、今はこうして話してやっているだけだ。不満があるなら今すぐにでも地下牢に収監してやる」
「それは嫌だけど」
暫く沈黙が流れ、獏はふとあることを思い出した。本当は贔屓に相談してみようと思っていたことだが、狴犴と関係が全く無いわけでもない。
「……あのさ、善行の僕の噂のことなんだけど」
「……何だ」
「噂が広まるのは君にとっては良いことなんだろうけど、神格化されるのはどうなの?」
「…………」
「人間に神って言われたんだけど。駄目って言うならそっちで揉み消しておいてよ。僕もちょっと気持ち悪いし、野放しにしておくのは面倒そうだから」
灰色海月に噂の消去を頼もうかと考えていたが、完全に消すのは難しいだろう。狴犴が処理してくれるならその方が良い。灰色海月の手を煩わせなくて済むし、何かあれば狴犴の責任にできる。
狴犴は考えているのかまた暫く沈黙が流れた。
「……已むを得ない。手配しておく」
「君が行くんじゃないんだ」
「真偽が明らかでもないことに私は動かない」
「素直に信じてくれたのかと思えば、罪人の戯言だと思ってるってわけだね。まあいいけど。一応、神って言われた時の願い事の手紙を渡しておくよ」
歩いて隣のベッドへは行けないので、カーテンの端から二通の手紙を狴犴に投げた。灰色海月が刺された一件と、椒図が宇宙人だと言われた件の手紙だ。この手紙だけは灰色海月ではなく獏が預かっていた。
「……片方は死んでいるようだが」
「えっ、わかるの……?」
灰色海月が刺された件は、獏が契約者を殺して始末した。手紙に触れただけで見抜かれてしまった。
「罪人に刑を科している以上、私も思念程度は即座に感知できるようにしている。この手紙の思念は消えている」
おそらく印で感知しているのだろう。獏はそう推測した。
「クラゲさんを刺したんだから、当然の報いだよ。僕は悪くない」
正当防衛としても過剰だと叱責されることを覚悟して言ったが、狴犴から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「それなら構わない。人間より変転人に重きを置き、正当な理由で始末したなら咎めることはない。刺されたのなら監視役としても行動できないことは理解した。彼女の容体はどうなっている?」
「もう大丈夫だけど」
「完治しているなら私からはもう言わないようにしよう」
科刑所の中ではないからか、それとも疲労も薬も抜けたからなのか、狴犴の物分かりが良過ぎて気味が悪い。獏は物を飲み込めないような顔をするが、灰色海月が咎められないのならこのままでも良いと溜飲を下げた。
もう話すことはないだろうと互いに口を閉じ、また沈黙が流れる。
狴犴と思わぬ話ができて、一つわかったことがあった。椒図が獏と蜃を庇ったと知っているのなら、あの神隠しに使われた街を獏の牢としたことは偶然ではないだろう。鵺には何処まで知らされていたか知らないが、彼女の様子だと何も聞かされていなかった可能性が高い。狴犴が裏から仕向けたのか、そうなるように計算していたのだろう。狴犴は一人で画策して抱え込み、それを積み重ねて利用され倒れた。常に何処かで頭を回していた付けだ。一人で統治するとはこういうことなのだろう。一人では到底抱えきれない。贔屓が何百年も音を上げない狴犴に驚いていたが、今なら納得できる。
「……もしかしてだけど、あの街に僕を閉じ込めたのって、あの街の悪夢を処理してほしいから?」
「……お前はよく喋るな」
「べ……別に喋りたいわけじゃないよ。疑問に思ってることがたくさんあるだけ……。君が大人しく答えてくれるなら、それは訊くでしょ」
「あの街を処理したいのは確かだ。そのためにお前に吐かせようと思ったが……報告書も理解し難いことだった」
「何であの街を処理したいの?」
「二次被害を防ぐためだ。人間が迷い込む危険がある」
「まあ……そうだね。そんなに人間を気にしてるとは」
「私ではない。贔屓が……いや、この話はやめよう」
「…………」
贔屓が人間を庇うから、とでも言いたいのだろう。
贔屓は博愛で、狴犴は身辺だけを護ることができれば良いと思っている。狴犴はその他大勢の獣や人間のことはどうでも良いと思っている。ある程度ではあるが人間まで護ろうとするのは、贔屓がそうだったからだ。贔屓から継いだ宵街の統治にそれは含まれている。狴犴はそう考えている。
狴犴自身の考えは寧ろ獏に近く、獏も人間はどうでも良いと思っている。腹を割って話せば気が通じる所もあるだろう。だが統治者と罪人となったからには、その関係は有り得ない。
静かなカーテンの向こうで水の音が聞こえる。コップに残っている薬水を飲んでいるのだろう。喋り過ぎて疲れてしまったようだ。
「……最後に一つ。これは最初に言っておくべきだったのだろうが……朝顔は覚えているか?」
「朝顔?」
そんな名前の人が透明な街を訪ねたことはあっただろうかと獏は考えるが、そうではないと気付いた。最近ではない、百年ほど前にそんな名前を聞いたことがあった。
「昔助けた子……かな?」
「覚えているようだな。助けた感謝だけはしておく。彼女も感謝して……獏が罪を犯すことがあれば刑を軽くしてやってほしいと言っていた」
「それで僕の刑を軽く……?」
「いや。冗談だと思っていた」
「……」
「自分で礼を言いたかったようだが、それはもう叶わない。罪人に感謝など虫唾が走るが、彼女のためだ」
「あれから百年くらい経ってるもんね……寿命だったの?」
「……朝顔の花一時」
「?」
「彼女は人間の戦渦に巻き込まれて死んだ」
「……」
つまり寿命は迎えられなかった。朝顔は獏がまだ何も知らなかった頃に初めて会った変転人だ。獏が昔出会った朝顔は、誰もいないような山でひっそりと死にそうになっているような弱い変転人だった。
「……君は、人間を憎まないの?」
「私は人間とは係わらない」
それだけ言うと、彼はもう口を開くことはなかった。人間を食べることもない狴犴は嫌なら人間に近付く必要はない。彼は距離を取ることを選んでいるようだ。
朝顔は苧環のように科刑所で狴犴の仕事を手伝っていた変転人だった。人間の街で戦が起こっているため近付くなと狴犴は釘を刺していたが、朝顔は方向音痴だった。獏に助けられた時も、街へ行こうとして山へ迷い込んだからだった。変転人は獣より短命ではあるが、無色はその寿命をも全うすることはない。
正常ではないが青年ラクタヴィージャが獏を狴犴の所へ連れて来たのは、こういうことだったのだろうか。狴犴は何も無条件で罪人を嫌い地下牢に放り込んでいるわけではないと。想像していたよりも色々と考えている。理解できるかどうかは別の話だが、それぞれに理由はあるようだ。
こんな部屋で眠れるはずがないと獏は思っていたが、久し振りの大怪我は体力を削り、その消耗は眠ることでしか回復できない。意識が落ちるのは一瞬だった。
獏がもう何も話し掛けてこないことに、眠ったのだろうと推察し狴犴もベッドに横になる。罪人の隣で呑気に眠りはしないが、目は閉じておく。目を閉じて視覚を遮断するだけでも脳への負担は軽減するのだ。
青年ラクタヴィージャが獏に動物面を届けることは遂に無く、それから暫く待っても誰も病室に来なかった。