104-活性
病室で食事と寝るしか遣ることのない獣達は暇を持て余していた。人間の街では立て続けに事件が起こっているが、負傷した獣達は休むしかなくベッドに転がるしかない。
白花苧環は黒葉菫に報告に行くと言って神隠しの街へ行った。彼の気は重いが由芽の店で起こったことも全て話す。危険なことは情報を共有すべきだ。
獣だけが残された白い病室で、それぞれが虚空を見ながら呆然と過ごしていた。
食事を終えれば自分の病室へ戻るつもりだった窮奇は、歩いて戻るのが億劫でそのまま狴犴達の病室に居座っている。正確には蒲牢のベッドを一部占拠している。
獏も片足で戻ることが難しく、連れて来られたまま蒲牢のベッドの上にいた。
「……あれ? 着替えるの? 蒲牢」
布団からのそりと這い出て新しい服を広げる蒲牢に気付いた獏は怪訝に尋ねる。狻猊が拵えていた服がいつの間にか届いていたようだ。狴犴の傍らにもいつの間にか新しい服が畳まれて置かれている。
「ベッドが狭くなったし、俺の怪我はもういいから、そろそろ退院しようと思って」
「退院って自分で決めていいの?」
「自分の体は自分がよくわかってる」
ラクタヴィージャには止められそうだと思いながらも、獏は止めなかった。
白いガウンを脱いで新しい服に袖を通す蒲牢の腹がちらりと見えたが、確かに傷があまり目立たなくなっていた。内側から破られた腹は漸く癒えたようだ。
「私も退院しよう」
「狴犴はまだ駄目だ。ラクタに訊かないと」
「…………」
狴犴は何か言いたそうに首を回すが、蒲牢は目を合わさなかった。背を向けてブーツを履く蒲牢を狴犴は不服そうに見る。
「もう意識も鮮明で思考も安定している。問題無い」
「俺は医者じゃない。ラクタに訊かないと」
「…………」
狴犴も兄には強く言えないのだろうかと獏と窮奇は物珍しげに発言者に首を回す。
「オレも退院するかぁ」
窮奇まで話に乗り込んでくるので、さすがにそれはまだ早いと獏は止めた。
「君はまだ完治してないってわかるよ。前に顔を合わせた時よりも体調が悪そうに見えるし」
「!?」
露骨に驚いて見せる窮奇に、何かしたんだろうと獏は察した。
「僕も医者じゃないし理由は訊かないけどね」
「……表情が変わるから生き物だってわかるな、お前」
「どういう意味」
話を逸らしたいのだろう。露骨に話題を変える。
いつも被っている動物面は白花苧環に剥がされたまま病室に転がっているが、自力では取りに行けないので獏はもう諦めている。面を被っていないと落ち着かないが、ここではもう散々顔を晒してしまっている。面を被らなくても死にはしない。醜い顔を見られたくはないが、潰れた足で無理をしたくない。
時折会話をしつつそれぞれぼんやりと回復に専念していると、ふと控え目にドアを叩く音が聞こえた。動けない獣達を一瞥し、大人しく隅で遣り取りを見ていた椒図が立ち上がる。蒲牢が本当に退院しても良いのかは椒図にはわからなかった。
ドアの向こうに立っていたのは困り顔をした姫女苑だった。彼女が受付から離れるのは珍しい。
「あ……」
姫女苑は椒図越しに病室を覗き、彼に視線を戻す。
「すみません、椒図様。少し頼みたいことがあるんですが……」
「僕? 僕にできることならいいが……」
「患者様に頼むわけにはいかないので。ドアを開けてほしいんです。私の力では開かなくて」
「ドア……? 鍵が掛かってるんじゃないか?」
「いえ、鍵は掛かってないはずです。手術室のドアなんですが、何か引っ掛かってるのかもしれません。ラクタヴィージャ様はともかく黒色蟹さんは飲食が必要なので、水くらい持ち込んではどうかと提案に行こうと思ったんですが、開かなくて……」
「ラクタの分身は? 引っ掛かって開かないなら、中からなら開けられるかもしれない。分身が本体に知らせることはできないのか?」
「ラクタヴィージャ様の分身の女性体は用を終えたので消えてしまいました。男性体は花畑に行ってます。すぐには戻らないので……」
「……そうか。何とか遣ってみるよ」
「ありがとうございます」
姫女苑に連れられ部屋を出て行く椒図の背を病室の中から一様に目で追いつつ、獣達は訝しげな顔をした。閉じる力を持つ椒図が開けに行くとは妙な展開だが、姫女苑の言っていた通り患者に力を出すのは難しい。
「単純な握力なら俺の方があるかも。俺も行ってみる」
着替え終わった蒲牢も付いて行こうとするので、窮奇もがばりと立ち上がった。手術室と聞いては黙っていられない。そのドアの向こうには饕餮と蜃がいるのだ。
「いやいや、オレの方が握力があるに決まってる」
「窮奇は怪我人だろ? 力んだら傷に響く」
「ドアを開けるくらいどうってことねーよ。向こうで誰かが引っ張ってても開けられるぜ」
「じゃあ試しに握手してみるか?」
「望む所だ。骨を砕いてやる」
廊下に出ながら二人は互いに手を掴み、顔色を変えずに握り締めた。みしみしと骨を軋ませ、こんなことをしている場合ではないと頭ではわかっているため、足も動かす。
獏と狴犴は、何をしているんだと呆れながら見送った。
獏は片足が潰れているため動けないが、自ら退院すると言い出した狴犴もベッドから立つ気配はなかった。焦りはあるがやはりまだ体調が万全ではないと理解はしている。奇しくもそれが怪しい薬の効果が抜けていると証明していた。判断力は戻っているようだ。
一階の奥にある手術室へ連れられた椒図は開かないドアに手を掛け、少し力を籠めてすぐに手を離した。
「びくともしない……。ここでドアを叩けば中に聞こえないか?」
「ラクタヴィージャ様と黒色蟹さんがいる集中治療室は中の廊下を隔てた奥にあるので、聞こえないと思います。防音もしてますし」
「これはちょっと……僕では開けられないかもしれない……」
「そうですか……」
ドアから一歩離れ、二人は途方に暮れた。
「オレ! オレが遣る!」
騒々しく駆け寄って来る牛角の元気な患者に姫女苑は困惑したが、椒図に開けられないのなら他の者に頼るしかない。ラクタヴィージャに走るなと言われているのに、窮奇はそれを忘れたようだ。
仕方無く椒図と姫女苑は道を空け、窮奇は両手でドアを引いた。
「ふっ……! ぐ……ぅ…………うぅ……」
最初は勢いが良かったが、背中の傷に響いたのか力が抜けてドアに力無く貼り付いた。
「これ接着材で付いてる……」
「何のために……?」
「オレの風だと手術室ごと吹き飛ばしてしまうからな……」
何発か拳でドアを殴って足掻くが、やはりびくともしない。
「おい蒲牢、お前は開けられるのか? 何か変な感じがする」
それは腕っ節の話ではない。苛立つ窮奇の様子に、蒲牢も身の丈以上ある間棒を召喚した。
「廊下は狭いから、皆は下がっててほしい。乱暴だけど、ドアを破る」
「えっ……それは……」
ここまで大事になるとは思わず、今度は姫女苑が狼狽えた。ドアが少し開かないだけで壊しても良いものか、そんな対処法はラクタヴィージャから教わっていない。後で叱られはしないかと後込みする。
「弁償しろって言われたら、科刑所に付けておいてよ」
つまり狴犴に弁償させる気だ。
しっかりと皆を下がらせ、蒲牢は長い間棒を控え目にくるりと回した。間棒の変換石が光り、床を蹴って勢いを付け一思いにドアを殴る。傷痕はまだ薄らと残っているが、塞がった腹の傷が痛むことはない。これならラクタヴィージャも退院を許すはずだ。
繊細な治療を施す部屋に繋がるドアは何者の邪魔も許さず堅固だ。一撃では破れないが大きく凹んだドアに続けて何発か打ち込み、最後は足で蹴り飛ばす。一瞬極細い白い糸のような物が見えた気がしたが、それはほんの一瞬だけで、空気に溶けるように消えてしまった。
「……」
ドアの向こうの廊下は狭く、間棒は振れないだろう。一旦間棒を仕舞い、壁や床を見下ろす。何かが引っ掛かっていた痕跡は無かった。鍵もやはり掛かっていない。窮奇と同じく嫌な感じがした。
「退け」
窮奇は特に確認もせず、壊れたドアを踏んで廊下の奥へ走る。
「姫女苑はここで待ってて。受付に戻ってもいい」
「は、はい……」
何の力も持たない有色の変転人は大事を警戒し下げておく。中で何が起こったかわからない以上、無闇に近付けさせるわけにはいかない。
蒲牢も続いて中へ入り、椒図も姫女苑を一瞥し後を追う。病院に運ばれてから一度も顔を見ていない二人のことは椒図も心配していた。蜃は椒図のことを友達と言うが、こんな風に心配することが友達なのだろうか。まだ上手く理解できない。
集中治療室のドアをガチャガチャと揺らす窮奇を見て、これも開かないのだと察し、蒲牢は小さく歌った。
「窮奇、痛みを和らげる。さっきのドアより薄いし、二人で蹴破ろう」
「おう」
蒲牢が歌うと耳飾りの石が光り、窮奇は体に力が戻るのを感じた。正確には力が戻るわけではないが、痛みが和らげばそれを気にせず力を出せる。
目配せし、二人は同時にドアを蹴破った。またふわりと蜘蛛の糸のような物が見えたが、これもすぐに消えてしまった。
中には様々な機械が所狭しと置かれており、その隙間から床に膝を突くラクタヴィージャと黒色蟹の姿が見えた。何かに押さえ付けられているように俯いて眉を顰めているが、押さえ付けるものは何も見えない。
「たぶん原因は蜃だ!」
「え?」
機械を擦り抜けて蜃のベッドに向かう窮奇を蒲牢も慌てて追った。
「何で蜃って……」
ベッドに眠る蜃に辿り着くが、特に変わった所は見受けられない。
「おい蜃! 起きてるか!? 起きられるか!?」
「窮奇、どういうことだ……?」
「説明は後だ! たぶん渾沌の……どうにかして糸を……」
もたもたと機械に引っ掛かる蒲牢を振り向いた瞬間、横になっていた蜃の目がゆっくりと開き、ゆらりと身を起こした。
眠り続けていた蜃が目を覚まし、まだ気付いていない窮奇にそれを知らせようと蒲牢は口を開こうとした。だがそれよりも早く蜃が彼に寄り掛かり、同時に窮奇の背から腹を鋭利な刃が貫いた。刃は縫合した背を破り、包帯に鮮血が滲む。
「っ……!」
「窮奇!」
刺さった刃はすぐに霧散し、傷口からごぼりと血が溢れる。白いベッドを赤く染めて蜃の膝へ倒れ込んだ窮奇を、蜃はゆっくりと無感動に見下ろした。その目は何も映していなかった。
蒲牢は杖を召喚し構える。状況が理解できないが、蜃が窮奇を刺したのは事実だ。怪我人に鞭打つことはしたくないが、床に張り付く二人もいつ攻撃されるかわからない。どんな物でも作り出す蜃の能力は厄介だ。死なない程度に蜃を殴るしかない。
「待って蒲牢!」
「!」
「僕が意識を閉じる」
椒図は杖を召喚し、片手に蜃から貰った赤い金平糖を握り締めた。未熟な今の椒図は人体に力を向ける自信が無い。人体に対して間違いなんて起こすことはできない。化生前の自分の力に頼るしかない。本当は使いたくなかったが、蜃に何かあれば後悔してしまう。
杖の石が光り、手の中の金平糖が粉々に砕ける。杖を振ると蜃の意識は途切れ、ベッドに倒れた。同時にラクタヴィージャと黒色蟹を押さえ付けていたものも解け、二人は床に手を突く。
「遣った……のか? 椒図、遣っ……」
「――アアアアアアァアア!」
少し安堵を見せた瞬間、椒図は突然頭を押さえて膝を突いた。腹の底からの絶叫に、蒲牢はびくりと硬直した。
「ぁ……ァ……蜃……生きて……良かっ……僕の……友達……ずっと……」
手を離れた杖は消え、椒図は糸が切れたように床に倒れた。
「椒図……!?」
機械から伸びる管に足を取られそうになりながら、蒲牢はもどかしく椒図に駆け寄る。彼に息はある。死も感知していない。気を失っただけのようだ。だが肩を揺らしても目を開けてはくれなかった。
「椒図! 大丈夫か!? 椒図……!」
椒図の二度の死が脳裏を過ぎり、呼吸が浅くなる。
拘束が解けたラクタヴィージャは立ち上がるも一度蹌踉めき、機械に手を突いて駆け寄り椒図から蒲牢を引き剥がした。
「蒲牢、椒図は大丈夫だから。治療室に……、っ……」
頭を押さえて眉を顰めるラクタヴィージャもまた『大丈夫』とは言えない状態だったが、ここに医者は彼女一人しかいない。分身体を増やす余力も今は無かった。
「ラクタ……俺は何ともない! 椒図は死んでないんだから……、何をすればいい……? 椒図を治療室に運ぶだけでいいのか?」
「ヒメに……椒図の頭の状態を見てもらって。それだけでいい。私は窮奇を助けないと……」
「それだけか……?」
苦しげに眉を寄せながら頷くラクタヴィージャに、蒲牢は治療には関われないのだと唇を噛んで目を伏せ椒図を抱え上げた。急いで窮奇の許へ駆け寄るラクタヴィージャと覚束無く立ち上がる黒色蟹を一瞥し、廊下へ飛び出した。
廊下には少し身を引きながら不安そうに姫女苑がまだ待っていた。
「急いでっ……椒図の頭を早く調べ……」
呼吸が整わないまま飛び出してきた蒲牢の姿に、中で何か問題があったのだと姫女苑は察した。破られたドアから椒図の叫び声も聞こえていた。
「わかりました。落ち着いて、治療室へ」
怪我人に対してはさすが毎日病院の受付に座っているだけはある。彼女は動じずに対応する。
治療室の簡素なベッドに横たえた椒図の表情は険しく、苦しげに眉間に皺を寄せていた。まるで悪夢でも見ているかのようだ。
「私に診断を下すことはできませんが、機械的な検査なら手順を教わってます。椒図様のこの手の物は……甘い香りが仄かにしますが、何でしょうか……?」
力無く開いた手に残っている砕けた赤い欠片に顔を寄せ、採取しておく。
「少し時間が掛かるので、蒲牢様は病室で休んでいてください」
てきぱきと検査の準備をする姫女苑は蒲牢の方を見る余裕も無く、蒲牢はここではもう自分にできることはないのだと察し大人しく治療室のドアを閉めた。
(俺にはもう何もできない……けど、そうだ、起きた時にすぐに薬水が渡せるように……)
蒲牢は薬水の作り方を知らないが、病室の水差しにはまだ中身が残っている。蒲牢と狴犴の薬水は違う物だったが、どちらかが適切な可能性はある。蒲牢の前で二度も死んだ椒図がこれ以上苦しまないように、出来る限りのことはしようと階段を駆け上がった。死のことは考えないようにしているが、今の椒図はまだ生きているのだ。
病室へ戻ると二つのベッドの間のカーテンが引かれていたが、おそらく獏が閉めたのだろう。狴犴と顔を合わせないように。
息を切らせて戻って来た蒲牢へ怪訝な目を向けながら、獏は人形のような顔を傾いだ。
「ドアは開いた?」
「ドアは……壊した……」
「え……?」
「狴犴、薬水を借りる」
仕切りのカーテンを開け、見上げる狴犴へ説明も無く蒲牢は水差しを指差した。
「……何かあったか?」
「椒図が倒れた」
「奇襲か?」
「わからない……蜃の意識を閉じたら急に倒れて……意識を失った。手に何か甘い粉みたいな欠片があって……」
「動揺しているな。まずお前が落ち着け。薬水は椒図にか? すぐに目覚めたとしてもそう急ぐことはないだろう。ラクタヴィージャはどうした?」
「ラクタは窮奇の治療……窮奇は蜃に刺された」
獏も金色の目を丸く瞠り、無事な片足を床に降ろした。少しの時間に複雑な状況になっている。
「たぶんその甘い物は……」
言い掛けて獏ははっと口を噤み、狴犴へ横目を向ける。地下牢に椒図が秘密裏に持ち込んでいた物を話して良いことはないだろう。……いやその椒図は既に死んでいるのだからお咎めはないのだろうが。狴犴が規則を定めているため、彼の気持ち次第だ。
「私が邪魔か? 已むを得ない、聞かなかったことにしてやる。椒図を助けるために必要なことなら今回は目を瞑ろう」
「随分聞き分けがいい……信じていいんだね? …………いややっぱり廊下で話そう、蒲牢。椒図は罪人じゃなくても僕は罪人だ」
「…………」
獏は蒲牢に運ぶよう頼み、蒲牢は潰れた脚に響かないようそっと持ち上げる。
「たぶんだけど……狴犴も会話に入れてほしいんだと思う。今だけは統治者の立場じゃないって言いたいんじゃないか」
「…………」
「掌を返してきたら俺が制裁するってことで、どう?」
「それなら……まあ……」
蒲牢の強さは既に見ている。狴犴に制裁したこともある。説得力のある言葉だった。それに狴犴は病院で悪夢に襲われた時、椒図を庇っている。少なくとも椒図を悪いようにはしないはずだ。
一旦ベッドに下ろされ、意を決して獏は渋々口を開いた。
「……その甘いのは金平糖だと思う」
「金平糖って、御菓子のか?」
「うん。化生前の椒図の力を籠めた物なんだって。今の椒図は自分の力に自信が無いみたいだし、蜃に力を使うのは躊躇ったんだろうね。それで金平糖の力に頼ったんじゃないかな。倒れたのも、金平糖が関係あるかもしれない。自分の力とは言え、それは過去の物だから……」
「反発……したのか」
「椒図の所に行くなら、僕も行っていいかな。欠片を見れば金平糖かどうかわかると思う」
「わかった。薬水も持って行こう」
狴犴から水差しを借り、蒲牢の水差しも獏に持たせる。二つの水差しを抱いた獏を抱え、蒲牢は急いで部屋を出た。
「…………」
病室に一人となった狴犴も点滴の針を抜き、傍らに置いてあった上着を羽織る。狻猊が新しく拵えた物だ。
立ち上がると足に力が入らず蹌踉めくが、これは暫くベッドの上にいた所為だ。体がすっかり鈍っている。だが車椅子に乗らずとも歩けそうだ。長い髪を緩く纏め、ブーツに足を通し足元を確かめた。
早足はできず階段も時折壁に手を突きながら下り、蒲牢達から少し遅れて狴犴は一階の治療室へ到着した。
「……げ。狴犴も来ちゃってる……」
「兄弟だから心配なんだよ」
長椅子に座らされた獏は椒図の手にあった赤い欠片を抓み、うんと頷く。
「やっぱり金平糖だね。以前の力が体に合わなかったのかな……」
狴犴も近くにある椅子に座り、カーテンで遮られた部屋の奥へ目を遣る。椒図はカーテンの向こうにいるようだ。
「でも何で検査するのは頭だけなの?」
「そう言えば……」
ラクタヴィージャは蒲牢に『頭』を指定した。一目見ただけで何処に異常があるか当たりを付けたのだろうか。
「……わ。声がすると思ったら、集まってたんですね……少し失礼します。カーテンの向こうには入らないでください」
向こう側からカーテンをちらりと開けて覗き、姫女苑は足早に治療室から出て行く。入るなと言われると、薄いカーテン一枚で隔てられた向こう側がとても気になる。
何とか我慢を貫き、点滴のパックを手に戻って来た姫女苑が再びカーテンの中に吸い込まれるのを見送った。
また暫し待つと、検査を終えたのか一息吐きながら姫女苑がカーテンの端から出て来る。
「……あ。まだカーテンの中には入らないでください」
獣達が一斉に腰を浮かせたことに気付いた姫女苑は先に釘を刺した。
「どう……だった?」
代表して蒲牢が問い、姫女苑は困った顔をした。
「先に言った通り私では診断できませんが、脳にかなりの負荷が掛かってるようです。それ以上は私からは何とも。ただ外傷は無く疲労が大きいようなので、点滴を打っておきました」
やはりラクタヴィージャがいないとわからないようだ。窮奇の手術が終わるのを待つしかない。
「……そう言えば椒図が気絶する直前に、『蜃が生きて良かった』って言ってたんだけど……上手く聞き取れなかったから、もしかしたら他にも何か言ってたのかも……。あと、『僕の友達、ずっと』って言ってたかな」
「生きて良かった? ……もしかして、生きてて良かった、なのかな。友達……」
何気無く返した獏だったが、違和感に気付く。今の椒図は蜃をまだ友達と認めていないはずだ。蜃に友達と言われたが、理解がまだ追い着いていない。突然『友達』と、しかも『ずっと』と言うことに違和感があった。
「まさか、化生前の力に触れたことで、記憶が……?」
「……? 外部からの刺激で化生前の記憶を思い出すことなんてあるのか?」
「わからないけど……。でも只の刺激じゃない。自分の力だよ。刺激と言うより、外部記憶装置みたいな……?」
「そんな……機械じゃあるまいし……」
獏の憶測に蒲牢は眉を顰めながらカーテンへ目を向ける。それだと記憶を引き継がなくても過去の記憶を残せることになってしまう。
これには狴犴も眉根を寄せた。
「……椒図の力は閉じることのはずだ。自分の力を閉じることが可能なのも特殊なケースだろう。その金平糖とやらを使うことでどのような作用があったかは医者に任せるが、もし過去の記憶を得たのなら、椒図の享年は四八五歳。四八五年分の記憶が一気に流れ込んだ可能性がある。途方も無い量だ。気を失うのも無理はない」
「よ、四八五……」
途方も無い数字に普通の人間ほどしか生きられない変転人の姫女苑はくらくらとした。獣は長命だと知ってはいるが、実際に年齢を聞く機会は無い。この場にいる他の獣も皆何百年も生きているのだろうと考えると頭がおかしくなりそうだった。
「よく覚えてるな、狴犴。俺は自分の歳も覚えてないのに」
「蒲牢は五四六歳だ」
「覚えてるのか……」
「忘れる方が難しいだろう」
何も言い返せず蒲牢は面目が無くなった。蒲牢が覚えているのは生きているか死んでいるか、それだけだ。
きっと狴犴は九子全員の年齢を覚えているのだろう。贔屓は目に見えて兄弟達に優しく接しているが、狴犴もまた顔や口にはあまり出さないが兄弟を大切に思っている。そのことが垣間見えた気がした。
「蒲牢は無頓着過ぎる」
「狴犴は不器用過ぎる」
「言い返すな」
「……」
結局兄弟仲が良いのだろうと端から見て獏は思った。その狴犴が弟である椒図を地下牢に入れたことには首を捻る所だが、厳格で頑固なのだろう。贔屓との大喧嘩の件からしても頑固なことはわかる。
獏は苦笑し、壁に背を預けて二人を窺う。兄弟がいる感覚は獏にはわからないが、こんなものなのかもしれない。