102-葛藤
誰もいない病室の冷たい床に座り、白花苧環は考えていた。
突然襲ってきた獣に反応できなかった白花苧環を庇い、獏が負傷した。止血の仕方はぼんやりとしか頭になく、充分な手当てができなかった。
拙い処置を施した獏を宵街の病院へ運んでラクタヴィージャに手渡した時、彼女には慌てる様子がなかった。軽い調子で、何なら笑っていた。獣だから大丈夫だと言っていたが、死なないとしても『大丈夫』な負傷ではないだろう。
獏は左脚の膝から下を潰され、骨も粉々になっていた。千切れなかったのは不幸中の幸いだ。命に別状はないが、烙印の制限もあるため回復には時間が掛かるだろうとのことだった。
(迷ってる場合じゃない……)
右目を覆っていた眼帯を毟り取り、白花苧環は立ち上がった。誰もいない病室のドアを開け放ち、丁寧に閉める。その足で向かいの病室へノックもせずに踏み込んだ。
「あっ。マキさん、大丈夫だっ……」
白花苧環は無言で歩み寄り、ぽつんとベッドに横になっていた獏の顔に貼り付くマレーバク面の鼻を掴んで引き剥がした。
「え」
そのまま彼は胸座を掴み上げ、獏は金色の双眸に困惑を浮かべて花貌を見上げた。潰れた足に痛みが走った獏は微かに眉を顰める。
「怒ってる……?」
「言いたいことがあったので、言いに来ました」
「う、うん……」
目を丸くして瞬く獏の困惑は無視し、白花苧環は一旦深呼吸をした。面を枕元に放って空いた手を持ち上げ、獏の白い頬を思い切り打ち、少し考えてもう一度打ち返した。人形のような顔だが、陶器のように硬くはなかった。小気味良い音と共に白い両頬が薄らと赤くなる。言いたいことがあると言いながら先に手を出した彼に獏は更に困惑した。
「これは早期に出すべき結論だと思ったので、考えてきました」
「…………」
何だかわからないが白花苧環は怒っている。獏はそう解釈し静聴することを選んだ。
「貴方達の所為です。死んだ前だの後だの……オレの混乱を無視して郷愁に浸らないでください。オレはこの薄い記憶を手引書として参考にし、使える記憶は使い、異議のある記憶は無視します。罪人に心配される筋合いはありません。もう二度と庇わないでください!」
「……ごめん……」
一息に言い切って乱暴に手を離され、獏はベッドに落ちた。一番言いたかったのは最後の一言だろう。獏が以前の白花苧環の影を追って庇ったことに気付いている。切り替えろと言われても、全く同じ顔をすぐに別人などと切り替えることはできなかった。それが彼を追い詰めてしまった。庇う以外の選択肢は無かった。
白花苧環は一瞬目を伏せた後、早足で病室を後にした。
残された獏は呆然とし、打たれた両頬はまだじんと痛かった。腫れているかもしれない。獏は目を伏せ、月が雲に隠れるように頭まで布団を被った。
その足で白花苧環は廊下を進み、蒲牢達のいる病室のドアを叩いた。罪人の獏には腹が立ったのでどうでも良いが、こちらはノックをする。
ドアを開けたのは椒図だった。白花苧環の顔を見た瞬間に強張った。無表情だが機嫌が悪いことにすぐに気付いた。
「どうしたんだ……? 贔屓が、苧環がいないって困ってたが……」
「すみません。ラクタヴィージャに先に獏の所を勧められてたので、行ってしまいました」
「そうなのか。じゃあ獏も来てるのか?」
椒図は白花苧環の背後に目を遣るが、誰もいない。
「オレに……印を教えてください」
「え……」
椒図は目を丸くし、ベッドの上に座っていた蒲牢を振り返った。目を閉じていた狴犴も顔を向ける。
「オレは印がどんなものかも知りません。もしあるなら、庇われないような……強い印が知りたいです」
何と言えば良いのか言葉が浮かばず、幼い子供のような要求になってしまった。
「何かあったのか? まず話を聞くよ」
小首を傾げながら蒲牢が招くので、椒図は場所を空ける。白花苧環は緊張した面持ちで蒲牢のベッドの前に立った。獣が自分の所為で負傷したなどと話せば、何らかの罰を受けることになるかもしれない。獏は罪人だが、罪人の扱いが白花苧環にはまだわからない。
「……獏がオレを庇って負傷しました」
「! ……誰に……?」
「檮杌……と呼ばれてました」
「!?」
生まれたばかりの白花苧環には蜃が攫われた一件を話していない。彼はまだ事の重大さに気付いていない。蒲牢は狴犴を一瞥し、狴犴もゆっくりと体を起こした。
「その話、詳しく聞かせて。俺の体の具合も大分良くなった。話によっては俺が出る」
空気が一瞬で張り詰めたことには白花苧環も気付いた。罪人ではあるが獣が負傷したのだから、庇われた白花苧環にやはり何らかの処分が下されるのだ。彼は覚悟をした。
白花苧環は淡々と獏に庇われた顛末を話し、檮杌は控えていた白い少女に連れて行かれたと語った。死ぬ前の白花苧環は彼女の姿を科刑所の中で目撃していたが、その記憶は今は無かった。
白い少女の容姿を聞き、狴犴は「鉄線蓮か……」ぼそりと呟いた。
生まれたばかりであまり多くの情報を一気に吹き込んでも混乱するだけだろうと伏せていたが、蜃が攫われた一件を彼にも話した。ここで現れた檮杌がどれほど大事だったか、白花苧環は漸く理解した。逃げる隙を与えたことを後悔した。四肢の一本や二本くれてやるつもりで獅噛み付くべきだった。
「すみません……如何なる処分も受けます」
「処分? お前をか?」
白花苧環は頭を下げながら小さく頷く。狴犴が彼に首を差し出した時のような姿勢だった。変なことを覚えてしまったようだ。
「お前には何もしない。それより問題は檮杌だ」
「ですが……」
「私の決定が不服か?」
「い、いえ……」
何故処分されないのか白花苧環は理解できず、狴犴ももうその話はしないとばかりに打ち切る。何て言葉足らずで不器用な遣り取りなのだろうと蒲牢は呆れるが、他者が口を挟んで拗れても面倒なので傍観を選んだ。
情報を共有した後、それぞれもう一度情報を整理した。白花苧環が聞いた白色鉄線蓮の言葉が気になる。
「……合流って、誰となんだろう……。蜃……じゃないよな。それは言葉が変だ」
『合流』は味方に向けるような言葉だ。瀕死に追い込まれた蜃にその言葉は合わない。
「蜃を探してる風でもないな。もう用済みってことか?」
犯人候補から完全に外れた椒図も思考に参加する。蒲牢も考えながら彼に頷いた。
「用済みなら、蜃を何かに利用してそれが達成されたってことだよな……もしくは役に立たなかったから捨てた?」
まんまと蜃を攫われ、瀕死の重傷を負わせることも止められなかった。相手はこちらを意にも介していないだろう。
顔を曇らせる椒図と目を伏せる蒲牢を狴犴は薬水を飲みながら一瞥し、白花苧環の表情を窺う。以前の彼は生まれた日に武器を取り出し戦う力があったが、最初から表情があったわけではない。今の彼も感情に乏しくはあるが、以前の初期よりは感情が存在していた。薄らと記憶が残っている所為なのだろうが、あまりに目紛しく周囲に変化がある所為もあるだろう。それが庇われた動揺にも繋がり、感情を上手く理解できずに翻弄されている。
「苧環、獏をここに連れて来られるか?」
「抱えれば連れて来られると思いますが」
「罪人の痛みは気にしていられない。連れて来てほしい」
白花苧環に話すことも可能だが、狴犴は一旦彼と距離を取るために獏を呼んだ。
「……わかりました」
部屋を出る白花苧環の背は今まで狴犴が何度も見送ったものと同じだったが、その背に少しの不満が垣間見えた。
白花苧環が望めば印を教えるとは言ったが、本当は教えたくなどなかった。攻撃的な印を覚えれば必ず前に出ようとするだろう。半獣となってしまったことでいらぬ自信を付けていなければ良いのだが。既に檮杌に立ち向かってしまったようだが、白色鉄線蓮に戦闘の意思が無く本当に良かった。彼に無茶な戦闘をさせてまた命を失うことだけは避けたい。
今度はノックは無く部屋に戻って来た白花苧環は腕に獏を抱えていたが、獏は両手で顔を覆っていた。動物面は被っていない。
「着きました」
「……何でお面剥がすの……ねえマキさん……」
「痛がる顔を見られれば二度と庇おうなんて考えないでしょう?」
「庇っちゃいけない規則なんてないよ……」
「優しさは罪です」
「酷い……意味がわからない……」
会話を聞くに獏は元気そうだと蒲牢と椒図は安堵した。左脚にがっちりと包帯が巻かれているが、それ以外に負傷はない。
「獣にここまで強く言える変転人も珍しいな……いや半獣か……」
蒲牢も薬水を飲み、珍しそうに二人を眺めた。
二人の遣り取りは無視することにし、狴犴は事務的に幾つか質問をする。獏は顔から手を離さなかったが、質問には答えた。最初に捕らえられて科刑所に来た時は顔を晒していたのに、面一つでこうも変わってしまうとは。余程あの動物面が気に入ったらしい。
「人間の街で檮杌と接触したようだが、善行のために行ったのか? 被害も詳しく知りたい。殺し方もだ。殺し回っている獣と関係はあるか?」
狴犴のことは嫌いだが、今回接触した情報は共有すべきものだ。獏も反発はせず素直に話す。
「善行じゃないけど……前に善行で行った場所だよ。僕は最初に足が潰されてそれどころじゃなかったんだけど……。外の様子を確認したのもマキさんだし、マキさんに聞けば? 殺し回ってる方とは殺し方は違うみたいだけど」
「苧環、蒲牢のベッドに獏を降ろせ」
「はい」
白花苧環は言われた通りに蒲牢のベッドへ獏を座らせる。狴犴は短い杖を召喚し、顔から手を離さない獏へ突き付けた。
「私の前で巫山戯るな、罪人。目を開けないとこれからお前がどんなことになるか見えないが構わないか」
「……?」
怪訝にちらりと指の間から覗き、獏は眉を顰めた。
「……ここで遣り合おうって言うの?」
ばちんと眼前で何かが爆ぜ、弾かれるように手が剥がれる。倒れそうになる体を両手を突いて支え、獏は狴犴を睨んだ。
「少し赤いな」
「っ……マキさんが何度も殴るから!」
面を剥がす度に平手を往復され、獏も意味がわからないのだ。庇ったことをそこまで嫌がるとは思わなかった。鬱憤が溜まっているのかと疑いたくなる。
「悩みなら聞くけど、殴って発散は感心しないよ!」
「……苧環に何をした?」
「危ないから庇っただけなのに、そんなに悪いことなの!? 僕が突き飛ばさなかったらマキさんは潰れてたかもしれないんだよ!?」
「お前はそうしてすぐに感情的になる。だから罪人は信用できない」
「誰に対してもこうじゃないからね。君が相手だからこうなってるだけで」
狴犴は溜息を吐き、無感動な顔で杖を消した。
「苧環がここまで拒絶するのは他に理由があるはずだ。この苧環は罪悪についてまだ碌に知りもしないのだからな」
「そんなこと言われても、別に何も――」
してない、と言おうとして、ふと頭に浮かんだことがあった。今の白花苧環には何もしていないが、以前の彼には生命力を与えた。その後に黒葉菫にも生命力を与え、その二つが原因で獏は死にかけた。
「まさか……生命力のことを覚えてるの……?」
白花苧環は一瞬苦しそうに眉を顰め、顔を逸らした。
「もう……オレのことは庇わないでください。それだけです」
白花苧環の中に残っている記憶は少ないが、その中で二つ、大きな記憶がある。本を読んでいるような感覚であることには変わりないが、他の記憶は単語なのに対し、その二つは文章になっているとでも言えば良いのだろうか。一つは狴犴に頭と脚を潰されたこと。もう一つは獏に生命力を分け与えられたことだ。自分が死んだ瞬間の記憶は意識が消えるのが早かったためか然程残っていない。詳細な状況は闇に沈んでいるが、狴犴に潰された混乱と疑問、獏に救われた困惑と謝意は根深く残っている。自分の所為で誰かが傷付くのはもう見たくない。
「……オレが傷を負わせたも同然なので」
「マキさん……」
記憶が心的外傷となっているようだった。それ以上は何も言えず、獏も閉口するしかなかった。様子を窺っていた狴犴も暫くは口を噤み、病室はしんと静まり返った。
再び沈黙を破ったのは狴犴で、冷静に切り替えて話を進めた。黙るにはまだ早く、話すことはまだある。
「……成程な。どう治癒を施したのかと思っていたが、お前が生命力を与えたのか。烙印にそこまでの自由を与えたつもりはないが、無理に抉じ開けたようだな。お前の力を読み違えたか。全く……罪人の分際で好き勝手してくれる」
「君にだけは言われたくないんだけど」
「その話は後だ。まずは檮杌のことを聞かせろ。お前に訊いてるんだ、獏」
「……」
獏は忌々しげに狴犴を睨み、吐き捨てる。
「僕じゃなくて窮奇でも呼んでくれば? 四凶のことなら窮奇の方が詳しいでしょ?」
「自分の立場が理解できていないようだが……まあいい。苧環、窮奇も連れて来い」
「……はい」
白花苧環は長い白髪を翻し、すぐに踵を返す。状況が理解できていないのは白花苧環も同じだ。今は混乱を抑え込み、言うことに従っておく。
遠離る足音が聞こえなくなると、狴犴は機会を窺って口を開いた。
「獏」
「……何」
「苧環を危険な場所へ連れて行くな。善行なら灰色海月を連れて行け」
「あんなに危険だってわかってたら誰も連れて行かないよ。偶々襲われた人間が逃げ込んできて……運が悪過ぎる」
ぼやくが、狴犴が白花苧環の身を案じていることは伝わっている。あの観察日記を読んだのだから瞭然だ。
「……ねぇ、一人目の苧環さんは病死らしいけど、二人目と三人目の事故死って何なの?」
「お前に話すことは何も無い」
「君が起こした事故じゃないよね?」
「……口の減らない罪人だ。烙印をもう一度捺印してもいいんだが」
「…………」
獏はむっと口を噤む。折角贔屓に半解除してもらった烙印に再び重ねられたくはない。狴犴は冗談など言わないだろう。
口を挟む余地が無く蒲牢は黙って薬水を啜っているが、内心では二人の不器用な遣り取りに呆れていた。白花苧環を心配していることは二人共同じなのに噛み合っていない。罪人だの統治者だの言っている場合ではないのに。ここには不器用な者しかいないのか。
獏を連れるよりも時間が掛かったが、白花苧環は再び腕に獣を抱えて戻って来た。窮奇が大人しく抱えられているなど珍しいが、どうやら眠っているようだ。
「動かしても起きないんですが、どうしますか?」
「回復に専念しているのだろう。蒲牢のベッドに降ろしておけ」
「俺のベッドが狭くなる……」
座っているので足元は空いているが、それでも獏が座り窮奇も横にとなると狭い。白花苧環は言われた通り窮奇を置くが、やはり目は覚まさない。
「悠長に目覚めを待っている時間は無い。起こせ」
「いいんですか?」
「構わない」
白花苧環は無感動に窮奇の胸座を掴み、平手で強く彼の頬を打った。一発では起きなかったので、起きるまで打った。小気味良い音だけが病室に響く。獏もこんな風に打たれたのだろうと蒲牢と椒図は固唾を呑んだ。
「――いってぇな誰だこのっ……」
寝起きの拳は白花苧環にするりと躱され、空振った窮奇は背中を押さえて丸くなった。背中の傷が癒えていないのに無茶な動きをするからだ。
白花苧環は数歩後退して距離を取り、無言で控える。白花苧環自身は覚えていないが、以前も狴犴の前ではこうだった。必要以上のことは口にせず淡白に命令を遂行する日々だった。
「……ん? ここは……何でまたこの嫌な部屋にいるんだ……?」
状況を察することができない窮奇は部屋を見回し、狴犴の姿を見つけて顔を顰めた。
「ちょっと話を聞いてもらいたくて、連れて来られたんだよ。おはよう」
「おは……、言うかこの馬鹿」
窮奇は一つ欠伸をし、傍らに座る獏を一瞥する。その足に包帯が巻かれていることに気付いた。眠っている間に何かあったらしい。
「わかった。お前も殴られて起きたんだろ」
「一緒にしないで」
「何か作り物みたいな顔だなお前……脚折られて起きたのか?」
顔は今は関係ないだろうと獏はむっとした。
「あのねぇ……これは檮杌に潰されたんだよ」
「は!?」
飛び出した名前に反射的に構えてしまい、窮奇はまた背を丸めた。
「あいつ見つかったのか!? 十発……いや百発は殴らないと気が済まねぇ! 何処にいやがる!?」
「落ち着いてよ。別に居場所を突き止めたわけじゃない。偶然会っただけ」
「偶然でも何でもいい。場所を教えろ」
「とっくに移動してるよ。とにかく話を聞いて」
どうやら話はこれかららしいと窮奇は寝起きの頭で察した。胡座をかいて膝を叩く。
「じゃあさっさと話せ」
彼のために話せる所までは獏が話すが、後半は殆ど白花苧環一人でもう一度話すことになった。最初に檮杌は外にいた人間を襲い、一人が逃げ込んだ店内で追ってきた彼と鉢合わせることになった。
「檮杌は殺す気満々でしたが、白い女性に無理矢理連れて行かれました。黒い傘を持っていたので、変転人……それだと思います」
覚えたばかりの言葉を手繰りながら引き出し、白花苧環は話を締める。生まれたばかりの彼には特に疑問に思うことではなかったが、獣達は一様に表情を変えた。
「黒い傘……?」
「白い変転人なら白い傘だよね?」
「黒を殺して奪ったんだろう……」
派遣して戻らない変転人がいると以前狴犴は言ったが、その変転人から奪った傘で間違いないだろう。
続いて獏は窮奇に聞かせるために、人間の街で人間を切り裂いて回っている獣の話をした。人間が幾ら殺されようと知ったことではないので窮奇は冷静に聞いていた。
「……この話、窮奇はどう思う?」
「どうって……」
窮奇は険しい顔をしながら頭を掻き、どれから話したものかと考える。饕餮がいれば二人で話を纏められたのだが、今は彼一人だ。何とか一人で纏めるしかない。いつもなら面倒だと思うが、今回の件は蜃に絡んでいる。面倒がっている場合ではない。
「……まずオレは、渾沌の力を全て把握してるわけじゃない。それを前提に聞け」
何か気付いたことがあるらしい。皆はそれぞれ頷き、先を促した。
「殺し回ってる方の殺し方は渾沌に似てる。何て言えばいいかわからないんだが……渾沌がよく使う力は三つあるんだ。その内の一つに似てる。実際に死体を見てねーから違うかもしれないけど」
「参考までに、残りの二つは?」
「何て言えばいいんだ……? 一つは勝手に菌糸って呼んでる。これが厄介な奴で、他人を洗脳できるらしい。もう一つは広範囲の攻撃だが……説明が難しい」
「菌糸……? 洗脳ってかなり面倒な力だな」
薬水を啜りながら眉を寄せる蒲牢に窮奇も軽く頷く。
「それから……無理矢理連れて行かれたとか言ってたけど、無理矢理だとしても檮杌が変転人を振り解けないはずがない。だからそれは従ってる証拠だ。檮杌の性格が変わってない限りは、あいつが従うのは渾沌だけ。合流するのは渾沌だろ。とすると……その変転人はたぶん渾沌に菌糸で洗脳されてる。菌糸の洗脳は完全に自分の思考だと思い込むから、解けたとしても洗脳中の思考も全て自分の考えだと疑わない。渾沌は口が上手いから、菌糸を使わず言い包められてるだけかもしれねーけどな」
「渾沌は動けないって言ってなかった?」
「言った。さっき前提も言った。オレは渾沌の力を全て把握してるわけじゃない。動けない時に力が使えるかどうかなんかわかるわけねーだろ。見たことないんだからよ」
洗脳されているなら、狴犴を陥れた罪は彼女に負わせるわけにはいかない。どの程度の洗脳か見極める必要がある。
それぞれ幾らか質問が頭に浮かんだが、最初に狴犴が口を開いた。
「その白い変転人は白色鉄線蓮だ。渾沌が動けない状態で彼女が洗脳されたのなら、攫われた蜃も洗脳された可能性はないか?」
「嫁が……?」
瀕死の状態で見つかった蜃を洗脳してどうなるかと疑問はあるが、元気な内に洗脳の菌糸を使ったまま放り捨てた可能性もなくはない。
「見ただけじゃ判別できないからな……」
「洗脳は具体的に何をさせることが可能だ?」
「あー……ちょっと待て……それは…………確か、脳の信号を乗っ取るとか……? でも直接手足を勝手に動かすことはできなくて、頭ん中で命令を出すような……そんな感じだ。難しい話はわからねー」
「成程。それで操作ではなく洗脳なのか」
浅葱斑を印で操っていた経験のある狴犴は一人で納得する。印を組むには時間を要するため使う者はあまりいない。自分の力で事足りるならそれで満足するものだ。拘束の具合は緩いようだが、意のままに操れるのなら洗脳でも充分だ。
そしておそらく、彼女が狴犴に手渡した薬にも菌糸が含まれている。狴犴は知らない内に洗脳されていたのだ。思考や判断力が覚束無かったのも、洗脳により本来の思考が抑え込まれていたからだろう。
狴犴が呑んだ薬と同じ成分が蜃の体内から検知されたとラクタヴィージャが言っていたが、この菌糸である可能性が高い。眠っている間は問題はないだろうが、ラクタヴィージャに用心を呼び掛けておいた方が良いだろう。
「つまり、檮杌は鉄線蓮の言葉を渾沌の言葉だと思って言うことを聞いてるってこと?」
「だろうな」
推測でしかないが、獏の質問には今はこう答えるしかない。
洗脳については獏も狴犴と同じ質問がしたかったので、二度も聞く必要はない。
「あの、」
獣達の会話にも白花苧環は臆することなく口を挟む。自信があるのだろうと、黙って話を聞いている椒図は少し羨ましくなる。
「檮杌を急かす鉄線蓮の言葉は彼女の言葉のようでしたが、渾沌が喋らせてるわけではないんですか?」
「あ? 別に操ってるわけじゃねーからな。渾沌が出した命令を達成するために喋ってんだろ。意識を乗っ取ってるわけじゃねぇ」
「そうなんですか。意識があるなら抗うこともできそうですね」
「だから渾沌は口が上手いって言ってんだろ」
「そうですね」
「何だこの変転人……」
殆どの獣にとって変転人の印象は『従順』であり『余計な口出しはしない』ものである。窮奇も例外ではなく、遠慮無く発言する白花苧環を異質な目で見る。
「マキさんは変転人だけど半獣なんだって。あと今は機嫌が悪いから攻撃的」
「半獣……? そんな生き物初めて聞く……おい、機嫌が悪いのはオレの所為じゃねーだろ」
尤もな言葉だったので獏は頬を膨らせた。好きで機嫌を悪くさせたわけではない。釈然としない。
「――で、檮杌のいた場所は?」
肝心なことを聞かねばと漸く切り出せた窮奇は身を乗り出す。今はそこにいなくとも手掛りや推測は可能なはずだ。
「その体で遣り合うの?」
「……あ?」
眉間に皺を寄せ胸座に掴み掛かりそうな気の短い窮奇を止めようと蒲牢が腰を浮かせた時、激しい音を立ててドアが勢い良く開け放たれた。
「!?」
台車がドアにぶつかり、押していた少女の体がかくんと跳ねた。
「もう! 食事の時間は動き回らないで!」
台車の方向を直し、幼い少女の姿をしたラクタヴィージャが眉を上げながら病室へ入って来た。珍しく語気が強い。無人の病室を巡回したのだろう。
「また運ぶのは面倒だから、ここで食べて行って。食器の回収も楽だわ」
てきぱきと狴犴と蒲牢のベッドに机を出し、食事の載った盆を置いていく。机に押されて獏と窮奇はベッドの端に追い遣られた。
「窮奇の食事だけ皆とは違うけど、焼いた人肉だから安心して食べて」
「焼肉は久し振りだな」
「僕はさっき食べた所だから、ちょっと入らないかなぁ……」
獏は黒葉菫が手配してくれた弁当を食べたばかりだ。腹は減っていない。
「そうなの? じゃあ椒図が食べていいわよ。廃棄するのは勿体ないから」
「患者じゃないのに、いいのか……?」
「ずっとここにいるし、何も食べてないわよね? 遠慮しないで食べて」
それだけ伝えると台車を部屋の隅に置き、幼いラクタヴィージャは足早に病室を去った。菌糸について情報を共有しておきたかったが、忙しいのか呼び止める隙が無かった。
会話は可能だが患者である獣達は、各々の回復のために必要な食事に手を付ける。問題の解決は急ぐべきだが、体が動かなければ何もできない。
早速窮奇は分厚く切られて積まれた肉にフォークを突き刺し、豪快に噛み千切った。普段は肉に火を通さないし食器も使わないが、出されれば手に取ってしまう。
「……人肉って美味しいの?」
獣の食事は様々でそこに文句を言うつもりはないが、やはり自分で食べない物はどんな物なのかと気にはなる。食べたいとは思わないが。
「草食じゃなけりゃ喰ってみるか?」
「え……」
「喰って具合が悪くなっても知らねーけどな」
「じゃあ食べない……」
獣も人間のような人型が多いため、似た容姿の人間を食べるのは確かに抵抗がある。繊細な者だと具合も悪くなるだろう。
「こう言っても饕餮は喰ったぜ?」
「饕餮は何でも食べる……」
ぼそりと蒲牢が口を挟むので、窮奇も気になっていた彼らの食事を尋ねた。皿の上どころか盆からも食み出ているそれは何なのかと。視界の中で存在感があり過ぎる。
「それよりお前らのは何だ? バカでかいパンか?」
「ナンだよ」
「だから何だよ」
「ナン……バカでかいパンとカレー」
何度言っても通じなさそうだったので蒲牢も諦めた。通常あまり病院では出ないメニューだろうが、宵街の病院では定番だ。獏のように辛い物が苦手な患者のためにカレーの辛さは抑えられている。ラクタヴィージャ曰く、体に良い物をたくさん混ぜ込んでいるらしい。
肉を突いたりナンを千切ったりする獣達の傍らで何もすることがなく立ち尽くしていた白花苧環はふと視線を感じた。狴犴が無言で視線を送り、気付いた彼を視線で呼んだ。
「…………」
『近付くな』と記憶にあるのでなるべく接近はしたくない白花苧環だったが、今なら病室には他にも人がいる。警戒しながら狴犴のベッドへ行くと静かに仕切りのカーテンを引かれ、目で追っていた蒲牢の視線が遮られた。ぐるりとカーテンで囲われ、皆のいる部屋なのに二人きりの個室になってしまった。
「……何ですか」
「座れ」
狴犴は壁際にあった椅子を置き、静かに勧めた。
さっさと要件を言ってほしい白花苧環だったが、座らないと話さないらしい。渋々座った。
目線をやや下げて目を合わせない白花苧環に、狴犴は点滴台を移動させながら体を向ける。
「警戒しなくても、危害を加えはしない」
「…………」
「怖いか? 庇われることが」
「…………」
その話か、と白花苧環は心中で溜息を吐いた。処分はしないようだが、獣に対して些か乱暴な態度を取っていることを注意でもするつもりなのだろう。だが白花苧環に態度を改める気などなかった。本当にもう二度と庇われたくないのだ。この態度の所為で何らかの処分が必要なら黙って受けるつもりだ。
「まるで嘗ての私を見ているようだ」
「……?」
不可解な言葉に、白花苧環はつい顔を上げてしまった。狴犴と目が合ってしまう。彼は何を考えているのかわからない目をしていたが、その目には恐怖を感じなかった。以前の自分を殺した獣に対して、恐怖を抱かなかった。
「私も庇われるのは御免だ。そして拒絶した結果、過ちを犯した。お前は今、私と同じように、遠ざけようとしているな?」
ゆっくりと諭すように、言葉を覚えたての子供に言い聞かせるように、狴犴は柔らかく言葉を紡いだ。
「私は自分が嫌われようが何も感じないが、お前はそうではない。いや……少し違うな。お前はまだ生まれて間も無い。まだたった一日しか経っていない。そんなに早く周囲の関係を断とうとしない方がいい。お前はまだ知らないことが多い。記憶が僅かでも残っている所為で、知ったような錯覚を起こしているだけだろう」
「…………」
「お前はまだ学ぶことが多い。早々に切り離そうとするな」
「……獏は罪人ですが」
「あの罪人は元々は非力だった。罪は認められないが、力の増加は参考にできる所があるだろう」
「……守られろと言ってるんですか」
「誰かを庇おうとする行為は、単に守ろうとしているだけではない。無関心な相手を庇うことはないからな。誰でも庇う偽善者はそう多くはないだろう」
「だから黙って庇われてろと言いたいんですか」
「……そうか。お前にはまだ難しかったか。もう少し感情が育たないと説教は無駄だな」
「…………」
「私は何度も苧環に庇われた」
狴犴は目を伏せ、白花苧環から視線を逸らす。窓の向こう、遠くを見るように目を細めた。
「それは私の弱さだが、苧環の強さでもあった。私は苛立つしかできなかった。お前を見ていると、自分の未熟さがよくわかる」
「…………」
「お前を喪ってよくわかった。拒絶しても良い結果にはならない。私が強くなれば庇われることはないと使用できる印の数を増やし、お前が強くなれば怪我を負うこともないと頭を回してはみたんだが。難しいことだ」
「……すみません。よくわからないです。それは強くなることができなかったんですか? それとも強くなっても無駄だったんですか?」
「前者に近いだろうな。弱者が弱者を庇おうとするから痛い目を見る。お前が強くなり、庇って死なないなら問題は無い。お前に印を教えるのは反対だったが、お前が死なないために覚えるのなら、賛成だ。本音は……印はまだ少し早いとは思うが」
視線を戻した狴犴の口元には仄かに柔らかな微笑があった。白花苧環は色の異なる穢れのない澄んだ双眸を丸くし、その胸の内に起こった感情を言葉にできないことに気付いた。言葉にできないのなら、それは未熟な証拠だ。
狴犴が拒絶した所為で、四人目の苧環は彼の感情が読み取れずに恐れることになった。本当は恐れることは何も無く、恐れていたのは狴犴だった。
記憶が残っている所為で知ったような気持ちになっていた。狴犴が見せた表情と声色は、四人目の彼の前では封じていたものだったということに彼は気付かなかった。
「お前には、生きていてほしい」
今までも、そう伝えるべきだったのだろう。初めて伝えた狴犴の言葉に白花苧環は深意を探ろうとしたが、できなかった。
「…………はい」
無意識に返事をしていた。今の返事は現在の彼が発したものだったのか、それとも以前の誰かだったのか、それはわからなかった。
「話は終わりだ。私は食事を摂る。お前は自由にしていろ」
「……全てが理解できたわけでは……」
「構わない。感情が育てばいずれわかる。異論があるならその時に聞く。お前が答えを出すのはまだ早過ぎる。焦らなくていい」
「……はい」
白花苧環が強い拒絶を示し揉めている姿を見て一番応えたのは狴犴だ。自分のしてきたことは苧環のことを考えているつもりだったのに、子供染みたことだったのではないかと思えてきた。最近は怪しい薬の所為もあり、一層子供染みていた。付け込まれるのはこれで最後にしたい。
まだ暫くは黙って俯いたまま座っていた白花苧環だったが、徐ろに立ち上がり頭を下げた。記憶は絶対ではなく、不確かなものだと教えられた。
遮っていた白いカーテンを勢い良く開け、聞き耳を立てていた者達を冷たい目で見下ろす。
「…………」
カーテンの際で集まっていた三人は素速くベッドに戻った。椒図だけは場所を動かず黙々と食事を摂りながら、カーテンに張り付く三人を見守っていた。
「獣は皆子供ですね……」
それは自分自身にも言っているのか、小さく溜息を吐きながら白花苧環は壁に寄り掛かった。
部屋を出ないということは狴犴の言いたいことも多少は咀嚼できたようだ。そのことに狴犴は少し安心した。今度は失敗しないように、願うばかりだ。