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101-遺された記憶


 誰もいない静かな透明の街に一つ灯る明かりの中へ、黒葉菫は大きな紙袋を抱えて戻って来た。椒図に街を閉じてもらい再び時間が停止したが、体なのか脳なのか変化に付いて行けずに眠気がある気がする。誰かが目を覚ますまでは自分が起きていないとと鼓舞し、背後を振り返る。

(つい連れて来てしまった……)

 片目に白い眼帯を付け長い白髪を一つに縛った白花苧環は、振り向いた彼を怪訝に見返す。

 病院の廊下で独り佇んでいた白花苧環は元気が無いように見えた。生まれたばかりで感情が乏しいためにそう見えたのかもしれないが、病室には贔屓(ひき)達がいるのにぽつんと独りでいた彼に違和感があった。獏の所へ戻るが行くかと尋ねた所、すんなりと付いて来た。

 白花苧環は暗い煉瓦の街を見渡し、不思議そうにしている。景色は記憶に無いのか、初めて見るような目をしている。

「……ここにはあまり気配が無いですね」

「この店の中にしか人はいない。今は獏と、クラゲ……灰色海月と、洋種山牛蒡がいる」

「灰色海月……申し訳ないことをした記憶があります」

 おそらく両手を切り落としたことだろう。灰色海月はもう気にしていないようだが、白花苧環の記憶にはしっかりと残っているようだ。

 古物店のドアを開けると、黒葉菫の後に続きながら白花苧環は並ぶ置棚に珍しそうに目を巡らせる。

「何か気になる物があるか? 店だから手に取っていいはずだ」

「いえ……何に使う物なのかと思っただけです。あの奥の黒い塊は何ですか?」

「どれだ?」

 白花苧環の視線を辿り、黒葉菫も棚の薄暗い奥を覗く。物に埋もれながら確かに黒い塊がある。それはダイヤル式の黒電話だったが、黒葉菫はそれを見たことがなかった。ボタン式の電話なら見たことがあるのだが、形状が異なるので二つが結び付かなかった。

「俺にもよくわからない」

 棚に並ぶのは瓦落多ばかりに見えて、用途など考えたこともなかった。

 奥まで棚を見て歩き、机と古い革張りの椅子に目を落とす。椅子に比べて机は新しそうだ、と白花苧環は思った。古い机は以前の彼が破壊したのだが、その記憶は無かった。

 白花苧環が視線を落とす机に黒葉菫は抱えていた紙袋を下ろす。

 静かに店内を観察していたがばたばたと騒々しく階段を駆け下りる音がし、白花苧環は振り返る。階段から飛び出した灰色が勢い良く衝突した。

「っ!」

 誰もいないと思っていたのだろう。白花苧環に支えられ、灰色は謝りながら顔を上げた。彼女はぶつかった人物の顔を見たまま固まってしまう。

「マキさん……?」

 声が少し上擦った。死んだはずの彼と瓜二つの花貌をした白い人物が彼女を見下ろし、目が離せなくなった。これは夢なのだろうか。

「マキ、灰色海月だ」

 珍しく騒々しい彼女に反応が遅れてしまったが、黒葉菫は困惑する白花苧環に彼女の名前を教えた。白花苧環は表情を変えなかったが、深く頭を下げた。

「この人が……。すみません」

「?」

 唐突に謝るので灰色海月も困惑してしまった。

 黒葉菫は灰色海月に白花苧環の状態を説明し、漸く彼女は納得した。生まれ変わった彼には以前の記憶は無いが、ほんの少し覚えていることもある。

 灰色海月は一歩下がり、改めて深々と灰色の頭を下げた。

「初めまして、灰色海月です」

「……初めまして」

 白花苧環も胸に手を当て、丁寧に頭を下げる。

 僅かに記憶があるとは言え別人なのだから初対面なのだ。全く同じ顔なので黒葉菫はそのことを失念していた。初対面の挨拶をしていない。だがここで挨拶をするのも今更だと思ってしまう。

 とりあえず挨拶は保留にして、黒葉菫は話を逸らした。

「クラゲは急いでたみたいだが、何かあったのか?」

「っ……」

 階段を駆け下りて来たことを思い出し、灰色海月の顔は途端に青褪めた。

「ど、どうしましょう……私、獏にとんでもないことを言ってしまいました……。あんなことを言うつもりはなかったんです! 困らせてしまうだけだとわかってたのに……」

 獏の傍にいたいと吐露したことだ。時間が流れ出したこの街で溜まっていた疲労が、抑えていたものが零れてしまった。謂わば事故のようなものだ。

「お詫びになるかわかりませんが、何か御菓子を作ります……何がいいでしょうか……」

 すっかり落ち込んで肩を落とす。暫く眠ったことで気持ちは落ち着いたようだ。代わりに後悔に苛まれている。

 だが台所の食材は殆ど駄目になってしまった。そのことも含め、黒葉菫は説明しておくことにした。

「作れる材料はないかもしれない。街の時間が動いてるみたいなんだ。それで幾つか腐ってた。確認してくれるか?」

「そうなんですか? では買出しが先なんでしょうか……宵街にもう供給を頼んでもいいんでしょうか?」

「供給は俺にもわからないが、クラゲも腹が減ってないか? 御弁当があるから食べていい」

「私の御弁当……ですか?」

「五人分作ってもらった。獏とヨウ姉さんは起きた時に食べてもらおう」

「獏も寝てるんですか? なら獏が起きるのを待ちます」

「……まあ、そう言うと思ったが」

 机上の大きな紙袋から五つのタッパーを取り出し、並べておく。インスタントの味噌汁は纏めて台所へ置く。その様子を白花苧環は物珍しそうに見ていた。

「まるで夢で見た物を思い出そうとしてるようです」

「?」

 透明な箱から見える中身に薄らと見覚えがあるような気がして、白花苧環は懐かしそうに箱に触れた。この微かに残る夢のような記憶は、泡沫のようにもうすぐ消えてしまうものらしい。忘れてしまう前に見ることができて良かったと思う。

「ここは何なんですか? 皆さんが住んでる……家? という物ですか?」

 本当に彼は何も知らないのだと改めて思い、この場所を説明するのは自分だろうと灰色海月は動揺を呑み込んで口を開いた。

「ここは獏の牢です。獏は罪人なので、私が監視をしてます」

「罪人……」

 その言葉を聞いて態度が急変しないかと灰色海月と黒葉菫は一度沈黙し白い彼の様子を窺うが、心配を余所に白花苧環の表情は変わることはなかった。狴犴(へいかん)の許で罪人や罪悪を見ていない真っ新な状態では、嫌悪する感情も生まれないのだろうかと思う程に静かだった。

「獏は何をしたんですか?」

「……暴食です」

「……? つまり、食べ過ぎですか? 過食が罪になるんですね。オレも気を付けます」

「ちょっと待ってください……少し違います。獏は悪夢を食べるものですが、良い夢も食べ荒らしたので、罪になったんです。普通の食事でお腹一杯食べ過ぎても罪ではないです」

「良い夢であっても夢は形の無いものだと認識してます。空気を食べるようなものじゃないですか? 獣の規則は難しいですね」

 これ以上どう説明すれば良いのか灰色海月は困り果て、助けを求めるように年上の黒葉菫に目を遣った。だが黒葉菫も困惑してしまった。黒葉菫は獏の監視役代理を務めたことはあるが、飽くまで一時的な代理であり罪の詳細は知らないのだ。

「……何を罪とするかは狴犴が決めるから……俺にもどう悪いのかよく……。もしかしたら、良い夢を喰らうことで人間が体調を崩すとか、何かあるのかもしれない」

「獣でないと想像すらできないことなんですね」

「今まで疑問に思うこともなかった……零歳なのに鋭い……」

「! そうですよね、マキさんは今、零歳……つまり私の方が年上になったんですよね。しっかりしなくては」

 何だか急に子供扱いされたようで、白花苧環は少し不満を覚えた。

 罪とは何かを議論していると、階段が軋む音が聞こえた。陰から様子を窺うように静かに黒い動物面が顔を出す。

 三人は口を閉じ、それぞれ頭を下げた。罪人であっても獣には敬意を表し頭を下げるものだ。余程の悪者でない限りは。

「……マキさん? 来てたの?」

 寝起きの獏は小さく欠伸をし、面々に目を遣る。灰色海月は緊張し、静かに目を逸らしながら台所へと下がった。顔を合わせるのが気不味かった。

 白花苧環は疎ましい恩人である妖しい動物面を凝視し目を逸らさない。

「暫く貴方の傍にいるのが良いとラクタヴィージャに言われました」

「えっ、そうなの? ……もしかして検査で何かあった?」

「検査の結果、半獣だと言われました。前例が無いそうで、念のため獣の近くにいるようにと。監視のようなものだと思います。迷惑を掛けるかもしれません」

「半獣って……半分獣ってこと!?」

「オレもよく理解できてませんが……何が可能なのか、獣の力がどんなものなのかもオレにはわかりません。贔屓は印が使えるのではと言ってましたが、印が何なのかもわかりません」

「印は僕にもよくわからないけど……大変なことだっていうのはわかる……。半獣なら、杖は? 出せるの?」

「杖は出せないのでは、と言われました」

「はあ……成程……」

 何故獏に預けられたのかわかった気がした。獏は半獣ではなく歴とした獣だが、杖は出せない。同じ杖を出せない者として何か気付くことがあるかもしれないと似た力の許に任されたようだ。

「でもいきなり半獣って言われてもね……獣って作れるものだったんだ……。スミレさん、試しに素手の手合わせをしてみる?」

 信じ難い報告に頭が付いて行かずに呆然としていた黒葉菫は何拍かの沈黙の後、漸く自分が話し掛けられたのだと気付いた。

「無理です」

 考えるより先に口が断っていた。以前の白花苧環とは別人と言えど、記憶が微かにでも残っているなら体の使い方も覚えているかもしれない。以前の時点で白花苧環の戦闘力は充分高かった。それが今は半獣と言うのだから、一介の変転人である黒葉菫が敵うはずがない。

「手合わせなら、獣の方が適任では……」

「僕はまだ少し眠くて、力加減を誤るかもしれない。別に殺し合いをしてって言ってるんじゃないんだから。動きが見られればそれでいいよ。……駄目?」

 首を傾け、穏やかに微笑む。まるで痛い結果にはならないと言っているように。

「…………」

 結果として、しなければ良かったと黒葉菫は後悔することになる。

 台所からハラハラと見守っていた灰色海月は店から出る三人の後に付いて行き、ドアの隙間から恐る恐る様子を窺った。

 時間の停止が解除された街の中にいた黒葉菫もまた万全の体調ではなかったが、開始の合図から何秒耐えられただろうか。最初は白花苧環も体の調子を窺うように手探りだったが、動くと確信してからは早かった。軽捷な身の熟しで舞うように黒葉菫の腕を取り、捻り、地面に叩き付けた。

「これでいいですか?」

「痛い……」

「すみません。顔から落とすのは避けたんですが、まだ加減ができません」

 あまりにあっさりと決着が付いてしまい、見守っていた獏も言葉が遅れてしまった。生まれたばかりとは思えないほど体を使い熟している。

「……ふふ。スミレさんが加減しちゃったみたいだね」

「してません……無理です」

「マキさんの髪を掴もうとして手を引いたでしょ。掴んでたらもう少し遣れてたよ」

「あれは……腕と見間違えただけです。髪を引っ張ると痛い……」

「ほら、それが加減だよ。今はいいけど、敵対する相手にはそんな優しさはいらないからね。マキさんは、簡単に至近距離で敵に背を向けちゃ駄目だよ。相手を油断させる作戦があるならいいけど、まだそんな小賢しいことを考えなくていいよ」

「はい。気を付けます」

「マキさんが素直だ……」

 変転人三人で罪の話をしていたことは階段の上からも聞こえていた。獏が罪人だと知って白花苧環の態度が変わると思ったが、意外にも何も変化はなかった。以前は余程狴犴に擦り込まれていたのだろう。

 白花苧環は黒葉菫の腕を離し、手を差し伸べる。黒葉菫は少し躊躇ったが、ゆっくりと手を取った。

「ところでスミレさんってどのくらい近接戦ができるの?」

「武器が銃なので……」

「ごめんねぇ」

 普通の人間よりは動けるが、素速く動くのは苦手である。ただ銃で照準を付けることは慣れていて動体を狙って撃つことも可能なので、集中力と目はそれなりに良い。それでも白花苧環の方が速く、するりと躱された。

「それを踏まえてもやっぱりマキさんは動きがいいね。今度遣り合ったら僕も徒じゃ済まないかもね。負けないけど」

「今度……? オレは貴方とも手合わせしたことがあるんですか?」

「手合わせと言うか……。それは覚えてないんだね。あれだけ壊しておきながら……」

「……オレはあまり褒められた人ではなかったんですね」

「責めるつもりはないよ。あの時の君も一所懸命だったんだろうし……」

「何故目を逸らすんですか」

「ふふ……」

 目を逸らしながら獏は店へ入り、二人を手招いた。

 ドアの陰にいた灰色海月は慌てて台所へ駆け込み、棚に顔を突っ込んだ。避けられている、と獏は察した。

「気になってたんだけど、この机にあるタッパーって何?」

 奥の机上に広げっぱなしの五つのタッパーの存在を、一拍置いて黒葉菫は思い出した。

「この街の時間停止が解除されてたようで、食事も必要だろうと由宇(ゆう)に作ってもらった御弁当です」

「……え? 椒図が化生したからかな……? そういえば少しお腹が空いてるかも」

「俺は外に出てもいいですか?」

「構わないけど、急いでた?」

「人間の街で殺し回ってる獣がいるようで、危険なので由芽(ゆめ)を転送で家に運ぶと由宇と約束してしまって……」

 突然の物騒な話に獏は眉を寄せる。折角白花苧環が来てくれたのだからゆっくりとしたかったが、そうも言っていられないようだ。

「君一人で行くってこと?」

「はい。そのつもりです。運ぶだけなので。先に由宇に話を通してもらうので、もう少し待ってから行きますが」

「わかった。君はここで待っててよ」

「え?」

「殺し回ってる獣がいるんでしょ? 僕が行くよ。マキさんに送ってもらう」

 名指しされた白花苧環は視線を向けられ小さく頷いた。生まれ変わった彼はまだ人間の街に行ったことがない。経験のためにも良いだろう。

「その獣については他に何かわかる? 食べながら話そう」

「はい。ですが……眠くないんですか?」

「目が覚めるような手合わせを見たからねぇ。大丈夫だよ」

 その言い方は釈然としなかったが、黒葉菫も反論できない。あれは完敗だった。腕を掴まれた時に体温を感じ、本当に生きているのだと安堵し思考が停止してしまった。感情が生まれた変転人は、戦闘中にも感情が邪魔をしてしまうことが多々ある。

 それぞれ席につき、灰色海月は砂糖の入っていない紅茶を机へ置く。獏の隣に黒葉菫を移動させ、少し離れて彼女は座った。獏に心中を吐露してしまったことがまだ気不味い。気持ちがもう少し落ち着くまで距離を取る。自分が監視役なのにと思うが、獏が白花苧環と共に人間の街へ行くと言っていても今は我慢だ。

 五つのタッパーをそれぞれ開け、皆はフォークを手に取る。

 おにぎりが詰められたタッパーを見つけ、白花苧環の頭にふと浮かぶ言葉があった。

「……梅干しはありますか?」

「梅干し? 好きなの?」

 獏は海苔の巻かれたおにぎりを一つ手に取り、試しに割ってみる。中には何も入っていなかった。

「塩結びみたいだね。残念」

「いえ……好きではないです。少し苦手で」

「宵街で食べたの?」

「……? ……梅干しは……どんな物ですか?」

「え? ……あ、記憶だけ残ってるってことかな? 梅干しが苦手だったんだマキさん……」

 以前の彼なら絶対に苦手な物を罪人などに知られたくはなかっただろうに、皮肉なものだ。

 おかずの名前を一通り教えた後、とんと軽い音を立てて洋種山牛蒡も階段から顔を覗かせた。漸く目が覚めたようだ。

「……あら、食事会? 美味しそう」

「ヨウ姉さんの分もあるので、どうぞ」

「そう? ありがとう」

 椅子を運び、洋種山牛蒡も嬉しそうに手を合わせる。

「そうそう、ヨウさん。狴犴が、もう宵街に戻っていいって言ってたよ」

「本当? じゃあ本当にもう私の仕事は終わり?」

「みたいだね」

「よくわからない仕事だったわね……」

「狴犴も調子が悪いみたいだからね」

「その言い方……私が寝てる間に面白い情報を掴んでない?」

「僕が言うのもだけど、統治者を弄るのはやめておきなよ。それより、人間の街で暴れる獣の話を聞こう」

 狴犴を庇っているわけではなく、変転人が獣を茶化しても良いことなどない。洋種山牛蒡の身を案じているのだ。

「あら、その話も興味深いわ」

 自分の知らない情報なら何でも興味があるらしい。

 促された黒葉菫は得た情報を語り、それぞれ神妙な面持ちで静聴する。獣が人間を殺すことは珍しくないが、些か目立ち過ぎている。食事を摂っている今も何処かで人間を殺しているかもしれない。

 白花苧環と洋種山牛蒡は由宇のことを知らないので、偶々知り合った人間だと説明した。嘘は言っていない。

 話を聞き終えた獏は卵焼きを齧り黙考する。殺し回る獣の目的がさっぱりわからない。

「カメラにまで映って目立ってるのに、最初と次に殺した人間は一人ずつ……なんだよね? 深い恨みがあればもっと大量に殺しそうなんだけど。カメラの前では複数人……なのかな? 目に着いた人間だけ狙ってるのかなぁ。食べるためだとしたら欠損してる部位があるって情報が流れそうだけど、それもないみたいだよね」

 人間のことが嫌いな獏は嘗て自分のしたことを思い出しながら呟く。人間に対する恨みの上にある行動なら、一人や二人殺した所で収まらないはずだ。個人に対しての恨みであるかもしれないが、状況が不明瞭だ。

「犯人は裸足でしたが、足には特筆すべき特徴はありませんでした。強いて言えば、少し痩せてました」

「殺し方からしても檮杌(とうごつ)は除外して良さそうだけど、心当たりはないね。まあ僕なんて知らない獣の方が多いし。変な獣には関わりたくないし、僕と関係ない奴なら僕は放っておくよ。罪人らしく慎ましくしておくね」

「…………」

 柔和に笑いながら最後に言った言葉は似合わない言葉だと思ったが、黒葉菫はおにぎりで口を塞いだ。

「けど目的がわからない以上、警戒するに越したことはないね。君達は暫く単独で人間の街に行かない方がいい。普通の人間に間違えられてうっかり――なんてこともあるかもしれないからね」

 釘を刺され、変転人達は固唾を呑みながら頷いた。

「マキさんは心配しなくていいよ。危ない人がいたら僕が相手するから」

「では何のためにオレは行くんですか?」

「僕は自力で転送できないから、転送係だね。それと、人間の街も見てみたいかなぁと思って。宵街よりこの街より、ずっと広いよ。それに明るい。嫌になるくらい」

「……そうですか」

 蛸の形に切られたウインナーを怪訝そうに突き刺し、白花苧環は眉を顰めながら口に運ぶ。全てが初めて食べる物なのに、何故か懐かしさを感じる。奇妙で少し気味の悪い感覚だった。自分の体は借り物なのではないかと思えてくる。

 黙々と食べていると視線を感じ、白花苧環は傍らの記憶に無い黒い女――洋種山牛蒡を一瞥する。彼女は口元に手を当てて目を丸くしながら固まっていた。

「……マキ、って……まさか苧環? ど、どういうこと……?」

 彼女にも説明をした方が良いらしい。交流はあまりなかったとは言え以前の白花苧環は有名人であり、彼女は彼の死体も見ている。

「髪こんなに長かった……? 鬘? ……違うわ。生えてる」

「引っ張らないでください」

 洋種山牛蒡は好奇心が旺盛過ぎる。害は無いと感じ取っているのか平気で触れる。以前の苧環は怖がられていると獏は聞いていたが、彼女にそんな素振りはない。彼は罪悪以外には穏和だったので、それを知っているのだろう。

「あんまり言い触らすものでもないから、噂を流さないなら話してもいいよ」

「また他言禁止の情報! ここには秘密が多いのね……でも聞きたい」

「マキさんは有名人だからね。自力で物を分別できるようになるまでそっとしておいてあげたいんだよ」

 何処まで話したものかと考え、狴犴についてはまだ伏せておいた。洋種山牛蒡が宵街へ戻り狴犴を探せばいずれ入院していることも知るだろう。薬に関しては話すなら狴犴自身がすれば良い。

 白花苧環が遺した種でもう一度生を受けたことを話したが、種については謎の部分が多い。全て鵜呑みにしないよう釘を刺す。異常に早く成長したことに花魄(かはく)も困惑していた。想定外のことが重なった結果だ。半獣であることも彼女には伏せておく。誰かが話すのなら止めないが、一気に情報を与えても混乱するだろう。それにそれが広まれば白花苧環を変転人の輪から弾くことにもなり兼ねない。半獣である白花苧環は獣と変転人どちらからも壁を感じることになるだろう。

 洋種山牛蒡は食べることも忘れて子供のように聞き入っていたが、やがて興奮したように炒められた人参を突き刺した。

「凄い情報だわ……狙って種を育てるなんて……! 植物だから種……ってことは、他の生物……例えば虫は卵を遺すのかしら?」

「さあ? それは僕の口からは何とも。でも虫の卵だったら勝手に孵化してくれそうだね」

「そうね……植物と違って虫は動くから、今まで発見されなかったのも不思議じゃないわ。私も見てみたいわ……」

「それは変転人の死の上にあることを忘れないでね。死なない方がいいんだから」

「それはわかってるわ。でも行方不明になって戻って来ない子もいるし、そういう子も何処かでまた生まれてるかもしれないと思うと、少し安心するわ」

「その子、死んだの?」

「死んだって噂よ。狴犴に用を頼まれると皆覚悟をして行くんだけどね……戻って来ないってことは、そういうことよ」

 洋種山牛蒡自身も、狴犴に呼び出された時は覚悟をした。悟られないように気丈に振る舞ってはいたが。この街に来て早々に顔見知りの黒葉菫の姿を見つけた時はどれほど安心しただろうか。だが頼まれた内容は要点を得ないまま、この店で休暇のように過ごしただけだった。

 狴犴が頼む仕事は危険なものが多いのだろう。そう解釈し、獏は甘くない紅茶を啜った。

 実際の所は、狴犴を庇って死んだ苧環達や戦時の人間の街で巻き込まれた者がいるため少々歪んだ噂が流れているだけなのだが。

 黒色海栗がまだ戻らないので彼女の分は取っておき、食事を終えた獏と白花苧環は早々に店を出た。灰色海月は獏の首輪のことを忘れているようだが、付けられると窮屈なので獏は指摘しないでおいた。どうせ狴犴は入院して動けないのだ。

 以前受け取った願い事の手紙の思念を辿り、由芽のいるカフェへくるりと白い傘を回した。

 カフェの近くの路地に足を下ろし、周囲に人がいないことを確認する。住宅の並ぶ静かな通りなので人通りは少ない。店の前にも客がおらず、既に店仕舞いの札が掛けられていた。獏は人差し指と親指で作った輪を店へ向け、少し考えた後ドアを開けた。由芽以外にも気配がある。まだ帰っていない客がいるようだ。

「すみません、今日はもう――」

 新たな来客に断ろうと口を開きかけた由芽ははっと目を瞠り、慌てて頭を下げた。

 店内には女性客が一組、皿の上を見るにもうすぐ席を立ちそうだ。

 待つ間はカウンターの席に座り、視線とひそひそ興奮気味の声が聞こえた。獏の黒い動物面も相当目立つが、それ以上に注目されているのは真白な白花苧環だ。長い白髪と花貌は人間の中では目立ち過ぎる。

 由芽は洗っていた皿を拭きながら、小声で謝る。

「すみません、もう少し待ってもらってもいいですか? お兄ちゃんから聞きましたが、片付けはしておきたくて……」

「構わないよ。別に君が狙われてるわけじゃないしね」

「えっと……今日はスミレさんじゃないんですね」

「うん。こっちは白花苧環さんだよ」

 紹介された白花苧環は一度席を立ち、胸に手を当て大仰に頭を下げた。釣られて由芽も深々と慌てて頭を下げる。

「凄く……王子様みたい……」

「ふふ……ふ……王子様だって、マキさん」

「そんな身分ではないです」

「真面目に答えないでよ」

 揶揄ったつもりだったが、伝わらなかったようだ。やはり生まれて間も無いと冗談が伝わらない。……いや、以前の彼でも似たような返答をしそうな気がする。

「……あっ、獏さん。お待たせする間、新しく作った物を見てもらってもいいですか? 最近クラゲさんが忙しいみたいで……」

 最近は周囲が騒々しく灰色海月も透明なあの街から出ることができなかった。菓子を焼く余裕もなかった。連絡することもできず心配をさせてしまったようだ。

「ちょっと色々あってね。クラゲさんに伝えておくよ。新作は見るだけでいいなら見るよ」

 皿を棚へ戻し、冷蔵庫から金属のパッドを取り出す。カウンターに紙ナプキンを置き、その上にパッドの物を一つ抓んで置いた。

「…………」

 黒と白、二色のチョコレートで作られた小さなマレーバクだった。

「厚みを出したので、立つんですよ。クッキーの他にも何か作りたいと思ったので……どうですか? お店で出してもいいでしょうか?」

「だから……僕に許可を取らなくてもいいってば」

「折角なので、味見もどうぞ。マキさんも」

 チョコレートのマレーバクをもう一頭置き、残りは冷蔵庫へ戻す。その足で由芽は会計を求める客の許へ急いだ。二人が食べる間に手早く会計を済ませて客を見送る。

「…………」

 白花苧環もちょこんと立つチョコレートを見下ろし、隣の獏へ目を遣る。

「よく出来てます」

 先程揶揄った仕返しかと思うような言葉だった。以前の彼なら間違いなく嫌味だが、今の彼に悪気はないだろう。

 不満げに獏はチョコレートを口に放り込む。味は美味しい。

 それを見て食べられる物なのだと判断した白花苧環もチョコレートとやらを食べてみた。口に入れた瞬間はっとして固まってしまう。

「……マキさん?」

「……ぁ……いえ、懐かしいような……感覚があったので」

 以前、動物園に行きたいと言う願い事を叶えた時だ。あの時の白花苧環はチョコレートを知らなかった。

「これは……好きな物かもしれません」

「マキさん」

「何ですか?」

「死ぬ前の記憶を辿ろうとしなくてもいいんだよ」

「…………」

 薄々と気付いていた。白花苧環に微かに記憶が残っている所為で、見るもの感じるもの全てを記憶に照らし合わそうとしている。自ら何かを感じる前に過去を尋ねている。

「今の君は夢現(ゆめうつつ)みたいだけど、現を生きてるのは君なんだから」

「……美味しいと思ったのは、事実です」

 感じたことを言っただけだったのに。怒られたような気がして、長い睫毛を伏せてしまう。それは白花苧環にもどうすることもできないことだった。無意識に感覚が迫り上がってくるのだ。

「可笑しい……ですよね。こんな……」

 何か新しい物を見たり聞いたりすると頭の中で声が聞こえる時がある。聞こえない時は寧ろ安心するほど、聞こえた時にびくりとしてしまう。贔屓には『覚えていたいことは忘れないように』と言われたが、知らない誰かが囁く記憶を『覚えていたい』と思うものなのだろうか。

 漏れた声はか細く消え入り、沈黙が流れた。

 だがその沈黙も長くは続かず、唐突な音に破られる。ドアに何かが強くぶつかる音だった。二人は振り向き、棚に食器を戻していた由芽もびくりと振り返った。

「何ですか……?」

「しっ。静かに」

 目を瞬く由芽にぴしゃりと言い、ドアから目を離さない。

 もどかしそうにガチャガチャとドアが開き、先程店内にいた女性客の一人が真っ青な顔で飛び込んできた。

「たっ、たす……」

 恐怖を貼り付けた顔をカウンターへ向けた瞬間、彼女は踏み潰されたトマトのようにぐしゃりと床に貼り付いた。何が起こったのか、何も見えなかった。上から何かを叩き付けたような潰れ方だったが、独りでに床に吸い付いたように見えた。


「おいおいィ、逃げるな虫がァ」


 出入口を巨体が塞ぎ、屈んで中へ入って来る。大男の姿に獏は眉を寄せ、息を呑んだ。

「構わなくていいです。私達にそんな暇は無い。早く合流しないと」

 その後ろから苛立った声が聞こえるが、出入口を塞ぐ大男に隠れて姿は見えない。

「ついでだァ」

 店内を見渡していた大男のぎらつく目がカウンターに固定される。その巨体の陰になっている小さな杖に嵌められた変換石が光っていた。

(不味い……!)

 幾ら半獣とは言え、白花苧環はまだ獣の戦い方を知らない。獏は咄嗟に彼の体を突き飛ばした。自身もその場から逃げなければと床を蹴るが、同時に振られた杖に捉えられた。

「っ――!」

 木の椅子は上からの急激な圧に耐えきれず軋み、撓って折れる。突き飛ばした拍子に倒れた椅子の間で獏は蹲り、声を噛み殺した。鈍い嫌な音がした。押さえた足からどろりと血が流れる。

 白花苧環は一瞬で足の潰れた獏に声を掛けようとするが、優先するのはそれではないと記憶の声が聞こえた気がした。より被害を抑えるには、元凶を断つべきだ。狼狽えるのは後で良い。

 反射的に床を蹴って獏から距離を取り、大男の視線が白花苧環を追ったことを確認する。獏から気を逸らし、白花苧環を狙わせる。まるで誰かに手を添えられているかのように、自然に体が動いた。跳び退きながら両手を合わせるように、掌から紡錘に似た白い針を抜く。針に嵌めた変換石から視認し難い糸を吐き、杖を持つ大男の腕に絡めて引いた。ここまで、一度跳び退く間に行ったことだ。

(……!? 硬い……!)

 太い腕に糸は幾らか喰い込むが、切り落とすことはできなかった。血は流れるのだから攻撃が通用しないわけではないのに。

 大男は杖を持ち替える。再び石の光を視界に捉え、白花苧環は経験はなくとも殺気を感じて跳び退いた。直前まで立っていた机が先程の椅子のように拉げる。

(巨体だからか動きが遅い……それとも、遊ばれている?)

 それなら不快だ。目を細め、床を、そして壁を数歩走るように蹴り、背後へ回り込む。杖を振ろうとする腕を片手の針で遮り、振り向いた目にもう片手の針を突き立てた。深追いはせず大男の体を蹴り、再び距離を取る。

「がっ、あァ! クソがァ!」

 店の中に踏み込む大男に構え、跳ねて壊れそうな心臓を押さえ付ける。少しでも気を緩めると殺される。獏に言われた通り、背は向けない。

「時間の無駄です檮杌! 引きなさい! 私達は早く合流しなければ……」

 大男が出入口から離れたことで背後にいた声の主が隙間から見えた。白い姿で、頭には鍔の広い三角帽子を被っている少女だった。少女も白花苧環の姿を捉え、目を見開いた。

「苧環……!? どうして……」

 白花苧環はくるりと針を持ち替え、足元に転がっている鋭利な木片を拾う。体内生成した針を手放すわけにはいかない。ドアの隙間を狙い、木片を投擲する。

 大男は白い少女を庇わない。少女は身を引きながら掌から一本の黒い棒を引き抜き、くるりと広げて円にする。木片がそれに当たるが貫くことはできず、呆気無くぽとりと落ちた。

「……まあいい。檮杌、引いてください。私達の目的はそいつではないです」

 警戒されている内にと白い少女は鉄扇を畳み、掌から黒い傘を引き抜く。言うことを聞かない大男の服を掴んで下がらせ、それをくるりと回した。

 二人が姿を消しても白花苧環は数秒間何も無い虚空を見詰め、戻って来ないことを確認し漸く獏へ駆け寄る。獏は必死に声を押し殺し酷い有様だった。遣られたのが片足だけだったのは不幸中の幸いだろう。白花苧環は針でブーツを裂きながら脱がし、赤黒く濡れたズボンも裂く。膝から下が真っ赤に染まり無惨に潰れていた。まるで大きな金槌に叩き潰されたようだった。

「すみません、止血できる物……」

 白花苧環は由芽の方を振り向くが、彼女は床に座り込んで震えるばかりで声が届いていなかった。目の前で人間が呆気無く潰れる様を見せつけられては正気なんて保てないだろう。白花苧環は立ち上がり、血が見えないよう由芽を奥へ下がらせる。

 尋ねても返事が来ないなら仕方がない。台所を物色し、畳まれた布を勝手に何枚か借りる。獏の潰れた足を心臓より高く上げて置いて布をきつく巻いた。だがこれ以上どう処置すれば良いのかわからず、手が止まってしまった。骨も砕けてぐにゃりと潰れた足の処置方法が、記憶を探っても何処にも無い。

 片足が潰れた程度で獣は死なないが、痛いことには変わりない。面で隠れた顔に苦しそうに汗が滲んでいるが、人間の前で苦しむ声など漏らして堪るかという意地で歯を喰い縛る姿には感服した。

 潰れた客は後で処理をすることにし、白花苧環は白い傘を抜きながら外を確認する。少し離れた所にもう一つ同じように潰れた人間がいた。もう一人の客だ。

 ドアは閉めておき、獏の許へ戻る。慎重に持ち上げるが小さく呻き、獏は体を縮めた。その小さな声は人間の耳には届いていないだろう。白花苧環を庇わずに逃げれば自身が痛い思いをすることもなかったのに。白花苧環は睫毛を伏せ、放心している由芽の思念を読み取り、纏めて由宇のいるマンションへ転送した。

 一瞬で降り立ったベランダから窓を叩くとすぐに中から開けられたが、獏と由芽の様子を見て由宇は怯えたように顔を顰めた。

「だ……大丈夫なのか……?」

 酷く間の抜けた質問に聞こえた。だがその言葉しか出ないようだった。

「獏はすぐに病院に連れて行きます。こちらの女性は任せていいですか? 怪我は無いはずです」

「わ……わかった……」

「暫く彼女の店には行かないでください。すぐに処理をしますが、獏を優先するので」

「処理……って……?」

「死体の処理です」

「…………」

 由宇は次の言葉が思い付かず、顔を伏せた。こんなに身近で何度もこんな凄惨なことが起こるなんて、まるで悪夢だ。

「処理が終わったら伝えに来ます。何か用があれば、その時に言ってください。獏が会話をするはずだったので、オレからは何も言えなくてすみません」

 頭を下げ、そろそろ良いだろうと下がる。転送は連続では行えない。少し間を置かなければならない。止血も上手くできていないのに獏を待たせてしまったが、獣より人間の方が弱い生き物だ。冷徹な感情かもしれないが、罪人の獏は後に回しても良いだろうと白花苧環は判断した。

 罪人に庇われたことは屈辱ではなく、寧ろもやもやと罪悪感が締め付けるだけだった。

『覚えていたいことは忘れないように』――あの言葉が脳裏を過ぎる。覚えていられるなら、もっと戦い方を覚えていたかった。


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