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12月の老紳士

作者: 的田晴夜

 12月16日、深夜11時20分。


 遠くでぼんやりと光る壁掛け時計を見つめる。



「納期まであと1週間か…終わるかな…」



 俺は、デスクの周りにうず高く積まれた書類がなだれ落ちないよう慎重に立ち上がり、軽く伸びをした。


 経費削減のため、ところどころしか明かりの点いていないオフィスには、幾人かの生気のない顔がパソコンの光に照らされて浮かびあがっている。


 俺も、似たような顔をしているのだろうか。


 不安になり、手で顔を乱暴に擦ると、朝からこの時間までパソコンと睨み合っていたせいで、眼球が重たくめり込んでいくような錯覚をおぼえる。



 「ったくあの野郎仕事押しつけて自分は会食ばっかしやがって」



 働いても働いても減らない書類を整頓しながら、それを置いていった上司に呪詛の言葉を吐く。


 俺の働く三宅リサーチは人物調査や企業調査を請け負う社員数50名ほどの会社だ。

 

 通常、このような身辺調査会社は、毎年就活の時期になると新入社員の経歴を知りたい企業から注文が入り、多忙期に突入するが、それ以外の時期はさほど忙しくはない。



「…はずなんだよなー」



 小さく呟き、手元の資料を見やる。


 その大量の資料の依頼主の欄には、どれも「LAUS運輸」と書かれている。この会社はトナカイのマークでお馴染み、大企業「LAUS.japan」の一部で、全体としては玩具や家具、雑貨などの生産から運輸までもを自社でおこなう北欧発祥の世界的企業である。


 その大企業が、だ。毎年8月頃に大量の調査を依頼してくるのである。

 

 社員総出で取り掛かっても、毎年締切りはギリギリ。納期間近のこの時期になる頃には、上司や締切による圧力で社員のほとんどが生気を失う。しかしよほど報酬が弾むのか、社長は毎年悪びれもなくこの仕事を持ってくる。


 片付けを終えた俺は、凝り固まった背中をミシミシと言わせながら立ち上がった。再び時計を見る。長針が6の文字を過ぎようとしていた。なんとか日付が変わる前には帰れそうだ。そう思った矢先だった。


 ぱさ、と乾いた音がした。顔をあげると、上司のよれた背広が遠ざかっていくのが見えた。その音と光景で、直前までの自分の希望的観測が無残に打ち砕かれたことを悟る。先ほど片付けを終えた鞄に手をのばし、眠気で思うように開かない目を無理矢理こじ開け、俺はノートパソコンの電源を押した。






ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





「どうぞー」



 私が声をかけると、扉を開けて社員が入ってきた。



「失礼します。社長、お話ししたいことが」


「なんだい、何でも聞くよ」



そう言いながら彼の胸元についているネームプレートを見る。そこには、


「LAUS㈱ 顧客管理部 部長」


 とある。大企業ならではの悩みというべきか、我が社にはとにかく膨大な数の社員がいるため、顔と名前が一致せず、社員たちは互いのネームプレートを見て相手を誰だか判断する。私も例外ではなく、胸にはちゃんとネームプレートがついている。



「ではお話させて頂きます。三宅リサーチさんについてなんですが」


「ああ、お客さんの調査やってもらってるとこね。ウチの取引先の中じゃ一番長いんじゃない」



 社員が、我が社のトレードマークである馴鹿が印刷されたクリアファイルから資料を取り出す。



「はい。社長の代になってからずっと依頼しています」


「で?それがどうしたんだい?もしかして締切りに間に合わないとか?」


「いえ。毎年締切りは確実に守っていただいております。ただ、社長が就任なさってからもう8年です。情報の漏洩を防ぐためにも、そろそろ別の会社を検討した方が良いかと」


「うーむ」



 私は顎髭に手をのばした。確かにこんな仕事をしている以上、情報の漏洩には細心の注意を払わなければならない。万が一何か悟られでもしたら、大勢の人の夢を壊すことになる。



「でもなあ。8年もの間こちらの無茶な注文に応えてくれてるんだろう?」


「それは…そうですね。ウチの注文を受けてる時期は他社の注文なんて受ける余裕ないですしね」


「うん。だから、そんなトカゲのしっぽ切りみたいなことはしたくないよ。それに…」



 言いかけて口をつぐむ。これは今言うべきじゃないか。不自然な間が空く。



「社長?」


「ああ、なんでもないよ。とりあえず、顧客調査はこのまま三宅リサーチさんにお願いしたいな」


「…わかりました」


「ところで、製品の生産はどうなってる?」



 再び社員が手元の資料をのぞく。



「現在順次提出されている顧客調査をもとに、生産が進められております。当日の予定に問題はございません」


「そうか、ありがとう。もう下がっていいよ」



 社員が少し不服そうな表情を浮かべていたが、私が書類の整理を始めると諦めた様子で渋々立ち去っていった。


 えーと。みやけ、みやけと。あったあった。企業情報が集められたファイルをめくる手を止める。そこには、三宅リサーチの社員数や取引情報、収益の推移に至るまでの詳細な情報が記されている。


 うーむ。これはなかなか。


 思わず呟く。三宅リサーチはここ数年、社員数・収益ともにその数字は右肩下がりとなっていた。社員が取引の打切りを提案してきたのには、この業績の悪化も背景にあるのだろう。


 それでも取引履歴を見ると、私の在任期間を含めて12年間、ウチと取引し続けている。もちろん赤字を防ぐためにはそうする他なかったというのもあるのだろうが、先方の厚意で承諾してもらった依頼だってたくさんある。そんな会社を簡単に切るというのは私の道徳に反する行為だ。それに…



「こうすると完璧なんだよなー」



 私は胸からネームプレートを外し、開かれたページの上に置いた。「リサーチ」の部分をプレートで隠す。


「三宅 LAUS」


 ふっ。我ながら子どもっぽいと思い苦笑する。まあ私の場合悪いことでもないか。子どもたちの欲しいものが聞かなくてもわかるってことになってるし。てか実際そんなわけないでしょ。まったく作り話もそこそこにしといてよね、おかげでこんな無茶な依頼をあちこちにしなきゃいけないんだから。


 ひとしきり愚痴をこぼしてから、ふと思い当たる。


 三宅リサーチってとこ、大して社員数もいないのにこの量の依頼をどうやってこなしてるんだろう。もしかして結構ブラックだったりして。思わず顎髭をさする。


 んー。明日行ってみよっかな、こっそり。そうだ、人生楽しくなさそうな可哀想な人がいたらサプライズの一つくらいしてあげよう。なんてったってもうすぐクリスマスなんだから。


 私はすぐさまスケジュール帳を取り出し、12月16日の欄に「三宅リサーチ」と書き込んだ。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 なんとか仕事を片付け、俺は帰りの電車に乗っていた。俺と同じような境遇なのだろうか、目の下に隈を作ったサラリーマンが他にも数人、つり革に揺られている。


 目の前の窓ガラスには、同じように隈を作った自分の顔が映っていた。


 今日は何回上司に怒鳴られただろう。この時期になると毎年こうだ。仕事の内容だけに留まらず、ときには人格すら否定される。あの上司は俺にも感情があるということを知らないのだろうか。傷付く心があることを知らないのだろうか。


 俺って何のために生きてんだろ。


 唐突にそんな考えが浮かんだ。一人になるとどうも感傷的になっていけない。そう思い、頭を振って思考を断ち切ろうと試みるが、心はどんどん暗い何かに侵されていく。


 いつからか、明日を迎えることが苦痛になっていた。朝起きて、真っ先に考えるのはこの一日を早く終えること。惰性で言われるがままに、それでも懸命に働いて、働いて、それなのにもらえるのはボーナスではなく上司の叱責。ズタズタになった心を抱えて家に帰っても、待っているのは静寂と孤独感だけ。そんな毎日を繰り返している。



「…こんなはずじゃなかったのにな」



 呟くと同時に視界がにじむ。俺は慌てて目を瞬いた。心の中の一番大事な部分が、泣いてはいけないと言う。ここで泣いてしまったら、俺は本当の意味でみじめな奴になってしまうだろう。それだけは絶対に避けなければならない。


 電車のスピードが落ちていくのを感じ、俺はつり革を握る手に力を込める。家まではあと二駅だ。扉が開き、何人かが降りていく。


 その時だった。


 靴に何かが当たった感触がした。見ると、茶色の長財布が足元に落ちている。



「あ、あの、お財布、誰か」



 控えめな声で尋ねるが、振り返る者は誰もいない。いつもなら、このまま拾っておいて自分が降りるときに駅員さんにでも渡すだろう。追いかけて渡すなんてことは選択肢にもない。


 が、気がつくと俺は財布を持って走り出していた。改札へ向かう人を追いかける。


 とりあえず一番最後に降りた乗客に尋ねる。が、持ち主ではなかった。最初の方に降りた客はもう階段を登って見えなくなっている。


 俺は迷わず階段へと向かい、一段とばしで上へと駆けあがった。額に汗がにじむ。這うようにして登りきり、息を切らしながら改札に切符を通す。周りを見渡すと、右の方に歩いていく何人かの後ろ姿が目に入った。



「あの!どなたかお財布落としませんでしたか!」



 すると一人が懐に手を入れ、こちらを振り返った。俺はその人に走り寄る。



「このお財布落としませんでした?」


「ああ、私のだ。気がつかなかったよ」



 俺は立派な顎髭をはやした老紳士に財布を手渡す。老紳士は言った。



「いやあ、ありがとう。この財布は私の家内にもらったものでね。とても大切にしていたんだ」


「それはそれは、届けられて良かったです」



 では、と言って引き返そうとすると、老紳士が手を差し出して言った。



「君が届けてくれなかったら私は家に帰って途方にくれていたよ。君のおかげでそうならずに済んだ。君がいてくれて本当に良かった。本当にありがとう」



 俺はおずおずと手を伸ばし、握り返した。なんだか急にこそばゆい感じがしてきて、頬が熱くなるのを感じた。俺は別れの言葉を口にし、そそくさと歩き出した。




 自宅の最寄り駅が近づいても、心はまだ浮き立っていた。人にこんなに感謝されたのなんて何年ぶりだろうか。窓ガラスに映る俺は、心なしか若返ってすら見える。


 なぜか、見たか、という気持ちになる。今日お前に散々こきおろされた使えない社員は、今こうやって人の役に立ちましたよ、そう上司に言いたい。


 人は、誰のためでもなく、他ならぬ自分のために生きている。それはこの世の中を生きる人の大多数が持つ共通認識だろう。でも、だからこそ、人を喜ばせられることに価値があると思う。誰かのために時間とか労力とかいろいろなものを使って、その人を幸せにする。そして幸せそうなその人をみて、自分も幸せを感じる。そうやって人は助け合って生きていけるのだと思う。


 俺は先程の老紳士を思い出す。立派な顎髭に、赤のコート。まるでサンタクロースのような出で立ちの人だったな。少し可笑しくなり自然と口角が上がる。


 窓の外には、まだ街の光がきらめいていた。世の中にはこんなにたくさんの人がいるんだな。そんな当たり前のことに思いを馳せる。俺の仕事だって、まわりまわって、このたくさんの光の主を幸せにしているのかもしれない。そんなことはないと否定されたっていい。俺は見えない誰かの幸せを想像することで、いつもより少しだけ幸せになれる。


 明日は今日より少しだけ、いい日になるかもしれない。


 駅に近づいた電車が、スピードを落としていく。俺は顔を上げ、しっかりとつり革を握り直した。

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