道源寺教授の罪
ある昼下がりの午後。
道源寺教授は自宅のパソコンを起動させて、依頼された記事に取り掛かっていた。教授は50代半ばの植物学者である。短く刈り込んだ髭を撫でながらディスプレイを眺めている。もうすぐ梅雨入りで、外では先ほどまで雨が降っていた。しとしととした、少し鬱陶しい雨だった。開いた窓からは雨上がりのひんやりと湿った風が通っていく。風には庭の植物たちが放つ、独特な緑の芳香が含まれていた。教授はそのわずかな香りを嗅ぎながらキーボードを叩き始めた。
『アジサイの「色」について
SF作家、ジョン・ウィンダムによる『トリフィド時代』という作品は、突如人類の大部分が盲目となった世界で、人間を襲う食肉植物トリフィドが跋扈する物語である。ウィンダムはその作品で、トリフィドなる植物に『聴覚』に替わる器官の存在を設定した。音は空気振動によって発生する。トリフィドは空気の振動を知覚することで獲物の位置を把握するのである。ウィンダムはトリフィドに『視覚』を持たせなかった。植物に「見る」機能は考えられなかったのだろう。
もっとも身近な存在である植物に『視覚』は存在するのか? 多くの方は「存在しない」と考えるであろう。しかし、植物は太陽に向かって葉を広げ、光合成しやすいように体勢を変えることはご存知だと思う。そう、植物は「光」を知覚するのである。
植物が光を知覚すると指摘したが、動物が持つような「網膜」やそれに類する器官を持っていない。彼らが何によって「光」を知覚するのか、それは現在も謎である。我々は経験や観察によって推測するまでしかできない。
そんな曖昧な前提ではあるが、私は植物には色を感じる能力があると考えている。これも経験や観察による直感的な考え方ではある。
そもそも我々が「色」を感じるのは、反射された光が網膜に当たることで得られる。光の反射しない世界では、我々は「色」を見ることができない。光は波長によってさまざまな色に分かれる。プリズムによって生じる虹の実験を覚えている方はおられるだろう。光が物に当たって反射される際に、物の色によって波長が変化する。我々の視覚はその波長を読み取ることで「色」を認識するのである。我々が「黒」と認識するのは、光がもっとも反射しないからで、逆の場合は「白」と認識する。我々は「目」を持っていなければ物が見えない、あるいは色を認識できないと考えがちだが、光の波長さえ感知できれば、「目」を持っていなくても「色」を知覚することは可能だということだ。植物は光を知覚することができるのだから、当然、色も認識できる、さらに言えば、物を知覚できるのだと言える。ウィンダムの化け物植物の話に戻れば、空気振動を知覚する設定は必要なかった。彼らはすでに我々を「視認する」ことが可能だったのだ。
そこまで断言するのは、もうひとつ根拠がある。植物自身が「色」を持っているからである。
我々は季節ごとに植物がさまざまな色の花を咲かせ、色鮮やかな実をつけることを知っている。もし、植物に「色」を認識する能力が無ければ、これはおかしい。もともと、植物はコケ類のように緑以外の色を持っていなかった。彼らが花や果実などで色づくよう進化したのは、虫や動物を引き寄せるためである。彼らに受粉や種子の運搬をさせるため、適切なタイミングを知らせるために色を変化させているのだ。特に果実の変化はわかりやすい。実が熟していない間は、実の色は青や緑という食欲の湧かないものだが、いい具合に熟すると赤やオレンジなどに色づくのだから。これは植物が色を認識できるからこその進化である。私はそのように考える。
ところで、アジサイはそんな考えである私を悩ませる植物である。
アジサイは生えている土壌のpHによって花の色が変わる。土壌が酸性寄りであれば紫から青色に、アルカリ性寄りであれば赤色の花を咲かせるのである。リトマス試験紙とは逆の反応だ。
アジサイの花(正確には「ガク」の部分であるが)の変化はアントシアニンと呼ばれる色素によるもので、酸性の土壌ではアルミニウムが土中に溶け出し、それをアジサイが吸収することで青色へと変化する。これまでは推測の範囲だったが、近年になってそれが確認された。アルミニウムイオンがアジサイの補助色素と反応することで青色になるのだ。アルカリ性の土ではアルミニウムがあまり溶け出さず、アジサイは赤色の花を咲かせるのである。
アジサイがアルミニウムイオンを色素に吸着させるのは、植物にとって有害なアルミニウムを無毒化させるためだと考えられている。アジサイは日本原産の植物で、火山が多く、土壌が酸性寄りの日本の環境に適応しやすいよう進化したのだろう。植物にとって日本は快適な環境とは言い難いのである。
私が悩まされるのは、アジサイが吸収されるアルミニウムを無毒化することで、「なぜ」花の色を変化させるのか、ということだ。つまり「必然性」の問題である。人類が世界に誕生したとき、人類の肌は黒かった。やがて、人類はヨーロッパへ移動して肌が白くなり、アジア大陸へ移動すると黄色系へと変わっていった。それは浴びる日光に対し、もっとも適切な肌へと変化させた結果である。つまり「必然性」があったのだ。しかし、アジサイの色の変化に、その必然性が見られないのだ。現時点では、アジサイに色を変化させたい意志はなく、無毒化作業で生じた単なる副作用という見方である。果たして真実は何であるのか。私の悩みに終わりは見えない。』
教授は手を止めた。だいたい二千字。学会に提出する論文ではなく、科学雑誌への寄稿文である。あまり専門的でないよう心掛けたが、実際はどうだろう。読者は難しいと拒否反応を示すだろうか。
教授はプリントアウトされた原稿を読み返して唸った。硬い。文章が硬いのだ。論文調が抜け切れていない。編集者からは読み物としての記事を依頼された。その出版社には自分の本を何冊も出してもらっている。日頃の恩返しにと引き受けたが、どうも勝手の違う仕事は難しい。
導入部分は親しみやすくなるようSF小説を引き合いに出したが、そのせいで冗長になっている。おかげでアジサイの話が短くなってしまった。いや、アジサイの話をこれ以上掘り下げると、それこそ専門的過ぎて読者にはちんぷんかんぷんになるだろう。アントシアニンについて触れているが、細かく説明するのであればデルフィニジンについて言及するべきだし、その色素がほかの花の色を青系にしていることも説明しなければならない。説明不足の部分は多いが、そこまで手を出すと、それこそ読み物ではなく論文になってしまう。わずか二千字程度の文章だが、誰にも読んでもらえなくなるだろう。
教授はため息交じりに原稿を屑籠へ投げ入れた。やり直そう。ただ、今の気分のままでは大して良くなりはしない。
教授は椅子から立ち上がると大きく背伸びした。気分を変えるために散歩でもしよう。原稿の締め切りまでは、まだ日がある。たとえ、今日仕上げられなくても問題あるまい。
教授は上着を引っかけると、そのまま自宅を出た。雨が止んでだいぶ時間が経っている。雲の切れ目から太陽が少し顔を出していた。教授は玄関を出ると、外の空気をゆっくりと吸い込んだ。自宅は芦屋川の東を上った先にある。比較的大きな家が並んでいる住宅地だ。1階部分が駐車場になっていて、玄関からは階段を降りて門へ向かう。降りる途中には隣の庭が見られる部分がある。隣家はアジサイを生垣の代わりにしていた。もうすぐ花を咲かせる時期だが、まだつぼみは小さい。そのアジサイの前には、若い女性がしゃがんでいた。
「こんにちは、小夜子さん」
教授は軽く会釈しながらあいさつした。小夜子は顔半分を上げてみせると、慌てたように立ち上がった。
「ああ、先生」小夜子は頭を深く下げてお辞儀する。隣家は教授の職業を知っているのだ。
「虫取りですか」
教授はアジサイをのぞきこんだ。小夜子はうなずく。
「いろいろな虫がついて大変です。アジサイって虫のつかない花だって聞いていたのに」
「アジサイにしかつかないアジサイハバチという虫がいます。ハダニ、チャノキイロアザミウマ……。蓼食う虫もいるわけですから、アジサイなんてご馳走ですよ、虫にとっては」
小夜子は笑顔を見せた。「お詳しいんですね」
教授も笑顔を返した。「若いころ、本で読んだんです」
教授は隣の家を見上げた。隣家に住んでいるのはいずれも20代とみられる若い夫婦である。2歳あたりの娘がひとりいる。今日、庭に女の子の姿はない。雨上がりの庭に出してもらえないようだ。
もともとは「二階堂」という老夫婦が住んでいた。数年前に夫が亡くなり、間もなく夫人も亡くなった。新しく家の主人となったのがこの夫婦である。表札は「二階堂」のままなので、老夫婦の孫が受け継ぐことにしたようだ。夫は背が高く、かなりの男前である。身長は一八〇センチぐらいあろうか。笑顔の爽やかな好青年だ。出かけるときに、この門の近くで顔を合わすことがあり、互いにあいさつを交わしていた。家の行き来をするほど親しくしてないが、良好な関係である。妻である小夜子ともこうして親しく会話できるのだ。
教授は小夜子を気に入っていた。自分の半分ほどの年齢なのに、落ち着いてしっかりした女性である。何より庭の手入れが丁寧なのだ。彼女が庭の面倒を見るようになってから、隣の庭は活き活きとしてきた。アジサイも大切にされているようで、昨年は赤く美しい花を咲かせていた。教授が知る限り、この界隈で咲くアジサイはすべて紫系の色である。アジサイと言えば、近所では神戸市立森林植物園の「あじさい園」で数種類ものアジサイを楽しむことができる。赤いアジサイを観たいと思えばそこまで足を運べばいいのだが、小夜子が面倒を見たアジサイのほうが見ていて気持ちがいいのだ。
「丁寧にアジサイの面倒を見ていらっしゃいますね」
教授はぐるりとアジサイを見渡しながら言った。小夜子ははにかむように笑う。
「主人の祖母が大切にしていましたので、私も大切にしようと。たいして知識がございませんから、枯らしはしまいかと心配なのですが」
謙遜だと教授は思った。赤いアジサイを咲かせるのは土壌から管理していかなければならない。無知でできるとは思えない。
「肥料は何を使っているのですか?」
「卵の殻です」
教授が尋ねると、小夜子は手にしている袋を持ち上げて見せた。袋には白い粉状のものが入っている。手入れのついでに蒔くつもりだったようだ。
「卵の殻……。ああ、なるほど」
教授は納得した。卵の殻は肥料に利用できるが、土壌をアルカリ性に保つ性質もある。二階堂家のアジサイが赤く咲いたのはこれのおかげだったのだ。
「おや、先生。こんにちは」
足元から声がした。隣家の主人、二階堂恭介が門扉を開けて入ったところだった。背広姿でネクタイを緩めながら階段を昇り始める。
「おや、二階堂さん。こんな時間に珍しいですね」
「出張先から直帰してきたんです。それに先生、今日は土曜日ですよ」
「おかえりなさい」
小夜子は笑顔で夫を迎えた。
「ただいま。生垣の手入れかい? 手間をかけるね」
「私がしたいだけだから」
小夜子は首を振る。教授は再び会釈すると階段を降り始めた。門扉を押す教授の背中に小夜子の声が飛んできた。
「機会があれば、アジサイの防虫方法とか教えていただけますか? 私、ほんとに詳しくなくて」
教授は振り返ると片手を上げた。
「かまいませんよ。私もきちんと調べてからお教えしましょう」
専門家ではあるが、アジサイについては慎重でなければならない。防虫剤によって土壌が変化するかもしれないからだ。家に帰ったら資料に当たるとしよう。
小夜子はこちらに向かって手を振っている。隣には恭介が爽やかな笑顔で立っていた。教授はふたりにうなずいてみせると道路へ歩き出した。
……こうして見ると幸せな家庭にしか見えないのだが……。
教授はいつもの散歩道を歩きながら心の中でつぶやいた。仲睦まじく見える夫婦なのだが、彼らにはひとつ問題があったのである。
二階堂家の問題とは恭介のことである。
日頃は折り目正しく好感の持てる人物なのだが、ただひとつ、酒癖の悪さが目立っていた。
ふたりが隣に引っ越して間もないころのことである。教授は居間でクラシックを聴きながらくつろいでいた。教授は独り身なので居間を独占できるのだ。日頃から近所迷惑にならぬようヘッドホンで聴いている。教授は両目を閉じてモーツァルトのクラリネット協奏曲に酔いしれていた。おかげで隣家が騒がしいことにはすぐ気がつかなかった。ふと気がつくと、男の喚き声が聞こえる。教授はヘッドホンを外して顔をしかめた。これまでにこんなことは起こらなかった。いったい、どこで、誰が騒いでいるのだ?
居間のサッシを開けて庭に出ると、向かいから怒鳴り声が聞こえる。切れ切れであるせいか、まったく意味の分からない言葉だ。ただ、隣は白い壁でさえぎられて庭から様子はうかがえない。教授は居間に戻ると2階へ駆けあがった。そして、庭に面した部屋から隣の様子をうかがってみた。
隣は1階部分が壁でさえぎられて、結局向こうの様子が見えない。2階の窓は明かりが消え、真っ暗である。1階は明かりが点いていることは壁から漏れる光でわかる。怒鳴り声は1階から聞こえるようだ。男の怒鳴り声に混じって女の子の泣き声も聞こえる。教授は思わずカーテンの端を握りしめていた。男の声は恭介のものだった。内容はわからないが、声の調子から恭介が酔っているらしいことがうかがえた。かすかであるが、なだめようとしている小夜子の声も聞こえる。教授はどうしたらいいかと自分の部屋を振り返った。部屋の入り口にはファックス一体型の電話が設置されている。そこから警察に電話するべきか迷ったのだ。実際、教授は電話の前に立っていた。受話器を取って「1」「1」「0」とボタンを押すだけでいい。教授は受話器を取り上げようと手を伸ばしたが、そこで逡巡してしまった。騒ぎにしていいものか決断できなかったのである。
ひときわ大きな騒ぎ声が聞こえて、教授は窓へ駆け戻った。ここからでは隣が見えないのは承知しているが、教授は不安から隣をのぞき見た。見えるのは白い壁と、そこから漏れる黄みがかった明かりだけである。女の子の泣き声に混じって、小夜子のすすり泣く声も聞こえてきた。一方で恭介の声は消えていた。急に静かになったようだ。教授は不安な気持ちのままカーテンを閉め、自室に入った。居間に戻ってモーツァルトの続きを聴く気は失せていた。
翌朝、家を出た教授は、門に向かう階段で恭介と出くわしてしまった。恭介も出勤で家を出たところだった。
「先生、おはようございます」
恭介は爽やかな笑顔であいさつした。教授は何食わぬ顔で会釈した。
「おはようございます」
反射的に隣の玄関へ目を向ける。そこには、小夜子が女児を抱いて立っていた。女児の片手を持ち上げて手を振る仕草をさせている。恭介は妻と娘に手を振ってみせると、そのまま出かけていった。昨夜の騒ぎがまるで嘘のような光景だ。
……酒乱、か……。
おそらく、恭介は昨夜の自分の行動を覚えてはいまい。そして、小夜子はそのことを夫に教えていないのだろう。教授は心の中でため息をつくと、自分も出勤するべく門扉を押し開いた。
それから恭介の酒乱は、ときどき起こった。それほど頻度があるわけではない。月に一度か二度あるぐらいだ。ただ、月末は必ず起きているのは間違いなかった。今回のように入り口の階段で顔を合わすことがあるので、何食わぬ顔で話をしてみると、恭介は20代でありながら、すでに課長の役職に就いていることがわかった。自分より年長の部下を使い、重責に耐えていたのだ。売り上げの締め日に、自分へのご褒美として飲んでいることもわかった。それ以外は上司や取引先からのお誘いを除いて飲んでいないらしい。恭介が暴れるのは、ご褒美の夜と付き合い酒のあった夜に限られているのだ。
教授は他人事ながら悩んだ。普段の恭介は誠実で、自分を律して行動できる男だ。知る限りにおいて、怪しげな遊びをしている様子がない。競馬やパチンコにも興味がないらしい。おそらく、世間の誰もが恭介を真面目一辺倒の男だと思うだろう。いや、それは事実なのだ。ただ一点だけを除いて。
小夜子もそれを理解しているのだろう。表面上は何ごともない様子を見せていた。ある日の世間話では、小夜子は恭介を家事や子育てに積極的な夫だと教授に話したぐらいである。立派な夫なのだと伝えたがっているように思えた。もちろん、それも事実なのだろう。教授は暗い気持ちを隠しながら思った。
それを理解してから、教授は隣のことを気にしないよう心掛けた。恭介の癇癪声が聞こえてもうろたえないことにしたのだ。そのときは恭介が酔い潰れて大人しくなるまで、ヘッドホンで耳をふさいで音楽を聴くだけである。
5月の終わりごろの夜。恭介の喚き声が聞こえると、教授は「さぁ、始まった」と用意していたヘッドホンを取り出した。恭介が暴れたときに聴こうと用意していたのは、ジョルジュ・ビゼーの『カルメン』をホセ・セレブリエールが再構成した『カルメン交響曲』である。こんなときは喧噪に負けない曲に限る。間違ってもエリック・サティの『ジムノペディ』は聴けない。恭介の声に負けてしまうのだ。『カルメン』のジプシーの踊りが終わるころ、隣はいつものように静かになっていた。教授はヘッドホンを置くと、やれやれと背伸びしたのだった。
恭介が失踪したのを知ったのはそれから数日後のことである。
捜索のため、警察官が教授の家を訪ねたからだった。教授は驚いて、逆に警察官に尋ねてしまった。
「いつからです?」
警察官は苦笑を浮かべた。
「先週の金曜の晩かららしいのですが」
先週の金曜。それは恭介が暴れた日であった。警察官によれば、恭介はその夜ひとりで出かけて、そのまま帰って来なかったというのである。
「奥さんは言いにくそうにしていましたが、お酒を飲むと人が変わったように暴れることがあるようです。ご存知でしたか?」
教授はうなずいた。小夜子が認めているのであれば隠すことではない。
「ほんのたまに、のようですがね」
「あの晩、奥さんが止めるのも聞かずに飛び出してしまったそうです。後を追うと殴られるかもしれないので追うことができなかったとのことですが」
教授は再びうなずいた。あの状態になってしまえば、小夜子が恭介を押し止めるのは不可能だろう。彼女は不安に思いながらも大人しくしているよりほか無かったはずだ。
「さもあらん、という感じですね」
「先生はよくご承知のようですね」
教授は暗い表情で首を振った。
「二階堂さんは良いひとなのです。ただ、お酒を飲んだときだけ手に負えない状態になるようで。心配はしていたのです。前後不覚のまま行動して、とんでもないことになりはしまいかと」
「今回、どうもそのとんでもないことになったようですね」
警察官が帰った後、教授はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
それから2週間ほど過ぎていった。恭介は相変わらず行方不明のままだった。芦屋という小さな街で起きた失踪事件である。特に大きく報道されることもなく、世間的には誰にも認知されない小さな事件だった。このまま、警察さえ忘れてしまうのではないか――。教授はふとそんなことを考えたりした。
その日、いつものように玄関を出ると、庭に小夜子がいるのが見えた。梅雨の晴れ間で珍しく天気が良い朝だった。小夜子は娘を庭で遊ばせながら、アジサイの手入れをしているところだった。アジサイは今が満開の状態である。
「おはようございます、小夜子さん」
教授があいさつすると、小夜子は顔を上げた。この2週間でだいぶやつれたようだった。それでも教授には笑顔を向けた。気丈な女性だと教授は思った。
「おはようございます、先生」
「ご主人はまだ見つからないのですか」
小夜子は顔を伏せた。「ええ……」
「私も心配しています。見つかると良いですね。気をしっかり持って、待ってあげてください」
「ありがとうございます」
小夜子は言葉少なに頭を下げた。いかにも辛そうな表情だ。教授は話題を変えようと思った。
「今朝はアジサイの虫取りですか?」
「……虫、というよりナメクジですね。雨で放って置くと、いつの間にか増えているんです」
「ああ。ナメクジとカタツムリは見つけて駆除するよりないですね。もちろん、ナメクジに効く農薬もありますが、アジサイにはお勧めしませんね」
「私もそう思って、割り箸で摘まみ取っているんです。今日は数が少ないほうなのでましなのですが」
小夜子はそう言いながらアジサイの生垣を見渡す。教授も釣られるように見渡した。そして、一角に目が留まった。
「どうかしましたか?」
気がつくと小夜子が教授の顔を見つめている。どこか怯えたような、不安そうな表情だ。教授は安心させるように笑顔を見せた。
「いいえ、何でもありません。小夜子さんが丁寧に手入れしているおかげで、今年もアジサイが綺麗に咲きました。思わず見惚れてしまいましたよ」
「先生、お上手ですね」
小夜子は笑ったが、弱々しい笑顔だった。
「ずっと眺めていたいところですが、私が講義に遅れるわけにまいりません。残念ですが、これで失礼します」
教授は小夜子に会釈すると階段を降りていった。小夜子もお辞儀しながら「行ってらっしゃい」と声をかけた。すると、遠くから「いってらっさい!」と女児の声が聞こえてきた。娘が母親を真似てあいさつしたようだ。教授の口もとから思わず笑みがこぼれた。教授はちらりと振り返ると出かけていった。視界の端に、頭を下げたままの小夜子がわずかに見えた。
その夜、自宅に戻った教授はパソコンを起動させた。依頼された原稿の締め切りが目前に迫っていたのだ。あれ以来、原稿をまったく直していなかった。今夜片づけないとさすがにまずい。ディスプレイから『アジサイの「色」について』というタイトルを目にすると、教授の表情が曇った。目を背けたかった問題に向き合う羽目になったからだ。
……二階堂家の庭を囲むアジサイの生垣である部分だけ花が青色の箇所があった。それ以外はすべて綺麗な赤色だったのに。
アジサイの花は土壌のpHで色が変わる。その部分だけ青色になったということは、そこだけ土壌が酸性化しているのだ。範囲は限定的で、幅2メートル弱、おおよそ一八〇センチ前後だと思われる。それに気がついたとたん、教授の頭にある考えが浮かんだのだった。それは恐ろしい想像だった。
……あの日、恭介君はいつものように酔って暴れていた。それに耐えかねた小夜子さんが思い余って夫を殺してしまったのではないか。あるいは、暴れる夫を押し止めようとして、誤って押し倒したりしたかもしれない。そのとき、打ちどころが悪くて死んでしまったのではないか。
小夜子は動揺したはずである。殺意の有無はともかく夫を死なせてしまったのだから。しかし、彼女には守るべき幼子がいる。父を亡くし、母も刑務所へ送られてしまったら、誰がこの子を育てると言うのだろう? 彼女が事件を隠ぺいする気持ちになったとしても不思議ではない。
小夜子は事件の主体である死体を処分しようとした。しかし、大柄な夫を担いで外に運ぶことなどできない。せいぜい庭までが限界だ。彼女はアジサイの根元近くで穴を掘り、遺体を埋めたのだ。日頃、手入れしているおかげで、アジサイの根元の土は柔らかく、穴を掘りやすかったからだ。しかし、埋められた遺体は腐敗を始め、土壌を酸性化させてしまった。アジサイの色が部分的に変わったのはそのせいである。
教授はその考えを確かめる気持ちになれなかった。もし、教授の考えが正しければ、小夜子が夫の遺体を隠してまで守ろうとしたものが守れなくなるのだ。それは教授にとっても不本意だった。
……真実を追求するのが学者の使命であるが、この件では私は目をそむけよう。これが『罪』だと言うのであれば、私は甘んじて罪を背負おう……。
今回下した決断が正しいとは思えない。それでも、小夜子の罪を暴く気持ちにはなれないのだ。無知でありながらも植物に優しく丁寧に接する彼女を、犯罪者として告発するほうが「悪」だ。教授はそう考えたのだった。
教授はしばらくディスプレイを睨んでいたが、やがて、キーボードを叩いてタイトルを削除した。続いて記事後半のアジサイの色に関する文章も削除した。タイトルを『植物に「色」は見えるのか?』に変更すると、前半の記事に文章を追加して二千字程度にまとめ直した。小夜子の罪を暴くヒントを抹消したことに教授は満足すると、その原稿を編集者あてにメール送信し、安心してベッドに向かった。
この作品のレシピ:
舞台である芦屋から神戸にかけて六甲山地が連なっている。六甲山にアジサイは似合うらしく、植物公園で見ることができる。最近、アジサイの色変化で最新の研究結果が記事になっていて、それを読んだことが、この物語が生まれるきっかけになった。アジサイの色変化はミステリの小道具として手垢のついたものだが、調理次第でまだまだま美味しいものができると思った。この作品より前に『うっぷん晴らしルームの裏サービス』というえげつない作品を出したので、今度は雨後の爽やかな風を感じられるようなものを創りたい。そう考えたのも動機のひとつではあるが。