8話:クレーター遊歩道
月への旅程は二週間。
しばらくはぷかぷか体が浮かぶにまかせ、全方位に広がるパノラマにうつつを抜かしていたペニロサだが、やがてどうしていままで思い至らなかったのか自分自身を尋問したくなるような事実に思い至る。
……あれ、ラーミラのことは? 守るんじゃなかったっけ?
そのとたん、浮ついた気分は終了。ペニロサはたちまち浮力を失い、地球に向かって落下を始める。
が、地球のほうではこんなものいらぬと弾き返し、しかし月とてけっこうだとまた弾き返す。
ペニロサは引力のラケットでラリーされるテニスボールと化し、このときの経験がのちのち彼の命を助ける事につながったかと言えばまったくそんなことはない。
結局そのゲームは地球が勝利を収め、ペニロサは惨敗した月面に向かって激烈な落下を開始する。
近づいていくにつれ、ペニロサは月面に思いもよらぬものを見出す。そこにはなんと、地球のような都市が建設されていたのだ。
今まで彼は、月には永遠に餅つきをする罰を与えられたウサギしか住んでいないのかと思っていたが、その考えは改めざるを得ない。月には永遠に建物を建設する罰を与えられたウサギも住んでいるのだ。
「ああーあーぁぁ……」
音ひとつない虚空にペニロサの叫びは吸い込まれる。なんとかこの落下軌道をずらし、少しでも柔らかそうな場所に墜落と相なれないか試みる。
間隙なく月面が近づく。もしやおれが人類初の月面歩行者なのか? というよりは初の月面墜落者。それでも月になにかたとえマジックミサイルひとつだって送りつけたなんて話は聞かないから、それはそれで偉大なことだろう……
なんて考えてももちろんペニロサの心は休まらない。慰められない。人類の功績どうこうという話題ほど今の彼にとって興味のない話題はない。
まだどっかの誰かがどっかの誰かと結婚した離婚した心中したとかいう話題のほうが親しめたかもしれない。いやどっちにしろ無関係も甚だしいが。
熱い、とペニロサが思ったら、服に火が付いていた。ああ宇宙は寒かったからありがたい、などとは思えない。このままじゃ焼け死ぬがどっちみち墜落して死ぬ。焼死と落下死どちらが早いかしらハハハ。
……なんてことを考えている場合ですらない。いやそれは言うまでもなく。今までにないほど頭が回転している気がする。というのは彼の気のせいで、実際は彼の体自身が回転していたに過ぎない。ぐるぐると。
月の都の人々は、上からげらげら笑いながら回転して突っ込む人間の姿を認め、騒然となった。これはちょっと尋常でない。梅雨に雨じゃなくて飴が降ってくるようなものだ。とはいえ、飴ほど甘くも美味しくもないものであったが。
なんだなんだ、スピードはものすごく出ているはずなのに加速しているはずなのに、いつまで経っても地表にたどり着かないぞ。もっともたどり着いたときは死ぬときだから、死期が延長されるに越したことはないけれど。
……いや本当にそうか? こんなにくだくだ意味のないことを考えているのにさっぱり時間が進まないってことは、これいわゆる走馬灯ってやつなんじゃないか……? するとなんだ、いよいよ死期がおれに迫っているということか。
あああなんだか足元からひんやりと。末端冷え性がとうとうおれにまで発症したのか。そう言えば村の連中は全員冷え性だったな。あいつら夏以外ほとんど年中手袋をしていた。そのおかげで間違って指を切り落としても夏まで気づかないやつがいたっけ。
ほらほらこんなに考えたってまだまだ地上はああんなに遠く。サビた斧で斬首されているようで気分が悪い! いっそスパっと、ひと思いにやってほしいもんだ。
すると彼の落下速度が急上昇。
わっ。マジに受け取るやつがあるか。やめろおれは人並みに生存への意思を備えている人間だぞこう見えても。それにあのラーミラのこともある。いやさっさとそのことに気づいていたらこんな月まで来ることもなかったし、ああそれならこれ全部おれのせいですねわはははははははあは。
落下を願っては加速し、死にたくないと哀願しては減速。ペニロサはそれを繰り返した。荒唐無稽と思われるかもしれないが、実際こんなものではなかろうか? 気の持ちようである。
ということでいつの間にか地表すれすれ。はっと彼が気づいたときには、芝生に寝転び青い地球を見上げていた。
かくして彼は初めて月に立った地球人となる。
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月の都の建物はどれもこれもが奇ッ怪な形をとる。うまく成形できないまま焼き上げたパンと言えば伝わるか。伝わらないだろう。それくらいの歪曲なのだ。
どう考えても一般的なヒト型生物が住まうには不便そうで、なぜそんな言い方をするのかといえば、この月の住人もまた地球と同じヒト型だったからである。
全世界共通の無関心さで、まるで今初めて目が見えるようになったというような顔のペニロサは無視される。
道行く人々はみんな眉目秀麗羞月閉花。このペニロサをして、一緒に異種交配の夢を見ませんかげへへへへと言い出したくなるほどに。
この都について、これ以上はとくに言うべきことが見当たらない。
なぜなら多少外見は異なろうとも、ペニロサが2週間前までその上に立っていた地球の街とたいして変わるところがないからである。
自分は夢を見ているのか、とペニロサが思うくらいだ。
「本当に月かしら?」
といういましも呟いた彼のこの言葉の背景にあるのも、地球との差異についての感動ではなく、酷似、代わり映えのなさについての衝撃なのだ。
ちなみにまだ彼は知らないが、月に生息する数々のクリーチャすら、ほとんど地球に生息するもののコンパチに過ぎない。ただその名前の先頭に<月>とくっつけるだけで簡単に呼称できる。
だからここには月ゴブリン月トロール月オーガ月ゴースト月バジリスク月ケルベロス月オルトロス月ドラゴン月大蜘蛛月狼月コボルト月マーフォーク月リザードマン月フェニックス月サラマンダー月リンドブルム月スライム月タイタン月コロッサス月プルガサリ月デュラハン月ウーズ月ガーゴイル月ヒドラ月リヴァイアサン月カーバンクル月スケルトン月ベルゼブブ月水龍月バハムート月ゾンビ月モスマン月ヴァンパイア月ヨルムンガンド月サキュバス月ピクシー月ワイバーン月インキュバス月デーモン月ゴーレム月ラージゴーレム月ビッグゴーレム月ギガントゴーレム月アイアンゴーレム月フレッシュゴーレム月アイボリーゴーレム月エメラルドゴーレム月ルビーゴーレム月トパーズゴーレム月アメジストゴーレム月ラピスラズリゴーレム月オパールゴーレム月ブロンズゴーレム月シルバーゴーレム月ゴールドゴーレム月ダイヤモンドゴーレム月プラチナゴーレム月反物質ゴーレムなどが生息しているということになるだろう。
月の風は暖かくも冷たくもなく、どこか無機質な感じがしてむなしかった。
しかしむなしいと言えばなによりむなしいのはせっかく月に来てもなんの目的もなく望みと言えばすぐ帰ることしかない自分の身であったため、ペニロサは周囲の景色に情緒を感じるほど情緒が安定する前に芝生を立つ。
おっかなびっくりと歩き始めるが、すぐ地球とたいして勝手が違わないことに気づく。これはペニロサを安心させた。誰だって十数年続けたやり方を否定されたくはないからだ。たとえそれが腐り果てていたとしても。
赤緑黄紫白青黒茶灰蒼虹翠。月面を覆う建物はどれもこれもが極彩色だった。しかしこれも地球から見ると一緒くたで白に見えてしまい目立たないのだからペニロサは不思議でしかたない。
そしてちょっぴり哀れを誘われないでもない。こーんなに目立とうとしてんのに、うちの故郷じゃぜーんぜん見えないんだぜ……
道ゆく人――ほら今横を通った前を横切った後ろから近づいてきた肩が当たったにらまれた――の服装は、まあ月らしいっちゃらしいけど、そこまで珍奇なものでもない。だからペニロサは自分の服装が心配していたほどには目立たないことにひとしれず安堵した。
ちなみに今まで一度たりとも彼がどんな服を着ているのかについての描写はしていないが、今後もするつもりはない。省略したっておそらく、誰も気にしないであろうからである。
今まで彼がいた場所は公園であるらしく、月人間が月チワワケルベロスや月プレーリーオルトロスを月噴水の周りで遊ばせているのが目に入った。
芝生芝生とうるさいがその芝生だってべつに地球のそれと変わりない。どんな芝生かって言っても芝生は芝生であり芝生以外の何物でもないとしか言いようがない。
ペニロサは幅広い通りを歩く。両脇にぎっしりと2階建て3階建て4階建て5階建ての建物が並びたち、フェアリー一匹入る隙間とてない。しかもゲイゲン大陸南南西部ビービロス区域サイルンの森ニールの大木の先にあるウォッチア湖に住む世界最小の一族であってすらそうなのだ。
なんということか。ペニロサはその数々の建物の入り口に掲げられた看板をすべて読むことができた。言語体系まったく異なるのにもかかわらず。彼自身に理由はわからない誰にもわからない。おそらく神にすらわからないだろう。宇宙ではときどきこういうことが起こるものなのだ。
彼は歩きつつそのすべてを読んだ。
「ミイエウ武具店」
「サーラーター道具店」
「マジェスティック魔法具屋」
「グルサミカ魔法書」
「遺伝子組み換え詰め放題!」
「人体着色請け負います今なら右手左手無料!」
「大盤振る舞い血痰血尿血便赤痢!」
「今すぐ効く致命毒各種取り揃え!」
「気狂いまがいの隣人殺し万の刃物類取り扱い!」
「目指せ月面転覆百カトントス大火薬!」
「一回無料臨死体験!」
「それいけ血みどろ皮膚ク飾!」
「呪い請け負います代金は3つめの穴」
後半のほうになってくると言葉は理解できても意味が理解できない。ペニロサは早速地球に帰りたくなってきた。いまに始まったホームシックではないが。
「ホームシック完全治療完全個室完全触診完全触手!」
……いや、けっこう。
だんだん空が暗くなってくる。
あれ、あれ、なんだ、夕方か。夕方なのか。月にも夕方があるのか。そりゃ、あるんだろうな。なきゃカラスがいつ帰ったらいいのかわからなくなって混乱し、ゴミを食い散らかすのをやめてむしろ整理し始めるかも知れない。そっちのほうがいいな。でもこれは夕方だな。夕方。その次に来るのは夜か。夜。
夜!
どうしよう、とペニロサは思う。荷物はすべて地球のあの街の(そこの名前も知らないのに月にまでやって来ちゃったどうしようへへへ)あの宿屋に置いてきたままであった。
もちろん通貨が違うからせっかく勝手に遺産相続して入手したあのゴールドもクズに等しいのだが、荷物には食糧も混ざっていたのだ。あれがあったらなあとペニロサは思う。タイミングよく腹の虫も鳴る。この虫は生まれたときから彼に寄生しているのだ。他の人間はどうなのかこの虫を飼っているのかペニロサにはわからない。他の人が腹を鳴らす瞬間に居合わせた試しがないからだ。なぜいつも出くわさないのかそれとも実際には鳴っているがおれにバレるのが恥ずかしくてなんとか音をこらえているのかそんなことができるのかそれができるならおれはあのときあんな恥をかかなくたって済んだのにいいいい……
「ふくびき所 ※初回無料!」
建物と建物の隙間、小悪魔だって住むのに難儀しそうなその極小スペースにこのような看板をかかげた、ひとつの店があった。張り出した紙には以下のような記載。
☆景品一覧☆
10等 昨日の朝刊
9等 ゴミ
8等 今日の朝刊
7等 明日の朝刊
6等 テニスボール
5等 犬の餌
4等 人の餌
……普通は上に行くほど豪華な景品を記載するんじゃないのか、とペニロサは思う(豪華とも思えないが)。なぜこの店は逆なのか。一体だれに対する配慮……子どもか?
そんなくだらぬ考えより彼の目を引いたのはこちら!
3等 付け替え用心臓
2等 教皇庁ゴシップ
1等 神酒の海二泊三日旅行券
旅行券。
ペニロサは歩みを完全に止めた。急に止まったので後ろからぴったり彼にくっついていたスリは彼にぶつかり慌てて逃げ出した。そいつがスリであることを見抜いていた男が脇から出てきて彼を捕まえ背景に引っ張っていった。
しかしペニロサはそんなことを知らない。彼の頭を占めているのは<宿泊券>この3単語のみである。
彼は今日の自分の運はまだ残っているだろうかと考えた。
ベルゼブブ
生息地は金星。月にいるのはベールゼブブ。違いは本人たちにもわかっていない。
フェニックス
死ぬ時火山に飛び込み復活するが、その度噴火が起きるので、大方の生物に嫌われている。