7話:13号をそらんじて
巨大ネズミ
街の地下下水道に巣食う大ねずみ。疾病の媒介者。
ハルマゲドン
実はもう終わっているとの噂である。
彼女はそれを知っているのだろうか。いや知っていればこそ、一切の血液を、例え父親のものですら、いや父親だからこそ、摂らずに耐えていたのではあるまいか?
それならばこのおれがにやにや不気味な笑いを浮かべつつ「血……血……血を……どうぞ……」なんて提案したところで、彼女に戦慄をもたらすだけの結果に終わるかも知れない。
しかしこうしたこと一切がおれの妄想だとも考えられる。勝手にそれをたくましくし、第二次性徴期全開の葛藤で身悶えしているだけかもしれないではないか。だとしたら、あれ、はたから見ればかなり気持ち悪いんじゃないか?
オーガにも劣る下劣な考えをペニロサが巡らせている間、店主はあんまり道がわからないものだからとうとう発狂してしまった。
「うぇへへへへ。わかんねーや」
「は?」
普段から平常でない店主が一段と平常でないことにペニロサは気づく。
「迷った! まよった! ああぼくたちみんなスイカズラ」
おれは人間だけど、とペニロサは思う。いやそれより、もっと聞き咎めるべき単語は……
「迷った? えっ、迷いましたって?」
「ふむ。そのようだ」
「あなた道を知ってるんじゃないですか」
「小生は知らぬ。地図が知っている」
「その地図はどこにあるんですか」
「拙者の部屋に」
「あなたの部屋はどこにあるんですか」
「この場所でないことは確かじゃ」
ペニロサは息の詰まる思いがした。いや実際、もう出られないかもしれないと思ったとたん、この場所がひどく息苦しい場所のように感じられ始めたのである。
「でもほら、あなたおれをここまで連れてきたじゃないですか」
ペニロサは店主の先ほどの言葉を思い出しすがる思いで聞きただす。
「そんなこと言ったっけ?」
「言った。言いました」
「じゃ、あんたの聞き間違いだろう」
「ほっ……」
耳を疑うという慣用句、その意味を初めてペニロサは理解できた気がした。聞き間違い? そんなわけがあるか。しかし、何度訊ねても言ってないとの一点張り。
理不尽。ひどい理不尽だとペニロサは思う。絶対に言ったはずなのに言ってないと言うのだ。やはり守るためとはいえ娘を幽閉しておくような人間は、海綿動物なみの頭しか持たないのかもしれぬ。
ラーミラは黙ってペニロサと父親の言い争いを眺めている。ひどく憂鬱そうに見えるけれど、それは初めて彼女が登場したときからずっとそうであるため、この状況によってなにか感情の高低が発生したのかどうかは誰にもわからない。
「だいたい、キミは気分が落ち込んだからここへ来たんじゃないか」
と店主。
「じゃ、その逆をやったらいかが?」
「逆……?」
自分も相手ももはや何を言っているのか理解できなくなり、ペニロサは痴呆を発症したオウムのように聞き返す。
「気分が上向きになればですね、ここから脱出達成、そして我の家へ赴きて地図を取って返せるんやないけ?」
目まぐるしく変わる口調に翻弄されながらも、ペニロサは店主の発言のだいたいを理解することができた。わけねえだろ。なんだよ気分を上向きにするっていくら魔法があるからってそんな現象がまかり通るような世界なのかここは?
しかし他に方法はないようで、それはもう泣き出さんばかりの「えーんえんえん」あ、泣いた。泣き出してしまうほど焦燥しきった店主の様子を見ることでもわかる。
それに……この店主はともかく……ラーミラをここに閉じ込めっぱなしというわけにはいかない。まだ出会って2時間14分53秒くらいしか経ってないけれど、もう他人とは思えなくなっていたのだ。
それは彼女の生い立ちに同情するよりなにより、その相貌のかわいらしさのためではなかったか? とペニロサは自問自答し、はい、そうでございます、と即答。まあ嘘をついてもしょうがない。
とにかく、この今胸にあるこの気持ちを、なんとかかんとか叶えたい。それはラーミラのためだけではなく、のんべんだらりと過ごしてきた自分自身のためでもあるのだ。
そうと決まれば、ペニロサはひたすら集中し、何か気分が浮つくような、ひたすらに楽しげな情景を想像しようと努力する。
「手伝おう」
と、店主は自分では愉快極まりないと思っているらしい踊りを舞い始めた。ペニロサは集中を途切れさせないように後ろを向いた。なぜかべつに集中しなくてもいいはずのラーミラまで後ろを向き、かくして店主の踊りを見ているのは彼自身の背後にいる巨大ドブネズミのみとなった
「え?」
店主は後ろを振り向き、そこにげっ歯類の巨大な牙を確認し、もう一回前を向いて今見たものをなかったことにすることはできないだろうかと考えた。それよりも優先的にすべきこととして、彼は悲鳴を上げることにした。
「ぎゃっ! ちょっと君たち! ここにピンチの中年男性がいるぞ! 助けてみませんか?」
さっぱり集中できないペニロサ。頭の中はぜんぜん気分を高揚させるのにつながらない、例えば親の死に顔とか、ネズミに追いかけ回される男とか、そんなものばかりが浮かび来る。
「ああー! やめろやめなさいやめてください。ちょっと、あ! は、話し合うわけにはいかんすか?」
ひっきりなしの店主の悲鳴。
ペニロサは顔を熟れすぎてもはや市場価値を失いせいぜい自由研究のテーマ「廃棄食品のゆくえ」くらいにしか使えそうにないトマトほどに赤くし、額からは三日前に腹を下したとき以来の汗を垂らしている。なんとか希望をひねり出そうと、懸命に頭を絞っている。
……ふと、辺りが無音となった。
いや、相変わらず店主はネズミが引くほどの大声で悲鳴を上げているから、ペニロサが無音となったように感じただけである。
どうしておれは何も聞こえない?
というか、どうして耳になにか……違和感?
なにか挿さっている?
ペニロサは目を開けた。傍らにいたはずのラーミラの姿が見えない。その代わり、背後に気配がある。
彼女はいま、ペニロサの後ろに立っていた。手を伸ばせば届きそうな、というか実際届いている距離だ。しかも、さして伸ばさなくても届きそうなくらいの。
ペニロサの耳は塞がれていた。彼の手によってではない。彼の手はいま、ズボンのポケットのあたりでヒマそうにぶらついている。急に午後の仕事がなくなった港湾労働者のように。
ラーミラの指が、人差し指が、右手と左手にひと揃いのそれが、透き通るようなそれが、月のように白いそれが、ペニロサの右耳と左耳に、それぞれ挿入されていた。
ペニロサはしばらく、そのことに気が付かなかった。無理もない。どうして出会ったばかりのヴァンパイアの少女が、自分の集中を助けるために、その指で耳を塞いでくれるなんて発想の飛躍ができるだろう? 彼ほど妄想癖の強い人間であっても、さすがに恥ずかしくてまともに考えられないほど突飛な出来事でないか?
……冷たい。耳が冷たいとペニロサは思う。おかしいな、べつにこの場所は暗いけれど涼しいってわけじゃないのに。どしてこんなに冷たいのだ?
そして気づく。
「まさか」「いやいや」「もしや」「ほんとに」「うそ」「マジか」「マジだった」の7段階を経て、自分の耳に挿し込まれているのが、まぎれもなく、ラーミラの指であるということに!
「……」
終日、様々なことあれど、此に勝る非現実はあらず。
というわけでペニロサは無事昇天。ついでに店主もラージラットに食われまいと死闘を演じているが昇天しかかっている。いそげペニロサ。
□ □ □ □ □ □ □
急に地面から人間の頭が生えるのを目撃して驚かぬ人間はいない。
というわけでペニロサの往来の中央への緊急登場は街全体に大混乱をもたらし、これによるけが人は133名にのぼった。さいわいにして重傷者はおらず、もっと幸いなことは、ペニロサが原因であることがついぞバレなかったことである。
数時間ぶりの愛しき地上の空気を肺にため込む余裕も見せず、脱兎だって打倒するダッシュで彼は店主の家を目指す。
人を、看板を、テーブルを、イスを、石を、岩を蹴散らす……ことは流石にできず、五秒ほど悶絶する羽目になったが、それでもすぐ立ち上がり、日没間際ですべてが蜂蜜色に染まる街頭を走り行く。
間もなく教えられた角に到着し、ペニロサはそこに目的地たる家を見る。瀟洒な館。とてもああいう人物が主人とは思えないような……いやいや、そんなのはどうでもよく。
だだだだだだだだだだと借金取りだってもうちょっと遠慮深いと思われるほどの連打で来客の到着を示す。
「はい……?」
間もなく戸を開け(無理もないが)不審げな顔をひょこりと出したのは、半分死んでるんじゃねーかと思われるほど顔が白い女の人。その美しさから言って、まず間違いなくラーミラのお母様であろう。彼女は母親似なのだ。
「ち……はあ……ちちち……はあ……ちっ、ち、ち……はあ……ち、ち、ちゃ、ち……はあ」
ハルマゲドンの日にだってこんなに走らねーよと思うほど走ったあとのことなので、ペニロサの息は絶え絶え。蚊だってもうちょっと元気に呼吸をするだろう。
「はい?」
夫人の彼に投げかける視線は相変わらず怪しい人間を見るもののそれ。まるでおれが戸を開けさせては喘ぎ声を家主に聞かせ興奮する変態だと疑っているようだし、現時点ではそんな判断を下されるのもやむなし、とペニロサは思う。
「ち、地図を……」
やっとのことでペニロサは本題に突入する嚆矢たる単語を発声することに成功。
「あの……ご主人が……迷って」
「まあ。また忘れたんですのね」
と、夫人。すぐ室内へ取って返し、ひどく黄ばんだ紙を持って再び玄関へ。
「本当に忘れっぽくて……たまに自分の名前すら忘れるのよ」
そう言えばまだ彼の名前は判明していなかったとペニロサは思う。ラーミラより前に登場したのに。
「何という名前なんですか?」
「教えるのはいいけど……ところで」
夫人は困惑ぎみに訊ねる。ちょっと困惑ぎみになるまでが遅いような気もするが。
「あなたはだれ?」
すでに足は地図に示された方角へと向けつつ、ペニロサはとっさに浮かんだ言葉を口にした。
「スイカズラです」
□ □ □ □ □ □ □
「でかしたぞ青年よ」
「ペニロサです。ところで……」
「ペニロサ君か。後でなにか奢って差し上げよう。蒸しバナナでいいかな?」
「いいですけど、あの、あなたの名前は……」
「おお! ちょうど夜ですよラーミラちゃん」
「だめだなこれ」
地図を手にしたペニロサは地上の出口から逆戻り。お互いに声を呼び交わし、とうとう合流。そして無事、三人そろって夜の清浄なる空気を吸うことが叶う。
ちなみに、あのラージラットはヴァンパイア特有の怪力でラーミラが半秒かからず調理した。
「もっと早く……ごにょごにょ」
店主は何か言いたげだが、ラージラットの末路が目裏にちらついて、発言を妨げた。
「……手伝ってたから」
ラーミラは、ちら、とペニロサの方を見て言った。
またあの感覚が思い出され、すう、と体が上昇していく錯覚を覚えたペニロサであったが、実は錯覚ではなく、本当に体が宙に浮き、ぐんぐんと月のほうへと昇っていった。
「あ、ちょっと!」
店主が下から声をかける。
「いらんのか蒸しパン、いや、バナナだったかな? どっちだと思うラーミラ」
「知らないわ」
どっちでもいいけどこれなんとかならないのか、なりませんか、ペニロサは諦念を抱く。ま、とにかくラーミラを助けられたのだ。良しとしよう。ちょうど、月面歩行に興味もあったことだし、は、は、はは、は……
それにしても……とだんだん近づく星空のまばゆさに目を潤ませながらペニロサは思う。
あの化け物ネズミを一瞬で解体できるほどの力をラーミラが持っていたのなら、あんな店主のミニゲームなどやらずとも、楽勝で脱出できたのではないか。いや出来たはずだ。
なぜ強行突破をせず、大人しく閉じ込められていたのだろう……いやもちろん、おとなしい性格ではあるのかもしれないが。
流れ星が東から西へ急いで空をまたぎ、ペニロサは願い事をとっさにつぶやこうとして、しかし願うべきことが思いつかないことに驚いた。
欲しいものなんて、もうなにが欲しいのかわからなくなるくらいにたくさんあったはずなのに……いまはそれが一つも思い浮かばないのだ。
……それもそのはずかもしれないな、と考える。だって今、おれは空を飛んでいるのだから。これは気持ちが浮ついている証拠、満足している証左なのだ。
胃がはちきれそうな人は、どんなにうまい食べものだって、それ以上欲しがりはしないだろう。それと同じことだ……まあ、デザートは別かもしれんが。
というわけでペニロサは<デザート、デザート、デザート!>と猛烈に心のなかで唱えた。そのとたん、上からなにかが降ってきた。こういうときばかり発揮される反射神経で、すかさずキャッチ。
ババロアだった。