6話:血呑み子
ペニロサはめまいを覚えた。すぐ忘れたくなったが。
本当に自分はあの村を出たのだろうか? もしかしたらまだおれは眠っていて、これまでのことはすべて夢なのかも。だってこんなに……世界は狭すぎる。
「この人がお父さんん?」
ペニロサの質問に、ラーミラは静かにうなずいた。べつに、今までの彼女の動作すべてが静かだったけれど。
「せや。そん子はぼくの娘でさあ」
店主も説明してくれたが、その口調のおかげでむしろペニロサの混乱がいっそう強まった。
「君のお父さんは呪いでもかけられてるの?」
「いいえ」
ラーミラは否定する。
「もとから」
ということなので、もうペニロサは店主の口ぶりを気にしないことにした。
「どうして……閉じ込めたりなんか……」
思わぬ人物の登場にまだ混乱し、そう問いかける声色にもにじむ惑乱。それでも謎を明かそうと、懸命に声をしぼるのだった。
店主が、まだはっきりとは見えぬ影の中で口を開く。
「それは――」
店主はその後、ペニロサに事情をしっかりと説明した。説明したのは確かだが、やはりその口調、それは多分に錯乱をもたらした。だからここでは彼の言葉を逐次伝えるのはやめ、その概要だけを記すこととする。
そうしたほうが、きっと理解ははかどるだろうし、実のところ、ああしたごちゃくちゃなセリフを全て書き起こすのは、こちらとしてもとても骨が折れるのだ。
娘――ラーミラのことだ――は、先天的ヴァンパイアであるわけではなかったそうだ。
まあ当然といえば当然。生まれつきヴァンパイアであるなら、彼女の親たる店主もヴァンパイアでなければならないが、それは夕方とはいえ一目瞭然に日が出ていたあの時間帯に屋台を構えていたことからも否定できよう。
詳しくは語らなかったが、平和な日々を過ごしていたあるとき、ラーミラはヴァンパイアの歯牙にかかり、かくして呪われし血族の一員に強制加入と相成った。
両親――この店主とその妻――は非常に悩んだ。ヴァンパイアになったからといって、ふたりの娘に対する愛情は、毎日日が昇る不変の運動のごとく、まったく変わることはなかった。
ただ、社会は違う。ライカンスロープなどについても言えることだが、無慈悲な白眼視の憂き目を見ることとなるのだ。幸いにして、周囲にはまだ娘の吸血鬼化を気づかれていなかったものの、いつ露見するか、またそうしたさいに果たして自分たちは娘が守れるのか……悩みに悩んだ末、店主は娘を街の地下深くに閉じ込め、自分は射的屋を始めるために営業許可証を申請しに向かった。
「……なんで?」
店主の話がここまで来たところで、ペニロサは疑問の声を挟まずにはいられなかった。どう聞いたって脈絡がないのだ。
とはいえ、もちろん考えあっての行動だった。
世にある射的屋の主人というのは、たいていが的を恣意的に動かすインチキを行っているものだ。規則的に動かしていると見せかけ、玉があたる直前、ヒョイと魔法で動かす。だから射的屋で遊ぶ人間は、そのハプニングを考慮に入れ、もはや予知能力じみた偏差射撃を余儀なくされるのだ。
そのインチキ魔法にかけて、この店主の右に出るものはいなかった。べつに統計を取って調査したわけではないが、この店主は勝手に自分でそう思っていた。
彼は的を、まったく、完全に、自分ですら予測できない方向に、可変の速度で動かすことができた。彼の射的屋でまともな成績を取得できた挑戦者は一人もいなく、というわけで次第に客足は遠のき、彼はべつの仕事も始めなくてはならなくなった。
「それはどうでもいいけど」
と店主。
もちろん、金稼ぎなどがこの起業の目的ではない。彼は待っていたのだ――この難攻不落のミニゲームで、見事パーフェクトを達成するほどの腕前を持つプレイヤーを。
そしてそんな人間であるならば、きっと娘を守り通してくれるだろう。そう考えて彼はラーミラを地下に幽閉し、営業許可申請をしに向かったのだった。ちなみに許可が降りたのは四回目に申請した時のこと。
店主が語り終わった後、しばらくペニロサは呆然としていた。半分は彼の事情を聞いて受けた衝撃のためで、もう半分は長話を聞いたことにより催した眠気のためだった。
……しかし腑に落ちず。
「やっぱり呪われてるんじゃないか……?」
とペニロサは小声でラーミラに訊ねた。
「……」
彼女は声にこそ出さなかったが、口はわずかに動き、それはまるで「……そうかも」と発音しているかのように見えた。
べつの方法はなかったのだろうか? とペニロサは思う。なんだかひどくまわりくどいような印象が……それになんだか、ずいぶんとおれにとって都合のいい……
たまたまであろうか?
たまたまである。
「実はな、あんさんを連れて来たんはワガハイなんだ」
と店主が言った。
「てめえなら、あたしの一粒種のラーミラを、安心してお任せ願えるかと……」
そしてぱちりと指を鳴らした。あんまり急だったため、ペニロサはてっきり店主が花火でも射出したのかと思った。
パパパっ、と無数の的が出現し、三人がいるこの薄暗く狭い空間を無秩序に飛空する。クシャミをしたときに飛ぶつばだってもうちょっと規則正しいだろうと思われるほどに無秩序だった。
「さあ、やるかえ?」
店主の手にはいつの間にか、昨日ペニロサが手にとって無比の成績を叩き出したあのピストルが握られていた。
頭がなにかまともなことを考えることより早く、ペニロサはうなずいていた。
そして何の苦もなく、彼は一回たりとて外すことなく、制限時間内に、完璧に、すべてのマトを射抜いた。
ずいぶんとあっさりと、そのあっさりさと言ったらペニロサ自身が茫然とするほどにあっさりと、彼の才覚は証明されたのだった。
店主の目には涙が浮かんでいる。夢にまで見た救世主。その顕現をいままさに彼は体感しているのだ。
「娘を……頼んだ」
そしてなぜかどさりと倒れ伏す。
いかにも瀕死という雰囲気を醸し出していたが、べつに彼は健康そのものであり、その後すぐまた立ち上がって、散らばったマトの残骸を片付けてくれるようペニロサとラーミラに要請した。
□ □ □ □ □ □ □
「信じられない……ギルドの試験じゃ全然ダメだったのに」
未だに試験の惨憺たる有様を引きずるペニロサは、誰にともなくつぶやく。
しかし謎である。なぜもっと実用的な場面、勇者になれるかなれないかという瀬戸際においては発揮されない才能が、こういう射的とか、なんだかやってもやらなくてもいいような、いわば人生の本道から外れた“寄り道”のような場においてのみ別人のように爆発するのか。
……ふと、はるか昔の記憶がペニロサの心中に蘇る。はるかと言ったって彼の幼年時代の話だから、たかだが十年ちょっとと、「はるか」という形容にはまったく似つかわしくない年月しか隔てていないわけであるが。
くずかご。ひとつのくずかごが心象において回帰した彼の幼年時代の、自宅の部屋のなかに出現する。
その開口部のサイズ感は、ちょうど発育不全のスイカ一個がぎりぎり入るか、入らないか、といったところだが、断言はできない。
というのもいくら発育不全のスイカとはいえ、むざむざとくずかごに遺棄してしまうほど、ペニロサは傲岸不遜ではなかったからである。
とにかく、そんなくずかごが、いま幼きペニロサが見ている部屋のすみに置かれている。部屋の他の領域にはテーブルとか机とか卓とかがあり、くずかごは必然的にすみっこに押しやられていたのだ。
いま、ペニロサの右手には何物かが握られている。力を込めても反発はなく、「くしゃ……」と、いかにも切なげな音を立てるのみ。
きっとこれは羊皮紙かなにかだなとペニロサは思う。そう思ったのが現在この記憶を回想しているペニロサなのかそれともその記憶に登場している幼年期のペニロサなのかそのどちらなのかはわからない。
ペニロサは、この紙を捨てようと思っていた。
ぽーんと放り投げ、あのくずかごのなか。
うまく入るだろうか?
入る。
根拠不明の確信が、ペニロサの内々に満ち満ちていた。絶対に外さない。必中である。そう思う理由もそう思える理由も不明だったけれど、とにかく外すなんてことはあり得ないと思われた。
力を入れる必要なんてない。これはまったく大したことではない。そりゃそうだ、たかだが丸めた紙を投げ入れるくらい……これほど“大したことのない”行為なんて、他にはちょっと思い浮かばないくらいだ。
何らためらわず、躊躇せず、ほとんど集中すらなく、右手を放るペニロサは。
ペニロサの手を離れ初めてその全容を見せたのは、やはり丸められくしゃくしゃにされた紙であった。無風の部屋を横切り、一直線(いやもちろん、軌道は放物線を描いたのではあるが)に、くずかごへ。イン。
自分の投擲が成功を収めたのを確認したペニロサの心に、非常に微かで些末ではあるが、それでも幸福なものであるのには違いない、達成の感慨がにじみ出てくる……
「あーっ!!!」
ペニロサがそんな大声を急に出したので、前を歩いていた店主はひっくり返って右手を打ち、ラーミラは眉ひとつ動かさず左右それぞれの手にある人差し指で耳に栓をした。
「思い出した。思い出しました」
ペニロサは興奮して饒舌になる。
「あれは幼い頃でしたか幼年期でしたかまあどちらでもよい。とにかくその頃おれはある遊びに熱中していてまあそういうのって誰しもが経験のあることだろうと思うけれどおれの場合その遊びはくずかごにごみを投げ入れることであって、今の今まで忘れてたんだけどおれはそれを百発百中で投げ入れることが出来たんだったうんそうだった。もしかしたらそのときからこの役に立つんだか立たないんだかわからないいやはっきり言って全然役に立たないこんなのやったって大成の夢を見ることは出来ない腹の足しにもならないようなそんなミニゲームみたいなものに限ってとんでもない才覚を発揮する、そんな一見意味不明おれにも理解不能の才能が……」
ここまで一息にしゃべってから、しかし最後には自信がなくなってき、
「……表れていた。いたんじゃないか。いたんじゃないかと思います。いたんだったのかもしれない。たぶん。おそらく。場合によっては。見方によっては、だけど」
そうしてから急に恥ずかしくなり、ペニロサは二人に、自分はときどきこういうわけのわからないことを喚くときがあるが一過性のものだし伝染性でもないから心配しないでくれ、と言い、それを聞いた二人は無言でうなずいた。
三人は店主を先頭にして、迷路のような道筋をたどっていた。あんまり入り組んだ道であったので、ペニロサは本当にこの店主は道をわかっているのか? と心配になったが、まあ自分の思い過ごしだろうと首を振った。
ちなみにその時店主は本当に迷っていて、いまはただひたすら運任せに分岐路を突っ切っていた。正規ルートを記した地図は、いま彼の家の机の中で迷路に迷う夢を見ていた。
自分たちがこの暗闇の通路で完全無欠迷子であることなどとはつゆ知らず、ペニロサは自分とラーミラのことをひたすら考えていた。
店主の「頼んだ……(そして倒れるフリ)」という言葉がしきりに思い出された。
その時は自分のことばかりに気を取られ、ラーミラの表情を確認することをすっかり失念していたのだった。
自分の父親が見ず知らず馬の骨を連れてきて、こいつに守ってもらえと言われる娘の気持ちとは……これは正直、彼には計りかねた。
彼は自分の考えていることすら時々わからなくなるのだ。それでどうして他者の気持ちなどを推察できようか?
……守る、ねえ。
守るったって何をどう守るんだ子どもが学校の校則を守るのとは違うんだぞ、とは思うものの、それでも出来得る限りのことはしたい。
そういう素直な気持ちが早くも芽生えつつあることに、誰よりなにより彼自身が驚いていた。あれっ、おれはこんなにいいひとだったろうか?
「血は……ここにいる間どうしていたの?」
なにやら顔がずいぶんと深刻そうな、どのくらい深刻かと言ったらまるで自分が迷子であることに気づいた迷子くらいに深刻そうだった店主に気兼ねし、ペニロサはラーミラに訊ねた。会話のきっかけを掴むためでもあった。
「……我慢」
断食とは恐れ入った。確かにヴァンパイアは不死身だし、不死身だということは何も摂らずとも死なないことでもあるはずだ。とはいえ、血を断ったままでは、耐え難い渇きを覚えるのでは……?
というようなことも続けて訊いてみる。
「……まあ」
やはり苦しいようだ。
ペニロサは、ああだったらおれの血液をどうぞいやたぶんきれいですよ少なくとも性病の心配はないですからあははははははは、という提案が喉元まで出かけ、危うく飛び出そうになったが、なんとかまた押し返した。
こういうことはしょちゅうペニロサの身に起こることであったため、彼は自分では気づかないうちに重度の逆流性食道炎を発症していた。
彼がその提案を飲み込んだのは、ヴァンパイアに関するちょっとした、いやこの場合はかなり重大な、真偽のほどは定かでないが深慮に値する、とにかくそんな豆知識を思い出したからだ。
ヴァンパイアにとっての吸血行為は、他生物における生殖行動になぞらえられる。
ペニロサはラーミラを見た。その白い頭髪と、この闇のなかいっそうその色合いを増したかに見える手と指とを見た。
そのとき彼女がこちらを不思議そうに見やったような気がして、慌てて彼はとうとううめき声をあげ始めた店主に視線を戻すのだった。
魔法
扱える人間は少ない。なぜなら何年もこれひとつにかまけていられるほど暇な人間がそうそういないからである。