4話:落下します
果たしてあの才能は日暮れ前の奇跡に過ぎなかったのか、それとも恒常的なパッシヴなのか。それを見極めるためにはもう一度あのミニゲームに挑戦する必要があった。
よってペニロサはまたあの屋台へ赴く。
心なしか腰をかばう様子を見せながら。
そろそろと宿屋の戸をくぐり出て、まだ半醒半睡の街中へ。どのくらい寝ぼけているかといったら、通行人がみな片方の靴を履いていなかったほど。
ペニロサはこらえきれずにあくびをする小竜を見た。その時鼻から飛び出た火花で、それが入れられている檻の鉄格子が溶け出していた。
ペニロサの足元をなにかがくぐり抜け走り去っていった。おかげで危うく彼は転びかけ、もし転んでいたなら患部にもう一撃食らうことになり、二度と立ち上がることが出来ず、ハイハイで街を徘徊することになっただろう。
猫はまだら模様で、口には気絶したネズミをくわえていた。もしかしたら死んでいるのかも知れなかったが彼にはわからない。ただとにかく気を失っていたのは確かだ。そうでなければ、おとなしくくわえられているはずはないだろうから。
街路のほんのちょっと、ミリにも満たない隙間から、ところどころ緑色の植物がのぞいていた。それらは身の上に降りた露が宝石のようにきらめくため、ただ朝にのみ存在を認知される。
裸の片足をひきずりながら歩く人々がいったいどこを目指しているのか、ペニロサは不思議に思う。そもそもこんな朝早くに起きる価値があるほどのものが、この街のどこぞにあるとは思えなかった。
ただし、あの屋台は別にして。
慣れない街路をあちこちさまよい、もうダメだおれはここで餓死するかもしれねえせめて最後に水を一杯……というまでに疲労困憊満身創痍の体を晒してから、ようやっと彼は昨日思わぬ才能を披露したあの屋台を発見した。
と思ったのだが。
「あれえ」
すっとんきょうな声をペニロサは漏らす。言うまでもなく、すっとんきょうな光景を目にしたからだ。
「無人だわ」
屋台には誰もいなかった。人どころか物すらない。昨日はあれほど木板の上や下にぎっしりと詰め込まれていた無数の景品は、夏に降った雪のように消えていた。
近くを通った男に事情を訪ねてみる。ここは射的屋でしたよね? と。男は時間を気にするそぶりを見せながら、ええ昨日まではそうでしたよ、と。ただ、今日は違うみたいですね。
「なにかあったのですか」
ペニロサの言葉に相手は首をかしげるばかり。
「いやあ……なにしろ」
さっと屋台に視線をやってから、
「気にも留めていませんで」
じゃあこれで、と、男は姿を消した。彼は魔術師だったのだろう、とペニロサは思った。目の前で人が消えるなんてことはあるはずがないし、もしあったとしたらそれは魔法のせいで、魔法を用いるのは魔術師だと相場が決まっていたからだ。
早起きの理由が消失してしまったことに意気消沈しながらも、せっかく起きたのだからもう少し散策するのも悪くないな、と考え、そうと決まれば早速と歩行。
眼や耳が痛むほど、街はさまざまな物や音であふれていた。どれもペニロサは見たことがないものばかりで、それはもちろんこうした物が一切彼の故郷では見られないものばかりであるからだ。
にょきにょきと大通りの両脇にそびえ立つ建造物。非常に背丈も高く、空がほとんど見えないくらいだった。そんなに採光を気にしているのかと思われるほど無数の窓が壁面に備え付けられ、ヴァンパイアなら死んでも住もうとはしないだろう。
実際、かの種族がやたらと古城を根城とするのは、そういう古の時代の建設者がたいてい、採光に対する意識をさっぱり持っていないからである。
説明するまでもないほど有名と思われる種族についてそれでも説明するのは説明しなくてもわかることを説明するようで説明することがためらわれるがそれでも説明すると、ヴァンパイアとは、血を吸って千年も生存し続けるノスフェラトゥである。
どういうわけか「不死」という単語を聞くと、たちまち「不老」という言葉と結びつけようとする人間が、無数に存在する。……まあ、実際かの種族は不老不死であるからよいが。
さらにまた、ヴァンパイアは男女とも、美的な、欠点のない、まさしく高貴な、それでいてかわいらしい、そういう相貌を備えた個体ばかりだと想像する人間、これもまた無数におり、その数は去年の夏に発生した蚊の数よりよほど多い。
まあ、それも事実であるからよいが。
この世界の創造神は非常に気が利いていて、人間の期待に先回りして、なにもかもそれに沿うように調整してくれているようだ。
というような考えを人間が抱くのも、そもそも創造神などという考えを持ち出すのが、もっぱら人間だからということはまず間違いなくあるだろう。太陽が東から昇るのと同じくらい自明である。
ヴァンパイアはその怪力や魔力によって恐れられてはいたが、同じくらい憧憬を集める存在でもあった。なんといったって人間くらい、昔から同じものを欲し続けている種族はなく、それはたいてい衰えぬ美貌と健康である。こいつらは果たして二兎を追う者を……ということわざを知らねえのか。
とりあえずこの街にヴァンパイアはいなさそうだと、ペニロサは思った。
さらに歩くと、先ほどの高層と比べれば小人のような、彼にとってはなじみ深いほどほどの建物が密集する地区に出た。
戦士が、魔術師が、錬金術師が、盗賊が、冒険者が、狩人が、商人が、モンクが、僧侶が、騎士が、竜騎士が、テイマーが、パラディンが、蛮族が、貴族が、放浪者が、浮浪者が、召喚士が、軍師が、呪術師が、通りを埋め尽くす。
その中にあって、ペニロサは何者でもなかった。彼の→、↑、←、↓を歩く人々は、なにか技術の必要な仕事、危険な仕事、誉れ高い仕事、稼げる仕事、不可欠な仕事、そういった話をお互いに話し合っていた。
どれもこれも、自分には出来そうもないとペニロサは思う。自分はしょせん、田舎生まれの、無知で、無能の、無鼻の、せいぜいずば抜けて胃腸が強いくらいの、たまたま射的で好成績を収められるくらいの……
ひどく沈む心はその重さのゆえ。人の心は土の上に無造作に放って置かれている。重みを増せば増すほど、土の中、その無明の中へ。
あんまり心が重いものだから、彼の体まで地面に沈み始めた。ずぶずぶ、ずぶずぶと。とうとう顔しか地上には残らないという段階になって、ようやく彼は自分がちょっとまずいいやかなりピンチなんだという状況にあることを理解した。
「あっ、えっ」
彼は自分の体を見下ろしたつもりだったが、眼に入ったのはきたねえ道だった。土に埋もれる前に見るものとしては、あまりにも美しさに欠ける。
できればもうちょっと美しいものが見たいってことで、彼は道行く人に声をかけた。
「あの、ちょっと、そこの美しい方!」
二百人の通行人が一斉に振り返った。男女比はだいたい4:6。ただし試行回数を増やしたならば限りなく5:5に近づくはず。しかし毎日こんなことをしていたらさすがに相手にしてくれる人などいなくなるだろうから、その検証を行うことは叶わない。
彼は振り返らなかったただ一人の少女に声をかけた。
「そこの人!」
直接指名されては振り返らないわけにはいかない。少女は振り返った。
彼の宿屋のオーナー(の娘)であった。
「ああ」
彼は言った。
「けっこう狭い街なんすね」
そして沈んだ。
□ □ □ □ □ □ □
「いたた……」
ペニロサが目覚めてすぐ感じたのは後頭部の痛み。しばらくはそれしか考えることができず、目覚めたとは言ってもまだ目を開けたわけではなかった。
今自分がどういう場所にいるのか、それはさっぱりわからないけれど、とにかくこの痛みがどっかにいってくれたのなら、もうちょっとまともにものをかんがえられるのに。
彼のそうした考えは、残念ながら満点解答とは言えない。そもそも、ハナからまともでない思考回路に、どうしてマトモになれるなんて望みをかけられるだろうか。買ってきたスイカにメロンになってくれと祈祷を捧げるようなものである。
ペニロサは地面……多分地面だと思われる、いや地面であって欲しい、そうだ地面だということにしよう、と、とにかくそういう場所に手で触れたみた。濡れた。彼はもともとこれ以上ないまで落ち込んでいたが、その底すら突破した。
とにかく自分が落下したということはわかっていて、それならおそらくこの場所は地下であろうし、地下というのは地下水路とか地下下水道とかいう名詞から連想されるようにあんまり衛生的だとは言えない場所で、そういう場所で手を濡らすようなものときたら、これはもう、さっぱり衛生的でないと考えたからである。
彼は人並みに衛生観念を持っていた。
汚染された手をどうしようか、服でぬぐってしまおうか、そうすると服が汚れてしまう、けれどこのまま不浄な手をぶらぶらさせながら今日一日をやり過ごすというのは現実的でないし、そもそもやりたくない。
ということで甘んじてズボンに汚れを引き受けてもらい、ついでに彼は目を開けた。すぐまた閉じた。これは目の前の光景が信じられなかったとか、恐ろしすぎたとか、そういう月並みな理由から選択した行動ではまったくない。それはただひたすらに常識的な、おそらく誰しもが経験しているだろうし共感されるだろうと思われる、あの一般的な「気まずさ」から採択したものであった。
彼の目の前には人がいた。
いや、いなかった。
それは人ではなかった。
だからといってサルとかホオジロザメであったわけでもない。いくらペニロサでも、動物に対して気後れすることはない。
彼の目の前にいたのは吸血鬼、ドラキュラ、ヴァンパイア、まあどれでもいいが、とにかくあの血を吸って千年も生きるノスフェラトゥが座って見ていた。
そして――もしかしたらこれこそが最重要事項であったかもしれない……誰にとってかは知らないが――そのヴァンパイアは、ダンディな伯爵風でも、クールな青年風のものでもなく、いたいけな少女であった。少女“風”ではない。そんなものはこの世に存在しない。この世にいるのは少女とそれ以外のみだ。
とにかくそういうわけで、彼は再び目を閉じたのだった。
「……あのぅ」
ひょっとしたら自分の背後にいるかもしれないまだ名も知らぬだれかに向けられた声であるかも知れないきっとそうだ、と、ペニロサは一瞬考えるも、もしそんなことがあり得たならおれはとっくにこの国の王様にでも勇者にでも何にでもなれているはずだなそんな低確率あるわけない、と考え直し、それは事実だった。
ぱちりと目を開けて、先ほど垣間見たその相貌を、今度はしかりと目に入れた。実際、目に入れたって痛くないほど可憐な少女。カメリアの擬人化。これほどの頭髪の真っ白さ、冬にだってペニロサは見たことがない。
そんなのが鼻先三寸(実際は五寸)にいると認識したのだ。ペニロサの驚愕ぶりは、これはもう、自分の父親がいきなりお前の母親はカジキだったと宣告するほどの……
「……そのぅ」
なんだこの「ぅ」ってのは。とペニロサは思う。「う」じゃダメなのか「う」じゃ。が、微妙なニュアンスの違い、語調の違いをわかりやすく表現するためにはそういう表記をするしかなかった。そうなの? ならいいや。
実際、消え入りそうなという表現は彼女のためにあるのかと思われたし、彼女がこんなに自分に接近しているのも、もしかしたらただ声を届かせるための便宜を図るためのみであったかも知れず。
そうしたことも何もかもまだ全然わからない現在。もうちょっとお互いについて理解を深めるためには、どうしたってペニロサの側からアクションを起こす必要があった。というか、そうしろ。さっさとなにかしゃべれ。
ペニロサはそうした。
「何?」
これはちょっといただけない。「何?」とは、なんだ。それが初めて対面した少女に対する言い草か。しかも「なあに?」とか、「なに」ではなく、「何?」なのである。
彼女の今までのセリフに対する問いかけをしたかったにしろ、そういうもっと優しげ、柔らかげなやり方が、もっとあったはずだ。
こういうことに鑑みて、ペニロサは対人能力についてもその鼻と同じくらい、まったく欠けているのだということができよう。
とはいえ幸運なことには、この場にいる基本的な言語コミュニケーション能力を備えた知的生命体を比較して、その対人能力というのは、どう贔屓目に見たって、せいぜい、どんぐりの背ぇ比べもいいところだった。
低ランクの冒険者と高ランクの冒険者との戦闘はほとんど成立しないが、低ランク同士なら、まあ見苦しいものではあるかもしれないが、ちゃんと成立する。同じことがこの場の会話についても言える。
「……からだは」
と少女。
「からだ?」
ペニロサにはなんのことだかわからない。
「けが、けがは。け、け、……ありませんか?」
先述したごとく消え入りそうな声であったため、この語尾に「?」をつけようかつけまいか、非常に迷った。だって上がり調子なのか下がり調子なのか、さっぱり聞き取りようがないのである。が、その文脈から推察して、おそらくペニロサに安否を訪ねているだろうことが予想されるため、付しておくこととする。
ペニロサはさっと全身の感覚を確かめた。いまだに痛む後頭部を除けば、まあ、とりあえずは息災ということができた。
「平気だよ。ちょっと頭が痛いけど、でもまあ、普段は全然痛くならないし、こういうときくらい頭痛を体験しておくのも、悪くはない……とは言えないけれど」
「……痛くならないの?」
少女は不思議そうに訊ねる。
「そうだよ」
ペニロサが言った。
「ほとんど使ってないからね」
ヴァンパイア
鏡、川、にんにく、十字架、日光を苦手とする魔族。ワイングラスをしょっちゅう割る。