2話:エーミング・パフェ
群れる人。人。人の群れ。ペニロサがかつて体感したことのない密度で。
なるほど都市にはこんなにいっぱい人がいるんだなふうん……
はあ。
新鮮に感じたのは最初だけ。すぐ彼は先ほどの出来事を思い出し、そのうえ出身地の村にいたのとこの都市の人間との質が大して違わないことにも気づく。そのふたつがペニロサの心をより深く落ち込ませた。
なんだなんだてめえらヒトの顔に鼻がついてないのがそんなに珍しいか奇天烈か違和感か。てめえらどうせ鼻なんかついてたってこの街全体から匂い立つクソみたいな(あくまで彼の想像である)悪臭を吸い込むだけだろうが。
彼は歩きながらずっとそんなことばかりを考えていた。どちらかと言えば、彼の頭のなかのほうがよほどクソだった。
太陽はすでに南中を終え、忙しげにひたすら西へ落下していく。その移動につれ人犬猫建物植木鉢花木ペニロサの影も角度を変えていく。長く伸びた彼の影を幾人もの人々が踏んづけていった。踏むんじゃねえよと彼は思った。
なんのあても彼にはなかった。彼はただ勇者になることのみを目指して(不幸な事故がそれを補助したにしろ)故郷を飛び出したのだ。
しかし彼は本当に勇者になれるだなんて確信していたのだろうか? ――していたのである。とはいえ、これは彼ぐらいの年齢の青年なら誰しもが抱く愚昧であった。
なんの根拠もない自信は、なんの根拠もないからこそ、基礎や土台にどんなとんでもない素材でも当てはめることができ、そのぶん根拠つき自信よりもずっとずっと堅牢に思えるものなのだ。
彼が胸に建立していたのもそういうたぐいの自信だった。まあ、ついさっきギルドの扉とともにぶち壊れたわけであるが。
「これからどうすればいいんだろうなあ」
あまりにもそういう思いが強かったため、彼は老人のように胸中の言葉を口に出す。
ひとつひとつ微妙に色や形の違う石が敷き詰められた道。千差万別の店主が客を呼び込む千差万別の店。毎秒ごとに色合いを変化させる夕暮れの空。そうしたもの一切、まったく彼を助ける役には立たないように思われた。
のだが。
「なあ、兄ちゃん」
ペニロサは足を止めた。声がしたほうを見ると小さな屋台がある。屋台と聞いて人が連想するような屋台そのものの屋台で、それを構成する材木もいかにも屋台に使われていそうな材木だった。
その側。中年の男がひとり立つ。
「何かヤなことがあったんやろ? おみゃあさんの顔見とってからにわからんちゅー人ひとりもいてまんがな」
「はあ?」
おっとこれはちょっと危ない人に捕まったなあとペニロサは思う。なにせ言っていることがほとんど理解できない。諸地域の訛りを分量を気にせずひとつのすり鉢に突っ込んだあと、三日三晩かき混ぜればこうなるのだろうか。
「なまらしげきつらたん事象あったんちゅーエーエムはいきなし同情するわな。けどま、あんまし気にせんとこ。二足歩行は四足歩行の二倍年取るのびゃああなんやから」
「へええ」
当てもなく彷徨していたペニロサであったが、いまや一つの目標ができた。
一刻も早くこの場を立ち去ること。
これ以上この男の意味不明を傾聴していたら、ただでさえとろけきったバターよりもっとぐでんぐでんの脳みそが、いよいよ取り返しのつかないほどゲル化するだろう。
あんまりゲル化した脳みそに彼は憧れを抱いてはいなかった。
「あの、すみません」
「?」
「急いでるんで、これで」
「ウェイウェイ……待ちなよ」
「いやっ……」
「アアアアアア!」
「うゎ」
大声を出されたペニロサはまるで小動物のように動きを止めてしまい、とうとう逃走の機会を逃してしまった。
これが自然界のできごとだったなら彼の命運もここまでああ残念、てな具合に収束していたろうが、もっと残念なことに、彼がいまいるのは紛れもなく人間界であった。
「これや」
と、男はおもちゃのピストルをペニロサに手渡す。
「これは?」
ペニロサはわけがわからず訊ねる。
「おもちゃのピストルや」
男は答えた。そう言われると彼としてはうなずくしかなかった。
「いっぺん遊んでけ」
あんたの顔を撃って? とペニロサは一瞬思うも、すぐに男が自己犠牲の精神を発揮して武器を彼に手渡したのではないということがわかった。
屋台をのぞきこむと、少々離れた場所にたくさんのマトがしつらえてある。
「エイムしてシュートじゃ。わかる?」
わかる。
けど……
ペニロサは手に持ったおもちゃのピストルを見下ろした。ついさっき(彼にとってはだいたい十二時間前くらいまでが「ついさっき」の範囲である)の、あの屈辱的なギルドでのテスト。
その技能試験のなかに、弓矢での的あても含まれていた。木製で円形、中心に近づくにつれ点数が高くなるがスペースも狭くなる、おなじみのアレである。
ペニロサはマイナス50点を記録した。
「なんでマイナスなんですか!」
とペニロサが怒ると、試験管は地面を指差した。
“-50”
と、チョークで書かれた大文字がそこにはあった。
ペニロサはムカついたため、試験管を狙って射撃したが、その狙いは外れてなぜか自分自身のケツに刺さってしまった。彼はそれを抜くのにバケツ一杯ぶんほどの汗を流した。
ついさっき、そういう二度と思い出したくもない経験をしたわけであるが、もう思い出してしまった。
ピストルと弓。形は違うが、まあ狙って射つということでペニロサの脳のほうも大ざっぱに関連性を見出してそこからの連想で忌まわしい記録を引っ張り出してきたのだろう。
余計なお世話だとペニロサは思う。
とにかく、そういった動作がひどく苦手な彼にとっては、このミニゲームが海溝より深く落ち込んでいる気分を晴らしてくれるようなものになりうるとは……
28人の男と23人の女と23238人の子どもが後ろを通りすぎてから、やっとペニロサは考えを固めた。それにかかった時間はフライパンに放置された脂が固まるのよりもだいぶ遅かった。
「……んじゃまあ、お言葉に甘え」
ペニロサはおもちゃのピストルを構えた。そんなことができたのは、まず間違いなく彼の周囲2メートルの範囲にひとつも鏡、もしくは鏡面としての役を果たすような、例えば水たまりとか、とにかくそうしたものがなにひとつとしてなかったからだ。
なにせ店主、その構え方があんまり不格好だったものだから、思わず吹き出してしまう。ペニロサが不審そうな目で見やったため、あわてて咳を繰り出し、自分は不治の病でたぶんあと三日くらいで死ぬんやでと適当に偽った。
ペニロサは正面に視線を戻す。マトは屋台の向こう側、どういう原理かは知らないが(たぶん魔法であろう)、勝手気ままに浮遊している。
たぶん、生まれつき片翼がスプーンみたいな形をしているカラスなどが存在すれば、これと似たような動きで飛ぶだろうかと思われた。
「えー、動くの」
ペニロサは不満げな声をもらす。
「ビギナーですよビギナー。こういうのってふつう、もうちょっと簡単な段階から始めるもんなんじゃないの」
この表明に対する店主の返答は、
「砂糖」
どうやら甘えるなというようなことを言いたいらしかった。
仕方なくまた狙撃に集中するペニロサ。ふわふわ動き回るマトをじーっと見ていると、しだいに眼精疲労が蓄積し、白内障とか緑内障とかを発症する将来が予見されるようで恐ろしくなり、もうとにかくなんでもいいから撃っちゃえ射っちゃえとパン。
ぱらりらと命中。
「んん!?」
半分寝ていた店主も目を覚ます。
「やりおるな」
「たしかに」
ペニロサは自分で自分のしたことを信じられなかった。
こういう表現が使用される場合、それはたいてい親とか子どもを殴っちまったとか、おまけに当たりどころ(殴りどころ)が悪くて内出血させちまったとか、ついでに死んじまったとか、そういうネガティブな文脈が背景にあるものである。
が、今回はまったくそんなことないのは見ての通り。
「さっきはあんなにできなかったのに」
コルクの弾丸を詰め込みながらぶつぶつペニロサ、
「これが噂のビギナーズラック?」
はたと手を止め動きも止める。
「もっと早くやってきてほしかったぜ」
「んにゃ」
店主はひとりうなずく。
「そんなもんなのにゃ」
続く一発。さっきのはまぐれだろうと、さすがのペニロサもまだ半信。半信はふたつ合わせないと完信にはならない。これはどの辞典をひいたって記載されてある事実である。
今度はじっくり、とっくり、老人の歩行スピードの緩やかさ、もしくは姉の朝の支度の遅さ、または若き日々の昼夜の鈍足でマトを狙ってみる。
まあ、おれみたいなへたっぴ、むしろ狙わないほうがマトに当たるってのはありそうだ。そうペニロサは考える。じゃあしっかり狙ったなら?
念の為、彼は括約筋に力を入れた。それがどれほど痛みを軽減してくれるのかは、わからなかったけれど。
先ほど撃ち落としたマトは赤色。赤の次と言えば?
そう、黒である。
彼もそのマトを狙っていた。
いつもならばとっくに日が落ちてもおかしくない時間であったが、太陽も彼のミニゲームの行方が気になるのか、まだ西の空のあたりをぶらぶらしていた。
おかげで世界中の人間のバイオリズムが狂ってしまい、この先しばらく体調を崩すものが大量に発生し続け、とうとう医者のほうが先に死んでしまった。
そんなことはつゆ知らぬペニロサはもう二発目を射っている。
ぱちん、と命中。もう店主に眠気はちっともない。
「すげえなあんた」
「すごいの?」
「あたしの店は評判が悪いので有名なんすよ」
「ほう」
「『マトが動きすぎた』ってね」
「でもふたつ壊すくらい……」
「それがいないんですよ」
店主の言葉そのものよりかは、その言葉遣いからすっかり特徴が失われてしまっていることが、彼の動揺とか驚愕を如実にあらわしていた。
「まま、二連発の幸運もままあり」
ペニロサはいたって冷静である。なんにしたって、これはただのミニゲーム――ただの寄り道。決して本筋にはなりえない。本来の目的、そしてそれはたいていの人にあるものだから、いつまでも人を引き止めておくことなど出来やしない。
こんな遊びが主役に躍り出ることがあろうか?
三発目を放つ。ちなみに残弾コルクはひとつ。
ぱとーん、と破壊。
「あいや……」
店主の目は十五夜の月より丸い。
「……景品の準備をしてくらあ」
「おかまいなく」
ペニロサはそういって最後の一発を仕込む。コルクの表面はざらざらとしていて、ああそういえばおれの村にいたやつはだいたいこんな皮膚をしていたなと彼に思い出さす。
それは思い出したからといって不快になるようなものでもないが、だからといって積極的に振り返りたい記憶というわけでもない……いちいち言うことかこれ?
先端のほうが(どっちが先端なのかは定かでないが)湿っていることにペニロサは気づく。なんでだろうかなーと思うけれど、まあどうでもいい。
言っておくとこれは本当にどうでもいい。なんの伏線でも目配せでもない。コルクが濡れていたのはただただ湿気のためであるから。
「四発目も命中したなら……」
「したなら? ふむ」
店主は空を仰ぐ。そしてすぐに後悔。カラスのはた迷惑な落とし物。
「……わしの顔を拭いてくれ」
「よっしゃ」
発射。
言わずもがな。
命中。
「これが拭浄だ」
とペニロサは店主に水をぶっかけてやった。
「助かったぜ」
犬のように、それも首関節の柔軟性に定評のある犬のように首を振り、店主は改めてペニロサの成績を称賛する。
「てめえが店をぽんとして初の快挙じゃ」
「いつごろからやってるんですか?」
「三日前」
「たいした老舗だな」
景品をやろう、と店主は屋台の隅にしゃがんでがさごそ。こうしたミニゲームの報酬になにが供されるのか、ペニロサはさっぱり想像できない。
彼の村にはこうした遊戯ひとつとしてなかったからだ。村人はもっぱら……いや、言うのはよそう。
「あったあった」
ようやく店主は立ち上がり、膝を爆発のようにぼきりぼんぼんといわせながらペニロサになにかを渡す。
<仮装用付け鼻>
「あの、すみません」
「なんや」
「ふざけ?」
「この世にふざけていないやつなんかおらん」
「おれもふざけていいですか」
手。腕。上。拳。固。振――
「おお! いいのがあるぞ」
店主は急いでそう言ったため、幸い、二発目はくらわずに済んだ。
「鼻にまつわるもの以外だったらなんでもいいですよ」
もう太陽も去らんとする上空を気にしながらペニロサはいった。
「安心せい関連率0パーセントじゃ」
確かに、と、ペニロサは言わざるを得ない。
店主が差し出したのは緑色の槍だった。
射的
一般的な景品としては腐りかけの食物や、二年前に流行った物品などが挙げられる。
弓矢
得意とする職業は狩人など。