最終話:ちょっとそこまで
そのころ、ペニロサが勇者の試験を受け、射的の才能を発揮し、吸血鬼少女と邂逅し、ずっと荷物を放置している宿屋がある地上の街には、魔王が来襲していた。
事前に何の連絡もなかったため、当然ながら街に住んでいる誰もが慌てふためいた。まだまだ魔王が姿を見せるのは、ずっと先のことだろうと思っていたのだ。
魔王はつんつんした頭に膨大な力を封じた冠を戴き、百頭竜の一撃すらそよ風とするマントを羽織って、威風堂々と構えていた。
ただ、魔王そのものはどう見ても春に新学期を迎えそうな少女にしか思われなかったため、そういう禍々しい装備がもしなければ、人びとはきっと魔王が襲ってきたなどとは考えなかったに違いない。
「焼け」
側近をつとめるフレアデーモンたちに向かって、魔王はそう告げた。
フレアデーモンたちは言われたとおりにした。
たちまち、街は炎に包まれた。おかげで気温は急上昇し、せっかく打ち水をしたのにと多くの人を嘆かせたが、それも骨すら残さぬ炎熱に侵されるまでの話だった。
魔王がどうしてこの時期に襲ってきたのか、それは誰にもわからなかった。というか、誰も考えようとしなかった。いまはどう考えてもパンをトーストするのには過剰すぎるようなこの熱から、パンよりは明らかに熱に弱い自分たちのからだを守ることが先決だったからだ。
ラーミラとその父親は、吸血鬼特有のセンスによりいち早く魔王の襲来を察知したため、街が炎に包まれるずっと前から地下にこもっていた。ただ、この場所もずっと安全というわけにはいかないだろう。それはだんだんとしたたり落ちてくる汗を見てもわかった。
「わしら、蒸し鶏だよ」
父親は弱々しくつぶやいた。それはいかにも蒸し焼きにされる過程の人間がつぶやきそうな言葉だった。
ラーミラはその言葉には応えず、流れる汗にも構わず、ただじっと耐えていた。こんな危機におちいったとき、頭には何も浮かばないだろうと思っていたのに、そんなことはなく、おぼろげながら、あの挙動不審な青年の姿が浮かび来た。
どんなに急いだって、彼が着いたときには、この街ごと自分たちも救われぬ灰になっているだろうとは考えたけれど。
それでも月に行ったその青年を思い出すことは、心を落ち着かせた。ただ一度しか会ったことがない人物が、そのような支えになるということは、いかにも不思議だった。
おそらく、めったに人と交わらない生活をしていたから、免疫ができていなかったのだろうとラーミラは考えた。おまけにこのピンチなのだ。これ以上ないほどの吊り橋。それはもうボロボロで、アリの行列にすら耐えられなさそうだ。
ただ……と、汗にしみる目をしばたたかせながら――本当にそれだけのことだろうか。子供がよくかかる皮膚病のような、すぐ消えて去ってしまうような感情なのだろうか、事が終わればすぐいなくなる記憶なのか?
暑さと恐怖と緊張のあまり、再び気が触れ、いまどきどこの部族だってやらないような田舎くさい踊りを舞い始めた父親を無視しながら、ラーミラはひたすらそのことを考え続けた。
もうちょっと経験が彼女にあったのならば、そういうふうにして考え続けること自体、ただならぬ感情を心に育んでいればこそなのだという事実に気づけたのだろうが、あいにく、彼女は吸血鬼にしては、純情だった。
そのころ宿屋では、娘がひたすらトイレのドアを叩いていた。オーナーである父親がそこへ入ったきり、出てこようとしないのだった。
娘はひたすら危機が迫っていることを叫んだ。炎をまとった魔物が枯れ葉のように街を舞い、あちらこちらに水が役立たぬような火事を起こしているのだと。
また、逃げ惑う人びとが街路に殺到し、そこは混乱の極みで、母親は自分の子供を踏んづけ、寡夫は妻の写真を叩き割り、騎士は人間相手に剣を振るっているのだと。
「そうはいっても、おまえ」
オーナーの返事は代わり映えしなかった。
「腹痛なんだから、しょうがないだろ」
娘はため息をついた。どうやらここまでらしいと運命の終極を悟った。とはいえ、猛烈な炎が渦を巻くおもてに出ていって、無事に街の外へ逃げ延びられるとも思えなかった。
さらにそうできたところで、魔王が本当に復活し、このように街一つ容易に滅ぼせる力を持っていることが明らかになった今、世界のどこにも逃げ場はないように思われた。なにもかもが無駄だった。
トイレの戸を叩くのをやめ、娘は二階へ上がった。ほとんどの客室のドアは開け放れたままだった。散らかった下着や、踏みつけられ破れた紙幣に、客たちの恐慌のあとが見てとれた。
「だれも宿泊料を払ってない!」
娘はぼそりとつぶやいた。
「ざーんねん。最後の善行のチャンスだったかもしれないのに」
廊下の突き当りまで行くと、ただ一つ、ぴっちりと閉められたドアがあった。鍵を使って開くと、廃墟のようなにおいが吹き出した。鼻のない客の長期不在が、まったくの無臭を生み出したのだった。
毎日娘が掃除していたため、部屋にはほこりひとつなかった。ただ、ベッドの上にごちゃっと積み上げられた部屋主の荷物はそのままであったため、雑然とした印象はぬぐえなかった。
結局、最後まで彼が帰ってくることはなかった――と、娘は思う。そして代金も払ってない。部屋一つを何日も潰されるのは、ちょっとやそっとじゃない損失と言えるのだが……
ただ、それを取り立てようという気はしなかった。魔王が干し草に火を付けるようにこの街を燃やそうとしている今となっては、彼の不在は幸いと言えた。
「あたしはだめっぽいけど」
窓から差し込む不吉な赤い光に照らされながら、娘は言った。
「せめてお客さん、射的の上手なあなたは、少しでも長く……」
と、ここで娘は荷物の山からまっすぐ伸びている、物干し竿のようなものに気がついた。近づいてよく見ると、それは彼と初めて会った時、たずさえていた槍だった。
ただ、あのときは安っぽいくらいに輝いていた緑の光が、いまはまったく失われていた。娘は興味をひかれたが、自分が死ぬまでにその謎が明かされることはないだろうと思っていた。
実際、彼女が生き残り、やがて老衰により98歳で死ぬ間際、今の今まで忘れていたこの槍のことを思い出すのだが、もう遅く、彼女はその謎の答えを教えられる前に、永遠の岸辺へと旅立つのだった。
そのころ、ペニロサは郵便配達から封筒を受け取っていた。開けてみると、それは釣り屋の主人から送られたもので、同封された手紙には、いろいろ考えたあげく、一番もらってお前が嬉しいと思うであろう景品を選んだ、とあった。
封筒を逆さまにして振ってみると、月のゴミ捨て場の腐蝕の地面の上に、真っ青な紙切れが一枚軽やかに舞い降りた。ペニロサは拾ってそこに書いてある文字を読んだ。
『月→地球行き』
□ □ □ □ □ □ □
ペニロサは精霊と手分けしてゴミ捨て場をあさり、やさぐれた魔道士やぐれた呪術師が捨てた、召喚の触媒がないか探しまわった。あった! と、精霊がかなたで叫ぶのを聞き、ペニロサは山積するゴミに足をとられつつその場へ急いだ。
それは腐りかけたバフォメットの頭だった。バフォメットは山羊頭の悪魔として地球では有名だが、月には本当にそういう名前を付けられた山羊が生息していた。
ペニロサはポケットから速達で届いたチケットを取り出し、蛆も寄り付かないようなその頭の、ぽっかりと開いた口に無理くり押し込んだ。
たちまち辺り一帯は濃い煙に包まれ、ペニロサと精霊はこれ以上ないというほどに身をかがめなければならなかった。
しばらくはふたりが咳き込む音だけが辺りに響いた。現実の感覚が薄れ、ぐるぐるとまわる感覚がそれに取って代わった。
自分がそう感じているだけなのか、それともまわりが実際にそうなのか、それともその両方なのか、ペニロサはまったく判断がつかず、ただただ耐え忍ぶことしかできなかった。精霊を見るといかにも吐きそうという顔をしていたので、ペニロサは共感と同情を示すサインを手でやってみせた。
いつまで経っても煙の晴れる気配がないので、もしかしたら自分は死んでしまい、ここはもう地獄なのではないかとペニロサが思い始めた時、初めて煙がしゅうしゅうと立てているもの以外の音がした。ぱちぱち、というのがそれだった。
「燃えてる!」
精霊が大声でわめいた。実はふたりはだいぶ前から地球に到着していて、今まわりを囲んでいる煙は、魔王の眷属が囃し立てたものだったのだ。
彼は街へと帰還していた。
あたりを見まわすと、どこもかしこも死体だらけだった。ペニロサは自分の村を出発したときのことを思い出し、さきほどの回転などよりよほど胸が悪くなったが、なんとか気を奮い立たせ、呆然と立ち尽くしている人に話を聞いた。
「ま、ま、ま、魔王が」
その人は煤で真っ黒くなっていて、声まで焦げ付いているようだった。
「街に……炎……炎……」
それだけ言うとひひひと笑い出し、尻から酒を飲もうとして死んだ。
「なるほど」
ペニロサはうなずいた。
「一大事ってわけだな?」
「槍を取りに行こうよ!」
精霊が急かして言った。正直、槍の一本でどうこうなる問題ではないだろうとペニロサには思われたが、他にできそうなこととて何も見つかりそうになかったため、彼女の忠告に従った。
あれほど彼に衝撃を与えた高い尖塔や、壮麗な町並みも、いまはすべて崩れ落ちようとする焚き木に過ぎなかった。しょっちゅうけつまずくほどあちこちに死体が転がっていた。
それでもなお多くの人びとが生き残っていたものの、みな一様に希望を失い、炎で焼かれて死ぬのと自殺するのと、どちらがより楽かという絶望的な選択を迫られていた。
ペニロサはとんでもなく速く走った。あまりにも速かったために、精霊は自分が精霊であることを、ペニロサが人間であることを忘れそうになるほどだった。
焦げたレンガを、割れたガラスを、破られたドアを、絶望する人影を越え、自暴自棄になって欲望を満たそうとする人をぶっ飛ばし、目ざとく彼を見つけ空から襲いくるイフリートをひとにらみでたじろがせ、ひたすら彼は宿屋へと急いだ。
宿屋は信じられないほど高く昇る火柱に囲まれていたが、かまわずペニロサは突っ込んでいった。精霊が、彼は自分が人間だということを忘れているのではないかと疑うほどためらいのない行動だった。
宿屋の一階はすべて火に飲み込まれ、部屋の端のほうから灰へ変わりつつあった。階段も一段目から消えつつあったので、ペニロサは息をとめ熱い空気を吸わないようにしてから、全力でそちらの方へ向かった。
二階へと続く階段は、無限へ続いているかのように思われた。いくら昇ってもさっぱり階上へ着かないのだ。
下の段は次々と灰に変わっていくし、その灰は光なき深淵へと沈み込んでいった。自分もそのような灰のひとつとなるかもしれないという想像は、あまりにも恐ろしいものだった。
それでもなお懸命に登り続け、精霊の声援もあってか(それはない、と後に彼は語ったが)、無事彼は二階へたどり着いた。だいぶ高度が高くなっていたため、そこまでは火も追いつけないように思われた。
空気の薄い廊下を歩き、床を埋め尽くすほどに散乱した下着や紙幣をかきわけ、突き当りの部屋にまでたどり着いた。扉を開けると、そこには槍を両腕に抱えてしゃがみこみ、寒さに震える娘がいた。
「おそい」
娘は恨みがましく目を向けた。
「悪かったよ」
ペニロサは槍を受け取り、精霊がその柄の方から潜り込むのを見ながら言った。
「ちょっと月旅行をしていてね」
宿代がかさむわよ、と娘は言った。彼は積み上げられたままの荷物をさぐり、金を入れた革袋を取り出して娘に渡した。その中身を彼女は確認して、これじゃぜんぜん足りない、と言った。
「じゃ、代わりにあれをなんとかするよ」
彼はそう言って窓を破り、はるか眼下に赤々と燃える街に向かって飛び出していった。
魔王は街の攻略があまりにも容易かったので、少々興ざめしていた。辺り一面が心地よい地獄の業火に包まれたせいもあって、眠気を催した。ふわあ~と、あくびをし、一瞬目を閉じた。
次に目を開けると、まわりにいた部下の魔物が全員死んでいた。何が起こったかわからぬまま、次になにをするべきかも決めかねたまま、ただただその状況を確認するだけの間に、魔王の喉元には槍が突きつけられていた。
それはまさしく、彼女が小惑星並みの大きさの巨城を構える魔界に代々伝わるおとぎ話に登場する、翠色の槍だった。
魔王は膨大な魔力、あらゆる異能を極めていたため、どんな劣勢にあったとしても、軽く千を超える方法で相手を殺すことができたはずだった。
ただ、そのどれもが、今はまるで役に立たないであろうことがわかっていた。どうしてこんな、見るからに無力そうな、そして突飛がすぎる登場の仕方の人間ただ一人に、自分が追い詰められているのか、それはいくら考えてもわからなかった。
そしてそれはペニロサも同じことだった。ただ勝手に体が動くままに任せておけば、恐怖はまったく湧かないし、それどころか、まるで不可能がないような気さえしてくるのだった。
記憶をたどってみれば、それは経験のない感情というわけではなかった。それを以前に体験した場面を思い出すと――彼は吹き出した。
魔王を手にかけようという人物がいきなり笑ったのを見て、そのあまりの唐突さに、魔王は自分の置かれている立場すら忘れ、このような質問をした。
「……なんだ?」
「いや、いや」
ペニロサは首を振った。
「そうか。これは射的や釣りと一緒なんだな」
魔王は彼が何を言っているのかわからなかった。そしてもっとわからないのは、彼自身も自分が何を言っているのかわかっていなさそうなところだった。
「こうしてあんたを追い詰められたのも……」
ペニロサがそのとき突然槍を突き出したため、魔王は最後まで彼の正体も、彼の力の正体も知ることなく、再び数え切れない星霜が降り積もる封印の時を過ごすこととなった。
どす黒い霧となってかき消えた魔王の姿や、それに伴って絶命した街のおちこちの魔物の断末魔や、必死になって火を消そうとするラーミラやその父親や、氷山の頂上から取ってきた氷を傷病者に配り歩く宿屋の娘や、月から雨を降らしてなんとかしようとするあの釣り堀の店主やスプーンや、隠れていた水路から引き揚げられる夢見るような目をした人びとを見ながら、彼は魔王に聞かせなかった、そして一生誰に聞かせることもない、ただ自分のためにのみ発する、最初で最後の言葉を口にした。
「おれにとってはただの寄り道だったから」
そして彼はその場に倒れ伏した。
言うまでもなく、七時間眠るためである。