10話:垂水たらすブドウの木
ずらずらずらずらバカみてえに長い目録。一行一行に目を通していたらおれはジジイしかも白骨化済みのジジイになっちまうってことで、ペニロサはその景品表をちらと目配せする程度でスルー。
店主から竿とエサのブドウ(ブドウ虫の間違いではない)を借り受け、池の脇からぶんと振る。手の届かぬ遠くに針は落ち、水紋がペニロサのすぐそばまでやってくる。
ウキはぴくりとも動かない。外吹く強い風が小屋の窓を叩き、その音は新聞の勧誘よりやかましい。
……おれはなにをしているんだ。とペニロサは思う。月までやって来てやることが釣りなのか。もっと刺激的で、冒険的なこと。ドラゴン退治や宝探し、囚われの姫を救ったりなんだりって筋書きはここにはないのか。
ウキはぴくりとも動かない。風はますます強くなる。これはちょっと新聞勧誘でも敵わないかもしれない。
……彼はにやりと笑う。それでもいいか、何も人生は冒険ばかりじゃないさ。勇者だけがこの世界の主人公とは、いったいだれが決めたことなのか?
ウキはぴくりとも動かない。風はもはや風神の祝福を受けたのかと思われるまでに。新聞三社がかりでやっと太刀打ちできるかどうか。
……ただの暇つぶしじゃない、とペニロサは思う。本当に将来を考えるなら、あの旅行券は渡すべきじゃなく、馬車のたどった道を戻り、また次の係がやってくるのを待っていればいいだけの話だった。
ウキはぴくりとも動かない。さすがの新聞勧誘もこれには勝てず巻き上げられ吹き飛ばされはるか彼方に運ばれそこで第二の人生を歩む。
……だがおれはそうせず、いまはこうやって本当に魚が入ってんのかどうか怪しいほど静謐な池に釣り糸を垂らしている。
ウキは……
これは間違いなくおれが選択したこと、おれ自身がやりたかったことだ。なんでかは自分でも説明できないが……
ウキ……
「お客さんお客さん何やってんの引いてるぞ!」
「へっ?」
店主の叫び声で我に帰ったペニロサは、「おぅ!」水中に引きずりこまれそうなほど強力に引っ張られていることに気づく。反射的に竿を持ち上げる。
はーなんだこれぎゃっ! 釣りは初めてだけど魚ってのはこんなに剛力わっ! なのかおいおれは初心者だぞ手加減しろ控えよエラ呼吸どもぐっ!
運動不足筋力不足甚だしい成人病一直線のペニロサがまだ持ちこたえていることは奇跡に等しい。というかはっきり言って奇跡そのもの。店主はどうすることもできず見守っている。
というのも手助けは禁止だというのが店の規則だからだ。ただただサボりたいがために制定した一行であったが、いま激しく後悔する自分がいることに彼は気づく。クソっばかばかおれのばか! あんなに必死なのに!
緊迫と歯がゆさに胸も狂わんばかりの店主であるが、頭にはまだ冷静な部分――まさしく冷製パスタが提供されるときに用いられる皿ほどに小さいが――では、これは奇妙だおかしいなあという感想を演説するシナプスがいる。
いくらなんでも、客を引きずり込みそうなほど大きな魚が、ここらへんの水辺に生息していたっけか……?
この釣りぼり小屋の池は、地中を通して付近の川沼湖水たまり下水道ありとあらゆる水のあるところと接続されていた。
店主はこの店を自分の父親から受け継いだのだった。ちなみにその父親はつい一か月前腎虚でこの世を去っている。彼の部屋は親戚一同の誰も片付けたがらなかった。
おいそんなのどうでもいいだろこっちを見ろとペニロサは憤怒を込めて思考する。店主の方ばっかりを描写しているうち、ペニロサはもうかなり追い詰められている。
ああ腕が痛い足が痛い頭も痛いし胸も痛い。末期的筋肉痛。いくら力を込めてもさっぱり魚影は見えもしないし、むしろこちらがどざえもん目がけて驀進中。おれはそんなの目指してねえぞ! と思うも否応なしに冥土へゴー。
ずり、ずり、ずりりりりと足が次第に池へ、無明の水中の彼方へと。ぎりぎりぎりとああなんだうるせえこんなときに歯ぎしりなんかすんじゃねえよと思ったらそれは彼自身の骨のきしる音。それほどまでに肉体の酷使。
……待てよ、と店主(の頭の冷静な部分)は思う。たしか親父、前になんか言ってたっけなあ。
店主(の頭の冷静な部分)は在りし日の父親の姿を思い浮かべる。おいだからなにやってんだそんな回想いらねえからおれを何とかしろよと怒鳴るペニロサは、いまは無視だ。
「おい○○○(ここに店主の名前が入る)よ」
店主の父親が語りかける。
「なんだよ親父」
当時はまだ目の前の人物が腎虚で死ぬなんて思っていない店主が無愛想に返事をする。
「わしの釣りぼり小屋のことだがな……」
父親は言いにくそうに言う。
「あれ、マジで継ぐ気か?」
「なんだよ、いけないのか?」
すっかりその気でいる店主は思いがけぬ父親の言葉に意表を突かれたかっこう。ちなみにそのかっこうがどんなかっこうなのか正確に描写することは難しい。三角定規が十三枚は必要になるからだ。そんなに多くの三角定規を持っている人間などいない。
「あれはな……」
父親は身震いをする。まさか漏らしたんじゃねえだろうなと店主は思うが、そのまさかだった。しかしそれを知るのはまだ先のこと。
「危険じゃ」
ここで回想は終了する。いま現在の店主はどうしてもうちょっと突っ込んで話を聞かなかったのかと後悔する。それに親父だって言ってくれたらいいのに……
そう思う店主はあのとき父親が失禁していてそのことしか考えられず釣りぼりの危険に関する忠告など頭から吹っ飛んでいたということを忘れている。
ペニロサは無事なのだろうか?
「無事だぜクソがぶくぶくぶくぶく……」
頭は水面すれすれ。もう彼が立っているのは地面とは言えず池だ。しかし池のなかにも地面があるのは当然だからやっぱり立っているのは地面かもしれない。
いやしかしそういう水中にある地面はたいてい水底という言い方をするものだか「おい良い加減にし……ぶくぶくぶく」何にせよ彼は死にそうだ。
死ぬのだろうか?
「え、マジ?」
ぶくぶく言いながらもペニロサは自分で自分に問いかける。または自分の運命に問いかける。もしくはその両方に問いかける。あるいはその他もろもろに問いかける。
「おれ死ぬの?」
いや、死なないが。
「おおおおお!」
店主が機関車のような雄叫びを上げ機関車のように突っ込み機関車のようなパワーで機関車のようにペニロサを引っ張る。
ここまで機関車めいているとこいつの主食は石炭なのではないかと疑ってみたくなる。しかしもちろんそんな余裕のある知的生命体はこの小屋のなかには現在のところ皆無。
「重いッ……!?」
無意味に促音をカタカナにしてみた店主。しかし言葉には迫真性があり、それはそれは重いのだろうなあともしここに観客がいたのなら思わせただろうがあいにく彼は独身である。
「ぶくぶくぶくぶく……」
ペニロサは肺呼吸の限界を体感しているところ。これはあぶくを吐き出す効果音であり、彼が本当にぶくぶくなんて言っているわけではない。そこまで彼は人生をなげうってはいない。
ペニロサの体力は限界に近づいていたというか限界を超えてオーバーフローを起こしむしろゼロになっていた。彼の普段の運動不足に鑑みれば、なかなかけっこう持ったほうだと言うこともできよう。言わないが。
しかし、それだけ苦しんで耐えたことにまったく意味がなかったなんてことは決してない。
「ヤツも疲労困憊のご様子だぞ!」
店主がペニロサそして自分自身までも励まそうとして勇ましく言う。
ヤツというのはたぶんおれたち二人を水底にご招待しようとしてくれてる親切な魚のことなんだろうなとペニロサは思う。サイコーだぜ。お目通り叶ったら三枚におろしてやるからな。そして皮はあぶって犬にくれてやる。骨は猫にやろう。余った部分は土に埋めて還元してやる。お前は木の養分になるんだよ。
「養分! 養分!」
ペニロサも気をふるい立たせようと言葉を叫ぶが、店主にはその意味がまったくわからずこの小屋から一番近くにある精神病院はどこだったかと記憶を省みる。
そうこうするうち初めて魚影をふたりは見た!
「で、でかい……」
でかいと思ったペニロサはそう言った。
「でかい」
店主もでかいと思いでかいと言う。
三歳児でももうちょっとマシな感想が言えるだろうとふたりを責め立てることはできない。脳がまともにものを考えられないくらい、いまのふたりは必死なのだ。
夕立ちに濡れるよりよほどずぶぬれ汗みずく。ペニロサが竿を握る手もずるずる滑り、いっそ離してしまえよと幻惑するよう。
しかしペニロサは竿を離すことができない。というのも指が竿の持ち手のどっかにひっかかり、いくら離そうと思ってもそれが挟まってとれないからだ。
これがなかったら彼は最初池に足が入ったときすぐ勝負を放棄していただろう。命あってのものだねえ。
しかしいよいよそれも終焉の時。
「あっ!」
「わっ!」
ふたりは同時に声を上げる。最後のときはあっけなく……散々苦しめられた魚が、いまは丸太小屋の床の上で跳ねている!
「やったな!」
そう言うもすぐ青ざめる店主。
「床掃除してねえよ」
「それのどこが悪いんですか?」
とペニロサは訊ねる。
「いやさ」
店主は言った。
「魚が嫌がるから……」
□ □ □ □ □ □ □
どうやら父親の言っていたのはこの魚だったらしいと店主は思う。他の可能性は考えない。だってそんなのあまりにも恐ろしいから。
二人の前にぐたりと横たわりエラ呼吸の限界を感じているこの魚は、魚というよりはむしろクリーチャーと言ったほうが正しいように思われ、それは事実だった。
鱗は城ひとつの外壁を埋め尽くせそうなほどに多いし、その色は重油を思わせる。牙はどれもこれもドラゴンだって泣いて逃げ出しそうなほどに鋭利だ。目玉は占いに使えそうなほど大きい。
「<ムーンバハムート>」
カウンターの奥から図鑑を引っ張り出してきた店主が言う。
「<湖に住む魚で、非常に危険です。絶対に釣ろうなんて思わないでください。死にます>」
「釣っちゃたどけどな」
ぼそりとペニロサはつぶやく。あまり嬉しそうではないがそれも無理はなく、何度も述べているように彼は疲労困憊しているのだ。
「こんなのは図鑑でしか見たことがない!」
店主はそう興奮して叫ぶ。しかし彼はいま初めてこの魚を図鑑で見たのだが。
「この仕事を始めて長いが、間違いなくこれは歴代トップだ。ダントツだ」
魚のぐるりを行ったり来たりしながら店主はぶっ通しでしゃべりまくる。発情期のケルベロスより興奮して見える。
「……そんなに?」
疲れ切っている上釣りについてはまったく詳しくないペニロサが訊ねる。
「もちろんだ! こーんなに大きいんだぜ……」
目を輝かせその化物魚を見つめる店主。するとこれは本当にすごい魚なんだなとペニロサは初めて合点がいく。そりゃまあおれを殺しかけたのだし、すごいんだろうなあとは思っていたけれど……彼はうなずく。素人考えじゃいけねえからな。
「おーい、今日もよろしく……なんざこれ!?」
入り口から入ってきた最初の常連の客は仰天してそのまま気絶し、後から後から入ってくる他の常連客に踏みつけられまくる。ペニロサは窓を見て驚いた。もう朝なのか!
「おれは毎日絶対7時間寝るって決めてたのに」
ペニロサは悲しげにつぶやく。
「そうしないと調子が出ない」
「いいじゃねえかこんな化物を釣り上げたんだから」
店主はまるで疲労を知らないかのように振る舞う。脳が混乱してああおれは全然疲れてねーや余裕だぜはははと思い込むほど、興奮しっぱなしだったのだ。
「おい、みんな見ろ。この魚を釣った神話まがいの釣り師を!」
ペニロサとしては迷惑極まりないノリで店主は彼を指差す。彼はたどたどしくも少しでもふさわしいようなセリフを選ぼうとした。
「どうも、神話です」
たちまち集中豪雨みたいな拍手がペニロサをつつんだ。小屋内にいる人数からしてみれば破格の音量であり、明らかに二本以上の腕を持つ存在が混ざっていたように思われたがもちろんそんなことを気にする彼ではない。
「すげえな、おい!」
「間違いない伝説になるなこれは!」
「よくやった!」
「脱げ」
「信じらんねえ!」
「更新不可能の記録だな!」
「これ以上大きい魚がこの世にいるか?」
「いやあすげえよあんたは!」
なにか変な声を聞いた気もするペニロサではあるが、思いがけなく素直な喜びが心にあることに気づきびっくり。自分でもどうして始めたのかわからない釣りに、ここまでの礼賛が……?
「釣りは始めて長いのかい?」
常連の誰かがペニロサに訊ねた。そういえばそうだとペニロサははっとする。おれはこれが初めての釣りだったんだ……ビギナーズラックか? 射的のときもそうだったな。だが、あれとはわけが違うんだぞ……
じっくり考えこんだペニロサを見て、店主はさあさあ勇者を休ませてやれぶっ通しで戦っていたんだから、と客に言う。そりゃそうだよな悪かったと全員が散る。
「釣りは初めてなんだよ」
ペニロサがつぶやいた言葉に店主はぎょっとして彼を見る。
「なにっ。なのにこんなのを釣っちまったのか?」
「釣っちまったようだ」
もはや店主がペニロサを見るまなざしには畏怖驚嘆の萌芽。
「とんでもない才能じゃないか」
才能。才能ねえ。ペニロサはその言葉を反芻する。牛がやるのよりだいぶたどたどしいが、それでも少しずつ飲み込まれていく。
……ミニゲームの射的やふくびき釣りならば、おれは発揮できる才能を持っているのか? そんなまどろっこしい才能があるのか?
ペニロサはよく考えてみて自分は釣りをやったことがあると思った。ただし、当時は一匹たりとて釣れなかった。なんと目の前にエサを垂らしても魚は食いつかなかったのだ。
それが……(ここでペニロサはムーンバハムートを見る)これだ。マジふざけてる。自分でもあり得ないと思う。だが現実だ。
ミニゲームへの才能……?
ペニロサの意識はここで途絶える。
7時間眠るのだ。
ブドウ
月の水辺の魚の大好物。水の中にはめったにブドウの樹がないからだ。