1話:生き残った兄妹の子
彼の母親は父親の妹であり、父親は母親の兄であった。
つまり、彼は兄妹の間で発生した子ということになる。
それが原因かどうかは知らないが、彼は生まれつき鼻がなかった。
産婆は母親の股から出てきた赤子に鼻がないことに仰天し、思わず彼(その赤子のことだ。股を見ればわかるように「彼女」ではありえなかった)を取り落した。
出産は彼の両親の自宅で行われ、その自宅は最近建て替えたばかり。いままでは腐りかけてたわんだ木板が床の主たる構成要素であったが、すっかりリノベーションされ、現在はしっかりした大理石に生まれ変わっていた。
そういう地面に落とされて、まったく無事で済む赤子というのはなかなかおらず、彼もその例には漏れない。
というわけで「ペニロサ」と名付けられたその赤子は生まれつき鼻がないばかりでなく、生まれてすぐに頭がちょっとヘンになってしまったのだった。
鼻がないのが先天的なものであることは明白であるが(産婆が証言する通り)、頭がヘンになったことを先天的とするか後天的とするか、これはしばらく議論された。
「出産された後なのだから後天的だ」と言うものもいれば、
「たった三秒後の出来事なのだから実質先天的だ」と言うものもいて、その数はちょうど半々。
ペニロサ本人にとってはどうでもよいことだった。
鼻がないことは、なかなか不便だった。なにせ嗅覚が使えない。少なからず、それはペニロサの命を脅かした。彼には母親の母乳の臭いと、雨漏りして大理石の床のひびに溜まった泥水の区別もつかない。
そんなことがしょっちゅうだから、彼はひんぱんに下痢をした。そのおかげで、彼はたいていの汚染物質を口にしても平気で通せるほど丈夫な腸を手に入れた。
彼の故郷たる村には共同で使う井戸があり、もしここに毒でもぶちこまれた日には全滅だなガハハとよく村人たちは言い合ったが、それはまったく冗談というわけでもなかった。
村は山奥にあり、山奥という場所には毒蛇が生息しているものだからだ。それは天使が天界に、悪魔が魔界に住んでいるのと同じくらい自明なことである。
この毒蛇というもの――オオマムシとかサーペントとか呼ばれるクリーチャー――は、暗くて狭いところが大好きだった。
べつにそういう流行りが毒蛇の間にあったわけではない。生まれつきそうだった。どういうわけかおれたちはそういう場所が好きらしいんだなあ、と、彼ら自身も折に触れて感じ入る。
暗くて狭い場所というのは、なにも洞窟とか尿道とか、そういう場所ばかりではない。たとえば――井戸もそうだった。
したがって真夜中、誰もが夢を見るのに忙しく井戸などまるで眼中にないという最中。
暗く狭き場所を要請する体質に急き立てられた百万の毒蛇は、大挙して井戸の中へ。ざぶざぶ。ざぶざぶ。それはかなりクソやかましい音であるが、気づくものは一人としていない。この村に住んでるのは難聴ばかりか。
翌朝のこと。たった数時間前なる真夜中もし目撃したらば爬虫類恐怖症患者を即死させうる光景が井戸端で展開されていたなどと露ほども思わぬ村人たち。
日々そうしているがごとくに水を汲んでは、各々、自分の顔を少しでも清潔にしようと無駄に洗ってみたり、酒により醸成されたドブに住むネズミだって鼻をつまみそうな口臭を除去しようとあがいてみたり、大して食欲をそそりもしない料理のために濫費したりしていた。
どれもこれも、毒入りの水を使用するのには、ちょっと向いていないと言わざるを得ないようなものばかり。
そういうわけで村人は全滅し、後にはただ蝿の卵を待つばかりの死体だけが残ったのだった……
「……あれ?」
全滅?
「いつもより水が美味い」
前言撤回。
「ね、そう思わない――ああ!?」
台所では両親が重なり合って倒れていた。彼は眼を見張る。
「……弟はいらないんだけど?」
ペニロサはただ一人生き残った。
□ □ □ □ □ □ □
村のどこを見ても死体があった。死体のあるところが村だった。
「なんてこった……」
とペニロサはつぶやく。
「だれが片付けるんだこれ? おれはやらないぞ」
ということで、彼は適当に荷物をまとめると村を出ていった。
昨日まで生きて動き回っていた人々が死んでしまったことについて、彼はさほどの感慨も抱かない。むしろせいせいしたと形容できるくらいの気持ちだった。
鼻がないことで、彼は村人たちからしょっちゅう馬鹿にされていた。もちろん彼は言われっぱなしではおらず、つぶれた馬糞みてえなてめえらの鼻をつけるくらいなら無いほうがマシだ、と言い返してはいたが、それはあんまり本心というわけではなかった。
たとえ犬の糞とか馬の糞とかにしろ、他の人がみんなそれを顔に付けているのなら、自分も付けたくなるというのが人情である。彼の頭はヘンであるが、そこらへんの意識ばかりは無垢なまま残っていた。
自分に鼻がないのはなぜだろう、とペニロサが考えるとき、たいていすぐひとつの答えに行き当たり、それは両親が実の兄妹であることだった。
その濃縮還元されたトマトジュース並みに濃厚な遺伝子とか血液のせいで自分はこうなったのだ。ふざけんなてめえらいい加減にしろ、ってことで、彼は両親を憎んだ。三十分に一回家出する程度には憎んでいた。
とはいえ、ここは村で、村は山奥にある。で、山奥には子どもがひとりで対峙するには少々バランスが悪いと思われるようなクリーチャー――トロルとかキメラとかドレイクとか――が、あたりかまわず徘徊している。
だから家出したって結局、彼はすぐ家へ戻ることとなった。一見無意味なようなその行動にも、他の無意味に見えるものすべてについて言えるように、ひとつくらいは利点があった。
今しがた飛び出した家路を再びたどる惨めな道すがら、その間だけは、自分に鼻がないことを恨むのではなく、自分の幼さという、だれしもに平等に与えられている不都合について恨むことが出来たからだ。
ただその帰路にだけ、彼は平等を感じ取った。
というわけで自分含めたありとあらゆる人々を憎んでいた彼だから、村人がふとした偶然で全滅してしまったこと、それがまったく悲しみも憐憫もいざなわなかったことは不思議ではない。
むしろいいきっかけだ――そろそろまた家出して、今度こそは二度と帰るまいと思っていたころ。実行の機会は突飛に飛来。
彼は神父もシスターも死んでしまった教会へ行き、壁際の棚にぎっしりと詰め込まれていた聖水の瓶を根こそぎ収奪した。
凶悪凶暴――おまけにちゃんと鼻がついている――クリーチャーが出没する道中も、これをびしゃびしゃまわりにひっかけていけば大丈夫。クリーチャーが聖水を避けるのは、人間が酩酊者の作った水たまりを避けるのと同じようなものである。
次には憎っくき村人たちが住んでいた(もはや家主は不在である)家々をまわり、金目のものを次々強奪していった。
放っておいてもどうせ、野生の山賊が持っていてしまうはずものだろう。そう考えると良心が痛まず済んだが、そもそもさほど痛んでもいないのであった。
戦利品や必要な道具を自分の家に敷いてあった絨毯で包み込むと、彼はさっさと村を出た。一切振り返ることもなく。胸に去来する思いとてもなく。
□ □ □ □ □ □ □
遥か彼方にあるはずの太陽が、今ペニロサが歩いているへんぴな土地にまで影響を及ぼすということ。
いよいよ朝の日は高く昇り、真正面から彼の目を射つ。絢爛。比べようのない光にあてられると、彼のまわりにある一切、彼自身すら、なんだかかけがえのないほど美しいものに見えてくる。
が、彼はそんなことはちっとも思っていなかった。
彼がいま考えているのは、ひたすら自分が「勇者」になることだった。
ちょくちょく魔王は復活する。ちゃんと聖剣がその胸を貫き、賢者たちがたいそうな封印を施したのにも関わらず、である。
なんでこう、ちょくちょく復活するのか、ということを考えるものは少なくないが、とにかくまた倒す必要があるのには変わりない。
魔王が復活することの弊害は甚大なもので、それは例えば卵の値段がちょっと上がるとか、カジノで使うコイン一枚の値段が上がるとかが挙げられ、とくに後者については涙を流して苦しむ人間が大勢いた。
そういうわけだから魔王は倒さなければならず、それを達成するためには勇者が必要だった。
なんてったってたかが魔王ごときに、自分の国の兵士を総出動させようなんてボランティア精神を発揮する王様は、どこの国にもいないのだ。
というか、そもそもそういう精神を持つものが王になること自体がありえないことではあるが。
だから「勇者」が募集されることとなる。世界各地に偏在する都市で、ギルドが主体となって、魔王を討伐できそうな人間を募集するのだ。
出兵させずに済むのだから、勇者パーティー御一行にちょっとばかし金とか地位とかを与えるくらいはなんでもない。各国の王どもはみなそう考えたゆえ、報酬はとんでもなくすばらしいものが約束されていた。
当然、大勢の人間がギルドに詰めかけることとなる。
ペニロサもその一人になろうとしていた。
極めて矮小な(それは土地面積から言っても度量から言っても)自分の村を出たいという気持ちから発生した望みでもあったが、そもそもの夢として、「勇者」という響きはすてきだった。
この世に住まう誰もが、少しでも富とか名誉とかに興味がある人間の誰しもが、「勇者」という言葉に無条件でロマンを感じた。
鼻がなくて頭がヘンなペニロサも、その大枠から外れることはなかったというわけだ。
かえって彼の場合、鼻がないということで村人から常日頃馬鹿にされていたゆえに、絶対的な尊敬を集めるであろう勇者という立場、それへの憧れは並々ならぬものがあったと言える。
「勇者、勇者かあ」
とペニロサは都市への道中つぶやく。
「勇者なんだったら。うん。鼻がなくたって気にしないよな」
早くも魔王討伐を成し遂げ凱旋する自分の姿を夢想して、彼は浮き立った気分を味わっていた。
□ □ □ □ □ □ □
「不合格」
「はっ、へ、あ?」
「不合格だよ」
ペニロサをろくに見もせず男は繰り返す。その言葉の意味するところが最初、彼にはわからなくて、なんとか固まった頭を動かそうとぶんぶん振りまわしたり、壁に打ち付けたりしてみた。それは男に止められたが。
「なんですって?」
ペニロサは頭部から出血しながら訊ねた。
「ふ・ご・う・か・く」
一言一言区切って男は繰り返した。いやみったらしい口調だった。
「全然ダメ。ちゃんと募集要項見たのか?」
と、男は壁に貼られた紙をあごで示した。その紙は黄色く変色していて、このギルドの施設の内部の空気を擬似的に可視化させているよう。
☆勇者の条件☆
1.強いこと
2.賢いこと
3.勇敢なこと
「はい」
ペニロサはなにを当たり前のことを言うのか、という感じにうなずいた。
「ちゃんと見ましたよ」
「お前にはそのどれもないだろうが」
と男が言う。
「ええっ」
ペにロサは目を見開いた。
「そう見えますか?」
「当たり前だろ!」
と男はどなった。朝から何十人も勇者志願者を見てきた上、昨日からずっと耳の中でハエが飛んでいるような気がして苛立っていたのだ。
「技能テストも体力テストも知能テストもダメダメダメダメダメ! 勇者としてふさわしい心を持っているかどうか調べるテストに至っては――」
男はいったん言葉を切った。
「――お前はさっぱり優しさも清廉さもなく、最も適している職業は盗賊と来た! こんなんでどうして勇者として採用されると思えるのか」
「あんまり良い成績でなかったのは認めますけども……」
ペニロサはしぶしぶながらうなずいた。頭の中では今すぐ目の前の男が爆裂して死ねばいいのにと思っていたが、それはとりあえず口に出さないでおこうと思っていた。
「でも熱意ではだれにも負けないつもりです!」
それを証明しようとして、ペニロサは体温計を口の中に突っ込んだ。しばらくしてから取り出してみると、いますぐ即死しなければおかしいほどの体温が記録されていた。
「ほらね?」
「アホか」
男は呆れたようす。
「いいからさっさと帰れ……お前みたいな田舎者――おまけに鼻がないような奴が、勇者になろうなどおこがましい」
田舎者なのは事実だからともかくとして、鼻がないことに言及されたこと、それはペニロサを激しく怒らせた。顔が黙示録の日の太陽ほどにも真っ赤となり、頭に上る血は逆流する瀑布もかくや。
「変な病気にかかって死ね」
それだけ言うと、ペニロサはギルドの扉を蹴っ飛ばして十メートルふっとばし、都市の人混みへ消えていった。おかげで扉の賠償金をだれに請求すればいいのか、ギルドはついにわからずじまいだった。
ちなみにペニロサを馬鹿にした男は、そのあとしばらくして本当に変な病気にかかった。が、死んでしまうわけではなく、なぜだか一生芋虫しか食べられない体になっただけだった。
サーペント
猛毒を持つヘビ。その毒は象すら仕留める。
オオマムシ
毒があり危険だが、肉はけっこうおいしい。