瀬藤彼方は異世界に転生できなかった(2)
時系列を修正中です。物語の中に出てくる日付、季節、年数など。
生まれて初めて彼女ができて、そしてそれからほどなくして、彼方は人生で初の体験も済ませた。それはそれは天にも昇る気持ちで、これ以上ないほどの幸せだった。
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「この彼女が優しくてさ、いー女だったんだよね。いま思うと、あれが幸せだったんだな……」
「いい彼女さんだったんですね? それからどうなりましたか? 私もあなたの話に聞き入ってます」
「そうでしょ? 本当にいい女だったんだけどね、でもそんな幸せが長く続くわけがないよね」
~~~ 2013年 春 ~~~~
彼方と樹里は眩いばかりの光の中で青春を謳歌し、夏秋冬を共に過ごした。真っ青でカーンと高い空の下、流れるプールで二人、浮き輪に捕まってひたすらグルグル流され続けたこと、大学からほど近い山に紅葉を見に行ったり、そしてバレンタインデーにはチョコと手編みのマフラーをプレゼントしてもらったりして、彼方と樹里は永遠に続くと信じて疑わない幸せの中に居た。
そんな折、春休みを実家に帰らずこっちで過ごすと言ってた彼女からSNSメッセージが届いた。
樹里『急なことでごめんなさい、私しばらく実家に帰らないといけなくて、今もう新幹線に乗ったところ』
彼方『えらい急だね。どうしたの? 実家って長崎だっけ?』
樹里『うん。長崎。またメッセージするね』
彼方『うん、また連絡ちょうだい。気を付けてね』
正月も実家に帰らなかった彼女の帰省、ひとつも不審なことなんてなかったけれど、ひとつ理由まではハッキリしない一抹の不安が脳裏を掠めた。
彼方『じゅりー? 長崎ついた? まだかな?』
彼方『もう実家かな? 疲れたでしょ。また明日ね』
彼方『じゅりおはよー』
彼女とこんなに距離が離れたのは初めてなのに、見事なまでのスルー決められてしまったものだから、得も言われぬ不安に苛まれるのも無理からぬ話だと思う。
そう、彼方は生まれてこの方、いい予感とか嬉しい予感なんて当たった試しはただの一度もないのだけれど、実は、霊感が強くて、こういう虫の知らせのような悪い予感だけはよく当たる。
まさか、思い過ごしであってくれという願いも甲斐なく、彼女からSNSメッセージが届くことはなかった。電話してみても電源が入っていないか電波の届かないところにいるらしいとのメッセージが流れるだけだった。
彼女が長崎の実家に帰ってから二日経った夜、バイクで自分の部屋に戻る途中、彼女のマンションの前を通りかかった彼方は、彼女の部屋に明かりが灯っていることに気が付いた。
彼女は長崎の実家に帰省中のはずだ。
彼方はこの胸にモヤモヤする悪い予感を払拭するため、駐輪場まで回らず、バイクを道に停めたまま飛び降り、彼女の部屋に向かって駆け出していた。預っている合鍵でオートロックを突破し、エレベーターで七階へ。彼女の部屋の前、ドアホンを鳴らしてみても応答がない。昨日は確かに部屋は真っ暗だった。でも今は電灯が点いている。彼女が戻ったことは確かだ。
何度もドアホンを押して呼び出しているけれど反応がない。もしや部屋の中で倒れていたりしたらと思うと気が気じゃなくなり、ついには合鍵を鍵穴に差し込んで捻るとカチンとシリンダー鍵の解除される音がシンと静まりった通路に響き渡った。
ドアを開けて部屋に入ると、見慣れない男物の靴が無造作に脱ぎ捨てられていたのが目に入って……、たぶんそれが原因なんだろう、頭に血がのぼってしまってここから先はあまりよく覚えていないのだけれど……樹里の部屋は狭い1DKのマンションだ。ダイニングまで入るともう逃げも隠れもできない。踏み込んでしまうと、人生で一番見たくないものですら、イヤでも目に入ってしまう。
樹里は、金髪のちょっと悪そうなイケメン男と、ベッドでお楽しみの最中だった。こいつは晴田芳清という評判の悪いひとつ上の先輩だ。話したことがない彼方にもこの男の悪い噂を言ってみろと問われたら軽く1ダースは出てくる。
人生で最もショッキングなシーンを目の当たりにし、立ち尽くす彼方に、晴田は苛立ちを隠せず、濡れ場にいきなり踏み込まれたこともあって怒り心頭。すぐ手の届くところにあった枕をぶん投げた。
「ああ? 誰だよてめえ!」
思ったより衝撃の強い蕎麦殻の枕を受け止めることができず後方に弾いてしまった。
その枕はよく泊まりにきていた彼方が樹理に買ってもらったものだ。それを投げつけておいて「誰だよてめえ!」はない。
それはこっちのセリフだ! と言いたかったが、今にも咬みつかれそうなほど睨みつけられては強気に出ることができず、彼方は少し上ずった声で、最低限、言わねばならないセリフを吐いた。
「……、その子の彼氏と言うか……あの……」
「はあっ? なんだって? 彼氏? でも見たら分かるよな? お前たったいまフラれたことぐらい分かるよな? 何見てんだよ変態野郎が、分かったらはよ出ていけやコラ」
頭はパニック状態で、この場にいること自体ものすごくイヤで……。どうしたらいいかわからなくて、彼方はその場から逃げ出してしまった。わなわなと震える手でヘルメットをかぶり、シールドの奥で涙が溢れて止まらなくても、それでもバイクを走らせて自分の部屋に戻った。どの道を通って帰ってきたのかも覚えていない。その夜、嗚咽が外に漏れないよう布団に頭を突っ込んで、泣き疲れて眠ってしまうまで泣いたのを覚えてる。
人生の大半は一人で生きてきた。それなのにたった1年たらずの時間を樹里といっしょにいただけでもう、これからずっと一人で生きていくことが耐えられなくなってしまった。樹里が居ないと思うだけで寂しくて悲しくて、やるせない気持ちになった。
一人は慣れているはずなのに、これからまた一人で生きていかなくてはならない未来に絶望して、涙が止まらなかった。
元通り、1年前の春までそうだったように、また一人に戻るだけなのに、それがものすごく寂しくて、あんなに酷いところを見てしまったのに、それでも彼女に戻ってきてほしくて、彼方は涙を流した。
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それからというもの、彼女と顔を合わせるのが気まずくなって大学にも行かなくなってしまった。きっと彼女の方も修羅場に踏み込んで行為を見たような男と会いたくないに決まってる。
彼方の精神状態は虐められていた中高生の頃よりもさらにアンダーに落ち込んでしまった。
彼方は一つ分かったことがある。
失恋を "捨てられた犬のような感覚" と言った人が居たはずだ、だがしかしそれはとんでもない間違いだ。捨て犬や野良犬は人の支配から逃れ、自由を得た勝者だ。
彼方のように運よくヒトに生まれ、ヒトが生きていくのに都合よく作られたシステムの中に居続けながらも負け続ける男と比べられるだなんて犬に対して失礼というものだろう。現に彼方は独り身の気楽さや自由なんてのより、樹里と肩を寄せ合って暮らしていた頃の、ちょうどいいぐらいの窮屈さ加減が心地よかったと懐かしみ、毎晩思い出に浸っているのだから。
樹里を失った彼方の世界は、急激に色彩が失われていった。
かつて幸せだった彼方と樹里のメッセージログの残るSNSを見るといつまでも未練が残るからと……SNSも退会。携帯電話も解約して、全ての人との繋がりを絶ち、逃げるように町を出た。
彼方はここでも敗北者になってしまったようだ。
実家に戻っても居場所はなかった。父親は無気力な息子を叱咤激励しても暖簾に腕押し、糠に釘、一向にやる気を見せない息子の姿が相当ショックだったのだろう、せっかく大学に入れてやったのにとでも思っていたのだろうか、両親のその落胆した顔が目に焼き付いて忘れられない。
人は成人する前に身の程ってものを知る。
瀬藤彼方の青春は見事なまでの負けっぷりを味わって終わりを告げた。リングに上がったけれど、天性の打たれ弱さを誇る彼方の精神力では相手の強打に耐えられず、天井から降り注ぐスポットライトの下で大の字にダウンしてしまったようなものだ。光に手を伸ばしても、誰もその手を引いて起こしてくれはしない。
もう立ち上がる力などない。戦意も失ってしまった。
彼方はしばらく実家に戻って傷ついた心を癒そうと思ったが、母親からは「学校どうするの? 下宿の家賃も高いのに、留年したら学費払えませんからね」と容赦なく叱咤され、妹からは「彼方、大学生にもなって引きこもりとか、ないわー」などと汚いものを見るような目で見られ、ドン引きされる始末。いや、そんなことより、呼称が「お兄ちゃん」から「彼方」と呼び捨てになっていることに動揺したが、それからの約1年間、妹の言うように、思う存分引きこもったと思えば、ある日突然バイクにまたがり、何週間も帰ってこないような一人旅に出たりもした。彼方なりに自分探しをしていたのだけど、結局のところ何も得られず帰ってきたと言うのが本音だった。
~~~ 2014年 春 ~~~~
翌年、もう単位とれないことを察した彼方は、これまで1年なにも聞かずに家に置いてくれた父親から「もう1年だな、考えを聞こうか」と優しく促されると、彼方はもう大学に戻る気はないと自分の考えを伝え、家族みんなの前で深々と頭を下げた。
大学を辞めた彼方実家に居づらくなってしまい、実家近くの不動産会社の営業に就職したけれど、同僚に利用され営業成績を奪われた挙句、上司からの容赦ないパワハラにあって退職。ストレスで体調を崩してしまうほどに追い詰められた。
さすがに無職では家に居づらくなったため、実家から少し離れた隣県の町、どっちかというとそれまで通っていた大学に近い、土地勘のある町に家賃42000円の安アパートを借りた。資金的な余裕があるわけもなく、彼方は苦手な接客業、コンビニバイトでその場をしのぐことにして、フルタイムで働くことになった。
そんな折、実家の母親を通して大学時代の友人、遠山陸から連絡があった。
連絡先も教えていないのに実家を通してまで伝えたいことってどんな一大事かと思って連絡してみると「マジでカネに困ってる、すまん来月の末には返すから10万貸してくれ」と泣きつかれてしまった。この男は刹那的に金を使うことが身上の、いわゆる良くも悪くもバカ野郎だ。悪い奴じゃないことはよく知っているので渋々お金を貸してあげたのに、くれぐれも厳重に約束しておいた返済期限までに返ってこないばかりか、それ以降は連絡も取れなくなった。
半年後、お金の事よりもなんだか陸のことが心配になって家に様子を見に行くと「人でなしか! 親友が困ってるのに取り立てに来たのかよ」なんて逆ギレされる始末で1円も返してもらっていないばかりか、この時更に10万貸してしまった。当の陸は必ず返すって言うけど、そんな言葉、微塵も信じちゃいない。その時借金のカタにと小指の爪ほどのマイクロSDカードを預かったけど、中は見るなよと念を押された。あの遠山陸のことだ、きっとエロ画像かエロ動画だろう。こちとら樹里の修羅場に踏み込んでしまい、人生で最も見たくないシーンを見てからというもの、後遺症なのか、そういう男女のカラミを見ると突然の吐き気に襲われてしまう。エロ動画などという拷問はもう頼まれても見たくないのだ。
もちろんそれ以降、遠山陸から連絡が来るなどといったことはない。一切ない。
友達が困っているからと泣きつくので、なけなしのお金を貸してあげたのに、返してもらえないばかりか友人まで失ってしまうなんて、どこでどう間違えたらこうなるのか、彼方は神を呪った。もし神様なんてのがいるんだとしたら、この状況を説明してほしいところだ。
もともと他人にカネを貸せるほど余裕があるわけじゃなかった。コンビニバイトをはじめたけれど、暇に飽かしてフルタイムで入っているせいか、バイトチーフという底辺管理職に昇格。面倒くさくてやることが増える割に時給はスズメの涙ほど上がるだけという名誉職だが、バイトチーフとして新しいバイトの面接も任されるようになり、もしかするとこのまま一生コンビニバイトやってるかもしれないなんて、自虐的な心配をし始めたところだ。
~~~ 2015年 春 ~~~~
春が来た。ちょっと気になって陸の家に行ってみたけれど、陸はあれから家を出て、いまはもう行方不明になっているそうだ、あいつは日本のどこででも生きていけるタフさを持っているから、きっと大丈夫だ、きっとカネに困ったらまた電話してきてカネの無心してくるに決まってる。連絡がないということは、うまくやってるってことだ。
そんなことを考えなが、ぼーっとしつつ、いつものコンビニで、いつものようにレジカウンターに立っていると、店内の空気が一気に変わった。自動ドアが開いて、一人の女性客が入ってきたのだ。
就活生だろうか、リクルートスーツに身を包んだ女性で、顔には大きめのマスクをしていたので表情までは窺い知れなかったが、彼方はこの女性に魂を吸い込まれるほどの違和感を覚えた。
「129円になります」
彼女がレジに持ってきたペットボトルの麦茶。接客マニュアル通りの対応ができず、声はうわずって裏返りそうになるのを必死で誤魔化す。平常心を保てないほど動揺し、視線が定まらない。どこを見たらいいのかも分からなくなっている。胸の鼓動は早鐘を打ち、かーっと頭に血が上ったように血圧が上昇するのが分かった。
この感覚は覚えている。あの日、樹里に告白した時と似た感覚だ。彼方は明らかに動揺している。人はそう簡単には成長しないらしい。ただ200円を預かってお釣りを出すという、たったそれだけの事をスムーズに滞りなく行うのがこれほど難しいのだから。
メガネをかけて就活勝負服、顔の下半分をマスクが覆っているせいで顔はハッキリしないけれど、この世界の七十億の人の中からでも、この女性だけは絶対に見間違えたりはしない。同じ空間に入ってきただけで安堵する空気感が違う、魂まるごと吸い込まれていくように惹かれるその魅力も、触れてもいないのに感じる体温も、……匂いも他の人とは全然違う。
あんな酷い別れ方をしてから2年だ。もう2年経つというのに、彼方の中で樹里はまだ特別だった。
何の予告もなく、不意を打つように再び彼方の前に現れた樹里。突然の邂逅だった。
一時期のように頭から離れないということはなくなったとは言え、2年経った今でも、あのかつて幸せだった日々を思い出さない日はないのだから。
彼方は勇気を振り絞って声を出した。
「ありがとうございました」
何度も触れ合った手に、お釣りとレシートを手渡した。レジに立っていたのが彼方だということにすら気付かずに店を出ていこうとする彼女を引き留めることもなく開く自動ドア。
「またおこしくださいませ」
そういうのが精いっぱいだった。これはそう言おうと思って出た言葉ではなかった。接客マニュアルにもなかった言葉だ。カウンターテーブルひとつの距離を隔てて、お釣りのやり取りをし、それでもなお気付かずにすれ違ってしまおうとする二人の運命の行く先を、ほんの少しだけでも変えてしまいたいと思った彼方の心の、その奥底から出た願いだった。