第2話β節 流れ着いた先
「大したものではないが腹の足しにはなるじゃろう。」
男にしては高めの少ししわがれた声と共にコトンと音を立てて器が置かれる。中に入っているのは乳白色の湯。少し飲んでみると、シチューのような味が口の中に広がった。・・・とはいえ、あくまでも“ような”である。見たこともないその料理は、ただただ今の自分の状況についての謎を深めるばかりだった。
ーダメだ・・・一切わからない。今オレは一体何処にいるんだ??ー
白い光に包まれて気を失った後、オレが目覚めたのは木造の部屋にある藁製ベッドの上だった。服装は意識を失う前とおなじ白Tシャツにジーンズ。オレ自身には変化はないようだった。辺りを見回すと、そこはベッドの他に家具のない殺風景な部屋。あの不思議な光景の前に見たプレハブの中なのだろうかと思い、ひとまず部屋の外に出たところ、そこを通りかかったのが今オレの目の前にいる、現代日本人らしからぬ白い法衣のようなものを着た初老の男だった。体調はどうだ、などといくつか彼に聞かれた後、腹が減っているだろうと居間らしき場所に案内され、とりあえず、今に至る。
居間に向かう廊下の長さなどから、建物の大きさがプレハブの比ではないほど大きいということがわかった。それこそ、屋敷と言っても過言ではないだろう。となると現在自分がどこにいるのかという疑問が生まれてくる。この男がオレをこの家まで運んでくれたということはわかるのだが・・・。
そもそもここは日本なのか、正直嫌な予感しかしない。が、やはり1人で考えても埒があかないようだ。深く深呼吸して心を鎮め、おそるおそる口を開く。
「なあ、ここは何処なんだ?あんたが助けてくれたんだろう?」
「何処か、と言われても儂の家としか、のぉ」
男はぽりぽりと禿頭を掻きながら苦笑する。
「土地の名前だよ!此処は日本の何処なんだ!?」
切迫した中、男の呑気な態度にイラつき、語気が荒くなる。一方、“日本”という単語を聞いた男は眉を顰め、首をかしげた。
「ニホン?聞いたことのない土地じゃのう。ここは確か、エスナ王国の端っこだったはずじゃが・・・」
「エスナ・・・王国・・・?」
冷や汗がヴヮッと湧き出る。やはり、ここは日本ではないのか・・・!?
「嘘・・・だろ・・・」
「嘘なわけあるかぃ、これでもまだボケは来とらんつもりじゃ」
信じたくない。信じたいわけがない。ついさっきまでオレは、山のなかを歩き回っていたのに・・・!
・・・そうだ、人の、しかもこんなジジイの話なんてアテにならないに決まっている。自分の目で見ればいいのだ。百聞は一見に如かず、というやつだ。
そうと決まればもうじっとしていられなかった。
「爺さん、ありがとな。オレ、もう行くわ」
そう言って立ち上がり、おいちょっとまてという男の静止する声も無視し、客間から見えた勝手口から外に出る・・・・
と、そこはだだっ広い岩の平地だった。安山岩らしきゴツゴツした岩で形成されている地面には木の一本すら生えていない。また、雲を見下ろせるほど高くにあるようで、心なしか息苦しさを感じる。
ともかく、ここが先程彷徨っていた山でないことは、もはや明らかだった。
「まだだ・・・降りてみれば、きっと・・・!」
ここは地球ではない。そう認めてしまいそうな自分をなんとか奮い立たせて走り出す。
走る。走る。走る。脇目もふらず山肌を転がるように走り続けて20分は経っただろうか、気づけばオレは岩場を抜け、森林地帯に入っていた。人の手が全く加えられていない茂み、立ち並ぶ30mを超えるであろう巨木たち。元いた山に似てきた景色にちょっとした安心感が生まれ、疲労感も相まってそのまま座り込む。切れ切れの息を整えようとしたその時だった。
ー突然、目の前の茂みがガサリと音を立てて大きくゆれた。
「ーッ!?」
ビクッとして立ち上がる。そのとき、地面から少し足を滑らせたせいで枯葉が音を立てて舞った。それがいけなかった。
しまったと直感的に感じるのと、茂みの中から4つの黒い塊が飛び出してくるのはほぼ同時だった。そしてその中の1つが怯み、動けないでいるオレに直撃。悲鳴をあげる間も無く後方に吹き飛ばされ、そのまま猛烈な勢いで巨木に激突する。
「ーーガハッ!」
乾いた喘ぎと共に口に違和感を覚えた。衝撃でぼやけた視界の中に映るのは腐葉土の上に積もった落ち葉、そして腹の部分が赤黒く染まったTシャツ・・・
「うあ、ーアァアアアア!?」
白かったはずのTシャツを染めた染料は自分の血液。そのことに気づくのに1秒とかからなかった。体が小刻みに震えだす。迫り来る圧倒的なまでの死の予感。そして、それ現実のものとなろうとしていた。
ザッという足音におそるおそる顔を上げると、10mほど離れたところに4つの・・・いや、4匹の黒い狼のようなモノがいた。暗い森の中で輝く淀んだ赤の瞳、毛は逆立ち、ナイフのような牙が並ぶ口からは視認できるほど濃い唾液が滴り落ちる。その姿は、獲物を見つけた喜びに打ち震えている捕食者そのものといえるものだった。
「ーハハ、ハハハハハハハハ」
思わず、小声で、掠れた笑いが溢れる。滑稽だ。馬鹿らしい。自棄をおこして家出した結果山で遭難したあげく、訳のわからない場所に突然飛ばされて、そこで訳のわからない生き物に、今もオレの目の前で誰が獲物に真っ先に齧り付くかを争って吠え合っている、そんな奴らに殺されようとしている。そんな三流映画も真っ青の糞展開の中で死んでいく・・・・
“ーーーーーーーそれはーーーーーーーそれだけは嫌だーーーー“
そんな声が聞こえた気がした。途端に、意識が覚醒していく。絶望で枯れきった心に火が灯っていく。
ーそう、そんなシナリオに大人しく従って、むざむざ殺されてたまるか・・・・この世界・・・自分が日本の、地球での、いや、あの世界での人生にうんざりして彷徨った先に流れ着いた場所のことをを欠片も知らずに、欠片も楽しまずに終わっていいだろうか。いや、そんな訳がない。あるはずがない。此処が正解なのかもしれないのに、本当にオレが居るべき世界なのかもしれないのに。
「・・・まだ、死ねない・・・・」
呟くとともに湧き上がったのは虚勢か、闘志か。そんなことはどうでもよかった
「まだ、死ねないッ!」
残った恐怖を振り払うように叫ぶ。狼たちがそれを聞きつけてかこちらを振り向く。どうやら獲物に逃亡の意識ありとでも感じたらしい。争いをやめ、4匹の中のリーダーらしきものがこちらに体を向けた。
逃げることはできない。背中を見せれば一瞬で食いつかれることは明らかだった。
戦わなければならない。素手で狼4匹を相手にするなど、勝ち目がない事など分かっている。けれど、戦わなければ生きられないのだ。だから、だから・・・
「足掻いて・・・足搔き通してやるッ!」
リーダー狼が地面を蹴った。もう逃げられない、ならば、真っ正面から挑むのみ。
拳を固め、真っ直ぐに前を見る。敵は地面から飛び上がり、凄まじい勢いで迫ってきている。命が風前のともし火と化しているにも関わらず、心は自分でも驚くほど冷静だった。無我の境地というものなのだろうか。
「うおおおおあおおおおおおッ!」
全力で拳を、右の拳を突き出す。腰を入れ、全体重をかけた渾身の一撃。
とはいえ、元の世界ではただの学生で、格闘技の心得などゼロ。そんな貧弱男のパンチなどに大した意味はなく、オレの右腕は無残、そして無慈悲にも食い千切られるーーー
ーその、はずだった。
振り抜かれようとしていた右腕が突然、眩い光を放ったかのように見えた。反射的に閉じてしまった瞼を開く。すると、・・・
・・・今にもオレに齧り付こうとしていた狼・・・その体に大きな風穴が空いていたのだ。
そして、それが引き金になったかのようにゴゥ!と音を立てて前方に向かって衝撃が走る。オレの拳から生まれたであろう、そうとしか考えられない空気の荒波は落ち葉を巻き込みながら進み、一瞬にして残った3匹の狼、そして、その後方にあった大木を十数本も一気に跳ね飛ばして直線状の更地を作ってみせた後、何事も無かったかのように霧散していった。目の前でドサッという軽い音と共に、先ほどまで絶対的な強者、そして恐怖の権化であったはずのリーダー狼が、力なく地面に落ち、動かなくなっていた。
「ーーーーーーー」
オレは始め、その光景を理解できなかった。ただ、拳を振り抜いたままで金縛りに遭ったかのように目を見開いて。段々、自分の現状を掴め始めたのはたっぷり10秒ほど呆然とした後の事だった。あの瞬間、何がオレの身に起こったのかはわからない。しかし、それでも・・・・
「勝った・・・・勝ったんだ・・・・!!」
遅れてやってきた勝利の喜び。解放された恐怖は涙となって目から滴り落ち、全身は同じく抑えていた恐怖、もしくは湧き上がった勝利への歓喜にブルブルと震え始めた。しゃがみ込み、思わずガッツポーズを涙混じりの雄叫びと共に、何度も、何度もにぎる。
木がなぎ倒されたことで露わになった空を見上げる。空は雲ひとつなく晴れ渡り、今の心を、希望に満ちた心情を写したかのようだった。そして、ーーー
ーーー数秒後、突然、糸がプツリと切れるかのように激しい脱力感に襲われ、声を発する間も、自分の身に何が起こったのかを認知する間さえなく、意識は空の蒼に吸い込まれていった・・・