交錯する思い
家に着くと、買ったばかりのワンピースを着た自分の姿を鏡に写す。気に入って買ったはずのワンピースだったけれど、その姿が情けなく見えてきて、むしゃくしゃした。きれいなワンピースを着ていても、私には全然ふさわしくない。乱暴に背中のファスナーに手をかけると、ワンピースを床に置き去りにして、足から脱いだ。
ベッドに身体を預けると、涙があふれてきた。今度は止められなかった。ハンカチを出そうと、近くに置いたバッグを引き寄せる。一番上に入れたガイドブックに手が触れ、本棚に向かって投げつけてしまった。表紙が曲がって落ちた。何も考えたくなかった。
来週の箱根旅行が迫っていた。私は誘ったことを激しく後悔していた。自分から行きたいと言って、四人を誘い予定を合わせた旅行なのに。ちょっと前までは、大学時代の友達とみんなで集まれることが楽しみで仕方なかった。宿とロマンスカーの予約を、睡眠時間を削ってまでやってしまった。予約をしたときは、わくわくした気持ちでいっぱいだったけれど、その気持ちはしぼんでしまっていた。
今の澪子に顔を合わせたくないという気持ちはもちろんあったし、晶が澪子の話を聞いたらどうなってしまうんだろう。そう考えると恐ろしかった。
いっそのこと、旅行を中止にしてしまおうかと思ったが、中止にする良い理由が浮かばなかった。私の都合が悪くなったことにしたって、澪子は残りの三人で行こうと言いだすだろう。自分の知らないところで、三人で行かせる方がよっぽど恐ろしかった。
数日悩んだ結果、私は詩織に電話をすることにした。澪子には自分の口から報告したいと言っていたが、もうどうしようもなかった。詩織なら全て知っても、それを悟られないように振舞ってくれるだろう。
私は、電話で私が見たもの、聞いたことの全てを詩織に話した。
たまたま女の子とデートをしている晶に会ったこと。晶は以前から、澪子に対して愛情を抱いていること。澪子から結婚するという報告を受けたこと。澪子は、浮かれていて、いつもとは明らかに様子が違ったこと。私はその事実だけを伝えた。
私がどう感じたかは伝えなかった。普通の恋愛ができないことは、誰にも言うことができなかったからだ。
そこまで聞くと、詩織は、静かにこう言った。
「ねぇ。真由はどうしたいの?」
私は少し考えて答える。
「澪子とは今まで通り友達でいたい。それに、澪子と晶が気まずくなるのも嫌。今までみたいに、四人で仲良くすることはできないのかな」
電話口で詩織が息を漏らしたのが聞こえる。
「真由ならそう言うと思った。だって、真由、他人に関心なさそうに見えて、本当は友達のことすごく大切にしてるよね」
詩織の声は、嬉しそうに聞こえた。
「そう?」
私は驚く。
「私も、四人で前みたいな関係を続けたいと思う。旅行には行こう。それで、たくさん話をしたらいいと思う」
私は詩織がそう言ってくれて安心した。話をして、どうにかなるのかそれは、わからなかったけれど。
私たちはしばらくどうしたらいいのか話し合った。結果、晶が澪子に対して抱いている気持ちを私たちの口から、澪子に伝えることはできないという結論に落ち着いた。もちろん、晶に澪子が結婚することを伝えるのもダメだ。私たちは、どうしたらいいか明確には答えを出すことができず、何もしないまま、当日の朝を迎えてしまった。
待ち合わせは、新宿の駅。新宿駅発のロマンスカーに乗って箱根へ向かう予定だ。改札に着くと、すでに詩織が到着していた。二人が到着するより、早めに着こうと言い合っていたが、詩織に先を越されてしまった。相変わらず気が重かったのだが、最初に詩織が到着していて、ほっとした自分に気がつく。持っていた重いバッグが少しだけ軽くなったような錯覚を覚える。
詩織は、早朝だというのに、化粧もいつも通りに決まっていて、長い髪に乱れもない。私はと言うと、寝坊したせいで、髪型が全然決まっていない。私は、今日のことを考えると憂鬱で、そのことを考えているうちに眠れなくなってしまったのだ。
「詩織、おはよう」
「うん。おはよう」
二人で荷物を置いて、ぼんやりと人通りを眺めていた。
「真由、詩織、おまたせぇ」
朝から、幸せオーラを全快にした澪子が近づいてくる。そして、澪子の後ろからちょっと遅れて、背の高い晶の姿が見える。澪子は細身のジーンズにセーターを合わせた姿。シンプルな格好でも、周囲から浮き上がって見えた。今日も澪子は手袋をしていた。
澪子の様子に、詩織がちょっと戸惑ったような顔をして私を一瞥した。私もうなずき返す。詩織は私の一歩前に出ると、私より先に澪子に声をかけた。
「澪子、久しぶり」
詩織が澪子に話している間に、晶が近づいてくる。慌ててきたのか、ショートカットの髪型が少し乱れている。晶は、澪子を見つけると、晶は目に見えて、困ったような顔をした。私はその姿を見て、心の中からざわざわとした感情が浮き上がってくるのを感じた。
「ごめん。遅くなった」
晶がそう言いながら、私たちに向かって軽く手を合わせる。この前、電車の中で会ったときに晶を傷つけたと思っていたが、晶が私に普通に接してくれたことにほっとする。
「大丈夫。今、来たところだから」
「じゃあ、行きましょうか」
詩織が先頭に立って歩き出した。私は、詩織の隣を歩きながら、二人の様子を振り返って見た。澪子と晶が話している様子が見える。澪子は、笑顔を見せ、晶に話しかけている。でも、澪子はきっと私たちと旅行に行けることが楽しいんじゃなくて、何をしていても楽しいんだ。きっとそうだ。私は思わず、下唇を強く噛む。血の味がして、顔をしかめた。詩織は私を心配そうに見つめていた。
ロマンスカーの発着ホームに着くと、周りは到着を待つ人でいっぱいだ。私たちと同じような友人同士のグループ。子どもを連れた家族連れ。雑踏の中でも二人の世界に入っているカップル。
「ねぇ。あのカップル見て。かわいい」
澪子の視線の先には、私たちより少し年下とおぼしきカップル。たぶん大学生くらい。二人でお揃いのリュックを背負い、寄り添って立っている。カップルの身長は同じくらい。女の子は、ガイドブックを広げながら、しきりに何かを話しているようで、男の子はそれにうなずいている。
「ああいう風にお揃いで決めてて、なんかかわいいね。すごく仲良さそう」
澪子は、カップルを見て、うっとりとした幸せそうな表情を浮かべる。私は、吐き気を覚えて、視線をそらす。
黄色いロマンスカーが滑りこんで来るのが見えると、カップルたちや家族連れが歓声を上げて、写真を撮り始めた。私はとてもそんな気分になれなかった。
ロマンスカーの座席を探して座った。私が苦労して取った四人がけの席で、半個室になっている。窓際の席に詩織と澪子が向かい合わせに座り、廊下側の席に私と晶。座席に座ると、ロマンスカーが動き出す。
詩織は、座席に座ったところで、ようやく手袋を取った。膝に置いた左手を、隣に座った晶が見つめる。指輪が光り、晶が硬直するのがわかった。晶は硬直したまま、指輪をじっと見つめた。私は次に来る展開を予想して、心を痛めた。澪子が晶の視線に気がつくと、左手を高く上げた。どことなく誇らしげに見えて、腹立たしく感じた。
「みんなには言ってなかったけど、私、結婚するの」
晶の表情が能面のようになっていくのが、正面に座った私からはっきりと見えた。詩織が珍しく焦った様子で、私に視線を送る。澪子は、私たちを順番に見回した。こういうとき、「おめでとう」と言って、喜ぶのが普通の反応なのだろか。そう考えると、まずいと思った。
「澪子。おめでとう」
私はなんとかそれだけ言った。いつも笑顔を作ることは簡単なのに、今日は、表情筋がちゃんと動いてくれてないんじゃないかと思った。不自然じゃなかっただろうか。
「なんか、急だから。びっくりしちゃった。ごめんね。澪子。おめでとう」
詩織がいつもの調子に戻って、澪子に言う。晶は下を向き、固まってしまっていた。澪子はそんな晶の姿をいぶかしげに見ていた。
「二人ともありがとう」
澪子は、隣に座った晶に厳しい視線を向ける。
「ねえ。晶。なんで祝福してくれないの。私、幸せになろうとしているのに」
澪子は、必死な口調で言う。
私は、結婚することが幸せだと言い切ってしまう澪子の思考についていけなかった。私は、普通の恋愛ができない欠陥人間なんだから、あなたの気持ちなんかわからないよ。
澪子。やめて。私が叫ぼうとした言葉は、喉に張りついて出てこなかった。頼りにしていた詩織も、私と澪子を交互に見るばかりで、何もできない。そのとき、澪子がとどめの言葉を放った。
「私、結婚式で、晶にスピーチしてほしいの」
晶は下を向き固まったままだ。晶の膝の上に置いた手が小刻みに震えているのが見えた。
「ちょっと・・・・・・。ごめん」
晶は突然立ち上がり、歩き出した。私たちはしばらくそのまま座っていた。
「晶のバッグは?」
詩織が焦ったように言う。足元に置いていたはずの晶のバッグがない。廊下側の私が立ち上がり、晶を追いかける。足が痺れたように力が入らなかった。
車両を抜けると、晶は通路にある自動販売機にもたれかかっていた。肩には、バッグをかけている。手が小刻みに震えていた。
「晶!」
晶に追いつくと、晶は放心したような顔で私を見つめた。
「まもなく、向ケ丘遊園に到着します」
車内アナウンスが響き渡り、ドアが開く。さすがに出発してすぐに降りる人はいない。数人の客が乗り込んできて、通路に立つ私たちを迷惑そうに見つめて通り過ぎていく。
「真由。ごめん」
晶は消え入るような声で言うと、ロマンスカーから飛び降りるように降りた。
「晶。待って」
私の言葉は、発射のベルにさえぎられた。ドアが閉まり、ロマンスカーが走り出す。ホームに立った晶がうつろな表情で私を見ていた。晶はじっと動かなかった。
私が戻ってくると、詩織と澪子がホームをじっと見ていた。私が一人で戻ってきたので、察したのだろう。二人は何も言わなかった。
そのときだった。澪子が押し殺したような声で泣きだしたのだ。泣きたいのは私の方だよという言葉をぐっとこらえ、澪子に駆け寄る。
澪子はずっと泣きやまなかった。
「晶はどうしちゃったの?」
澪子がしゃくりあげながら言う。無神経なあんたのせいだよ。そう言いたかったけれど、私は何も答えられなかった。