恋のチカラ
澪子と待ち合わせの金曜日、仕事終わりに待ち合わせした駅まで向かう。あの後、晶に待ち合わせの詳細メールを送ったけれど、返事は来ていない。
晶を傷つけたと思ったが、謝罪をすることはできなかった。晶の気持ちはあの様子を見ていれば傷つけてしまったことはよくわかった。私は、今の晶の口から澪子に対する気持ちは聞いていない。ここで澪子のことを尋ねたら、逆に踏み込んではいけないところに踏み込んでしまう。私は恐れた。
澪子のことが好きなのにその気持ちを秘めて、他の女の子とキスをしていた晶。澪子への気持ちを聞いたら、逆に晶のことを責めることになるんじゃないか。そう考えると何か行動を起こすことが怖かった。
私は、仕事を早めに切り上げると、会社のトイレでていねいに化粧を直して電車に乗った。化粧に時間がかかったせいで、待ち合わせに少し遅れる電車になってしまった。
来週一緒に行く箱根旅行のコースの相談をしようとバッグにガイドブックを入れ、待ち合わせに向かう。電車の中で、ガイドブックを広げ、行きたい観光地やカフェにふせんを貼った。箱根神社に行って、芦ノ湖が見えるカフェでケーキを食べよう。夜は旅館でゆっくり温泉に入って、みんなで遅くまで話をして。
そんなことを考えながら、ふせんを貼っていると、旅行に行く楽しい気分が盛り上がってきた。去年の誕生日に澪子からもらった動物のデザインのふせん。ガイドブックを閉じると、本の上から飛び出すウサギやクマが見える。きれいに並べてふせんを貼ることができたので、満足してガイドブックをバッグにしまう。
私が待ち合わせの駅に着くと、澪子は到着していた。私よりも早く待ち合わせに到着した澪子は、小柄な体躯にセミロングの黒髪を垂らした、切れ長の意志の強そうな目の持ち主。見た目はクールな印象を受ける。性格は自分の感情に素直なタイプ。言いたいことを飲みこんでしまうことが多い私とは真逆で、自分の思っていることはストレートに表現できる。私は澪子に対して憧憬を抱くと同時に、たまにいらいらすることもあった。
ちょっと前までのシンプルな服装から一変、ビーズの華やかな刺繍が入ったアンサンブルニットにふんわりとしたスカートを身につけている。小ぶりのバッグ。引きしまった細い足の先にはヒールのパンプス。唇は白い肌に映える瑞々しいグロス。
「真由、久しぶりぃ」
澪子は軽く手を上げて私を呼んだ。そう言った言葉も、いつもより声のトーンを高く感じて、耳を疑う。まだ秋口だが、冷え症の澪子は手袋をしていた。
「遅くなって、ごめん。仕事が忙しくて」
化粧に時間がかかったとは言えないから、仕事を言い訳にする。澪子は、幸せそうなオーラを全身から放って、神々しいまでに輝いて見えた。彼氏ができたとは聞いていたが、ここまで様子が変わってしまったことに複雑な気持ちになる。
私も会社を出る前に、化粧を直したし、服装だって、先月買ったばかりのワンピースだ。アクセサリーも気に入ったものを身につけてきた。でも、私のバッグは、資格試験の勉強のために持ち歩いている本でいっぱいだ。私の肌は連日の寝不足で荒れているから、澪子の白い肌とは明らかに劣っていた。
私の化粧や流行の服も澪子の放つ幸せそうなオーラの前では、色あせてしまう。
澪子は私の一歩前を歩きながら、いつもよりもよく喋った。
パスタの専門店に入ると、澪子は手袋を外した。澪子の指にシンプルな指輪がはまっていて、はっとする。でも、澪子には自分から聞けなかった。
その澪子は、サーモンのクリームパスタを頼んで、私を驚愕させた。
「澪子、クリームパスタ嫌いじゃなかった?」
澪子はさっぱりとした食べ物を好み、クリームパスタはむしろ苦手な部類だったはず。私が勧めたことはあったが、そのときは口をつけなかった。
「彼氏が好きで一緒に食べてたら、好きになっちゃった」
という衝撃的な一言を放った。
「へぇ。そうなんだ」
私は、若干、声をひきつらせた。何と返事をしていいかわからなかったので、食事中、適当なあいづちしか打てなかった。澪子は、いつもよりもハイペースで食べたが、私は、逆に食欲を失い、半分ほど残してしまった。心配した澪子には仕事中にお菓子を食べすぎてしまったことにして、笑ってごまかした。
食後、手近なカフェを見つけて、テラス席に座る。澪子の前に並ぶのは、これも今まで澪子が飲んでいるのを見たことがないココアだ。いつもは紅茶を好んで飲んでいた。理由は聞かなかった。
私も同じものを頼む。きれいにホイップされた生クリームが乗ったココア。指輪のはまった指で包み込むようにカップを持って、美味しそうに飲む澪子を見ていると、また飲む気を失ってしまった。
「私、来年、結婚するの」
真剣な眼差しで言ったとき、私は即座に反応ができなかった。自分の中からもやもやとした固まりがわき上がってくるのを感じた。心臓の鼓動がいつもよりうるさく感じる。それでも、精一杯笑顔を作って澪子にこう言った。
「この指輪も彼にもらったの」澪子が左手を広げて言う。
「そうなんだ。よかったね」
笑顔とは裏腹に、あまりにも気持ちが入っていなくて、自分の冷たい反応にどきっとする。そして、私のあからさまに冷たい反応に何も気がつかない様子の彼女に愕然とする。
「最近、何をしていても楽しくてしょうがないの。これも彼のおかげなのかな」
その日は、澪子が夢見がちな目で、語る言葉をただ聞いているだけしかできなかった。仕事でつらかったとき、彼が言った言葉に救われたこと。これから二人でどうやって暮らしたいか。
澪子は、あまり会話を挟まずに話を聞く私の態度を、話を真剣に聞いてくれていると好意的に解釈したようだった。実態は、澪子の話にあいづちを打つ以外の心の余裕がなかっただけ。
澪子の手にいれようとしている幸せを私は手に入れることができない。そう思うと、心の中心が震えて、息ができなかった。
「良かった。最初に真由に話して。真由のこと一番信頼してるから、最初に報告したかったの」
そんな言葉を満足そうにいう澪子の姿を、ぼんやりと見つめていた。そして澪子はこうも言った。
「私、今、幸せになろうとしているの。だから、真由にも、もちろんみんなにも応援して欲しい」
澪子は、とりあえず私に報告して、来週に行く箱根旅行のときに、他の四人にも言うつもりだと言っていた。自分の口で報告したいから、しばらく黙っていてほしい。
「晶と詩織にもちゃんと報告するね」
澪子はそう言った。晶が、澪子の結婚する報告を聞いたら、どう思うんだろう。そのときの晶の心痛を考えると気が重くなった。
きっと物分かりの良い大人な詩織なら、澪子の結婚を素直に喜ぶだろう。詩織は、見た目も大人っぽい外見でいつも落ち着いている。私たち四人の中のまとめ役的存在だった。少し優柔不断なところはあるものの、それは他人を思ってのことで、いつも周りのことを考えてくれている。きっと詩織なら。私は、詩織に会って相談したかった。
私は澪子の持つ幸せ全快のオーラが怖かった。私にはこの先ずっと理解のできない大きな力に思えて怯えた。あのクールな澪子が、こうまで変貌してしまった何か途方もない力。私には結婚したいという気持ちはこの先も理解できない。そう思うと、私の心が遠いところに置き去りにされてしまったように感じた。
カフェを出るとき、澪子のココアはきれいになくなっていた。私のココアは生クリームが溶け出して、泣いているように見えた。
私は、澪子と一緒に駅に向かい、改札に入ったところで別れた。反対側のホームに着いた澪子が、私に気がつくと、手を振った。私は澪子に気がつかないふりをする。澪子の方を向くと、化粧が崩れてしまったのが悟られてしまう。少しでも目を大きくしようと思って、念入りにつけたマスカラがうらめしい。
私は不自然な動きで、慌てて下を向いて、携帯をいじるふりをした。涙はあふれてきたけれど、落ちなかった。
視界の端で、反対側のホームに電車が入ってくるのが見え、顔を上げると、澪子の姿はない。澪子が、先に電車に乗ってくれてほっとするが、取り残されたような気分になった。