恋するシカク
私は、子どもの頃から性的なものに対する拒否感を持っていたように思う。小学生の頃、女の身体の仕組みについて学んだとき、自分の身体のことなのに生々しくて気持ち悪いと思ったのをよく覚えている。それから何年の年を経て、二十五歳になった今でも、気持ち悪いという感情が拭えずにいる。
そのせいで、好きな人と付き合ったその先の話を考えると怖かった。大学を出るまで、好きな人はできても、付き合うとかそういうことを考えられなかった。それでも、いつかは本当に好きな人となら、付き合えるんじゃないか。期待を抱いてなかったといったら嘘になる。私は人一倍、愛情や恋愛と名のつくものに、幻想を抱いていた。愛し合った二人が幸せになるストーリー。生々しい部分が書かれていないストーリーのマンガや小説を私は好んで読んだ。
私が初めて人と付き合ったのは、大学を卒業して就職した頃だ。当時の私は、保険会社に就職したばかり。本社に配属されて意気込んでいたものの、毎日、大量の書類をチェックする仕事に疲弊していた。そんなときに出会った彼は、私にとても合った。会話のテンポも価値観も育った環境も似ている部分が多くて、一生のパートナーにできるんじゃないかっていう幻想を抱いていた。慣れない仕事で泣きたい気持ちになっても、彼も頑張っているんだと思うと、不思議とどんなことも乗り越えられた。
二人で夜景を静かに眺めていると、彼が突然、私の背後に回った。後ろから抱きつき、手を私の腰に絡ませたとき、全てがさめてしまった。彼の熱い体温と吐息が夏物の薄いワンピースを通じて、伝わってくる。私に向かってくるこの熱は一体、なんなんだろう。私の表情を見たのか、彼はすぐに私から離れた。彼の行動が理解できなくて、気持ち悪いとしか思えなかった。
私の身体を求める気持ちは、彼にとっては自然な欲求だから、私は受け入れないといけない。付き合ったら、人は抱き合い、求め合うはず。頭の中で理解しようともがいた。でも、いくらもがいても、私の気持ちは変わらなかった。どうしても今までのように彼のことを思うことができなくなってしまった。彼のことを思っていたのに、ひたすらに彼が気持ち悪いと感じた。私は泣いた。大好きだと思っていた彼を受け入れられなかったこと。子どもの頃から感じていた違和感がついに現実のものとして、重くのしかかってきたこと。その二つが私を苦しめた。
私は、理解した。普通の恋愛をしてはいけないのだと。相手を傷つけることになるし、何より自分自身がつらくなるだけだ。幻想は幻想のままにしておこう。私は自分に言い聞かせ、彼とはずっと会っていない。それからずっと私は誰とも付き合っていない。恋愛することに資格があるとしたら、私には恋愛する資格がない。
彼と会わなくなってからも、男の人と二人で出掛ける機会は何回かあった。会社の友人に連れられて行った飲み会の席で。たまにはと思って参加した合コンの席で。私は男の人と知り合いになって、二人で会う約束をした。食事に行くくらいならいいだろう。私はそう思って軽い気持ちで出かけた。
新しく知り合った人と話をするのは興味深かった。そして、何より男の人と二人っきりで歩いているというだけで気分が良かった。恋愛する資格のない私でも、付き合っているという気分くらいは味わいたかった。それでも、私は彼のときと同じように、あの熱い感情を私に向けられないように注意を払っていた。
私は人を好きになることはあるけれど、その相手から性的な欲望を向けられることに耐えられない。そう。私はセックスができない欠陥人間なのだ。私は相手の身体を求める気持ちがわからないし、これから先もわからない。そういう確信があった。このことは、仲の良い友人にも誰にも言えなかった。私が普通じゃないことを人に話すなんてプライドが許さなかった。
その日は、居酒屋に男の人と二人でいた。その人は、話題が豊富で、いつも私を飽きさせることなく話ができた。何時間話をしても楽しくて、私はつい何回も会ってしまった。私には、人と付き合うことができないから、ただ会って楽しく話をできればいい。頭の隅で、男の人のことを好きにならないようにセーブしていた。
テーブルに並べられたつまみはとっくになくなっていて、私の前に置かれたグラスにも、もう中身がほとんど入っていない。コースターは水滴に濡れて、ふやけてしまっている。男の人は、店員を呼んで私に飲み物を追加注文させようとした。
「次は何にする?」
私はテーブルに置かれた携帯を見て、
「そろそろ終電の時間なの。私帰らなきゃ」
私は腰を浮かせかけた。
「今日は泊っていけばいいじゃないか。明日、休みだろ」
男の人はそう言うと、私を熱っぽい目で見つめた。
ああ、やっぱり。この人も私を求めているのだ。この人ともう会えないことに気がついて、悲しい気持ちになる。と同時に、頭の隅自分の感情に気がついて愕然とした。本当は、好きになりかけている自分がいて、前回のように傷つく展開になることを恐れていた。
送って行くという男の人の申し出を私は改札の前で辞退した。
「じゃあ、私、ここで」
新宿駅の改札で、すばやく改札に入ろうとすると、男の人が私を抱き寄せて、柱の陰で唇を合わせてきた。
「真由。また会いたい。すぐ連絡するから」
男の人が私の耳元で言う。引き寄せた腕の体温が洋服ごしにも背中に漂ってきて、言われようもなく不快だった。
「じゃあ、電車行っちゃうから。またね」
私は一生来ることのないであろう「またね」を口にして、足早に男の人の元を去った。
数十分前までは、彼と話をしているのがとても楽しかった。それが、一瞬にして二度と会いたくないという気分に変わってしまう。改札に滑り込むとき、また、私の大切なものを失ったのを感じた。