90 マネージャーがもたらしたもの
カキン、という音が響いて、「ライト〜!」「オーライ!」と声が続く。
青い空の土曜日。午前中の練習の最後は紅白戦だ。
ヘルメットをかぶってバッターボックスに向かう俺に、チームメイトから激励の声がかかる。相手チームからの野次も聞こえる。
「今日は楽勝だよー!」
「ボール見えてないぞー!」
(くそっ!)
心の中で舌打ちをする。今日の成績は3打数0安打。三振2つとサードゴロだ。
(練習は怠けてないのに。)
怠けるどころか、普段以上にやっている。夜、外での素振りを追加して。
(猫から連絡が来ないから。)
「ストライク!」
あ、と思ったときには一球目が通り過ぎていた。余計なことを追い出すために頭を振る。
「ナイスピッチング!」
「バッター、手が出ないよ〜!」
(手が出ねえんじゃねえよ。)
胸の中で言い返す。隣でキャッチャーミットを構えている風間がちらりと俺を見上げたのを目の端でとらえた。
ピッチャーの投球動作をじっと見守る。毎日見慣れた動きだ。足が上がって……投げた。
(今だ!)
勢い込んで振った腕にはボールが当たった衝撃は来ず、バットはブン…と空を切った。ほぼ同時にパシン、とミットに球がおさまる気持ちの良い音。
「ストライク、ツー!」
風間が立ち上がって、ピッチャーに返球する。俺は周囲の声を耳を素通りさせながら、下を向いて足の位置を確認してみる。風間が腰を落としながら、「イライラするなよ」と声をかけてくれた。
(イライラ、か。)
バットを構えながら、わざと「イライラ」を取り出してみた。面白がって眺めるみたいに。
(してるよな、イライラ。)
風間にはきっと分かるのだろう。
ピッチャーが足を上げて……投げた。タイミングを合わせて――。
カシッという音と小さい衝撃があって、風間がマスクをはずしながら立ち上がった。すぐに風間のミットにボールが落ちてくる。
「アウト。」
審判のコール。俺の打席は終わり。4打数0安打。練習じゃなければ、とっくに交代させられていただろう。
「ごめん。」
チームエリアに戻って一言謝った。誰も文句を言ったりせずに、肩や尻のあたりをポンと叩いてくれるだけ。調子が悪いときに一番つらいのは本人だと、みんな知っているから。
(ダメだなあ。)
応援の声を出しながら、こっそり自己嫌悪に陥る。
マネージャーの休部、西元の不機嫌、そして、鈴宮との接点を失ったままであること。それらがずっと、胸の中をかき回している。俺の心はまるで粘土のようにこねられて、あちこちに放り投げられているような気分だ。
「ふぅ……。」
(猫とはもうダメなのかもなあ……。)
あれから俺の方を見てくれないまま週末を迎えてしまった。意気地のない俺のことなんか、もう嫌いになったに違いない。
(立ち直らなきゃ。俺はキャプテンなんだから。)
無理矢理に気持ちを引き立たせ、やっと昼になり、練習の終了時間を迎えた。いつもと変わりない風を装いながら道具を持って部室へ向かう。部室が近付いたとき、部室棟の陰からぴょこりと制服姿の女子が二人あらわれた。
「あれ?」
「ん? 春野と山辺じゃね?」
ぽつぽつと周囲でつぶやきが。
「……そうだな。」
確かにあの二人だ。並んで俺たちに頭を下げている。西元が走って行く。
「どうした?」
西元の声が聞こえた。俺たちも次々と到着し、二人を囲んで荷物をおろした。
「あの、」
二人は緊張した様子で最初に俺を見て、それからみんなを見回した。
「ご心配かけて、すみませんでした。」
「すみませんでした。」
そう言って、深々と頭を下げた。
俺たちはなんとなく顔を見合わせた。
「あたしたち、来週から復帰したいと思っています。」
「また一緒に頑張らせてください。」
そう言って、もう一度頭を下げた。俺たちはまた顔を見合わせた。それぞれの顔に戸惑いが浮かんでいる。
「迷惑をかけたことはよく分かっています。」
「本当に、すみませんでした。」
三度目に下げられた頭を囲んで、気付いたら、全員が俺を見ていた。ここは俺が何か言わなくてはならないらしい。
「ええと……、青村先生には?」
二人がさっと顔を上げた。その表情は真剣そのものだった。
「さっき、お話ししてきました。」
「『分かった』って言ってくださいました。」
「それなら、」
さっと部員の顔を見回す。誰も嫌な顔はしていない。
「俺たちも文句は無いよ。な?」
途端に、全員がほっとした顔をした。
「おう!」
「はい!」
マネージャーも含めて全員が笑顔になったのを見て、俺も大きな肩の荷が下りた気がした。
「あ、あの! お詫びって言えるほどじゃないんですけど!」
「ちょっとだけ、差し入れがあるんです!」
笑顔になった二人が紙袋を持ち上げてみせた。
「差し入れ!?」
「食い物!?」
「はい!」
「やったー! 腹ペコ!」
「あっ、でも、そんなにたくさんじゃ――」
あっという間に二人のまわりに部員が群がった。人だかりの中から「一人一個です!」「ちょっと待って!」と、慌てた声が聞こえる。差し入れはおにぎりだったようで、部員たちがラップで包んだおにぎりをぱくつき始める。
俺はなんとなくそれを眺めてほっとしながらも、少し淋しい気持ちを味わっていた。二人が戻ってきたことには、鈴宮がかかわっているのかも知れない。
(でも、彼女は俺のところには戻って来ない……。)
やっぱり、俺は彼女には必要ないということか。
「佐矢原先輩!」
呼ばれてハッとした。俺の前に、春野と山辺が立っていた。
「これ、先輩の分です!」
そう言って差し出されたおにぎりは俵型だった。文化祭で鈴宮がたくさん握っていたのと同じ形。
「ありがとう。」
懐かしい気持ちで受け取った。大きさもあのときと同じくらいだ。
「先輩にはもう一つあるんです。」
「もう一つ?」
「はい! これです!」
春野が袋から取り出したのはおにぎりではなかった。ラップに包まれた茶色の楕円形のものは、手に取るとやわらかくて……。
「え? これ……。」
(なんで……?)
「あ! 焼きそばパンだ!」
隣で大きな声がした。いつの間にか剛が手元をのぞき込んでいた。
「ねえねえ、これ一個だけ? 俺の分は?」
「すみません、これは特別なんです。」
「あたしたちが作ったんじゃないんです。」
この二人が作ったのではない、俺だけに特別な焼きそばパン。
「じゃあ……、これは……。」
(もしかしたらそうなのか? あのときと同じ?)
違ったらまた落ち込んでしまうと思うけれど、期待を抑えきれない。胸がドキドキする。
「先輩。これ、鈴宮先輩から佐矢原先輩にです。」
「猫が――」
「やっぱり由良ちゃんの焼きそばパンなんだーーー! そうじゃないかと思ったんだよ! なんだよ〜、いつも直樹ばっかり〜〜〜!」
「うるせえよ! お前は汰白に作ってもらえばいいだろう!?」
(剛の大声で感動しそこなったじゃねえか!)
春野と山辺が剛を無視して俺に説明してくれる。
「今日の差し入れ、鈴宮先輩のアイデアなんです。あたしたちが戻りやすいようにって。」
「今日も朝から、おにぎり作るの手伝ってくれたんです。」
「猫が?」
俺は彼女に「野球部のことは関係ない」なんて言ってしまったのに。
(俺は猫を守ったつもりだったのに。)
彼女をマネージャーから遠ざけておいてやりたかった。でも、そんな俺の思惑とは逆に、彼女は自分からマネージャーと話しに行った。そして、今はマネージャーがここにいる。
俺が彼女を守ってやる必要なんか、最初から無かったのだ。彼女はおっとりした性格ではあるけれど、必要なときには自分で判断して行動することができるのだから。「守ってやる」なんて、俺はなんて思い上がっていたのだろう……。
「あたしたち、一緒に届けましょうって誘ったんですけど、佐矢原先輩がきっと怒ってるから行けないって。」
「いや、そんな――」
「直樹が由良ちゃんのこと怒るわけがないだろう!? 今日の紅白戦だって、落ち込んでへろへろで――」
「剛は黙ってろよ!」
俺は鈴宮のことを聞きたいのに!
「じゃあ、焼きそばパンちょうだい。」
「やらない!」
「いいだろ、フラれたんだから。」
「フラれてねえよ!」
「でも、会いたくないってさ。」
「うるせえ!」
「先輩、落ち着いてください!」
「そうです! 鈴宮先輩から伝言をもらってきましたから!」
(伝言!?)
今度は剛も口をつぐんだ。
「鈴宮先輩は、『今日の午後3時に、初めて二人で遊んだ場所で待ってる』って言ってました。」
「初めて二人で……?」
「そうです。『気持ちが変わってなかったら来て』って。」
「気持ちが……?」
(俺は変わるわけないのに!)
マネージャーたちが心配そうに続ける。
「先輩、行きますよね!?」
「絶対に行ってください! じゃないと、あたしたちが伝言を伝えなかったと思われちゃう。」
「行くに決まってるだろ? なあ、直樹。」
「あ、ああ。」
(猫が待ってる。俺を。)
そう思うと、今すぐにでも走って行きたい。
「場所は大丈夫ですか?」
「『初めて二人で遊んだ場所』ですよ?」
「ああ、うん。たぶん。」
「『たぶん』って何だよ!? 頼りねえな! しっかりしろよ!」
「い、いや、大丈夫。」
(「初めて二人で」と言えば。)
初デートはたったの6日前。あの日にまわったどこか。
「直樹が場所を間違えたら、由良ちゃんと直樹はおしまいってことか?」
「そんな〜! 佐矢原先輩、大丈夫ですよね!?」
「ちゃんと分かってますよね!?」
「あ、ああ、大丈夫だ。」
(時間は十分にある。)
家に帰って支度しても余裕はある。早めに着いて探すこともできるし、伝言にもう少しヒントが隠れているかも知れない。
(絶対に行くから。)
行って、「俺が悪かった」って伝えなくちゃ。