83 マネージャーがいないこと
マネージャーの休部は嫌な出来事だったけれど、その夜に鈴宮と会えたことで、一日の終わりは明るい気分だった。
翌日には風間がマネージャーの仕事を分けてきてくれて、話し合いながら分担を決めた。みんな素直に引き受けてくれたのでほっとした。西元だけは不満な様子だったが、実際にマネージャーはいないわけだから仕方がない。
「なんかさあ、部室が汚くね?」
マネージャー休部四日目の土曜日の朝、部室に入ってくるなり西元が言った。
「そうだよなあ……。」
実は、俺も今朝、思ったところだった。
部室にいた2年生5人が着替える手を止めて、あらためて室内を見回してみる。
バットやボール、ヘルメットなどの道具類は、指定の場所に置かれている。棚やベンチもいつもどおりのはずだ。なのに、なぜか薄暗くて汚れた感じがする。
「よう! 10月になっても暑いな。……どうしたんだよ?」
入ってきた剛が、俺たちが突っ立ってぼんやりしているのを見て言った。
「いや、部室がなんだか汚い気がして……。」
剛もきょろきょろと室内を見回す。
「ああ、そりゃあ、こうやってだな。」
そう言って、道具置き場に行くと、バット立てに入っているバットを素早く動かした。それからボールかごを揺すり――と俺には見えた――、キャッチャーの防具に触り、カーテンを引っ張り、小物が入ったかごをずらす。そして振り向くと、俺たちに手伝わせてベンチを真っ直ぐに置き直し、床に転がっていた誰かの運動靴を入り口の外に出した。
「どうだよ?」
「おお。」
「そういうわけか。」
それぞれに見回しながらうなずいた。
「あとは床の泥を掃き出せばオーケーだな。」
そう言って剛が腰に手を当てる。要するに、整理整頓と掃除の問題なのだ。
(そうか……。)
風間が作った仕事一覧には入っていなかったが、今まではマネージャーが掃除してくれていたのだろう。俺たちはその状態が当たり前だと思っていたから、どうして部室が汚く感じるのかさえ分からなかった。ずいぶん甘えていたものだ。
――「野球部のためにやってるのに!」
山辺と春野が頭の中で叫ぶ声がする。
胃の中をたわしでこすられたような感じがして、思わず乱暴にスパイクに足を突っ込んだ。
(マネージャーの仕事をこなしてくれていたことはちゃんと認めてるよ。でも、猫のことは部活とは関係ないだろ?)
――「みんな、邪魔者扱いするんですよね。」
聞こえてくる声を振り払うように、スパイクのひもをぐいっと引っ張る。
(「昼休みに来なくていい」って言うのが、そんなに悪いことか?)
履き終えたスパイクの調子を確認するために、トントンと足踏みをしてみる。その振動で、乾いた泥が床に落ちた。
(……掃除でもするかな。)
荷物をまとめてから部室を見回すと、片隅にスチール製の掃除用具入れがあった。中をのぞくと、ちゃんとほうきとちり取りと雑巾が入っていた。
(やっぱりあったんだ……。)
ここでこれを使うのは初めてだ。「ほら、どけよー」と着替え中の部員に声をかけながら、奥から床を掃いて行く。乾いた泥が粉々になって舞い上がり、空気が埃っぽくなる。
「ごほっ。直樹、窓開けろよ。」
「ああ、うん。」
(よく考えたら変だよな。)
汚しているのは俺たちなのに。きれいにするのは他人に任せっきりで、しかも、やってもらっていることに気付かずにいたなんて。
「あっ、先輩! 俺たちがやりますから!」
やってきた1年生が俺からほうきを取ろうとした。
「ん? じゃあ、ちりとり持って来いよ。」
「え、先輩、でも俺が――」
「まだあの中にほうきが入ってるから、それ使え。」
「あ、俺も俺も!」
「なんだよ、1年。まだ着替え中なのに、そんなに入ってきたら狭えだろうが。」
「あ〜、埃くせえ! 窓開けろって言ってるだろ!」
掃除ひとつでちょっとした騒ぎになってしまった。でも、どこか和気あいあいとしていて楽しい気がする。
「お前、どっち向きに掃いてんだよ? 俺と逆じゃねえか。」
「うわ、スパイクにかかったぞ!」
「あ〜、すんません!」
楽しいといっても、これじゃあ混乱し過ぎだ。
「ごほっ、けほっ、来週から、掃除は当番制にするからなー。」
「ぅおーい。」
「はーい。」
風間の判断はいつも素早くて本当に頼りになる。その指示に素直に従う部員たちも、信頼しあっている雰囲気があって気持ちがいい。こんな感じだと、マネージャーがいないことが俺たちにとってマイナスだとは思えない。
けれど、もちろん、不満がある部員だっている。西元はその筆頭だ。
「マネージャーって、いつ戻ってくるんだよ?」
練習の途中で尋ねられた。マネージャーの不在が不満だと、思いっきり態度で示しながら。
「さあ。俺には分かんないよ。」
その答えが気に入らなかったらしい。西元は責めるような目つきで言った。
「直樹は何にも聞いてないのかよ?」
「この前、話しただろ? 青村先生だって休部の理由は訊いてなかったんだぜ。」
それ以上の情報は提供できない。あの日の昼休みのことが原因の可能性が大きいが、それは言いづらいし、あくまでも憶測だ。それに、剛や一年生との経過もある。余計なことを言わない方がいい。
「直樹にも心当たりはないのか?」
「さあ……。」
「直樹!」
適当にお茶を濁そうと思っていたけれど、西元が怒ってしまった。
「直樹は部長だろ? 気にならないのかよ?」
「そうは言っても、休部は本人たちの意志なんだから、仕方ないだろ?」
「仕方ないって……、それで終わりかよ? 本人に事情を聞いたりしないのか? それくらいしたっていいじゃないか。」
(事情は察しがついてるんだよ……。)
だから余計に会いたくないのだ。
あの昼休みのことを思い出すと、当分の間はマネージャーたちと話す気にはなれない。何を言っても悪いように解釈されて、自分たちの正義を押し付けようとするばかりで。あの、話が通じないむなしさと後味の悪さに立ち向かうだけの気力が、どうしても湧いてこない。
「もう少し様子を見た方がいいんじゃないかな。」
頭の片隅にちらりと「逃げてる」という言葉が浮かんだけれど、それは急いで押しやった。
「部員には誰にも言わないでいきなり顧問のところに行ったのは、俺たちと話したくないからじゃないかと思うんだ。仲が良かったお前にも何も言わなかったんだろう?」
すらすらと出てくる言い訳と軽い当てこすりに、少しばかり後ろめたい気分になってしまう。自分がさり気ない表情で通せていることにも。
「だから、待ってみた方がいいよ。まだ四日目だし。とりあえず、今はマネージャーがいなくても、みんなで協力してどうにかなってるんだから。」
俺の言葉を聞いて、西元は唇を引き結んだ。これ以上、議論しても無駄だと悟ったらしい。
「直樹の気持ちは分かったよ。結構冷たいんだな。俺、直樹はもっと面倒見がいいヤツだと思ってた。」
「それは……。」
もしも休部したのがほかの部員だったら? 話を聞きに行くか……、少なくともメールくらいはしただろうか?
(そうだな。するよな、きっと。)
ますます後ろめたくなってしまった。
(でも。)
立ち去る西元の背中から目をそらし、気を取り直して楽しいことを考える。ゆううつなことばかり考えていたら、気が滅入ってしまう。
(明日は猫と出かけるし!)
きのうの夜に電話で打ち合わせもした。お互いの誕生日プレゼントを一緒に選ぶのだ。朝、俺が彼女の家に寄り、一緒に駅まで行って、電車で大きな街まで行く。
(初デートだぜ!)
彼女はどんな服で来るのだろう? どのくらい仲良くなれるだろう? 空野みたいに格好良くできるだろうか?
「直樹! 前!」
「うわ!」
ボールが目の前を横切って行った。
「ぼんやりすんなよ! あぶねえぞ!」
「悪い!」
初デート前日に怪我なんかしたら悲しすぎる! とにかく今は練習に集中しよう。